第86話 ページの向こうへ運んだ物語と、ようやく思い描く勇気を持てた僕たちの明日
目が覚めた瞬間、僕は何かがおかしいことに気づいた。
医学的な意味ではない。
ありがたいことに。
ただ……何かが違っていた。
天井が見慣れない。
壁も見慣れない。
カーテンも見慣れない。
窓の外から聞こえてくる微かな物音さえ、いつもとは違っていた。
最初の五秒ほど、僕は誰かに誘拐されて、妙に設備の整ったホテルの一室に閉じ込められたのではないかと考えた。
そして、思い出した。
僕は家にいない。
葵の暮らす街にいるのだ。
そして今日――
僕は大勢の人の前で、自分を作家として紹介することになっている。
当然ながら、僕はすぐに寝たふりをすることを検討し始めた。
◇ ◇ ◇
「おはようございます、高橋さん」
黒田さんがベッドのそばに現れた。
僕は彼女に目を向けた。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
僕は少し考えた。
「自分が書いた架空の探偵が、見知らぬ人たちを楽しませられるほど面白いのか、一晩中考えていた男にしては、よく眠れたと思います」
黒田さんは笑った。
「それじゃあ、あまり眠れなかったんですか?」
「意外にも、睡眠そのものは悪くありませんでした」
「それはよかったです」
「ただ、夢の内容が少々問題でした」
彼女は微笑んだ。
「どんな夢だったんですか?」
「森探偵に、彼の評判を台無しにしたと責められました」
黒田さんは吹き出した。
「そうなんですか」
「そのうえ、もっと優秀な作者を用意しろと要求されたんです」
「なかなか厳しい探偵ですね」
「扱いにくい男なんですよ」
◇ ◇ ◇
それから間もなく、朝のケアが始まった。
黒田さんと担当の看護スタッフは、事前に決められたケア計画に従って、僕の医療機器を確認し、必要な介助を行ってくれた。
部屋には、電動車椅子と医療機器を配置するための十分な空間が確保されていた。
もちろん、ここは自宅ではない。
部屋の造りも違う。
聞こえてくる音も違う。
窓から見える景色も違う。
それでも、必要なケアの手順は普段と変わらなかった。
そのことが、僕を安心させてくれた。
旅行に来たからといって、僕の医療的なケアまで行き当たりばったりの冒険になってしまっては困る。
今日だけでも、十分すぎるほどの冒険が待っているのだから。
そのうちの一つは、大勢の観客の前に立つことだった。
もちろん、実際に立ち上がるわけではない。
比喩的な意味である。
そして、それだけで朝から十分に緊張していた。
◇ ◇ ◇
黒田さんが準備を手伝ってくれていると、スマートフォンにメッセージが届いた。
葵からだった。
当然ながら。
『おはよう!!』
僕は微笑んだ。
『おはよう』
数秒後、またメッセージが届いた。
『もう起きてる?』
僕は画面を見つめた。
それから返信した。
『いや。寝ながら返信してるんだ』
返事はほとんど一瞬で届いた。
『春人!!』
僕は笑った。
黒田さんがこちらを見た。
「葵さんですか?」
僕は微笑んだ。
「ほかに誰がいるんでしょうね」
◇ ◇ ◇
数分後、葵から電話がかかってきた。
画面に彼女の顔が映った。
満面の笑顔だった。
どうやら日の出と同時に起きていたらしい。
「おはよう!」
僕は微笑んだ。
「おはよう」
「ちゃんと眠れた?」
「うん」
「体調は大丈夫?」
「うん」
「楽しみ?」
「うん」
「緊張してる?」
「ものすごく」
葵は笑った。
「私も!」
僕は眉を上げた。
「人前で朗読するのは君じゃないだろう?」
「そうだけど、恋人が大勢の人の前で恥をかくところを見守らなきゃいけないんだもん」
僕は彼女を見つめた。
「ひどいな」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
それから葵は、小さな袋を画面に映した。
「朝ごはん、持っていくね!」
僕は瞬きをした。
「もう?」
「これから持っていくの」
僕は微笑んだ。
「それはありがたいね」
彼女は嬉しそうに笑った。
「それから、今日の予定も確認したよ」
「もちろんだろうね」
「天気予報も」
「当然だね」
「会場までの道順も」
「僕は心配したほうがいいのかな?」
葵は笑った。
「少しだけね」
◇ ◇ ◇
葵が到着するころには、僕は朝の準備を終え、青い電動車椅子に座っていた。
彼女は朝食の入った袋を持ち、明るい笑顔で部屋に入ってきた。
「春人!」
僕は微笑んだ。
「やあ」
彼女が近づいてきた。
「おはよう」
「おはよう」
