第87話 手放したくなかった明日と、まだ告げる準備のできなかったさよなら
その朝、僕が水野葵について新たに学んだことが二つあった。
一つ目は、彼女がどうやら「自由時間」という概念に宣戦布告したらしいということ。
そして二つ目は、どうやら本気で勝つつもりらしいということだった。
「おはよう、春人!」
元気いっぱいの声が、宿泊先の部屋に響いた。
僕は入口に目を向けた。
そこには、淡い青色のブラウスにクリーム色のカーディガンを羽織り、並々ならぬ決意を顔に浮かべた葵が立っていた。
彼女の手には一冊のノートがあった。
かなり大きなノートだった。
僕はそれを見つめた。
それから葵を見た。
そして、もう一度ノートを見た。
「ああ、まずい」
葵はきょとんとした。
「何が?」
僕はため息をついた。
「ノートを持ってる」
彼女は笑顔になった。
「うん!」
「それは大抵、厄介なことが起こる前兆なんだ」
「春人!」
僕は目を細めた。
「何ページあるの?」
彼女は少しためらった。
「えっと……」
「葵」
「たった六ページだよ」
僕は彼女を見つめた。
「六ページ?」
彼女は元気よくうなずいた。
「ちゃんと予定表も作ったの!」
僕は目を閉じた。
「なんてことだ」
◇ ◇ ◇
付き添いの看護師である黒田さんは、僕の電動車椅子のそばで朝の確認を終えようとしていた。
彼女はノートを見た。
次に葵を見た。
そして僕を見た。
「何か心配したほうがいいでしょうか?」
「大いに」と僕は答えた。
葵は笑った。
「そんなに大変じゃないよ!」
僕は彼女を見た。
「昨日は文学交流会に参加した。今日はどうやら隣国へ侵攻するらしい」
「春人!」
「作戦会議は予定に含まれてる?」
彼女は口元を押さえて笑った。
「もう、やめて!」
「軍服は必要かな?」
「いらない!」
「政府に通報しておくべき?」
黒田さんまで笑い出した。
「まずは予定を確認しましょうか」
僕は彼女を見た。
「素晴らしい提案です。まだ平和的降伏の交渉に間に合うかもしれません」
◇ ◇ ◇
葵はノートを開いた。
「じゃあ、まず一緒に朝ごはん!」
「妥当だね」
「それから健二さんが見つけてくれた家を見に行く」
「それも妥当」
「そのあとお昼ごはん」
「実に素晴らしい習慣だ」
「それから商店街」
僕は眉を上げた。
「興味深いね」
「次に本屋さん」
僕は微笑んだ。
「ようやく話が分かってきた」
「それから公園」
「なるほど」
「そのあと夕食」
「当然だね」
「最後に海沿いの遊歩道!」
僕は彼女を見つめた。
葵は満面の笑顔だった。
「ね? そんなに多くないでしょ!」
僕は黒田さんを見た。
「証人保護プログラムは、どのくらい早く手配できますか?」
◇ ◇ ◇
黒田さんは僕たちと一緒に予定を確認した。
葵の熱意そのものに問題はなかった。
ただ、現実的に考えなければならないことがいくつもあった。
移動時間。
休憩時間。
僕のケアの予定。
車椅子に対応した交通手段の確保。
そして何より、一日中あちこち移動し続ければ、僕の身体にかなりの負担がかかるということだった。
話し合いの末、予定を簡単にすることになった。
まず家を見学する。
近くで昼食を取る。
宿泊先に戻って休む。
そして体調に問題がなければ、夕方にもう一度出かける。
商店街と本屋は、またの機会に持ち越しとなった。
葵は三秒ほど残念そうな顔をした。
それから微笑んだ。
「うん。それでいいよ」
僕は彼女を見た。
「本当に?」
葵はうなずいた。
「全部回らなくてもいいの」
その表情が柔らかくなった。
「今日はただ、春人と一緒に過ごしたいだけだから」
僕は微笑んだ。
「それは幸いだね」
「どうして?」
「僕をあらゆる場所へ連れていくのは、相当難しいからね」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
家は街の郊外にある、静かな住宅街に建っていた。
健二が所有者側と連絡を取り、見学の許可を得てくれていた。
もちろん、今回の訪問は正式なバリアフリー調査ではない。
それは僕たちも理解していた。
実際に建物を見て、専門家による評価を依頼する価値があるかどうかを判断するための見学だった。
移動手段は事前に確認されていた。
黒田さんも同行していた。
葵は僕の近くに座っていた。
そして僕は、窓の外を眺めながら、あまり想像を膨らませないようにしていた。
それが難しかった。
非常に難しかった。
なぜなら、この先には青い玄関扉のある家が待っているからだ。
もしかすると。
ひょっとすると。
いつの日か。
僕たちの家になるかもしれない場所が。
◇ ◇ ◇
「春人?」
僕は葵を見た。
「何?」
「静かだね」
僕は微笑んだ。
「そうかな?」
彼女はうなずいた。
「すごく」
「珍しいね」
「ものすごく」
僕は窓の外へ視線を戻した。
「考え事をしてたんだ」
「家のこと?」
僕はうなずいた。
葵は微笑んだ。
「私も」
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
やがて葵が口を開いた。
「仕事から帰ってきたら、春人が家にいるって、どんな感じなんだろう」
僕は彼女を見た。
葵は窓の外を眺めていた。
優しく微笑みながら。
「スマホの中じゃなくて」
「画面越しでもなくて」
