第91話 母が遺してくれた言葉と、僕たちがまだ手を伸ばし続けていた夢
僕の作家人生が厄介なことになり始めた最初の兆候は、火曜日の午前九時十七分ちょうどに現れた。
それは探偵帽をかぶっていた。
とても大きな探偵帽だった。
しかも、カメラまで持っていた。
「おはよう、未来のベストセラー作家!」
僕は叔父さんを見つめた。
それから帽子を。
カメラを。
そして、もう一度叔父さんを見た。
「嫌だ」
大地叔父さんは入口で立ち止まった。
「まだ何も言ってないだろう!」
「言わなくても分かるよ」
「でもな、春人――」
「嫌だ」
叔父さんは本気で傷ついたような顔をした。
「せめて提案だけでも聞いてくれないか?」
僕は少し考えた。
「嫌だ」
叔父さんの後ろで、由紀叔母さんがため息をついた。
「大地、朝ご飯の前に春人を困らせないでって言ったでしょう」
「でも、これは大事なことなんだ!」
「昨日もそう言ってたわよ」
「昨日だって大事だったんだ!」
僕は、朝の医療機器の確認を終えようとしていた夏美さんへ目を向けた。
「叔父さんを普通の人間にする医療処置ってないのかな?」
彼女は顔も上げずに答えた。
「残念ながら、ないわね」
「実験的な治療法は?」
「私の知る限りではないわ」
「それは残念」
大地叔父さんは僕たちを指さした。
「春人が有名になったら、俺を馬鹿にしたことを後悔するぞ!」
僕は彼を見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「どうして探偵帽をかぶってるの?」
叔父さんは微笑んだ。
「研究だ」
僕は目を閉じた。
もちろんだ。
◇ ◇ ◇
問題が始まったのは三日前だった。
いや、四日前だったかもしれない。
小さな文学座談会に招待されたというだけで、僕に広報部門が必要だと叔父さんが判断した正確な瞬間は、もはや特定できなかった。
ただ一つ確かなのは、彼が自分をその責任者に任命したということだった。
僕に相談することもなく。
誰の意見も聞かず。
そして何より、広報部門が実際に何をするものなのか、まったく理解しないまま。
今回の企画は、作家のプロフィール写真だった。
文学団体から、イベント用の短い経歴と写真を求められていたのだ。
ごく普通の依頼だった。
普通の人なら、簡単な写真を一枚撮って終わるだろう。
しかし、僕の叔父さんは普通の人ではなかった。
撮影用の照明を購入し、
カメラを借り、
本棚が並んだ背景を印刷し、
そして今、頭に載せている巨大な探偵帽を手に入れていた。
「偉大な作家には、印象に残る写真が必要なんだ」
叔父さんは宣言した。
僕は彼を見つめた。
「どうして?」
「人は顔を覚えるからだ!」
「じゃあ、どうして帽子が必要なの?」
「帽子だって覚えるからだ!」
僕は少し考えた。
「残念ながら、それは事実だね」
叔父さんの顔が明るくなった。
「だろう?」
「褒めてないよ」
「それでもいい」
由紀叔母さんは額を押さえた。
「大地、まさか大金を使ったんじゃないでしょうね」
叔父さんはためらった。
危険な沈黙だった。
「大金の定義によるな」
「大地」
「使った、の定義にもよる」
「大地!」
僕は微笑んだ。
家族と暮らす毎日は、ときどきテレビより面白かった。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、夏美さんが僕を電動車椅子に楽な姿勢で座らせ、人工呼吸器の回路やコミュニケーション機器が安全な位置にあることを確認してくれた。
文学団体が写真を求めているのは分かっていた。
でも、僕は謎めいた天才に見せたいわけではなかった。
ただ、自分らしく写りたかった。
それだけだった。
ところが、叔父さんには別の考えがあった。
「よし、春人! 顎を上げて!」
僕は彼を見た。
「頭の支持具はもう調整してあるよ」
「そうだったな! 完璧だ!」
彼は照明を動かした。
「じゃあ、何か考え込んでいるような顔をしてくれ」
「何について?」
「謎めいたことだ」
僕は彼を見つめた。
「例えば、どうして叔父さんがこんなことをしているのか、とか?」
「完璧だ! その表情を維持して!」
シャッターが切られた。
僕は瞬きをした。
叔父さんは写真を確認した。
「うーん」
僕は待った。
「ちょっと批判的すぎるな」
「叔父さんがいるときの僕の自然な表情だよ」
夏美さんが笑った。
叔父さんは無視した。
「もっと劇的な感じにしよう」
彼は再び照明を動かした。
由紀叔母さんがすぐに前へ出た。
「その照明を医療機器の近くに置かないで」
「置くつもりはなかった!」
「置こうとしてたでしょう」
「検討していただけだ」
「もっと悪いわよ」
◇ ◇ ◇
二枚目の写真には、偽物の本棚が登場した。
三枚目には虫眼鏡。
四枚目では、叔父さんが僕の頭に探偵帽を載せようとした。
そこで僕は、はっきりと拒否した。
「絶対に嫌だ」
「でも、春人!」
「嫌だ」
「印象に残るぞ!」
「僕がその帽子を窓から投げ捨てる写真だって、十分印象に残るよ」
叔父さんは立ち止まった。
そして、考え深そうにうなずいた。
「それも宣伝写真としては悪くないな」
僕は彼を見つめた。
「本当にどうしようもないね」
「ありがとう」
「褒めてないよ」
「それでもいい」
結局、由紀叔母さんがカメラを取り上げた。
馬鹿げた小道具を片づけ、僕を見た。
「普通に、机の前で写真を撮るのはどう?」
僕は考えた。
そこにはパソコンがあった。
画面には『森探偵』の原稿が開かれていた。
