第89話 追いかける勇気を持てた夢と、明日の向こうで僕たちを待つ約束
故郷に帰ってきた翌朝、僕が最初にしたことはパソコンを見つめることだった。
二番目にしたことも、パソコンを見つめることだった。
そして三番目にしたことは、ほかの人間と一切話さずに人気小説家になる方法が存在するかどうかを真剣に考えることだった。
残念ながら、答えはおそらく「存在しない」だった。
実に不便な話である。
画面には、担当編集者からのメールが表示されていた。
ごく普通のメールだった。
丁寧で。
仕事らしくて。
励ましに満ちていた。
そして、恐ろしくもあった。
『『森探偵』の今後の制作方針について、ぜひ一度お打ち合わせの機会を設けられればと存じます。』
僕はその一文をもう一度読んだ。
それから、もう一度。
念のため、さらにもう一度。
文字が突然変わっている可能性も、完全には否定できないからだ。
もちろん、変わっていなかった。
「素晴らしい」
意思伝達装置は、実際の僕の気持ちよりもずっと明るい声でその言葉を読み上げた。
「どうやら僕は、とんでもない間違いを犯したらしい」
◇ ◇ ◇
「おはよう、春人」
由紀叔母さんが紅茶を持って部屋に入ってきた。
僕の表情に気づくと、足を止めた。
「どうしたの?」
僕はパソコンを見た。
「僕の作家人生が」
叔母さんは瞬きをした。
「作家人生?」
「始まろうとしてる」
彼女は微笑んだ。
「いいことじゃないの?」
「みんな、そう言うんだ」
由紀叔母さんは小さく笑った。
紅茶を近くのテーブルに置き、医療機器の邪魔にならない位置へ少し移動させた。
「打ち合わせが不安なの?」
僕は彼女を見た。
「不安?」
叔母さんはうなずいた。
僕は少し考えた。
「何年もかけて、自分が作り出した架空の探偵には存在する価値があるんだって、誰かを説得しようとしてきたと想像してみて」
「うん」
「そして、ついに誰かが話を聞いてくれることになったとする」
「素敵なことね」
「そこで突然、その人が探偵の推理にちゃんと筋が通っていることを期待しているかもしれないと気づくんだ」
由紀叔母さんは吹き出した。
「春人!」
僕はため息をついた。
「森探偵が厄介者になってしまった」
◇ ◇ ◇
叔母さんは僕のそばに座った。
「緊張してもいいのよ」
僕は彼女を見た。
「分かってる」
「じゃあ、どうして大惨事みたいに言うの?」
僕は少し考えた。
「ずっと望んでいたことだから、実際にその日が来たらどうなるかなんて、真剣に考えたことがなかったんだ」
叔母さんの表情が柔らかくなった。
僕は画面を見た。
「何年もの間、出版は想像の中にあるものだった」
「ずっと遠くにあるもの」
「実際に向き合わなくても、目指し続けられるものだった」
少し間を置いた。
「でも今は、誰かが本気でその可能性について話したいと言ってくれてる」
叔母さんはうなずいた。
「それで、急に現実味が出てきたのね」
「そのとおり」
彼女は微笑んだ。
「だったら、お祝いする価値があるんじゃない?」
僕は彼女を見た。
「お祝いは打ち合わせのあとでもいい?」
「もちろん」
「できれば、無事に生還してから」
叔母さんは笑った。
◇ ◇ ◇
残念ながら、大地叔父さんはすでにお祝いを始めていた。
それを知ったのは、およそ十分後のことだった。
叔父さんはノートを持って僕の部屋に入ってきた。
大きなノートだった。
僕はそれを見つめた。
「ああ、嫌な予感がする」
大地叔父さんはにやりと笑った。
「おはよう、未来のベストセラー作家!」
僕は目を閉じた。
「帰って」
「なんという謙虚さだ!」
「叔父さん」
「計画を立てていたんだ」
「それが怖いんだよ」
叔父さんはノートを開いた。
「まずは全国サイン会ツアーだ」
僕は彼を見つめた。
「何だって?」
「それから海外進出」
「叔父さん」
「東京、大阪、京都――」
「叔父さん」
「場合によってはパリも」
僕は由紀叔母さんを見た。
「一度、病院で診てもらったほうがいいんじゃないかな?」
叔母さんは笑いすぎて答えられなかった。
◇ ◇ ◇
大地叔父さんは続けた。
「グッズも必要だな」
「絶対にいらない」
「森探偵のマグカップ」
「却下」
「森探偵のTシャツ」
「却下」
「森探偵のアクションフィギュア」
僕は彼を見つめた。
「探偵だよ?」
「だからこそだ!」
「どうして探偵にアクションフィギュアが必要なの?」
叔父さんは心外そうな顔をした。
「どうして必要ないと思うんだ?」
僕はため息をついた。
「まだ出版契約すら結んでないんだけど」
叔父さんは手を振った。
「細かい事務手続きだ」
「かなり重要な事務手続きだと思うよ」
「お前は考え方が小さい!」
僕は由紀叔母さんを見た。
「危険人物になりつつある」
叔母さんは涙を拭った。
「ただ嬉しいだけなのよ」
「少なくとも一人は楽しそうだね」
◇ ◇ ◇
やがて僕は、編集者との打ち合わせに出席できることを返信した。
会議はその週の後半、オンラインで行われる予定だった。
つまり、準備する時間が数日あるということだ。
原稿を読み直すための数日。
質問を整理するための数日。
そして、僕の作家人生が一本の細い糸にぶら下がっているわけではないと、自分に言い聞かせるための数日。
当然ながら、僕は『森探偵』の原稿を開くところから始めた。
それが最初の間違いだった。
二つ目の間違いは、第十二章を読んだことだった。
なぜなら、章の途中であることに気づいてしまったからだ。
恐ろしいことに。
許しがたいことに。
画面を見つめたまま固まってしまうほどのことに。
「あ」
僕はその段落を読み直した。
それから前のページを。
さらに、その前の章を。
「ああ、まずい」
◇ ◇ ◇
問題はアリバイだった。
しかも、かなり重要なアリバイ。
容疑者の一人が、殺人事件の発生時刻にレストランにいたことになっていた。
