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第93話 共に過ごした日々の距離と、二人で思い描き始めた永遠

遠く離れた街に住む人を好きになることの問題は、テクノロジーが僕にとって最大の味方であると同時に、最も腹立たしい敵にもなってしまったことだった。

一方では、ビデオ通話のおかげで、お互いの予定が合えばいつでも葵の顔を見ることができる。

彼女の笑い声を聞ける。

笑顔を見られる。

大変だった勤務についての愚痴を聞ける。

そして、ときには彼女が作ろうとしている料理が、犯罪捜査の証拠品にしか見えないという、非常に興味深い光景を目撃することもできる。

しかし、その一方で――

パソコンの画面越しに彼女の手を握ることはできない。

頬に触れるキスの温もりを感じることもできない。

執筆の途中でふと顔を上げたとき、隣で本を読みながら、僕が見つめていることに気づかないふりをしている彼女の姿を見ることもできない。

そして何より腹立たしいことに――

インターネットの接続を待たずに、彼女が愛されているのだと伝えることができない。

まったく、理不尽な話だった。

なぜなら、恋というものは、どうやら地理的な距離に対して、ほとんど忍耐力を持ち合わせていないらしいのだから。


◇ ◇ ◇


葵がパソコンの画面に現れたのは、夜の十時近くだった。

彼女はベッドに座り、背中に枕を当てていた。

髪は肩にかかるように下ろしている。

ゆったりとしたセーターを着ていて、その表情から判断する限り、まばたきすることさえ理不尽な要求に思えるほど疲れ切っているようだった。

「こんばんは」

僕が挨拶すると、彼女は微笑んだ。

「こんばんは」

「ひどい顔してるね」

彼女の笑顔が消えた。

「春人!」

「美しいくらいひどい顔だよ」

「全然よくなってない!」

「形容詞を付ければ改善すると思ったんだけど」

「しないから!」

僕は微笑んだ。

「大変な一日だった?」

彼女はため息をついた。

「ものすごくね」

「話したい?」

「あとでね」

彼女は枕の位置を直した。

「今は、ただ春人の顔を見ていたい」

僕は瞬きをした。

「娯楽としては、あまりおすすめできない選択だね」

彼女は笑った。

「本当にどうしようもない人」

「よく言われるよ」

しばらく、僕たちは何も話さなかった。

ただ、お互いを見つめていた。

それは、いつの間にか僕たちの関係の中で、最も好きな時間の一つになっていた。

冗談でもない。

からかい合うことでもない。

予定していた時間を大幅に超えて続く長い会話でさえない。

ただ、静かな時間。

すべての瞬間を言葉で埋める必要がないという安心感。

ただ一緒に存在しているだけでいいのだという感覚。

たとえ、その「一緒」が、別々の街にある別々の部屋を意味していたとしても。


◇ ◇ ◇


やがて、葵が首をかしげた。

「何考えてるの?」

僕は嘘をつこうかと考えた。

何か馬鹿げたことを。

森探偵が最新の改稿でまったく言うことを聞いてくれないとか。

大地叔父さんが、いまだに国際的な文学グッズ販売帝国を築こうとしているとか。

でも、本当の気持ちは、もう何日も胸の中に居座っていた。

そして僕は、そろそろそれを隠すことに疲れていた。

「葵のこと」

彼女は微笑んだ。

「嬉しい」

「正確には、どれだけ葵に会いたいかってこと」

彼女の笑顔が柔らかくなった。

「あ……」

僕は彼女を見つめた。

「ほとんど毎日話してるのは分かってる」

「うん」

「それがすごく嬉しいことも」

「私もだよ」

「でも、ときどき……」

僕は言葉を止めた。

葵は待ってくれた。

「ときどき、ただ顔を横に向けたら、そこに葵がいてくれたらいいのにって思うんだ」

彼女はすぐには答えなかった。

僕は続けた。

「特別なことをしたいわけじゃない」

「ただ、いてほしいだけ」

僕は机の隣にある空いた場所へ目を向けた。

「電話をかけなくても、くだらないことを話したい」

「別の部屋から葵の笑い声が聞こえてきたらいいなって思う」

僕はかすかに微笑んだ。

「それに、おやすみって言うたびに、次にキスできるのは何日後だろうって考えなくて済むようになりたい」

しばらく、彼女は何も言わなかった。

それから視線を落とした。

「春人?」

「うん?」

「私も、そういうふうに春人が恋しいよ」


◇ ◇ ◇


その言葉を聞くと、二人の距離が少し縮まったように感じられると同時に、余計につらくなった。

葵は髪を耳にかけた。

「仕事から帰ってくるとね、春人に話したいことがあるって思うことがあるの」

僕は微笑んだ。

「何でも話していいんだよ」

「分かってる」

彼女は僕を見た。

「でも、ときどき電話じゃ嫌なの」

その声が柔らかくなった。

「春人の隣に座りたい」

「肩に頭を預けたい」

「仕事の愚痴を言いたい」

「それで、私が真面目に話してるのに、春人がとんでもないことを言って笑わせてくれるの」

僕は考えた。

「最後の部分なら、たぶん得意だよ」

彼女は笑った。

「知ってる」

そして、笑顔が少しだけ寂しそうになった。

「手をつなぎたいな」

胸が締めつけられた。

「僕も」

葵はカメラを見つめた。

「だったら、何とかしようよ」

僕は瞬きをした。

「瞬間移動装置を発明する?」

彼女は笑った。

「違う!」

「設計についてなら、いくつか提案があるんだけど」

「春人」

「分かったよ」

彼女は微笑んだ。

「勤務表を見てたの」

僕は動きを止めた。

「それで?」

「来週末、そっちに行けるかもしれない」

一瞬、言葉が出てこなかった。

作家になりたいと何週間も人前で語っていた人間としては、なかなか情けない反応だった。

「春人?」

僕は彼女を見つめた。

「本当に?」

彼女は微笑んだ。

「本当に」


◇ ◇ ◇


翌朝、僕は由紀叔母さんに葵が遊びに来るかもしれないと伝えた。

叔母さんは朝食の準備をしていた。

大地叔父さんはタブレットで何かを読んでいた。

夏美さんは朝のケアを終え、僕が食卓で楽な姿勢を取れるように整えてくれていた。

僕はできるだけ何でもないことのように言った。

「来週末、葵が来るかもしれないんだ」

由紀叔母さんが顔を上げた。

「あら、素敵じゃない!」

大地叔父さんがタブレットを下ろした。

「今、葵ちゃんって言ったか?」

僕は即座に後悔した。

「うん」

「遊びに来るのか?」

「たぶんね」

「いつ?」

「来週末」

「何日くらい?」