「ただ……そこにいるの」
僕は微笑んだ。
「たぶん、かなりうるさいと思うよ」
葵は笑った。
「春人!」
「原稿のことで文句を言うだろうし」
「うん」
「森探偵が理不尽だと思わないかって聞くだろうし」
「大抵、理不尽だよね」
「それに、ひどい冗談も言うと思う」
彼女はにやりと笑った。
「それは今でも言ってるよ」
僕はため息をついた。
「君はその未来に対して、驚くほど準備ができているね」
◇ ◇ ◇
それから間もなく、家が見えてきた。
こぢんまりとした家だった。
平屋建て。
淡い色の外壁。
小さな前庭。
窓の近くには低い植え込みがあり、玄関へと細い通路が続いていた。
そして――
家の正面には、青い扉があった。
僕はそれを見つめた。
一瞬、確認しなければならない問題をすべて忘れてしまった。
寸法。
電気設備。
浴室。
看護体制。
そのすべてを。
なぜなら、その扉が故郷の家を思い出させたからだ。
まったく同じではない。
色合いも少し違う。
形も違う。
周囲の壁も違う。
けれど――
そこから感じるものは、どこか懐かしかった。
◇ ◇ ◇
葵が気づいた。
「春人?」
僕はかすかに微笑んだ。
「青いね」
彼女は小さく笑った。
「うん」
「変なこと言ってるのは分かってる」
「そんなことないよ」
僕は彼女を見た。
葵は微笑んだ。
「その色が春人にとって、どれだけ大切なのか知ってるから」
胸が締めつけられた。
僕はもう一度、家を見た。
ほんの一瞬、母が故郷の家の玄関に立っている姿を思い出した。
美咲。
微笑みながら僕を見守っていた母。
僕が知っている部屋の外にも、もっと広い世界があるのだと教えてくれた人。
僕は静かに息をついた。
「うん」
◇ ◇ ◇
物件の担当者が外で僕たちを迎えてくれた。
丁寧に挨拶を交わしたあと、現在分かっている建物の情報を説明してくれた。
玄関には小さな段差があった。
見学のために仮の通行手段が用意されていたが、それが日常的な利用に適しているという保証はなかった。
担当者も、僕たちがまだ情報を集めている段階だと理解してくれていた。
黒田さんと移動支援のスタッフが、安全を確認しながら見学を手伝ってくれた。
僕は周囲を慎重に見渡した。
庭は小さいが、感じがよかった。
窓は大きい。
住宅街は静かだった。
葵は目を輝かせていた。
「素敵だね」
僕は微笑んだ。
「もう頭の中で家具を配置してるだろう?」
彼女は心外そうな顔をした。
「してないよ!」
僕は眉を上げた。
葵は少しためらった。
「……ちょっとだけ」
◇ ◇ ◇
家の中に入ると、居間は想像していたより明るかった。
窓から日差しが差し込んでいた。
床には比較的広い空間があった。
台所につながる小さな食事スペースもあった。
壁は飾り気のない色だった。
部屋には家具がなかった。
それでも一瞬、そこに家具が並ぶ様子を想像できた。
ソファ。
本棚。
テレビ。
小さなテーブル。
葵のお気に入りのマグカップ。
僕のパソコン。
家を生活の場所に変える、ごく普通のものたち。
しかし、僕はすぐに自分へ言い聞かせた。
想像できることと、実際に暮らせることは違う。
車椅子の回転スペースを測る必要がある。
出入口の幅も確認しなければならない。
浴室は慎重な評価が必要だ。
電気設備の容量も専門家に確認してもらわなければならない。
そして、看護スタッフや医療機器のための空間を確保しながら、安全に生活できるかどうかも重要だった。
住めるかどうか分かる前に、家を好きになりすぎてはいけない。
少なくとも――
そう努力するつもりだった。
◇ ◇ ◇
葵が廊下を見た。
「ほかの部屋も見られますか?」
担当者はうなずいた。
「もちろんです」
僕たちは慎重に家の中を見て回った。
ある出入口は、思っていたより狭かった。
別の部屋は十分な広さがあるように見えたが、正確な測定が必要だった。
そして、最も大きな問題は浴室だった。
入口が狭い。
内部の配置も窮屈だった。
僕に必要な機器と介助のための空間を、どう確保すればいいのか分からなかった。
葵の笑顔が少し曇った。
「あ……」
僕は浴室を見た。
「うん」
彼女は僕に目を向けた。
「これは難しいかもしれないね」
僕はうなずいた。
「かなりね」
◇ ◇ ◇
担当者によれば、建物の構造や所有者の許可次第では、改修できる可能性もあるらしい。
しかし、まだ何の調査も行われていなかった。
施工業者から見積もりが出ているわけでもない。
浴室を僕に適したものへ改修できると、誰も保証できなかった。
僕は、その正直な説明がありがたかった。
葵は残念そうだった。
表情を見れば分かった。
それでも、問題が存在しないふりはしなかった。
代わりに、彼女はうなずいた。
「じゃあ、専門の人に調べてもらわないとね」
僕は微笑んだ。
「そのとおり」
葵は僕を見た。
「がっかりしてない?」
僕は少し考えた。
「少しはね」
彼女はうなずいた。
「私も」
僕は廊下を見た。
「でも、ここに来たのは、この家が使える可能性があるか確かめるためだよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「そして、もっと情報が必要だって分かった」
◇ ◇ ◇
それから、最後の部屋へ向かった。
居間よりは小さな部屋だった。
けれど、庭を見渡せる大きな窓があった。