森探偵は、その情報を根拠に容疑者から除外していた。
ところが――
僕は原稿の前半で、そのレストランが月曜日は定休日だと設定していた。
そして殺人事件が起きたのは月曜日だった。
僕は画面を見つめた。
容疑者のアリバイは成立しない。
彼が嘘をついていたからではない。
僕が巧妙な伏線を仕込んだからでもない。
単に作者である僕が、自分で作った架空のレストランの定休日を忘れていたからだ。
僕は目を閉じた。
「見事だ」
◇ ◇ ◇
予定されたケアのために来ていた夏美さんが、僕の表情に気づいた。
「春人さん?」
僕は彼女を見た。
「文学的な犯罪を犯してしまった」
夏美さんは瞬きをした。
「え?」
「僕の探偵が、重要なことを見逃していたんだ」
「それって、ミステリーではよくあることじゃないですか?」
「作者まで見逃していた場合は別だよ」
夏美さんは笑った。
僕はパソコンを見た。
「どうやら『森探偵』最大の犯罪者は僕らしい」
◇ ◇ ◇
僕は森田幸子先生に連絡した。
長年、僕の執筆を励ましてくれている恩師だ。
優しくて。
忍耐強くて。
知識も豊富。
そして残念ながら、僕が書くものはすべて完璧だと言ってくれるような人ではなかった。
師匠としては、実に厄介な長所である。
通話に出た先生は微笑んだ。
「春人君。元気?」
「大惨事に直面しています」
先生の笑顔が広がった。
「執筆関係?」
「当然です」
「何があったの?」
僕はアリバイについて説明した。
レストラン。
月曜日。
探偵。
そして文明社会の完全崩壊について。
先生は辛抱強く聞いてくれた。
それから笑った。
◇ ◇ ◇
「春人君、それは設定の矛盾ね」
僕は先生を見つめた。
「かなり深刻な矛盾です」
「そうね」
「致命的かもしれません」
「直すのを拒否すれば、原稿にとっては致命的かもしれないわね」
僕はため息をついた。
「では、希望はあるんですね?」
「もちろん」
先生はカメラに少し顔を近づけた。
「間違いを犯した作家は、あなたが初めてじゃないわ」
「初めてでありたかったんですが」
「それができたら、人類史上初の作家ね」
僕は少し考えた。
「なかなか立派な業績ですね」
先生は微笑んだ。
「でも、いい文章を書くというのは、一度も間違えないことじゃないの」
僕は耳を傾けた。
「うまくいっていない部分を見つけて、根気よく改善していくことよ」
◇ ◇ ◇
僕たちは一緒に、関係する章を確認した。
解決策は、月曜日を火曜日に変えるほど単純ではなかった。
ほかの出来事も、その時間軸に関係していたからだ。
証人の勤務時間。
配達の予定。
前夜に交わされた会話。
事件の構成は慎重に作られていた。
残念ながら、一つの設定ミスがほかの部分にも影響していた。
森田先生は、主要人物全員の行動表を作るよう提案した。
僕は先生を見つめた。
「行動表ですか?」
「そう」
「日付入りで?」
「そう」
「場所も?」
「もちろん」
僕はため息をついた。
「僕に整理整頓された人間になれとおっしゃるんですね」
先生は微笑んだ。
「今より少しだけ、ね」
「理不尽な要求です」
◇ ◇ ◇
それから一時間ほど、僕たちは筋書きを見直した。
最終的に、事件の核心を変えずに矛盾を修正する方法を見つけた。
レストランは月曜日が定休日のままにする。
容疑者のアリバイは、近くの喫茶店に関するものへ変更する。
証人が二つの店を混同していたことにする。
そして森探偵が、後になってその食い違いを発見する。
僕は修正した構成案を見つめた。
「待ってください」
先生が僕を見た。
「どうしたの?」
「これ、前より面白くなってませんか?」
先生は微笑んだ。
「間違いが、新しい可能性を教えてくれることもあるのよ」
僕は少し考えた。
「実に腹立たしいですね」
先生は笑った。
◇ ◇ ◇
そのころ、別の街では葵がまったく違う挑戦を始めていた。
そのことを知ったのは、その日の夜だった。
けれどそのとき彼女は、病院の研修室に立っていた。
看護師の制服を着て。
緊張していないように見せようと、必死になりながら。
隣には中村理沙さんがいた。
「準備はいい?」
葵は深呼吸した。
「たぶん」
理沙さんは微笑んだ。
「あまり説得力のある返事じゃないわね」
葵は緊張したように笑った。
「頑張ってます」
「それでいいのよ。だからここにいるんだから」
◇ ◇ ◇
研修は、病院から在宅看護へ移行する際の支援を中心としたものだった。
単に個々の医療処置を覚えるだけではない。
状態の評価。
コミュニケーション。
緊急時の対応計画。
医療機器の管理。
医師や家族、ほかの医療職との連携。
そして、患者の自宅は病室の延長ではないという理解。
葵は、頭では分かっていた。
でも、教室で理解することと、実際の場面で応用することはまったく違った。
医療的ケアが複雑な患者を想定した演習で、葵は在宅療養に潜む危険を見つけるよう求められた。
最初は自信を持って答えた。
すると理沙さんが、次の質問をした。
「主に使っている機器が故障したら?」
葵は説明を始めた。
理沙さんは聞いていた。
そして尋ねた。
「じゃあ、予備の機器も使えなかったら?」
葵は言葉に詰まった。
◇ ◇ ◇
緊急時の備えが大切なことは知っていた。
機器の故障が重大な結果につながり得ることも知っていた。
でも、その演習には予想していなかった複雑な条件が含まれていた。
葵は口を閉じた。
資料を見た。
そして正直に答えた。
「分かりません」
理沙さんはうなずいた。
「いいわ」
葵は瞬きをした。
「いいんですか?」
「ええ」
「でも、答えられませんでした」
理沙さんは微笑んだ。
「そして、答えられないと自分で認識できた」
葵は戸惑った。
理沙さんは続けた。
「看護師がしてはいけないことの一つは、知らないのに知っているふりをすることよ」