「二泊くらいかな」

大地叔父さんがゆっくりと立ち上がった。

僕はその表情を知っていた。

新たな迷惑行為の機会を発見した男の顔だった。

「素晴らしい!」

僕は彼を見つめた。

「駄目だよ」

叔父さんは瞬きをした。

「まだ何も言ってないぞ?」

「これから言うつもりだったでしょ」

「どうして分かる?」

「経験だよ」

叔父さんは胸に手を当てた。

「私はただ、大切なお客様を歓迎したいだけだ」

「何をするつもり?」

彼は微笑んだ。

「飾りつけだ」

「駄目」

「花は?」

「駄目」

「横断幕は?」

「絶対に駄目」

叔父さんは傷ついたような顔をした。

「お前はロマンスというものを分かっていないな」

僕は彼を見つめた。

「まだ出版されてない探偵のフィギュアを売ろうとした人に言われたくないよ」

由紀叔母さんが笑った。

大地叔父さんは僕を指さした。

「あの企画には、まだ可能性があるんだぞ!」


◇ ◇ ◇


水曜日には、訪問の日程が正式に決まった。

葵は研修の予定に支障が出ないよう調整し、仕事を休めることになった。

金曜日の午後に到着して、日曜日の夕方に帰る。

転職の応募については、まだ選考中だった。

結果は出ていない。

でも、その週末だけは、僕たちは面接や編集者からの指摘、不確かな未来について考えたくなかった。

ただ会いたかった。

それだけだった。

もちろん、訪問を実現するには、日付を決めるだけでは済まなかった。

いつもの看護体制は、そのまま維持する必要があった。

外出するなら、交通手段や医療機器、バリアフリー環境を考えなければならない。

葵が来るからといって、僕の医療ケアを担当する専門職の代わりになるわけではない。

そして、葵自身も看護師ではあるけれど、今回は僕の恋人として会いに来るのだ。

週末を仕事に費やすためではない。

その違いについては、以前から話し合っていた。

今回は、きちんと行動でも示したかった。

夏美さんに計画を伝えると、彼女は微笑んだ。

「いいじゃない」

僕は眉を上げた。

「いいの?」

「ええ」

「お説教はないの?」

「何について?」

「責任ある行動とか」

彼女は笑った。

「春人、もう交通手段も確認したし、看護の予定も調整したし、週末に何をしたいかも話し合ったでしょう?」

僕は考えた。

「それで?」

「だったら、あとは楽しんでいいと思うわ」

僕は微笑んだ。

「妙に理にかなってるね」

「私だって、たまにはね」


◇ ◇ ◇


金曜日は、病院の待合室や役所の手続きでしか味わえないような、異常な遅さで時間が進んだ。

僕は何時間も前から起きていた。

何か問題があったわけではない。

人工呼吸器のアラームが鳴ったわけでもない。

体調が悪かったわけでもない。

ただ、楽しみだったのだ。

自分でも恥ずかしくなるほど。

そして、どうやらそれを隠すのは、あまり得意ではなかったらしい。

「また時計を見てるわね」

夏美さんが言った。

僕は時計を見た。

「そう?」

「ええ」

「どのくらい?」

「隠してしまおうかと思うくらい」

僕は微笑んだ。

「それはやりすぎじゃない?」

「十五分で四回も時間を聞いたのよ」

「時間は大切だからね」

「今日は特に?」

「今日は特に」

彼女は笑った。


◇ ◇ ◇


午後二時半、葵からメッセージが届いた。

『もうすぐ着くよ。』

僕の心臓は、まるで正常なリズムというものを一度も経験したことがないかのように騒ぎ始めた。

僕は返信した。

『気をつけて来てね。』

すぐに返事が来た。

『私、運転してないよ。電車だよ。』

僕は微笑んだ。

『じゃあ、電車の運転士さんに安全運転するよう伝えて。』

『春人。』

『何?』

『会いたかったよ。』

僕の笑顔が柔らかくなった。

『僕も会いたかった。』


◇ ◇ ◇


葵が到着したのは、三時を少し過ぎたころだった。

僕はリビングで待っていた。

由紀叔母さんは台所の近くにいた。

大地叔父さんには、何も飾らないよう厳命してあった。

もっとも、ジャケットの下が不自然に膨らんでいたので、その命令をかなり独創的に解釈したらしかった。

玄関の扉が開いた。

そして――

彼女がいた。

葵。

画面の中ではない。

写真でもない。

スピーカーから聞こえる声でもない。

本物の葵だった。

淡い青色のブラウスに、薄手のカーディガン。

肩には小さな旅行バッグをかけていた。

家の中へ入ってきたとき、髪がふわりと揺れた。

そして僕を見つけると――

立ち止まった。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

それから彼女は微笑んだ。

あの笑顔。

何度も画面越しに見てきた笑顔。

でも、今は画面がなかった。

「ただいま」

彼女は小さな声で言った。

僕は微笑んだ。

「おかえり」

彼女はバッグを置いた。

そして部屋を横切った。

最初はゆっくり。

それから少し早足になって。

僕の車椅子の隣まで来た。

「抱きしめてもいい?」

僕は小さく笑った。

「ぜひ」

彼女は僕の姿勢と機器に気を配りながら、そっと身をかがめて腕を回した。

彼女の温もりを感じた。

優しく抱きしめられる感覚。

慣れ親しんだシャンプーの香り。

僕の頬に触れる彼女の頬。

そして数秒間――

世界中が静かになったように感じた。


◇ ◇ ◇


「会いたかった」

彼女がささやいた。

僕は微笑んだ。

「分かるよ」

彼女は僕の頬に触れたまま笑った。

「せっかくの雰囲気を壊さないでよ」

「職業病だから」

彼女は少しだけ体を離して、僕の顔を見た。

瞳が輝いていた。

「春人」

「葵」

そして、彼女は僕にキスをした。

優しく。

短く。

でも、用意していた気の利いた言葉を全部忘れてしまうほど、愛情のこもったキスだった。

彼女が離れると、僕はただ見つめた。

葵は微笑んだ。

「どうしたの?」

僕は少し考えた。

そしてコミュニケーションソフトを操作した。

「ずるいよ」

彼女は瞬きをした。

「ずるい?」

「完全にずるい」

「どうして?」

「一週間かけて、ロマンチックな挨拶を考えてたのに」

彼女の笑顔が広がった。

「それで?」

「全部忘れちゃった」

彼女は声を上げて笑った。


◇ ◇ ◇


そのとき、背後から大地叔父さんが不審な物音を立てた。

僕たちは振り向いた。

叔父さんが入口に立っていた。

小さな横断幕を持って。

そこには、こう書かれていた。

ようこそ、未来の高橋夫人!

