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どろり、どろり。
ひんやりとした、けれどひどく心地の良い泥のようなものが、私の切断された血管を、砕けた骨の髄を這い回る感覚があった。
「あ……、ぁ……」
かつて喉を焼かれた痛みが、嘘のように引いていく。
代わりに、私の内側から何かが『孵化』するような、おぞましくも甘美な疼きが全身を駆け巡った。
鋭利な刃物で断ち切られた手首と足首の腱。そこに、無数の微細な黒い糸のようなものが絡みつき、私の肉体と強引に縫い合わされていくのが分かる。
『美しい。ああ、なんて美しいんだ。神が創り出した泥人形(人間)の身体が、私の愛で染め上げられていく』
耳元で、甘く艶やかな声が囁く。
私はゆっくりと重い瞼を開けた。
そこは相変わらず、光一つない大奈落の底だった。しかし、今の私の目には、この絶対の暗闇がまるで真昼のように鮮明に見通せた。
私の身体を抱きしめているのは、先ほどの美青年——いや、人間の皮を被った『異形』だ。
彼の背中から伸びる漆黒の触手が、ゆりかごのように私を包み込んでいる。その触手の表面には無数の金色の眼球が蠢き、そのすべてが、愛おしい宝石を見つめるような熱を帯びて私を凝視していた。
「……私の、からだ」
不意に、自分の口から言葉がこぼれ落ちた。
驚いて喉に手を当てる。動く。両手が、自分の意志で動く。
切り裂かれたはずの皮膚は滑らかに繋がり、ただ、その縫い目にあたる部分に、刺青のような黒い茨の紋様が浮かび上がっていた。
声帯を溶かされたはずの喉からは、以前の私の声とは少し違う、鈴を転がすような……それでいて、聞く者の背筋を凍らせるような、奇妙に反響する声が出た。
『人間の脆弱な肉を、私の混沌で補強した。もう二度と、刃物ごときで君の身体が損なわれることはない。……痛むかい? 私の愛しき花嫁よ』
彼はそう言いながら、私の首筋に顔を埋め、そこにある黒い茨の紋様を、舌でちろりと舐め上げた。
ゾクリと、背筋に電流が走る。
恐怖ではない。それは、魂そのものを直接撫で回されるような、圧倒的な存在感に対する本能的な震えだった。
「痛く、ないわ……。むしろ、信じられないくらい身体が軽い」
私はゆっくりと立ち上がった。
足首の腱もしっかりと繋がっている。裸足の裏に伝わる冷たい岩の感触すら、今は愛おしい。
私は、生きている。いや、一度死んで、別の『ナニカ』として生まれ変わったのだ。
「貴方の名前は? 私は何と呼べばいい?」
私が尋ねると、彼はうっとりとした表情で私の髪をすくった。
銀色だった私の髪は、今や月の光さえも吸い込むような、透き通った『白』へと変貌していた。
『私の真名を人間が発音すれば、その瞬間に脳が沸騰して狂死してしまうからね。……そうだな、かつて私を信仰していた狂信者たちは、私を【ルシル】と呼んだ。君もそう呼んでおくれ、私のエルシア』
「ルシル……」
私がその名を口にすると、彼は歓喜に顔を歪ませ、無数の触手で私の身体にすり寄ってきた。
恐ろしいはずのその姿が、狂気に満ちたその愛が、今の私には酷く心地よかった。
地上の人間たちは、私の『聖力』という便利な力だけを愛し、私自身には見向きもしなかった。レイナルドも、ミリアムも、民衆も。
だが、このルシルという名の旧神は違う。
彼は、私の絶望、憎悪、怨嗟……人間であれば顔をしかめて逃げ出すような、私の最も醜くドロドロとした部分を、「最高のご馳走だ」と言って舐め取ってくれるのだから。
「ねえ、ルシル。私は貴方に、私のすべてを捧げるわ」
『ああ! それは素晴らしい。至上の喜びだ』
「だから……私に力を貸して。あの輝かしい地上を、私を裏切った奴らの未来を、一つ残らず黒く染め上げて、絶望のどん底に叩き落とすための力を」
私の言葉に、ルシルは唇の端を吊り上げ、三日月のようにおぞましい笑顔を作った。
『もちろんだとも。君はもう、くだらない神に祈る必要はない。君自身が、彼らにとっての災厄となるのだから。……見せてあげよう。君を陥れた哀れな愚者どもの、今の姿を』
ルシルが一つの触手を振るうと、空中に真っ黒な水鏡が浮かび上がった。
水面が波打ち、やがて地上の光景が映し出される。
そこは、王城のバルコニーだった。
眩しいほどの青空の下、眼下に広がる広場には、数え切れないほどの民衆が詰めかけている。
バルコニーの中央には、豪奢な礼服を着た第一王子レイナルドと、純白のドレスに身を包んだミリアムの姿があった。
『——我が愛する民よ! 邪悪なる魔女エルシアは、すでに大奈落へと落ちた!』
レイナルドの声が、魔法の拡声器を通じて響き渡る。
民衆からは、ワァッという歓声が上がった。