葵は静かに聞いていた。
「あなたは学ぶためにここにいるの」
「最初から全部知っていると証明するためじゃないわ」
◇ ◇ ◇
そのあと、休憩時間に葵はノートを見つめながら座っていた。
理沙さんが近づいてきた。
「考えすぎよ」
葵は小さく笑った。
「そんなに分かりやすいですか?」
「とても」
理沙さんは隣に座った。
葵は視線を落とした。
「もっとできると思ってました」
理沙さんは眉を上げた。
「どうして?」
「今までも、医療的ケアが複雑な患者さんと関わってきたから」
「それで?」
葵はためらった。
「分かりません」
理沙さんは優しく微笑んだ。
「病院での経験は大切よ」
「でも、在宅看護には別の技術や知識も必要なの」
葵はうなずいた。
「だから研修を受けているんでしょう?」
◇ ◇ ◇
葵は窓の外を見た。
「上手になりたいんです」
「知ってるわ」
「本当に、いい看護師になりたい」
理沙さんは微笑んだ。
「だったら学び続けなさい」
葵は静かになった。
それから、もう一つ本音をこぼした。
「置いていかれるのが怖いんです」
理沙さんは彼女を見た。
「誰に?」
葵はためらった。
「みんなに」
理沙さんは小さく笑った。
「ずいぶん大勢ね」
葵はかすかに微笑んだ。
理沙さんは続けた。
「一晩で病院一の看護師になる必要なんてないの」
「昨日の自分より、少し成長できればいいのよ」
◇ ◇ ◇
その夜、スマートフォンが鳴った。
葵からのメッセージだった。
『研修、生き延びたよ』
僕は微笑んだ。
『おめでとう。関係当局に報告したほうがいいかな?』
『春人!』
『パレードはあった?』
『ないよ!』
『残念だ。大地叔父さんなら企画してくれたのに』
葵から笑っている絵文字がいくつも届いた。
それから、もう一通。
『今夜、電話できる?』
僕は微笑んだ。
『もちろん』
◇ ◇ ◇
画面に葵が現れたとき、彼女はひどく疲れているように見えた。
僕は目を細めた。
「なんてことだ」
彼女は瞬きをした。
「何?」
「ドラゴンと戦ってきたの?」
葵は笑った。
「違うよ」
「軍隊と?」
「違う!」
「それとも、凶暴なコピー機?」
「春人!」
僕は微笑んだ。
「じゃあ、研修が大変だったんだね」
彼女の表情が柔らかくなった。
「うん」
◇ ◇ ◇
葵は演習のことを話してくれた。
質問。
戸惑い。
答えが分からないと認めた瞬間。
僕は静かに聞いた。
話し終えると、僕は微笑んだ。
「大切なことを学んだみたいだね」
葵はうなずいた。
「うん」
「だったら、いい一日だったと思うよ」
彼女は小さく笑った。
「理沙さんも似たようなこと言ってた」
「賢い人だね」
「すごく」
僕は少し間を置いた。
「ただ、ドラゴンの件はまだ気になってる」
葵は吹き出した。
◇ ◇ ◇
しばらくして、葵はスマートフォンに手を伸ばした。
「見せたいものがあるの」
僕は眉を上げた。
「心配したほうがいい?」
「たぶん」
「素晴らしい」
彼女はカメラを一枚の写真に向けた。
僕たちが最後の夜を一緒に過ごしたときの写真だった。
水辺。
街の明かり。
暗い水面。
そして僕たち。
葵は僕の車椅子のそばに立っていた。
微笑んでいた。
僕は彼女のほうを見ていた。
二人とも、写真を撮られていることを意識していないようだった。
僕は見つめた。
「これ、どこで?」
葵は微笑んだ。
「黒田さんが撮ってくれたの」
僕は瞬きをした。
「黒田さんが?」
「ほら、私たちに確認してから撮ってくれたでしょ?」
僕は思い返した。
それから微笑んだ。
「ああ」
◇ ◇ ◇
葵は写真を見た。
「これ、すごく好きなんだ」
僕はうなずいた。
「僕も」
彼女は微笑んだ。
「送ろうか?」
「ぜひ」
少しして、写真がパソコンに届いた。
僕は保存した。
それから大きな画面で開いた。
しばらく、ただ見つめていた。
葵が僕を見ていた。
「春人?」
僕は微笑んだ。
「机のそばに飾ろうかな」
彼女の表情が柔らかくなった。
「本当に?」
「うん」
僕は写真を見た。
「そうすれば、森探偵が理不尽なことを言い始めたとき、世界には少なくとも一人、僕を我慢してくれる人間がいると思い出せる」
葵は笑った。
「一人だけ?」
僕は少し考えた。
「二人かもしれない。由紀叔母さんも驚くほど忍耐強いから」
◇ ◇ ◇
僕たちは距離について話した。
また離れてしまったことが、どれほど不思議に感じられるか。
普通の時間が、どれほど恋しいか。
でも、何かが変わっていた。
旅行前、同じ街に住むことは遠い夢のように感じられた。
今は、実際に家を見学した。
生活のための具体的な準備について話し合った。
必要なことを調べ始めた。
まだ先は長い。
それでも、未来はもう完全な空想ではなかった。
葵は微笑んだ。
「少しずつ近づいてる気がする」
僕はうなずいた。
「ゆっくりね」
「すごくゆっくり」
僕は笑った。
「書類手続きと同じ速度で」
葵は吹き出した。
◇ ◇ ◇
翌朝、健二から新しいメッセージが届いた。
『もう一軒、候補になりそうな賃貸物件を見つけた』
僕は画面を見つめた。
そして資料を開いた。
その家は、前の物件とは違っていた。
青い扉はなかった。
外観も、どちらかといえば普通だった。
でも、物件情報によると室内の出入口は比較的広いらしい。
浴室も大きく見えた。
主要な生活空間は一階にまとまっていた。
医療機器や看護スタッフのための空間も、前の家より確保しやすそうだった。
もちろん、まだ分からないことは多い。
実際の寸法は確認が必要。
電気設備の調査も必要。
玄関も専門的な評価が必要だった。
そして、葵の病院からは少し遠かった。
それでも、調べてみる価値はありそうだった。
◇ ◇ ◇
僕は葵に情報を送った。
すぐに返事が来た。
『あ! こっちもよさそう!』
