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大奈落の底には、昼も夜もない。
あるのはただ、生暖かい混沌と、ひしめき合う異形たちの吐息だけだ。
「……随分と、騒がしくなってきたわね」
私は、黒い触手と何らかの巨大な獣の骨で組み上げられた『玉座』に深く腰掛けながら、気怠く呟いた。
私の足元では、かつて世界を震撼させたであろう巨大な魔獣たちが、飼い犬のように平伏している。彼らは私の指先から滴る濃密な魔力(もはや聖力とは呼べない、どす黒い力)の恩恵を受けるため、争うように這い寄っていた。
『ふふ、彼らも腹を空かせているのだよ。何百年もこの底で、地上の光を恨みながら干からびていたのだからね』
背後から、ルシルが私の白い髪を愛おしそうに梳きながら耳元で囁く。
彼の冷たく滑らかな腕が私の腰に回り、その背中から伸びる無数の触手が、私の足元に群がる魔獣たちを威嚇するように蠢いた。それだけで、巨大な魔獣たちは悲鳴のような鳴き声を上げ、怯えて距離を取る。
私という『鍵』が内側から変質したことで、大奈落を塞ぐ分厚い封印の結界は、日増しにその力を失いつつあった。
天井の闇の奥から、時折「ピキリ……」という、硬質なガラスにヒビが入るような音が響いてくるのがその証拠だ。
「あとどれくらいで、この蓋は壊れるの?」
『そう焦らないでおくれ、私の女王。君の呪いは、すでに地上の隅々にまで行き渡っている。……ほら、今日の【喜劇】が始まる時間だ』
ルシルが指を鳴らすと、空中に真っ黒な水鏡が浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、光り輝く王都の、最も豪奢な大夜会(晩餐会)の光景だった。
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王城のシャンデリアは眩い光を放ち、着飾った貴族たちがグラスを傾けている。
その中心にいるのは、もちろん第一王子レイナルドと、ミリアムだ。
ミリアムは純白のドレスに身を包み、まるで自分が世界の中心であるかのように、うっとりとした笑顔で貴族たちの称賛を浴びていた。
『——ミリアム聖女様のおかげで、先日の魔物討伐で負った我が騎士団長の傷も、すっかり癒えました。まさに奇跡の力!』
『前の聖女の時は、こうもすぐに治りませんでしたからな。やはり、あの女は力を出し惜しみしていた魔女だったのでしょう』
水鏡越しに聞こえてくる醜悪な阿諛追従に、私は喉の奥でくすりと笑った。
ミリアムが私の部屋から盗み出した魔道具は、術者と対象者の魂に強制的な『管』を繋ぎ、力を吸い上げるものだ。
つまり、彼女が今使っている力は、完全に私と直結している。
私がかつて持っていた清らかな聖力は、ルシルとの契約によって、猛毒のような『死の瘴気』へと反転した。
ミリアムは、そうとは知らずに、私の怨念がたっぷり詰まったドロドロの毒を吸い上げ、それを「奇跡の光」として人々に分け与えているのだ。
「……さあ、ミリアム。貴女の奇跡を、もっと見せてちょうだい」
私が水鏡に向かって冷たく囁いた、その時だった。
『う、ぐぁ……ッ!?』
突如、夜会の中心にいた一人の屈強な男——先ほど称賛されていた、騎士団長が、自身の喉を掻きむしりながら床に倒れ込んだ。
『団長!? どうなされた!』
『おい、顔色が……! 誰か、早く聖女様を!』
騒然となる会場。
騎士団長は、白目を剥き、口から大量の泡と赤黒い血を吐き出していた。
先月、ミリアムの「光」によって一瞬で塞がったはずの彼の右腕の傷跡。そこが、まるで内側から何かが爆発したかのように、無残に膨れ上がっているのだ。
『ど、どうしたというのだ! ミリアム、早く彼に癒やしの光を!』
レイナルドが血相を変えてミリアムの肩を揺さぶる。
ミリアムも顔面を蒼白にしながら、震える手で騎士団長に手をかざした。
『わ、わかりましたわ! 大丈夫、私の光があればすぐに……!』
彼女は必死に魔道具を起動し、私から力を引き出そうとする。
ドクン、と。
奈落の底にいる私の心臓が鳴り、私の体内から、極めて濃密な『黒い呪い』が管を通って彼女へと流れ込んでいくのを感じた。
水鏡の中のミリアムの手に、眩い光が集まる。
しかし、その光は以前のような神聖な白ではない。どこか濁った、目を刺すような不吉な黄金色だった。
その光が、倒れ伏す騎士団長に降り注いだ瞬間。
『——ギィ、ギィヤアアアアアアアアアアッ!!!!』
大広間に、人間のものとは思えない絶叫が木霊した。
癒やされるはずの騎士団長の右腕が、黄金の光を浴びた途端にジュウジュウと音を立てて溶け始めたのだ。
