第89.5話 特別編:森探偵 ― 密室の向こうに眠る殺意 ~高橋春人が描く推理小説~
森探偵が死体を見て最初に気づいたのは、男が笑っていたことだった。
決して気持ちのいい笑みではなかった。
安らかな笑みでもない。
誰も気づいていない口論に勝利した人間が浮かべるような、そんな表情だった。
実に残念なことだった。
なぜなら、その男は死んでいたからだ。
そして死者というものは、質問に答えるのが非常に苦手なのである。
「さて」
車椅子に座ったまま遺体を観察していた森が、ぽつりと言った。
「困りましたね」
神田警部が振り向いた。
「困った?」
「ええ」
「鍵のかかった部屋に死体があるんだぞ、森」
「承知しています」
「それだけか?」
森は少し考えた。
「もっと劇的な反応をご希望ですか?」
神田は彼を見つめた。
「できればな」
森は遺体に目を向けた。
そしてため息をついた。
「ああ、なんという悲劇でしょう。名高い小説家が人生の盛りに殺害され、文学界は二度と立ち直れないことでしょう」
神田は目を閉じた。
「聞かなかったことにしてくれ」
「喜んで」
◇ ◇ ◇
被害者の名前は黒瀬茂。
六十二歳。
ベストセラーを何冊も世に送り出した推理作家。
資産家。
悪名高いほど気難しい雇い主。
そして、彼を知るほとんどすべての人間によれば、救いようのないほど嫌な男だった。
その遺体が、人里離れた屋敷の書斎で発見されたのは、その夜十時を少し過ぎたころだった。
書斎の扉には内側から鍵がかかっていた。
窓はすべて施錠されていた。
隠し通路は存在しない。
無理やり侵入した形跡もない。
さらに、廊下を監視する防犯カメラには、黒瀬が書斎にこもったあと、誰も部屋へ入る姿が映っていなかった。
少なくとも、警察はそう考えていた。
森は長年の経験から、捜査において最も危険な言葉の一つが「誰もがそう信じていた」であると知っていた。
なぜなら、人間はしばしば間違えるからだ。
特に、その「誰も」の中に警察が含まれている場合は。
◇ ◇ ◇
「俺の捜査を馬鹿にする前に、証拠を調べてもらいたいんだが」
神田が言った。
森は彼を見た。
「まだ馬鹿にはしていませんよ」
「まだ、な」
「重要な違いです」
森の隣には、長年の助手である藤崎彩が立っていた。
二十八歳。
元新聞記者。
観察力に優れた女性。
そして、森と長時間一緒にいても暴力に訴えようとしない、世界でも数少ない人物の一人だった。
たいていの場合は。
彩は腕を組んだ。
「二人とも、死体の前で口喧嘩するのをやめてくれない?」
森は彼女を見た。
「もっともな提案ですね」
神田もうなずいた。
「ありがとう」
森は続けた。
「口喧嘩は、もっと居心地のいい場所へ移ってからにしましょう」
彩はため息をついた。
◇ ◇ ◇
書斎は広大だった。
三方の壁は本棚で覆われていた。
窓際には大きなマホガニー製の机が置かれていた。
部屋の隅には古い振り子時計が立っていた。
残る壁には文学賞の賞状や写真、そして被害者の肖像画が何枚も飾られていた。
森はそれらを眺めた。
「謙虚な方だったようですね」
彩も視線を向けた。
肖像画は七枚あった。
すべて黒瀬本人のものだった。
「そうみたいね」
「自分の顔ばかり見ていて、飽きないのでしょうか」
神田が咳払いをした。
「本題に戻ってくれないか」
「もちろんです」
森は机へ視線を移した。
半分ほど残った紅茶のカップ。
開かれた原稿。
被害者の右手の近くに置かれた銀色の万年筆。
その背後には倒れた椅子。
そして、絨毯の上には小さな真鍮の鍵が落ちていた。
森は鍵を見た。
「興味深いですね」
神田がうなずいた。
「書斎の鍵だ」
「室内で発見されたのですか?」
「ああ」
「扉は?」
「家政婦が遺体を発見したときには施錠されていた」
「どうやって入ったのです?」
「錠を壊した」
森はうなずいた。
「なんと乱暴な」
神田は彼を見つめた。
「中に死体があったんだぞ」
「それなら器物損壊も正当化されますね」
◇ ◇ ◇
被害者は机のそばに崩れ落ちていた。
胸にはペーパーナイフが突き刺さっていた。
検視官の予備的な見解では、死因は刺し傷によるものと考えられていた。
床に残された血液は比較的少なかった。
右手は机へ向かって伸びていた。
左手は上着のポケットの近くにあった。
森は遺体の姿勢を観察した。
それから机を。
そして時計を。
「死亡推定時刻は?」
神田は手帳を確認した。
「午後九時半から十時ごろだ」
「根拠は?」
「体温、血液の状態、それに証言だ」
森はうなずいた。
「争った形跡は?」
「ほとんどない」
「防御創は?」
「今のところ見つかっていない」
森は遺体を見た。
「では、黒瀬氏は犯人を信用していたか、抵抗できない状態にあったか、あるいは事件の状況が見た目とは違うということですね」
神田は眉をひそめた。
「ずいぶん大ざっぱだな」
「現実とは、そういうものです」
◇ ◇ ◇
彩が机に近づいた。
「これは?」
彼女は原稿を指さした。
表紙には、こう書かれていた。
『最後の殺人』
黒瀬茂 著
森は眉を上げた。
