第88話 距離を越えて約束を運んださよならと、終わることを拒んだ僕たちの明日
僕がずっと恐れていた朝が、とうとうやってきた。
当然ながら、僕の許可など一切取らずに。
実に無礼な話だと思う。
窓の外では、見慣れない街に朝日が差し込んでいた。
建物の向こうでは、人々がいつもどおりの一日を始めているのだろう。
車が交差点を行き交い、店主たちが店を開け、学生たちが学校へ急いでいる。
世界は、まるで何も特別なことなど起きていないかのように動いていた。
僕にとって人生でも指折りの、感情的に厄介な朝が始まろうとしているというのに。
ずいぶん失礼ではないだろうか。
僕は天井を見つめた。
それから窓を見た。
そして、壁際に置かれたスーツケースに目を向けた。
「ああ、素晴らしい」
もちろん、無生物であるスーツケースは何の同情も示さなかった。
「裏切り者め」
◇ ◇ ◇
「おはようございます、高橋さん」
黒田さんがタブレットを持って部屋に入ってきた。
僕は彼女を見た。
「それは場合によります」
黒田さんは微笑んだ。
「何によるんですか?」
「時間が一時的に停止したという知らせを持ってきてくれたかどうかです」
「残念ながら、そうではありません」
「がっかりです」
彼女は笑った。
「よく眠れましたか?」
僕は少し考えた。
「身体的には、そこそこ」
「それ以外は?」
「夜のかなりの時間を使って、明日と交渉していました」
黒田さんは眉を上げた。
「交渉の結果は?」
「こちらの提案をすべて拒否されました」
「それは残念ですね」
「非常に」
◇ ◇ ◇
黒田さんは、旅行計画に従って朝の健康状態の確認とケアの準備を始めた。
帰りの移動は、ずっと前から手配されていた。
車椅子に対応した車両も確認済み。
必要な医療機器と物品も点検済み。
移動中のケアや休憩についても計画されていた。
できる限り安全で、予測しやすい旅にするため、すべてが整えられていた。
僕はそれに感謝していた。
本当に。
ただ、心の底から来てほしくなかった日のために、みんながあまりにも効率よく準備していることが、少々腹立たしかった。
黒田さんは確認表を見た。
「問題なさそうですね」
僕はため息をついた。
「でしょうね」
彼女は僕を見た。
「問題があったほうがよかったですか?」
「いいえ。絶対に嫌です」
少し間を置いた。
「ただ、宇宙にはもう少し時間にルーズになってほしかっただけです」
◇ ◇ ◇
スマートフォンが通知音を鳴らした。
葵からのメッセージだった。
『おはよう』
僕は微笑んだ。
すぐに次のメッセージが届いた。
『もう起きてる?』
僕は意思伝達装置を使って返信した。
『残念ながら』
すぐに返事が来た。
『春人!』
僕は微笑んだ。
『今日という日に正式な苦情を申し立てたところだよ』
『誰に?』
『時間そのものに』
少し間があった。
そして――
『効果あった?』
『なかった。管理体制が実にずさんだ』
葵から笑っている絵文字が届いた。
それから、もう一通。
『もうすぐ行くね』
僕はその言葉を見つめた。
自然と笑顔が柔らかくなった。
『待ってるよ』
◇ ◇ ◇
朝の準備が終わって間もなく、葵がやってきた。
淡いピンク色のカーディガンに、白いブラウス。
髪はきれいに整えられていた。
小さなバッグを持っていた。
そして、笑顔だった。
少なくとも――
笑顔でいようと努力していた。
僕には、その表情がすぐに分かった。
自分はまったく平気だと、世界中に信じ込ませようとしている人間の顔だった。
残念ながら葵は、僕がミステリー小説を書いていることを忘れていたらしい。
不審な行動を見逃すわけにはいかない。
「おはよう」
葵は明るく微笑んだ。
「おはよう!」
僕は目を細めた。
「興味深い」
彼女は瞬きをした。
「何が?」
「いや、何でもない」
「春人」
「本当に何でもないよ」
葵はため息をついた。
「また私を捜査してるでしょ」
「証拠があまりにも多いからね」
◇ ◇ ◇
葵は僕の車椅子に近づいた。
しばらく、ただ僕を見つめていた。
それから顔を寄せ、キスをした。
優しく。
短く。
それなのに、昨夜交わしたキスよりも、どこか切なかった。
顔を離すと、彼女は微笑んだ。
「眠れた?」
「うん」
「よかった」
「君は?」
葵はためらった。
「まあまあ」
僕は眉を上げた。
「葵」
彼女はぎこちなく笑った。
「分かった。あんまり眠れなかった」
僕はかすかに微笑んだ。
「僕も」
しばらく、僕たちは何も言わなかった。
それから葵はスーツケースに目を向けた。
