橙色の巾
麓から獣道に入り、登っていく。山の中服、木々の間に複数の山小屋が点在していた。アジトというより、隠れ家が寄せ集められているようである。小さな滝壺から水が引き込まれていた。清涼感ある滝の音が響く。
「おお、こっちだ」
老人が待っていた。案内された小屋の窓と扉は開け放たれ、滝の方からの涼しい風が吹き抜けていく。
殺風景な部屋、膝ほどの高さの板に破れた布団が敷かれている。治世はその上に運ばれた。首には無理にこじ開けられたような歪に壊れた枷があり、出血している。左足には黒い鉄の輪があり、1.5mほどの鎖がぶら下がっている。
「鎖が繋がれてなかったのはよかった」
誰かが言った。
治世の脱獄の実行犯は9人。見張り2名、実働7名に分かれた。
7名は竹筒で迷昏香を建物の中に吹き込んだ。当直の役人達が眠ると、扉を壊し、口を湿った布で覆って牢に入る。役人達も大勢の囚人達も眠る中、治世を探し当てた。治世は牢の中で首に枷をはめたまま迷昏香の煙によって眠っていた。
しかし、牢の鍵がわからなかった。鍵には数字があったが、牢には対応する表示がなかったのである。結果、1つずつ確認するという作業が加わった。
開錠。
即、7名は牢の建物から屋外へ治世を運び出し、首の枷を壊す作業を始める。
一方、首の枷を外す作業は難航していた。昏迷香で意識がなくなった治世はぐったりとし、支えていなければ枷で窒息死する状態だった。治世を支える者、枷を固定する者、ミノを使って壊す者。ミノをトンカチで叩く音が夜の静寂に響いてしまっていた。
前もって、決行までの3日間のうちに下から、少しずつ枷の板に傷をつけてあった。広場で晒されているところへ世話をしに行ったとき、ノコギリの刃の欠片で根気よくそれを行っていた。しかし3日間では足りない。小さな刃での作業など、たかが知れていた。枷号の板の厚さは10cm以上。難航した。
完全に外れなくてもいい。荷車に積んで隠すことができればいいのだ。
途中、2名はあらかじめ近くに隠しておいた荷車を取りに行った。
ところが、荷車に乗っていたはずの野菜がごっそりなくなっていた。とっさに思いついたのが駅站。急いで西安の駅站に向かったのだった。そこには荷車がたくさんある。いつも朝、城門を通って外へ運び出す藁もある。
そして合流。
荷車に藁が積まれていたのは幸いだった。野菜よりも隠し易い。完全には外れていない首の枷と、左足に鎖をつけたままの治世を荷馬車に乗せる。運ぶ担当以外は散った。
3人の男達は、城壁に囲まれた西安の南者を目指した。無言で。静かに。不信感を与えない速度で。既に夜は明けていた。
「なんとかなったな」
「ああ。よかった」
「門のとこで呼び止められたときは、焦った」
「後は、他の人たちが無事にここまで来られれば」
山まで運ばれた治世は、首から血を流し、剥き出しの腕には木屑の棘が刺さり、汗で藁を貼り付けて眠っている。左足には足輪と鎖。
碧が渡した巾が首に張り付き、血と一緒に固まっていた。橙色は血と汗と埃で汚れ、面影がない。それでも、巾があった部分は、枷を壊す衝撃や木屑から治世を守っただろう。
碧は傷の確認をした。首の出血は、以前からあった板で擦れたものの他に、新しくできたものがあった。枷を無理に外すときについたらしい。顔の横までその傷が続いている。まだ残っていた枷を、ミノで少しずつ取り除いていった。
水を汲み、傷の周りを清潔にしてから手当する。
治世の顔は、ほとんど動かない。それでも鼻の穴のところに指をかざすと、息をしていることが分かった。
碧はその顔を見つめた。
──治世、これからだよ。
言葉にならない確信だけが、胸に残る。
そうしているうちに、荷車担当でなかった男達が1人、また1人と到着する。しかし、1名がまだだった。
「まず、タガネかなんかで、鎖を切るか」
「いや、足輪を壊した方が早い」
老人が足輪の楔と輪の間の一点を指差す。
「ここにタガネを入れてカーンってやるんや」
さすが年の功である。