しばらく、葵は僕を見つめていた。
それから、小さく笑った。
「まだ、何だか不思議な感じがする」
僕は微笑んだ。
「それ、これからもずっと言い続けるつもり?」
「たぶんね」
彼女はそっと身をかがめ、僕に優しくキスをした。
「これで少しは目が覚めた?」
僕はにやりと笑った。
「かなりね」
◇ ◇ ◇
僕たちは、その日の文学交流会について話した。
葵は僕のそばに座り、黒田さんは外出に必要な準備を進めていた。
交流会は午後に開催される予定だった。
慌てずに移動できるだけの時間はある。
会場のバリアフリー設備は事前に確認されていた。
悠斗からも、朗読に必要な準備は整ったと連絡が来ていた。
すべてが順調だった。
あまりにも順調だった。
だからこそ、僕は疑い始めた。
「何かが起こる気がする」
僕が言うと、葵は首をかしげた。
「どうしてそんなこと言うの?」
「何もかも順調すぎるから」
彼女は笑った。
「春人!」
「僕はミステリー作家だからね。疑うことも仕事のうちなんだ」
「事件を捜査してるわけじゃないでしょ!」
「今のところはね」
葵は呆れたようにため息をついた。
◇ ◇ ◇
葵は椅子の背もたれに身体を預けた。
「ねえ、私が今日、一番楽しみにしてることって何だと思う?」
僕は微笑んだ。
「僕が大勢の人の前で恥をかくところを見ること?」
彼女は笑った。
「それ以外!」
「それは安心した」
葵は僕を見つめた。
「作家としての春人を見られること」
僕は瞬きをした。
「僕が小説を書いてるところなら、何度も見てるだろう?」
「それとは違うの」
「どう違うの?」
彼女は微笑んだ。
「私が知ってる春人は、私の恋人で、ひどい冗談ばっかり言って、森探偵のことを本当に存在する人みたいに話す人なの」
「僕にとっては実在してるようなものだけどね」
「ほら、そういうところ!」
葵は笑った。
「でも今日は、ほかの人たちが春人の物語にどう反応するのか見られるでしょ?」
僕は少し考えた。
「それは危険かもしれないね」
「どうして?」
「君が思っているほど、僕が立派な作家じゃないってばれるかもしれない」
葵の表情が柔らかくなった。
「それとも、春人が自分で思っているより、ずっと素敵な作家だって分かるかもしれないよ」
◇ ◇ ◇
僕はしばらく彼女を見つめた。
それから微笑んだ。
「理沙さんと一緒にいすぎたんじゃない?」
葵は笑った。
「そうかも」
「君まで人を励ます専門家になってしまった」
「誰かが春人を応援しなきゃいけないでしょ?」
僕はため息をついた。
「まったく。僕の周りには励ましてくれる人ばかりだ」
彼女は微笑んだ。
「かわいそうな春人」
「悲劇だろう?」
◇ ◇ ◇
文学交流会の会場までは、前日の移動に比べればずっと短い道のりだった。
ありがたいことに。
交通渋滞による緊迫した展開は、しばらく経験したくなかった。
市内での移動も、事前に承認された旅行計画に組み込まれていた。
黒田さんが同行し、必要な機器も安全に固定されていた。
葵は僕の近くに座っていた。
ときどき、僕を見た。
そして微笑んだ。
それから、何事もなかったように視線をそらした。
僕はとうとうため息をついた。
「さて」
彼女は瞬きをした。
「何?」
「どうして何度も僕を見るの?」
葵は笑った。
「だって、ここにいるんだもん」
僕は少し黙った。
それから微笑んだ。
「それは、なかなか反論しにくい答えだね」
◇ ◇ ◇
文学交流会は、市内の文化センターで開催されることになっていた。
建物には広い入口があり、車椅子で通行できる経路も確保されていた。
大きなホールの入口には、イベントのポスターが貼られていた。
何人かのボランティアが椅子を並べている。
別のスタッフたちは、マイクや映像機器を確認していた。
本やパンフレットを並べたテーブルもあった。
参加者が少しずつ集まり始めていた。
作家。
読者。
学生。
家族連れ。
ノートを抱えた人。
本を抱えた人。
そして、明らかに飲みすぎだと思える量のコーヒーを持った人。
僕は周囲を見渡した。
その瞬間、緊張していたことを忘れた。
なぜなら、僕の大好きなものに囲まれていたからだ。
物語に。
◇ ◇ ◇
「春人!」
満面の笑顔を浮かべた悠斗が近づいてきた。
僕は彼に目を向けた。
「こんにちは」
彼は笑った。
「本当に来てくれたんだね!」
「どうやら、そのようだね」
「よかった!」
それから、彼は葵を見た。
「こちらが水野さん?」
葵は丁寧に頭を下げた。
「はい。水野葵です」
悠斗は微笑んだ。
「春人から、いろいろ話を聞いています」