「実に控えめな題名ですね」
彩は原稿に触れないよう、開かれたページを確認した。
「最終章が開かれてる」
神田がうなずいた。
「新作を推敲していたらしい」
森は題名を見た。
「なんとも不運な時期でしたね」
彩が警告するように彼を見た。
「森さん」
「何です?」
「言わないで」
「まだ何も言っていません」
「考えてるでしょ」
森はため息をついた。
「ますます息苦しい職場になってきましたね」
◇ ◇ ◇
その夜、屋敷にいた関係者は五人だった。
被害者と接触できた五人。
そして神田警部によれば、五人全員に黒瀬を嫌う理由があった。
森は、一人ずつ別々に事情を聞きたいと申し出た。
神田は同意した。
渋々ながら。
最初の人物は、黒瀬の妻だった。
黒瀬玲子。
五十四歳。
上品で。
落ち着いていて。
そして夫の死に、驚くほど動揺していなかった。
彼女は紺色のドレスを着て応接室に座っていた。
両手は膝の上にきちんと重ねられていた。
「私立探偵でいらっしゃるそうですね」
森はうなずいた。
「ほかにもいろいろと」
「ほかには?」
「何社かの保険会社にとって、頭痛の種でもあります」
彩は目を閉じた。
玲子は彼を見つめた。
そして意外にも微笑んだ。
「主人は、あなたのような方が大嫌いだったでしょうね」
森は少し考えた。
「それなら、案外気が合ったかもしれません」
◇ ◇ ◇
玲子の話によると、彼女は九時からずっと自室にいた。
入浴し。
本を読み。
妹と短い電話をしたという。
夕食以降、夫とは会っていないと主張した。
「ご主人を愛していましたか?」
森が尋ねた。
彩が彼をちらりと見た。
玲子の表情は変わらなかった。
「ずいぶん個人的な質問ですね」
「殺人事件の多くは個人的なものですから」
玲子は暖炉を見た。
「二十七年間、夫婦でした」
「質問の答えにはなっていませんね」
「ええ」
少し間があった。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
森は待った。
やがて玲子が口を開いた。
「主人は優しい人ではありませんでした」
「あなたに対して?」
「誰に対しても」
彼女は森を見た。
「あの人は、人を支配するのが好きだったんです」
「あなたも支配されていた?」
「長い間」
「最近は?」
玲子の表情が硬くなった。
「離婚するつもりでした」
彩が身を乗り出した。
「ご主人はご存じでしたか?」
「ええ」
「何と?」
玲子は苦々しく微笑んだ。
「一円たりとも渡さないと言われました」
◇ ◇ ◇
二人目の容疑者は、黒瀬の甥だった。
黒瀬隆。
三十一歳。
無職。
高価そうな服を着ていた。
そして、明らかに落ち着きを失っていた。
「僕は殺してません!」
森は彼を見た。
「興味深い第一声ですね」
隆は唾を飲み込んだ。
「何を考えてるか分かってます」
「それはどうでしょう」
「みんな、僕が叔父の金を狙ってたと思ってるんです」
「実際、狙っていましたか?」
隆はためらった。
「まあ……」
森は微笑んだ。
「素晴らしい出だしです」
◇ ◇ ◇
隆は、叔父から経済的な援助を受けていたことを認めた。
最近までは。
三日前、黒瀬は援助を完全に打ち切ると告げた。
二人は夕食の席で激しく言い争っていた。
複数の人間が、隆の脅し文句を聞いていた。
「後悔させてやるって言いました」
隆は認めた。
森はうなずいた。
「実に不運な言葉選びですね」
「殺すつもりなんてなかった!」
「家族喧嘩の最中に、自分の意図を詳しく説明する人は少ないでしょうからね」
隆は惨めそうな顔をした。
「腹が立ってたんです」
「九時半にはどこに?」
「ビリヤード室です」
「一人で?」
「はい」
「誰か見ていますか?」
「いいえ」
森はうなずいた。
「なんとも都合がいい」
◇ ◇ ◇
三人目の容疑者は、黒瀬の秘書だった。
林美香。
三十六歳。
几帳面で。
控えめで。
そして、明らかに疲れ切っていた。
彼女は十一年間、黒瀬のもとで働いていた。
十一年間、予定を管理し。
手紙やメールを処理し。
原稿を編集し。
そして、どうやら侮辱にも耐えてきたらしい。
「難しい雇い主でした」
彼女は認めた。
森は眉を上げた。
「ずいぶん外交的な表現ですね」
美香はかすかに微笑んだ。
「慣れていますから」
◇ ◇ ◇
美香によると、黒瀬は八時半過ぎに彼女を書斎へ呼んだ。
原稿の修正をいくつか頼んだという。
彼女は八時四十五分ごろ、修正したページを届けた。
そのあと、一階の事務室へ戻った。
「書斎には入りましたか?」
森が尋ねた。
「はい」
「ご主人は一人でしたか?」
「はい」
「扉に鍵は?」
「かかっていませんでした」
「鍵は見ましたか?」
彼女はためらった。
「鍵穴に差してあったと思います」
森はうなずいた。
「出るときは?」
「私が出たあと、ご主人が鍵をかけました」
「間違いありませんか?」
「鍵を回す音が聞こえました」
森は少し考えた。
「いつも書斎に鍵をかけていたのですか?」
「毎晩です」
「なぜ?」
美香は視線を落とした。
