第90話 まだ書き終えていない物語の向こうで、僕たちを待っていた夢
葵が僕の小説を読み終えて最初に口にした言葉は、まったく予想していないものだった。
本当に、少しも予想していなかった。
「春人」
ビデオ通話の画面越しに、僕は彼女を見た。
「何?」
「ちょっと問題があるんだけど」
それは、決して安心できる会話の始まり方ではなかった。
特に、話している相手が僕の恋人である場合は。
しかも彼女は、まるで僕が何かとんでもない罪を犯したかのような顔をしていた。
「どんな問題?」
葵は腕を組んだ。
「ものすごく深刻な問題」
僕は時計に目を向けた。
もうすぐ夜の九時だった。
数分前、夏美さんが人工呼吸器の機器を確認し終えたところで、僕は寝る前に葵と穏やかな時間を過ごせることを楽しみにしていた。
どうやら、平穏というものには別の予定があったらしい。
「心配したほうがいい?」
「ものすごくね」
「そっか」
葵はカメラに顔を近づけた。
「どうして森探偵があんなに皮肉屋だって教えてくれなかったの?」
僕は彼女を見つめた。
それから瞬きをした。
「問題って、それ?」
「そう!」
笑わないようにした。
残念ながら、顔には出てしまったらしい。
葵が目を細めた。
「笑わないで」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「これは病気なんだ」
「春人」
「治療法がないんだよ」
彼女はうめいた。
そして僕は笑った。
正確に言えば、呼吸と人工呼吸器の補助に無理のない範囲で笑った。
それほど立派な笑い声ではなかった。
でも、心からの笑いだった。
◇ ◇ ◇
葵はこの二晩をかけて、僕が書き上げた推理小説『森探偵 ― 密室の向こうに眠る殺意』を読んでいた。
最新の改稿を終えたあと、僕が原稿を送ったのだ。
完璧だと思ったからではない。
とんでもない。
まだ問題があることは分かっていた。
展開の速度を調整する必要があった。
いくつかの手がかりは登場するのが遅すぎた。
犯人の自白に、事件の説明を頼りすぎていた。
そして、最後の推理が明らかになる過程にも、僕は完全には満足していなかった。
それでも、一つの物語として完成していた。
僕の物語。
最初から最後まで、自分で書いた推理小説だった。
そして今、初めて、僕の愛する女性がそのすべてを読んでくれた。
怖いはずだった。
実際、怖かった。
ただ、予想していたのとは少し違う意味で。
「それで?」
僕は尋ねた。
葵が首を傾げた。
「それで、って?」
「どうだった?」
「今言ったでしょ」
「森探偵が皮肉屋だって言っただけだよ」
「そうよ」
「それは感想じゃないよ」
「観察結果よ」
「葵」
「春人」
僕はため息をついた。
彼女は微笑んだ。
そして、その表情が柔らかくなった。
「大好きだったよ」
一瞬、言おうとしていたことを忘れてしまった。
「本当に?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
僕は車椅子のそばに設置されたコミュニケーション用の画面へ目を落とした。
あの原稿を何時間も見つめ続けてきたせいで、いくつかの文章はほとんど暗唱できるほどだった。
ぎこちない文章も。
移動させた手がかりも。
何度も書き直した会話も。
自分は時間を無駄にしているのではないかと悩んだ瞬間も。
全部覚えていた。
だから葵に好きだと言われると、どこか現実味がなかった。
「恋人だから、そう言ってくれてるだけじゃない?」
彼女は心外そうな顔をした。
「何ですって?」
「いや、その……」
「高橋春人」
ああ、まずい。
フルネームだ。
これは絶対によくない。
「気に入らないところがあったら、ちゃんと言うわよ」
「分かってる」
「最初に読ませてくれた第一章について、私が何て言ったか覚えてる?」
僕は顔をしかめた。
「始まりが遅すぎるって」
「それから?」
「森が説明ばかりしてるって」
「それから?」
僕はためらった。
「被害者のほうが探偵より面白いって」
葵は満足そうにうなずいた。
「そのとおり」
「思い出させてくれてありがとう」
「どういたしまして」
彼女は笑った。
それから椅子にもたれた。
「でも、今回のは違う」
「どう違うの?」
「森が、本当に生きている人みたいに感じられたの」
僕は耳を傾けた。
「気まずくなると冗談を言うし、ほかの人が見落とす細かいことに気づくし。ちょっと腹が立つこともあるけど、意地悪な人じゃない」
彼女は少し間を置いた。
「それに、彩がすごく好き」
僕は微笑んだ。
「だろうね」
葵が目を細めた。
「どういう意味?」
「別に」
「春人」
「本当に何でもないよ」
彼女は腕を組んだ。
「彩って、私をモデルにしたんでしょ?」
僕は視線をそらした。
葵が息をのんだ。
「やっぱり!」
「そんなこと言ってないよ」
「言わなくても分かる!」
僕は選択肢を考えた。
あまり多くはなかった。
「彩は元新聞記者だよ」
「それが?」
「葵は看護師でしょ」
「関係ないわ」
「彩は二十八歳だし」
「春人」
「髪型だって全然違う」
葵はカメラを指さした。
「頭がよくて皮肉屋の男がひどい冗談を言うたびに、それを止めようとしてる女性なのよ」
僕は黙った。
彼女は微笑んだ。
「誰かに似てない?」
「不幸な偶然だね」
「ふうん」
「小説ではよくあることだよ」
「そうでしょうね」
僕はため息をついた。
葵は笑った。
そして僕の中で、一晩中抱えていた緊張が少しずつほどけていった。
◇ ◇ ◇
葵には、真剣に話したい場面が一つあった。
結末だった。
正確には、森と彩の最後の会話。
「真実について森が言った言葉、好きだった」
彼女が言った。
どの一文のことか、すぐに分かった。