葵はすぐに僕を見た。
「へえ、そうなんですか?」
僕は目を細めた。
「悠斗」
彼はにやりと笑った。
「もちろん、いい話ばかりだよ」
「それはますます怪しいね」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
悠斗は僕たちを何人かの主催者に紹介してくれた。
彼らは当日の進行を説明した。
朗読の順番。
質疑応答の時間。
そして、拓海君の作品について。
『校門の向こうの文化祭』は、ボランティアが抜粋を朗読することになっていた。
拓海君本人はオンラインで参加する。
家族も準備を手伝ってくれたらしい。
僕は微笑んだ。
「本当に実現するんだね」
悠斗はうなずいた。
「うん」
僕はステージを見た。
小さな演台があり、その近くにマイクが設置されていた。
後方には大きなスクリーンもある。
そのとき初めて、今日の出来事が現実として胸に迫ってきた。
僕は、自分の作品を発表するのだ。
投稿サイトでもなく。
メールでもなく。
親しい人との会話でもなく。
大勢の人の前で。
本物の人間たちが聞いている場所で。
そして、評価される。
場合によっては、厳しく。
僕は緊張した。
◇ ◇ ◇
葵が気づいた。
「春人?」
僕は彼女を見た。
「何?」
「緊張してるでしょ」
僕は微笑んだ。
「見事な診断だね」
彼女は小さく笑った。
「大丈夫だよ」
僕はステージを見た。
「そうだといいけど」
葵は少し身をかがめた。
「完璧じゃなくてもいいんだよ」
僕は微笑んだ。
「それは助かる」
「いつもの春人でいればいいの」
僕は少し考えた。
「本当に?」
彼女は笑った。
「もちろん」
「いつもの僕でいると、問題が起こることも多いけど」
「春人!」
◇ ◇ ◇
最初の問題が起きたのは、開会のおよそ二十分前だった。
当然ながら。
僕は朗読する予定の文章を確認していた。
そのとき、コミュニケーション機器の音声出力が正常に反応しなくなった。
最初は操作を間違えたのかと思った。
文章を選択する。
反応が遅れる。
そして、途中までしか読み上げられない。
もう一度試した。
また遅れた。
今度は違う文章が出力された。
僕は画面を見つめた。
「ああ」
黒田さんがこちらを見た。
「どうしました?」
僕は別の文章を選択した。
やはり、出力が安定しない。
胸の奥が冷たくなった。
「これは困りましたね」
◇ ◇ ◇
黒田さんが状況を確認した。
悠斗にも連絡が入った。
会場の技術担当者が来て、発表用の音響設備との接続を調べ始めた。
問題は、コミュニケーションソフトと会場の音響システムとの接続にあるようだった。
出力設定なのか。
接続機器なのか。
それとも一時的なソフトウェアの不具合なのか。
原因はまだ分からなかった。
ただ、一つだけはっきりしていた。
最悪のタイミングだった。
僕は画面を見つめた。
「やっぱりね」
葵がそばに立った。
「春人?」
僕は彼女を見た。
「何?」
「大丈夫?」
僕は少しためらった。
「正直、あまり大丈夫じゃないかな」
◇ ◇ ◇
技術担当者は別の接続方法を試した。
一度は正常に反応した。
しかし、また遅延が起こった。
悠斗が眉をひそめた。
「順番を変更することもできるよ」
僕は彼を見た。
「急がなくても大丈夫だから」
黒田さんは、普段のコミュニケーション手段が使えることを確認しながら、必要な調整を手伝ってくれた。
朗読用には、予備の方法も準備された。
必要なら、事前に用意した音声ファイルを再生することもできる。
僕が同意すれば、ボランティアに文章を読んでもらうことも可能だった。
それでも、不安は消えなかった。
僕は自分の作品を発表したかった。
自分の選んだ方法で。
◇ ◇ ◇
葵が車椅子のそばにしゃがんだ。
「春人」
僕は彼女を見た。
彼女は優しく微笑んだ。
「こっちを見て」
僕は彼女に視線を向けた。
「その物語を書いたのは春人でしょ?」
僕はうなずいた。
「森探偵を生み出したのも春人」
もう一度うなずいた。
「何か月もかけて原稿を書き直したのも春人」
僕はかすかに微笑んだ。
「文句もたくさん言ったけどね」
彼女は小さく笑った。
「うん。ものすごく」
それから、真剣な表情になった。
「機械の調子が悪くなったからって、作家としての春人の声まで消えるわけじゃないよ」
僕は彼女を見つめた。
「その言葉は、ちゃんと春人のものなんだから」
しばらく、何も言えなかった。
それから微笑んだ。
「腹が立つくらい、きれいな言葉だね」
葵は吹き出した。
「春人!」
◇ ◇ ◇
