第92話 僕の声が世界に届いた日と、違う空の下で交わした約束
僕にとって初めての文学座談会が開かれる日の朝は、警備上の緊急事態から始まった。
少なくとも、叔父さんによれば。
ほかの家族に言わせれば、ただ朝食の時間が始まっただけだった。
「許可のない者は、この部屋に一歩たりとも入れてはならん!」
僕は部屋の入口を見つめた。
大地叔父さんが、サングラスに黒いジャケットという格好で立っていた。
その表情は、異常なほど真剣だった。
片手にはクリップボード。
もう片方にはトランシーバー。
聞きたいことは山ほどあった。
しかし、その答えを聞けば事態がさらに悪化するような気がした。
「大地叔父さん」
「はい、何でしょう?」
「どうしてそんな格好をしてるの?」
叔父さんはサングラスの位置を直した。
「警備だ」
僕は彼を見た。
「警備?」
「そのとおり」
「何の?」
叔父さんは声を低くした。
「お前の文学イベントだ」
僕は彼を見つめた。
それから机の上のパソコンを見た。
そして、もう一度叔父さんを見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「オンラインの座談会だよ」
「だからこそだ」
僕は待った。
叔父さんも待った。
どうやら、僕たちはお互いの考えをまったく理解できていなかった。
結局、僕は当然の疑問を口にした。
「誰から僕を守るつもりなの? インターネット?」
大地叔父さんは厳かにうなずいた。
「用心するに越したことはない」
僕は目を閉じた。
今日は、とても長い一日になりそうだった。
◇ ◇ ◇
文学座談会は、その日の午後二時から予定されていた。
新人作家の発掘や支援に関心を持つ文学団体が主催する、比較的小規模なイベントだった。
参加する作家は三人。
司会者が一人。
そしてオンラインで視聴する観客たち。
特別に豪華なイベントというわけではなかった。
テレビカメラもない。
巨大な講堂もない。
サインを求めて外に並ぶ大勢の人々もいない。
ただ、小説を書くことについて話し合うだけだった。
それなのに、どうしてなのか自分でもうまく説明できないほど、僕は緊張していた。
僕は何年もの間、自分の部屋で物語を書いてきた。
探偵の物語。
家族の物語。
恋に落ちる人々の物語。
失敗する人々の物語。
世界が思っていたより優しいこともあれば、残酷なこともあると知る人々の物語。
執筆は、ずっと自分だけの空間でできることだった。
文章を書き直せる。
段落を削除できる。
登場人物の名前を変更できる。
気に入らなければ、一章まるごと書き直すことだってできる。
でも、自分の物語について人前で話すとなると?
それは違った。
一度パソコンから言葉が発せられたら、バックスペースキーを押して、何もなかったことにはできない。
そして、どうやら叔父さんは、そのためにボディーガードが必要だと思っているらしかった。
◇ ◇ ◇
「よし。まずは警備区域を設定する必要がある」
大地叔父さんが宣言した。
由紀叔母さんが僕の朝食を持って部屋に入ってきた。
彼女は立ち止まった。
叔父さんを見た。
そしてため息をついた。
「大地」
叔父さんが振り向いた。
「はい、何でしょう?」
「そのサングラスを外しなさい」
「無理だ」
「どうして?」
「職務上の理由だ」
「ここは自分の家でしょう」
「脅威はどこからでもやってくる」
由紀叔母さんは彼を見つめた。
「台所からも?」
「特に台所からだ」
僕は叔母さんを見た。
「一理あるよ。叔父さんの料理は危険だから」
夏美さんが車椅子のそばで笑った。
大地叔父さんは僕を指さした。
「そういう意味じゃない!」
「だったら、もっと具体的に説明しないと」
由紀叔母さんは朝食を置いた。
「大地、本当に手伝いたいなら、会議中に余計な邪魔が入らないようにして。それだけでいいの」
叔父さんは考えた。
そしてうなずいた。
「了解した」
ほんの一瞬、僕は問題が解決したと思った。
ところが、叔父さんはトランシーバーを持ち上げた。
「文学要塞作戦、正式に開始する!」
僕はうめいた。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、夏美さんがいつものケアと機器の確認を行ってくれた。
人工呼吸器の状態を確認し、予備の対応手段が使えることを確かめ、コミュニケーション機器を無理なく操作できる位置に整えてくれた。
ソフトウェアは、すでに接続テストで確認してあった。
音声の出力先の問題も修正済みだった。
カメラも動く。
マイクの設定も保存されている。
事前に準備した回答は、すぐに見つけられるよう、それぞれ別の文書に整理してあった。
そして司会者も、僕が返答を準備するために少し長めの時間が必要なことを理解してくれていた。
できる限りの準備は整っていた。
もちろん、それでも僕の不安が消えることはなかった。
「ソフトが途中で止まったらどうしよう?」
夏美さんは僕を見た。
「予備の文字チャットが使えるわ」
「インターネットが切れたら?」
「再接続すればいいし、主催者には技術担当者の連絡先もあるわ」
「何を話すつもりだったか忘れたら?」
「メモがあるでしょう?」
「変なことを言ったら?」
彼女は微笑んだ。
「そのときは、人前で話したことのあるすべての人と同じ経験をするだけよ」
僕は少し考えた。
「安心するね」
「でしょう?」
入口から大地叔父さんがトランシーバーを持ち上げた。
「警備班より報告。不審な動きは確認されていない」
僕は彼を見つめた。
「叔父さん以外はね」
「それは極めて非礼な発言です、先生」
◇ ◇ ◇
午前十一時三十分、葵から電話がかかってきた。
画面に現れた彼女は髪を後ろでまとめ、膝の上にノートを置いていた。
僕はすぐに微笑んだ。
「おはよう」
「おはよう、未来の文豪さん」