沈黙。

完全な沈黙だった。

葵が見つめた。

僕が見つめた。

由紀叔母さんも見つめた。

大地叔父さんは誇らしげに微笑んだ。

そして由紀叔母さんが口を開いた。

「大地」

叔父さんが振り向いた。

「何だ?」

「それを片づけなさい」

「しかし――」

「今すぐ」

叔父さんは横断幕を下ろした。

僕は目を閉じた。

「本当にごめん」

葵は口元を押さえた。

肩が震え始めた。

そして笑い出した。

笑って。

笑って。

とうとう座り込まなければならなくなるほどだった。

「春人の叔父さんって、本当に信じられない!」

僕はため息をついた。

「残念ながら、実在するんだよ」


◇ ◇ ◇


最初の夜は、驚くほど普通で、そして素晴らしかった。

どこにも出かけなかった。

特別な予定もなかった。

葵は客室で荷物をほどいた。

由紀叔母さんが夕食を用意した。

大地叔父さんは、あの横断幕は結婚を発表するものではなく、将来への意欲を高めるためのものだったと説明しようとした。

誰も信じなかった。

そして僕は、その夜のほとんどを、葵がすぐそばにいるという事実を楽しんで過ごした。

夕食のとき、彼女は僕の隣に座った。

画面の向こうではない。

隣に。

大地叔父さんが馬鹿げた冗談を言うと、彼女は笑った。

由紀叔母さんが研修について尋ねると、彼女は丁寧に答えた。

僕が皮肉を言うと、いつもの「また馬鹿なことを言ってる」という目で見られた。

そして、ときどき――

彼女は手を伸ばして、僕の手に触れた。

ほんの少しだけ。

ただ、触れられるから。

本当に小さなことだった。

でも、僕はその感覚が、自分で思っていた以上に恋しかったのだと気づいた。


◇ ◇ ◇


その夜、僕たちはリビングで映画を見た。

正確には、映画を見ようとした。

大地叔父さんが何度も結末を予想した。

由紀叔母さんが何度も静かにするよう注意した。

葵は叔父さんのどんどん馬鹿げていく推理に笑い続けていた。

やがて由紀叔母さんは、皿洗いを手伝ってほしいという口実で、叔父さんを台所へ連れていった。

そのおかげで、僕と葵は少しの間、二人きりになれた。

夏美さんは通常の看護体制の一環として近くに待機していたが、僕たちのプライバシーを尊重してくれていた。

葵が少し近づいた。

「やっとだね」

僕は微笑んだ。

「やっと?」

「やっと静かになった」

「気をつけて。叔父さんは人の幸せを感知できるから」

彼女は小さく笑った。

そして僕を見た。

その表情が、少しずつ変わった。

優しく。

真剣に。

「春人?」

「うん?」

「もう一回、キスしてもいい?」

僕は彼女を見つめた。

それから微笑んだ。

「一生聞いてくれないかと思ったよ」

彼女はゆっくりと顔を近づけた。

僕が彼女の視線を受け止められるように。

微笑めるように。

同じ気持ちでいることを確かめられるように。

そして、彼女の唇が僕の唇に触れた。

今度のキスは、少し長かった。

急いでいなかった。

大げさでもなかった。

背景で盛り上がる音楽もない。

窓の外に花火が上がるわけでもない。

ただ、葵がいた。

頬に優しく添えられた彼女の手。

その温もり。

そして、愛する人がようやく手の届く距離にいるという、素晴らしい実感。

彼女が顔を離すと、額をそっと僕の額に寄せた。

「これが恋しかった」

彼女はささやいた。

僕は微笑んだ。

「僕も」


◇ ◇ ◇


土曜日の朝は、台所から聞こえる笑い声で始まった。

朝のケアを終えたころ、葵が入口に現れた。

動きやすそうな服を着て、髪をゆるく後ろで結んでいた。

「おはよう」

僕は微笑んだ。

「おはよう」

彼女が近づいた。

「よく眠れた?」

「まあまあね」

「よかった」

彼女は身をかがめて、僕の頬にキスをした。

僕は微笑んだ。

「習慣になりそうだね」

彼女はにやりと笑った。

「不満?」

「まったくないよ」

「よかった」

台所から大地叔父さんが叫んだ。

「朝食ができたぞ!」

僕は固まった。

葵が瞬きをした。

そして僕を見た。

「どうしたの?」

僕は入口を見つめた。

「誰が作ったの?」

彼女はためらった。

「たぶん、大地叔父さん?」

僕は目を閉じた。

「家族に、愛してたって伝えておいて」

葵は吹き出した。


◇ ◇ ◇


幸いなことに、朝食は由紀叔母さんが監督していた。

つまり、食べられるものだった。

ほとんどは。

大地叔父さんに任されたのは、トーストを焼くことだけだった。

どうやら、それでもかなり危険な信頼の置き方だったらしい。

でも、誰も怪我をしなかった。

だから、成功した朝食ということにした。

食後、葵は由紀叔母さんと一緒に食器を片づけた。

その間、夏美さんがいつもの手順で僕の姿勢を整え、機器の確認をしてくれた。

葵が戻ってくると、僕の隣に座った。

「外に行かない?」

僕は窓へ目を向けた。

素晴らしい天気だった。

暖かな日差し。

優しい風。

こんな日に家の中にいるのは、自然に対する侮辱のように感じられるほどだった。

「いいね」

僕たちは庭へ出た。

夏美さんも適度な距離を保って同行し、必要なときには対応できるようにしながら、二人の時間を尊重してくれた。

葵は僕の車椅子の隣を歩いた。

ときどき話しながら。

ときどき、ただ花を眺めながら。

やがて、日陰になっている場所で立ち止まった。

彼女は僕の隣のベンチに腰を下ろした。

そしてしばらく――

僕たちはただ、朝の時間を楽しんだ。


◇ ◇ ◇


「何を考えてたか分かる?」

葵が尋ねた。

僕は微笑んだ。

「僕がどれだけ格好いいか?」

彼女は笑った。

「もちろん」

「やっぱりね」

彼女は首を振った。

「本当は、一緒に暮らしたら朝ってどんな感じになるのかなって考えてたの」

僕の笑顔が柔らかくなった。

「へえ?」