日差しが何もない床に落ちていた。
壁は柔らかなクリーム色だった。
そして、とても静かだった。
葵が足を止めた。
「あ……」
僕は彼女を見た。
「どうしたの?」
彼女は微笑んだ。
「春人……」
僕はその視線を追った。
窓。
庭。
穏やかな光。
葵が僕を見た。
「ここ、春人の書斎にできるかもしれないね」
一瞬、僕は何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
書斎。
窓の近くに置かれたパソコン。
ミステリー小説でいっぱいの本棚。
森探偵についてのメモ。
ときどき、お茶を持って顔を出す葵。
物語の矛盾について文句を言う僕。
架空の人物と口論するのをやめなさいと呆れる彼女。
本当に単純な光景だった。
それなのに――
胸が痛くなるほど愛おしかった。
僕は微笑んだ。
「それはいいね」
葵の目が輝いた。
「でしょ?」
僕は窓を見た。
「車椅子と機器を問題なく使えるならね」
彼女はうなずいた。
「もちろん」
「それに、家のほかの部分も使えるようにできるなら」
「もちろん」
「あと、パソコンを起動した瞬間に電気設備が爆発しなければ」
葵は吹き出した。
「春人!」
◇ ◇ ◇
僕たちはしばらく、その部屋にいた。
葵は窓のそばに立っていた。
僕はその隣にいた。
窓の向こうでは、庭が静かに広がっていた。
枝に一羽の鳥が止まった。
外では車が一台通り過ぎた。
そして僕は、ごく普通の午後を想像していた。
仕事から帰ってくる葵。
玄関のそばに置かれる靴。
椅子に掛けられるバッグ。
書斎にいる僕。
何もすることがないから待っているのではない。
書いたものについて、彼女に話したいからだ。
うまくいったこと。
うまくいかなかったこと。
あるいは、笑ってしまうほど失敗したこと。
僕たちの関係が、画面越しの会話と慎重に計画された訪問だけに頼らなくてもいい生活。
◇ ◇ ◇
葵が僕を見た。
「春人?」
「うん?」
「一つ、話してもいい?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
彼女は少しためらった。
「もし一緒に暮らすことになったら、実際にはどういう生活になるんだろうって、最近考えてるの」
僕はうなずいた。
「僕もだよ」
彼女は窓を見た。
「ロマンチックなことだけじゃなくて」
僕は微笑んだ。
「それは賢明だね」
彼女は続けた。
「春人の看護のこと」
「春人のプライバシー」
「私の仕事」
「春人の執筆」
「それから、お互いに自分の時間や自立した生活を大切にするにはどうすればいいか」
僕は静かに聞いていた。
葵は僕に目を戻した。
「一緒に暮らすことになっても、私がいつも春人の看護師みたいになってしまうのは嫌なの」
胸が締めつけられた。
僕は優しく微笑んだ。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
葵はうなずいた。
「私は看護師の仕事が好き」
「知ってる」
「これからも成長していきたい」
「そうしてほしい」
彼女はかすかに微笑んだ。
「でも、春人と一緒にいるときは……」
少しためらった。
「春人の恋人でいたいの」
僕は彼女を見た。
「僕もそれを望んでる」
彼女の目が優しくなった。
僕は続けた。
「僕には専門的な看護が必要なんだ。一緒の街に住むことになっても、それは変わらない」
葵はうなずいた。
「でも、だからといって君がすべてを背負う必要はない」
僕は微笑んだ。
「僕が欲しいのは、君との恋人としての生活なんだ」
「終わりのない勤務交代じゃない」
葵は笑った。
「ひどい言い方だね」
「でも、正確だろう?」
彼女は微笑んだ。
「うん」
◇ ◇ ◇
家を出る前に、僕たちはもう一度、青い扉を見た。
葵は僕の車椅子のそばに立っていた。
「本当に、ここが私たちの家になると思う?」
僕は少し考えた。
「分からない」
彼女はうなずいた。
「でも?」
僕は微笑んだ。
「確かめてみる価値はあると思う」
葵も微笑んだ。
「じゃあ、確かめよう」
◇ ◇ ◇
僕たちは何も決めずに家をあとにした。
契約はしない。
約束もしない。
急いで決断することもしない。
担当者は、専門家による調査に必要な追加情報を提供してくれることになった。
健二も次の段階の調整を手伝ってくれる。
家は、まだ一つの可能性にすぎなかった。
それ以上でも、それ以下でもない。
それでも、帰りの車の中で僕は窓の外を振り返った。
青い扉が小さくなっていく。
やがて、木々の向こうに隠れた。
そして、なぜだか僕は微笑まずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
昼食は、ずっと穏やかな時間だった。
ありがたいことに。
僕たちは葵が選んだ、車椅子でも利用できる小さなレストランへ向かった。
料理のいい香りが漂っていた。
店内は落ち着いた雰囲気だった。
そして僕は、忙しい午前を終えたあとの心地よい疲れを感じ始めていた。
葵は僕の向かいに座った。
しばらく、家のことを話した。
庭。
窓。
狭い浴室。
書斎にできそうな部屋。
やがて彼女が微笑んだ。
「あの部屋、本当に気に入ったんだね」
僕は彼女を見た。
「まあね」
葵は笑った。
「やっぱり!」
僕はため息をついた。