僕はうめいた。
「葵まで?」
彼女は笑った。
「何が?」
「叔父さんが勝手に警備責任者になったんだ」
葵は瞬きをした。
「警備?」
「オンラインの文学座談会のために」
少し沈黙があった。
それから彼女は笑い始めた。
控えめな笑いではなかった。
小さな笑い声でもなかった。
カメラから身を引くほど、どうしようもなく笑っていた。
僕は彼女を見つめた。
「僕の苦しみを楽しんでくれて何よりだよ」
「ごめん!」
絶対に謝っていなかった。
少しも。
「イヤホン型の無線機とかもつけてるの?」
「もっとひどい。トランシーバーだよ」
それで彼女は完全に笑い崩れた。
口元を押さえた。
「ああ、春人……」
「どうやらインターネットは危険地帯らしい」
彼女はまた笑った。
やがて落ち着くと、微笑んだ。
「まあ、少なくとも文学デビューを真剣に考えてくれてる人がいるってことだね」
「残念ながらね」
◇ ◇ ◇
笑いが収まると、僕は彼女のノートに気づいた。
「勉強してるの?」
葵は下を見た。
「うん」
「面接の準備?」
彼女はうなずいた。
「今朝、正式な連絡が来たの」
僕は思わず身を乗り出したくなった。
「本当に?」
「明日の午後だって」
その瞬間、僕は自分の文学座談会のことをすっかり忘れてしまった。
「葵、すごいじゃないか!」
彼女は緊張したように微笑んだ。
「怖いよ」
「それでもすごいよ」
「ほとんど怖さしかないけど」
僕は笑った。
彼女はノートを見た。
「あとで理沙さんが面接の練習に付き合ってくれるの」
「よかったね」
「もう練習問題を送ってくれたんだ」
「何問?」
葵はためらった。
「二十七問」
僕は彼女を見つめた。
「二十七問?」
「徹底的に準備するのが大切らしいよ」
「慈悲という言葉は知ってるのかな?」
「たぶん、あまり」
僕は微笑んだ。
「いい指導者だね」
葵はため息をついた。
「残念ながら、そうなの」
◇ ◇ ◇
僕たちはしばらく面接について話した。
その仕事は、患者が病院から安全に在宅ケアへ移行できるよう支援するものだった。
退院計画を理解すること。
家族と意思疎通すること。
経験豊富な医療従事者と連携すること。
自宅の環境が適していない場合に、それを見極めること。
そして、すべてを一人で解決しようとせず、必要なときには適切な担当者に相談し、問題を報告すること。
葵が緊張しているのは、その仕事が彼女にとって大切だからだった。
僕にはそれが分かった。
おそらく、彼女が思っている以上に。
「僕がどう思ってるか分かる?」
僕は尋ねた。
彼女は微笑んだ。
「私が心配しすぎだって?」
「まあ、それもあるけど」
「春人」
「でも、言おうとしてたのは別のこと」
彼女は待った。
「葵が怖がっているのは、この仕事がどれだけ大切か分かっているからだと思う」
彼女の表情が柔らかくなった。
「そうかもしれない」
「それは必ずしも悪いことじゃないよ」
僕は少し間を置いた。
「怖いから自分にはできないって、思い込まなければね」
葵はしばらく僕を見つめた。
それから微笑んだ。
「春人、助言するのが上手になったね」
「長年の経験があるから」
「看護の?」
「頑固でいることの」
彼女は笑った。
「それなら納得」
◇ ◇ ◇
通話を終える前に、葵はカメラに顔を近づけた。
「春人?」
「何?」
「今日、見るからね」
僕は微笑んだ。
「無理しなくていいよ」
「分かってる」
「明日の面接に備えて休んだほうがいいんじゃない?」
「ちゃんと休むよ」
「葵――」
「春人」
僕は黙った。
彼女は微笑んだ。
「見たいの」
胸の奥が温かくなった。
「分かった」
「それに、ものすごく誇らしく思う予定だから」
僕は小さく笑った。
「まだ僕が何を話すかも聞いてないのに?」
「関係ないよ」
「文学批評としては、ひどい基準だね」
「よかったね。私は編集者じゃなくて、春人の彼女だから」
僕は微笑んだ。
「本当によかった」
◇ ◇ ◇
午後一時四十五分、僕はオンライン会議に参加した。
司会者が温かく迎えてくれた。
ほかの二人の作家も、すでに参加していた。
一人は現代の家族を描く小説を書いている女性。
もう一人は、孤独や都会での暮らしを題材に短編小説を書いている若い男性だった。
僕たちは自己紹介を交わした。
正確には、彼らが自己紹介し、僕がコミュニケーションソフトを使って自己紹介した。
返答を準備する間、少し時間が空いた。
でも、誰も遮らなかった。
誰もいら立った様子を見せなかった。
誰も大げさな反応をしなかった。
会話は自然に続いていった。
本当に小さなことだった。
それなのに、僕は少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。
僕のコミュニケーション方法が、謝らなければならない不便なものとして扱われなかった。
ただ、会話の一部として受け入れられていた。
◇ ◇ ◇
午後二時、イベントが始まった。
司会者が視聴者に挨拶し、参加者を一人ずつ紹介した。
僕の番になると、写真が画面に表示された。
あのシンプルな写真だった。
執筆机のそばにいる僕。
車椅子も写っている。
パソコンも写っている。
コミュニケーション機器も写っている。
劇的な照明はない。
偽物の本棚もない。
そして、ありがたいことに探偵帽もない。
司会者が微笑んだ。
「三人目のゲストは、高橋春人さんです。現在、車椅子を使用する探偵を主人公にした推理小説シリーズを執筆されている、新進の作家です」
胃のあたりがきゅっとなった。
「執筆中の『森探偵』では、犯罪の仕組みだけでなく、事件に関わる人々の複雑な人間関係も描かれています」
司会者は続けた。
「今日は物語作りや人物描写、そして作家として自分自身の声を見つけていく過程について、お話を伺います」
写真が消えた。