笑顔が少し曇った。
僕は気づいた。
もちろん、気づいた。
◇ ◇ ◇
「一回目」
僕が言うと、葵は僕を見た。
「何が?」
「寂しくないふりに失敗した回数」
葵は僕を見つめた。
「春人!」
僕は微笑んだ。
「数えることにした」
「ひどい!」
「職業病だよ」
葵は笑った。
そして、もう一度スーツケースを見た。
その目が少し潤んだ。
僕はため息をついた。
「二回目」
「数えないで!」
◇ ◇ ◇
黒田さんが残りの準備を終えるまで、僕たちは一緒に過ごした。
葵は僕のそばに座った。
天気のこと。
交通状況のこと。
朝食に何を食べたかということ。
理沙さんから朝早く電話が来て、忘れ物をしないように念を押されたこと。
そんな、ごく普通の話をした。
本当に、ありふれた話だった。
だからこそ、余計につらかった。
数時間後には、こうして隣に座っていることができなくなる。
僕は故郷に帰る。
葵はこの街に残る。
そして僕たちの会話は、また画面越しになる。
僕は彼女を見た。
葵が気づいた。
「何?」
僕は微笑んだ。
「何でもない」
彼女は目を細めた。
「今度は春人が怪しいよ」
「職業上の危険だね」
◇ ◇ ◇
やがて、僕は決心した。
「葵?」
彼女は顔を上げた。
「うん?」
「見せたいものがあるんだ」
葵の表情が変わった。
「何?」
僕は微笑んだ。
「昨夜届いたもの」
彼女は身を乗り出した。
「誰から?」
僕はわざと間を置いた。
「担当編集者から」
葵の目が大きく開いた。
「ええっ!?」
僕は笑った。
「やれやれ。今の声、建物中に聞こえたんじゃないかな」
「春人!」
僕はメールを開いた。
そして画面を彼女に向けた。
◇ ◇ ◇
葵は慎重に読み始めた。
最初は戸惑った顔をしていた。
次に驚いた。
そして、だんだん興奮した表情になった。
彼女の視線が文章を追っていく。
改稿した原稿についての編集者の評価。
文学交流会での好意的な反応。
『森探偵』の出版の可能性について話し合いたいという申し出。
より本格的な打ち合わせへの招待。
最後まで読むと、葵は僕を見た。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「どう?」
彼女は口を開いた。
閉じた。
そして、また開いた。
僕は眉を上げた。
「ついに君を言葉も出ない状態にしてしまったかな?」
葵は首を横に振った。
そして――
「すごいじゃない!!」
◇ ◇ ◇
葵は僕に身を寄せ、医療機器に気をつけながら抱きしめてくれた。
「春人! 本当にすごいよ!」
僕は笑った。
「どうやらそうらしいね」
彼女は顔を離した。
「これがどういう意味か分かってる?」
僕は微笑んだ。
「打ち合わせに出席しなければならないという意味かな?」
「春人!」
「場合によっては書類も必要になるかもしれない」
葵は涙を浮かべながら笑った。
「もう、冗談ばっかり!」
僕は微笑んだ。
「地域のティッシュ不足を防ごうとしているんだよ」
彼女は口元を覆った。
「本当にもう!」
「でも、不思議と愛されている」
「うん! すごく!」
◇ ◇ ◇
葵はメールをもう一度読んだ。
それから僕を見た。
「本気で春人の小説を検討してくれてるんだね」
僕はうなずいた。
「可能性について話し合いたいらしい」
彼女の表情が柔らかくなった。
「でも、まだ契約じゃないんだよね」
「うん」
「何も決まってない」
「そのとおり」
葵は微笑んだ。
「でも、一歩前進だよ」
僕は画面を見た。
「うん」
小さな笑顔が広がった。
「かなり大きな一歩だね」
葵は息を吸い、目元を拭った。
僕はため息をついた。
「三回目」
彼女は僕を見つめた。
「春人!」
◇ ◇ ◇
出発前、葵はスクラップブックを保護ケースから取り出した。
僕のために作ってくれた、小さな青い本。
彼女は僕によく見えるように置いた。
「一つお願いがあるの」
僕は微笑んだ。
「心配したほうがいい?」
「たぶん」
「素晴らしい」
葵は後ろの白紙のページを開いた。
「ここに何か書かない?」
僕は彼女を見た。
「どんなこと?」
葵は照れくさそうに微笑んだ。
「約束」
◇ ◇ ◇
僕は何も書かれていないページを見つめた。
約束。
単純な言葉のように思える。
けれど僕は、約束が複雑なものにもなり得ると知っていた。
簡単にできる約束もある。
保証できない約束もある。
あの家に住めるとは約束できない。
小説が出版されるとも約束できない。
もう二度と別れなくて済むとも約束できない。
でも、約束できることはあった。