「分かったよ。気に入った」
彼女は得意そうに笑った。
「知ってた」
◇ ◇ ◇
昼食のあと、僕たちは宿泊先へ戻った。
黒田さんが必要なケアと休憩を手伝ってくれた。
葵もしばらく残り、スマートフォンを手に近くに座っていた。
ときどき僕を見る。
そして微笑む。
とうとう僕はため息をついた。
「また?」
彼女は瞬きをした。
「何が?」
「見つめてる」
葵は笑った。
「ごめん」
僕は微笑んだ。
「謝らなくていいよ」
彼女は僕を見た。
「本当に?」
「本当に」
少しの間、何も言わなかった。
それから僕は付け加えた。
「ただし、あまり褒められすぎると、僕の謙虚さが損なわれる可能性がある」
葵は吹き出した。
「春人!」
◇ ◇ ◇
午後は静かに過ぎていった。
僕は休んだ。
葵は本を読んだ。
ときどき話をした。
そして、久しぶりに、何か特別なことをしなければならないとは感じなかった。
それが心地よかった。
沈黙は気まずくなかった。
空虚でもなかった。
ただ、二人で共有している静かな時間だった。
葵が本から顔を上げた。
「春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
彼女は少しためらった。
「明日のこと、寂しい?」
その質問が、僕たちの間に静かに落ちた。
僕は窓を見た。
それから彼女に目を戻した。
「うん」
葵の表情が柔らかくなった。
「私も」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
やがて葵が自分の手を見つめた。
「ずっと怖かったの」
僕は彼女を見た。
「いつから?」
彼女は小さく笑った。
「春人が来た日から」
胸が締めつけられた。
葵は続けた。
「昨日もすごく幸せだった」
「今日も」
「でも、心のどこかでずっと考えてたの」
声が小さくなった。
「春人は帰っちゃうんだって」
僕は何を言えばいいのか分からなかった。
なぜなら、僕も同じことを考えていたからだ。
◇ ◇ ◇
「分かるよ」
僕は言った。
葵が顔を上げた。
僕はかすかに微笑んだ。
「僕も、なるべく考えないようにしてた」
彼女はうなずいた。
「私も」
僕は窓を見た。
「不思議なんだけど……」
少し間を置いた。
「来る前から、この旅行が一時的なものだって分かってたんだ」
「うん」
「でも、実際にここに来て……」
僕は彼女を見た。
「帰ることを想像するのが、前よりずっと難しくなった」
彼女の目に涙が浮かんだ。
寂しそうに微笑んだ。
「うん」
◇ ◇ ◇
僕は、すべてが簡単になると言ってあげたかった。
距離は消える。
あの家はきっと使える。
看護体制も整う。
僕たちの未来はもう決まっている。
そう言ってあげたかった。
けれど、どれも本当ではなかった。
だから、別のことを伝えた。
「今日、全部解決する必要はないよ」
葵は僕を見た。
僕は微笑んだ。
「それに、残りの時間をずっとお別れのために使う必要もない」
彼女の表情が柔らかくなった。
「まだ時間はあるもんね」
僕はうなずいた。
「そういうこと」
葵は涙を浮かべながら微笑んだ。
「じゃあ、大切に使おう」
◇ ◇ ◇
少しすると、葵が怪しい行動を取り始めた。
非常に怪しかった。
バッグの中を確認する。
僕を見る。
またバッグを確認する。
微笑む。
そして視線をそらす。
僕は目を細めた。
「葵」
彼女は固まった。
「何?」
「何を隠してるの?」
目を大きく見開いた。
「何も!」
僕は彼女を見つめた。
「興味深い」
葵はぎこちなく笑った。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「その行動は、明らかに何かを隠していることを示している」
彼女はため息をついた。
「お願いだから始めないで」
僕はにやりと笑った。
「これほど明白な証拠を無視したら、森探偵に失望されてしまう」
◇ ◇ ◇
葵はバッグを抱きしめた。
「捜査は禁止!」
僕は眉を上げた。
「正式な命令?」
「そう!」
「誰から?」
「春人の彼女から!」
僕は少し考えた。
「恐ろしい権力者だね」
彼女は笑った。
「そのとおり!」
僕は微笑んだ。
「分かった。捜査を中断しよう」
葵はほっとした。
そこで僕は付け加えた。
「一時的に」
「春人!」
◇ ◇ ◇
結局、彼女は降参した。
「もう、分かった!」
僕は微笑んだ。
「素晴らしい」
葵はバッグに手を入れた。
「でも、笑わないって約束して」
僕は彼女を見た。
「それは中身によるね」
彼女は目を細めた。
「春人」
僕は微笑んだ。
「約束する」
彼女は小さな本を取り出した。
青い表紙。
シンプルなリボン。
そして、表紙には一枚の写真が貼られていた。
僕はそれを見つめた。
「これは?」
葵は照れくさそうに微笑んだ。
「私が作ったの」
◇ ◇ ◇
彼女は本を開いた。
最初のページには、以前会ったときの僕たちの写真があった。
その下には、短い言葉が書かれていた。
『あなたと、もっと普通の明日を過ごしたいと思った日』
僕はページを見つめた。
葵が次をめくった。
また別の写真。
ビデオ通話中のスクリーンショットだった。
僕はひどく間抜けな表情をしていた。
当然ながら。
その下には――
『彼氏が真面目でいることを忘れた日』
僕は笑った。