モニターの横には母さんの写真。
近くの棚には、葵がくれた青いスクラップブック。
何でもない場所だった。
見慣れた場所。
僕の場所だった。
「それがいい」
叔母さんは微笑んだ。
「じゃあ、そうしましょう」
大地叔父さんは残念そうな顔をした。
「劇的な照明は?」
「なし」
「探偵帽は?」
「なし」
「虫眼鏡は?」
「なし」
彼はため息をついた。
「芸術家ってのは難しいな」
◇ ◇ ◇
最後に撮った写真は、とてもシンプルだった。
僕は車椅子に座り、執筆机のそばにいた。
コミュニケーション機器も写っていた。
何時間もかけて小説を書いてきたパソコンも。
何も隠していなかった。
何も大げさにしていなかった。
僕を必要以上に感動的な存在や、謎めいた人物に見せようとする演出もなかった。
ただ、物語を語ることが好きな一人の男が写っていた。
由紀叔母さんが写真を見せてくれた。
僕はしばらく眺めた。
そして微笑んだ。
「これがいい」
叔母さんはうなずいた。
「私もそう思った」
大地叔父さんが肩越しにのぞき込んだ。
写真を確認した。
それからため息をついた。
「まあ」
僕は待った。
「確かに、なかなかいい写真だ」
「ありがとう」
「ただ……」
「嫌だ」
「隅に小さな探偵帽を――」
「大地叔父さん!」
彼は笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、今度の文学座談会の司会者からメールが届いた。
件名には、こう書かれていた。
座談会の事前質問について
僕はすぐに開いた。
質問のほとんどは予想していたものだった。
どうして小説を書くことに興味を持ったのか。
『森探偵』は何から着想を得たのか。
登場人物をどうやって作るのか。
原稿を改稿するうえで、どんな困難があったのか。
作家を目指す人たちに、どんな助言をしたいか。
それらは答えられそうだった。
事前に準備できる。
考えを整理できる。
コミュニケーションソフトを使って練習することもできる。
そして、最後の質問にたどり着いた。
そこで手が止まった。
『あなたは自分を、まず障害のある作家だと考えますか。それとも、単に一人の作家だと考えますか。』
僕はその文章を見つめた。
もう一度読んだ。
そして三度目も。
司会者が何を聞こうとしているのかは、おそらく理解できた。
でも、言葉の選び方に何か引っかかるものがあった。
『まず』。
『それとも』。
まるで、その二つが対立しているかのようだった。
障害があることと作家であることが別々のもので、どちらがより重要なのかを選ばなければならないかのように。
僕は原稿へ目を向けた。
それから車椅子の操作画面へ。
そして、物心ついたころから僕の人生の一部だった人工呼吸器へ。
僕には障害がある。
それは事実だった。
僕は作家でもある。
それも少しずつ、確かな事実になりつつあった。
どうして選ばなければならないのだろう。
◇ ◇ ◇
僕は新しい文書を開いた。
一番上に質問を入力した。
そして答えを書き始めた。
『僕は、たまたま障害のある作家です。』
読み返した。
何かが違った。
その文章が必ずしも間違っているからではない。
ただ、僕が伝えたいことを十分に表していなかった。
削除した。
もう一度書いてみた。
『障害は僕という人間を定義するものではありません。』
僕はその文章を見つめた。
そして、それも削除した。
こちらのほうが、さらに違和感があった。
障害は僕の人生を形作ってきた。
僕の経験に影響を与えてきた。
人間関係にも。
機会にも。
世界との関わり方にも。
他人からどう扱われるかにも。
小説を書くために使っている技術にさえ。
障害が自分という人間に何の影響も与えていないふりをするのは、不誠実だった。
でも、それが僕のすべてを決めると考えるのも、同じくらい不誠実だった。
僕はため息をついた。
「素晴らしいね」
夏美さんが顔を上げた。
「また探偵さんの問題?」
「もっと悪いよ」
彼女は眉を上げた。
「殺人事件より?」
「インタビューの質問」
彼女は微笑んだ。
「それは大変そうね」
◇ ◇ ◇
僕は質問を見せた。
夏美さんは注意深く読んだ。
それから僕を見た。
「春人はどう思うの?」
「それが問題なんだ」
「分からないの?」
「自分がどう感じているかは分かるんだ。でも、それをどう説明すればいいのか分からない」
夏美さんは少し考えた。
「質問されたとおりに答える必要はないんじゃない?」
僕は彼女を見た。
「どういうこと?」
「その質問が、どうして答えにくいのかを説明してもいいと思うの」
僕は黙った。
彼女は続けた。
「二つの選択肢に収まらない答えだって、あっていいでしょう?」
僕は画面を見つめた。
そして、かすかに微笑んだ。
「腹が立つくらい理にかなってるね」
彼女は笑った。
「努力してるからね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から仕事を終えたあとに電話があった。
疲れているようだった。
でも、その表情には何か違うものがあった。
緊張。
そして期待。
僕はすぐに気づいた。
「何かあった?」
彼女は微笑んだ。
「まずはこんばんは、じゃない?」
僕は笑った。
「ごめん」
「春人も私と同じになってきたね」
「恐ろしいことだ」
彼女は息を吸った。
そして言った。
「応募したよ」
僕は彼女を見つめた。
「退院・在宅移行支援の仕事に?」
彼女はうなずいた。
「うん」
一瞬、二人とも黙った。
