終わりの始まりPART.2
ばしゃっ
治世の頭に水をかける。汗が乾いて砂埃に塗れた髪は、束になって固まったまま水を弾いた。
「治世、治世」
治世は、がくんと折れるように板に顔を伏せている。目は辛うじて開いていた。ぽとぽとと髪から顔へ水が伝い、土色のかさかさの唇や伸びた髭を濡らしていく。碧は板の隙間から、彼の首筋にさらに水を流し込んだ。
──治世。治世。治世。死なないで。
ぱたぱたたたと痙攣するかのようにまつ毛が震える。
「治世!」
半開きの瞼の下、白い眼球が泳いだ後、黒目が現れた。
「治世、治世」
「……誰」
──意識が戻った!
碧の顔は歪み、ぼろぼろと涙が溢れてくる。生きていたという喜びと、目の前の姿に。どうして好きな人が辛い思いをしているとこんなにも苦しいのだろう。
ゴミ、悪臭、蝿。碧は何も気にならなかった。地べたにしゃがみ込み、治世の土色の顔を覗きこむ。
「碧だよ。お水、飲める?」
尋ねても、治世は動かない。息をするのがやっとに見える。
碧は、もう一度井戸へ行った。がらがらと井戸から水を汲み上げている間も、あとからあとから涙が湧いてくる。このままでは、今日を生き延びてもいずれ死んでしまう、と喉の奥が苦しくなる。
泣をさらう一陣の風が吹いた。
──治世は死なない。大盟帝国を滅ぼすから。
彼には大きな運命があるのだ。その歴史を思い出すと、碧の涙は乾いたのだった。
──それがこの先にあるの? 辛すぎる。
碧は、治世に、再び冷たい水をかけた。
「……碧?」
こんな状況なのに、碧は、彼に名を呼ばれたことが嬉しかった。
「うん」
「み、みず……」
碧は、持っていた竹筒の水筒に桶の冷たい水を入れ、治世の口に近づける。治世は首を起こそうとする。けれど、首に嵌められた枷のせいで顔は斜めのまま。これでは水が飲めない。碧の手が枷の板を支えようとしたとき、
ぱさり
何かが落ちた。それは、橙色の布。自分の渡した布を見て、碧の心臓にスッと何かが刺さったような痛みが走る。
──持っててくれたの?
柿渋で染めた布には血が滲んでいる。治世の首の形に丸く型がついた布は、木枷と肌が擦れ合う隙間に、ずっと挟まれていたらしい。首が板で擦れて血が出ている。碧は布をそっと傷の部分に当てがい、枷の板を持ち上げようろする。が、重い。とても片手でできない。
とつぜん、背後から何人もの足音が聞こえた。
「治世、大丈夫か!」
「「「治世」」」
碧が振り向くと、男達が10人ほど走ってくるところだった。駆けつけた男達は、すぐに重い板を2人がかりで支える。治世はやっと真っ直ぐに首を起こして竹筒から水を飲んだ。板の穴のところで、ごくごくと治世の喉が動く。それは生きることへの渇望だった。
碧は、治世の頭が影になるよう、桶で、じりじりと上から照りつける太陽を遮る。
「治世、粥だ」
「食べるか?」
男達は治世に粥を食べさせようとする。ある者は板を持ち、ある者は団扇で治世に風を送り、誰かが碧と桶を持つ手を交替して影を作る。
「ありが……とぅござぃます」
「いいから、食え」
雑穀の粗末な粥だった。体調の悪い今の治世にちょうどいい命の綱。
「お前の兄貴が役人、追い払った」
「安心せぇ。田んぼも畑もまだ取られとらん」
「役人らは腐り切っとる」
男達は口々に治世に報告している。話の内容は碧には分からなかったが、治世の枷号は、汚職に塗れた役人が絡んでいそうだ、と碧は推測した。
「仕事仲間ですか?」
碧は尋ねる。男達の顔に見覚えがあった。駅卒として一緒に働いていた仲間。中には、あのときムチで打たれそうになっていた老人もいる。
返ってきた答えは暗かった。
「仕事仲間だった。オレら、リストラされたんだ」
「え。こんなに大勢ですか?」
「ま、リストラとかってゆーけど、最後の方は給料未払いだったしな」
「もう国に金がないんだろ」
遠く離れた日陰から、役人2人が枷号の囚人とその周りの人だかりを見ている。彼らは見ているだけ。この枷号で死に至ることは多々ある。むしろ死ねば、役人の仕事は楽になり、牢での経費はかからなくなる。だから役人は、静かにただ見守る。死ぬのであっても、誰かに生かされようとしていても。