僕は微笑んだ。
『残念ながら青い扉じゃないけど』
『塗ればいいよ』
僕は笑った。
『大家さんが許可してくれればね』
『そうだった』
少し間があった。
それから――
『でも、色は思ってたほど大事じゃないのかもしれないね』
僕はそのメッセージを見つめた。
そして微笑んだ。
『そうかもしれない』
◇ ◇ ◇
その夜、僕たちはビデオ通話で二つの家を比較した。
葵は小さな一覧表を作っていた。
当然ながら。
僕はそれを見つめた。
「またノート?」
彼女はにやりと笑った。
「うん!」
「危険人物になってきたね」
「最高の先生から学んだから」
僕はため息をついた。
「それは疑わしいね」
◇ ◇ ◇
青い扉の家には魅力があった。
気持ちのいい庭。
書斎になりそうな美しい部屋。
でも、バリアフリー面で重大な懸念が残っていた。
二軒目の家は、いくつかの点でより実用的に見えた。
ただし、立地によっては葵の通勤が難しくなるかもしれない。
どちらも専門家による評価は受けていない。
どちらも、今後も空いている保証はない。
そして、どちらかに決めたわけでもなかった。
僕たちは、ただ情報を集めているだけだった。
葵が僕を見た。
「春人はどっちが好き?」
僕は少し考えた。
「一軒目のほうが扉はいいね」
葵は笑った。
「春人!」
「でも、二軒目のほうが浴室はよさそうだ」
彼女はうなずいた。
「それは大事だね」
「非常に」
◇ ◇ ◇
僕は二つの物件情報を見た。
そして、あることに気づいた。
「葵?」
「うん?」
「僕、考え方を間違えてたのかもしれない」
彼女は首をかしげた。
「どういうこと?」
僕は母の家の写真を見た。
「青い扉のこと」
葵は静かに聞いていた。
「僕は、自分たちの未来の家を、子どものころに暮らしていた家に似せたかったのかもしれない」
彼女の表情が柔らかくなった。
「美咲さんのことがあるから?」
僕はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕は黙っていた。
それからかすかに微笑んだ。
「でも、同じである必要はないのかもしれない」
葵は僕を見た。
僕は続けた。
「僕たちの家は、昔の家に似ていなくてもいいんだ」
「僕たち自身の思い出を作れる場所なら、それでいいのかもしれない」
葵の目が優しくなった。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「それに、できれば出入口を通るたびに森探偵が謎解きをしなくても済む家がいい」
彼女は笑った。
「それは助かるね」
◇ ◇ ◇
その週の後半、拓海から連絡が来た。
彼は文学交流会に参加していた若い作家志望の一人だった。
車椅子を使っている。
思慮深くて。
才能があって。
そして、まだ起きてもいないことを心配する才能にも恵まれていた。
僕には、その性質がよく分かった。
彼のメッセージは短かった。
『小説について質問してもいいですか?』
僕は微笑んだ。
『もちろん』
少しして、次のメッセージが届いた。
『若い人向けの小説コンテストがあるんです。応募したいけど、迷ってます』
僕は画面を見た。
そして返信した。
『どうして?』
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『僕の作品じゃ、まだ足りないかもしれないから』
◇ ◇ ◇
僕たちはビデオ通話をすることにした。
画面に現れた拓海は、緊張しているようだった。
「こんにちは、高橋さん」
僕は微笑んだ。
「こんにちは、拓海君」
彼はためらった。
「すみません。お忙しいのに」
「迷惑じゃないよ」
拓海はうなずいた。
それから視線を落とした。
「小説を書いてるんです」
「素晴らしいね」
「ミステリーです」
僕は微笑んだ。
「いい趣味だ」
彼は小さく笑った。
「でも、不安で」
僕は眉を上げた。
「何が?」
◇ ◇ ◇
拓海はためらった。
「真剣に受け取ってもらえないんじゃないかって」
僕は静かに聞いていた。
「まだ若いし」
「出版したこともないし」
彼は視線を落とした。
「それに、障害もあるから」
しばらく、僕は何も言わなかった。
それから優しく微笑んだ。
「拓海君」
彼は顔を上げた。
「一つ、話してもいい?」
拓海はうなずいた。
「僕は三十歳なんだ」
彼は瞬きをした。
「知ってます」
「それでも、人から真剣に受け取ってもらえないんじゃないかって、今でも心配するよ」
彼の目が大きく開いた。
「本当ですか?」
「しょっちゅうね」
◇ ◇ ◇
僕は続けた。
「小説を書くのは怖いことなんだ」
「特に、自分の作品を大切に思っているならね」
拓海は静かに聞いていた。
「でも、不採用になったからって、小説を書く資格がないわけじゃない」
彼は黙っていた。
「障害があるからといって、想像力の価値が下がるわけでもない」
僕は微笑んだ。
「君の作品は、作品として評価されるべきなんだ」
「君について誰かが勝手に抱いた先入観で判断されるべきじゃない」
拓海は僕を見た。
「でも、落選したら?」
僕は少し考えた。
「小説コンテストに応募したことになるね」
彼は瞬きをした。
「それだけですか?」
「応募しなかった自分より、一歩進んだことになる」
◇ ◇ ◇
拓海はしばらく黙っていた。
それからかすかに微笑んだ。
「そうですね」
僕はうなずいた。
「それに、落選したら改稿すればいい」
「新しい作品を書いてもいい」
「両方でもいい」
彼は僕を見た。
「高橋さんも、落選したことありますか?」
僕は笑った。
「ああ、拓海君」
彼は瞬きをした。
「何ですか?」
僕は微笑んだ。
「どのくらい時間がある?」
彼は吹き出した。
◇ ◇ ◇
会話が終わるころには、拓海は応募する決心をしていた。
まだ緊張しているようだった。