幸い、僕の朗読が始まる前に問題は解決した。
技術担当者が音響設定を調整すると、音声出力は再び安定するようになった。
万が一のため、予備の方法もそのまま用意しておくことになった。
悠斗は、予定どおり発表するかどうかを僕自身に確認してくれた。
僕は同意した。
それから葵を見た。
「さて」
彼女は微笑んだ。
「さて?」
「どうやら宇宙も、僕を苦しめるのはこのくらいで十分だと思ったらしい」
葵は笑った。
「そうだといいね」
◇ ◇ ◇
間もなく、文学交流会が始まった。
悠斗が観客に挨拶した。
そして、この交流会の目的について話した。
作家と読者をつなぐこと。
普段はなかなか届かない物語に、発表の機会を作ること。
さまざまな視点や経験を大切にすること。
僕は静かに耳を傾けた。
それから、最初の朗読が始まった。
若い詩人が、海辺で育った思い出を詩にした作品を読んだ。
年配の作家は、故郷へ帰る家族の短編小説を披露した。
大学生は、コンビニでのアルバイト経験を題材にしたユーモラスなエッセイを読んだ。
観客は笑った。
拍手した。
そして、耳を傾けた。
少しずつ、僕の緊張は和らいでいった。
ここは競争する場所ではない。
試験会場でもない。
ただ、物語を愛する人たちが集まった場所だった。
◇ ◇ ◇
そして、悠斗がマイクの前に立った。
「次にご紹介するのは、残念ながら今日は会場に来ることができなかった、ある若い作家の作品です」
僕は顔を上げた。
「作者の名前は、拓海君です」
スクリーンに作品の表紙が映し出された。
『校門の向こうの文化祭』
胸が締めつけられた。
悠斗は続けた。
「この作品は、車椅子を使う一人の生徒が、学校の文化祭に参加したいと願う物語です。ただ見学するのではなく、自分もその一員として関わりたいと願う少年の姿が描かれています」
会場が静かになった。
一人のボランティアがマイクの前に立った。
そして、朗読が始まった。
◇ ◇ ◇
物語は、一人の少年が教室から文化祭の準備を眺めている場面から始まった。
窓には色とりどりの飾りが掛けられていた。
生徒たちは段ボール箱を運んでいた。
廊下には音楽が響いていた。
誰もが楽しそうだった。
誰もが忙しそうだった。
そして少年は、教室の入口の近くで、自分の居場所があるのだろうかと考えていた。
手伝いたくないわけではない。
ただ、誰も彼に、どうすれば参加できるか尋ねてくれなかったのだ。
ボランティアの声は落ち着いていて、表現豊かだった。
僕は耳を傾けた。
そして、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
その気持ちが分かったからだ。
痛いほどに。
◇ ◇ ◇
物語は続いた。
少年は、ようやく一人のクラスメートに声をかけた。
文化祭の企画に参加したいのだと伝えた。
ただ見学するのではなく。
参加したことを特別に褒められたいわけでもなく。
自分も何かを作り上げたいのだと。
クラスメートは彼の話を聞いた。
そして尋ねた。
「何をやってみたい?」
それは、本当に小さな瞬間だった。
ごく普通の質問だった。
それなのに、拓海君の物語では、その一言がすべてを変えた。
僕は微笑んだ。
まさに、それこそが、この作品の力だった。
◇ ◇ ◇
抜粋の最後で、少年は校庭を見つめていた。
文化祭の明かりが少しずつ灯り始めていた。
そして初めて、彼は自分が参加を許されるかどうかを考えていなかった。
次に何をしたいかを考えていた。
会場が静まり返った。
そして――
拍手が起こった。
温かい。
心からの。
長く続く拍手だった。
僕はスクリーンを見た。
オンラインで参加していた拓海君の顔が映し出された。
彼は驚いたような表情をしていた。
家族がそばにいた。
悠斗が微笑んだ。
「拓海君、自分の物語を聞いてもらって、どうだった?」
少年は少しためらった。
それから微笑んだ。
「すごく……嬉しいです」
会場から優しい笑い声が上がった。
◇ ◇ ◇
僕は目の奥が熱くなるのを感じた。
物語が悲しかったからではない。
そうではなかった。
希望に満ちた物語だった。
ありふれた日常を描いた物語だった。
そして、とても正直な物語だった。
僕は、かつて自分の言葉に価値があるのか分からずにいた少年のことを思い出していた。
自分の物語を誰かが読んでくれるのだろうかと、不安に思っていた少年のことを。
そして今――
人々は拍手していた。
同情からではない。
車椅子を使っているからでもない。
聞く価値のある物語を書いたからだ。
僕は微笑んだ。
「よく頑張ったね、拓海君」