僕のカメラ映像が映し出された。
そして突然――
僕の番になった。
◇ ◇ ◇
「高橋さん、本日はよろしくお願いします」
僕は準備していた返答を再生した。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。参加できて嬉しいです。ただ、叔父が僕の部屋の外に警備部門を設立したらしいことだけは、先にお伝えしておきます」
短い沈黙があった。
それから司会者が笑った。
ほかの作家の一人も微笑んだ。
「それは必要なんですか?」
僕は次の返答を準備した。
「叔父によれば絶対に必要だそうです。ほかの全員は必要ないと思っています」
視聴者のチャット欄に、笑いの反応が次々と現れた。
僕は微笑んだ。
まあ。
少なくとも、開始早々に大失敗することはなかった。
それだけでも進歩だった。
◇ ◇ ◇
最初の質問は答えやすかった。
なぜ推理小説を書くのか。
森探偵は何から着想を得たのか。
なぜ主人公を車椅子使用者にしたのか。
僕は、推理小説が好きなのは読者も物語に参加できるからだと説明した。
優れた推理小説は、ただ何が起きたのかを教えるだけではない。
読者に気づくことを求める。
疑問を持つことを求める。
自分が理解していると思っていたことを、もう一度考え直すよう促す。
そして、ときには最も分かりやすい説明が正しいとは限らないことに気づかせてくれる。
森については――
「僕は、障害が人生の一部ではあっても、その存在意義のすべてではない探偵を書きたかったんです」
司会者がうなずいた。
僕は続けた。
「森は頭がよくて、皮肉屋で、頑固で、ときどき理不尽で、大切な人を守ろうとする気持ちがとても強い人物です」
少し間を置いた。
「そして、車椅子を使っています」
さらに間を置いた。
「車椅子そのものを彼の性格にしたくはありませんでした。ちゃんとした性格を持たせたかったんです。おかげで、書くのが非常に面倒な人物になりました」
司会者が笑った。
「では、彼は作者に逆らうんですね?」
「いつもです」
「勝つこともありますか?」
「僕が望むより、ずっと頻繁に」
◇ ◇ ◇
話し合いが進むにつれ、僕は自分がどれほど緊張していたかを忘れ始めた。
完全に忘れたわけではない。
心臓は、今が大事な時間なのだと何度も教えてくれた。
でも、楽しかった。
執筆の習慣について話した。
改稿について話した。
登場人物同士の関係について話した。
編集の過程で物語が変わっていくことの大切さについて話した。
僕は『森探偵』に、最近かなり深刻な時系列の矛盾が見つかったことも打ち明けた。
司会者が、どう対処したのか尋ねた。
「最初は原稿を見つめながら、どうして自分は作家になろうなんて考えたんだろうと、これまでの人生の選択をすべて疑いました」
ほかの作家たちが笑った。
「それから文学の師匠に相談して、そもそも間違った問題を解こうとしていたことに気づきました」
僕は、結論を導くための証拠と、その結論を裏づけるだけの証拠の違いについて説明した。
意外にも、その話題で議論が盛り上がった。
ほかの作家の一人は、登場人物をうっかり同じ日に二つの街へ登場させてしまったことがあると話した。
もう一人は、原稿の途中で主要人物の年齢を忘れてしまったと告白した。
話が終わるころには、僕はずいぶん気が楽になっていた。
どうやら、架空の人物は誰にとっても厄介な存在らしかった。
◇ ◇ ◇
そして、準備していた質問がやってきた。
司会者がメモへ目を向けた。
「高橋さん、作家としてのアイデンティティーについてお聞きしたいと思います」
僕は何が来るのか分かっていた。
胃がきゅっとなった。
「ご自身を、まず障害のある作家だと考えていますか。それとも、単に一人の作家だと考えていますか?」
僕は準備した文章を見た。
それから、モニターの横にある母さんの写真へ目を向けた。
そして話し始めた。
「僕は、その二つが対立するものだとは思っていません」
司会者は耳を傾けていた。
「僕には障害があります。そして僕は作家でもあります。どちらも事実です」
僕は続けた。
「障害は僕の経験や人間関係、そして世界との関わり方を形作ってきました。僕がどんな物語を書きたいと思うかにも、影響しています」
少し間を置いた。
「でも、それによって僕が想像していい物語の種類が決められるわけではありません」
チャット欄は静かだった。
僕は続けた。
「障害のある登場人物を書くのは、僕にとって表現されることが大切だからです。推理小説を書くのは謎解きが好きだから。恋愛小説を書くのは、誰もが愛される可能性を持っていてほしいと信じているからです」
もう一度、少し間を置いた。
「そして家族の物語を書くのは、家族が人生をどれほど深く形作るか知っているからです」
僕の視線は母さんの写真へ向かった。
「子どものころ、母はよく、家の青い玄関の扉の向こうには僕を待っている物語があると教えてくれました」
僕は唾を飲み込んだ。
「小説を書くことは、その物語を見つけ始めるための一つの方法になりました」
◇ ◇ ◇
数秒間、誰も何も言わなかった。
それから司会者が微笑んだ。
「ありがとうございます、高橋さん」
その声は、先ほどより少し柔らかく聞こえた。
「とても素敵なお答えでした」
顔が熱くなった。
チャット欄が動き始めた。
お礼を伝える人たち。
自分の執筆経験について話す人たち。
子どものころに出会いたかった登場人物について語る人たち。
僕は全部読もうとした。
でも、無理だった。
そんな中、一つのメッセージが目に留まった。
『私たちの人生には、一つだけではない物語があるのだと思い出させてくれて、ありがとうございます。』
僕はその文章を見つめた。
そして微笑んだ。