僕自身の選択にかかっていることなら。
僕は微笑んだ。
「いいよ」
葵の顔が明るくなった。
「本当に?」
「本当に」
◇ ◇ ◇
僕は執筆用の支援システムを使って、短い文章を作った。
葵は静かに見守っていた。
書き終えると、彼女に見せた。
『どれほど遠く離れていると感じる日があっても、僕たちが一緒に築こうとしている未来を選び続けると約束する。』
『いつも簡単だなんて言わない。』
『でも、難しいという理由だけで諦めたりはしない。』
『そして、人生が僕たちをどこへ連れていこうとも、君と過ごした普通の日々が、僕の人生で最も特別なものの一つだということを忘れないでほしい。』
葵はその言葉を見つめた。
目に涙が浮かんだ。
僕はため息をついた。
「四回目」
彼女は涙を浮かべながら笑った。
「せっかくの雰囲気が台無しだよ!」
「それも僕の才能の一つらしい」
◇ ◇ ◇
葵は僕の文章を、小さな写真の下に丁寧に書き写した。
それからペンを持った。
しばらく、ページの上で手を止めていた。
僕は彼女を見守った。
やがて、葵は書き始めた。
書き終えると、本を僕に向けた。
『私は、自分がなりたい人間へと成長し続けることを約束します。そして、その途中で愛する人を忘れたりしません。』
『恐怖にすべてを決めさせたりしません。』
『そして、さよならを言わなければならない日があっても、私の明日にはいつも春人の居場所を残しておきます。』
僕はその言葉を読んだ。
そして、もう一度読んだ。
一瞬、何も言えなかった。
葵は照れくさそうに微笑んだ。
「重すぎた?」
僕は首を横に振った。
「ううん」
胸が締めつけられた。
「ちょうどいいよ」
◇ ◇ ◇
残りのページは白紙のままにした。
まだ何枚も残っていた。
葵はスクラップブックを閉じた。
「次に会ったとき、もっと増やそうね」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
彼女は僕を見た。
「初めての出版打ち合わせの写真とか」
僕は笑った。
「まずは打ち合わせを無事に乗り切らないとね」
「それか、次の旅行の写真」
「そうだね」
「それか……」
彼女は少しためらった。
「青い扉の家の写真」
僕は彼女を見た。
それから微笑んだ。
「そうなるかもしれないね」
◇ ◇ ◇
まるでその会話を聞いていたかのように、スマートフォンが鳴った。
健二からだった。
僕はメッセージを開いた。
『おはよう、春人。例の家について新しい情報が入ったよ』
僕はすぐに画面へ集中した。
葵が身を乗り出した。
「何だって?」
僕はメッセージを読んだ。
所有者は、専門家によるバリアフリー調査を検討してもいいと考えているらしい。
ただし、懸念もあった。
浴室の改修には高額な費用がかかる可能性がある。
電気設備の調査も必要。
大規模な変更には正式な許可が必要になる。
さらに健二は、その物件が僕たちのために確保されているわけではないことも強調していた。
今後も空いている保証はなかった。
僕は画面を見つめた。
◇ ◇ ◇
葵も隣でメッセージを読んだ。
一瞬、残念そうな顔をした。
それからうなずいた。
「そっか……」
僕はかすかに微笑んだ。
「そうだね」
彼女は僕を見た。
「無理って言われたわけじゃないよね」
「うん」
「でも、大丈夫って決まったわけでもない」
「そのとおり」
葵は少し考えた。
「じゃあ、もう少し調べてみよう」
僕はうなずいた。
「それに、ほかの家も探したほうがいいかもしれない」
彼女は微笑んだ。
「そうだね」
僕は窓を見た。
「あの青い扉は素敵だけど」
葵はうなずいた。
「安全に暮らせる家のほうが大事だもんね」
僕は微笑んだ。
「まさにそのとおり」
◇ ◇ ◇
葵が僕を見た。
「寂しい?」
僕は少し考えた。
「少しね」
彼女はうなずいた。
「私も」
僕は微笑んだ。
「でも、実際に使えない家へ急いで引っ越したくはないんだ」
「私もだよ」
僕はスクラップブックを見た。
「いつか一緒に暮らすなら、本当に生活を築ける場所がいい」
葵の表情が柔らかくなった。
「うん。私も」
◇ ◇ ◇
出発時間が近づいたころ、葵に理沙さんから電話がかかってきた。
彼女は少し離れた場所で電話に出た。
僕に聞こえるのは、葵の声だけだった。
「はい、春人と一緒です」
少し間があった。
「はい、準備は全部できてます」
また少し間があった。
「理沙さん!」
僕は微笑んだ。
どうやら面白い話らしい。
葵は僕を見た。
頬が赤くなっていた。
「そんなこと言わないでください!」