『ときには、真実こそが死者に残してあげられる唯一のものだからです。』
あの一文は七回書き直した。
もしかすると八回かもしれない。
もう数えていなかった。
「ちょっと大げさだった?」
「ううん」
「感傷的すぎた?」
「ううん」
「それとも……」
「春人」
僕は口を閉じた。
彼女は優しく微笑んだ。
「きれいな言葉だったよ」
僕は彼女を見た。
数秒間、何も言えなかった。
葵は続けた。
「でも、一つ気づいたことがあるの」
胃のあたりがきゅっと縮んだ。
来た。
批評だ。
僕が見落としていた問題だ。
「何?」
「物語のほとんどは、殺人事件を解くことについて書かれているでしょ」
「まあ、そうだね」
「推理小説だものね」
「そのつもりで書いたから」
彼女は微笑んだ。
「でも、私が一番覚えているのは、事件が終わったあとに森が彩と話す場面なの」
僕は考えた。
「本当に?」
「本当に」
「どうして?」
「そこで初めて、森という人が分かった気がしたから」
彼女は机の上の原稿へ目を落とした。
「ほかの人のために答えを見つけるのは得意なのに、自分にとって大切なものを認めるのは苦手なんだと思う」
僕は黙っていた。
葵が顔を上げた。
「そして彩は、それを分かってる」
長い間、彼女を見つめた。
自分が作った登場人物について、誰かが本当に存在する人間のように語るのは、不思議な感覚だった。
しかも、その人物たちを僕以上に理解しているように聞こえるのだから、なおさらだった。
「二人の場面をもっと増やしたほうがいいと思う?」
「絶対に」
「謎解きの展開が遅くなっても?」
「その場面に意味があれば、遅くならないと思う」
彼女は少し考えた。
「二人の関係そのものが、事件を解く手がかりになってもいいんじゃない?」
僕は彼女を見つめた。
葵は瞬きをした。
「何?」
「いや、何でもない」
「その顔してる」
「どんな顔?」
「執筆中の顔」
「そんな顔ないよ」
「絶対ある」
僕はパソコンへ視線を向けた。
もうアイデアが浮かび始めていた。
完成されたアイデアではない。
特別に優れたものでもない。
でも、何かがあった。
捜査の序盤で、森と彩が交わす会話。
被害者の習慣について意見が食い違う場面。
仕掛けよりも人間に注意を向ける彩だからこそ気づく細部。
ただ探偵の隣に立っているだけではない、彼女自身の役割。
二人の協力から自然に解決へつながる何か。
僕は微笑んだ。
葵がうめいた。
「ああ、もう」
「何?」
「春人がどこかへ行っちゃった」
「一時的にね」
「もう頭の中で書き直してるでしょ」
「たぶん」
彼女は首を振った。
「信じられない」
それから微笑んだ。
「でも、嬉しい」
◇ ◇ ◇
翌朝、編集者から届いたメールを読んで、葵と同じような指摘があることに気づいた。
朝食を終えて間もなく、通知が画面に表示された。
僕は『森探偵』の改稿メモを整理していたところだった。
メールを開いた。
最初の段落を読んだ。
次の段落を読んだ。
さらにその次を読んだ。
四つ目の段落に差しかかったころには、作家になろうと決めたことを少し後悔し始めていた。
本気ではない。
たぶん。
編集者のコメントは丁寧だった。
励ましもあった。
具体的だった。
そして、容赦がなかった。
中心となる謎には可能性がある。
森の個性は印象に残る。
彩との対比も魅力的だ。
会話も大きく改善されている。
しかし――
その言葉。
『しかし』。
僕はそろそろ、この言葉に個人的な恨みを抱き始めていた。
編集者によれば、重要な手がかりのいくつかが解決場面の直前に登場しているという。
錠の改造には、もっと早い段階から伏線が必要だった。
被害者の紅茶の習慣も、前半で自然に示すべきだった。
金銭に関する証拠は、あまりにも都合よく後から出てくる。
そして犯人の自白が事件を説明しすぎており、森自身が推理の過程を十分に示せていない。
僕は画面を見つめた。
それからため息をついた。
「素晴らしいね」
夏美さんが機器の点検表から顔を上げた。
「いい知らせ?」
「場合によるかな」
「何によるの?」
「自分の推理小説の半分を組み直さなきゃいけないと分かったことを、いい知らせと呼べるかどうか」
彼女は微笑んだ。
「編集者さんがそう書いていたの?」
「そのままの言葉ではないけど」
「じゃあ、ちょっと大げさに受け取ってるんじゃない?」
僕は彼女を見た。
「夏美さん」
「何?」
「僕は作家なんだ」
「それで?」
「大げさなのも仕事のうちだよ」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
それから一時間、編集者のメモを整理した。
パソコンで仕事をする利点の一つは、紙の束を物理的に扱わなくても、場面を丸ごと移動できることだった。
音声操作を含む補助ソフトを使い、時系列、容疑者、手がかり、人物関係について、それぞれ別の資料を作った。
そして、自分が事件を捜査しているかのように、謎を調べ始めた。
読者は何を知っているのか。
いつ、それを知るのか。
森は何を合理的に推理できるのか。
そして僕は、早く明かすと謎が簡単になってしまうという理由だけで、どんな情報を隠していたのか。
最後の質問は、特に耳が痛かった。
なぜなら、答えは――
かなり多かったからだ。
読者を驚かせることばかり考えて、読者自身が事件を解く公平な機会を与えていなかった。
優れた推理小説は、最後の章まで答えのすべてを隠しておくものではない。
答えを読者の目の前に置くものだ。
そして、別の方向へ目を向けさせる。
僕は構成表を見つめた。
「さて、森さん」
画面には探偵の名前が表示されていた。
「どうやら、君も自分で思っているほど賢くはないみたいだね」
夏美さんがちらりと見た。
「また登場人物と話してるの?」
「残念ながら」