「じーさん、ここか? こうか?」
「おい、待て待て待て。足が危ない」
誰かが布団の端で治世の足を包む。そして、楔にタガネが当てられ、ハンマーが下ろされる。
カーン
山小屋に金属音が響いた。
カーン カーン
3度目の音が響いたときだった。治世の眉間に皺がより、閉じられていた瞼が半分開いた。
「お、気づいた」
「「治世!」」
カーン
「取れたぞ」
最後の一撃で楔が外れた。鉄輪が開く。誰かが、足を痛めないよう、丁寧に抜き取った。
「よかった。よかったなぁ」
「「「やったー!」」」
張り詰めていた空気が、緩み、歓声が湧く。
「なあ、治世の母ちゃんと兄ちゃんに知らせたいな」
誰かのしみじみとした言葉を聞いて、碧は止めた。
「今、実家に行ったら、捕まります」
足輪と鎖が外れた喜びも束の間、皆が項垂れる。治世は冤罪だとしても、脱獄させたのは明らかな犯罪。顔を見られていないとしても、元駅卒だったことは、広場に集っていたから目星がついているだろう。目星がつけられたら、その時点で終わる。なぜなら、たとえやっていなくても、罪を認めるまで拷問が続くからだ。
眠りから醒めても、治世の体には感覚がなく、動けない状態だった。その横で男達が会話を続ける。
「オレ、自分家にも言っときたい」
「オレも」
碧は、小屋を出て、血で汚れた橙色の巾を洗った。石鹸を使うと、かなり元通りの色になった。布を絞って広げ、干していると、大勢の声が山の下から近づいてくる。見れば、山道を埋めるように人影が続いているではないか。蟻のように列を作り、獣道を進んでくる。
碧は急いで、小屋に駆け込んだ。
「誰か来ます! いっぱい」
それを聞いた1人がハンマーを握って外へ出る。皆が怯える中、碧は治世の足を持ち、その場にいる男達に頼んだ。
「すみません、治世を隠すの、手伝ってください。ベッドの下に隠すんです」
「おう。分かった」
ぐったりしている治世は、物のように気の板の下に押し込まれ、布団で蓋をされた。高がか小屋の窓と扉を閉める。息を潜めていると、外からの声と草を踏み分ける音はどんどん大きくなる。
ついに、小屋の前でハンマーを持って出た仲間と対面した。
「村から連れてきた」
皆、小屋の中から聞き耳を立てている。声の主は、脱獄に加担したメンバーの、まだ戻っていない、最後の1人だった。
「こんなに?!」
ハンマーの男が驚きの声を上げる。
「おう。治世が言っとったから。農民は官僚や役人より多いって。連れてきたのは、オレんとこの村の知り合いだけ。もっとおる」
誰かが小屋の扉を開けた。そこから男達が雪崩出て、現れた人達に抱きつく。
「仲間になってくれるんか!」
「おう」
「よっしゃ」
「やるぞ!」
碧は小屋の中で板の下から布団を引っ張り出す。
「ごめんね。知ってる人だったみたい」
地面の上で仰向けのまま、治世は口元を緩めた。7歳のころと変わらない笑顔に、碧も笑った。
小屋の外にいた人が数人、治世に会いにきた。板の下から治世はそっと出され、再びベッドの上に寝かされる。
「ひでぇことしやがるな、役人らは。治世。オレらは全面的に協力する」
そして戸口から、1人ずつ順番に声をかけて行く。
「一緒にやろうぜ」
「がんばるぞ」
「まず体を回復させろ」
「オレらも考える」
動けない治世は、口角だけを上げて精一杯答えていた。その数、47人。小屋の外、斜面を黒々とした男達の集団が覆う。
彼らは食べ物を置いていった。それは、山に籠る10人にとって、本当にありがたい物だった。
見送っていると、誰かが米を研ぎ始めた。皆、朝食も食べず、大仕事の後、山まで歩いたのだ。当然、紅一点の碧には「美味しいものを作ってくれ」という期待の視線が集まる。しかし、インスタントラーメンしか作れない。この世界に来てからは、使用人が全てやってくれるのである。
「……あ、私、薬を取りに行きます。また来ます」
そう言って、碧は小屋を出た。
小屋の前の木では、碧が干した、橙色の巾が風に揺れていた。