「それ、一回だけじゃないよね」
葵は微笑んだ。
「知ってる」
◇ ◇ ◇
次のページにも、思い出が詰まっていた。
メッセージ。
写真。
小さなメモ。
僕たちの会話。
つらかった日々。
笑い合った日々。
自信を失いかけた瞬間。
それでも、もう一度頑張ろうと決めた瞬間。
故郷の家の青い扉の写真もあった。
ノートの写真。
昨日の再会の写真。
そして、文学交流会で撮った写真も。
僕はページを見つめた。
葵が不安そうに僕を見ていた。
「気に入ってくれた?」
一瞬、答えられなかった。
◇ ◇ ◇
そのとき、あることに気づいた。
最後の数ページが白紙だった。
何ページも。
僕は葵を見た。
「どうして、ここは何もないの?」
彼女は微笑んだ。
「だって、まだその思い出を作ってないから」
胸が締めつけられた。
葵は続けた。
「これからも、少しずつ増やしていけたらいいなって思ったの」
僕は本を見た。
「会うたびに?」
彼女はうなずいた。
「離れてるときも」
その目が優しくなった。
「いつか、次に会える日まで何日あるか数えなくてもよくなるまで」
◇ ◇ ◇
僕はスクラップブックを見つめた。
それから葵を見た。
「葵……」
彼女は緊張したように笑った。
「感傷的すぎた?」
僕は微笑んだ。
「ものすごく」
彼女の表情が少し曇った。
そこで僕は続けた。
「そして、すごく気に入った」
葵の目が大きく開いた。
「本当に?」
僕はうなずいた。
「本当に」
彼女は微笑んだ。
そして泣き始めた。
またしても。
僕はため息をついた。
「ここまで来ると、理沙さんの言ってた水分補給の時間を本当に決めたほうがいい気がしてきた」
葵は涙を浮かべたまま吹き出した。
「春人!」
◇ ◇ ◇
それからしばらく、僕たちはスクラップブックを一緒に眺めた。
葵は、どうしてその写真を選んだのか説明してくれた。
すぐに思い出せるものもあった。
意外なものもあった。
僕がほとんど忘れていたことまで、彼女は覚えていた。
ある冗談。
深夜の会話。
彼女がつらい日を過ごしていたときに送ったメッセージ。
そのときは重要だと気づかなかった約束。
そして少しずつ、僕は理解した。
彼女が集めたのは、単なる写真ではなかった。
僕たちを今の僕たちにしてくれた、ごく普通の瞬間だった。
◇ ◇ ◇
青い玄関扉の写真が載ったページに来たとき、僕は静かになった。
葵が気づいた。
「春人?」
僕は写真を見た。
「一つ、話してもいい?」
彼女はうなずいた。
「もちろん」
僕は少しためらった。
「母さんのことなんだ」
葵の表情が柔らかくなった。
「美咲さん?」
僕はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
僕は、母が残してくれた未完成の手紙について話した。
自分の知っている壁の向こうに、もっと広い世界があると感じ始めたときの僕に宛てられた手紙。
そこに書かれていた言葉。
青い扉のこと。
母が僕に抱いていた希望。
そして、最後まで書かれることのなかった一文。
『そして、いつかあなたが、私たちの小さな青い扉の向こうにある世界を見たいと思わせてくれる人に出会ったなら、私はあなたに……』
葵は途中で口を挟まず、静かに聞いてくれた。
話し終えると、彼女はしばらく黙っていた。
◇ ◇ ◇
「最後まで書けなかったの?」
葵が静かに尋ねた。
僕は首を横に振った。
「うん」
葵は視線を落とした。
「それは……」
少しためらった。
「悲しいね」
僕はかすかに微笑んだ。
「うん」
しばらく、僕たちは沈黙していた。
それから僕はスクラップブックを見た。
「でも、最近考えてるんだ」
葵が僕を見た。
「何を?」
「母さんは、何を伝えたかったんだろうって」
◇ ◇ ◇
僕は窓を見た。
「外へ出てほしかったのかもしれない」
葵は静かに聞いていた。
「勇気を持ってほしかったのかもしれない」
僕はかすかに微笑んだ。
「世界を少し怖くない場所にしてくれる人と出会ってほしかったのかもしれない」
葵の目に涙が浮かんだ。
僕は彼女を見た。
「そして、もしかすると……」
少し間を置いた。
「誰かを愛することは、今までのすべてを捨てることじゃないって、伝えたかったのかもしれない」
葵は涙を浮かべながら微笑んだ。
「春人……」
僕は続けた。
「母さんが何を書こうとしていたのか、本当のところは分からない」
「分かったふりをするつもりもない」
僕はスクラップブックを見た。
「でも、いつか……」
僕は微笑んだ。
「母さんに手紙を書きたいと思ってる」
◇ ◇ ◇
葵が僕を見た。
「返事を書くの?」
僕はうなずいた。
「うん」
僕はかすかに微笑んだ。
「今までどこへ行ったのか」
「誰と出会ったのか」
「どんな物語を書いたのか」
「それから……」
僕は葵を見た。
「あの青い扉の向こうにある世界を見たいと思わせてくれた人のことを」
彼女は口元を覆った。
目に涙があふれた。
僕は微笑んだ。
「お願いだから、また泣かないで」
彼女は涙を浮かべながら笑った。
「無理だよ!」
◇ ◇ ◇
その日の午後、葵のもとに病院からメッセージが届いた。
これから始まる、在宅看護研修に関する連絡だった。
何か問題が起きたわけではない。
次の研修日程が確認されたというだけだった。
けれど、彼女の表情が変わったことに気づいた。