僕は眉を上げた。
葵はため息をついた。
「分かりました。伝えます」
電話を切ると、僕は彼女を見た。
「心の準備をしておくべきかな?」
葵はうめいた。
「理沙さんが、もう私を泣かせるのはやめてって」
僕は微笑んだ。
「素晴らしい提案だ」
「それから……」
彼女はためらった。
僕は眉を上げた。
「それから?」
葵は顔を覆った。
「もしわざと私を泣かせたら、理沙さんが直接春人を尋問するって」
僕は少し考えた。
「僕がミステリー小説を書いていることは知ってるのかな?」
「知ってるよ」
「それなら、尋問が好きだということも理解してほしいね」
葵は吹き出した。
◇ ◇ ◇
それから彼女の表情が柔らかくなった。
「ほかにも言われたの」
僕は彼女を見た。
「何を?」
葵は僕のそばに座った。
「研修を怖がらなくていいって」
僕は微笑んだ。
「そのとおりだね」
「もっといい看護師になることと、春人を愛することは、両立できるって」
僕はうなずいた。
「もちろん」
葵は視線を落とした。
「私、ずっと何かを選ばなきゃいけないって思ってたのかも」
僕は静かに聞いていた。
「仕事か」
「春人か」
「未来か」
彼女は僕を見た。
「でも、そうじゃないんだね」
僕は微笑んだ。
「うん」
葵は深呼吸した。
「研修、精いっぱい頑張りたい」
「そうしてほしい」
「それに、春人との関係も大切にしていきたい」
「僕もだよ」
彼女は微笑んだ。
「じゃあ、そうする」
◇ ◇ ◇
僕は彼女を見た。
「いいね」
葵は小さく笑った。
「いいね、だけ?」
「とてもいい」
僕は微笑んだ。
「ただ、一つ警告しておくよ。今よりさらに優秀な看護師になったら、君は手に負えないほど立派な人間になってしまうかもしれない」
葵はにやりと笑った。
「春人はもう十分、手に負えないよ」
僕はため息をついた。
「なんという残酷さだ」
◇ ◇ ◇
そして、とうとうその瞬間が来た。
車両の準備ができた。
機器は安全に固定された。
荷物も積み込まれた。
移動計画の最終確認も終わった。
黒田さんは、必要な準備がすべて整ったことを確認した。
そして突然――
もう準備することが何もなくなった。
残っているのは、さよならだけだった。
◇ ◇ ◇
車椅子に対応した乗車場所は、人々でにぎわっていた。
車両の間を人が行き交っていた。
到着した人。
出発する人。
歩道の向こうにいる誰かへ手を振る子ども。
荷物のそばで寄り添う年配の夫婦。
近くでは運転手が乗客の名前を呼んでいた。
僕たちの周囲で、生活は続いていた。
いつもどおりに。
何事もないかのように。
僕は車両のそばで、電動車椅子に座っていた。
葵が僕の前に立っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて僕は微笑んだ。
「さて」
彼女は小さく笑った。
「うん」
僕は車両を見た。
「どうやら脱出計画は失敗したらしい」
葵は微笑んだ。
「また?」
「時間という敵は、実に頑固だね」
◇ ◇ ◇
葵は笑った。
でも、すぐに笑顔が消えた。
彼女は僕を見た。
「春人……」
胸が締めつけられた。
「うん?」
葵の目に涙が浮かんだ。
「嫌だよ」
僕は彼女を見た。
「うん」
彼女は首を横に振った。
「本当に、嫌」
僕はかすかに微笑んだ。
「僕もだよ」
しばらく、彼女は何か言いたそうにしていた。
それから一歩近づいた。
◇ ◇ ◇
「抱きしめてもいい?」
僕は微笑んだ。
「ぜひ」
葵は慎重に身を寄せた。
医療機器に触れないよう気をつけながら、僕を優しく抱きしめた。
彼女の温もりを感じた。
髪の懐かしい香り。
何か月もの間、恋しく思っていた近さ。
そして突然、さよならがこんなにもつらい理由が分かった。
だって――
僕が欲しかったのは、これだったから。
大げさな演出ではない。
劇的な約束でもない。
ただ、彼女の息遣いが聞こえるほど近くにいること。
画面を挟まずに笑顔を見られること。
同じ、ごく普通の朝を過ごせること。
◇ ◇ ◇
葵は少し顔を離した。
頬には涙が流れていた。
僕は寂しそうに微笑んだ。
「五回目」
彼女は涙を浮かべながら笑った。
「まだ数えてるの?」
「当然だよ」
葵は首を振った。
「本当にもう……」
「よく言われる」
それから僕は彼女を見た。
笑顔が柔らかくなった。
「葵」
彼女は僕の目を見た。
「これは、僕たちの物語の終わりじゃない」
彼女の表情が変わった。
僕は続けた。
「ただ、次の章へ進むだけだよ」
葵は涙を浮かべながら微笑んだ。