もしかすると、これこそが僕が小説を書きたかった理由なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
座談会は視聴者からの質問へと進んだ。
ほとんどは執筆に関するものだった。
推理小説についての質問もあった。
森がいつか恋をするのか知りたいという人もいた。
僕は微笑んだ。
「助手が彼に我慢できるほど長く付き合ってくれれば、可能性はあります」
司会者が笑った。
「では、希望はあるんですね?」
「たぶん。ただし、彩は危険手当を要求すると思います」
チャット欄に笑いの反応が広がった。
そのあと、別の質問が現れた。
今度は少し違っていた。
司会者は慎重に読み上げた。
「高橋さん、視聴者の方から、読者が作品そのものではなく、あなたに障害があるという理由だけで興味を持つのではないかと不安になることはありますか、という質問が届いています」
僕は動きを止めた。
その質問そのものは準備していなかった。
しばらく、どう答えればいいのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
司会者は僕のためらいに気づいた。
「どうぞ、ゆっくりお考えください」
僕は質問を見た。
それから原稿へ目を向けた。
整った答えを返すことは簡単だっただろう。
安心させるような答え。
感動的な答え。
聞こえはいいけれど、自分の本当の気持ちとは少し違う答え。
でも、僕は正直に答えることにした。
「はい」
その一言を、しばらくそのままにした。
「ときどき、不安になります」
チャットの動きが遅くなった。
「僕の人生が感動的だと思うからという理由だけで、作品を読んでほしいわけではありません」
少し間を置いた。
「登場人物を楽しんでほしいんです。謎を気にかけてほしい。森が馬鹿げたことを言ったら笑ってほしいし、彼が間違えたら、もどかしく思ってほしいんです」
僕は続けた。
「障害のある人間も、障害だけを題材にした物語以外で主人公になれるのだと、読者に知ってほしいと思っています」
もう一度、少し間を置いた。
「でも、僕に障害があることに意味を見いだしてくれる読者がいても、それは悪いことではないと思います」
僕はカメラへ目を向けた。
「ただ、物語そのものも大切にしてもらえたら嬉しいです」
◇ ◇ ◇
司会者は考え深そうにうなずいた。
「大切な違いですね」
僕はかすかに微笑んだ。
「少なくとも、僕はそう思っています」
彼女は笑った。
「多くの読者が、そのお話を聞けてよかったと思うでしょう」
次の質問は、今後も森探偵の物語を書く予定があるかというものだった。
それは答えやすかった。
「はい。編集作業を無事に生き延びられれば、ですが」
また笑いが起こった。
「僕自身も生き延びられれば、ですけどね」
◇ ◇ ◇
イベントは午後三時半を少し過ぎたころに終了した。
司会者が全員に感謝を伝えた。
ほかの作家たちも、励ましの言葉を交わした。
チャット欄には祝福のメッセージが並んだ。
そして――
会議が終了した。
画面がデスクトップに戻った。
静寂。
数秒間、僕はただ見つめていた。
終わった。
やり遂げたんだ。
初めての文学座談会。
初めて、自分の小説について公の場で話す機会。
そして、どうにか――
無事に乗り切った。
「どうだった?」
僕は入口へ目を向けた。
大地叔父さんが立っていた。
まだサングラスをかけていた。
まだトランシーバーを持っていた。
「警備班より報告。作戦は無事成功した」
僕は彼を見つめた。
それから微笑んだ。
「任務、ご苦労さま」
叔父さんは厳かにうなずいた。
「光栄であります」
その後ろから、由紀叔母さんがため息をついた。
「大地、その馬鹿げたサングラスを外しなさい」
◇ ◇ ◇
十分もたたないうちに、葵から電話がかかってきた。
僕は応答した。
彼女の顔が現れた。
そして、泣いていた。
僕は彼女を見つめた。
「ああ、もう」
彼女は涙を浮かべたまま笑った。
「何?」
「また?」
「春人!」
僕は微笑んだ。
「この調子だと、ティッシュ代を請求しないといけないね」
彼女はさらに笑った。
それから目元を拭った。
「本当に素晴らしかったよ」
僕は彼女を見た。
「本当に?」
「本当に」
彼女は微笑んだ。
「面白かったし、考えさせられたし、何より春人らしかった」
胸の奥が温かくなった。
「それならよかった」
「それに、お母さんの話をしたとき……」
彼女の声が震えた。
僕は待った。
「お母さんにも聞いてほしかったな」
僕の笑顔が少し柔らかくなった。
「僕も」
◇ ◇ ◇
葵は少し時間をかけて気持ちを落ち着かせた。
それから顔を近づけた。
「一つ言ってもいい?」
「もちろん」
「私は今日よりずっと前から、春人のことを誇りに思ってたよ」
僕は彼女を見た。
彼女は続けた。
「文学イベントに招待される前から」
「編集者が興味を持ってくれる前から」
「家族以外の誰も『森探偵』を知らなかったころから」
僕は唾を飲み込んだ。
彼女は微笑んだ。
「春人が自分の部屋で、誰かが自分の物語を読んでくれる日なんて来るのかなって考えていたころから、私は信じてた」
しばらく、気の利いた返事が何も浮かばなかった。
おそらく歴史的な出来事だった。
ようやく、僕は微笑んだ。
「謎めいた作家としての評判を保つのが難しくなるよ」
彼女は笑った。
「最初からそんな評判ないでしょ」
「厳しいね」
「正確なだけ」
◇ ◇ ◇
その夜、いくつものメッセージが届いた。
一つは森田幸子さんからだった。
座談会を祝福してくれたうえで、特に物語作りと障害についての話がよかったと書いてあった。
もう一つは健二からだった。
彼のメッセージは、かなり短かった。
『すごくよかったよ。それと、叔父さんは銀行を警備してる人みたいだった。』
僕は笑った。
そして、拓海からもメッセージが届いた。