「誰かに原稿を盗まれることを恐れていたんです」
森はかすかに微笑んだ。
「彼の性格なら、もっと別のことを恐れるべきだった気もしますが」
◇ ◇ ◇
四人目の容疑者は、黒瀬の出版代理人だった。
星野正人。
四十八歳。
身なりがよく。
自信に満ちていて。
そして、捜査に対してひどく苛立っていた。
「馬鹿げている」
森は彼を見た。
「殺人事件には、そういうものが多いですね」
「私には仕事があるんだ」
「依頼人が亡くなったのですよ」
「だからこそ出版社に連絡しなければならないんだ」
森は眉を上げた。
「なんと心温まるお話でしょう」
星野は彼をにらんだ。
◇ ◇ ◇
星野は、その日の午後に黒瀬と口論したことを認めた。
黒瀬は印税の帳簿に不審な点を発見していた。
星野が金を着服していると疑っていたのだ。
星野は不正を否定した。
「あの男は被害妄想が激しかった」
「そうですか?」
「まったくです」
「では、なぜ口論に?」
星野はためらった。
「訴えると言い出したからだ」
森はうなずいた。
「被害妄想にしては、ずいぶん具体的な告発ですね」
彩は笑いをこらえた。
◇ ◇ ◇
星野は、問題の時間帯には屋敷の客用図書室にいたと主張した。
電話をかけていたという。
「証明できる方は?」
森が尋ねた。
「通話記録がある」
「それは電話をかけた証明ですね」
「そうだ」
「必ずしも、どこで電話をかけたかの証明にはなりません」
星野は彼を見つめた。
「君はいつもそんなに腹立たしいのか?」
森が答える前に、彩が口を開いた。
「はい」
◇ ◇ ◇
五人目の容疑者は家政婦だった。
田辺恵美子。
六十歳。
黒瀬家で三十年近く働いていた。
遺体を発見した人物とされていた。
正確には、異変に最初に気づいた人物だった。
十時、彼女は黒瀬の夜の紅茶を運んだ。
書斎の扉には鍵がかかっていた。
彼女はノックした。
返事はない。
もう一度ノックした。
やはり返事はない。
そのとき、中から奇妙な音が聞こえたという。
「ドサッという音でした」
恵美子は説明した。
森は少し身を乗り出した。
「ドサッ?」
「はい」
「何かが落ちたような?」
「そのとおりです」
「それから?」
「助けを呼びました」
◇ ◇ ◇
神田によれば、屋敷の関係者が何人も書斎の前に集まった。
ノックした。
呼びかけた。
取っ手を回した。
しかし扉には鍵がかかったままだった。
最後に、屋敷の警備員が扉を破った。
黒瀬は机のそばに倒れていた。
死んでいた。
鍵は室内にあった。
窓は施錠されていた。
そして、誰も出入りする姿を目撃していなかった。
森は注意深く聞いていた。
それから恵美子に質問した。
「紅茶に変わったところは?」
彼女は瞬きをした。
「変わったところ、ですか?」
「黒瀬氏はいつも十時に紅茶を?」
「はい」
「毎晩?」
「欠かさずに」
森は微笑んだ。
「実に安心できる習慣ですね」
◇ ◇ ◇
恵美子は困惑した。
「それが重要なのでしょうか?」
「かもしれません」
彼女はためらった。
「もう一つ、変わった習慣がありました」
森は彼女を見た。
「どんな?」
「紅茶は必ず扉の外に置くようにと言われていました」
「なぜ?」
「執筆中は邪魔されたくなかったそうです」
森はうなずいた。
「どうやって紅茶を受け取るのです?」
「私が立ち去ったあと、ご自分で扉を開けるんです」
森は動きを止めた。
「毎晩ですか?」
「はい」
彩が彼の表情に気づいた。
「森さん?」
彼は指を一本立てた。
「少々お待ちを」
◇ ◇ ◇
森は神田を見た。
「警部」
「何だ?」
「最初に遺体を発見したのは誰です?」
「田辺だ」
「違います」
神田は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「彼女が発見したのは、扉が施錠され、黒瀬氏が返事をしないという状況です」
「そうだ」
「しかし、遺体そのものは見ていません」
神田はためらった。
「確かに」
「最初に遺体を見たのは?」
「警備員だ」
森はうなずいた。
「その隣にいたのは?」
神田は手帳を確認した。
「秘書の林だ」
森はかすかに微笑んだ。
「興味深い」
◇ ◇ ◇
一行は書斎へ戻った。
遺体はすでに検査のため運び出されていた。
部屋は事件現場として保全されていた。
森は入口のすぐ内側で止まった。
彩が隣に立った。
「何を考えてるの?」
「みんな、間違った質問をしていたようです」
神田は腕を組んだ。
「どんな質問だ?」
「犯人はどうやって密室から脱出したのか」
「それが事件の中心だろう」
「本当に?」
森は机を見た。
「むしろ、犯人はそもそも脱出する必要があったのか、と考えるべきかもしれません」
◇ ◇ ◇
彩は眉をひそめた。
「扉が施錠される前に殺されたってこと?」
「可能性はあります」
「でも、検視官は死亡時刻を九時半から十時と推定していたわ」
「推定です」
神田は渋々うなずいた。
「ああ」
森は振り子時計を見た。
「ところで警部、あの時計は何時を指していますか?」
彩が振り向いた。
「九時四十分」
「止まっているのですか?」