彼女はうなずいた。

「特別なことじゃないよ」

「ただ起きて」

「朝ご飯を食べて」

「仕事に行く準備をして」

「朝が早すぎるって文句を言って」

僕は笑った。

「それは今も言ってるよね」

「うん」

彼女は庭を見た。

「でも、春人がそばにいるところで文句を言いたいの」

僕は微笑んだ。

「ロマンチックだね」

「すごくね」


◇ ◇ ◇


彼女は続けた。

「小さなことを考えるの」

「例えば?」

「本をどこに置くか、とか」

「僕の本だけで一部屋必要だよ」

「知ってる」

「それに、別棟も必要かもしれない」

彼女は笑った。

「小さな読書スペースを作ってもいいね」

「葵には座り心地のいい椅子」

「春人には使いやすい机」

僕はうなずいた。

「広い出入口」

「絶対必要だね」

「医療機器を置けて、看護師さんたちが安全に働けるスペースも」

「もちろん」

「僕に合った、ちゃんと使える浴室も」

彼女は微笑んだ。

「それから、病院の中にいるみたいな気分にならずに、二人でくつろげる場所」

僕は彼女を見た。

「いいね」

彼女はうなずいた。

「うん」


◇ ◇ ◇


僕たちは、検討していた二つの賃貸物件について話した。

どちらも、まだ正式に決まっていなかった。

どちらも、すぐに住める状態ではなかった。

青い扉の家には、アクセシビリティーに関する深刻な問題が残っていた。

もう一つの物件も、電気設備や出入りのしやすさなど、専門家による詳しい確認が必要だった。

ただ願うだけでは解決できない、現実的な問題がいくつもあった。

でも、不思議なことに、その会話は落ち込むようなものではなかった。

計画を立てているように感じられた。

難しい部分が存在しないふりをせず、二人で暮らす人生を少しずつ思い描く方法を学んでいるようだった。

やがて葵が微笑んだ。

「カーテンは何色がいい?」

僕は考えた。

「青かな」

彼女は笑った。

「青い扉に合わせて?」

「そうかもしれない」

彼女は僕を見た。

「お母さんも喜びそうだね」

僕の笑顔が柔らかくなった。

「うん」

僕は花へ目を向けた。

「きっと喜ぶと思う」


◇ ◇ ◇


その日の午後、僕たちは僕の部屋で過ごした。

葵は机の隣に座り、僕は『森探偵』の最新の改稿を見せた。

彼女は一つの場面を読んだ。

それから僕を見た。

「一つ言ってもいい?」

僕はため息をついた。

「内容によるね」

「何によるの?」

「僕の探偵を侮辱するつもりかどうか」

彼女は微笑んだ。

「この人、馬鹿なことしてるよ」

僕は目を閉じた。

「やっぱり」

彼女は笑った。

「違うの、聞いて」

僕は彼女を見た。

彼女は画面を指さした。

「彩はもう、何かがおかしいって気づいてるでしょう?」

「うん」

「でも森は、彩がもう理解してることを、ずっと説明してる」

僕は考えた。

「傲慢な性格だから」

「知ってる」

「でも?」

「彩に言い返させたほうがいいよ」

僕は微笑んだ。

「言い返してるよ」

「足りない」

僕は彼女を見つめた。

葵は可愛らしく微笑んだ。

「もっと頭のいい女性にしてあげて」

僕はため息をついた。

「葵、だんだん危険になってきたね」

彼女は笑った。

「よかった」


◇ ◇ ◇


やがて、話題は原稿から離れていった。

葵は僕の部屋を見渡した。

本。

写真。

青いスクラップブック。

ここで僕が築いてきた人生の、小さな証の数々。

そして、少し考え込むような表情になった。

「春人?」

「うん?」

「一つ聞いてもいい?」

僕は微笑んだ。

「もう僕の探偵を批判したんだから、これ以上悪くなることはないと思うけど」

彼女は小さく笑った。

そして真剣になった。

「私のこと、本当は必要ないんじゃないかって思うこと、ある?」

僕は動きを止めた。

一瞬、聞き間違えたのかと思った。

「え?」

彼女は自分の手へ目を落とした。

「変なこと言ってるのは分かってる」

僕は待った。

彼女は続けた。

「春人には由紀さんと大地さんがいる」

「夏美さんも」

「看護師さんたちも」

「友達も」

「小説も」

彼女はかすかに微笑んだ。

「それに、どんどん自信を持てるようになってる」

僕は彼女を見た。

「葵……」

彼女は首を振った。

「最後まで聞いて」

僕は待った。

「いつかもっと近くで暮らせるようになったとき、私は春人の人生の中で、どんな存在になるんだろうって考えることがあるの」

その声が小さくなった。

「春人を手伝う人としてじゃなくて」

「励ます人としてでもなくて」

「ただ……」

彼女はためらった。

「私自身として」


◇ ◇ ◇


しばらく、僕は答えなかった。

自分の気持ちが分からなかったからではない。

正しい言葉を見つけたかったからだ。

葵は、僕があまり見たことのない表情でこちらを見つめていた。

自信に満ちた看護師の顔ではなかった。

僕がひどい冗談を言うたびにからかってくる、明るい恋人の顔でもなかった。

ただ、誰かを愛することだけでは、その人の未来に自分の居場所があるとは限らないのではないかと、不安になっている一人の女性だった。

そして僕は気づいた。

僕はずっと、自分が葵にふさわしい人生を与えられるだろうかと心配していた。

そのせいで、彼女にも彼女なりの不安があることを、いつも十分に見られていたわけではなかった。

「葵」

彼女が顔を上げた。

「一つ、言ってもいい?」

彼女はうなずいた。

「僕は、葵に僕の看護師になってほしいわけじゃないんだ」

彼女の目が少し大きくなった。

僕は続けた。

「もちろん、葵が看護師なのは知ってる」

「その仕事を誇りに思ってることも」

「でも、僕が葵を好きになった理由は、そこじゃない」

彼女は唾を飲み込んだ。

僕は彼女を見つめた。

「僕には、すでに医療ケアをしてくれる人たちがいる」