『座談会を見ました。最初は僕まで緊張してたけど、途中からみんな笑ってましたね。障害の話をしても、それだけが会話のすべてにならなくていいんだって、初めて分かった気がします。ありがとうございました。』
僕は二度読んだ。
そして返信した。
『見てくれてありがとう。拓海自身の物語にも、誰かに聞いてもらう価値があることを忘れないでね。』
数分後、返事が来た。
『これからも書き続けます。』
僕は微笑んだ。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後は、葵の番だった。
面接は午後二時に予定されていた。
彼女は午前中、中村理沙さんと一緒にメモを見直していた。
送られてきたメッセージによれば、理沙さんは容赦がなかったらしい。
『在宅ケアの準備が整っていないのに、家族が患者さんを家に連れて帰りたいと言ったらどうするか、って聞かれたよ。』
僕は返信した。
『それで?』
『安全面の心配を説明して、退院支援チームと連携して、何がまだ必要なのか確認するって答えた。問題ないふりはしないって。』
僕は微笑んだ。
『いい答えだと思うよ。』
彼女の返事はすぐに来た。
『理沙さんも同じこと言ってた。』
それから、もう一通。
『あと、答える前に毎回謝るのはやめなさいって言われた。』
僕は笑った。
『素晴らしい助言だね。』
『春人まで理沙さんみたい。』
『褒め言葉として受け取っておくよ。』
◇ ◇ ◇
午後二時、葵は面接に入った。
僕はそこにはいなかった。
部屋を見ることもできなかった。
質問を聞くこともできなかった。
そして、今度ばかりは、その瞬間に励ますこともできなかった。
僕にできるのは、待つことだけだった。
ところが、それが驚くほど難しかった。
僕は『森探偵』の改稿を始めた。
三文書いた。
二文削除した。
残った一文を書き直した。
それからメッセージを確認した。
何もない。
原稿に戻った。
同じ段落を四回読んだ。
それからまた確認した。
やはり何もない。
夏美さんが気づいた。
「葵ちゃんからの連絡待ち?」
僕は彼女を見た。
「そんなに分かりやすい?」
彼女は微笑んだ。
「少しだけね」
僕はため息をついた。
「待つのって嫌いだ」
「たいていの人はそうよ」
「一時間先に進める方法を発明できないかな?」
「医学的にはお勧めできないわね」
「残念」
◇ ◇ ◇
葵から電話が来たのは、午後四時を少し過ぎたころだった。
僕はすぐに応答した。
彼女は疲れ切っているようだった。
髪は少し乱れていた。
肩の力が抜けていた。
でも、笑っていた。
僕は彼女を見つめた。
「どうだった?」
彼女は笑った。
「まずはお疲れさま、じゃない?」
「ごめん」
彼女は息を吸った。
「悪くなかったと思う」
僕は微笑んだ。
「悪くなかった?」
「もしかしたら、それ以上かも」
「すごいじゃないか!」
彼女は緊張したように笑った。
「採用されるかどうかは分からないよ」
「分かってる」
「選考が終わったら連絡するって」
「うん」
彼女は僕を見た。
「でも、質問に答えられたの」
僕は微笑んだ。
「もちろんだよ」
「違うの、春人」
彼女の表情が真剣になった。
「ちゃんと自分の考えで答えられたってこと」
僕は耳を傾けた。
◇ ◇ ◇
葵は面接で聞かれたことを説明してくれた。
難しい退院支援の事例。
複雑なケアが必要な患者。
不安を抱える家族。
病院のスタッフと在宅ケアの担当者との連携。
退院計画が安全とは言えない場合の対応。
緊張していた。
手も震えていた。
途中で何を話そうとしていたのか分からなくなりかけたこともあった。
でも、そこで一度止まった。
少し考える時間を取った。
そして話を続けた。
「何でも知ってるふりはしなかったよ」
彼女は言った。
僕は微笑んだ。
「それでいい」
「経験のある看護師さんに相談する場面も説明した」
「それもいいね」
「それから、患者さん本人の話を聞かずに、周りだけで決めてしまわないことが大切だって話したの」
僕の笑顔が広がった。
「とてもいいね」
彼女は笑った。
「採点してるみたい」
「満点だよ」
「春人!」
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
それから葵は静かになった。
「一番驚いたこと、言ってもいい?」
「もちろん」
「面接の間ずっと、自分が十分にできる人間なのかって考えてたわけじゃなかったの」
僕は彼女を見た。
彼女は続けた。
「患者さんのことを考えてた」
「家族のことも」
「どんな問題が起こるか」
「自分に何ができるか」
彼女はかすかに微笑んだ。
「こういう場面で初めて、自分はここにいていい看護師なんだって思えた気がする」
胸の奥が締めつけられた。
「葵」
彼女は僕を見た。
「誇りに思うよ」
彼女の目が大きくなった。
そして柔らかくなった。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
僕たちは一時間近く話した。
採用されるかどうかではなく。
不採用だったらどうするかでもなく。
彼女がその機会を真剣に受け止め、できる限りの力を尽くしたということについて。
結果はあとから来る。
今は、それで十分だった。
やがて葵が微笑んだ。
「私たち、すごいね」
僕は眉を上げた。
「何が?」
「春人は文学イベントに出た」
「うん」
「私は面接を受けた」
「うん」
「それで、二人とも完全には取り乱さなかった」
僕は考えた。
「それは葵だけの話だよ。うちの叔父さんは、もう少しで戒厳令を敷くところだった」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
文学座談会から二日後、主催者からメールが届いた。
録画へのリンクと短いお礼の言葉、そして視聴者からの感想がいくつか添えられていた。
