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世界を隔てていた分厚いガラスが、内側からの圧力に耐えきれずに砕け散るような、甲高い音が響いた。
それは、初代国王と歴代の聖女たちが何百年もかけて維持してきた大奈落の封印が、完全に消滅した音だった。
『さあ、行こうか。私の美しい人』
ルシルの背中から無数に蠢く漆黒の触手が、玉座ごと私をふわりと持ち上げる。
同時に、奈落の底で飢えに苦しんでいた数百万の異形たちが、待ちわびた歓喜の咆哮を上げ、崩れゆく天井の穴に向かって一斉に跳躍を始めた。
まるで、黒い間欠泉だった。
地底から噴き出す底なしの悪意と呪いが、重力を無視して天へと駆け上がっていく。
猛烈な風圧の中、私はルシルの冷たい腕の中に抱かれながら、かつて自分を突き落としたあの長い長い垂直の縦穴を、今度は下から上へと昇っていった。
光などいらない。私自身が、世界を飲み込む影なのだから。
やがて、私の視界に「地上の空」が飛び込んできた。
「……ひどい有様ね」
上空へと躍り出た私が見下ろした王都の景色は、まさに地獄絵図だった。
数時間前まで、白亜の城壁と美しい赤レンガの屋根が立ち並んでいた栄華の象徴は、今はあちこちから黒煙を上げ、炎に包まれている。
街路には、ミリアムの「光」を浴びて異形と化した元人間たちが徘徊し、逃げ遅れた民衆を貪り食っていた。
澄み切っていた青空は、大奈落から立ち昇る死の瘴気によって分厚い鉛色の雲に覆われ、真昼だというのに夕闇のような薄暗さに沈んでいる。
「神聖なる結界に守られた、永遠の都……。それがたった半日でこれだもの。人間の国なんて、本当に脆い砂上の楼閣ね」
『彼らの土台は、君の自己犠牲というただ一つの柱で支えられていたからね。柱が猛毒に変われば、崩れるのは一瞬さ』
ルシルが楽しげに笑う。
私たちは空を滑るように進み、炎上する王城の、あの大夜会が行われていたバルコニーへとゆっくりと降下した。
そこには、奇跡的に生き残っていた数名の近衛騎士と、恐怖で顔を歪ませたレイナルド、そして彼の背中にしがみつくミリアムの姿があった。
彼らは、迫り来る異形(元騎士団長や貴族たち)の群れに囲まれ、完全に退路を断たれていた。
「そこまでよ。下等な獣ども」
私が冷ややかな声で命じると、レイナルドたちに襲いかかろうとしていた異形たちが、一斉に動きを止めた。
彼らは私の中に渦巻く圧倒的な『呪いの源』の気配を感じ取り、怯えた犬のように床に平伏し、道を空ける。
異形の群れが割れたその奥から、漆黒の触手を侍らせ、禍々しい黒翼を広げた私とルシルが姿を現した。
「……なっ」
レイナルドの手から、チャキリ、と音がして聖剣が滑り落ちた。
彼は目を見開き、信じられないものを見るように私を凝視している。
「嘘だ……。ば、馬鹿な。あり得ない……」
無理もないだろう。
私が生きたまま大奈落から生還したことだけでも異常だが、今の私の姿は、彼が知る「みすぼらしく疲れ果てた聖女」とは別次元の存在に成り果てていた。
月の光を吸い込んだような純白の髪。
切断された手足の繋ぎ目に刻まれた、黒い茨の呪印。
そして何より、私の傍らに寄り添う、息を呑むほど美しい、神話の時代から抜け出してきたかのような『真なる怪異』の存在。
「ごきげんよう、レイナルド様。それから、可愛い妹のミリアム」
私が鈴を転がすような声で微笑みかけると、ミリアムはビクッと肩を跳ねさせ、幽鬼でも見るような目で私を指差した。
「お、お姉様……!? どうして、生きて……っ! 奈落に落ちたはずなのに、どうして!?」
「ええ。貴方たちが私から声と手足を奪い、あの暗闇に突き落としたのよね。でも残念だったわね、ミリアム。貴方たちが私から奪ったものよりも、もっとずっと素晴らしいものを、私はあの底で見つけてしまったの」