「専門的な訓練を受けて、その仕事をしてくれる人たちが」

「そして、僕にはそのケアが必要なんだ」

少し間を置いた。

「一緒に暮らすようになったからって、それが変わるわけじゃない」

葵はゆっくりとうなずいた。

「でも、僕の人生における葵の居場所が、そういうことをしてくれるかどうかで決まるなんて思ってほしくない」


◇ ◇ ◇


彼女は視線を落とした。

「じゃあ、私の居場所はどこ?」

僕は優しく微笑んだ。

「僕の隣だよ」

彼女の視線が僕に戻った。

「僕の後ろじゃない」

「僕のために働く場所でもない」

「僕の人生を楽にするために、自分のすべてを犠牲にする場所でもない」

僕は少し間を置いた。

「僕の隣」

彼女の唇がわずかに開いた。

僕は続けた。

「葵の一日がどんな日だったのか聞きたい」

「映画について言い合いをしたい」

「怒ってるときには笑わせたい」

「急に静かになったら、何を考えてるのか知りたい」

「それに、僕が馬鹿なことをしたら、ちゃんと言ってほしい」

彼女は弱々しく笑った。

「それ、かなり頻繁にありそうだね」

「残念ながらね」

彼女の目に涙が浮かんだ。

僕は微笑んだ。

「僕は、世話をしてくれる人が必要だから葵を愛してるんじゃない」

少し間を置いた。

「葵が葵だから、愛してるんだ」


◇ ◇ ◇


数秒間、彼女は何も言わなかった。

それから目元を拭った。

「ずるいよ」

僕は瞬きをした。

「何が?」

「そんなこと、急に言わないでよ」

僕は微笑んだ。

「作家だからね」

「言い訳にならない!」

「唯一、人に売り込める特技なんだけど」

彼女は涙を浮かべたまま笑った。

そして少し近づいた。

「春人?」

「うん?」

「抱きしめてもいい?」

僕は微笑んだ。

「いつでも」

彼女は僕の体に気を配りながら、そっと腕を回した。

そして、わずかに震えているのを感じた。

怖いからではなかった。

少なくとも、それだけではなかった。

ずっと一人で抱えていた気持ちを、ようやく手放せたからなのだと思った。

僕は、自分の腕を持ち上げて、思い描いているように彼女を抱きしめられたらいいのにと思った。

でも、それはできなかった。

僕の体には、愛情だけでは消えない制限がある。

それでも、彼女のほうへ顔を向けることはできた。

自分の気持ちを言葉にすることもできた。

そして、この抱擁がどれほど大切なのか、伝えることはできた。

だから、僕はそうした。

「愛してるよ」

彼女は僕をもう少し強く抱きしめた。

「私も愛してる」


◇ ◇ ◇


しばらくして、彼女は体を離した。

頬が赤くなっていた。

「もう一つ聞いてもいい?」

僕は微笑んだ。

「どうやら尋問みたいだね」

彼女は笑った。

「そうかも」

「弁護士を呼んだほうがいい?」

「春人」

「分かったよ」

彼女はためらった。

そして僕を見た。

「私たちのこと、不安になることある?」

僕は考えた。

「ときどきね」

彼女はうなずいた。

「私も」

僕はかすかに微笑んだ。

「どんなことが?」

彼女は恥ずかしそうにした。

「ときどき、全部」

僕は待った。

「一緒に暮らすこと」

「プライバシーのこと」

「大変な日をどう乗り越えるか」

「二人だけの時間を、どれくらい持てるのか」

彼女は入口をちらりと見た。

「それに、誰かが入ってくるんじゃないかって心配せずに、春人にキスできるのかなってことも」

僕は小さく笑った。

「最後のは、かなり現実的な問題だね」

彼女は微笑んだ。

「叔父さん、怖いもん」

「社交面だけだけどね」


◇ ◇ ◇


それから僕は真剣になった。

「僕も、そういうことが不安になるよ」

葵が僕を見た。

「本当に?」

「もちろん」

少し間を置いた。

「自分にどんなケアが必要かは分かってる」

「それに、専門の看護師さんたちがいるってことは、家がいつも完全にプライベートな場所になるわけじゃないってことも」

彼女はうなずいた。

「でも、だからといって、僕たちだけの時間が持てないのは嫌なんだ」

彼女の表情が柔らかくなった。

「私も」

僕は彼女を見た。

「きっと、そういう時間を作る方法を二人で学んでいく必要があるんだと思う」

「一緒に?」

「一緒に」

彼女は微笑んだ。

「それに、お互いに何が心地よくて、何が嫌なのか、正直に話さないとね」

僕はうなずいた。

「うん」

「恥ずかしくても?」

「特に、そういうときこそ」

彼女は小さく笑った。


◇ ◇ ◇


それからしばらく、僕たちは愛情表現について話した。

恋愛を描く物語でよくあるような、大げさな話ではなかった。

もっと正直な話だった。

触れられることが、どれほど大きな意味を持つのか。

僕の姿勢を変える前には、きちんと確認してほしいこと。

医療機器の周りでは気をつける必要があること。

僕を手伝うことと、僕が手伝ってほしいと思っていると勝手に決めつけることは違うということ。

葵が僕の医療ケアに責任を感じることなく、恋人として愛情を示せること。

そして、僕自身も体の違いを恥ずかしく思わずに、何を望んでいるのか伝えられること。

簡単な会話ばかりではなかった。

ときどき笑った。

ときどき言葉を止めた。

ときには、どちらかが答えを知らないと認める必要もあった。

でも、話し終えたころには、朝よりもずっと彼女を近くに感じていた。

なぜなら、僕は少しずつ理解し始めていたからだ。

親密さとは、ただ物理的に近くにいることではない。

誰かに本当の気持ちを話せることなのだ。

たとえ、その本音を打ち明けることで、自分の弱さを見せることになったとしても。


◇ ◇ ◇


土曜日の夕方は、あっという間にやってきた。

僕たちは一緒に映画を見る予定だった。

二人だけで。

由紀叔母さんと大地叔父さんは外食に出かけることになっていた。

