もう一つの結末・前編
クロエの事件をきっかけに、私がデボラではなくエミという名の別人であることをルディに打ち明けた。
もう夫婦の間に隠し事はなく、しばらくは幸せな時が続いた。けれど両想いになってから半年後。
「ルディ。最近元気がないけど、大丈夫? 何か悩みでもあるの?」
「いえ……別に何も」
彼は咄嗟に誤魔化したが、その横顔はやはり暗かった。何かに苦しんでいるのは明らかだけど、触れられたいかは人による。
追及すれば、かえって苦しめてしまうかもしれないけど――
「ルディ」
私はソファーの隣に座る彼の手を取りながら、心を込めて申し出る。
「もしかしたら触れられるほうが困るようなことかもしれないけど、良かったら話して? あなたが辛そうだと心配だし、私たちは夫婦なんだから。力にならせて」
その言葉に、ルディは少し迷うように瞳を揺らして「……実は」と切り出した。
「……そう。お姉様のことで悩んでいたの」
ルディは王立学園に通っている時、お姉さんと王都で再会した。けれど彼はその時、謝罪に来たお姉さんを『もう家族ではない』『二度と顔を見せるな』と冷たく突き放してしまった。
しかし当時の態度は恐らくルディが、まだ不安定な状況の中にいたせいだ。自分が幸福じゃない時に周りを思いやるのは難しい。
けれどルディは大人になり、結婚して家庭を持った。精神的に安定したことで、自然と本来の思いやりが戻ったのだろう。
ルディは当時の自分をこう振り返る。
「あの時は何もかも分かったつもりで姉を非難しましたけど、本当は僕のほうこそ自分の都合ばかりで、相手の気持ちなんて全く考えていませんでした。自分だってデボラとのことが死ぬほど辛かったのに、姉には当然のようにそれをさせていた。あの頃の僕にとっては大人でも、姉だって結婚した時はまだ十七歳だった。たとえいくつだって、愛のない相手との交わりが辛くないはずはなかったのに」
「そんなことない」と否定してあげられたら良かったけど、残念ながら彼の言うとおり、お姉さんと父の結婚は明らかに身売りだった。
そこに違和感を持てなかったのは、貧しい者が富める者に買われることは、この世界ではよくあることだからだろう。父自身も公爵の座目当てにデボラの母と結婚したくらいだ。
お金で『もの』にされるのは同じでも、奴隷や愛人に比べれば、権力者の伴侶という立場はかなり恵まれている。貧しさに苦しむ人からすれば、むしろ夢のような幸運だろう。
だからこそお姉さんは、きっと孤独で辛かったはずだ。彼女にとっての苦しみは他の人から見ればワガママで、そこから逃げ出すことは罪だから。だけどルディは自分も物のように扱われたことがあるから、お姉さんの苦痛に気づけた。
ルディが気づいたのは、それだけじゃない。
「それに僕を置き去りにした理由も、領主として改めて判例を学ぶうちに理解しました。逃げ切れたのは結果論であって捕まる可能性もあった。その逃避行に僕も同行していたら、共犯とみなされて一緒に処刑されていたでしょう」
「そうね。だからお姉さんは、あなたを置いて行ったんでしょう。イヴルハイド家で辛い目に遭うとしても、一度は養子にした以上、命までは奪われないと考えて」
私の相槌に、ルディは小さく頷くと両手で顔を覆って続ける。
「先代の公爵を裏切り金品まで盗んだ姉の判断が、全面的に正しかったとは思いません。けれど姉に正しさを強いることは、きっとあの人の心を殺し続けることだった。僕だけは姉の過ちを許すべきだったのに。恥を忍んで会いに来たあの人に、酷いことを言ってしまった……」
声の震えから彼が泣きそうなのが分かった。私は励ますようにルディの背に触れながら勧める。
「今からでも遅くないわ。お姉様はきっと今でもあなたを待っている。今度はあなたから会いに行って『あの時は酷いことを言って、すみません』って謝ればいいのよ」
「ですが、あんなに酷いことを言ったのに、今さらどんな顔で会いに行けばいいのか……」
「どんな顔だって、お姉様は喜ぶわ。あなたが自分から会いに来てくれたら」
私は知っている。ルディに冷たく突き放された後も、お姉さんが弟への愛情を失わなかったことを。今でもきっとお姉さんは、遠くからルディの幸せを願っている。そんな弟が自分から会いに来てくれたら、きっと喜んで迎え入れてくれるはずだ。
しかしルディは怯えたように不安を吐露する。
「僕にはそんな風に思えなくて……『今さら何を』と言われたらと思うと、すごく怖いんです……」
拒絶を恐れる彼を見て、私はふとあることを思った。
「……きっとあなたに会いに来た時のお姉様も、同じように怖かったんじゃないかしら?」
今のルディと当時のお姉さんは、ちょうど同じ状況だ。どちらも相手を傷つけたことを深く後悔して、それゆえに再会を恐れていた。
「それでも多分お姉様は、あなたを傷つけたままでいたくなくて会いに来た」
その言葉に、ルディは瞳を揺らしながら私を見た。その目にはやはり拒絶への恐怖が色濃く浮かんでいたけど、私はその奥にある本心を尋ねる。
「本当はルディもそうしたいんじゃない? お姉様に拒絶されるかもしれないことが死ぬほど怖くても、傷つけたままでいたくないんでしょう?」
彼の沈黙を肯定と受け取った私は、あえて微笑みながら提案する。
「もし勇気が足りないなら私も一緒に行くわ。だから、お姉様に会いに行きましょう?」
その誘いに彼は重い口を開いて、
「……あなたが一緒に来てくれるなら」
ボソッと告げてすぐに、こう付け加える。
「……男のくせに情けなくて、すみません」
その可愛らしい謝罪に、私は思わず頬を緩めながら返す。
「あなたはいつも賢くて立派すぎるから、たまには助けられて嬉しいわ」
その言葉に、ルディはようやく笑みを見せると私の手を取って、
「……たまにじゃなくて、いつもですよ。あなたがいるから、僕は生きられる」
夫婦の誓いを新たにするように、薬指に嵌まった結婚指輪に口づけた。