僕はまず感想を開いた。
ほとんどが励ましの言葉だった。
座談会を褒めてくれる人たち。
特定の回答が印象に残ったと書いてくれる人たち。
そして、一つのメッセージにたどり着いたとき、僕は手を止めた。
『高橋さんへ』
『突然のお便りをお許しください。』
『私は車椅子を使っています。そして、小さいころから推理小説が大好きです。』
『でも、車椅子を使う探偵が登場しても、物語全体がその障害についての話になってしまうことが多く、少し寂しく感じていました。』
『座談会で森探偵のお話を聞いて、とてもわくわくしました。』
『彼に完璧な人間であってほしいからではありません。』
『頭がよくて、面倒くさくて、面白くて、ときどき間違える、そんな自分と同じような人間の物語を読みたいからです。』
『どうか、その本を完成させてください。』
『私も森探偵に会ってみたいです。』
僕はメッセージを見つめた。
それからもう一度読んだ。
そして、また読んだ。
◇ ◇ ◇
僕はずっと、自分の小説が真剣に受け止めてもらえるかどうかを心配していた。
編集者が気に入ってくれるか。
謎解きが成立しているか。
登場人物が自然に感じられるか。
手がかりが公平に提示されているか。
もちろん、それらは今も大切だった。
でも、このメッセージは別のことを思い出させてくれた。
森を待っている読者がいる。
彼が何かの象徴だからではない。
みんなに教訓を与えるための存在だからでもない。
ただ、会ってみたいと思える人物だから。
僕は原稿を見た。
森の皮肉っぽい台詞が画面に並んでいた。
彩は行方不明の書類について彼と口論していた。
神田警部は我慢の限界に達していた。
そして、その騒動の真ん中には、たまたま車椅子を使っている探偵がいた。
僕は微笑んだ。
「よかったね、森」
カーソルが点滅した。
「どうやら、君にもファンができたみたいだ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は由紀叔母さんにメッセージを見せた。
彼女は丁寧に読んだ。
そして微笑んだ。
「素敵ね」
僕はうなずいた。
「うん」
彼女は僕を見た。
「どんな気持ち?」
僕は考えた。
「不思議」
「不思議?」
「いい意味で」
叔母さんは小さく笑った。
僕はパソコンへ目を向けた。
「何年も、誰かが僕の物語を読みたいと思ってくれる日なんて来るのかなって考えてた」
叔母さんはうなずいた。
「それで、今は?」
僕は微笑んだ。
「今は、誰かが完成させてほしいって言ってくれてる」
彼女の目が柔らかくなった。
「お母さんが聞いたら、きっと喜んだでしょうね」
僕は母さんの写真を見た。
「うん」
唾を飲み込んだ。
「本当に喜んだと思う」
◇ ◇ ◇
その夜、幸子さんから電話があった。
知らせがあるという。
世界が一夜にして変わるような大ニュースではなかった。
でも、確かに嬉しい知らせだった。
「編集者さんが、改訂した構成案を読んでくださったわ」
僕は姿勢を保てる範囲で、思わず背筋を伸ばしたくなった。
「それで?」
幸子さんは微笑んだ。
「次の原稿を読んでみたいそうよ」
僕はしばらく彼女を見つめた。
「本当ですか?」
「本当よ」
胸が高鳴り始めた。
彼女は続けた。
「特に、森と彩の関係がより深く描かれているところを気に入ったそうよ」
僕は微笑んだ。
「推理の部分は?」
「構成はよくなってきていると評価してくださっているわ」
僕は待った。
幸子さんの表情が少し真剣になった。
「でも、まだやることはあるわよ」
もちろんだ。
いつだって、やることは残っている。
◇ ◇ ◇
「手がかりの配置を、もっと慎重にしてほしいそうよ」
幸子さんは説明した。
「それから、事件が人々の心に残す影響も、もっと深く描いてほしいとのこと」
僕はうなずいた。
「結末は?」
「まだ修正が必要ね」
僕はため息をついた。
幸子さんは小さく笑った。
「春人君、これは普通のことよ」
「分かってます」
「本当に?」
「頭では」
彼女は微笑んだ。
「それなら第一歩ね」
僕は原稿を見た。
「つまり、まだ不採用になったわけじゃないんですね?」
「ええ」
「でも、出版契約が決まったわけでもない」
「そのとおり」
「そして、もう一度書き直したものを読みたいと」
「そうよ」
僕は考えた。
そして微笑んだ。
「できます」
幸子さんはうなずいた。
「私もそう信じているわ」
◇ ◇ ◇
通話のあと、僕は改稿メモを開いた。
まだ問題は残っていた。
中盤をもっと引き締める必要がある。
容疑者の一人の動機を、さらに掘り下げなければならない。
最後の対決には、もっと強い感情的な決着が必要だった。
そして森と彩の関係は、捜査の進展とともに自然に深まっていかなければならない。
やることは多かった。
実際、とんでもなく多かった。
一瞬、本気で雲を眺める専門家に転職しようかと考えたほどだった。
雲なら、構成の大幅な改稿を要求してくることはめったにない。
残念ながら、未出版の小説よりさらに収入が少なそうだった。
だから僕は原稿に戻った。
◇ ◇ ◇
その夜、葵とまた静かなビデオデートをすることにした。
彼女は仕事を終えていた。
僕も何時間かの改稿を終えたところだった。
二人とも、ほとんど体力が残っていなかった。
だからこそ、話したかった。
画面に現れた葵は、ゆったりしたセーターを着ていた。
僕は微笑んだ。
「おかえり」
彼女も微笑んだ。
「ただいま」
その言葉は、僕たちの小さな習慣になりつつあった。
挨拶に姿を変えた約束。
彼女は椅子に落ち着いた。
「今日はどうだった?」
僕は考えた。
「森探偵が僕の人生を台無しにしようとしてる」
彼女は笑った。
「また?」
「彼は一貫してるからね」
「進んだの?」
「少し」
「じゃあ、よかった」