それから僕は微笑んだ。
「葵、すごいじゃないか!」
彼女は緊張したように笑った。
「すごいかどうかは分からないけど」
「どうして?」
「だって、これから待たなきゃいけないんだよ」
「ああ」
「面接があるかもしれないし」
「そうだね」
「そこで恥をかくかもしれないし」
僕は少し考えた。
「まあ、それはいつでもあり得るね」
「春人!」
僕は笑った。
「冗談だよ」
「ひどい」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
葵は椅子にもたれた。
「送信するのをやめようかと思ったんだ」
僕は彼女を見た。
「どうして?」
彼女はためらった。
「まだ知らないことが、どれだけあるか考えちゃって」
僕は耳を傾けた。
「研修は勉強になってる。でも、まだ怖いと思う状況もあるの」
彼女はうつむいた。
「もっと経験のある人のほうが向いてるんじゃないかって」
僕は考えた。
「経験のある人のほうが得意なことは、確かにあると思う」
彼女は僕を見た。
僕は続けた。
「でも、だからといって葵が応募しちゃいけない理由にはならないよ」
彼女は黙っていた。
「全部知っているって言ってるわけじゃないんだから」
「学んで、力になれる機会を求めているんだよ」
僕は微笑んだ。
「それは違うことだと思う」
葵は考えた。
それからうなずいた。
「そうかもしれないね」
「当然だよ」
彼女は笑った。
「せっかくのいい雰囲気を壊さないで」
「ごめん」
◇ ◇ ◇
それからしばらく、応募した仕事について話した。
葵によれば、その仕事では経験豊富な看護師や退院支援担当者、地域のサービス機関との連携が必要になるという。
すべてを一人で対応することを求められるわけではなかった。
指導体制がある。
研修がある。
決められた手順がある。
相談できる同僚もいる。
それは大切なことだと思った。
特に僕にとっては。
安全な在宅ケアが、専門職同士の連携にどれほど左右されるか、僕は多くの人以上によく知っていた。
葵も理解していた。
退院の準備や調整が急がれたり、十分に行われなかったりすると、患者や家族がどれほど不安になるかを、彼女は見てきたからだ。
「ちゃんと準備できているって、安心してもらえるようにしたいの」
彼女は言った。
僕は微笑んだ。
「だったら、それを伝えればいいよ」
彼女は僕を見た。
「面接で?」
「うん」
彼女は少し考えた。
そしてうなずいた。
「そうしてみようかな」
◇ ◇ ◇
しばらくして、僕は司会者からの質問を葵に見せた。
彼女は読んだ。
そして眉をひそめた。
「うーん」
僕は待った。
「難しい質問だね」
「本当にね」
彼女は考え込んだ。
「障害が春人の小説に影響しているかどうかを聞きたいのかな?」
「たぶん」
「だったら、どうしてそう聞かないんだろう?」
僕は微笑んだ。
「いい質問だね」
彼女は僕を見た。
「春人は何て答えたいの?」
僕はためらった。
「分からない」
彼女は待った。
僕は原稿へ目を向けた。
「障害があるから小説を書いているだけだと思われたくないんだ」
葵はうなずいた。
「でも、障害が僕の物語とまったく関係ないふりもしたくない」
「うん」
「障害のある登場人物を書くのは、自分たちのような人間が物語に登場することの大切さを知っているからなんだ」
僕は少し間を置いた。
「でも、推理小説を書くのは、単純に推理小説が好きだからでもある」
葵は微笑んだ。
「特に皮肉屋の探偵がね」
「特にね」
彼女は笑った。
僕は続けた。
「恋愛小説を書くのは、誰にだって愛される可能性があると信じているから」
彼女の表情が柔らかくなった。
「家族の物語を書くのは……」
言葉が途切れた。
僕は母さんの写真へ目を向けた。
葵は待っていた。
「家族がどれほど大切な存在になれるか、知っているから」
◇ ◇ ◇
しばらく、部屋は静かだった。
それから葵が優しく言った。
「それが答えなんじゃないかな」
僕は彼女を見た。
「何?」
「今話したこと、全部」
彼女は微笑んだ。
「春人には障害がある。作家でもある。推理小説が好きで、恋愛小説も、家族の物語も好きな人なんだよ」
彼女は少し間を置いた。
「そのどれかが、ほかの何かを否定するわけじゃないでしょう?」
僕は考えた。
彼女は続けた。
「自分のどの部分が一番大切かなんて、選ばなくていいんだよ」
僕は文書へ目を落とした。
そして、かすかに微笑んだ。
「葵って、こういうのが得意だね」
「何が?」
「作家を助けること」
彼女は笑った。
「まあ、特に面倒な作家を一人、ずっと相手にしてるからね」
「大変そうだ」
「本当にね」
「かわいそうな女性だ」
「悲劇よ」
僕たちは一緒に笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝、僕は『森探偵』の改稿に戻った。
残念ながら、僕が作り出した探偵には、また新しい問題が発生していた。
しかも、かなり深刻な問題だった。
森は、発見したと主張している時点では存在し得ない証拠を使って、殺人事件を解決していたのだ。
僕は時系列表を見つめた。
それから原稿を。
そして、もう一度時系列表を見た。
「嘘だろ」
順序を確認し直した。
秘書が書斎を出たのは午後八時五十一分。
時計が止まったのは九時四十分。
家政婦が物音を聞いたのは十時。
そして、森が最後の推理で言及する財務資料は、翌朝に印刷されたことになっていた。
ところが――