夏美さんは夜勤を担当する看護師さんと引き継ぎを調整してくれていた。

その看護師さんは、必要なときに対応できるよう待機しながら、安全に配慮できる範囲で僕たちのプライバシーを尊重してくれることになっていた。

準備はすべて整っていた。

驚くようなことは何もない。

大げさな飾りつけもない。

ロマンチックな横断幕もない。

少なくとも、僕はそう思っていた。

七時になると、大地叔父さんが小さな箱を持って現れた。

僕は彼を見つめた。

「駄目」

叔父さんは瞬きをした。

「何が?」

「何であっても駄目」

彼は傷ついたような顔をした。

「プレゼントだぞ!」

「誰への?」

「お前たち二人にだ」

僕はため息をついた。

「大地叔父さん」

彼は箱を開けた。

中には、おそろいのマグカップが二つ入っていた。

一つには――

未来の高橋氏

もう一つには――

未来の高橋夫人

僕は見つめた。

葵も見つめた。

そして彼女は笑い始めた。

大地叔父さんは誇らしげに微笑んだ。

「どうだ? ロマンチックだろう!」

僕は彼を見た。

「大地叔父さん」

「何だ?」

「僕はもう高橋氏なんだけど」

叔父さんは動きを止めた。

そしてマグカップを見た。

「あっ」

由紀叔母さんが背後に現れた。

「大地」

叔父さんはゆっくりと箱を閉じた。

「どうやら、ブランド戦略の見直しが必要らしいな」


◇ ◇ ◇


二人が出かけたあと、僕と葵はテレビの前でくつろいだ。

夜勤の看護師さんは機器や僕の姿勢が安全に整っていることを確認し、必要があれば対応できるよう近くに待機してくれていた。

葵は、手を伸ばせば僕の手に触れられる距離に座った。

僕たちは恋愛コメディーを選んだ。

主に葵が強く希望したからだ。

僕は反対した。

主に、皮肉屋の彼氏としての義務を果たすためだ。

ところが二十分後には、僕のほうが彼女以上に登場人物の恋愛に夢中になっていた。

「彼はとんでもない間違いを犯そうとしてる!」

僕は言った。

葵は笑った。

「春人、映画だよ?」

「だからって馬鹿な行動が許されるわけじゃない」

「真剣すぎない?」

「誰かが真面目に考えないと」

彼女はそっと僕に頭を寄せた。

僕は黙った。

しばらく、ただ映画を見ていた。

彼女の手は僕の手のそばにあった。

温もりを感じるほど近くにいた。

部屋にはテレビの音だけが響いていた。

そして僕は気づいた。

これが――

こんな普通の夜が――

ずっと欲しかったものなのだと。


◇ ◇ ◇


映画の途中で、葵が口を開いた。

「春人?」

「うん?」

「ちょっと恥ずかしいこと、言ってもいい?」

僕は微笑んだ。

「ぜひ」

彼女は笑った。

「そこは、笑わないよって言うところでしょ」

「笑わないよ」

「もう遅い」

「ごめん」

彼女はテレビを見た。

それから僕を見た。

「ときどきね、一緒に暮らしてるところを想像するの」

僕は微笑んだ。

「前にも話したね」

「うん」

「でも、本当に具体的に想像するの」

僕は待った。

「朝起きたら、春人がそこにいるとか」

「仕事から帰ってきて」

「バッグを置いて」

「春人が何か書いてるところを見つけて」

「それで、春人が時間を忘れてたって文句を言うの」

僕は笑った。

「現実味があるね」

彼女は微笑んだ。

「それから、一緒に夕食を食べて」

「何か見て」

「話をして」

「あるいは、ただ一緒に座ってるだけ」

その表情が柔らかくなった。

「たぶん、想像しすぎなくらい考えてる」

僕は彼女を見た。

「どうして考えちゃいけないの?」

彼女はためらった。

「先走りたくないから」

僕は微笑んだ。

「夢を見ることと、急ぐことは違うよ」

彼女は僕を見た。

僕は続けた。

「まだ手に入ってないものを、もう自分たちのものになったふりをしなくても、想像することはできるから」


◇ ◇ ◇


葵はゆっくりとうなずいた。

「そうだね」

僕は微笑んだ。

「それに、僕も想像してるよ」

彼女は瞬きをした。

「本当に?」

「もちろん」

「どんなこと?」

僕は考えた。

「本」

彼女は笑った。

「やっぱり」

「たくさんの本」

「春人」

「机」

「うん」

「庭」

彼女は微笑んだ。

「それから?」

僕は彼女を見た。

「葵」

その表情が柔らかくなった。

「私?」

「仕事から帰ってくる葵」

「愚痴を言う葵」

「僕の毛布を奪う葵」

彼女は笑った。

「そんなことしないよ!」

「絶対するね」

「どうして分かるの?」

「作家の直感だよ」

彼女は首を振った。

それから少し近づいた。

「ほかには?」

僕は微笑んだ。

「間に画面を挟まずに、おやすみって言えること」

彼女の目に涙が浮かんだ。

「ああ、春人……」


◇ ◇ ◇


日曜日は、僕たちのどちらも認めたくないような、静かな寂しさとともにやってきた。

一緒に朝食を食べた。

庭で少し過ごした。

由紀叔母さんと話した。

大地叔父さんの言動に笑った。

そして、できるだけ時計を見ないようにした。

残念ながら、時計というものは、驚くほどしつこい存在だった。

夕方が近づくころには、葵の旅行バッグは荷造りを終えていた。

彼女の電車は、その日の夜に出発する。

仕事に戻らなければならない。

そして僕は、また彼女を恋しく思う日常へ戻らなければならなかった。

最後の一時間、僕たちは僕の部屋で過ごした。

夕日が少しずつ薄れていった。

葵は僕の車椅子の隣に座っていた。

彼女の手が、僕の手に優しく触れていた。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

やがて彼女がため息をついた。

「帰りたくないな」

胸が締めつけられた。

「分かるよ」

彼女は僕を見た。

「もっと一緒にいたい」

僕は寂しそうに微笑んだ。

「僕も」