僕は微笑んだ。
「葵は?」
彼女はため息をついた。
「忙しかった」
「嫌な忙しさ?」
「ほとんど普通の忙しさ」
「それならまだいいね」
彼女はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
それからしばらく、僕たちはただ話した。
彼女が関わった患者さんたちのこと。
僕の原稿のこと。
その朝、大地叔父さんが言った奇妙なこと。
葵が作ってみたい料理のこと。
まだ最後まで見ていない映画のこと。
普通の会話。
小さな出来事。
ほかの人にとっては、どうでもいいようなことかもしれない。
でも、僕にとっては大切だった。
なぜなら、それらは二人で生きる日々の欠片だったから。
まだ同じ屋根の下では暮らしていない。
でも、少しずつ形になり始めていた。
◇ ◇ ◇
やがて、葵が考え深そうな顔をした。
「春人?」
「何?」
「一つ約束してもいい?」
僕は微笑んだ。
「内容によるね」
彼女は眉を上げた。
「何によるの?」
「葵の料理が関係するかどうか」
「春人!」
僕は笑った。
「ごめん。続けて」
彼女は笑いながら首を振った。
それから真剣な表情に戻った。
「私たち、お互いのために夢を諦めなきゃいけないって思わないようにしたい」
僕は彼女を見た。
彼女は続けた。
「もっと近くで暮らしたいのは分かってる」
「そのためにいろいろ考えてるのも分かってる」
「でも、春人には小説を書くことに罪悪感を持ってほしくない」
僕は耳を傾けた。
「それに私も、看護師として成長したいって思うことに、罪悪感を持ちたくない」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから僕は微笑んだ。
「賛成」
◇ ◇ ◇
葵はほっとしたようだった。
「本当に?」
「もちろん」
僕は少し間を置いた。
「愛してるよ、葵」
彼女の表情が柔らかくなった。
「私も愛してる」
「でも、僕を愛することで、葵がなりたい自分を諦めることになってほしくないんだ」
彼女は唾を飲み込んだ。
僕は続けた。
「それに、僕の執筆が葵の仕事より大切だなんて思ってほしくない」
彼女はかすかに微笑んだ。
「違うの?」
「絶対に違うよ」
僕は考えた。
「もっとも、森探偵は反対するかもしれないけど」
彼女は目に浮かんだ涙をこらえながら笑った。
「もちろん、そうだろうね」
「彼はとても自分勝手だから」
「誰かさんに似てるね」
僕は彼女を見つめた。
「それはひどい」
彼女はにやりと笑った。
◇ ◇ ◇
それから葵は顔を近づけた。
「じゃあ、どんな約束にする?」
僕は考えた。
「お互いの夢を、一緒に喜ぶこと」
彼女はうなずいた。
「思ったとおりにいかないときも?」
「そんなときこそ」
「離れているのがつらいからって、急いで決めないこと?」
僕は微笑んだ。
「そうだね」
彼女は僕を見た。
「難しいことが起きても、ちゃんと話し合うこと?」
「いつでも」
長い間、僕たちはただ見つめ合っていた。
二人の人間。
二つの違う街。
そして、少しずつ重なり合う方法を見つけようとしている二つの未来。
やがて葵が微笑んだ。
「約束ね」
僕も微笑んだ。
「約束」
◇ ◇ ◇
翌朝、大地叔父さんは僕に新しい名刺が必要だと言い出した。
僕は彼を見つめた。
「嫌だ」
叔父さんは不満そうな顔をした。
「まだデザインも見てないだろう!」
「見る必要がないよ」
「でも、春人――」
「嫌だ」
彼は印刷された名刺を持ち上げた。
僕はちらりと見た。
そして固まった。
一番上には、大きな文字でこう書かれていた。
高橋春人
推理小説作家
未来の世界的ベストセラー作家
その下には探偵帽の絵があった。
僕は見つめた。
それから叔父さんを見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「どうして世界的ベストセラー作家って書いてあるの?」
叔父さんは微笑んだ。
「野心だ」
「まだ一冊も出版してないよ」
「準備だ」
「どうして探偵帽があるの?」
「ブランドの認知度を高めるためだ」
僕は目を閉じた。
「まさか、これを五百枚も注文してないよね?」
叔父さんはためらった。
僕は目を開いた。
「大地叔父さん」
「注文の定義によるな」
台所から由紀叔母さんの声が響いた。
「大地!」
◇ ◇ ◇
その朝の笑いを思い出しながら、僕は仕事に戻った。
『森探偵』を開いた。
編集者のコメントを読んだ。
そして、森と彩が犯人の証言にある最初の大きな矛盾を発見する場面を書き直し始めた。
今回は、出版されるかどうかだけを考えていたわけではなかった。
あのメッセージを送ってくれた読者のことを考えていた。
森に会いたいと言ってくれた人。
頭がよくて、皮肉屋で、欠点もある探偵を求めている人。
車椅子を使っていても、それだけで説明される存在ではない探偵。
その読者に、いい物語を届けたかった。
完璧な物語ではなく。
小説の形をした感動的な説教でもなく。
推理小説を。
本物の推理小説を。
解く価値のある謎を。
◇ ◇ ◇
夕方近くになるころには、一つの場面をほとんど書き直していた。
まだ完成していなかった。
完成には程遠かった。
でも、前よりよくなっていた。
森の推理には筋が通っていた。
彩は手がかりの発見に、より重要な役割を果たしていた。
そして二人の会話も、前より自然に感じられた。
僕はコミュニケーションソフトを使って、その場面を読み上げた。
そして微笑んだ。
「悪くないね」
夏美さんが顔を上げた。
「また独り言?」
「専門的な相談だよ」
「誰と?」
「自分と」
彼女は笑った。
「高そうね」
「ものすごくね」
◇ ◇ ◇
夕食の少し前、新しいメールが届いた。
差出人の名前には見覚えがなかった。
件名には、こう書かれていた。