メッセージを読む。
もう一度読む。
そして静かになる。
「葵?」
彼女は顔を上げた。
「うん?」
「大丈夫?」
葵はうなずいた。
「うん」
僕は眉を上げた。
彼女はため息をついた。
「……大体は」
◇ ◇ ◇
研修では、さらに勉強する必要があり、指導者のもとで実践的な経験も積まなければならないらしい。
仕事の予定も、今までより忙しくなる。
彼女は楽しみにしていた。
でも、不安も感じていた。
「ちゃんと頑張りたいの」
僕は微笑んだ。
「できるよ」
彼女は僕を見た。
「でも、全部うまく両立できなかったら?」
僕は耳を傾けた。
「仕事」
「研修」
「私たちのこと」
彼女は視線を落とした。
「それに、もし春人がいつかこっちへ引っ越してきたら……」
僕は優しく微笑んだ。
「葵」
彼女は僕を見た。
「今日の午後だけで、僕たちの未来を全部決めなくてもいいんだよ」
◇ ◇ ◇
彼女は小さく笑った。
「分かってる」
「本当に?」
葵は微笑んだ。
「……たぶん、分かってない」
僕は彼女を見た。
「夢を持っていいんだよ」
彼女はうなずいた。
「そして、その夢を楽しんでもいい」
その表情が柔らかくなった。
「新しい機会が来るたびに、心配事を増やす必要はないんだ」
葵は静かになった。
それからかすかに微笑んだ。
「簡単そうに言うね」
僕は笑った。
「いや、簡単じゃないよ」
「本当に?」
「全然」
◇ ◇ ◇
僕は続けた。
「でも、忘れないでほしいんだ」
彼女は僕を見た。
「君はずっと、ほかの人のことを大切にしてきた」
「それが仕事だもん」
「知ってる」
僕は微笑んだ。
「それに、君はとても優秀な看護師だ」
彼女は頬を赤くした。
「春人……」
「でも、自分自身のために何かを望んでもいいんだよ」
少し間を置いた。
「看護師だからじゃなくて」
「僕の恋人だからでもなくて」
「君が葵だから」
彼女の目が優しくなった。
僕は微笑んだ。
「そして僕は、その葵のことがかなり好きなんだ」
彼女は笑った。
「かなり、だけ?」
僕は少し考えた。
「実際には、理不尽なくらい好きだね」
◇ ◇ ◇
夕方になるころには、僕の体調も十分に落ち着いていた。
最後に予定していた外出ができそうだった。
必要な交通手段とケアの体制も確認された。
僕たちは、水辺を見渡せる静かな遊歩道を選んだ。
そこは車椅子でも利用できる場所だった。
街の明かりが水面に映っていた。
木々の間を、穏やかな風が通り抜けていた。
人々が道を歩いていた。
恋人同士。
家族連れ。
ただ夜の景色を楽しんでいる人たち。
葵は僕の車椅子のそばを歩いていた。
黒田さんも、事前に決められたケアの体制に従って近くにいてくれた。
そしてしばらく、僕たちはただ一緒にいる時間を楽しんだ。
◇ ◇ ◇
水辺は美しかった。
光が水面の向こうまで続いていた。
空は深い青色に変わっていた。
葵は僕のそばに立っていた。
「きれいだね」
僕は微笑んだ。
「本当に」
彼女は僕を見た。
「春人、水のほう見てないよ」
僕はにやりと笑った。
「気づいてた?」
彼女は頬を赤くした。
「春人!」
僕は笑った。
「ごめん。ついね」
◇ ◇ ◇
僕たちは遊歩道の静かな場所で立ち止まった。
目の前には、街の明かりがきらめいていた。
しばらく、何も話さなかった。
やがて葵が水面を見た。
「一つ聞いてもいい?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
「五年後、どんな生活をしていたい?」
僕は少し考えた。
「五年後?」
彼女はうなずいた。
僕は明かりを見た。
「そうだね……」
少し間を置いた。
「少なくとも一冊は小説を出版していたい」
葵は微笑んだ。
「森探偵?」
「できればね」
「それから、別のシリーズも?」
僕はうなずいた。
「そうかもしれない」
◇ ◇ ◇
「ほかには?」と彼女が尋ねた。
僕は微笑んだ。
「書き続けていたい」
「もちろん」
「もっと読者と出会いたい」
彼女はうなずいた。
「それに、準備が整えば、また旅行もしたい」
僕は彼女を見た。
「それから……」
葵は微笑んだ。
「それから?」
僕は少しためらった。
「君にもっと簡単に会える場所で暮らしていたい」
彼女の表情が柔らかくなった。
僕は微笑んだ。
「できれば、昼食を一緒に食べるだけで、小規模な物流部門が必要にならない生活がいいね」
葵は笑った。
「それはいいね」
◇ ◇ ◇
僕は彼女を見た。
「君は?」
葵は少し考えた。
「研修を修了したい」
僕はうなずいた。
「それから、在宅看護の経験をもっと積みたい」
僕は微笑んだ。
「きっとできるよ」
彼女は水面を見た。
「これからも、人の役に立ちたい」
それから微笑んだ。
「でも、自分の人生もちゃんと楽しめるようになりたい」
僕はうなずいた。
「素晴らしい目標だね」
彼女は僕を見た。
「それから……」
僕は眉を上げた。
「それから?」
彼女は頬を赤くした。
「これからも春人と一緒にいたい」
胸が締めつけられた。
僕は微笑んだ。
「それは特に素晴らしい目標だね」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは水面に映る光を眺めていた。
それから僕は口を開いた。
「葵?」
「うん?」