その資料が保存されていたパソコンは、すでに鑑識のために押収されていた。
つまり、森がその内容を知っていたと主張する時点では、まだ読むことができなかったのだ。
僕は画面を見つめた。
そしてつぶやいた。
「冗談だろ……」
◇ ◇ ◇
それから一時間、矛盾を修正しようとした。
まず、資料が発見される場面を前に移動した。
すると別の問題が生まれた。
次に、資料を見つける人物を変更した。
今度は防犯カメラの映像と矛盾した。
最後に、資料そのものを削除しようとした。
すると犯行動機の裏づけが弱くなった。
昼までに、僕は一つの問題を四つに増やすことに成功していた。
見事だった。
最悪の意味で。
僕は原稿を見つめた。
「森探偵」
カーソルが点滅していた。
「人がどうして殺人を犯すのか、少し分かってきた気がするよ」
夏美さんがこちらを見た。
「心配したほうがいい?」
「架空の登場人物だけね」
「それなら安心ね」
「たぶん」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は森田幸子さんに連絡した。
文学の師匠である彼女は、僕が問題を説明する間、辛抱強く聞いてくれた。
そして、単純な質問をした。
「どうして森は、その時点で資料を必要としているの?」
僕はためらった。
「犯行動機を証明するためです」
「本当に?」
「ええと……」
「それとも、すでに疑っていることを裏づけるだけの資料なのかしら?」
僕は画面を見つめた。
幸子さんは微笑んだ。
「その二つは違うわよ」
僕は考えた。
財務資料だけが、秘書の不正を示す証拠ではなかった。
帳簿の不自然な数字。
被害者が書きかけていたメモ。
秘書の証言にある矛盾。
資料は横領を裏づけるものだった。
でも、森が犯人を特定するために、必ずしも必要なものではないのかもしれない。
物的証拠と容疑者たちの行動から結論へたどり着けるのではないか。
そして、そのあとで財務資料によって事件の裏づけを強めればいい。
僕は顔を上げた。
「あっ」
幸子さんは微笑んだ。
「分かったみたいね」
僕は笑った。
「驚くほど単純なことでした」
「いい解決策は、見つけたあとには簡単に見えるものよ」
◇ ◇ ◇
それからさらに三十分ほど、物語について話し合った。
幸子さんは、森の視点だけでなく、読者の視点からも謎を見直すよう勧めてくれた。
「読者が振り返ったときに、そこへ至る道筋が見えるようにするの」
「最初に気づかなかったとしても、ね」
僕はうなずいた。
「それから、推理小説は仕掛けだけの物語じゃないことも忘れないで」
彼女は続けた。
「そこに関わる人間の物語でもあるのよ」
僕は森のことを考えた。
彩。
被害者。
秘書。
ほかの容疑者たち。
彼らはそれぞれ、あの場所にいる理由を持っていた。
事件とは別の人生を持っていた。
もしかすると、僕がもっと強く描くべきなのは、そこなのかもしれない。
殺人の仕組みだけではなく。
その事件を引き起こした、人間たちの選択を。
「ありがとうございます」
僕は言った。
幸子さんは微笑んだ。
「どういたしまして」
それから付け加えた。
「それと、春人君」
「はい?」
「弱点に気づくことと、失敗することを混同しないでね」
僕は黙った。
彼女は続けた。
「今になってこういう問題に気づけるのは、あなたが成長している証拠よ」
僕は原稿を見た。
そして微笑んだ。
「覚えておきます」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、健二からメッセージが届いた。
二軒目の賃貸住宅の所有者と話したらしい。
出入口が比較的広く、浴室も使いやすそうに見えた、あの家だ。
所有者は、何かを決める前に専門家によるバリアフリー評価を行うことについて、話し合う意思があるという。
電気設備の容量。
浴室の正確な寸法。
医療機器を置くスペース。
緊急時の動線。
そして、その家で僕のケアを安全に行えるかどうか。
まだ確認しなければならないことは多かった。
何も決まっていない。
予約もしていない。
でも、話し合いは続けられそうだった。
僕はその情報を葵へ転送した。
数分後、返信が届いた。
『一歩ずつ、だね?』
僕は微笑んだ。
そして入力した。
『一歩ずつだね。』
◇ ◇ ◇
その夜、葵が思いがけない提案をした。
「デートしようよ」
僕は彼女を見た。
「デート?」
「うん」
「今もビデオ通話してるけど」
「知ってる」
「これも一応デートじゃない?」
彼女は微笑んだ。
「ちゃんとしたデートじゃないもの」
僕は考えた。
「何をするの?」
「普通の夜を過ごすの」
僕は瞬きをした。
「普通の夜?」
彼女はうなずいた。
「一緒に暮らしてるみたいに」
僕は彼女を見つめた。
そして微笑んだ。
「ずいぶんロマンチックなことを考えるね」
「いいでしょ?」
「心配したほうがいい?」
「ものすごくね」
◇ ◇ ◇
僕たちは翌日の夜に約束した。
大げさなことは何もしない。
特別な飾りつけも。
高価な贈り物も。
壮大なサプライズも。
ただ夕食を食べて、
映画を見て、
一緒に時間を過ごす。
葵は仕事から帰って夕食を用意する。
僕は自宅で、普段どおり必要な介助を受けながら食事をする。
看護ケアや医療上の日課も、いつもどおり続ける。
僕の人生のそういう部分が存在しないふりをするわけではなかった。
ただ、別々の街に離れていなければ、普通の夜を一緒に過ごすのはどんな感じだろうと想像してみたかった。
約束の時間になると、葵が画面に現れた。
