苦役
水仕事と武術の練習で荒れた手を見ながら、茉莉は言う。
「頑張ったんだ。私ね、小さいころから、頑張るって、してこなかったの。でもね、ここへ来て、結構、頑張ったと思う。知らないことばっかで。いっぱい失敗して。仕事がだんだん速くできるようになって」
「そっか」
碧は、現代にいたころの、いつも走っていた茉莉の姿を思い浮かべる。溶けるように照りつける太陽の下でも身を切る冷たい風の中でも、彼女は筋肉を躍動させていた。あのひたむきさは変わらない。
「関寧鉄騎の試験、頑張ったよ。女性初だって。今、駐屯地だからなんとかなってるけど、戦場に出たら、もっと大変だろうなって思う。自分も周りも」
「莉莉なら大丈夫だよ。よかったね。老師もきっと喜ぶよ」
「うん。伝えといて。老師に兵法とか戦術とかいろんなこと教えてもらったし」
「莉莉は、興味ある道に進むんだね」
茉莉はにっこり頷いた。そして、懐から小さな袋を出す。中から現れたのは、7歳のとき、治世にもらった狼の牙だった。
「覚えてる? これ」
「ぅわぁ。まだ持ってたんだね」
「うん。碧のおかげで、纒足しなくて済んだんだもん」
ちなみに、碧がそのときに使った牙は、今も先祖の位牌の前に鎮座している。
「纒足してたら、関寧鉄騎とか、ありえないよね」
「そーだよ。めっちゃ大事なお守り」
「呉将軍と一緒に、山海関へ行くのかな」
碧はこの国の歴史を思い出していた。呉将軍は山海関の英雄。
かつては、袁将軍も山海関の英雄だった。山海関を開けたと疑われたまま処刑された。呉三魁は父親からポストを引き継ぐ。そして、本当に山海関の門を開けることになる人物である。
「山海関か。どれくらい遠いのか、見当もつかないよ」
「ね、今、もう炊事場の仕事はしてないの?」
「うん。大砲の配備とか飛距離とか習ってる」
「へー」
「訓練以外では書類整理」
「書類?」
「備品管理なんかの事務方。店手伝ってる感じ」
「そーなんだ」
「今度、初出張なの。北の国境の駐屯地へ」
「頑張れー」
「私ね、西安出たことないから、楽しみ」
不安よりもわくわくの方が大きな茉莉が眩しくて、碧は目を細めた。
◇
15歳の冬、治世は蘭と一緒に薬草を売りに来た。父親は労役でいなかった。
16歳の冬、父親だけが来た。碧が治世のことを聞くと、駅卒の仕事に就いたと教えてくれた。駅卒は、官定の文書や荷物を決まった地点から次の地点へ運搬する仕事である。
──郵便屋さんとか宅急便屋さんとかってことね。西安で会えるかも!
碧にとって16歳は特別な年齢。それは、彼女が16歳のときに現代からこの時代に迷い込んだからだった。高校の同級生達を思い浮かべ、治世はどんなタイプになっているだろうと胸を膨らませる。
17歳、春。再会は唐突だった。
西安の街は城壁の中にある。碧は、往診のため、父親と街の城壁の南門を出た。そこは、無数の荷物と人々が行き交う混沌とした場所だった。雨でぬかるんだ地面の泥で膝までを黒くし、荷車から積荷を下ろす治世がいた。着ている服は擦り切れてセピア色に変色し、汗で髪が額にへばりついている。夏など遠く先というのに、首にかけた手拭いでその汗を拭っている。
「早く運べ! 時間に遅れおって」
遠くから荷車を引いて歩いてきた老人に、役人がムチを振り上げる。
ビシッ
瞬間、碧は首をすくめて目をぎゅっと瞑る。目を開けたとき、老人の代わりに治世が荷物でムチを受けていた。
「庇っても得にならんぞ」
役人は非情な言葉を投げる。治世は老人に話しかけた。
「じーさん、馬が足りなかったんっすよね?」
老人は無言で頷いている。役人は、ちっと舌打ちをして離れて行った。
碧の足は地面に縫い止められたように動かなかった。そこにいたのは、爽やかな配達員とは全く違う、苦役に従事する男達だった。
男達の声が聞こえてくる。
「役人が小遣い稼ぎに馬を売っぱらったんだと」
「ひでぇ」
「都方面のルートは荷物が多いってのに」