◇ ◇ ◇


一瞬、僕は言いかけた。

もう一日いて。

仕事に連絡して。

切符を変更して。

何か理由を作って。

何でもいいから。

でも、それは公平ではないと分かっていた。

彼女には責任がある。

患者さんたちがいる。

築こうとしているキャリアがある。

そして僕たちは、離れているつらさに押されて、まだ準備のできていない決断をしないと約束したばかりだった。

だから、代わりに本当の気持ちを伝えた。

「葵が帰るの、嫌だよ」

彼女は僕を見た。

僕は続けた。

「でも、来てくれて嬉しかった」

彼女の目に涙が浮かんだ。

「私も」

「それに、最後の一時間を、寂しくないふりをして過ごしたくないんだ」

彼女は弱々しく微笑んだ。

「じゃあ、どうする?」

僕は考えた。

「一緒に寂しがる?」

彼女は小さく笑った。

「ひどい提案だね」

「たぶんね」

僕は微笑んだ。

「でも、少なくとも一緒にいられるよ」


◇ ◇ ◇


葵が少し近づいた。

「一つ言ってもいい?」

「いつでも」

彼女は僕を見つめた。

「この週末で、気づいたことがあるの」

僕は待った。

「私、春人に会いに来るだけじゃ嫌なんだ」

胸が締めつけられた。

彼女は続けた。

「春人と一緒に人生を築きたい」

僕は彼女を見つめた。

想像したことがなかったからではない。

以前に話し合っていなかったからでもない。

ただ、彼女がこんなにもはっきりと言葉にしたことで、未来が急に近づいたように感じられたからだ。

葵は唾を飲み込んだ。

「まだ一緒に暮らす準備ができてないのは分かってる」

「考えなきゃいけないことが、たくさんあるのも分かってる」

「春人のケアのこと」

「私の仕事」

「家のこと」

「全部」

彼女は涙を浮かべながら微笑んだ。

「でも、ちゃんと考えていきたい」

「春人と一緒に」


◇ ◇ ◇


しばらく、僕は言葉を失った。

それから微笑んだ。

「葵」

彼女は僕を見た。

「僕も、そうしたい」

彼女の唇が震えた。

僕は続けた。

「いつ自分たちの家を持てるのか、分からない」

「どの家なら暮らせるのかも、まだ分からない」

「僕の執筆がどうなるのかも」

「葵の仕事がどうなるのかも」

少し間を置いた。

「でも、僕の未来には葵がいてほしい。それだけは分かる」

彼女は泣き始めた。

僕は優しく微笑んだ。

「全部が簡単にいくからじゃない」

「いつも何をすればいいか分かるからでもない」

「それでも、これからも葵を選び続けたいから」

彼女は口元を押さえた。

「春人……」


◇ ◇ ◇


僕は彼女を見つめた。

「今日、婚約するわけじゃないよ」

彼女は涙を浮かべたまま笑った。

「当たり前でしょ」

「特に、叔父さんの商品開発部門が関わってる状態ではね」

それを聞いて、彼女はさらに笑った。

僕は微笑んだ。

「でも、僕がどれだけ真剣に考えてるかは知ってほしい」

彼女の表情が柔らかくなった。

「分かってる」

「それを伝えるために、指輪が必要なわけじゃない」

彼女はうなずいた。

「私も、信じるために指輪なんて必要ないよ」

しばらく、僕たちはただ見つめ合っていた。

それから葵が身をかがめた。

そして、僕にキスをした。

ゆっくりと。

優しく。

まるで、その瞬間をできるだけ長く抱きしめていたいかのように。

彼女が顔を離すと、額を僕の額に寄せた。

「私も、春人を選び続けるよ」

彼女はささやいた。


◇ ◇ ◇


やがて、出発の時間になった。

由紀叔母さんが葵の荷物をまとめるのを手伝った。

大地叔父さんはバッグを持つと申し出た。

それから、存在しない三つのバッグまで運ぼうとした。

さらに、専属の警備員として駅まで同行しようと提案した。

由紀叔母さんが即座に却下した。

葵は笑った。

僕はため息をついた。

そして不思議なことに、寂しさが少しだけ和らいだ。

玄関で、葵は僕のほうを向いた。

「家に着いたら電話するね」

僕は微笑んだ。

「うん」

「明日も」

「いいね」

「たぶん、明後日も」

僕は眉を上げた。

「ずいぶん要求が多いね」

彼女は笑った。

そして身をかがめ、最後にもう一度キスをした。

「愛してる」

僕は微笑んだ。

「僕も愛してる」

彼女は外へ出た。

振り返った。

手を振った。

そして――

行ってしまった。


◇ ◇ ◇


そのあとの家は、どこか違って感じられた。

空っぽというわけではなかった。

由紀叔母さんはいた。

大地叔父さんは相変わらずどこかで騒いでいた。

看護師さんたちも、いつもどおりのケアを続けてくれていた。

世界が止まったわけではない。

でも、僕の隣の空間は、明らかに静かになっていた。

僕は部屋へ戻った。

葵が座っていた椅子を見た。

それから青いスクラップブックを見た。

しばらく、何もしなかった。

ただ思い出していた。

彼女の笑い声。

僕の手に触れる彼女の手。

キスの温もり。

庭での会話。

一緒に人生を築きたいと言ってくれたこと。

そして、二人で交わした約束。


◇ ◇ ◇


その夜、葵が家に着いてから電話が鳴った。

僕は応答した。

彼女の顔が現れた。

疲れていて。

少し寂しそうで。

でも、微笑んでいた。

「こんばんは」

僕は微笑んだ。

「こんばんは」

彼女は自分の部屋を見渡した。

「また帰ってきちゃった」

僕はうなずいた。

「うん」

彼女はため息をついた。

「もう会いたいよ」

僕は寂しそうに微笑んだ。

「僕も」

しばらく、どちらも何も言わなかった。

それから彼女は小さく笑った。

「おかしいね」

「何が?」

「週末ずっと一緒にいたのに、もう隣に座れないことが悲しいなんて」

僕は微笑んだ。

「重症だね」

「かなりね」

「お医者さんを呼ぶ?」

彼女は笑った。

「春人」

僕は彼女を見た。

それから微笑んだ。