◇ ◇ ◇
葵が僕を見た。
「春人?」
僕は彼女を見た。
「何?」
「泣いてるよ」
僕は瞬きをした。
「そう?」
彼女は優しく微笑んだ。
「ちょっとだけ」
僕はステージを見た。
「花粉症かな」
葵は小さく笑った。
「そうだね」
「かなり強烈な文学性花粉症だ」
彼女は首を振った。
「もう、春人ったら」
◇ ◇ ◇
そして――
僕の番が来た。
悠斗がマイクの前に立った。
「続いてご紹介するのは、ミステリー、人間の心理、そして日常の裏側に隠された複雑な真実を描く作家です」
胸が締めつけられた。
「高橋春人さんです」
会場に拍手が響いた。
僕は葵を見た。
彼女は微笑んだ。
そして、声を出さずに口を動かした。
『頑張って』
僕はかすかに微笑んだ。
そして、発表する場所へと移動した。
◇ ◇ ◇
主催者は、僕が高い演台を使わなくても発表できるよう、車椅子に対応した位置を用意してくれていた。
僕は観客を見渡せる場所に車椅子を止めた。
コミュニケーション機器は音響設備に接続されていた。
予備の方法も用意されている。
黒田さんは、事前に決めたケアの体制に従って近くにいてくれた。
準備は整っていた。
僕は観客を見た。
予想していたより人が多かった。
ずっと多かった。
突然、森探偵が代わりに発表してくれればいいのにと思った。
残念ながら、彼は架空の人物だった。
そのことが、この瞬間ばかりは重大な設計上の欠陥に思えた。
◇ ◇ ◇
僕は、準備していた挨拶を音声出力した。
「こんにちは」
言葉は、はっきりと会場に響いた。
何人かが微笑んだ。
「高橋春人と申します。ミステリー小説を書いています」
少し間を置いた。
「つまり、実在しない人たちのために、わざわざ問題を作り出す仕事をしています」
会場から笑い声が上がった。
少しだけ緊張が和らいだ。
「幸いなことに、今のところ登場人物から正式な苦情は届いていません」
さらに笑い声が起こった。
僕は微笑んだ。
案外、何とかなるかもしれない。
◇ ◇ ◇
僕は続けた。
「僕が物語を好きになったのは、幼いころです」
会場が静かになった。
「子どものころ、僕は長い時間を病院で過ごしました」
僕は観客を見た。
「そのころ、本は僕にとって、実際には行けない場所を経験するための手段でした」
少し間を置いた。
「物語の中なら、知らない街を探検したり、難しい謎を解いたり、自分とはまったく違う人生を送る人たちに出会ったりすることができました」
コミュニケーション機器を通して、僕の言葉が続いた。
「そして、やがて書くことは、僕にもっと大切なものを与えてくれました」
僕は葵を見た。
「その世界を、自分自身で作り出す力です」
◇ ◇ ◇
僕は森探偵について話した。
頑固な探偵。
どんな謎にも答えがあると信じる男。
たとえ、その真実が誰かにとって不都合なものであっても、追い続ける男。
そして、彼の最大の弱点は、自分の捜査が人々の心に与える影響を軽く考えてしまうことだった。
僕は、その人物像が執筆を重ねるうちに変化していったことを説明した。
最初は、謎解きそのものに興味があった。
手がかり。
容疑者。
意外な真相。
けれど、書き続けるうちに分かった。
ミステリーが本当に面白くなるのは、そこに登場する人間が大切に描かれているときなのだ。
殺人事件は、ただ解くべき問題ではない。
失踪事件は、単なる巧妙な仕掛けではない。
どんな事件も、誰かの人生を変えてしまう。
そして、森探偵自身も、そのことを学ばなければならなかった。
◇ ◇ ◇
それから、僕は抜粋の朗読を始めた。
物語は、静かなマンションの一室から始まった。
一人の女性が姿を消していた。
彼女の持ち物は、そのまま残されていた。
靴は玄関のそばに置かれていた。
携帯電話は台所で充電されていた。
そして食卓には――
冷めきった紅茶が一杯、残されていた。
森探偵が部屋に入る。
室内を調べる。
女性の夫から話を聞く。
ごく普通の質問を重ねる。
そして、少しずつ――
誰も気づいていなかった違和感を見つける。
部屋が整いすぎているのだ。
誰かが掃除したからではない。
誰かが、何も触れられていないように見せかけるため、慎重に配置したからだった。
◇ ◇ ◇
僕は朗読を続けた。
観客は静かに耳を傾けていた。
身を乗り出す人もいた。
スクリーンに表示された文章を見つめる人もいた。
表情が変化していくのが分かった。
好奇心。
疑念。
興味。
そして、森探偵が夫の証言にある最初の矛盾を指摘した瞬間――
観客の一人が小さくつぶやいた。
「あっ……」