ゆったりしたセーターを着ていた。
髪は後ろでまとめていた。
疲れているようだった。
そして、とてもきれいだった。
「おかえり」
僕は言った。
彼女は固まった。
それから微笑んだ。
「ただいま」
たった二つの短い言葉。
それなのに、胸が締めつけられるようだった。
◇ ◇ ◇
葵は夕食をテーブルに置いた。
僕はすでに机の前で楽な姿勢に整えてもらっていた。
夏美さんは夕方のケアを手伝い、必要な看護を行えるようにしてくれていた。
葵は僕の食事を見た。
「おいしそう」
僕は微笑んだ。
「由紀叔母さんが作ってくれたんだ」
「いいなあ」
「葵は何を食べるの?」
彼女はカメラを傾けた。
「パスタになるはずだったもの」
僕は皿を見た。
「なるはずだった?」
彼女はため息をついた。
「ちょっと茹ですぎちゃって」
僕は考えた。
「それはまだ法律上、パスタと呼べるのかな?」
「春人!」
僕は笑った。
彼女は画面を指さした。
「もっと優しくしてよ」
「してるよ」
「そうは聞こえなかったけど」
「新しい料理のジャンルを発明する権利を応援してるんだ」
彼女はうめいた。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、僕たちは同じ映画を再生した。
正確には、再生しようとした。
葵の配信サービスはすぐに動いた。
僕のほうは読み込みを拒否した。
次に葵の画面が止まった。
それから僕の映画が、なぜか違う言語の字幕で始まった。
ようやく冒頭の場面を同時に再生できたころには、十五分近くが過ぎていた。
葵は僕を見つめた。
「一緒に暮らしてたら、こんなに大変じゃないのに」
僕は微笑んだ。
「たぶんね」
「少なくともテレビは一台で済むし」
「大地叔父さんが三台買わなければね」
彼女は笑った。
「余計なことを教えないで」
◇ ◇ ◇
映画の途中で、葵が登場人物の行動に口を出し始めた。
ある人物が、誰もいない廃墟へ一人で入っていった。
彼女はうめいた。
「どうしてそんなことするの?」
僕は微笑んだ。
「映画に次の犠牲者が必要だから」
「ひどい理由ね」
「でも効果的だよ」
登場人物が怪しい扉を開いた。
葵は画面を指さした。
「開けちゃ駄目!」
僕は彼女を見た。
「向こうには聞こえてないって分かってるよね?」
「分かってる!」
登場人物が中へ入った。
何かが大きな音を立てて倒れた。
葵はため息をついた。
「馬鹿ね」
僕は笑った。
すると彼女が僕を見た。
「楽しんでるでしょ」
「とても」
「本当に意地悪」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
映画が終わったあとも、僕たちは通話を切りたくなかった。
葵は頬杖をついた。
「一つ言ってもいい?」
「もちろん」
彼女は自分の部屋を見回した。
「ときどき、春人がここにいたらどんな感じかなって想像するの」
僕は黙った。
「遊びに来るだけじゃなくて」
彼女は続けた。
「週末だけでもなくて」
「本当に、ここにいるの」
僕は彼女を見た。
「どんなことを想像するの?」
彼女は微笑んだ。
「小さなことだよ」
「例えば?」
「家に帰って、その日の出来事を春人に話すこと」
僕は耳を傾けた。
「仕事の愚痴を言ったり」
「春人のひどい冗談に笑ったり」
「一緒に映画を見たり」
彼女は少し間を置いた。
「部屋の向こうを見たら、春人がいること」
胸の奥がきゅっとなった。
僕はかすかに微笑んだ。
「僕も考えるよ」
◇ ◇ ◇
それから僕たちは、一緒に暮らすということが実際には何を意味するのか話した。
ロマンチックな部分だけではない。
現実的なことも。
車椅子に必要なスペース。
医療機器の電源設備。
使いやすい浴室。
看護ケアのための場所。
緊急時の対応。
そして、葵が僕の専属介護者になることを期待するのではなく、信頼できる専門職による支援体制を整えることの大切さ。
彼女は真剣に聞いてくれた。
そして僕も、葵が仕事について話すときには耳を傾けた。
勤務時間。
休息の必要性。
専門職として成長し続けたいという願い。
僕たちは完璧な幻想を作ろうとしていたわけではなかった。
本当の未来には何が必要なのか、理解しようとしていた。
不思議なことに、それが夢をもっと大切なものに感じさせた。
◇ ◇ ◇
ふと、葵が微笑んだ。
「私が一番望んでること、分かる?」
僕は彼女を見た。
「何?」
「家に帰ったら、春人が小説を書いてること」
僕は小さく笑った。
「たぶん、そうなるだろうね」
「それで、今日はどうだったって聞くの」
「最悪だったよ」
彼女は笑った。
「どうして最悪なの?」
「森探偵がまた矛盾を発見したから」
彼女は首を振った。
「それで、私が少し休んだらって言うの」
「僕は、もう少しで終わるって答える」
「嘘でしょ」
「たぶん」
彼女は微笑んだ。
「それでも、私は春人の隣に座るの」
僕は彼女を見た。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから僕は静かに言った。
「そうなったら、嬉しいな」
◇ ◇ ◇
翌朝、僕は由紀叔母さんに、母さんの古い写真を見せてもらえないかと頼んだ。
文学団体から短い経歴を求められていたので、母さんが僕の物語への興味をどう支えてくれたか、少し書こうかと考えていたのだ。
昔の写真を見れば、話したい思い出を思い出せるかもしれない。
叔母さんは小さな箱を僕の部屋へ持ってきた。
中には写真があった。
誕生日カード。