「心配したほうがいい?」
「向こうが返事を始めたらね」
彼女は笑った。
僕も微笑んだ。
そして作業に戻った。
◇ ◇ ◇
昼までに、冒頭の場面を書き直した。
午後二時には、別の問題を発見した。
三時には、推理小説というものを発明した人間に、厳重な抗議文を送りたい気分になっていた。
そして四時には――
僕は少しずつ楽しみ始めていた。
自分でも意外だった。
改稿は罰のように感じると思っていた。
でも実際には、別のものへと変わり始めていた。
物語をもっとよくする機会。
なぜある場面がうまく機能するのかを理解する機会。
そして、なぜ別の場面はそうならないのかを学ぶ機会。
単に間違いを直しているのではなかった。
僕は学んでいた。
疲れる作業だった。
もどかしかった。
ときには情けなくもなった。
でも、わくわくもした。
初めて、原稿を完成させることと、人に読んでもらう価値のある作品へ磨き上げることの違いが見え始めていた。
そして、その違いは大切だった。
◇ ◇ ◇
残念ながら、叔父さんは状況をまったく違う意味で理解していた。
それに気づいたのは、彼が大きなファイルを抱えて僕の部屋に入ってきたときだった。
とても大きなファイルだった。
叔父さんは真剣な表情をしていた。
それだけで怪しかった。
「春人」
僕は顔を上げた。
「大地叔父さん」
「話がある」
ああ、まずい。
「何の話?」
「お前の仕事についてだ」
僕は彼を見つめた。
「僕の何?」
「作家としての仕事だ」
叔父さんはファイルを机の上に置いた。
正確には、夏美さんが片づけてくれていた空きスペースに置いた。
表紙には大きな文字で三つの単語が書かれていた。
HARUTO TAKAHASHI MANAGEMENT
僕は目を閉じた。
「嫌だ」
叔父さんは心外そうな顔をした。
「まだ中身も見てないだろう!」
「見なくても分かるよ」
「春人!」
「叔父さん」
「これは大事なことなんだぞ!」
「だから心配なんだよ」
叔父さんはファイルを開いた。
中には印刷された紙が何枚もあった。
予定表。
宣伝案。
想定インタビューの質問。
そして、どう見てもロゴらしきもの。
僕はそれを見つめた。
「どうして虫眼鏡を持った探偵の絵があるの?」
「ブランドの認知度を高めるためだ」
「どうしてサングラスをかけてるの?」
「現代的な魅力だ」
「どうして後ろに稲妻があるの?」
叔父さんは誇らしげに微笑んだ。
「迫力だ」
僕は天井を見た。
「誰か助けて」
◇ ◇ ◇
どうやら叔父さんは、文学イベントへの参加の可能性があるというだけで、僕が世界的な名声を得る寸前だと思い込んでいたらしい。
彼は宣伝戦略を一式用意していた。
当然ながら、グッズも含まれていた。
「森探偵のマグカップ!」
「いらない」
「しおり!」
「それは、まあ」
「限定版のペン!」
「必要ないよ」
「Tシャツ!」
「絶対にいらない」
「アクションフィギュア!」
僕は彼を見つめた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「森探偵は車椅子を使ってるんだよ」
「知ってるぞ!」
「じゃあ、どうしてこの絵ではビルの屋上に立ってるの?」
叔父さんは絵を見た。
それから僕を見た。
そしてもう一度、絵を見た。
「芸術的な解釈?」
僕は目を閉じた。
「違う」
彼は眉をひそめた。
「難しい依頼人だな」
「僕は依頼人じゃないよ」
「まだな」
「これからも違うよ」
◇ ◇ ◇
叔父さんが出版記念ツアーの計画を説明し始めたところで、由紀叔母さんが入口に現れた。
「大地」
叔父さんは固まった。
世界には、叔父さんの話を途中で止められるものがほとんどない。
叔母さんの声は、その数少ないものの一つだった。
「な、何だい?」
「何をしているの?」
「春人を手伝ってるんだ」
叔母さんはファイルを見た。
それから書類を見た。
そしてビルの屋上に立つ森探偵の絵を見た。
表情がすっと静かになった。
「大地」
「はい」
「春人に頼まれたの?」
「正確には、そうじゃない」
「編集者さんに?」
「いや」
「出版契約は結んだの?」
「まだだ」
「文学イベントへの参加は正式に決まったの?」
叔父さんはためらった。
「それは、その……」
由紀叔母さんは腕を組んだ。
「だったら、世界ツアーの計画はやめたら?」
叔父さんは傷ついたような顔をした。
「でも、もうTシャツをデザインしたんだぞ」
僕は彼を見つめた。
「本当にデザインしたの?」
叔父さんの顔が明るくなった。
「見たいか?」
「見たくない!」
夏美さんが吹き出した。
◇ ◇ ◇
叔父さんが考えた作家紹介文を披露したとき、事態はさらに悪化した。
彼は大げさに咳払いをした。
「高橋春人。未来を切り開く小説家。文学の天才。サスペンスの巨匠。その想像力に限界はなく――」
「やめて」
「――そして彼の輝かしい推理小説は――」
「叔父さん」
「――世界中の読者の心をつかみ――」
「大地叔父さん!」
彼は止まった。
僕は彼を見つめた。
「まだ何も出版してないんだよ」
叔父さんは少し考えた。
「まだ、な」
「その『まだ』が重要なんだよ」
「偉大な作家だって、最初はどこかから始めるものだ」
「そうだね」
「俺はお前を信じてる」
その言葉に、僕は黙った。
叔父さんの表情が柔らかくなった。
珍しく、その笑顔の裏に冗談はなかった。
「春人が緊張してるのは分かってる」
僕は彼を見た。
叔父さんは続けた。
「自分の作品を真剣に受け止めてもらえるか、不安なんだろう」
僕は何も言わなかった。
「でも、俺は真剣に受け止めてるぞ」
部屋が静かになった。
叔父さんはファイルへ目を落とした。
「ちょっと張り切りすぎたかもしれないな」
由紀叔母さんが眉を上げた。
「ちょっと?」