「ただでさえ、朝廷が手当たり次第に経費を削減して、馬が減ってる」
「そのうちオレらもリストラだぞ」
「どうやって食うんだ」
「治世んとこの方、役人の蔵が襲われたってな」
「ええ」
「襲った蔵からの米、配ってたって?」
「みたいっすね」
荷物を担ぎ、歩きながら会話に参加し通りすぎる治世を、碧は目で追う。声をかけられない。
「碧碧、行くぞ」
先に進んだ父親が碧を呼ぶ声に、治世が気づいて顔を上げる。二人の間を、荷車や馬、多くの駅卒員が行き交う。目が合った瞬間、碧は嬉しさに右手を顔の高さまで上げた。けれど、治世は冷たく視線を逸らした。宙に浮いた碧の右手は、振られることのないまま、力なく落ちた。
碧は急いで父親に追いつき、何事もなかったように歩を進めた。
頭の中では、何度も視線を逸らす治世の顔がリプレイされる。
自分は庶民であるはずなのに、反乱を起こそうとする人々の反対側にいるのではないか、と碧は思った。俯いて歩く視界に、自分の清潔な服が映る。決して華美ではない。それでも、国民の70%に当たる農民は碧のような綺麗な形をしていない。
雨上がり、街を囲う城壁の外の道はぬかるみ、青色の靴先が埋まる。施された刺繍ごと埋まったところまで茶色に染まる。
「足元に気をつけろ」
「はい」
「滑るぞ」
父親が注意を促す。柔らかい土の上にある深い車輪の跡を見て、碧は、治世の仕事の大変さを想像するのだった。
「お父さん」
「ん?」
「駅卒の仕事って、大変そう」
「あれは大変だ。重労働。あっちの山越えルートには山賊がいるらしい」
「荷物を狙うの?」
「だろうな。命懸けだ」
「大変なら、お給料はいいの?」
「いや。あれは公共事業だから。ほら、そーゆーのは、ん、な」
父親は役人が中抜きすることを濁す。
「そっか」
「世の中、案外、大変な仕事ほど報われんのかもしれん」
遮るものなどない広い空の下、桜や菜の花が咲く季節、牧歌的ですらある田畑の風景は美しい。碧は、治世に視線を逸らされたことよりも、風景を味わう余裕などなさそうな治世の日常に胸が痛んだ。
◇
同じころ、呉将軍は異動した。山海関を守る北の国境の要所へ。そこは大盟帝国の北東の端である。
碧は自分の片翼がもがれてしまったような感覚を味わっていた。西安の街には知り合いが大勢いる。尊敬する老師も両親もいる。新しい友達もできた。けれど、茉莉のいない西安は、空々しく、人々の体温が消えた、奇妙な街に見えた。
しばらくして、茉莉から文が届いた。そこに綴られていたのは、衝撃の内容だった。
”碧碧、元気ですか?
生まれて初めて海を見ました。感動です。不思議なことに、見たことがあるような気がしました。どこまでもどこまでも空のように広がっていました。
ここに、碧碧だけにしか話せないことを書きます。
長城よりも長い北の国境では、敵国への投降が相次いでいます。私は国家に忠誠をつくすべき軍人ですが、彼らの気持ちが分かります。以前話した袁将軍のことを覚えていますか? 関寧鉄騎を作り、命を賭して国のために戦ったのに、官僚にはめられ処刑された将軍です。どれだけ頑張っても、皇帝陛下は理解してくれないという空気が、誰も口に出さないまま、靄のように漂っています。敵国では、投降した軍人を手厚く迎え入れてくれます。理解と敬意があるそうです。報酬とか地位とかだけではないのです。”
そこまで読み、碧は数年前の危惧が現実になりつつあることに顔を強張らせる。
──国家に忠誠を誓うべき軍人が、袁将軍の冤罪を知っているから。
10年も前のことが、じわりじわりと効いている。袁将軍が処刑されたのは、崇和3年9月。
老師は「これが恐ろしいところなのだ」と言った。碧は今、その意味を見ている。
文には「報酬とか地位とかだけではない」と書かれている。つまりこれは、敵国では報酬と地位を与えられることを意味する。役人も軍人も、大盟帝国からの俸給は少ない。心が離れているときに、報酬と地位の話が来たら……。それだけではなく、理解と敬意。