学校の書類。
古い手紙。
そして、母さんだけが理由を知っているような小さな思い出の品々。
夏美さんが、僕から見やすい位置に箱と中身を置いてくれた。
由紀叔母さんは写真を整理し始めた。
「こんなにたくさんあるのね」
彼女は静かに言った。
僕は微笑んだ。
「母さん、何でも取っておく人だったから」
「本当にそうだったわ」
叔母さんが一枚の写真を持ち上げた。
そこには、ずっと幼い僕が写っていた。
車椅子に座っていた。
目の前の読書台には本が開かれていた。
母さんが隣で微笑んでいた。
僕は写真を見つめた。
「その本、覚えてる」
叔母さんは僕を見た。
「覚えてるの?」
僕はうなずいた。
「推理小説だった」
彼女は微笑んだ。
「やっぱりね」
◇ ◇ ◇
僕たちは写真を見続けた。
誕生日の写真。
病院で撮った写真。
家で過ごした静かな午後。
ほとんど覚えていない瞬間。
そして、写真を見ただけで胸が痛くなるほど鮮明に覚えている瞬間。
そのとき、由紀叔母さんが古い封筒の中から、折りたたまれた一枚の紙を見つけた。
彼女の手が止まった。
「春人」
僕は彼女を見た。
「何?」
「これ、お母さんの手紙の一部だと思う」
心臓が一瞬止まったような気がした。
あの書きかけの手紙。
母さんが遺してくれた手紙。
何度も何度も読み返してきた手紙。
叔母さんは慎重に紙を開いた。
見覚えのある筆跡だった。
あまりにも懐かしくて、一瞬、母さんが僕の隣に座っているような気がした。
文字を書き、
手を止め、
何を伝えたいのか考えている母さんの姿が。
叔母さんは僕を見た。
「読んであげようか?」
僕は唾を飲み込んだ。
そしてうなずいた。
「お願い」
◇ ◇ ◇
叔母さんの声は優しかった。
「春人へ」
僕は目を閉じた。
「あなたに約束できたらいいのにと思うことが、たくさんあります」
僕は耳を傾けた。
「人生がいつも優しいものであること」
「人々がいつもあなたを理解してくれること」
「世界がいつもあなたのための場所を用意してくれること」
「でも、守れない約束をしてはいけないことくらい、私は知っています」
胸が締めつけられた。
叔母さんは続けた。
「それでも、一つだけ約束できます」
「あなたの母親になったことを、私は一度だって後悔したことがありません」
涙があふれそうになった。
「大変だった夜も」
「怖かった病院での日々も」
「二人とも疲れ果てて、明日がどうなるのか分からなかった日も」
「あの日々は確かに大変でした」
「でも、私たちの日々だったのです」
僕は人工呼吸器のリズムに合わせて、できるだけ落ち着いて呼吸を続けた。
叔母さんは少し間を置いた。
僕は続きを読んでほしいとうなずいた。
◇ ◇ ◇
「あなたが小さかったころ、よく青い玄関の扉の向こうには何があるのかと聞いていましたね」
記憶がよみがえった。
昔の家。
青い扉。
その横の窓から差し込む日差し。
母さんの声。
「まだ行ったことのない場所について尋ねることもありました」
「会ったことのない人たちについて尋ねることもありました」
「そして、ときどき、外の世界には自分を待っている物語があるのかと聞いていましたね」
叔母さんの声がわずかに震えた。
「私はいつも、あるよ、と答えたかった」
「そう信じていたからです」
「今も信じています」
涙が頬を伝った。
夏美さんがそっとティッシュを差し出し、由紀叔母さんが優しく手伝ってくれた。
そして、続きを読む。
◇ ◇ ◇
「いつかあなたが、助けを必要とすることだけではなく、あなた自身を見てくれる人たちと出会えますように」
「あなたが話すとき、耳を傾けてくれる人たち」
「あなたの冗談がひどくても、笑ってくれる人たち」
こんなときなのに、僕は微笑んだ。
母さんは僕の冗談について、いつも容赦なく正直だった。
「あなたの選択を尊重してくれる人たち」
「あなたを愛することと、あなたの人生を代わりに決めることは違うのだと理解してくれる人たち」
叔母さんは少し間を置いた。
そして続けた。
「そして、もしあなたが誰かを愛するようになったら、明日が来ることを楽しみに思わせてくれる人と出会ってほしい」
僕は目を見開いた。
葵。
彼女の笑顔。
笑い声。
僕の名前を呼ぶ声。
一緒に過ごした夜。
少しずつ立てている未来の計画。
そのすべてが、頭の中を駆け巡った。
◇ ◇ ◇
叔母さんの声がさらに静かになった。
「あなたがどんな大人になるのか、私には分かりません」
「どんな仕事を選ぶのかも」
「どこに住むのかも」
「でも、どうか好奇心を失わないでください」
「質問することをやめないでください」
「周りの世界の中に、物語を見つけることをやめないでください」
叔母さんは唾を飲み込んだ。
「そして、もしその物語の一つを書き留めることがあったら、誰かに読んでもらってほしい」
僕は何も言えなかった。
コミュニケーション画面に用意していた言葉さえ、使えなかった。
叔母さんは続けた。
「あなたが伝えたいことを、世界は知る価値があるのだから」
長い沈黙があった。
それから叔母さんは最後の一文を読んだ。
「そして、いつかあの青い扉の向こうへ進んでいくとき、覚えていてほしいのです」
「私はあなたを家の中に閉じ込めたかったわけではありません」
「ただ、あなたが安心して出発できる場所を用意しておきたかっただけなのです」
◇ ◇ ◇
叔母さんは紙を下ろした。
長い間、誰も何も言わなかった。
部屋には、医療機器の聞き慣れた音だけが響いていた。
僕は手紙を見つめた。