文学アンソロジーへの寄稿についてのご相談
僕はそれを見つめた。
そしてメールを開いた。
『高橋春人様』
『先日の新人作家座談会を拝聴し、物語作りに対する真摯なお考えに感銘を受けました。』
『私は現在、新しい書き手たちの作品を集めた文学アンソロジーを企画している、小規模な編集チームの一員です。』
『私たちは特に、アイデンティティーや居場所、そして人々がそれぞれ異なる形で世界を経験することを描いた作品に関心を持っています。』
『人間を一つの特徴だけで定義しない人物描写についてのお話は、私たちのチームに強く響きました。』
『もしご関心がございましたら、オリジナル短編作品をご寄稿いただく可能性について、一度お話しできれば幸いです。』
『なお、現段階では正式な出版のお申し出ではなく、あくまで企画段階でのご相談となりますことをご了承ください。』
『企画の詳細、応募や選考の流れ、編集方針、アクセシビリティー面での対応についても、ご説明させていただければと思います。』
僕は読むのをやめた。
そして、もう一度読んだ。
アンソロジー。
オリジナル短編。
寄稿の可能性。
契約ではない。
保証でもない。
でも、新しい機会だった。
もう一つの扉だった。
◇ ◇ ◇
僕は母さんの写真へ目を向けた。
パソコンの横に置かれている写真。
幼い僕の隣で、母さんが微笑んでいる写真。
見つかった手紙のことを考えた。
青い扉のことを。
その向こうには物語が待っていると、母さんが信じてくれていたことを。
そして、もう一度メールを見た。
何年もの間、部屋の外の世界は、僕には途方もなく大きく感じられていた。
ときには怖かった。
ときには、近づくことさえ難しかった。
僕に何ができて、何ができないかを勝手に決めつける人たちであふれていることもあった。
でも、その世界は葵と出会わせてくれた。
健二とも。
幸子さんとも。
拓海とも。
僕を励ましてくれる人たち。
僕に挑戦する勇気をくれる人たち。
僕の言葉には意味があると信じてくれる人たち。
そして今――
誰かが、僕にはまだ別の物語があるのではないかと尋ねてくれている。
◇ ◇ ◇
僕はそのメールを幸子さんに転送した。
それから葵にメッセージを送った。
『ちょっとしたことがあったんだ。』
ほとんどすぐに返事が来た。
『いいこと? 悪いこと?』
僕は微笑んだ。
『たぶん、いいこと。』
『春人。』
『何?』
『早く教えて!』
僕は笑った。
そして、招待メールのスクリーンショットを送った。
数秒間、返事がなかった。
それから電話が鳴った。
僕は応答した。
画面に葵が現れた。
目を大きく見開いていた。
「春人!」
僕は微笑んだ。
「こんにちは」
「アンソロジー?」
「可能性の話だけどね」
「春人に何か書いてほしいってこと?」
「まずは相談したいって」
彼女は笑った。
「すごいじゃない!」
僕は微笑んだ。
「何も決まってないよ」
「分かってる」
「詳しいことも、まだ知らないし」
「分かってる」
「それに――」
「春人」
僕は黙った。
彼女は微笑んだ。
「嬉しいって思っていいんだよ」
◇ ◇ ◇
僕は彼女を見た。
しばらく、何を言えばいいのか分からなかった。
それから小さく笑った。
「そうだね」
「当然でしょ」
「今の葵、僕みたいだね」
「恐ろしいでしょ?」
「とても」
彼女は微笑んだ。
「それで?」
「それでって?」
「嬉しい?」
僕はメールを見た。
それから原稿を。
そして母さんの写真へ。
最後に、もう一度葵を見た。
「うん」
僕の笑顔が広がった。
「本当に嬉しいよ」
◇ ◇ ◇
その夜、通話が終わったあと、僕は青いスクラップブックを開いた。
夏美さんに手伝ってもらい、まだ何も貼られていないページを開いた。
僕は長い間、そのページを見つめた。
それから、文学座談会の写真を印刷したものを、そのページのそばに置いてもらった。
写真には、机の前にいる僕が写っていた。
コミュニケーションソフトを通して話している僕。
物語について話している僕。
障害について話している僕。
母さんについて話している僕。
青い扉の向こうにある世界について話している僕。
このページには題名が必要だと思った。
だから、パソコンを開いた。
そして一つ書いた。
『僕の声が、部屋の向こうへ届いた日。』
少し間を置いた。
それから、もう一文を付け加えた。
『そして、どこかで誰かが、その声を聞くのを待っていてくれたのだと知った日。』
◇ ◇ ◇
窓の外では、夕空が地平線の向こうまで広がっていた。
別の街では、葵が明日の仕事に備えていた。
面接は終わった。
でも、結果はまだ分からない。
僕たちの未来の家も、まだ決まっていない。
小説には、まだ改稿が必要だった。
アンソロジーの話も、何かにつながるかもしれない。
あるいは、何にもつながらないかもしれない。
保証はなかった。
すべてが思いどおりになるという約束もなかった。
でも、僕は少しずつ理解し始めていた。
希望とは、すべての扉が開くと信じることではないのかもしれない。
開くかどうか分からなくても、扉を叩き続けることなのかもしれない。
書き続けること。
愛し続けること。
挑戦し続けること。
答えが分からなくても。
◇ ◇ ◇
僕は最後にもう一度、母さんの写真へ目を向けた。
「母さん」
部屋は静かだった。
僕は微笑んだ。
「また一つ、物語を見つけたみたいだよ」
それからパソコンへ向き直った。
新しい文書を開いた。
そして、どんな物語を書こうか考え始めた。
その機会がどこへつながるのか分かっていたからではない。
誰かが出版してくれると確信していたからでもない。
ただ、すでに書き終えたページの向こうに、もう一つの可能性が待っていたから。
そして、長い間で初めて――
その先に何が待っているのか、確かめることが怖くなかった。




