35話
演奏が終わると、音楽室には拍手と静かな空気だけが残った。
誰かが立ち上がり、出入り口に向かって歩き出す。
俺も少し遅れて腰を上げた。
隣では咲が、両手を膝の上に置いたまま、まだ少しだけ前を見ていた。
「……戻ろっか」
小さく言うと、咲は軽くうなずいて立ち上がった。
廊下に出た瞬間、外のざわめきが一気に押し寄せた。
でも、それすらもどこか遠くに感じた。
まだ耳の奥では、さっきのチェロの余韻が残っていた。
「……あの空間、別世界だったね」
咲がぼそっと言った。
俺は返事の代わりに、少しだけ笑ってみせた。
歩きながら、俺たちは言葉を交わさなかった。
そのかわりに、時おり廊下の掲示物を眺めたり、足音を意識したり、
そんな小さな行動だけが、ふたりの存在をつないでいた。
階段の途中で、咲が立ち止まった。
「……ちょっと、座っていい?」
「うん」
二人で階段の踊り場に腰を下ろす。
窓から見える中庭には、カラフルなテントと人の波。
だけどここは少しだけ静かで、風が通る。
咲はスカートの端を指でつまんで、軽く揺らしていた。
沈黙を破ったのは、俺だった。
「……文化祭、楽しめてる?」
咲は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「うん。すごく」
そのあと、ふっと目を伏せて、指先を揃えるようにスカートの上で重ねた。
「男子とこうして文化祭まわるのって……たぶん、初めてかも」
「え、マジ?」
「うん。中学のときは、あんまりそういう感じの子じゃなかったし」
咲は照れくさそうに言って、窓の外に視線をやった。
顔は笑っていたけど、どこか、恥ずかしさと少しの誇らしさが混ざったような雰囲気だった。
「でも、今日すごく楽しいよ」
「ならよかった」
俺も軽く笑いながら答えた。
だけど、さっきのたぶん初めてって言葉が、妙に心に残っていた
咲が鞄からキャンディを取り出した。
さっきの喉用と同じやつ。包装が少しだけ破れている。
「一個、あげる。……のど、使いすぎたでしょ?」
「ああ、ありがと」
手渡された飴はほんのり冷たくて、手のひらに違和感なくなじんだ。
そのとき、指先が軽く触れ合った。
お互い、反応しないふりをしたけど、気づいていた。
スマホが震えた。
『今終わったー!!どこー!!』
七海からのLINEだった。
「七海から。終わったって」
「……うん、戻ろっか」
咲は立ち上がりながら、スカートの皺をぱたぱたと払った。
それから、俺に向かってほんの少し、柔らかい笑みを向けた。
階段を下りる途中、ふと咲が言った。
「朝倉くんって、昔から歌ってたの?」
「え……あ、いや……まあ、趣味、みたいなもんかな」
「そっか」
それ以上聞かれることはなく、
それ以上答えることもなかった。
昇降口が見えてきたあたりで、俺は振り返った。
そこには、何もない階段と、窓から差す光が静かに広がっていた。
この日、文化祭のざわめきの中で、
俺は確かにひとつ1歩進めた気がした。
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