母さんの筆跡を。
母さんが亡くなる前に書いてくれた言葉を。
存在すら知らなかった言葉だった。
それなのに、今の僕が一番必要としている瞬間に届いたような気がした。
叔母さんは涙を拭った。
「お母さんは、本当に春人を愛していたのよ」
僕は彼女を見た。
「分かってる」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
叔母さんは悲しそうに微笑んだ。
「きっと誇りに思ってるわ」
僕はパソコンへ目を向けた。
原稿はまだ開かれていた。
それから招待状へ。
そして葵の写真へ。
僕は唾を飲み込んだ。
「そうだといいな」
叔母さんはそっと僕の肩に触れた。
「絶対にそうよ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は葵に電話した。
彼女は笑顔で出た。
「やあ、春人」
僕も笑おうとした。
でも、彼女はすぐに気づいた。
「春人?」
僕は彼女を見た。
「ちょっと、いろいろあって」
彼女の表情が変わった。
「大丈夫?」
僕はうなずいた。
「うん」
少し間を置いた。
「母さんの手紙の続きを見つけたんだ」
葵は静かになった。
「ああ、春人……」
僕は彼女に話した。
青い扉のこと。
物語のこと。
母さんが僕に出会ってほしいと願っていた人たちのこと。
そして、愛について書かれていた一文のこと。
葵は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
話し終えたとき、彼女の目は潤んでいた。
「素敵なお母さんだったんだね」
僕はかすかに微笑んだ。
「うん」
葵はうつむいた。
それから僕を見た。
「私も会ってみたかった」
胸が締めつけられた。
「僕も、会わせたかった」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは静かに過ごした。
それから葵が口を開いた。
「文学イベントで、お母さんのことを話すつもり?」
僕は考えた。
「そうするかもしれない」
彼女はうなずいた。
「手紙を全部話す必要はないからね」
「分かってる」
「春人だけの大切なものとして、残しておいてもいいんだよ」
僕は机のそばの手紙を見た。
「青い扉のことを話そうかな」
葵は微笑んだ。
「お母さんも喜ぶと思う」
僕も微笑んだ。
「そうかもしれないね」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は司会者からの質問に戻った。
『あなたは自分を、まず障害のある作家だと考えますか。それとも、単に一人の作家だと考えますか。』
僕はそれを見つめた。
そして、新しい文書を開いた。
今度は、何を伝えたいのか分かっていた。
入力を始めた。
『僕は、その二つが対立するものだとは思っていません。』
少し間を置いた。
そして続けた。
『僕には障害があります。』
『そして、僕は作家でもあります。』
『障害は僕の経験を形作ってきました。でも、僕が語りたい物語の種類を制限するものではありません。』
『障害のある登場人物を書くのは、物語の中で自分たちのような人間が描かれることの大切さを知っているからです。』
『でも、推理小説を書くのは、謎解きが好きだからでもあります。』
『恋愛小説を書くのは、愛は誰にでもあるべきものだと信じているからです。』
『家族の物語を書くのは、家族が人生をどれほど大きく形作るか知っているからです。』
『そして僕が物語を書くのは、子どものころからずっと、物語が部屋の壁の向こうにある可能性を想像させてくれたからです。』
僕は母さんの写真へ目を向けた。
そして続けた。
『母は昔、家の青い玄関の扉の向こうには、僕を待っている物語があると教えてくれました。』
『小説を書くことは、その物語を見つけ始めるための、一つの方法だったのだと思います。』
僕は手を止めた。
答えを読み返した。
そして微笑んだ。
初めて、しっくりきた。
◇ ◇ ◇
翌朝、文学団体との接続テストが行われた。
緊張していた。
自分で認めたくないほどに。
夏美さんが、機器を正しい位置に整えるのを手伝ってくれた。
コミュニケーションソフトは準備できていた。
パソコンも接続されていた。
カメラも調整済みだった。
短い自己紹介も用意してあった。
すべて問題なさそうだった。
会議が始まるまでは。
「おはようございます、高橋さん!」
画面の向こうで司会者が微笑んだ。
僕は返事を準備した。
コミュニケーションソフトを操作した。
ところが――
何も起こらなかった。
僕は画面を見つめた。
文字は表示されていた。
でも、音声が出なかった。
素晴らしい。
本当に素晴らしい。
初めての文学イベントの、初めての接続テスト。
そして僕のパソコンは、どうやら無言劇の役者になることを決めたらしい。
◇ ◇ ◇
もう一度試した。
やはり何も聞こえなかった。
夏美さんが音声設定を確認した。
司会者は辛抱強く待ってくれていた。
顔が熱くなるのを感じた。
言葉はそこにあった。
画面には見えていた。
でも、会議には音声が届いていなかった。
数分後、原因が分かった。
ソフトが音声を間違った出力先へ送っていたのだ。
単純な設定の問題だった。
修正できる問題だった。
でも、その数分間で、僕の頭の中にはあらゆる最悪の展開が浮かんでいた。
本番で起きたらどうしよう。
誰にも声が届かなかったら?
僕が混乱してしまったら?
みんなが待ちきれなくなったら?
