運命の夜・3
脳裏を覆う暗闇に一滴の澄んだ水が落ちる。その清らかな雫は波紋のように広がり、私の意識を目覚めさせた。
再び瞼を開くと、私は最愛の人の腕に抱かれていた。
「あの女に何を吹き込まれたか知りませんが、悲しい言葉を残して勝手に死なないでください」
ムスッとするルディに、私は「えっ?」と目をパチクリさせて尋ねる。
「わ、私、どうして生きているの?」
「そもそもあなたが飲んだのは毒ではなく、ただの睡眠薬です。それも僕が浄化したので、もう眠気もないでしょう?」
さっきの不思議な感覚は、ルディの浄化魔法だったのか。
「す、睡眠薬? でもクロエは毒だって……」
戸惑う私に、ルディはこう説明する。
「再びあなたの前に現れたクロエを、僕はずっと怪しんでいました。学生時代の不可解な事件、けっきょく犯人は不明のままでしたから。再び何か起きるんじゃないかと」
私がどうしてもと頼むのでメイドとして受け入れたものの、ルディはずっとクロエを疑っていた。
けれど証拠が無ければ、すっかり彼女に同情している私は信じないだろう。それでも強硬に反対すれば、かえって自分のほうが私の信頼を失うかもしれない。
そう考えたルディは、しばらく監視をつけてクロエを泳がせていたそうだ。その監視と尾行は、ルディが領主になってから雇うようになった獣人の部下に任せたという。クロエは魔法で姿を消せるから、目で追うだけではまかれる可能性がある。
その点、獣人なら途中で姿を消してもニオイで追跡できる。しかも獣人は耳もいいから、遠くからでも相手が何を話しているか聞こえる。
「それでクロエが毒を入手したのを知りました。恐らくはあなたの母が飲んだのと同じ毒で、自死したと思わせるために」
ルディは今回の毒殺を予期していた。それなのにクロエを止めなかったのは、こんな考えからだった。
「彼女はとんでもない嘘つきですから現行犯で捕まえない限り、また思いも寄らない言い訳であなたを言い包めるでしょう。ですから彼女の隙を突いて、あなたが飲んでも害の無いように睡眠薬とすり替えておいたんです」
ルディ目線では、私は睡眠薬を飲んで朦朧としているだけ。それも彼の水魔法ですぐに浄化できる。
慌てないわけだなと納得した瞬間。
「ル、ルディ!?」
ルディが突然、背後に大きく腕を振る。そこには何も無いはずなのに、何かに当たったような物音と「グッ」と、くぐもった声がした。
それらの音の正体は――
「てっきり種明かしに夢中かと思ったら、しっかり私を警戒していたんですね」
聞き慣れた声とともに、一度は立ち去ったはずのクロエが突如として姿を現す。
ルディの腕がどこかに当たったのか少し痛そうにしながらも、顔には不敵な笑みを浮かべ、手にはナイフを握っていた。
それを見たルディは、私を背に庇いながら問う。
「今の一撃で僕を殺すつもりだったんですか? 学生時代からしつこく付け狙うほど、僕を欲していたようなのに」
「はい。本当にあなたのことが、ものすごく欲しかったです。でもいくら美形で有能でも、こんな頭お花畑の馬鹿女に骨抜きにされるような安い男は要りませんから」
彼女はこの修羅場を愉しむように笑うと、私たちにナイフを向けて宣言する。
「あなたは私が欲しかったルディオンじゃない。死んでください。偽デボラと一緒に」
「す、姿が」
私たちの目の前で、クロエが再び闇魔法で姿を消す。
不可視の相手がナイフで攻撃してくる。さっきのように全てを勘でかわし切ることは不可能だ。
「あなたは向こうへ。全てが終わるまで、そこで大人しくしていてください」
ルディは私の背を押して部屋の隅に追いやると、目の前に魔法で分厚い氷の壁を作った。これでクロエは私を攻撃できない。
その代わり彼女の攻撃は、全てルディに集中する。
クロエは女性には珍しく、王立学園で戦闘訓練を受けていた。当時は「せっかく王立学園に通っているんですから、少しでもできることを増やしたくて」と言っていたけど、本当はこうして邪魔者を消すためだったのかもしれない。
ただ彼女が受講していたのは初心者クラス。普通の女性よりは強いだろうが、騎士並みの訓練を受けたルディほどではない。
とはいえ相手の姿が見えなければ、ルディは目を瞑って戦うようなもの。
どうやって勝つ気だろうとハラハラしていると、
「ドアと窓を氷で塞ぐなんて。これじゃあなたも逃げられないんじゃないですか?」
クロエの言うとおり、ルディはまず出入り口と窓を氷漬けにした。ただし魔法は使い手が死ねば消える。
彼女が余裕なのは、ルディを殺せば氷が消えて部屋から出られるし、私も始末できると考えているからだろう。
「逃げる必要はありません。あなたの位置なら一目瞭然ですから」
ルディの発言に驚く。
昔見せてもらったが、姿を消す魔法は本人だけでなく服や持ち物も見えなくなる。しかも地面に影もできない。
『雪や泥で地面が柔らかいと足跡が残っちゃいますけど、屋内ならほぼ見つけることは不可能です』
冬場なら毛足の長い絨毯が敷かれていたけど、それ以外の季節である今、主寝室の床はツルツルの大理石。これでは足跡がつかない。
「私の位置が一目瞭然ですって? じゃあ、今すぐ捕まえてみなさいよ!」
クロエの激しい語気から、見えなくてもルディを攻撃しようとしていることが分かった。
「ル、ルディ!」
次の瞬間、彼が刺されるんじゃないかと思わず叫ぶ。
「キャアアッ!?」
ところが大理石の床から突如氷の柱がせり上がると同時に、絶叫したのはルディではなくクロエだった。
「な、なんで私の位置が分かって……」
驚きで集中が乱れたせいか、クロエの姿が露わになる。彼女はさっきの氷の柱に、胸から下を飲み込まれていた。
「だから言ったでしょう。あなたの位置は一目瞭然だと」
ルディはすっと足元を指した。よく見ると、いつの間にか床の表面に薄い水が張られていた。
「水が教えてくれましたよ。あなたの足の動きを」
彼女が動くたびにできる波紋がルディに位置を教えたようだ。私もその水を踏んでいたが、この国では屋内でも靴を履いたままなので濡れた感覚がしなかった。恐らくクロエもそうだろう。
仮にクロエが目や耳で水に気づいても、足を動かさずにできる攻撃はナイフ投げくらい。
けれどナイフ投げは、漫画やアニメのイメージと違って真っすぐには飛ばないそうだ。
クルクルと回転するナイフの刃先を標的に突き立てるのは、曲芸の一種になるほど難しい。加えてクロエが手放した時点で、闇魔法の効果が消えるのでナイフは見えない攻撃じゃなくなる。
しかし退路はすでに氷で塞がれ、逃亡も不可能。この状況に追い込まれた時点で、クロエの敗北は決まっていたんだ。
「くっ……!」
優位を確信していた彼女は悔しそうに呻いた。
しかしルディは油断なく、
「まだ他にも魔法を持っているかもしれない。衛兵が来るまで、そのまま凍っていてください」
そう言って手をかざすと彼女の全身を氷で包んだ。