「本当に作家らしいこと言うね」
僕は小さく笑った。
「職業病だから」
◇ ◇ ◇
葵が顔を近づけた。
「キスしてもいい?」
僕は微笑んだ。
「聞くことを怖がる必要なんてないよ」
彼女はキスをした。
優しく。
そして、少し長く。
その瞬間、乗車場所の騒がしさが遠ざかったように感じた。
顔を離すと、彼女は額を僕の額に近づけた。
「愛してる」
僕は微笑んだ。
「僕も愛してる」
◇ ◇ ◇
黒田さんは少し時間を置いてから近づいてきた。
「春人さん、こちらはいつでも出発できます」
僕はうなずいた。
それから葵を見た。
彼女は涙を拭った。
「うん」
声が震えていた。
僕は微笑んだ。
「うん」
乗車が始まった。
すべては、事前に確認された手順に従って進められた。
僕の車椅子は適切な位置に固定された。
必要な機器も確認された。
黒田さんがケアの準備を確認した。
葵は、離れなければならない時間になるまで近くにいてくれた。
そして、最後の瞬間が訪れた。
◇ ◇ ◇
彼女は車の外に立っていた。
僕は彼女を見た。
葵は微笑んだ。
勇気を振り絞った笑顔。
寂しそうな笑顔。
僕の胸を痛くする笑顔だった。
「家に着いたら電話してね」
「うん」
「移動中も、できるときに連絡して」
「うん」
「それから、ちゃんと休んでね」
僕は微笑んだ。
「はい、水野看護師」
葵は笑った。
「春人!」
それから静かになった。
「また来てね」
僕は彼女を見た。
「うん」
少し間を置いた。
「安全に準備できたら、必ず」
彼女はうなずいた。
「待ってる」
◇ ◇ ◇
扉が閉まった。
車が動き始めた。
窓の向こうで、葵の姿が少しずつ小さくなっていった。
彼女は手を振った。
僕はその姿を見つめ続けた。
見えなくなるまで、ずっと見ていたかった。
車が曲がった。
乗車場所が視界から消えた。
そして突然――
彼女の姿は見えなくなった。
◇ ◇ ◇
数分間、僕は何も話さなかった。
黒田さんは近くに座っていた。
何も聞かなかった。
それがありがたかった。
窓の外を街が流れていく。
建物。
信号。
店。
歩道を歩く人々。
葵と一緒に訪れた場所。
時間がなくて行けなかった場所。
そして、僕たちの後ろのどこかには――
青い扉の家があった。
いつか僕たちの家になるかもしれない場所。
あるいは、ならないかもしれない場所。
まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
やがて黒田さんが口を開いた。
「大丈夫ですか?」
僕は少し考えた。
「もっと簡単な質問にしてください」
彼女は優しく微笑んだ。
「分かりました」
少し間があった。
「静かにしていたいですか?」
僕は窓の外を見た。
「はい。お願いします」
黒田さんはうなずいた。
「もちろんです」
◇ ◇ ◇
僕は街が少しずつ遠ざかっていくのを見つめた。
そして、この旅で起きたことを思い返した。
文学交流会。
拓海の物語。
拍手。
質問。
編集者からのメール。
青い扉の家。
実現するかどうか分からない書斎。
スクラップブック。
水辺の夜景。
葵の笑顔。
葵の涙。
葵。
何よりも――
葵のことを。
◇ ◇ ◇
僕は、愛する女性と時間を過ごしたくて家を出た。
それが旅の一番の目的だった。
でも、いつの間にか、この旅はそれ以上の意味を持つようになっていた。
僕は人前で自分の作品について話した。
僕の物語を大切に思ってくれる人たちと出会った。
作家としての新しい可能性を知った。
そして、もう手の届かないものとは思えない未来を、想像し始めた。
保証されているわけではない。
簡単なわけでもない。
でも、可能性はあった。
◇ ◇ ◇
スマートフォンが鳴った。
葵からのメッセージだった。
『もう会いたい』
僕は画面を見つめた。
それから寂しそうに微笑んだ。
『まだ完全に街を出てもいないのに』
すぐに返事が来た。
『分かってる』
少し間があった。
そして――
『だから困ってるの』
僕は小さく笑った。
黒田さんがこちらを見た。
「いい知らせですか?」
僕は微笑んだ。
「そんなところです」
◇ ◇ ◇
僕は返信した。
『僕も会いたいよ』
それから付け加えた。
『でも、僕が恋しくなるほど魅力的な人間だということは証明されたね』
葵から怒った顔の絵文字が届いた。
そのあとに、ハートが一つ。
僕は微笑んだ。
ありがたいことに、変わらないものもあるらしい。
◇ ◇ ◇
旅は続いた。
僕たちは予定された経路を進んだ。
ケアや休憩のための時間も確保されていた。