肉が腐り落ち、骨が露出し、さらにはその骨が異常な速度で増殖を始める。
ボキボキと不快な音を立てながら、人間の腕は、無数の黒い眼球が埋め込まれた巨大な異形の触手へと変貌を遂げた。
『な……っ!?』
ミリアムは悲鳴を上げ、尻餅をついた。
レイナルドも、周囲の貴族たちも、目の前で起こった惨劇に言葉を失い、恐怖で凍りついている。
『や、やめ……熱い、熱いィィ! 聖女様、やめてくれ! 痛い、体が、私の中を何かが喰い破るぅぅぅ!!』
騎士団長は、自らの異形化した腕を抱えながら、血の涙を流してのたうち回った。
「光」を浴びれば浴びるほど、彼の身体は腐り、崩れ、人間ではない別のナニカへと変えられていく。
やがて彼は、全身から黒い泥を吐き出しながら完全に絶命し——数秒後には、腐肉を纏ったアンデッドのような怪物として立ち上がった。
『ヒィッ!?』
『ば、化物だ! 騎士団長が、化物に!?』
『逃げろ! 聖女の光が、彼を化物に変えたんだ!!』
パニックに陥り、我先にと出口へ向かって逃げ惑う貴族たち。
しかし、悲劇はそれだけでは終わらない。
先月から今月にかけて、ミリアムの「奇跡の光」を浴びた者は、騎士団長だけではなかったのだ。
『あ、あぁ……手が、私の手が腐っていく!』
『助けて、顔が、顔が溶けるわ!』
『いやぁぁぁ! お腹の中から、何かが出てくるぅぅッ!』
会場のあちこちで、同じように倒れ、絶叫を上げる者たちが続出した。
彼らもまた、体内に蓄積されていた私の「毒」が致死量に達し、一斉に発症したのだ。
豪奢な大夜会は、一瞬にして、腐臭と血肉が飛び散る阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
「ふふっ……あははははっ!」
私は、玉座の上で腹を抱えて笑った。
笑いが止まらなかった。涙が出るほど滑稽で、最高に美しい光景だった。
信じていた奇跡が、実は自分たちを内側から食い破る猛毒だったと知った時の、あの絶望に染まった顔!
『素晴らしい。君の呪いは、極上の芸術品だ』
ルシルもまた、水鏡を見つめながら恍惚とした表情を浮かべていた。
私の笑い声に呼応するように、大奈落に潜む数百万の異形たちが、地の底から地鳴りのような歓声を上げる。
水鏡の中では、レイナルドが腰を抜かしたミリアムに怒鳴り散らしていた。
『ミリアム! これはいったいどういうことだ! お前の聖力はどうなっている!? なぜ人々が怪物に変わる!!』
『わ、私じゃありません! 私じゃないわ! 私はただ、いつものように力を……っ!』
ミリアムは泣き叫びながら、自身の胸ぐらを掻きむしった。
無理もない。彼女自身も気づき始めているのだ。
私から力を吸い上げるたびに、自分の内臓にヘドロのような冷たい泥が流れ込み、少しずつ自分の身体を黒く汚染していることに。
『嘘だ……。お前は奇跡の聖女だろう!? なんとかしろ! このままでは国が滅んでしまう!』
レイナルドが聖剣を引き抜き、這い寄る怪物たち(元貴族たち)を切り伏せながら叫ぶ。
しかし、斬り捨てられた怪物の傷口からは、周囲の人間を病に感染させる黒い胞子が撒き散らされるだけだった。
「……無駄よ、レイナルド」
私は、水鏡の中の哀れな元婚約者に向かって、届くはずもない言葉を投げかけた。
「貴方たちが私を切り捨て、あの偽物の光を選んだ時点で、この結末は決まっていたの。
貴方たちの国はもう、内側から腐りきっている。
王都の結界も、騎士たちの命も、大地を潤す水脈も……全部、私が流し込んだ【死の呪い】で満たされているわ」
すべてが遅すぎる。
私が彼らのために祈っていた時間は、とっくに終わった。
これからは、彼らが私に対して、絶望の中で許しを乞う番なのだ。
——ピキ、ピキィンッ!!!
その時、大奈落の天井から、今までで最も大きな亀裂の音が響き渡った。
頭上を見上げれば、見えない壁に巨大な蜘蛛の巣状のヒビが走り、そこからパラパラと、光の欠片が剥がれ落ちてくるのが見えた。
地上の「聖なる結界」が、自己崩壊を起こし始めた証だ。
物理的な蓋だけではない。世界の理を隔てていた壁が、今、完全に決壊しようとしている。
『……開くね。地上が、君の復讐を歓迎しているようだ』
ルシルが、私の前に傅き、その細く白い手を差し出した。
私は玉座から立ち上がり、彼のその手を取る。
私の背中からは、もはや隠すこともできないほど濃密な、漆黒の魔力の翼が広がり、大奈落の空気を震わせた。
「ええ、行きましょうか。ルシル」
私は、水鏡の中で逃げ惑うかつての同胞たちを見下ろしながら、酷薄に微笑んだ。
「偽りの栄光の果てに、最高の絶望を届けに。
——さあ、奈落の底から、本当の復讐を見せてあげるわ」