私はルシルの肩に頬をすり寄せた。ルシルはうっとりと目を細め、私の腰を抱く手に力を込める。
そのおぞましくも甘美な異界の神との触れ合いに、レイナルドたちは吐き気を催したように顔を青ざめさせた。
「お前……その姿は、魔族どころではない……っ、まさか、大奈落の奥底に封じられていた『旧き神』と契約したというのか!?」
「そうよ。貴方が大司教に命じて儀式を行わせたから、私たちは出会うことができた。感謝しているわ、レイナルド」
「この化物がぁっ!!」
レイナルドは恐怖を誤魔化すように怒鳴り、落とした聖剣を拾い上げて私に切っ先を向けた。
「すべてはお前の仕業だな!? ミリアムの癒やしの力を汚染し、我が国の民をこんな化け物に変えたのは!!」
その言葉に、私は思わず噴き出してしまった。
「ふふっ……あははははっ! 貴方、本当に頭が空っぽなのね。ミリアムの力? 違うわよ、レイナルド。あの子が使っていたのは、最初から最後まで【私から盗んだ力】よ」
私は笑いを収め、冷たい射殺すような視線でミリアムを睨みつけた。
「ミリアム。貴女の胸元にあるそのペンダント……魔力を強制搾取する禁忌の魔道具。それが、私と貴女の魂を繋ぐパスよ。貴女は私が奈落で死ぬまで、延々と私の残飯を啜り続けるつもりだったのでしょうけど……計算違いだったわね。私が毒に反転したせいで、貴女は国中に呪いをばら撒くスピーカーになってしまった」
「ち、ちがう……っ! 私は、私は選ばれたのよ! 私の方が美しくて、愛されていて、聖女にふさわしいんだから!!」
ミリアムは半狂乱になりながら、自身の胸元のペンダントを握りしめた。
そして、血走った目で私を睨み返し、叫んだ。
「死ね! 今度こそ死になさい、エルシア! 私があなたの魔力ごと、その呪いを全部吸い尽くして、爆発させてやるわ!!」
ミリアムはペンダントに強烈な魔力を込め、私とのパスを強制的に全開にした。
私の中から残っている力を、根こそぎ奪い取ろうとする愚かな行為。
レイナルドも「やれ、ミリアム! その魔女を干からびさせろ!」と叫んでいる。
「……いいわよ。そんなに私の力が欲しいなら、全部あげる」
私は抵抗しなかった。
むしろ、私の中に渦巻く、ルシルから与えられた無限の『混沌』の海を、その細い管に向かって一気に解き放った。
高圧洗浄機で泥水を流し込むようなものだ。
「あ、っ……!?」
直後、ミリアムの顔が驚愕に凍りついた。
ペンダントを通じて彼女の体内に雪崩れ込んだのは、彼女の許容量を数万倍も超える、致死量の死の瘴気だった。
「ガ、アァァァァァァァァァァッッッ!!!」
ミリアムの目、鼻、口、耳から、ドス黒い泥のような血が噴き出した。
純白のドレスが一瞬にして真っ黒に染まり、彼女の美しい金糸の髪が、パサパサと音を立てて抜け落ちていく。
皮膚が焼け焦げ、内側からボコボコと不気味な肉腫が膨れ上がる。
「い、いやぁぁぁ! 痛い、熱い! 体が、体が裂けるぅぅぅ!」
「ミ、ミリアム!?」
レイナルドが助けようと手を伸ばしたが、ミリアムの体から噴き出す黒い泥に触れた瞬間、「ギャアッ!」と叫んで手を引っ込めた。彼の右手の皮膚が、泥に触れた部分からシュウシュウと溶け出していたのだ。
「レイナルド様……たすけて、助けて……っ」
顔の半分が溶け落ち、醜い肉塊のようになりかけたミリアムが、レイナルドの足首にすがりつく。
だが、かつて「世界で一番愛している」と誓ったはずの第一王子は、その醜悪な姿と呪いの恐怖に耐えきれず、自身の婚約者を思い切り蹴り飛ばした。
「触るな! 近寄るな、この化物め!!」
「あ……ぁ……」
蹴り飛ばされたミリアムは、床に転がり、信じられないものを見る目でレイナルドを見上げた。