彼はため息をついた。
「分かった。かなりだ」
そして僕を見た。
「でも、誇りに思ってるんだ」
胸の奥がきゅっとなった。
「ありがとう、叔父さん」
彼は微笑んだ。
それから付け加えた。
「それでもアクションフィギュアは売れると思うんだがな」
「出ていって」
叔父さんは笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、拓海から電話があった。
彼は緊張しているようだった。
それ自体は珍しくなかった。
珍しかったのは、何時間も同じ画面を見つめ続けていたような顔をしていたことだった。
「春人さん?」
「やあ、拓海」
「一つ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
彼はためらった。
「何かを投稿した直後に、消したくなったことってありますか?」
僕は微笑んだ。
「しょっちゅうあるよ」
「本当ですか?」
「もちろん」
彼は安心したようだった。
そしてすぐに、また不安そうな顔になった。
「小説を応募しました」
僕は車椅子の中で、少し姿勢を正すように意識を向けた。
「本当に?」
彼はうなずいた。
「コンテストに」
「拓海、すごいじゃないか!」
彼はうつむいた。
「分かりません」
「どうして?」
「ひどい作品だったらどうしようって」
僕は少し考えた。
「そのときは、ひどい作品を応募したことになるね」
彼は僕を見つめた。
「それ、励ましになってます?」
僕は微笑んだ。
「最後まで聞いて」
◇ ◇ ◇
僕は編集者から届いた指摘について話した。
励ましの部分ではない。
難しい部分についてだ。
推理小説の問題点。
書き直さなければならない場面。
登場が遅すぎる手がかり。
十分に描けていない人物関係。
拓海は黙って聞いていた。
「でも、編集者さんは春人さんの小説を気に入ってくれたんですよね」
「一部はね」
「それでも違いますよ」
「そうかもしれない」
僕は少し間を置いた。
「でも、誰かに読んでもらう前に、僕が何をしたか分かる?」
彼は首を振った。
「書いたんだよ」
拓海は瞬きをした。
「それは、まあ、そうですけど」
「そういうこと」
僕は微笑んだ。
「書く前には、物語そのものがなかったんだ」
彼は考え込んだ。
「今の僕には、直さなければならない原稿がある」
僕は続けた。
「拓海には、応募した作品がある」
「次に何が起きるか、どちらにも分からない」
「でも、僕たちは二人とも、怖かったことをやったんだ」
拓海は自分の手に目を落とした。
しばらく、何も言わなかった。
それから――
「そうですね」
僕は微笑んだ。
「今日はそれで十分だよ」
◇ ◇ ◇
彼はためらった。
「春人さん?」
「うん?」
「車椅子を使ってるからって、作品を違う目で見られることってあると思いますか?」
その質問に、僕は少し言葉を失った。
考えたことがなかったからではない。
むしろ、何度も考えてきたからだ。
「そういう人もいると思う」
僕は正直に答えた。
拓海は残念そうな顔をした。
僕は続けた。
「でも、だからといって、その評価が公平だとは限らない」
彼は黙っていた。
「拓海が伝えたいことを理解してくれる読者もいる」
「理解してくれない人もいる」
「障害のことばかり気にする人もいるかもしれない」
「逆に、ほとんど気にしない人もいると思う」
僕は少し間を置いた。
「すべての読者を思いどおりにすることはできないんだ」
拓海は僕を見た。
「でも、どんな作家になりたいかは、自分で決められる」
彼は唾を飲み込んだ。
「それに、物語を書く権利を、誰かに認めてもらう必要なんてないんだよ」
しばらく、二人とも黙っていた。
それから拓海は微笑んだ。
小さな笑顔だった。
でも、本物だった。
「ありがとうございます、春人さん」
「いつでも」
彼はためらった。
「もう一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「森探偵って、振られたりするんですか?」
僕は微笑んだ。
「しょっちゅうだよ」
拓海は笑った。
「本当に?」
「主に彩にね」
彼はさらに大きく笑った。
僕もつられて笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝、文学団体からメールが届いた。
夏美さんに朝の準備を手伝ってもらっているとき、件名が目に入った。
新人作家座談会へのご招待 ― 開催詳細について
心臓が少し速く鼓動し始めた。
メールを開いた。
最初の一文を読んだ。
そしてもう一度読んだ。
団体は、新人作家を招いた座談会への参加を正式に依頼してきたのだった。
テーマは、個人的な経験とフィクションの関係。
僕の作品の一部を読んでくれたという。
物語を書くときの考え方について、話を聞きたいとのことだった。
そして、僕自身の経験が登場人物にどのような影響を与えているのかにも関心があるらしい。
僕は画面を見つめた。
それから続きを読んだ。
イベントは数週間後に予定されていた。
小規模な観客。
司会者のいる座談会。
ほかにも数人の新人作家が参加する。
オンライン参加も可能だが、技術面の調整について確認したいとのことだった。
さらに、参加にあたって必要な配慮があるかどうかも尋ねられていた。
僕は夏美さんを見た。
「夏美さん」
彼女が振り向いた。
「何?」
「招待されたみたい」
彼女は微笑んだ。
「文学イベントに?」
僕はうなずいた。
「今度こそ、本当に」
◇ ◇ ◇
僕はメールをもう一度読んだ。
それから三度目も。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
でも、不安もあった。