「なあ、あんた。もう帰りな」
男の一人が気遣う。
「私は医師の卵です。見過ごせません」
綺麗事だった。今までも、晒されている枷号の囚人をたびたび見かけた。遠くから晒されている姿が見えると、避けて通っていた。治世だったから見過ごせなかった。
「そうか。でもな、こんな炎天下、死ねといっとるよーなもんや」
「あと1ヶ月も」
碧はそれを聞いて、刑罰の期間に驚く。
「1ヶ月?!」
「そうや。オレらは1ヶ月、ここへ通い続ける」
「あんた、関わらん方がええ」
碧は前言撤回した。
「私、治世の友達です。手伝います」
「ダメだ」
間髪入れずに治世の声がした。さっきより、ずっとしっかりした声だった。
「治世、どうした」
「元気出たか」
そのまま男達は治世と話し、碧の発言はなかったことにされてしまう。
「あの」
それでもなんとか話しかける。
「どーした」
「何があったんですか?」
男達は教えてくれた。
「ひっでぇ話さ」
「役人が治世んとこの田んぼと畑を狙ってんだ」
このころ、大盟帝国では役人の不正が横行していた。根底にあるのは、朝廷からの俸給が少なかったり、途絶えたりする財政難がある。困窮した役人達は私服を肥そうと、自分の土地を増やそうとしていた。自分の土地を持ち、小作人に田畑を耕させ、小作料を巻き上げるのである。
今年のように雨が降らず、農民が困窮しているときは狙い目。借金をさせ、その形に農地を巻き上げる手法が多く使われていた。
治世の家の田畑が狙われた。父親が労役で不在。兄と母の2人。昨年末に収めた税が足りなかったと、難癖をつけた。役人が帳簿を改竄したのだ。兄と母はつっぱねた。
そのころ、治世が駅卒の仕事をリストラされた。ある日、実家に戻り、家にあった米を食べていた。そこへ役人が来た。
『その米は役所にあるべきものが、この家に置かれていただけだ。人の物を盗むとは』
治世は現行犯逮捕され、牢へ連行された。そのとき、治世が連れていた狼の蘭が大暴れし、役人の手足が血みどろになったらしい。
幸い、村の者達が一致団結して役所に抗議し、田畑を差し押さえられることは免れた。しかし、治世は窃盗罪で枷号に処されることになった。
「そんな、むちゃくちゃです」
そのありえなさは、奇想天外レベル。不正どころではない。人を罪に陥れ、命など気にもしないのがこの時代の通常なのだ。
「あっちもな、兄貴の方は手ぇ出さん。農地巻き上げたら小作人にできる。次男は余分や。田畑から穫れる分は限られるからな」
「許せません!」
碧は下唇を噛む。
「許せなくても、それが世の中」
──こんな世の中、終わらせよう。
碧は誓った。
空気が揺らぐほどの酷暑の中、死にかけていた治世は、仲間の手でひと匙ずつ口に運ばれるしゃびしゃびの雑穀粥を啜る。顔色が少し良くなっている。それを見て、碧はほっとした。
男達は治世を着替えさせるというので、一旦、碧は離れた。再び人気のない裏通りで合流。そして提案した。
「治世を逃がしましょう」
──絶対に成功する。治世は歴史に名を残しているのだから。
男達は希望を前に、口々に話す。
「とにかく、あの木の枷を取ってやりたい」
「ノコギリかミノだな」
「足の鎖はどーするんだ?」
「足切るか? 命が助かるなら「ちょっと待ってください!」
碧は話の腰をぽっきり折る。とんでもない力技で助けようとしているではないか。
「広場で助けようとしていませんか? ノコギリで壊すには時間がかかります。その間に役人に囲まれて捕まります。それに、足を切るのはダメです。逃げられなくなります。朝枷夜放。枷号は夜には外されることになっています。だから、、、」
今度は碧が話の腰を折られた。
「あのままだって。治世が言っとった」
「役人が、そんな面倒なことするわけないだろ」
「あの板見たか? 二度と外せんように楔が撃ち込んである」
確かに、治世の体力の消耗を見れば、朝枷夜放などという優しいものでないことは明らかだった。
碧は提案した。
「夜、牢を襲撃しましょう。誰がやったかバレないように」