僕は思わず微笑みそうになった。
まさに、僕が期待していた反応だった。
◇ ◇ ◇
抜粋は、謎が解ける前に終わった。
当然ながら。
犯人を無料で教えるつもりはなかった。
会場は一瞬、静まり返った。
そして拍手が響いた。
僕は観客を見た。
人々は微笑んでいた。
うなずいている人もいた。
隣の人と小声で感想を交わしている人もいた。
そして最前列では――
葵が泣いていた。
またしても。
◇ ◇ ◇
応援に来てくれていた理沙さんが、葵に顔を寄せた。
「葵」
葵は慌てて涙を拭った。
「何ですか?」
理沙さんは微笑んだ。
「そろそろ涙がなくなるんじゃない?」
葵は涙を浮かべたまま笑った。
「やめてください」
「昨日も泣いて、今日も泣いて」
「理沙さん!」
理沙さんはにやりと笑った。
「この調子だと、水分補給の時間を決めておかないとね」
葵は顔を覆った。
◇ ◇ ◇
朗読のあと、悠斗が質問を受け付けた。
何人もの手が上がった。
最初の質問は、後方に座っていた年配の男性からだった。
「読者にどの手がかりを見せるか、どうやって決めているんですか?」
僕は微笑んだ。
「慎重に決めています」
会場から笑い声が上がった。
それから、僕は自分の考えを説明した。
僕が好きなのは、読者にも重要な情報が与えられているミステリーだった。
大切なのは、すべてを隠すことではない。
真実が見える場所にありながら、簡単には気づけないように手がかりを配置することなのだ。
別の観客が、森探偵には実在のモデルがいるのかと尋ねた。
僕は少し考えた。
「残念ながら、何人かいます」
会場が笑いに包まれた。
◇ ◇ ◇
そのとき、前方に座っていた一人の女性が手を上げた。
思慮深そうな表情をしていた。
「少し個人的な質問をしてもよろしいでしょうか?」
僕はうなずいた。
彼女は少しためらった。
「ご自身の障害によって、書ける物語の種類が制限されると感じることはありますか?」
会場が静かになった。
僕はすぐには答えなかった。
腹を立てたわけではない。
ただ、複雑な質問だった。
そして、きちんと答えたかった。
◇ ◇ ◇
僕は観客を見た。
「僕の障害は、生活のさまざまな部分に影響しています」
少し間を置いた。
「世界をどう経験するか。どう移動するか。人とどう関わるか。そういったことに影響します」
女性はうなずいた。
「でも、それが僕の想像力の限界を決めるとは思いません」
僕は続けた。
「僕は殺人事件を捜査したことがありません」
何人かが笑った。
「少なくとも、小説の外では」
さらに笑い声が起こった。
「探偵になったこともありません。書いたことのある場所すべてを訪れたわけでもありませんし、登場人物たちと同じ人生を経験したわけでもありません」
僕は少し間を置いた。
「でも、それこそが物語を書くことの魅力の一つだと思うんです」
◇ ◇ ◇
僕は観客を見渡した。
「もちろん、自分の経験は作品に影響します」
僕は続けた。
「障害のある登場人物を書くとき、僕はその人物を一人の人間として描きたいと思っています」
「何かの象徴としてではなく」
「教訓としてでもなく」
「ほかの誰かを感動させるためだけに存在する人物としてでもありません」
会場は静かだった。
「夢があって、欠点があって、人間関係があって、悪い癖もある」
少し間を置いた。
「そして、ひどい冗談を言うこともある」
葵が小さく笑った。
僕は微笑んだ。
「特に、ひどい冗談は重要ですね」
会場から笑い声が上がった。
「障害のある人も、一人の人間です。そして人間というのは、複雑なものです」
◇ ◇ ◇
僕は少し間を置いた。
「障害が物語の中心になることもあります」
「一方で、その人物を形作る要素の一つにすぎないこともあります」
「どちらが必ず正しいというわけではありません」
「僕にとって大切なのは、登場人物が何かの概念ではなく、生きた人間として感じられることです」
僕は質問した女性を見た。
「ですから、僕の障害が僕の視点を形作っているのは確かです」
僕は微笑んだ。
「でも、何を想像していいかまで、障害に決められるつもりはありません」
しばらく、会場は静かだった。
それから拍手が始まった。
大げさなものではなかった。
劇的なものでもなかった。
ただ、温かく。
敬意に満ちた。
心からの拍手だった。
◇ ◇ ◇
質疑応答が終わるころには、僕はすっかり疲れていた。
精神的にも。
感情的にも。
身体的にも。
でも、幸せだった。
本当に幸せだった。
悠斗が笑顔で近づいてきた。
「素晴らしかったよ」
僕は彼を見た。