「僕との未来を作るために、君が自分自身を見失うようなことにはなってほしくない」
彼女は僕を見た。
僕は続けた。
「それに、僕も自分自身を見失いたくない」
葵はうなずいた。
「分かってる」
僕は微笑んだ。
「お互いに成長し続けたいんだ」
「一緒に?」
「一緒に」
彼女は微笑んだ。
「時間がかかっても?」
僕はうなずいた。
「時間がかかるからこそ、だよ」
◇ ◇ ◇
葵が顔を近づけた。
「キスしてもいい?」
僕は微笑んだ。
「君は最近、驚くほど予測しやすくなってきたね」
彼女は笑った。
「それって悪いこと?」
「全然」
彼女は優しくキスをした。
顔を離すと、しばらく僕の額に自分の額を寄せていた。
「愛してるよ、春人」
胸が締めつけられた。
僕は微笑んだ。
「僕も愛してるよ、葵」
◇ ◇ ◇
僕たちはもう少しだけ、水辺にいた。
それから帰る時間になった。
僕は疲れていた。
夜のケアの時間も近づいていた。
そして明日――
僕は帰らなければならない。
考えないようにした。
けれど、その思いは宿泊先に戻るまでずっとついてきた。
◇ ◇ ◇
宿泊先に到着すると、黒田さんは翌日の帰路に向けた準備を始めた。
医療機器と必要な物品は、旅行計画に従って確認されることになっていた。
交通機関からも、帰りの移動について確認が取れていた。
葵は僕の私物を少し整理してくれた。
医療関係の準備は黒田さんが担当した。
スクラップブックは安全な場所へ。
パソコンも準備できていた。
衣類も整理された。
すべてが整っていく。
そして、そのときだった。
ようやく、寂しさが僕たちに追いついたのは。
◇ ◇ ◇
葵はスーツケースのそばに立っていた。
しばらく動かなかった。
僕は彼女を見た。
「葵?」
彼女は顔を上げた。
「うん?」
「大丈夫?」
彼女は微笑んだ。
「もちろん」
僕は眉を上げた。
葵は小さく笑った。
「……ううん。完全には大丈夫じゃないかも」
僕はスーツケースを見た。
「うん」
彼女も僕の視線を追った。
そして表情が変わった。
「本当に、明日なんだね」
僕はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
やがて葵が僕のそばに座った。
「もっと上手にできると思ってた」
僕はかすかに微笑んだ。
「何を?」
「お別れすること」
僕は彼女を見た。
葵は寂しそうに笑った。
「だって、今までも何度も経験してきたでしょ」
僕はうなずいた。
「何度もね」
「なのに、どうして今回はこんなにつらいんだろう」
僕は少し考えた。
「何が恋しくなるのか、もう分かってるからかもしれない」
彼女の目に涙が浮かんだ。
僕は続けた。
「前は、一緒に普通の日々を過ごせたらどんな感じだろうって、想像してた」
僕はかすかに微笑んだ。
「でも今は、知ってるから」
◇ ◇ ◇
葵は涙を拭った。
「帰ってほしくない」
胸が締めつけられた。
僕は彼女を見た。
「僕も帰りたくない」
彼女はうなずいた。
「分かってる」
一瞬、予定を変えられたらと思った。
旅行を延長して。
もう一週間。
もう一か月。
あるいは、ずっと。
でも、それが現実的ではないことは分かっていた。
今回の旅行は、決められた期間に合わせて準備されていた。
看護体制も、医療機器の手配も、その日程に合わせて組まれている。
別れがつらいからという理由だけで、帰宅を取りやめることはできなかった。
だから、守れない約束はしなかった。
代わりに、葵を見た。
「また会えるよ」
彼女は寂しそうに微笑んだ。
「うん」
「それに、話し合った未来に向けて、これからも準備を続けよう」
葵はうなずいた。
「一緒に」
僕は微笑んだ。
「一緒に」
◇ ◇ ◇
葵は顔を近づけ、そっと僕の頬に自分の頬を寄せた。
しばらく、そのままでいた。
冗談もない。
からかいもない。
大げさな言葉もない。
ただ、明日がつらい日になると分かっている、静かな時間だった。
やがて彼女は顔を離した。
目は赤かった。
それでも微笑んでいた。
「もう一つだけ、お願いしてもいい?」
僕は微笑んだ。
「何でも」
彼女は少しためらった。
「ここで幸せだったこと、忘れないでね」
胸が締めつけられた。
僕は彼女を見た。
「葵……」
彼女は涙を浮かべながら微笑んだ。
「また離れ離れになっても」
僕はうなずいた。
「約束する」
それから微笑んだ。
「でも、君も同じことを約束してくれるならね」
葵は小さく笑った。
「約束する」
◇ ◇ ◇
葵がようやく帰ろうと立ち上がったとき、僕たちはどちらもおやすみを言いたくなかった。
彼女は扉の近くで立ち止まった。
それから僕のそばへ戻ってきた。
そして、自分で自分を笑った。
「私、変だよね」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女は僕を見つめた。
「春人!」
僕は笑った。
「ごめん」
葵は首を振った。
それから顔を近づけた。
「おやすみ」
僕は微笑んだ。
「おやすみ」
彼女はキスをした。
優しく。
少し長く。
そして顔を離した。
「朝、また会おうね」
僕はうなずいた。
「待ってるよ」
◇ ◇ ◇
葵が帰ったあと、部屋の雰囲気が変わった。
空っぽになったわけではない。
正確には、そうではなかった。
ただ、静かになった。
スーツケースが壁際に置かれていた。