私がどれだけ血反吐を吐きながら彼らのために祈ってきたかなど、誰一人覚えていないかのような、無邪気で残酷な歓喜の声。
『これより、王国は真の光に包まれる! ご覧に入れよう、真なる奇跡の体現者にして、我が最愛の妻となる、新たな第一聖女ミリアムの力を!』
レイナルドに促され、ミリアムが一歩前に出る。
彼女は自信に満ちた、慈愛に溢れる(ように見える)笑顔を浮かべ、両手を天へと掲げた。
その瞬間、彼女の身体から眩いほどの光の粒子が溢れ出し、広場に降り注いだ。光を浴びた民衆の小さな傷が癒え、歓声はさらに熱狂的なものになった。
「……私の、力。私が幼い頃から、文字通り身を削って蓄積してきた聖力を、あの子は湯水のように使っているのね」
私は冷たい声で呟いた。
ミリアムが使っているのは、禁忌の魔道具によって私の肉体から『管』を通して吸い上げた、私自身の力だ。彼女自身の力など、欠片もない。
だが、映像を見つめていた私は、ふと奇妙なことに気がついた。
バルコニーの装飾として飾られていた、純白の百合の花。
ミリアムの放つ「光」がその花弁に触れた瞬間、ほんの一瞬だけ、花弁の端が不吉な黒色に変色し、パラリと灰になって崩れ落ちたのだ。
映像の中のミリアムもそれに気づいたのか、一瞬だけ顔をひきつらせ、慌てて証拠隠滅をするようにその花をドレスの陰で踏み潰した。
レイナルドや民衆は、光の演出に夢中で、その小さな異変に誰も気づいていない。
『くく……ははははっ!』
隣で、ルシルが腹を抱えて笑い出した。
触手たちが愉快そうに蠢き、空気を震わせている。
「ルシル、あれは……?」
『当然の理さ、愛しい人。あの小娘が使っている力は、元を辿れば【君の魂】と繋がっているのだろう?』
「ええ。無理やりパスを繋がれて、力を吸い上げられているわ」
『ならば、こうなるのは必然。君の魂は今や、私の混沌と交わり、極上の【呪い】へと反転した。……つまり、あの小娘が君から吸い上げているのは、もはや人々を癒やす聖力などではない。触れるものを腐らせ、生者を異形に変える、死の瘴気さ』
その言葉の意味を理解した瞬間、私の唇から、自然と冷たい笑みがこぼれた。
ああ、なんて滑稽なのだろう。
ミリアムは今、自分が「奇跡の聖女」だと信じて疑わない。
レイナルドも、あの民衆たちも、彼女の光が永遠の平和をもたらすと信じている。
だが、彼女が力を振るえば振るうほど、王国の根幹には「私の呪い」が致死量の毒として蓄積されていくのだ。
癒やされたと思った傷は、やがてどす黒く腐り落ちるだろう。
光り輝く結界は、中から魔物を生み出す苗床になるだろう。
「……ざまあみろ、とは言わないわ。そんな安い言葉じゃ足りない」
私は水鏡の中の、幸せそうに微笑むレイナルドとミリアムを見つめた。
今すぐ地上へ行き、彼らの首を刎ね落とすのは簡単だ。今の私とルシルの力があれば、王城を半日で瓦礫の山に変えることもできるだろう。
でも、それでは駄目だ。
そんな一瞬の死では、私が味わった絶望には到底釣り合わない。
「ルシル。地上に出るまでに、どれくらいかかる?」
『大奈落の封印は強固だ。だが、彼らは【封印の鍵】であった君を、あろうことか私に差し出してしまった。中から鍵を開けるようなものさ。……そうだな、地上との境界が溶け落ちるまで、あと数ヶ月というところか』
「そう。ちょうどいいわ」
私はルシルの冷たい頬に手を添え、至近距離でその金色の瞳を覗き込んだ。
「あいつらには、もう少しだけ『偽りの栄光』を楽しませてあげましょう。
王国中で最も高い場所まで登らせて、自分たちが世界で一番幸せだと錯覚させてあげるの。
そして、彼らが築き上げた富も、名声も、信頼も、愛も……すべてが内側から腐り落ち、崩壊していく恐怖を、たっぷりと時間をかけて味わわせてあげるわ」
自分を奇跡だと信じた少女が、災厄の魔女として民衆から石を投げられる日まで。
自分を王国の英雄だと信じた愚者が、すべてを失って泥水をすする日まで。
「その後で、一番高いところから、この奈落の底へ突き落としてあげる」
私の残酷な宣告を聞いたルシルは、かつてないほど甘く、官能的なため息を漏らした。
『ああ……狂おしいほど愛しているよ、エルシア。君のその完璧な悪意に、私は永遠の忠誠を誓おう』
ルシルはひざまずき、私の黒い茨の紋様が刻まれた手の甲に、誓いの口づけを落とした。
奈落の底。
神に見捨てられた絶対の暗闇の中で、私と異形の旧神は、誰よりも幸福な笑い声を上げた。
地上の連中が知る由もない。
彼らが私を落としたこの穴が、やがて王国のすべてを飲み込む、地獄の釜の蓋であったことなど。
——さあ、復讐劇の準備を始めましょう。