「本当に?」
「もちろん」
僕はため息をついた。
「よかった。国外逃亡を検討していたところだったから」
彼は笑った。
「そうなると、次のイベントが難しくなるね」
「まったくだ」
◇ ◇ ◇
間もなく、葵が近づいてきた。
目元がまだ少し赤かった。
僕は微笑んだ。
「当ててみようか」
彼女は笑った。
「何?」
「文学性花粉症だね」
葵は首を振った。
「春人」
僕は微笑んだ。
「何?」
彼女は僕を見つめた。
そして、真剣な表情になった。
「今までで一番、春人のことを誇らしく思ったよ」
胸が締めつけられた。
すぐには言葉が出てこなかった。
困ったことに。
ついさっきまで、言葉を扱うことが自分の仕事だと、大勢の人に証明していたばかりなのに。
◇ ◇ ◇
葵は続けた。
「春人に才能があることは、前から知ってた」
僕はかすかに微笑んだ。
「でも、自分の物語について話しているところを聞いて……」
彼女は少し言葉を止めた。
「ほかの人たちが、その物語に夢中になっているのを見て……」
また目に涙が浮かんだ。
僕は彼女を見た。
「葵」
彼女は小さく笑った。
「分かってる。また泣いてるね」
僕は微笑んだ。
「少なくとも、一貫性はあるね」
彼女は涙を浮かべたまま笑った。
それから、そっと身をかがめ、僕に優しくキスをした。
「本当に誇りに思ってる」
僕は微笑んだ。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
交流会は、その後も参加者同士の交流へと続いた。
何人かの作家が僕に話しかけてくれた。
一人はミステリーの構成について話したがっていた。
別の人は、会話文の書き方について質問してきた。
若い読者の一人は、森探偵が自分の祖父に似ていると言った。
それが褒め言葉なのか、僕には判断できなかった。
でも、褒め言葉として受け取ることにした。
悠斗は、藤本さんという文学イベントの企画者を紹介してくれた。
彼は僕の朗読を聞いて、将来のイベントについて話したいと思ったらしい。
「とても興味深い発表でした」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
「実は、今年の後半にも文学交流会を企画しているんです」
僕は耳を傾けた。
「もしよろしければ、そちらにもご出演いただけないかと思いまして」
◇ ◇ ◇
僕はしばらく彼を見つめた。
新しい招待。
新しいイベント。
新しい可能性。
僕は微笑んだ。
「それは嬉しいお話です」
藤本さんはうなずいた。
「もちろん、移動には事前の準備が必要だと理解しています」
その言葉がありがたかった。
「はい。かなりの準備が必要になります」
彼は微笑んだ。
「ですから、十分に時間を取って詳細をご相談できればと思っています」
僕はうなずいた。
「ぜひ、詳しいお話を聞かせてください」
僕たちは必要な連絡先を交換した。
何も決まったわけではない。
約束が成立したわけでもない。
それでも、可能性は生まれた。
それだけで、僕は嬉しかった。
◇ ◇ ◇
その後、帰る準備をしていると、スマートフォンにメッセージが届いた。
健二からだった。
僕はメッセージを開いた。
『よう、春人。例の家について、もう少し情報が手に入ったぞ』
僕はすぐに画面を見つめた。
あの家。
青い扉のある家。
葵の街にある、賃貸物件の候補。
添付された資料を開いた。
健二は、追加の写真と物件の基本情報を手に入れてくれていた。
入口は悪くなさそうだった。
一階の空間も比較的広く見えた。
間取りも、それほど複雑ではない。
しかし、重要な疑問はいくつも残っていた。
浴室。
電気設備。
いくつかの出入口の正確な幅。
そして、僕に必要な医療機器と介護体制を、その家で維持できるかどうか。
僕は資料を見つめた。
葵が気づいた。
「何を見てるの?」
僕は微笑んだ。
「ちょっと面白いもの」
◇ ◇ ◇
僕は写真を見せた。
葵の目が大きく開いた。
「これって……」
僕はうなずいた。
「健二が見つけてくれた家だよ」
彼女は身を乗り出した。
「青い扉の?」
「そう」
葵は微笑んだ。
「かわいいね」
僕は笑った。
「非常に科学的な評価だね」
彼女はにやりと笑った。
「どういたしまして」
僕たちは写真を見ていった。
小さな前庭。
平屋の間取り。
大きな窓のある居間。
台所。
そして、青い玄関の扉。
僕は故郷の家を思い出した。
まったく同じではない。
それでも、どこか似ていた。
胸の奥が少し締めつけられた。
◇ ◇ ◇
葵が僕を見た。
「住めそうかな?」