でも、その表情には期待もあった。
通話を終える前、彼はためらった。
「高橋さん?」
「うん?」
「僕もいつか、本物の作家になれると思いますか?」
僕は彼を見た。
それから微笑んだ。
「拓海君。君はもう小説を書いているんだよね」
彼はうなずいた。
「だったら、もう作家だよ」
彼の目が大きく開いた。
僕は続けた。
「あとは、自分の物語をできる限りいいものにしていけばいい」
彼は微笑んだ。
「はい」
◇ ◇ ◇
そして、編集者との打ち合わせの日がやってきた。
当然ながら、僕は裁判を待つ被告人のような気分で目を覚ました。
もちろん、比喩的な意味で。
もっとも、森探偵ならこの状況を面白がったかもしれない。
会議は午後に予定されていた。
準備する時間は数時間あった。
僕はメモを確認した。
原稿を確認した。
質問を整理した。
パソコンと意思伝達装置が正常に動くことを確認した。
それから、もう一度確認した。
さらにもう一度。
夏美さんが近くで見ていた。
「春人さん?」
僕は彼女を見た。
「はい?」
「全部、正常に動いてますよ」
「知ってる」
「もう三回確認しましたよ」
「四回だよ」
夏美さんは笑った。
「四回?」
「念には念を入れる主義なんだ」
◇ ◇ ◇
少しして、由紀叔母さんが入ってきた。
「気分はどう?」
僕は彼女を見た。
「判決を待っている被告人みたい」
叔母さんは微笑んだ。
「編集者との打ち合わせでしょ。裁判じゃないのよ」
「それはまだ分からない」
彼女は笑った。
それから表情が柔らかくなった。
「大丈夫よ」
僕は彼女を見た。
「そんなこと分からないでしょ」
「そうね」
叔母さんはうなずいた。
「でも、あなたが一生懸命頑張ってきたことは知ってる」
僕は静かになった。
「今日どんな結果になっても、その努力には意味があるのよ」
胸が締めつけられた。
僕は微笑んだ。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
大地叔父さんが入口に現れた。
当然ながら。
「未来のベストセラー作家、準備はいいか!」
僕は目を閉じた。
「いいえ」
叔父さんはにやりと笑った。
「素晴らしい!」
僕は彼を見た。
「どこが?」
「自信だ!」
「それは自信じゃない」
「情熱だ!」
「それも違う」
叔父さんは笑った。
それから少し身を寄せた。
「真面目な話だ、春人」
僕は彼を見た。
「頑張れよ」
今度の声は静かだった。
心からの言葉だった。
僕は微笑んだ。
「ありがとう、叔父さん」
彼はうなずいた。
それから付け加えた。
「有名になっても俺を忘れるなよ」
僕はため息をついた。
「やっぱりね」
◇ ◇ ◇
会議は時間どおりに始まった。
画面に担当編集者が現れた。
僕たちは挨拶を交わした。
僕は意思伝達装置の使い方を説明し、無理なく返答できる進行にしてもらえることを確認した。
編集者は理解を示してくれた。
急ぐ必要はなかった。
準備ができる前に答えを求められることもなかった。
それだけで、少し気が楽になった。
本当に少しだけ。
そして話題は『森探偵』へ移った。
その瞬間、すべてが現実になった。
◇ ◇ ◇
編集者は、まず原稿の長所から話し始めた。
中心となる謎は読者の興味を引くものだった。
森探偵には独特の個性があった。
印象に残る脇役も何人かいた。
そして、感情面の描写が、単なる事件の捜査を超えた深みを作品に与えていた。
僕は慎重に耳を傾けた。
あまり笑顔になりすぎないように。
パニックにならないように。
大地叔父さんがアクションフィギュアを売っている姿を想像しないように。
すると編集者は続けた。
「ただ、もう少し掘り下げていただきたい部分もあります」
僕は心の中で青ざめた。
ああ。
来た。
避けられない「ただ」が。
◇ ◇ ◇
編集者は懸念点を説明した。
展開が遅い章があること。
一部の手がかりが、都合よく登場しすぎていること。
ある脇役の動機を、もっと深く描く必要があること。
最後の対決に、より強い感情的な衝撃が必要なこと。
そして、森探偵と最も親しい相棒との関係を、さらに描き込む余地があること。
僕はメモを取った。
大量に。
途中で、パソコンの容量がすべての指摘を保存できるか心配になったほどだった。
でも、あることに気づいた。
編集者は原稿を否定しているわけではなかった。
どうすればもっとよくなるかを話してくれていた。
その違いは大きかった。
とても大きかった。
◇ ◇ ◇
やがて僕は、ずっと怖くて聞けなかった質問をした。
「つまり、この原稿は出版の候補として検討されているのでしょうか?」
編集者は少し間を置いた。
それから慎重に答えた。
「作品には可能性があると考えていますし、今後も検討を続けたいと思っています」
胸が締めつけられた。
「ただ、現段階では出版契約をご提示できる状況ではありません」
僕はうなずいた。
編集者は続けた。
「次の判断をする前に、大幅な改稿をお願いしたいと考えています」
僕はメモを見た。
大幅な改稿。
契約ではない。
不採用でもない。
その中間にあるものだった。
◇ ◇ ◇
一瞬、失望が胸をよぎった。
こうなる可能性は分かっていた。
期待しすぎないよう、自分に言い聞かせてもいた。
でも、心のどこかでは、今日の打ち合わせで何かが決まることを期待していた。
合格。
契約。
お祝い。
ところが、実際に手に入ったのは仕事だった。
大量の仕事。
すると編集者が、僕の考えを変える一言を口にした。
「この作品に今後も検討する価値があると考えていなければ、ここまで具体的な改稿のお話はしていません」
僕は顔を上げた。
編集者は微笑んだ。
「春人さん、この作品には確かな魅力があります」
胸が締めつけられた。
「ぜひ、その魅力をさらに引き出していただきたいと思っています」
◇ ◇ ◇