黒田さんは必要な機器を確認し、僕が必要とすることを手伝ってくれた。
僕は移動中の一部を使って、『森探偵』のメモを見直した。
特別に仕事がはかどりそうだったからではない。
ただ、執筆は昔から、抱えきれないほど大きな感情を整理する助けになってくれた。
あるとき、僕はパソコンに保存していた写真を開いた。
スクラップブックの写真だった。
白紙のページを見つめた。
そして、次に何が書き込まれるのだろうと考え始めた。
◇ ◇ ◇
数時間後、故郷の見慣れた道が見えてきた。
建物が変わった。
交通量が減った。
景色が少しずつ懐かしいものになっていった。
そして、曲がり角を一つ通過するたびに、思いがけない感情が湧いてきた。
安心感だった。
もちろん、まだ寂しかった。
でも、懐かしい場所へ戻ってこられることを嬉しくも思っていた。
人生の長い時間を過ごしてきた場所。
母が愛した場所。
僕は窓の外を見た。
「もうすぐ家だ」
◇ ◇ ◇
当然ながら、僕の家族は普通のお出迎えでは物足りないと判断したらしい。
予想しておくべきだった。
到着すると、玄関の近くで由紀叔母さんが待っていた。
その隣には夏美さん。
そして大地叔父さんは――
ああ、なんということだ。
大地叔父さんは紙を持っていた。
とても大きな紙を。
僕は車の窓越しに彼を見つめた。
「いやだ」
黒田さんが玄関のほうを見た。
そして笑った。
「あら」
僕はため息をついた。
「演説を用意してる」
◇ ◇ ◇
車が停まった。
必要な介助を受けながら、降車と機器の確認が行われた。
すべてが安全に整うと、家族が集まってきた。
由紀叔母さんは温かく微笑んだ。
「おかえり、春人」
僕は微笑んだ。
「ただいま」
夏美さんは安心した様子だった。
「旅行はどうでした?」
「最高だったよ」
彼女は微笑んだ。
「よかったです」
すると、大地叔父さんが一歩前に出た。
大きく咳払いをした。
僕は目を閉じた。
「始まった」
◇ ◇ ◇
「この記念すべき日に――!」
「叔父さん」
「我々はここに集い――!」
「叔父さん」
「我らが愛する春人の凱旋を――!」
「大地叔父さん」
彼は言葉を止めた。
「何だ?」
僕は彼を見た。
「まさか、マーチングバンドを呼んでないよね?」
彼は心外そうな顔をした。
「もちろん呼んでいない」
僕は安心してため息をついた。
すると叔父さんは付け加えた。
「予定が合わなかったんだ」
由紀叔母さんが吹き出した。
◇ ◇ ◇
大地叔父さんは、それでも演説を続けた。
勇気について。
冒険について。
文学の勝利について。
家族の大切さについて。
そして、海賊に誘拐されることなく旅行から帰還したという偉業について。
海賊がどこから出てきたのか、僕にはまったく分からなかった。
どうやら由紀叔母さんにも分からなかったらしい。
ようやく演説が終わると、叔父さんは大げさにお辞儀をした。
僕は彼を見つめた。
「終わった?」
彼は微笑んだ。
「今のところは」
僕はため息をついた。
「不吉な答えだね」
◇ ◇ ◇
それから由紀叔母さんが近づいてきた。
表情が柔らかくなった。
「本当のところ、どうだったの?」
僕は彼女を見た。
一瞬、どこから話せばいいのか分からなかった。
家のこと。
文学交流会。
メール。
水辺の夜景。
葵。
あまりにも多すぎた。
だから僕は微笑んだ。
「期待していたことが、全部詰まった旅だったよ」
由紀叔母さんの目に涙が浮かんだ。
彼女は身を寄せ、僕の額にキスをした。
「よかった」
◇ ◇ ◇
それから僕は家を見た。
見慣れた青い扉。
母の青い扉。
それは、いつもと同じ場所にあった。
塗装は少し古くなっていた。
扉の枠も見慣れていた。
何千回も見てきた小さな特徴も、何一つ変わっていなかった。
そして突然、複雑な感情が湧き上がった。
なぜなら、僕はついさっき、もう一つの青い扉をあとにしてきたからだ。
いつか、違う人生へと開くかもしれない扉。
でも、この扉には――
僕の過去があった。
子ども時代。
母さん。
僕をここまで連れてきてくれた、すべてが。
◇ ◇ ◇
僕はしばらく扉を見つめた。
それから、かすかに微笑んだ。
「やあ、母さん」
意思伝達装置から流れた声は、ほとんどささやきのようだった。
由紀叔母さんが僕を見た。
僕は続けた。
「ただいま」
◇ ◇ ◇
その夜。
帰宅後のケアの引き継ぎと確認が終わり、十分に休んでから、僕はパソコンを開いた。
メッセージがいくつも届いていた。
悠斗から。
拓海から。
森田幸子先生から。
健二から。