神田がうなずいた。
「争ったときに止まったらしい」
森は微笑んだ。
「らしい、ですか」
◇ ◇ ◇
森は神田に時計を調べるよう頼んだ。
警部は近づいた。
針は動いていなかった。
九時四十分。
森は机を見た。
「さて警部、一つ教えてください」
「何だ?」
「この時計は、今夜の早い時間には動いていたのでしょうか?」
神田は眉をひそめた。
「まだ確認していない」
「なら、確認すべきでしょうね」
彩が時計を見た。
「殺人の前から止まっていたかもしれないってこと?」
「あるいは、そのあとかもしれません」
森は微笑んだ。
「それとも、誰かが意図的に止めたのか」
◇ ◇ ◇
時計を詳しく調べた。
振り子は動いていなかった。
外から見える損傷はなかった。
神田は慎重に時計の扉を開けた。
内部の機構は正常に見えた。
しかし振り子は、細く折りたたまれた紙によって動きを妨げられていた。
彩が顔を近づけた。
「何、これ?」
神田は慎重に紙を取り出した。
小さな原稿用紙の切れ端だった。
森は微笑んだ。
「なんとも文学的ですね」
◇ ◇ ◇
紙には、手書きの言葉がいくつか残されていた。
『犯人はすでに中にいた。』
彩は声に出して読んだ。
そして森を見た。
「気味が悪いわね」
「実に」
神田は眉をひそめた。
「被害者のダイイングメッセージか?」
「かもしれません」
森は紙を観察した。
「あるいは、小説の一節か」
彩は机の原稿を見た。
「『最後の殺人』」
森はうなずいた。
「そのとおり」
◇ ◇ ◇
捜査員たちは筆跡を比較した。
紙は黒瀬の原稿から破り取られたものらしかった。
しかし、その言葉は最終章には含まれていなかった。
少なくとも、机に残された版には。
森はページを調べた。
それから質問した。
「修正原稿を用意したのは?」
神田が答えた。
「林だ」
森はうなずいた。
「届けたのは?」
「林だ」
「以前の原稿を管理していたのは?」
「それも林だ」
森はかすかに微笑んだ。
「働き者の女性ですね」
◇ ◇ ◇
彩が彼を見た。
「美香さんを疑ってるの?」
「何人か疑っています」
「でも、彼女に注目してる」
「興味深いからです」
「それは証拠じゃないわ」
森は微笑んだ。
「成長しましたね」
彩はため息をついた。
◇ ◇ ◇
森は防犯カメラの映像を見せてもらった。
カメラは書斎前の廊下を映していた。
八時四十四分、美香が書類の束を持って現れた。
彼女はノックした。
扉が開いた。
中へ入った。
八時五十一分、彼女が出てきた。
扉が閉まった。
八時五十二分、美香は廊下を去った。
その後、十時まで誰も書斎へ近づいていなかった。
神田が画面を指さした。
「ほら」
森は黙って見ていた。
そして映像をもう一度再生するよう頼んだ。
一回。
二回。
三回。
彩が顔を近づけた。
「何を探してるの?」
森は微笑んだ。
「みんなが見落としたものです」
◇ ◇ ◇
八時五十一分、美香が書斎から出てきた。
手には書類の入ったフォルダ。
右手で書類を持っている。
左手は扉に添えられていた。
そして扉を閉めた。
直後、かすかな金属音がした。
神田がうなずいた。
「鍵を回した音だ」
森は首を振った。
「必ずしもそうとは限りません」
音声をもう一度再生してもらった。
短い音だった。
カチリ。
それだけ。
森は扉を見た。
「警部、奇妙だと思いませんか?」
神田は眉をひそめた。
「何が?」
「林さんは、自分が出たあとで鍵を回す音を聞いたと言いました」
「そうだ」
「しかし映像の音は、彼女の手がまだ扉に触れている間に鳴っています」
彩の目が大きく開いた。
「彼女が鍵をかけたってこと?」
森は微笑んだ。
「かもしれません」
◇ ◇ ◇
神田は眉をひそめた。
「だが鍵は中にあった」
「そのとおり」
「外からどうやって鍵をかけた?」
森は壊された錠を見た。
「そこが問題です」
彼は鑑識担当者に機構を調べるよう頼んだ。
古いタイプの箱錠だった。
内側からも外側からも、鍵で操作できる構造になっていた。
しかし見つかった鍵は一本だけ。
室内にあった。
森は扉を観察した。
それから真鍮の鍵を。
最後に、扉の下の狭い隙間を見た。
表情が変わった。
「ああ」
彩が彼を見た。
「何?」
森は微笑んだ。
「どうやら犯人は、なかなか賢いようです」
◇ ◇ ◇
神田は腕を組んだ。
「なら説明しろ」
「まだです」
「なぜだ?」
「賢い推理と、証明された事実は別ですから」
森は彩を見た。
「実験を手伝ってもらえますか?」
彩は眉を上げた。
「どんな実験?」
「扉と鍵、それに理不尽なほどの忍耐力を必要とする実験です」
彩はため息をついた。
「どうしていつも、理不尽な部分は私の担当なの?」
「あなたには特別な適性がありますから」
◇ ◇ ◇
屋敷の別の部屋にあった同型の錠を使い、書斎の扉の状態を再現した。
森が指示を出し、彩と鑑識担当者が実際の作業を行った。
最初に考えられたのは、単純な方法だった。
合鍵。
犯人は外から鍵をかけ、そのあと元の鍵を室内に置いた可能性がある。
しかし、どうやって?