もし――
「高橋さん?」
僕は画面を見た。
司会者が微笑んでいた。
「もう一度試してみましょうか?」
僕は少し間を置いた。
そしてソフトを操作した。
「おはようございます。お待ちいただき、ありがとうございます」
今度は音声が流れた。
司会者は微笑んだ。
「完璧です」
僕は人工呼吸器の補助に合わせて、無理のない範囲で息を整えた。
完璧ではなかったかもしれない。
でも、動いた。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
接続テストは続いた。
マイクへの音声の送り方。
音声読み上げ。
カメラ。
チャット機能。
長い回答を送る方法。
司会者は、質問のあとに十分な時間を取り、僕が返答を準備している途中で遮らないことに同意してくれた。
ソフトが動かなくなった場合の対応についても話し合った。
予備の方法として、文字チャットが使えるようになっていた。
僕の許可があれば、司会者が入力した回答を読み上げることもできる。
そして技術的な問題に対応する担当者も待機してくれるという。
テストが終わるころには、かなり気持ちが楽になっていた。
恐怖がなくなったわけではない。
でも、準備はできていた。
その二つは違う。
◇ ◇ ◇
会議のあと、僕は葵に電話した。
彼女はほとんどすぐに出た。
「どうだった?」
僕は微笑んだ。
「まあ、パソコンに妨害されたよ」
彼女は瞬きをした。
「え?」
音声の問題について説明した。
彼女は聞いていた。
それから小さく笑った。
「やっぱり何か起きたんだね」
「当然だよ」
「でも、直ったんでしょ?」
「助けてもらってね」
「それで、テストは続けられた?」
「うん」
彼女は微笑んだ。
「だったら成功だと思う」
僕は考えた。
「完璧じゃなかったのに?」
「完璧じゃなかったからこそ、だよ」
僕は彼女を見た。
彼女は続けた。
「また同じことが起きたとき、どうすればいいか分かったでしょ?」
僕は微笑んだ。
「そうだね」
「主催者がちゃんと協力してくれることも分かった」
「それもそうだね」
彼女は顔を近づけた。
「ほら」
「何?」
「春人も学んでるんだよ」
僕は笑った。
「どうやらね」
◇ ◇ ◇
その夜も、僕たちは静かなビデオ通話をした。
葵は、あるかもしれない面接のための資料を見直していた。
僕は文学座談会の回答を準備していた。
どちらも、まだ望んでいる未来にはたどり着いていなかった。
葵はまだ仕事の採用通知をもらっていない。
僕の小説もまだ出版されていない。
家も決まっていない。
引っ越しに関わる複雑な問題も、まだ解決していない。
でも、僕たちはそこへ向かっていた。
ゆっくりと。
慎重に。
一緒に。
ふと、葵が顔を上げた。
「春人?」
「何?」
「私たち、いろいろやりすぎてるのかなって思うことある?」
僕は考えた。
「ときどきね」
彼女はかすかに微笑んだ。
「私も」
僕は彼女を見た。
「でも、全部を一度にやる必要はないと思う」
彼女はうなずいた。
「一つずつ?」
「一つずつ」
◇ ◇ ◇
通話を終える前に、葵が司会者への回答を読んでほしいと言った。
僕はためらった。
それから承諾した。
コミュニケーションソフトを使い、書いておいた言葉を伝えた。
障害があること。
作家であること。
推理小説と恋愛小説のこと。
家族のこと。
そして母さんの青い扉のこと。
葵は黙って聞いていた。
読み終えたとき、彼女は泣いていた。
僕は彼女を見つめた。
「また?」
彼女は涙を浮かべたまま笑った。
「また」
僕は微笑んだ。
「僕の評判が台無しになるよ」
「何の評判?」
「冷静で謎めいた文学の天才という評判」
彼女はさらに笑った。
「春人、そんなふうに思ってるの、大地叔父さんだけだよ」
僕は少し考えた。
「確かに」
◇ ◇ ◇
笑い終わったあと、葵は僕を見た。
「一つ言ってもいい?」
「もちろん」
彼女は優しく微笑んだ。
「春人のお母さん、今の答えを聞いたら、きっと喜んだと思う」
胸が締めつけられた。
僕は机のそばの写真へ目を向けた。
それから葵を見た。
「そうかな?」
彼女はうなずいた。
「うん」
僕は唾を飲み込んだ。
そして微笑んだ。
「そうだといいな」
◇ ◇ ◇
その夜遅く、通話が終わったあと、僕は青いスクラップブックを開いた。
夏美さんに手伝ってもらい、葵への手紙を挟んだページを開いた。
その隣に、今回見つかった母さんの手紙の一枚を複写したものを置いた。
二通の手紙。
違う時代に書かれたもの。
一度も会ったことのない二人が書いたもの。
一つは、息子が育った家の向こうに未来を見つけてほしいと願った母親から。
もう一つは、愛する人と一緒に、その未来を想像し始めた息子から。
僕は長い間、それらを見つめた。
そして新しい文書を開いた。
一つの文章を書いた。
『母さんが僕に遺してくれた最大の贈り物は、もう二度と怖がらなくていいという約束ではなかったのかもしれない。』
『怖くても、扉を開け続ける勇気だったのかもしれない。』
◇ ◇ ◇
窓の外では、夕空が暗くなっていた。
家の中には、いつもの時間が流れていた。
廊下のどこかでは、大地叔父さんが由紀叔母さんと、探偵帽を正式な服装として認めるべきかどうか議論していた。
夏美さんは予定された確認を終えようとしていた。
そして別の街では、葵が明日の仕事に備えていた。
何でもないこと。
見慣れたこと。
特別な人々についての物語には、あまり登場しないような瞬間。
でも僕は、そういう瞬間こそが一番大切なのかもしれないと思い始めていた。
未来は、大きな成功だけで作られるものではないからだ。
送信した応募書類。
書き直した原稿。
答えた質問。
難しい会話。
接続テスト。
小さな約束。
そして、明日もう一度挑戦しようと決めること。
そういうものが、未来を作っていくのだ。
◇ ◇ ◇
僕は子どものころの写真を見た。
隣には母さんがいた。
読書台には本が開かれていた。
かつて青い玄関の扉の向こうに何があるのかと尋ねていた、小さな男の子。
もし今の僕を見ることができたら、彼は何を思うだろう。
三十歳。
今も車椅子を使っている。
今も医療機器に支えられている。
今も、ときどき怖くなるような不安と向き合っている。
でも、小説を書いている。
誰かを愛している。
計画を立てている。
夢を見ている。
生きている。
誰もが予想した人生ではないかもしれない。
楽な人生でもない。
でも、僕の人生だった。
◇ ◇ ◇
僕はパソコンへ戻った。
文学座談会の日が近づいていた。
葵の応募は返事を待っていた。
賃貸住宅には、まだ専門家による評価が必要だった。
そして森探偵には、まだ解かなければならない殺人事件があった。
分からないことは、あまりにも多かった。
自分ではどうにもできないことも、たくさんあった。
でも、今はその不確かさが、物語の終わりのようには感じられなかった。
新しい章の始まりのように感じられた。
僕は原稿を開いた。
カーソルが点滅した。
僕を待っていた。
僕は微笑んだ。
そして書き始めた。
なぜなら、すでに書き終えたページの向こうには、まだ語られるのを待っている物語があるから。
そして、これから開く扉の向こうには――
ようやく手を伸ばす勇気を持てるようになった、僕の明日が待っているのだから。