そして、当然ながら葵からも。
僕は最初に彼女のメッセージを開いた。
『春人がいないと、街が変な感じ』
僕は微笑んだ。
そして返信した。
『僕の家も、君がいないと変な感じだよ』
すぐに返事が来た。
『ビデオ通話できる?』
僕は微笑んだ。
『もちろん』
◇ ◇ ◇
少しして、画面に葵の顔が映った。
彼女は自分の部屋に座っていた。
髪は少し乱れていた。
楽な服装だった。
そして疲れているように見えた。
きれいだった。
でも、疲れていた。
「やっほ」
僕は微笑んだ。
「やあ」
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
それから葵が小さく笑った。
「変な感じだね」
僕はうなずいた。
「本当に」
彼女は僕を見た。
「今朝まで一緒だったのに」
「うん」
「それが今は……」
彼女は画面を指さした。
僕はかすかに微笑んだ。
「いつもの番組に戻ってしまったね」
葵は笑った。
「春人!」
◇ ◇ ◇
僕たちは帰りの旅について話した。
大地叔父さんの演説について。
由紀叔母さんのこと。
夏美さんのこと。
架空のマーチングバンドの話をすると、葵はスマートフォンを落としそうになるほど笑った。
それから、編集者のメールについて話した。
葵は何もかも知りたがった。
打ち合わせはいつになるのか。
どんな質問をしたいのか。
緊張しているのか。
僕は、緊張していると認めた。
とても。
でも、楽しみでもあった。
そして今回は、その気持ちを隠す必要を感じなかった。
◇ ◇ ◇
やがて葵が静かになった。
「春人?」
「うん?」
「次はいつ会えるかな?」
僕は少し考えた。
「まだ分からない」
彼女はうなずいた。
「そうだよね」
「でも、計画を立て始めることはできるよ」
葵の表情が明るくなった。
「本当に?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
「私の研修の予定に合わせないとね」
「うん」
「それに、僕の看護体制も」
彼女はうなずいた。
「移動の準備も」
僕は微笑んだ。
「古い友人だね」
葵は笑った。
「でも、何とかしよう」
◇ ◇ ◇
彼女は微笑んだ。
「うん。そうしたい」
しばらく、僕たちは画面越しに見つめ合っていた。
それから葵が言った。
「会いたい」
胸が締めつけられた。
僕は微笑んだ。
「僕も会いたい」
彼女は小さく笑った。
「まだ数時間しか経ってないのに」
「うん」
「変だよね」
僕は少し考えた。
「ものすごく」
彼女は微笑んだ。
「でも……」
僕は彼女を見た。
「でも?」
「それだけの価値があると思う」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女を見つめた。
「僕もそう思う」
◇ ◇ ◇
そのとき、パソコンが通知音を鳴らした。
新しいメールだった。
僕は通知に目を向けた。
そして固まった。
葵が気づいた。
「春人?」
僕は画面を見つめた。
差出人は担当編集者だった。
またしても。
件名には、こう書かれていた。
『『森探偵』打ち合わせ日程のご提案』
胸が締めつけられた。
◇ ◇ ◇
「春人?」
葵はカメラに顔を近づけた。
「どうしたの?」
僕はメールを開いた。
候補の日付が書かれていた。
時間も。
都合を確認したいという依頼も。
そして、原稿の出版の可能性について、より詳しく話し合う予定だという説明もあった。
僕は画面を見つめた。
葵はますます心配そうになった。
「春人!」
僕はようやく彼女を見た。
そして微笑んだ。
とても大きな笑顔で。
「さて……」
彼女は瞬きをした。
「何?」
僕は小さく笑った。
「どうやら森探偵に、予定が入ったらしい」
◇ ◇ ◇
葵は僕を見つめた。
そして目を大きく見開いた。
「編集者さん!?」
僕はうなずいた。
「うん」
「打ち合わせ!?」
「うん」
「本当に打ち合わせの日程が決まりそうなの!?」
僕は微笑んだ。
「僕のメールを盗んでいる別の森探偵がいなければね」
彼女は口元を覆った。
そして笑った。
それから泣いた。
当然ながら。
僕はため息をついた。
「六回目」
葵は涙を浮かべながら吹き出した。
「まだ数えてるの!?」
「恋愛関係において、一貫性は大切だからね」
◇ ◇ ◇
それから数分間、僕たちはメールについて話し合った。
何も保証されていない。
それは二人とも理解していた。
質問があるだろう。
決めなければならないこともあるだろう。
さらに改稿を求められるかもしれない。