扉の下の隙間は、普通の向きでは鍵が通らないほど狭かった。
郵便受けもない。
窓からは入れない。
廊下へ戻れば、防犯カメラに映ってしまう。
彩は鍵を見た。
「鍵が最初から中にあったとしたら?」
森は微笑んだ。
「そのとおり」
神田は眉をひそめた。
「なら、どうやって施錠した?」
森は錠を見た。
「そもそも、鍵を使って施錠したのではないのかもしれません」
◇ ◇ ◇
鑑識担当者が壊れた錠をさらに詳しく調べた。
数分後、奇妙なものが発見された。
錠の内部に、小さな金属製の留め具が取り付けられていたのだ。
元の機構には存在しない部品だった。
それによって、扉を閉めるだけで施錠状態になるよう、内部の掛け金を保持できた。
神田はそれを見つめた。
「誰かが錠を改造している」
森はうなずいた。
「そのようですね」
彩は眉をひそめた。
「でも、誰が?」
森は廊下を見た。
「被害者の習慣をよく知る人物でしょう」
◇ ◇ ◇
修理記録を調べた。
三週間前、書斎の錠が修理されていた。
依頼したのは林美香だった。
請求書によれば、元の錠は動きが悪くなっていたという。
しかし、修理を担当した鍵職人は追加の留め具を取り付けたことを否定した。
改造は、そのあとで行われたらしい。
神田は森を見た。
「これで容疑者が絞れたな」
森はうなずいた。
「容疑者は、ですね」
「まだ足りないのか?」
「まだです」
◇ ◇ ◇
森は書斎へ戻った。
再び机を調べた。
紅茶。
原稿。
万年筆。
被害者の椅子。
そして遺体のそばに倒れていた椅子。
彩が彼を見ていた。
「まだ何か足りないのね」
森はうなずいた。
「ええ」
「何が?」
「なぜ、です」
彼女は眉をひそめた。
「動機なら何人にもあったでしょう?」
「なぜ、わざわざこんな複雑な密室殺人を作り上げたのか、ということです」
彩は考えた。
「疑いを避けるため?」
「かもしれません」
森は原稿を見た。
「あるいは、事件を別のものに見せかけるためか」
◇ ◇ ◇
森は『最後の殺人』を開いた。
最終章には、ある探偵が密室殺人を捜査する場面が描かれていた。
被害者は年老いた作家。
凶器はペーパーナイフ。
部屋は施錠されている。
そして死亡推定時刻は誤解を招くものだった。
彩はページを見つめた。
「これ、ほとんど同じじゃない」
森はうなずいた。
「ええ」
神田は不気味そうな顔をした。
「誰かが小説を真似したというのか?」
森はかすかに微笑んだ。
「あるいは、小説が殺人を予言していたと思わせたかったのかもしれません」
◇ ◇ ◇
原稿の改稿履歴を調べた。
最新版を用意したのは美香だった。
しかし、以前の草稿にはまったく違う結末が書かれていた。
その版では、犯人は被害者の秘書だった。
秘書は錠を改造し。
事件を偽装し。
死を架空の殺人事件に似せようとした。
彩は顔を上げた。
「それって……」
「都合がよすぎる、ですか?」
森が言った。
「ええ」
森はうなずいた。
「そのとおり。都合がよすぎます」
◇ ◇ ◇
神田は眉をひそめた。
「なら、美香が小説の殺人を真似したんだろう」
「可能性はあります」
「だが、なぜ原稿を残した?」
森は机を見た。
「いい質問です」
彼は最後のページを確認した。
そして眉をひそめた。
「警部、この原稿はいつ印刷されたのです?」
神田は記録を確認した。
「今日の早い時間だ」
「誰が?」
「林美香」
森はうなずいた。
「では、黒瀬氏が最後に元の原稿を編集したのは?」
「パソコンの記録では昨夜だ」
森は微笑んだ。
「それなら、パソコンを調べるべきでしょうね」
◇ ◇ ◇
黒瀬のパソコンにはパスワードが設定されていた。
警察のデジタル鑑識班が、必要な法的手続きを経てファイルを調べた。
『最後の殺人』には複数の版が存在した。
しかし、最も新しいファイルには意外な文章が追加されていた。
美香に宛てたメモだった。
『君が何をしているか、私は知っている。』
『明日、消えた金について話し合おう。』
彩は画面を見つめた。
「消えたお金?」
神田は眉をひそめた。
「星野が犯人だと思っていたが」
森はうなずいた。
「黒瀬氏も、最初はそう考えていたのでしょう」
メモは続いていた。
『朝までに送金について説明しなさい。』
森は神田を見た。
「これで、もう一つ動機が見つかりました」
◇ ◇ ◇
財務記録を調べると、美香が管理していた黒瀬の口座から金が消えていることが分かった。
金額は相当なものだった。
送金は正規の事業経費に紛れ込ませて隠されていた。
そして黒瀬は最近、その不審な点を調べ始めていた。
財務書類を作成していたのは美香だった。
神田は険しい表情になった。
「彼女が横領していたのか」
森はうなずいた。
「そのようですね」
「そして黒瀬に発覚した」
「ええ」
「だから殺した」
森は彼を見た。
「結論を急ぎすぎでは?」
神田は彼を見つめた。
「動機も機会もある。改造された錠の証拠もある」
「証拠の一部は、ですね」
「ほかに何が必要なんだ?」
森は微笑んだ。
「真実です」
◇ ◇ ◇
美香は再び事情を聞かれた。
今度は、以前ほど落ち着いていなかった。
錠を改造したことを否定した。
原稿の以前の結末についても知らないと言った。