招待されたことと、準備ができていることは別だったからだ。
主催者と連絡を取る必要がある。
自分が使っている機器やコミュニケーション方法を説明する必要がある。
オンラインのシステムが補助ソフトと問題なく使えるか確認しなければならない。
発言の時間配分。
休憩。
質問への対応。
急かされることなく、無理なく参加できるかどうか。
不可能ではない。
でも、無視していいことでもなかった。
僕は長年の経験から、アクセシビリティというものは問題が起きる前に準備するのが一番だと知っていた。
問題が起きてからではなく。
返信画面を開いた。
そして止まった。
何と書けばいいのだろう。
『こんにちは。ご招待ありがとうございます。ぜひ参加したいのですが、叔父がすでに世界ツアーを計画していることをご理解ください。』
いや。
絶対に違う。
頭の中から、その架空の一文を削除した。
そして、きちんとした返信を書き始めた。
◇ ◇ ◇
まず招待への感謝を伝えた。
参加したいという気持ちも書いた。
補助コミュニケーション技術を使用していること、質問に答えるまでに十分な時間が必要なことを説明した。
イベントで使用するシステムや座談会の形式について尋ねた。
質問を事前に共有してもらえるかどうかも確認した。
そして本番前に、接続と操作のテストを行いたいとお願いした。
書き終えたメールを二度読んだ。
きちんとした文章だった。
無理のない内容だった。
本物の作家が送りそうなメールだった。
不思議な気分だった。
送信した。
そして、しばらく黙っていた。
夏美さんが僕を見た。
「どんな気分?」
僕は考えた。
「自分が何をしてるのか全然分かってないって、みんなにばれる場所へ行く約束をした気分」
彼女は微笑んだ。
「人前で話す前は、たいていの人がそう感じるものよ」
「安心するね」
「どういたしまして」
僕は笑った。
それから招待状へ目を戻した。
そこには僕の名前があった。
高橋春人。
患者としてではない。
支援を受ける人間としてでもない。
ほかの誰かに人生を説明される存在としてでもない。
作家として。
僕はその文字を、長い間見つめていた。
◇ ◇ ◇
葵から電話があったのは、彼女の昼休みだった。
通話がつながると、すぐに僕の表情に気づいた。
「何があったの?」
僕は微笑んだ。
「おはよう、くらい言ってくれてもいいのに」
「春人」
「研修はどう?」
「春人」
「お昼ご飯は食べた?」
「高橋春人」
僕は笑った。
「分かったよ」
彼女が顔を近づけた。
「教えて」
「招待状が届いたんだ」
一瞬、彼女は固まった。
それから――
「ええっ!?」
僕は少し顔をしかめた。
「葵」
「文学イベントの!?」
「うん」
「正式な招待!?」
「そう」
「春人!」
彼女は椅子の上で跳びはねそうなほど喜んだ。
僕は微笑んだ。
「嬉しそうだね」
「嬉しいに決まってるでしょ!?」
彼女は笑った。
「本当に誇らしいよ!」
胸の奥が温かくなった。
「ありがとう」
「参加するって返事したの?」
「必要な配慮について質問を送ったよ」
「よかった」
「技術面の調整はまだ確認が必要だけど」
「それでいいよ」
「それに、ものすごく怖い」
彼女は優しく微笑んだ。
「それでもいいんだよ」
◇ ◇ ◇
僕たちは数分間、イベントについて話した。
葵はほかの作家について尋ねた。
司会者のこと。
テーマのこと。
観客のこと。
それから、僕が避けていた質問をした。
「お母さんのことも話すつもり?」
僕は彼女を見た。
「たぶん」
彼女は待っていた。
僕は机のそばに置いた写真立てへ目を向けた。
母さんが微笑んでいた。
「どこまで話したいのか、自分でも分からないんだ」
葵はうなずいた。
「じゃあ、まだ決めなくていいよ」
僕は彼女を見た。
「人生について質問されるからって、知らない人に全部話さなきゃいけないわけじゃないんだから」
僕はかすかに微笑んだ。
「そうだね」
「小説について話せばいいの」
「登場人物のこととか」
「読者に伝えたいこととか」
彼女は少し間を置いた。
「お母さんのことを話したくなったら、話せばいい」
僕は唾を飲み込んだ。
「でも、それは春人が決めることだよ」
僕は長い間、彼女を見つめた。
「ありがとう」
彼女は微笑んだ。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
そのとき、彼女の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
でも、僕は気づいた。
葵はノートパソコンの横にある何かへ目を落とした。
それから僕を見た。
僕は眉をひそめた。
「大丈夫?」
彼女はためらった。
「うん」
「葵」
彼女は微笑んだ。
「悪いことじゃないの」
それは、何も問題がないという意味ではなかった。
僕は待った。
彼女はため息をついた。
「実は、話しておきたいことがあるんだ」
胃のあたりがきゅっとなった。
「何があったの?」
彼女は僕を見た。
「今朝、理沙さんと面談したの」
「研修について?」
彼女はうなずいた。
「順調に成長してるって言ってもらえた」
僕は微笑んだ。
「すごいじゃないか」
「うん」
でも、彼女はあまり嬉しそうではなかった。
僕は待った。
葵は息を吸った。
「それから、ある仕事の可能性についても教えてもらったの」
◇ ◇ ◇
病院では、退院から在宅生活への移行を支援するプログラムの拡充を検討していた。
患者や家族が退院に向けて準備を進め、地域のサービスを調整し、病院から自宅への移行をより安全にするための取り組みだった。
葵の指導者は、必要な研修を修了したあと、そのプログラムに関わる職への応募を考えてみてはどうかと勧めてくれたらしい。
内定ではなかった。
応募手続きがある。
面接もある。