会議の終わりには、主な改稿方針を確認していた。
編集者は詳細な指摘を文書で送ってくれることになった。
僕はそれを確認し、現実的な改稿予定を提案する。
契約は約束されていない。
出版日も決まっていない。
でも、話し合いは実りあるものだった。
そして、可能性の扉はまだ開いていた。
通話が終わると、僕は何も映っていない画面を見つめた。
数秒間、動かなかった。
それからため息をついた。
「さて」
◇ ◇ ◇
少しして、由紀叔母さんが入ってきた。
「どうだった?」
僕は彼女を見た。
「宿題を出された」
叔母さんは瞬きをした。
「宿題?」
「理不尽なほど大量に」
彼女は微笑んだ。
「それって、気に入ってもらえたってこと?」
僕は少し考えた。
「可能性があると思ってくれてるみたい」
叔母さんの目が輝いた。
「春人!」
「でも、大幅な改稿が必要なんだ」
彼女はうなずいた。
「それで?」
僕は彼女を見た。
「できると思う」
叔母さんの笑顔が広がった。
「だったら、素晴らしいことじゃない」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は葵に電話した。
彼女はほとんどすぐに出た。
「春人!」
僕は微笑んだ。
「やあ」
「打ち合わせ、どうだった?」
僕は大げさにため息をついた。
「無事に生還したよ」
葵は笑った。
「春人!」
「かろうじてね」
「教えて!」
だから僕は、すべてを話した。
褒められたこと。
指摘されたこと。
求められた改稿。
契約がまだないこと。
それでも、検討が続く可能性があること。
葵は慎重に聞いていた。
話し終えると、彼女は微笑んだ。
「誇らしいよ」
僕は彼女を見た。
「契約が取れなかったのに?」
「もちろん!」
彼女は少し心外そうだった。
「春人、編集者さんはこれからも作品を見たいって言ってくれてるんでしょ?」
僕はうなずいた。
「それに、もっとよくなるって信じてくれてる」
「うん」
彼女は微笑んだ。
「いいことだよ」
◇ ◇ ◇
僕はメモを見た。
「そうかもしれないね」
葵は首をかしげた。
「がっかりした?」
僕はためらった。
「少しね」
彼女はうなずいた。
「それでもいいんだよ」
僕は彼女を見た。
葵は続けた。
「期待してたんだもん」
「でも、まだその結果にはならなかった」
僕はかすかに微笑んだ。
「うん」
「だからって、何も起きなかったわけじゃないよ」
僕は少し考えた。
それからうなずいた。
「君の言うとおりだ」
彼女はにやりと笑った。
「当然でしょ」
僕はため息をついた。
「君の謙虚さには、いつも感心させられるよ」
◇ ◇ ◇
葵は次の原稿を読んでくれると言った。
僕は眉を上げた。
「本当に?」
彼女はうなずいた。
「もちろん」
「森探偵が面倒な男だって理解してる?」
「知ってる」
「理不尽なところもある」
「知ってる」
「それに、判断を間違えることも多い」
葵は微笑んだ。
「誰かさんに似てるね」
僕は彼女を見つめた。
「失礼?」
葵は吹き出した。
◇ ◇ ◇
やがて、森探偵と最も親しい相棒との関係について話し始めた。
編集者は、感情面をもっと深く描くことを望んでいた。
葵は少し考えた。
「もっとちゃんと気持ちを伝えたほうがいいんじゃない?」
僕は彼女を見た。
「森探偵が?」
「うん」
「気持ちを?」
彼女はうなずいた。
「大切な人に対しては、特に」
僕はため息をついた。
「彼には難しい要求だね」
葵は笑った。
「何も感じてないふりをやめればいいのに」
僕は彼女を見つめた。
「僕の文学的才能を批判してるの?」
彼女はにやりと笑った。
「手伝ってるんだよ」
「批判にしか聞こえないけど」
◇ ◇ ◇
すると葵は付け加えた。
「それに、恋愛の助言がひどすぎる」
僕は固まった。
「何が?」
「恋愛の助言」
僕は彼女を見つめた。
「森探偵は恋愛相談員じゃないんだ」
「だからだよ」
葵は笑った。
「友達に、好意を伝える一番いい方法は、相手が察するまで何も言わないことだって言ってるじゃない」
僕は少し考えた。
「効率的な方法だね」
「春人!」
「会話が少なくて済む」
「春人!」
「謎も深まる」
葵は笑いすぎて答えられなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、通話が終わったあと、僕は母のことを考えていた。
美咲。
未完成の手紙。
青い扉。
母が残してくれた言葉。
いつか返事を書こうと、自分に約束していた。
母が読んでくれると思っているからではない。
起きてしまったことを変えられると思っているからでもない。
ただ、伝えたいことがあった。
以前は、どう伝えればいいのか分からなかったことが。
僕は新しい文書を開いた。
そして書き始めた。
◇ ◇ ◇
『母さんへ』
『どう書き始めればいいのか分からない。』
『人生のかなりの時間を文章を書くことに費やしている人間としては、少々恥ずかしい話だね。』
『母さんなら、きっと笑うと思う。』
僕はかすかに微笑んだ。
そして続きを書いた。
『母さんの手紙のことを、ずっと考えていたんだ。』
『最後まで書かれることのなかった、あの手紙。』
『長い間、母さんが何を伝えようとしていたのか考えていた。』
『書かれなかった言葉を想像してみた。』
『森探偵の事件みたいに、未完成の一文を解こうとしていた。』
『でも、ようやく一つ分かった気がする。』
『母さんが何を書こうとしていたのか、正確に知る必要はないのかもしれない。』
『そのあと僕に何が起きたのか、母さんに伝えることが大切なのかもしれない。』
◇ ◇ ◇
僕は手を止めた。
部屋は静かだった。
医療機器のいつもの音が続いていた。
そして書いた。
『母さん、僕はある人と出会ったんだ。』
『名前は葵。』
『看護師なんだ。』