絶望。裏切り。
自分がすべてを捧げた男に、最も醜い姿で拒絶される絶望。
「あら。永遠の愛を誓ったのではなくて? 随分と薄っぺらい絆ね」
私は呆れたようにため息をついた。
ルシルが私の耳元で『人間とはそういうものさ。だからこそ、壊れゆく様が美しい』とクスクス笑う。
ミリアムの胸元にあったペンダントが、耐えきれずにパチンと砕け散った。
これでパスは切れた。彼女の異形化はギリギリのところで止まったが……もはや、二度と元の美しい姿に戻ることはできない。全身に激痛を抱えたまま、半端な化け物として生き地獄を這いずるしかないのだ。
「さて、次は貴方の番よ。レイナルド」
私が一歩前に出ると、レイナルドは後ずさりしながら、震える両手で聖剣を構えた。
「く、来るな……! 私は王だぞ! この国の、未来の……っ!」
「国なら、もうとっくに滅んでいるわ。貴方の足元を見てみなさい」
レイナルドが視線を落とすと、バルコニーの床の大理石がドロドロに溶け、そこから無数の黒い手が伸びて、彼の両足をしっかりと掴んでいた。
「ひっ……!?」
「貴方が切り捨てた民衆の怨念よ。王として、しっかりと受け止めてあげなさい」
レイナルドは絶叫しながら聖剣を振り下ろし、足元の黒い手を斬り払おうとした。
だが、その剣が私の足元に届く前に。
『——私の妻に、そのような薄汚い鉄屑を向けるな。不愉快だ』
ルシルの声が、絶対零度の冷気となって場を支配した。
彼が指先をほんの少し動かしただけで、レイナルドが必死に握りしめていた「国宝の聖剣」は、まるで飴細工のようにぐにゃりと曲がり、一瞬にして赤茶色に錆びついて、ボロボロと砂のように崩れ落ちた。
「な、ばか、な……我が王家の、聖剣が……」
唯一の希望を失い、レイナルドはその場にへたり込んだ。
彼の碧眼からは、完全に光が失われていた。
もはや反抗する意志すら根こそぎへし折られた、完全なる敗北者の顔。
私はゆっくりと歩み寄り、怯えてすくみ上がるレイナルドの胸ぐらを踏みつけた。
冷たい裸足の裏に、彼の激しい心臓の鼓動が伝わってくる。
「殺さないでくれ……頼む、エルシア。私が悪かった。お前を愛していたんだ、本当は……魔が差しただけなんだ……! だから、どうか……」
プライドを完全に投げ捨て、涙と鼻水を流しながら命乞いをする元婚約者。
その顔を見た瞬間、私の中にあった、彼に対するわずかな未練や怒りすらも、すーっと冷えて消えていくのが分かった。
「……本当につまらない男ね。貴方を愛していた過去の自分が、死ぬほど恥ずかしいわ」
私は見下ろす視線の温度を極限まで下げた。
「安心なさい、殺してなんてあげないわ。
貴方はこの崩壊した王都の瓦礫の中で、這い回る醜い妹の世話をしながら、永遠に続く飢えと恐怖の中で生き延びなさい。
助けなんて永遠に来ない。光も差さない。
貴方たちが私に与えようとした絶望の泥濘の中で、泥水をすすりながら、一生をかけて後悔し続けるのよ」
私が宣告すると、レイナルドの目から絶望の涙が溢れ出し、彼はついに声にならない叫びを上げて発狂したように頭を抱えた。
『実に甘美な結末だ。君の優しさと残酷さが、この哀れな男の魂を永遠に縛り付けるだろう』
ルシルが私の背後から抱き着き、私の首筋に熱いキスを落とした。
私は彼に身を預けながら、黒い煙に包まれていく王都を見渡した。
世界は最悪の結末を迎えた。
人々は怪物に変わり、正義は地に堕ちた。
けれど、不思議と私の心は、かつて神聖な大聖堂で祈りを捧げていた日々の何倍も、穏やかで満たされていた。
私は、ルシルの冷たく美しい顔を見つめ返し、極上の笑みを浮かべた。
「さあ、帰りましょうか。私たちの、愛の巣へ」
ここから始まるのは、狂える神と魔女が統べる、甘く果てしない暗黒の時代だ。