採用される保証もない。
でも、機会だった。
意味のある機会。
葵がずっと目指してきた仕事に近づくための機会だった。
僕は注意深く聞いた。
「すごくいい話じゃないか」
彼女は驚いたようだった。
「本当に?」
「もちろん」
彼女はためらった。
「でも……」
出た。
またその言葉だ。
僕はそろそろ、どんな言語でも『でも』という言葉が嫌いになりそうだった。
「でも、何?」
葵はうつむいた。
「その仕事は、この街が勤務地なの」
僕は待った。
「それで?」
「もし採用されたら、しばらくはこの街にいなきゃいけないと思う」
僕は彼女を見た。
「葵」
彼女は僕が話す前に続けた。
「近くに住める場所を探そうって話してたのは分かってる」
「うん」
「家の問題がまだ解決してないことも」
「そうだね」
「でも、気持ちが変わったと思ってほしくないの」
僕は眉をひそめた。
「何について?」
「私たちのこと」
◇ ◇ ◇
一瞬、言葉が出なかった。
怒っていたからではない。
彼女がそれほど悩んでいたことに、気づいていなかったからだ。
「葵」
彼女は僕を見た。
「うん?」
「その仕事、やってみたい?」
彼女はためらった。
それからうなずいた。
「うん。やってみたいと思う」
僕は微笑んだ。
「じゃあ、応募したほうがいいよ」
彼女は僕を見つめた。
「そんなに簡単に?」
「うん」
「でも、春人……」
「葵」
彼女がまっすぐ僕を見るまで待った。
「僕は葵を愛してる」
彼女の表情が柔らかくなった。
「私も愛してる」
「でも、僕を愛することが、葵が努力してきたものを全部諦めることになってほしくないんだ」
彼女は黙っていた。
僕は続けた。
「ずっと勉強してきたでしょ」
「研修も受けて」
「一生懸命働いて」
「大変な日もあった」
「自信をなくした日もあった」
「そして今、尊敬している人が、もっと大きな仕事に挑戦できるかもしれないって言ってくれたんだ」
僕は微笑んだ。
「それは喜ぶべきことだよ」
◇ ◇ ◇
葵はうつむいた。
「でも、私たちの計画は?」
僕は少し考えた。
「なくなるわけじゃないよ」
「変わるかもしれない」
「たぶんね」
彼女は僕を見た。
僕はかすかに微笑んだ。
「ほとんどの計画は変わるものだから」
彼女は小さく笑った。
「全然ロマンチックじゃないね」
「もっと詩的な言い方がいい?」
「そうかも」
僕は少し考えた。
それから言った。
「僕たちの未来は、決められた日にたどり着かなきゃいけない目的地じゃないのかもしれない」
葵は静かになった。
「そこへ向かう方法を学びながら、少しずつ作っていくものなのかもしれないね」
彼女は長い間、僕を見つめた。
それから微笑んだ。
「今の、なかなかよかったよ」
僕は眉を上げた。
「なかなか?」
「台無しにしないで」
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
それから僕たちは、もっと現実的なことを話し合った。
その仕事に就いたからといって、必ずしも僕たちが近くに住めなくなるわけではない。
むしろ、葵のいる街に住むことを考えるうえで、都合がよくなる可能性もあった。
でも、まだ分からないことが多かった。
住まい。
バリアフリー環境。
専門的な看護を受けられる体制。
医療機器の設置条件。
経済的な問題。
そして引っ越しというものは、家を選んで荷物を詰めれば終わりという話ではなかった。
僕のケア体制は、移る前に安全に整えられていなければならない。
葵もそれを理解していた。
僕も理解していた。
そこを無視するつもりはなかった。
「家探しを、期限みたいに考えるのはやめたほうがいいのかも」
彼女が言った。
僕はうなずいた。
「それがいいと思う」
「可能性として考えるの」
「そのほうがいいね」
彼女は微笑んだ。
「見てよ、私たち」
「何?」
「ちゃんとした大人みたい」
僕は少し考えた。
「恐ろしいね」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は青いスクラップブックを開いた。
葵がくれたものだった。
机のそばに、いつでも見えるように置いてあった。
夏美さんに頼んで読書台に載せてもらい、次の白紙のページを開いてもらった。
まだたくさんのページが残っていた。
写真を待っている空白。
手紙を待っている空白。
小さな思い出を待っている空白。
そして、まだ経験していない瞬間を待っている空白。
僕はページを見た。
それから、水辺で撮った葵と僕の写真を見た。
僕たちは笑っていた。
何もかも完璧だったからではない。
次に何が起きるか分かっていたからでもない。
ただ、その瞬間、僕たちは一緒にいたからだ。
僕はパソコンで新しい文書を開いた。
そして書き始めた。
◇ ◇ ◇
『葵へ』
『今日、僕たちは二人とも、自分たちの夢がまだ成長していることを思い出したね。』
『僕のところには招待状が届いた。』
『葵のところには、新しい仕事に挑戦する機会が訪れた。』
『そのどちらがどこへつながっていくのか、まだ分からない。』
『でも、それでいいのかもしれない。』
『長い間、僕は未来というものを、ほかの人たちにだけ訪れるものだと思っていた。』
『想像することはできても、決して手の届かないもの。』
『そんなふうに思っていた。』
『でも、葵が僕の人生に現れた。』
『そして突然、未来は遠い場所ではなくなった。』
『僕自身が参加したいと思うものになったんだ。』
『何もかも簡単になると約束してくれたからじゃない。』
『分からないことがあるからといって、希望を失わなくてもいいと教えてくれたから。』
『どの家を選ぶことになるのか、まだ分からない。』
『旅行の計画を立てなくても会える距離に、いつ住めるようになるのかも分からない。』