「原因は分かる気がする」

「へえ?」

「僕に恋してるんだよ」

彼女は目を回した。

「残念ながらね」

「大変な病気だ」

「どうやら治療法もないみたい」

僕は笑った。


◇ ◇ ◇


やがて、葵は枕にもたれた。

「春人?」

「うん?」

「この週末、ありがとう」

僕は微笑んだ。

「来てくれてありがとう」

彼女は僕を見た。

「それから、昨日言ってくれたこともありがとう」

何のことか、すぐに分かった。

「お礼なんていらないよ」

「分かってる」

彼女は微笑んだ。

「でも、言いたいの」

僕は彼女を見つめた。

彼女は続けた。

「私が春人の隣にいてほしい存在なんだって、聞く必要があったんだと思う」

僕の笑顔が柔らかくなった。

「いつだってそうだよ」

彼女はうなずいた。

「私も、春人に隣にいてほしい」

しばらく、どちらも何も言わなかった。

それから葵が微笑んだ。

「それで」

「それで?」

「次はいつ会える?」

僕は笑った。

「もう計画してるの?」

「当然でしょ」

僕は彼女を見た。

そして微笑んだ。

「いいね」


◇ ◇ ◇


通話が終わったあと、僕は青いスクラップブックを開いた。

夏美さんに手伝ってもらい、次の白紙のページをめくった。

何を貼りたいかは、もう決まっていた。

庭で撮った写真。

車椅子の隣に座る葵。

二人とも微笑んでいる。

大げさなものではなかった。

特別な出来事でもなかった。

ただ、静かな朝を一緒に楽しんでいる二人の写真だった。

僕は長い間、その写真を見つめた。

それからパソコンを開いた。

そして書き始めた。

この週末、僕は愛というものが、いつも大げさな行動によって示されるわけではないのだと知った。

ときには、旅行バッグを持ってやってくる。

ときには、朝食の席で隣に座ってくれる。

ときには、ひどい冗談に笑ってくれる。

ときには、答えるのが怖い質問をしてくれる。

そして、ときには日曜日の夕方に帰っていき、一人の人間がどれほど自分の日常の一部になっていたのかを思い知らせてくれる。

僕は少し間を置いた。

それから続けた。

葵と僕が、いつ自分たちの家を持てるのかは分からない。

あと何回、電車での移動やビデオ通話、つらい別れが待っているのかも分からない。

でも、以前は十分に理解できていなかったことが、今なら分かる。

僕は、世話をしてくれる人が必要だから、葵に隣にいてほしいのではない。

人生を分かち合うことで、僕の日々がもっと豊かになるから、隣にいてほしいのだ。


◇ ◇ ◇


窓の外では、夕空がゆっくりと暗くなっていた。

別の街では、葵が明日の仕事の準備をしているころだろう。

明日、彼女は仕事へ戻る。

僕は執筆へ戻る。

僕たちの人生は続いていく。

ある部分では別々に。

別の部分では、つながりながら。

まだ答えを出さなければならない現実的な問題があった。

専門的な看護体制。

住宅のアクセシビリティー評価。

仕事についての決断。

予定の調整。

お金のこと。

未来を築こうとする二人に付きまとう、ありふれた複雑な問題の数々。

でも、僕はもう、それらを二人の関係が深まらない理由だとは思っていなかった。

ただ、理解しなければならないことなのだ。

計画しなければならないこと。

そして、一緒に向き合わなければならないこと。

なぜなら、葵を愛するということは、距離がつらくないふりをすることではなかったから。

その距離が、僕たちの物語の終わりである必要はないと信じることだった。


◇ ◇ ◇


眠る前に、最後のメッセージが届いた。

『おやすみ、春人。』

そして、もう一通。

『おやすみのキスができたらいいのに。』

僕は微笑んだ。

そして返信した。

『僕もそう思う。』

少しして、彼女から届いた。

『いつかね。』

僕はその短い言葉を見つめた。

いつか。

たった三文字の言葉。

それなのに、その中にはあまりにも多くのものが詰まっていた。

家。

朝。

一緒に食べる朝食。

二人の本を置く場所。

僕の医療機器を置く場所。

看護を担当してくれる人たちが、安全に仕事をできる場所。

葵が大変な勤務を終えて帰ってきたとき、ただ葵自身でいられる場所。

そして、週末が終わったという理由だけで、さよならを言わなくてもいい場所。

僕は微笑んだ。

そして返事を打った。

『いつかね。それまでも、僕は葵を選び続けるよ。』

彼女からの返信は、ほとんどすぐに届いた。

『私も、ずっと春人を選び続ける。』


◇ ◇ ◇


僕は最後にもう一度、スクラップブックの写真を見た。

葵の笑顔。

庭に降り注ぐ日差し。

たった一枚の写真に収められた、ありふれた幸せ。

何年もの間、僕は最も大切な夢というのは、すべてを変えるような夢なのだと思っていた。

作家になること。

小説を出版すること。

世界の中に、自分の居場所を見つけること。

自分の人生が、他人の想像する制限よりもずっと大きなものになり得ると証明すること。

それらの夢は、今でも大切だった。

でも今、僕は少しずつ理解し始めていた。

最も大切な夢の中には、もっと静かなものもあるのだと。

仕事から帰ってくる一人の女性。

別の部屋から聞こえる、聞き慣れた笑い声。

僕の手に優しく触れる手。

眠る前のキス。

次の別れまであと何時間あるのか、数えなくてもいい朝。

そして、もしかすると、それこそが愛が僕に教えようとしていることなのかもしれない。

永遠というものは、一度に約束しなければならないものではない。

僕たちは、それを少しずつ思い描くことを学んでいるのだ。

一度の訪問。

一つの会話。

一度のつらい別れ。

一つの正直な約束。

そして、ありふれていて、それでいて美しい一日を、少しずつ重ねながら。

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