失望することもあるかもしれない。
でも、チャンスもある。
そして、打ち合わせは現実のものになりつつあった。
僕は葵を見た。
彼女は涙を浮かべながら微笑んでいた。
「本当に誇らしいよ、春人」
胸が締めつけられた。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
やがて、通話を終える時間になった。
もう遅かった。
葵も休まなければならない。
僕も同じだった。
彼女は微笑んだ。
「おやすみ、春人」
僕は微笑んだ。
「おやすみ、葵」
彼女は少しためらった。
それから言った。
「愛してる」
僕は彼女を見た。
「僕も愛してる」
葵は微笑んだ。
「また明日、会える?」
僕は小さく笑った。
「画面の中でね」
「今は、ね」
僕はうなずいた。
「今は、ね」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はしばらく静かにしていた。
部屋は懐かしかった。
壁。
窓。
本棚。
廊下の向こうにある青い扉。
すべてが、出発したときと同じだった。
それなのに――
何かが変わっていた。
家ではない。
街でもない。
葵と僕の間にある距離でもない。
僕の中の何かだった。
◇ ◇ ◇
旅行へ出る前、僕は未来というものを、いつか発見するのを待っているものだと思っていた。
いつの日か現実になるかもしれない、可能性の集まり。
でも今は――
僕は別の街へ旅をした。
人々の前で自分の作品について話した。
自分の言葉に価値があると知った若い作家の姿を見た。
いつか僕たちの家になるかもしれない場所に、車椅子で入った。
街の明かりの下で、愛する女性とキスをした。
そして今、僕の小説の未来について話したいという編集者との打ち合わせが待っていた。
どれも偶然に起きたことではなかった。
準備が必要だった。
支えが必要だった。
勇気が必要だった。
そして、自分の人生がこれからも広がっていくと信じる気持ちが必要だった。
◇ ◇ ◇
僕はスクラップブックを開いた。
ページには思い出が詰まっていた。
そして、その先には――
白紙のページがあった。
待っている。
僕は微笑んだ。
それから新しい文書を開いた。
書き始めた。
『今日、僕は愛する女性にさよならを言った。』
少し間を置いた。
『つらかった。』
『想像していた以上に。』
『認めたくないほどに。』
僕は窓を見た。
そして続きを書いた。
『でも、僕が家へ持ち帰ったのは寂しさだけではなかった。』
『拍手の音を持ち帰った。』
『彼女の笑顔の記憶を持ち帰った。』
『新しい家の可能性を持ち帰った。』
『そして、いつか僕の言葉が、誰かの手に取られる一冊の本になるかもしれないという希望を持ち帰った。』
◇ ◇ ◇
僕は手を止めた。
それから書いた。
『長い間、家に帰るということは、同じ生活に戻ることだと思っていた。』
『同じ部屋。』
『同じ日課。』
『同じ制約。』
『でも、もしかすると僕は間違っていたのかもしれない。』
『家に帰ることは、後戻りすることではないのかもしれない。』
『旅で学んだすべてを、次の旅が始まる場所へ持ち帰ることなのかもしれない。』
僕は微笑んだ。
そして、見慣れた青い扉のほうを見た。
◇ ◇ ◇
母はかつて、あの扉の向こうにある世界について書いていた。
手紙は最後まで書かれていなかった。
でも、僕は少しずつ理解し始めていた。
もしかすると、あの未完成の一文は、僕が謎解きをするべきものではないのかもしれない。
僕自身が答えを書くべきものなのかもしれない。
母が何を書こうとしていたのかを推理するのではなく。
母が僕に見つけてほしいと願っていた人生を、生きることによって。
物語のある人生。
友情のある人生。
愛のある人生。
そして、僕自身のものである未来。
◇ ◇ ◇
僕は文書に戻った。
そして最後の言葉を書いた。
『明日、僕は編集者との打ち合わせに向けて準備を始める。』
『明日、葵は研修に向けて準備を続ける。』
『明日も、僕たちは遠く離れている。』
『でも明日も、僕たちは前へ進んでいる。』
僕は文書を保存した。
そして微笑んだ。
なぜなら初めて、さよならが扉の閉まる音には感じられなかったからだ。
それは約束のように感じられた。
距離の向こうに。
不確かな未来の向こうに。
まだ埋めていない、すべての白紙のページの向こうに。
僕たちを待っている、もう一つの明日があるという約束。
そして今度こそ――
僕はそこへたどり着くつもりだった。