『優しくて。』
『頑固で。』
『僕のひどい冗談を、ひどいと言いながら笑ってくれる。』
『そして、どういうわけか、ごく普通の毎日まで特別なものにしてくれる。』
僕は水辺で撮った写真を見た。
そして続きを書いた。
『僕は彼女を愛している。』
『そして、彼女も僕を愛してくれている。』
『母さんにも会ってほしかった。』
◇ ◇ ◇
しばらく、それ以上書けなかった。
母がどう反応しただろうかと考えた。
葵を気に入ってくれただろうか。
きっと、そうだと思う。
心配しただろうか。
ほぼ間違いなく。
千個くらい質問しただろうか。
絶対に。
泣いただろうか。
たぶん。
僕は微笑んだ。
『実はね、母さん。母さんと葵は、とても気が合ったと思うんだ。』
『二人とも、驚くほど涙もろいから。』
『それに、僕が自分の身体を大切にするよう、何度も注意しなければならないと思っているところも似ている。』
◇ ◇ ◇
僕は書き続けた。
『最近、別の街へ旅行したんだ。』
『準備は簡単じゃなかった。』
『看護師さんたち、医療機器、予定表、交通手段、それに普通の人間が耐えられる量をはるかに超えた書類手続き。』
『でも、行ったんだ。』
『そして向こうで、自分の小説について人前で話した。』
『みんなが聞いてくれた。』
『拍手までしてくれた人もいた。』
『母さんにも見てほしかった。』
◇ ◇ ◇
胸が締めつけられた。
僕は手を止めた。
そして書いた。
『今、小説を出版しようとしているんだ。』
『題名は『森探偵』。』
『今日、編集者と打ち合わせをした。』
『契約はもらえなかった。』
『でも、作品には可能性があるって言ってくれた。』
『もっとよくしてほしいって。』
『そして初めて、ずっとなりたかった作家に、本当になれるかもしれないと思い始めた。』
僕は窓を見た。
それから続けた。
『母さんに直接、全部話せたらよかったのに。』
◇ ◇ ◇
だんだん、言葉を書くのが難しくなってきた。
何を言えばいいのか分からなかったからではない。
何を言いたいのか、はっきり分かっていたからだ。
『もう一つあるんだ、母さん。』
『葵と僕は、未来について話し始めている。』
『もっと近くに住むこと。』
『いつか、一緒の家で暮らすことも。』
『青い扉のある家を見に行ったんだ。』
『僕たちの家を思い出した。』
『最初は、あの扉が特別なんだと思った。』
『でも、今は分かる気がする。』
『大切だったのは、扉そのものじゃなかった。』
『その向こうで僕たちが過ごした人生だったんだ。』
◇ ◇ ◇
僕は画面を見つめた。
そして書いた。
『母さんは、僕が夢を見られる家を作ってくれた。』
『外の世界が怖く感じられたときも。』
『僕の身体のせいで、普通のことが複雑になってしまうときも。』
『未来が不確かに思えたときも。』
『母さんは、僕の人生は僕自身のものだと、何度も教えてくれた。』
僕は手を止めた。
『今、僕はそのことを思い出そうとしている。』
◇ ◇ ◇
部屋はとても静かだった。
僕は続きを書いた。
『五年後、どこに住んでいるのか分からない。』
『『森探偵』が出版されるかどうかも分からない。』
『これから、どれほど大変な日々が待っているのかも分からない。』
『でも、以前は知らなかったことが一つある。』
『僕はまだ、成長し終わっていない。』
『愛することも終わっていない。』
『そして、自分の人生がどんなものになれるのかを見つける旅も、まだ終わっていない。』
◇ ◇ ◇
僕は廊下の向こうにある青い扉を見た。
そして最後の言葉を書いた。
『だから、もし母さんが僕に勇気を持ってほしいと言おうとしていたのなら――』
『僕は頑張っているよ。』
『もし、生き続けてほしいと言おうとしていたのなら――』
『ちゃんと生きているよ。』
『そして、僕たちの小さな青い扉の向こうにある世界を見たいと思わせてくれる人を追いかけなさいと言おうとしていたのなら――』
『きっと母さんは喜んでくれると思う。』
『僕は、もうその人に出会ったから。』
『愛してるよ。』
『母さんの息子、春人より。』
◇ ◇ ◇
僕は手紙を保存した。
それから長い間、静かにしていた。
劇的な発見はなかった。
奇跡のような答えもなかった。
悲しみが突然消えることもなかった。
僕は今でも母が恋しい。
これからも、ずっとそうだろう。
でも、あの言葉を書いたことで、悲しみの感じ方が少し変わった気がした。
小さくなったわけではない。
ただ、ほかのものと一緒に抱えていきやすくなった。
愛。
希望。
そして、未来と。
◇ ◇ ◇
翌朝、僕は『森探偵』の改稿準備を始めた。
新しいフォルダを作った。
それから、もう一つ。
編集者の指摘をまとめた文書も作った。
時系列表も。
人物設定表も。
未解決の問題一覧も。
気づけば、大地叔父さんの出版ツアー計画ノートが控えめに見えるほど、大量の整理資料ができていた。
僕は画面を見つめた。
「なんてことだ」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「僕、整理整頓のできる人間になってしまった」
彼女は微笑んだ。
「おめでとうございます」
僕はため息をついた。
「もう後戻りできない気がする」
◇ ◇ ◇
僕は午前中を使って、編集者の提案を確認した。
難しいものもあった。
すぐに納得できるものもあった。
場面全体を考え直さなければならないものもあった。
でも、少しずつ原稿がどうよくなるのか見えてきた。
森探偵に必要なのは、巧妙な推理だけではない。
感情的な結果も必要だった。
人間関係にも意味がなければならない。
脇役には、もっと強い動機が必要だった。
そして謎は、あとから振り返ったときに必然だったと思えるものでなければならない。
都合よく解決したように感じさせてはいけない。
大変な仕事だった。
