運命の夜・2
そして時は、あの夜に戻る。
朝、領内の視察のために数日留守にするというルディを見送った後。
夜、今は私だけが使っている主寝室にクロエがやって来た。
「デボラ様、こちらルディオン様から。最近デボラ様の元気がないから、精がつくように栄養剤だそうです」
「まぁ、ルディオンが?」
顔を明るくする私に、クロエもにこやかに「はい」と答える。
「最近素っ気なくなったと心配していらっしゃいましたが、ちゃんとデボラ様を気にかけていらっしゃるみたいですよ。愛されていますね」
「あ、愛されているかは分からないけど。気にかけてくれているなら嬉しいわ」
異性としての関心は薄れても、家族としての情はあるのかも。娘の誕生を心から喜び、あの子と私を護ると誓ってくれた気持ちが彼の中にまだあるなら、それだけで十分だと久しぶりに気分が晴れた。
嬉しい贈り物を届けてくれたクロエにもお礼を言うと、彼女は「いいえ」と笑って話を戻す。
「寝る前に飲むと、翌朝はスッキリ起きられるそうですよ。ささっ、グイッと」
「ええ。じゃあ、さっそく」
私はなんの疑いもなく、茶色の小瓶の中身を飲んだ。変化はすぐに訪れた。
「何……? 急に眠気が……」
眩暈がするほどの睡魔に襲われて、思わずその場に膝を突く。
すぐ傍にベッドがあるのに移動する気力もなく、私は崩れ落ちるように冷たい大理石の床に倒れ込んだ。
「すみません、デボラ様。実はそれ、ただの栄養剤じゃないんです」
クロエの声に、のろのろと彼女を見上げる。
彼女は邪悪に目を細めて、三日月のようにニィッと口の端を上げて告げる。
「あなたの亡くなったお母様が飲んだのと同じ。眠るように死ねる毒ですよ」
「ど、どうしてあなたが……?」
「ルディオン様に頼まれたんです。私たちが結婚するのに、あなたは邪魔だからと。娘がいれば公爵の地位は守られるから、あなたはもう不要だと」
結婚? 彼女とルディが?
ルディは学生時代から、むしろクロエを疎んでいる様子だったのに。
驚きが顔に出ていたのか、クロエは心を読んだように言う。
「そんなに意外ですか? ああ、あなたは自分がいちばんルディオン様を分かっていると驕っていらっしゃいましたからね」
驕っているつもりはなかったけど、確かに私はルディの心の傷や、辿らずに済んだ悲劇を知っている。そのせいでルディを理解しているつもりになっていたかもしれない。
それにクロエのことも。
「ですがルディオン様は、いつも陰で私に零していらっしゃいましたよ。子どもが必要だから仕方なく相手してきたけど、本当はあなたのような愚鈍で冴えない女、見るだけで吐き気がするほど嫌いだと」
この言葉で分かったのは、ルディよりもクロエの本心だった。
私を傷つけるのが楽しくて仕方ないという顔。
「そうとも知らず『彼は純粋な人だから』なんて。分かった気になって彼を擁護して。あまりに滑稽で噴き出さないようにするのが大変でした」
彼女の狙いどおり、自分が恥ずかしくなる。
本当は殺したいほど嫌われていたとも知らないで、私は周囲に誤解されがちなクロエを護ってあげたいと思っていた。
本当の彼女は良くも悪くも、私なんかの庇護が必要な弱者ではなかったのに。確かに私は傲慢かつ滑稽だったのかもしれない。
「では永遠にご機嫌よう。憐れなデボラ様」
クロエは私の顔の横に手紙を置いて立ち去った。
二つに折った便箋から覗く筆跡は、私のものだった。だとすれば、これは私の遺書だろう。私が何かに思い悩み、母と同じ毒で自死したと見せかけるための。
眠るように死ねる毒は文字どおり、ただ意識が抗いようなく遠のくだけで、なんの苦痛もない。
意識がぼんやりしているせいか、恐怖や憤りすらほとんど感じなかった。
ただ一つクレアのことだけが心残りだった。前世は恋人すらいなかった私が奇跡的に授かった初めての子ども。
とても愛していた。成長を見守るのが楽しみだった。あの子のおかげで、ルディとも本当の家族になれたと思ったのに。
クレアはこれからどうなるのだろう?
不安と後悔に苛まれる私のもとに、誰かがやって来る。男物の靴を辿るように見上げると、それはルディだった。
妻が床に倒れているのに、彼は慌てた様子もなく、静かにこちらを見下ろしている。
じゃあ、ルディはこうなることを知っていたんだ。
数日留守にすると言っていたのに、わざわざ戻って来たのは、どうしてだろう?
私の死に顔を見に来たの? 本当はずっと憎まれていたの?
でも今、私がいちばん言いたいのは、彼への恨み言や「どうして?」ではなくて、
「わ、私のことは憎んでいいから……あの子だけは嫌わないで……」
あの日、娘の誕生を喜んでくれた気持ちだけは嘘じゃないと思いたい。
祈るような哀願を最後に、今度こそ瞼が落ちた。