『僕の小説が出版される日が来るのかも分からない。』
『葵が挑戦したい仕事に就けるのかも、まだ分からない。』
『でも、一つだけ分かっている。』
『僕たち二人が、それぞれ目指している自分になれる機会を持ってほしい。』
『そして、まだ離れて暮らしていたとしても、葵が何かを成し遂げたときには、一緒に喜びたい。』
『だって、葵を愛するということは、葵の世界を小さくしてほしいと願うことじゃないから。』
『葵を愛することで、僕の世界がどれほど広くなれるのかを知ったんだ。』
『愛を込めて』
『春人より』
◇ ◇ ◇
僕は手紙を二度読んだ。
それから保存した。
夏美さんに手伝ってもらい、印刷したものをスクラップブックに挟んだ。
しばらく、そのページを見つめていた。
写真はなかった。
飾りもなかった。
ただ、言葉だけ。
でも、それが正しいように思えた。
すべての思い出に写真が必要なわけではない。
約束が必要な思い出もあるのだ。
◇ ◇ ◇
その夜遅く、葵からもう一度電話があった。
彼女は疲れているようだった。
昼間よりも、ずっと。
すぐに気づいた。
「長い一日だった?」
彼女はうなずいた。
「すごくね」
「またコピー機に襲われた?」
彼女は弱々しく微笑んだ。
「今回は違うよ」
「進歩だね」
「本当に」
僕は彼女の表情を見た。
「話したい?」
彼女はためらった。
それからうなずいた。
◇ ◇ ◇
その日の研修では、別の緊急対応シミュレーションが行われたらしい。
今回は、在宅移行の準備をしている患者の医療機器に問題が起きるという想定だった。
葵は最初の対応を正しく行った。
状況を把握した。
助けを求めた。
定められた手順に従って対応した。
でも、終わったあと、自分にはまだ学ぶべきことがどれほど多いのかを痛感したという。
「シミュレーションだったって分かってるんだけど」
彼女は言った。
「でも、本当に起きてるみたいだった」
僕は耳を傾けた。
「もし何かを見落としたらどうなるんだろうって、ずっと考えちゃって」
僕は彼女を見た。
「葵」
彼女が顔を上げた。
「全部知っていなくてもいいんだよ」
彼女は悲しげに微笑んだ。
「分かってる」
「本当に?」
彼女はためらった。
僕は続けた。
「だって、完璧じゃなきゃいけないって思ってるみたいだから」
彼女はうつむいた。
「完璧じゃないよ」
「僕だってそうだよ」
彼女はかすかに微笑んだ。
「それはどうかな」
僕は眉を上げた。
「何ですって?」
彼女は笑った。
「ごめん」
僕は微笑んだ。
それから、また真剣になった。
「疲れてもいいんだよ」
彼女は黙っていた。
「大変な日があってもいい」
「質問したっていい」
「指導者がいる練習の中で間違えたからって、自分には向いていない証拠だと思わなくてもいいんだ」
葵は長い間、僕を見つめた。
それからささやいた。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
僕たちはしばらく通話を続けた。
ずっと話していたわけではない。
ただ、一緒に過ごしていた。
葵はときどき研修ノートに目を通した。
僕は『森探偵』の一場面を読み返した。
ときどき、どちらかが何かを言った。
小さな感想。
冗談。
質問。
特別に重要なことではなかった。
でも――
重要だった。
何でもない時間を分かち合えることには、安心感があったからだ。
違う街にいても。
むしろ、違う街にいるからこそ。
◇ ◇ ◇
ふと、葵が顔を上げた。
「春人?」
「何?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「もし私があの仕事に就けて、春人が有名な小説家になったら、どうなると思う?」
僕は考えた。
「そうだね」
彼女は待った。
「大地叔父さんが、完全に手に負えなくなると思う」
葵は吹き出した。
「真面目に聞いてるの!」
「僕も真面目だよ」
彼女は首を振った。
「春人」
僕は微笑んだ。
「そのときは、そのときに考えるよ」
彼女は僕を見た。
「一緒に?」
「一緒に」
葵の表情が柔らかくなった。
「思っていたより時間がかかっても?」
僕はうなずいた。
「それでも」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、文学団体から返信が届いた。
主催者は、僕がコミュニケーション上の必要事項を説明したことに感謝してくれていた。
可能な範囲で質問を事前に共有できることも確認してくれた。
本番前に接続テストを行うことにも前向きだった。
座談会では、回答までに追加の時間を設けることもできるという。
司会者にも、僕が使う補助コミュニケーション方法について伝えてくれるらしい。
そして、全面的にオンラインで参加することを希望するかどうか尋ねられた。
僕はメールを注意深く読んだ。
それから微笑んだ。
何もかも完璧に進むという保証ではなかった。
でも、いい始まりだった。
相手は話を聞いてくれていた。
質問してくれていた。
準備しようとしてくれていた。
僕が参加することを、きちんと計画する価値のあるものとして扱ってくれていた。
僕は返信画面を開いた。
そして、オンラインでの参加を希望すると伝えた。
◇ ◇ ◇
数分後、別のメールが届いた。
今度は編集者からだった。
僕は開いた。
最初の段落は、改稿中の推理小説についてだった。
構成上の問題に取り組もうとしている姿勢を評価してくれていた。
森と彩の関係をさらに深めるよう、励ましてくれていた。
そして次の一文を読んだとき、僕は動きを止めた。
『もし差し支えなければ、今度の文学座談会が終わったあと、改稿した作品をもう一度拝見できればと思います。』
僕は画面を見つめた。