でも初めて、改稿を自分の失敗の証拠だとは思わなくなっていた。
本を書くための、次の段階なのだと思えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
そのとき、パソコンが通知音を鳴らした。
新しいメールだった。
担当編集者から。
僕は、約束されていた改稿メモだろうと思って開いた。
実際、メモは添付されていた。
でも、もう一つ予想していなかった文章があった。
『また、小規模な文学団体より、今後開催予定の新人作家向け座談会に、春人さんをご招待できないかという初期段階のお問い合わせをいただいております。』
僕は固まった。
その一文をもう一度読んだ。
そして続きを読んだ。
『現時点では何も確定しておらず、ご参加を正式に決定する前に、開催形式や必要な準備について相談する必要がございます。』
『ただ、まずは春人さんに、ご関心があるかどうかをお伺いできればと思っております。』
僕は画面を見つめた。
◇ ◇ ◇
また文学イベント。
また執筆について話す機会。
また新しい可能性。
最初の文学交流会から、まだ完全に気持ちを切り替えられていない。
原稿の改稿も終わっていない。
次の打ち合わせも決まっていない。
それなのに――
また誰かが、僕と本について話したがっている。
僕は天井を見た。
「すみません」
天井は何も答えなかった。
「もう少しゆっくり進めてもらえませんか?」
やはり何も答えない。
「こちらにも、適切な不安の水準を維持する必要があるんですが」
◇ ◇ ◇
僕はメールを読み直した。
招待はまだ確定していない。
詳しいことも決まっていない。
日付もない。
場所もない。
開催される保証もない。
でも、編集者がわざわざ知らせてくれるほどには、関心を持ってもらえているらしい。
僕は執筆机のそばに置いた葵の写真を見た。
そして微笑んだ。
「さて」
少し間を置いた。
「どうやら森探偵が人気者になりつつあるらしい」
◇ ◇ ◇
スマートフォンが鳴った。
葵からのメッセージだった。
『執筆は順調?』
僕は微笑んだ。
そして返信した。
『ちょっと問題が起きたかもしれない』
すぐに返事が来た。
『何があったの!?』
僕はメールを見た。
それから写真を。
そして、もう一度メッセージを見た。
『どうやら、みんな僕に本の話をしてほしいらしい』
少し間があった。
そして――
『春人!』
僕は笑った。
次のメッセージが届いた。
『すごいじゃない!!』
僕は微笑んだ。
『まだ詳しいことを話してないんだけど』
『じゃあ教えて!』
◇ ◇ ◇
僕は返信を入力し始めた。
でも、送信する前に手を止めた。
部屋を見回した。
見慣れた壁。
本棚。
医療機器。
廊下の向こうにある青い扉。
すべて、まだここにあった。
僕の人生が突然簡単になったわけではない。
障害が消えたわけでもない。
現実的な問題がなくなったわけでもない。
僕には今でも専門的な看護が必要だった。
今でも、自分の身体に合わせて計画しなければならないことがある。
今でも、愛する女性とは遠く離れて暮らしている。
そして原稿には、まだ大量の修正が必要だった。
でも、部屋の外に広がる世界が、少し違って感じられるようになっていた。
世界が小さくなったからではない。
そこへたどり着く方法を、以前より多く見つけられるようになったからだ。
◇ ◇ ◇
僕は編集者のメールをもう一度見た。
それから母への手紙を開いた。
最後の部分を読み直した。
『僕は頑張っているよ。』
『ちゃんと生きているよ。』
『僕は、もうその人に出会ったから。』
一瞬、母が僕のそばに立っている姿を想像した。
微笑んでいる。
すべてがうまくいったからではない。
僕がまだ前へ進んでいるから。
まだ書いているから。
まだ愛しているから。
まだ明日を楽しみにする理由を見つけ続けているから。
◇ ◇ ◇
僕は葵のメッセージに戻った。
そして入力した。
『また文学関係の座談会に招待されるかもしれないんだ』
ほとんど一瞬で返事が来た。
『また!?』
僕は微笑んだ。
『まだ可能性の段階だけどね』
『春人、すごいよ!!』
僕は小さく笑った。
そして、もう一通届いた。
『本当に誇らしいよ』
胸が締めつけられた。
僕は彼女の写真を見た。
それから返信した。
『ありがとう』
少し間を置いた。
そして付け加えた。
『ただ、この調子だと秘書を雇わないといけないかもしれない』
葵から笑っている絵文字が届いた。
そして――
『大地叔父さんに頼めば?』
僕は画面を見つめた。
「嫌だ」
絶対に嫌だ。
◇ ◇ ◇
僕は笑った。
そして原稿に戻った。
直さなければならないところがあった。
答えなければならない質問があった。
もっと深く描かなければならない登場人物がいた。
より強くしなければならない謎があった。
そして、もしかすると近い将来、僕の言葉を聞いてくれる新しい聴衆が待っているかもしれなかった。
小説が出版されるかどうかは分からない。
招待が正式なものになるかどうかも分からない。
次にいつ葵に会えるのかも分からない。
でも、次に何をしたいのかは分かっていた。
書き続けたい。
学び続けたい。
僕たちが想像し始めた未来を、少しずつ築いていきたい。
そして、あの白紙のページを埋め続けたい。
ごく普通の一日を、一つずつ重ねながら。
◇ ◇ ◇
僕は『森探偵』の第一章を開いた。
カーソルが点滅していた。
僕を待っている。
僕は微笑んだ。
「さて、探偵さん」
少し間を置いた。
「これだけ注目してもらえる価値のある男に、君を仕上げてみようじゃないか」
そして僕は書き始めた。
見慣れた青い扉の向こうでは、また新しい明日が待っていた。
約束された明日ではない。
簡単な明日でもない。
でも、ようやく追いかける勇気を持てた明日だった。