そして、送金はすべて許可されたものだと主張した。
森は黙って聞いていた。
それから、一つ質問した。
「林さん。原稿を届けたとき、黒瀬氏は何と言いましたか?」
彼女は瞬きをした。
「え?」
「八時四十五分です」
「原稿を置いていけと」
「ほかには?」
「何も」
「紅茶を勧められましたか?」
彼女は眉をひそめた。
「いいえ」
森はうなずいた。
「興味深い」
◇ ◇ ◇
美香は困惑した。
「なぜですか?」
森は微笑んだ。
「黒瀬氏は亡くなったとき、すでに紅茶を飲んでいたからです」
彼女は彼を見つめた。
「それが何か?」
「家政婦の話では、夜の紅茶は十時に届けられるはずでした」
「はい」
「しかし、机にはすでにカップがありました」
美香はためらった。
「ご自分で淹れたのでは?」
森はうなずいた。
「そうかもしれません」
彼は少し身を乗り出した。
「ただし、そのカップには、家政婦が夜の習慣のためだけに用意していた特別なハーブティーが入っていました」
美香は動きを止めた。
◇ ◇ ◇
神田が森を見た。
「紅茶が予定より早く届けられたということか?」
森はうなずいた。
「可能性はあります」
彼は美香を見た。
「林さん。あなたが紅茶を持っていったのですか?」
「いいえ」
「間違いありませんか?」
「はい」
森はかすかに微笑んだ。
「なら、別の誰かが持っていったのでしょうね」
◇ ◇ ◇
家政婦は再び事情を聞かれた。
恵美子は、十時少し前に紅茶を用意したことを認めた。
しかし書斎には入っていない。
施錠された扉の外に盆を置いた。
黒瀬が返事をしなかったため、助けを呼んだのだ。
書斎の机にあったカップは、彼女が用意したものではなかった。
彼女のカップは、廊下の盆の上に残されていた。
神田は眉をひそめた。
「つまり、カップは二つあった」
森はうなずいた。
「そのとおり」
彩が書斎を見た。
「一つは室内」
「一つは廊下」
「そして、室内のものはもっと早く用意されていた」
森は微笑んだ。
「ようやく核心に近づいてきましたね」
◇ ◇ ◇
捜査員たちは机のカップを調べた。
そこから、強い鎮静作用を持つ薬物の痕跡が検出された。
その薬物は、強い眠気や運動機能の低下を引き起こす可能性があった。
検視官も、被害者が刺される前に薬物の影響を受けていたことと矛盾しない所見を確認した。
彩は青ざめた。
「薬で眠らされていたのね」
森はうなずいた。
「だから防御創がなかったのでしょう」
神田は眉をひそめた。
「だが、誰が紅茶を渡した?」
森は扉を見た。
「被害者が、安心して受け取れる相手でしょうね」
◇ ◇ ◇
美香は新たな証拠を突きつけられた。
彼女はすべてを否定した。
すると森が、もう一つ質問した。
「林さん。黒瀬氏が書斎の鍵を内側に置いていた理由をご存じですか?」
彼女はためらった。
「疑い深い人だったからです」
「そうかもしれません」
森は続けた。
「しかし、鍵は単に防犯のためだけではありませんでした」
「どういう意味ですか?」
「仕事を邪魔されないためでもあったのです」
美香は彼を見た。
「はい」
「それなのに、防犯カメラによれば八時四十四分にあなたを中へ入れています」
「原稿が必要だったからです」
「そのとおり」
森は微笑んだ。
「彼はあなたを信用していたのです」
◇ ◇ ◇
初めて、美香の表情に恐怖が浮かんだ。
森は続けた。
「あなたは修正した原稿を持っていった」
「はい」
「そして紅茶も」
「いいえ」
「彼の習慣を知っていた」
「みんな知っていました」
「彼の行動もよく知っていた」
「当然です」
「そして、お金のことも知っていた」
美香の表情が硬くなった。
「私は何も盗んでいません」
森はうなずいた。
「それなら、送金先があなたの管理する口座だった理由を説明できますか?」
沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
神田が身を乗り出した。
「林さん?」
美香は机を見つめた。
それから、ささやいた。
「あの人は、私を破滅させるつもりだったんです」
彩が彼女を見た。
「え?」
美香の手が震えた。
「気づかれたんです」
彼女は唾を飲み込んだ。
「十一年」
声が震えた。
「あの人のために、十一年も働いてきたんです」
「いつも私を侮辱して」
「脅して」
「まるで何の価値もない人間みたいに扱って」
目に涙が浮かんだ。
「それなのに、最後はもう終わりだって言われたんです」
◇ ◇ ◇
神田が静かに言った。
「だから殺したのか」
美香は首を振った。
「違います」
森は彼女を見つめていた。
美香は彼を見た。
「殺すつもりはなかったんです」
森は何も言わなかった。
「ただ眠らせたかっただけ」
彩は眉をひそめた。
「なぜ?」
「財務記録を取り戻すためです」
美香の声が崩れた。
「証拠を処分できれば、何も証明できなくなると思ったんです」
森は彼女を見た。
「では、ペーパーナイフは?」
美香は目を閉じた。
◇ ◇ ◇
数秒間、誰も話さなかった。
そして美香がささやいた。
「目を覚ましたんです」
神田が身を乗り出した。
「何があった?」
「起きるはずじゃなかった」
彼女の手が震えた。
「薬が効いて、眠っているはずだったんです」