もう一度読んだ。
そして、もう一度。
出版の申し出ではなかった。
契約でもなかった。
原稿が採用されるという約束でもなかった。
ただ、書き続けてほしいという招待だった。
もっとよくしてほしいということ。
そして、もう一度読ませてほしいということ。
それだけなのに――
胸が高鳴った。
◇ ◇ ◇
僕はすぐに葵へ電話した。
数回呼び出し音が鳴ったあと、彼女が出た。
「春人?」
「やあ」
彼女は微笑んだ。
「どうしたの?」
「またメールが来たんだ」
彼女の目が大きく開いた。
「文学団体から?」
「違うよ」
「じゃあ、誰?」
「編集者さん」
彼女は静かになった。
「何て?」
僕は微笑んだ。
「改稿した原稿を、もう一度読みたいって」
一瞬、彼女は動かなかった。
それから顔が輝いた。
「春人!」
僕は笑った。
「そんなに喜ばないで」
「もう遅い!」
「契約じゃないんだよ」
「分かってる!」
「何も約束されてないし」
「分かってる!」
「まだたくさん直さなきゃいけないところがある」
「春人!」
僕は止まった。
彼女は微笑んだ。
「お願いだから、少しくらい喜ばせてよ」
僕は彼女を見た。
それから微笑んだ。
「分かった」
◇ ◇ ◇
葵はカメラに顔を近づけた。
「これがどういう意味か分かる?」
「小説の半分を書き直さなきゃいけないってこと?」
彼女はうめいた。
「春人!」
「ごめん」
彼女は笑った。
「誰かが、春人の物語にはもう一度読む価値があるって思ってくれたってことだよ」
僕は黙った。
彼女は続けた。
「春人自身も、そう信じていいんだよ」
僕はパソコンへ目を向けた。
原稿が開かれていた。
ページの一番上には、森探偵の名前があった。
架空の探偵。
架空の殺人事件。
架空の世界。
それなのに、その仕事は僕にとって、とても現実的なものになっていた。
数え切れないほどの時間をかけて作り上げたもの。
学び続ける理由を与えてくれたもの。
僕は微笑んだ。
「そうしてみようかな」
◇ ◇ ◇
その夜、通話が終わったあと、僕は原稿へ戻った。
第一章を開いた。
冒頭の段落を読んだ。
そして書き直し始めた。
編集者に命令されたからではない。
失敗が怖かったからでもない。
ただ、物語がどんな姿になれるのか、ようやく見え始めていたからだ。
被害者の夜の習慣に関する手がかりを、もっと早い段階に加えた。
森と彩の会話を移動させた。
防犯カメラの映像の時系列を組み直した。
そして犯人の自白を、もう一度慎重に検討するようメモした。
謎はまだ完成していなかった。
本当の意味では。
僕自身も、まだ完成していなかった。
◇ ◇ ◇
寝る前に、最後にもう一度メッセージを確認した。
葵から写真が届いていた。
彼女の研修ノートの一ページだった。
実務的なメモが並ぶその下に、一文だけ書かれていた。
『人が自分の帰る場所を見つけられるように、手助けできる人になりたい。』
僕はそれを見つめた。
そして微笑んだ。
新しくスクラップブックに加えたページの写真を送った。
僕が書いた手紙だった。
少しして、彼女から返事が届いた。
『泣いちゃったじゃない。』
僕は微笑んだ。
続けて、もう一通。
『また。』
僕は小さく笑った。
そして返信した。
『作家と付き合う以上、避けられない職業病だね。』
ほとんどすぐに返事が来た。
『じゃあ、次の小説は絶対にハッピーエンドにしてね。』
僕は少し考えた。
それから返信した。
『頑張るよ。』
◇ ◇ ◇
窓の外は静かな夜だった。
家の中には、いつもの穏やかな時間が流れていた。
夏美さんは予定されたケアと機器の確認を続けていた。
廊下のどこかでは、大地叔父さんがまた馬鹿げた宣伝グッズを考えているかもしれない。
由紀叔母さんは、それを止めようとしているだろう。
そして別の街では、葵が明日の研修に備えていた。
僕たちの人生は前へ進んでいた。
いつも同じ速さではなかった。
いつも同じ方向でもなかった。
それでも、前へ。
僕は机のそばの写真を見た。
それから原稿を。
そして青いスクラップブックを。
三つの違うものが、同じことを思い出させてくれた。
僕が抱えてきた過去。
僕が思い描く未来。
そして、今という時間を生きる価値のあるものにしてくれる人たち。
◇ ◇ ◇
長い間、僕は最も大切な物語とは、特別な結末を持つものだと思っていた。
探偵が不可能犯罪を解決する。
英雄が悪を倒す。
恋人たちがすべての障害を乗り越える。
最後のページが閉じられる。
そして、すべてが解決する。
でも、人生はそうではなかった。
保証なんてなかった。
完璧な予定表もなかった。
すべての不安を説明してくれる最終章もなかった。
招待状は、ただの招待状でしかないこともある。
夢を実現するには、もう一度書き直す必要があることもある。
誰かを愛するということが、自分たちの計画を難しくするかもしれない機会へ、その人の背中を押すことになる場合もある。
そして、ときには最も意味のある約束とは、すべてが希望どおりに進むという約束ではない。
これからも挑戦し続けるという約束なのだ。
道が変わっても。
距離が残っていても。
明日が何を待ち受けているのか、まだ教えてくれなくても。
◇ ◇ ◇
僕は『森探偵』の最初のページへ戻った。
カーソルが点滅していた。
待っていた。
僕は文字を入力し始めた。
そして、僕が作り出した架空の街のどこかでは、森探偵が次の謎に挑もうとしていた。
一方、現実の世界では、僕は彼が決して認めようとしないかもしれないことを、少しずつ理解し始めていた。
すべての問いに、すぐ答えを出す必要はない。
待つ価値のある答えもある。
書き直す価値のある夢もある。
そして、未来の中には――
最も大切な未来の中には――
まだ書き続けられているものがあるのだ。