荷物は整理されていた。
帰りの旅が近づいていた。
そして、パソコンのそばにはスクラップブックが大切に置かれていた。
僕は長い間、それを見つめた。
それから微笑んだ。
白紙のページ。
まだ何枚もある白紙のページ。
これから作る思い出を待っているページ。
◇ ◇ ◇
少しして、パソコンにメールが届いた。
最初は無視しようかと思った。
疲れていた。
長い一日だった。
休みたかった。
でも、差出人を見た瞬間、意識がはっきりした。
担当編集者だった。
僕はすぐにメールを開いた。
件名には、こう書かれていた。
『『森探偵』について――今後のご相談』
胸が締めつけられた。
◇ ◇ ◇
メールは予想していたより長かった。
編集者は、改稿した原稿への感謝を述べていた。
構成と人物描写が改善されたことにも触れていた。
さらに、文学交流会での朗読についても耳にしたらしい。
作品への反応は好意的だったという。
そして今――
編集者は、もう少し本格的な打ち合わせを希望していた。
原稿を今後どのような方向へ進めるか。
出版の可能性について。
そして、正式な判断が下されるまでに、どのような作業が必要になるか。
僕は画面を見つめた。
契約の申し出ではない。
何も保証されていない。
それでも、以前のやり取りより話が具体的になっていた。
ずっと具体的に。
◇ ◇ ◇
一瞬、僕は何もできなかった。
それから微笑んだ。
小さく。
そして、もっと大きく。
やがて――
笑ってしまった。
静かに。
信じられないという気持ちで。
「さて、森探偵……」
僕は画面を見た。
「どうやら、君の未来について話したい人が現れたらしいよ」
◇ ◇ ◇
最初に考えたのは、葵に電話することだった。
今すぐに。
すべてを伝えたかった。
彼女の反応を聞きたかった。
笑顔を見たかった。
もしかすると泣くかもしれない。
いや、ほぼ確実に泣くだろう。
でも、僕は時間を確認した。
彼女はまだ帰宅途中かもしれない。
それに明日の朝、出発前に会いに来てくれる。
僕は微笑んだ。
もしかすると――
今回だけは――
秘密にしておいてもいいかもしれない。
いい秘密を。
明日を少しだけ、つらくない日にしてくれるような秘密を。
◇ ◇ ◇
僕はメールを保存した。
それからスクラップブックを開いた。
後ろの白紙のページをめくった。
しばらく、そこに何が増えていくのか想像した。
次の文学交流会の写真。
僕の最初の出版作品の写真。
書店で僕の隣に立つ葵。
そして、もしかすると――
いつの日か――
青い扉のある家の前で撮った、僕たちの写真。
僕は微笑んだ。
何も決まっていない。
出版も。
家も。
一緒に暮らす未来が、いつ実現するのかも。
それでも、可能性は本当に存在していた。
そして、それが大切だった。
◇ ◇ ◇
僕は新しい文書を開いた。
そして書き始めた。
『明日、僕はさよならを言わなければならない。』
少し間を置いた。
『家を出る前から、その日が来ることは分かっていた。』
『旅行が終わることも。』
『また距離が生まれることも。』
僕はスーツケースを見た。
そして続きを書いた。
『でも、こんなにも普通の日々が大切になるとは思わなかった。』
『カフェで彼女の隣にいることが、こんなにも幸せだとは知らなかった。』
『いつか僕たちの家になるかもしれない場所で、彼女が微笑む姿を見ることが。』
『街の明かりが水面にきらめく中、彼女が自分の夢について話すのを聞くことが。』
◇ ◇ ◇
僕はもう一度、手を止めた。
それから書いた。
『だからこそ、明日はつらいのかもしれない。』
『一緒に過ごした時間が短すぎて、意味がなかったからではない。』
『永遠に続いてほしいと願うほど、大切な時間だったからだ。』
僕は窓を見た。
外の街は静かだった。
この街のどこかで、葵も明日のことを考えているのだろう。
写真を見返しているかもしれない。
また泣いているかもしれない。
理沙さんにからかわれているかもしれない。
僕は微笑んだ。
そして、文書に戻った。
◇ ◇ ◇
『でも、さよならは必ずしも何かの終わりではない。』
『ときには、もう一度会うために必要な努力の始まりでもある。』
『ときには、自分たちが何を目指しているのか思い出させてくれる。』
『そして、ときには、かつて不可能だと思っていた未来を想像する勇気を与えてくれる。』
僕は文書を保存した。
それから、もう一度メールを見た。
打ち合わせ。
可能性。
ずっとなりたかった作家へ近づく、新たな一歩。
僕は微笑んだ。
「明日まで待っててね、葵」
◇ ◇ ◇
部屋は静かになった。
医療機器は、いつもどおりの音を刻み続けていた。
見知らぬ街に夜が深まっていった。
そして窓の向こうでは、明日が近づいていた。
涙を連れてくる明日。
さよならを連れてくる明日。
でも、もしかすると――
運がよければ――
新しい何かの始まりも連れてきてくれる明日。
なぜなら、スクラップブックはまだ完成していない。
家もまだ決まっていない。
小説もまだ出版されていない。
そして、僕たちの未来も、まだ書き終わっていない。
まだ。
これから埋めていくページが、たくさん残っている。
そして初めて、僕は白紙のページが何枚残っているのかを恐れていなかった。
むしろ、そのページを埋めていくことが楽しみだった。
二人で。