森は動かなかった。
美香は続けた。
「私が机を探しているところを見られました」
「全部、分かってしまった」
「怒鳴り始めたんです」
「警察を呼ぶって」
彼女の呼吸が乱れた。
「怖くなって……」
◇ ◇ ◇
美香は自分の手を見た。
「机の上に、ペーパーナイフがあったんです」
彩は目を閉じた。
美香はささやいた。
「手に取りました」
沈黙。
「ただ、怒鳴るのをやめてほしかった」
声が崩れた。
「そしたら、あの人が倒れて……」
◇ ◇ ◇
森は彼女を見た。
「そのあとは?」
美香は泣き始めた。
「原稿を思い出したんです」
「密室殺人の話を」
「だから……」
彼女は唾を飲み込んだ。
「小説を真似した犯行に見せかければ、警察はみんなを疑うと思ったんです」
神田は眉をひそめた。
「それで現場を偽装した」
美香はうなずいた。
「椅子を動かして」
「時計を止めて」
「原稿を開いたままにして」
「改造した錠を使いました」
彼女は顔を覆った。
「うまくいくと思ったんです」
◇ ◇ ◇
森はしばらく黙っていた。
それから尋ねた。
「なぜ時計の中にあの紙を?」
美香は顔を上げた。
「え?」
「原稿の切れ端です」
彼女の表情が変わった。
「それは……」
森は彼女を見た。
「警察に発見させたかったのでしょう」
美香はためらった。
それからうなずいた。
「事件が小説と関係していると思わせたかったんです」
森は悲しげに微笑んだ。
「しかし、それによって小説を最もよく知る人物へ、私たちを導いてしまった」
美香はうつむいた。
◇ ◇ ◇
神田が立ち上がった。
「林美香。殺人の容疑で逮捕する」
彼女は抵抗しなかった。
警察官たちに連れられていく途中、美香は森のそばで足を止めた。
しばらく、彼を見つめた。
「あの人は、死んで当然だったと思いますか?」
部屋が静かになった。
森は彼女を見た。
そして静かに答えた。
「いいえ」
彼女の表情がこわばった。
「あの人は残酷でした」
「そうかもしれません」
「たくさんの人の人生を壊したんです」
「そうかもしれません」
森の声は落ち着いていた。
「ですが、誰かが残酷だからといって、その人の生死を他人が決めていいことにはなりません」
美香は目を伏せた。
そして警察官たちに連れられていった。
◇ ◇ ◇
その夜遅く、森と彩はまだ屋敷の応接室にいた。
神田警部は暖炉のそばに立っていた。
「さて」
彼は言った。
「これで事件は解決だな」
森はうなずいた。
「そのようですね」
神田は彼を見た。
「もう少し嬉しそうにできないのか?」
森は少し考えた。
「一人の男が死にました」
「ああ」
「一人の女性が、自分の未来を壊しました」
「ああ」
「そして五人の関係者は、今夜のことを一生忘れられないでしょう」
神田は黙った。
森は書斎のほうを見た。
「喜べることは、ほとんどありませんよ」
◇ ◇ ◇
彩は彼の隣に座った。
「防犯カメラを見たときには、もう美香さんだと分かっていたんでしょう?」
森は首を振った。
「いいえ」
「本当に?」
「疑ってはいました」
「何が違うの?」
森はかすかに微笑んだ。
「疑いは問いです」
「証拠は答えです」
彩は少し考えた。
「じゃあ、一番重要だった手がかりは?」
森は廊下を見た。
「紅茶です」
彩は瞬きをした。
「錠じゃなくて?」
「錠は、どうやって密室が作られたのかを教えてくれました」
「紅茶は?」
森は微笑んだ。
「被害者の最後の夜が、いつもの習慣どおりではなかったことを教えてくれたのです」
◇ ◇ ◇
神田は眉をひそめた。
「説明してくれ」
森は彼を見た。
「みんな、施錠された扉に気を取られていました」
「当然だ」
「ですが、扉は単なる目くらましだったのです」
森は続けた。
「被害者が紅茶を受け取るのは十時のはずでした」
「ところが、すでに室内にカップがあった」
「つまり、誰かが彼の習慣を変えたということです」
彩はうなずいた。
「そして薬を飲まされていたから……」
「抵抗できなかった」
森は書斎を見た。
「密室は殺人のあとに作られたのです」
◇ ◇ ◇
神田はため息をついた。
「礼を言うべきなんだろうな」
森は微笑んだ。
「適切な判断ですね」
神田はにらんだ。
「調子に乗るな」
「もちろん」
彩は小さく笑った。
それから森を見た。
「もう一つ、分からないことがあるの」
彼は眉を上げた。
「一つだけですか?」
「森さん」
「どうぞ」
◇ ◇ ◇
彩は書斎のほうを見た。
「どうして黒瀬は、秘書が雇い主を殺す小説を書いたのかしら?」
森は少し考えた。
「美香さんを疑っていたのかもしれません」
「それなら、どうしてもっと早く問い詰めなかったの?」
「あるいは……」
彩はためらった。
「わざと彼女のことを書いていたのかもしれない」
森はうなずいた。
「可能性はあります」
神田は眉をひそめた。
「小説が警告だったというのか?」
森は暖炉を見た。
「あるいは、脅迫だったのかもしれません」
◇ ◇ ◇
彩は黙っていた。
森は続けた。
「黒瀬氏は才能のある作家でした」
「しかし、人を操ることを楽しんでいたようです」
「小説の内容で美香さんを怖がらせ、告白させようとしたのかもしれません」
神田はうなずいた。
「そして逆に殺された」
森は書斎を見た。
「危険な遊びです」
◇ ◇ ◇
しばらくして、二人は帰る準備を始めた。
屋敷は静かだった。
外では雨が降り始めていた。
彩が上着を取りに行く間、森は待っていた。
彼女が戻り、上着を掲げた。
「準備はいい?」
森は微笑んだ。
「もう少し」
彩は眉をひそめた。
「今度は何?」
森は最後にもう一度、書斎を見た。
「この事件には、気に入らないことがあります」
彩はため息をついた。
「一つだけ?」
「実際にはいくつもあります」
「でしょうね」
◇ ◇ ◇
森は彼女を見た。
「あの屋敷にいた人間は、誰もが被害者を恨む理由を持っていました」
彩はうなずいた。
「でも、殺したのは一人だけ」
「ええ」
「ほかの人たちは?」
彼女は少し考えた。
「起きたことを抱えて生きていくしかないわね」
森はうなずいた。
「そのとおり」
彩は閉じられた書斎の扉を見た。
そして尋ねた。
「嫌にならない?」
森は彼女を見た。
「何がです?」
「人間が人間にする、最悪のことばかり見るのが」
珍しく、森はすぐに答えなかった。
◇ ◇ ◇
雨が窓を叩いていた。
書斎の振り子時計は、まだ沈黙していた。
やがて森が口を開いた。
「ときどきは」
彩は彼を見た。
森は続けた。
「ですが、時折、人間の最も素晴らしい部分を見ることもあります」
彼女はかすかに微笑んだ。
「例えば?」
森は少し考えた。
「真実を諦めない人」
「見知らぬ誰かを助ける人」
「そして、相手がとびきり面倒な人間でも、そばにいてくれる人」
彩は眉を上げた。
「最後のは、ずいぶん具体的ね」
森は微笑んだ。
「そうですか?」
◇ ◇ ◇
彩は腕を組んだ。
「私のことを言ってるでしょ」
「興味深い推理ですね」
「森さん」
「探偵への転職を考えてみては?」
彼女は笑った。
「誰かがあなたの暴走を止めないといけないもの」
森は扉を見た。
「立派な職業ですね」
「疲れる仕事よ」
「でしょうね」
◇ ◇ ◇
二人は屋敷を出た。
外では雨が細かな霧雨に変わっていた。
警察車両が出発の準備をしていた。
神田は車のそばで、別の警察官と話していた。
森が近づくと顔を上げた。
「探偵」
森は止まった。
「警部」
神田はためらった。
それからうなずいた。
「今夜はよくやってくれた」
森はかすかに微笑んだ。
「そちらこそ」
神田は眉を上げた。
「今のは褒め言葉か?」
「慣れないでください」
彩は笑った。
◇ ◇ ◇
車へ向かいながら、彩は森をちらりと見た。
「最後に一つだけ質問」
森はため息をついた。
「不吉な言葉ですね」
彼女は微笑んだ。
「どうして探偵になったの?」
森は彼女を見た。
「謎を解くのが好きだからです」
「それだけ?」
彼は少し考えた。
「いいえ」
彩は待った。
森は暗い屋敷を見た。
「ときには、真実こそが死者に残してあげられる唯一のものだからです」
彩の表情が柔らかくなった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
それから森は付け加えた。
「それに、報酬が悪くないこともありますから」
彩は吹き出した。
◇ ◇ ◇
二人は車に到着した。
彩は森が安全に乗車できるよう準備を整え、車椅子が適切に固定されるのを待った。
すべての準備が整うと、彼女も席に着いた。
「帰る?」
森はうなずいた。
「お願いします」
彩は微笑んだ。
「今夜はもう謎解きなし?」
森は少し考えた。
「一つ残っています」
彩が振り向いた。
「何?」
森は非常に真剣な表情で彼女を見た。
「事務所の冷蔵庫にあった、最後のケーキを食べたのは誰なのか」
彩は固まった。
森は目を細めた。
「興味深い反応ですね」
「森さん」
「その表情には、罪の意識が見えます」
「一切れだけだったのよ!」
「自白しましたね!」
彩は顔を覆った。
◇ ◇ ◇
車は屋敷から走り去った。
背後では、警察がまだ仕事を続けていた。
書斎はいずれ片づけられるだろう。
屋敷には再び静けさが戻るだろう。
そして黒瀬茂の最後の原稿は、未完成のまま残される。
しかし、彼の死の真相は明らかになった。
魔法によってではない。
不可能な奇術によってでもない。
ほかの誰もが見落としていた、ごく普通の細部によって。
一杯の紅茶。
改造された錠。
止まった時計。
一冊の原稿。
そして、殺人を物語に変えられると信じた、一人の追い詰められた女性。
◇ ◇ ◇
森は雨の向こうを見た。
しばらく、死んだ小説家のことを考えた。
生涯をかけて謎を作り続けた男。
その男が、最後には自ら謎の被害者となった。
森は目を閉じた。
「皮肉なものですね」
彩が彼を見た。
「何が?」
森はかすかに微笑んだ。
「何でもありません」
彼女はため息をついた。
「いつもそう言うんだから」
「たいていは本当ですから」
「たいてい?」
「ときどきは」
彩は笑った。
そして街のどこかでは、すでに次の謎が待っていた。
なぜなら、世界は秘密で満ちているからだ。
人間は矛盾で満ちているからだ。
そして森探偵は――
神田警部をこれからも悩ませ続けることになるだろうが――
そのどちらも、放っておくことができない男だった。
完
『森探偵』特別読み切り ― 高橋春人 著