僕は少し考えた。
「可能性はあると思う」
彼女はうなずいた。
「でも?」
僕はかすかに微笑んだ。
「まだ分からないことが多すぎる」
改修が必要かもしれない。
浴室が僕のケアに適していないかもしれない。
電気設備の容量が足りないかもしれない。
必要な機器をすべて配置するには、空間が足りないかもしれない。
そして、建物そのものが使えたとしても、看護体制は別に整えなければならない。
その現実から目をそらすわけにはいかなかった。
葵はうなずいた。
「じゃあ、ちゃんと調べよう」
僕は彼女を見た。
彼女は微笑んだ。
「専門家に確認してもらって」
僕は小さく笑った。
「恵美さんみたいなことを言うようになったね」
葵はにやりと笑った。
「いいことじゃない」
◇ ◇ ◇
僕たちは、専門家によるバリアフリーの評価を依頼することが、次の合理的な手順だと考えた。
契約はしない。
決めつけない。
期待だけで話を進めない。
まずは情報を集める。
僕は健二に礼を伝え、所有者が詳しい調査を許可してくれるか確認してもらえないかと返信した。
それから葵を見た。
「さて」
彼女は微笑んだ。
「さて?」
「どうやら僕たち、責任感のある大人になりつつあるらしい」
葵は吹き出した。
「それは怖いね」
「実に恐ろしい」
◇ ◇ ◇
文化センターを出るころには、夕暮れが街を包み始めていた。
空は少しずつ暗くなっていた。
街灯が灯り始めていた。
人々は家路についていた。
黒田さんが帰りの移動手段と、夜のケアの時間を確認した。
葵は僕の車椅子のそばを歩いた。
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
それから彼女が口を開いた。
「春人?」
「何?」
「今、どんな気分?」
僕は少し考えた。
「疲れた」
彼女は微笑んだ。
「だよね」
「幸せ」
彼女の表情が柔らかくなった。
「それから?」
僕は空を見た。
「何かが変わり始めている気がする」
◇ ◇ ◇
僕たちは帰路の途中にある、車椅子で立ち寄れる場所で、少しだけ街の明かりを眺めた。
葵は僕のそばに立っていた。
夜の空気は涼しかった。
街灯の下で、道路が淡く輝いていた。
僕は建物を見つめた。
「昨日は、ここに来ることだけで精一杯だった」
葵はうなずいた。
「今日は?」
僕は微笑んだ。
「今日は、大勢の人の前で自分の作品を発表した」
「うん」
「拓海君の物語も聞いてもらえた」
「うん」
「次のイベントにも誘われた」
彼女はうなずいた。
「それに、あの家のことも少し進んだね」
葵は僕を見た。
僕は微笑んだ。
「たった二日で、ずいぶんいろいろあったね」
彼女は小さく笑った。
「本当だね」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは街の明かりを眺めていた。
それから、僕は口を開いた。
「葵?」
「何?」
「最近、あることを想像するようになったんだ」
彼女は僕を見た。
「どんなこと?」
僕は少しためらった。
「君に会うために、何か月も準備しなくてもいい未来」
葵の表情が柔らかくなった。
僕は続けた。
「一緒に、ごく普通の午後を過ごせる未来」
「カフェに行くだけで、大きな遠征みたいにならない未来」
「君が仕事帰りに家へ寄れる未来」
「僕が小説のことで文句を言って、君が大げさだって呆れる未来」
葵は小さく笑った。
「それは今でもやってるよ」
僕は微笑んだ。
「確かに」
◇ ◇ ◇
彼女は街を見た。
「私も、そんな未来が欲しい」
僕は彼女に目を向けた。
葵は続けた。
「でも、私のそばにいるために、春人が夢を諦めるのは嫌だよ」
僕は微笑んだ。
「僕も、君に夢を諦めてほしくない」
彼女はうなずいた。
「私の研修」
「君の仕事」
「春人の執筆」
「僕のケアの体制」
「それから、私たちのこと」
僕は微笑んだ。
「そして、僕たちのこと」
◇ ◇ ◇
葵はしばらく黙っていた。
それから僕を見た。
「本当に、できると思う?」
僕はその質問について考えた。
分からないことは山ほどあった。
家のこと。
看護体制のこと。
引っ越しに必要な現実的な準備。
お金の問題。
彼女の研修。
僕の執筆。
そして、未来そのもの。
すべてがうまくいくと約束することはできなかった。
そんな約束をすれば、嘘になってしまう。
でも、別の約束ならできる。
僕は微笑んだ。
「挑戦し続けることはできると思う」
彼女の目が優しくなった。
「一緒に?」
僕はうなずいた。
「一緒に」
◇ ◇ ◇
葵が少し身をかがめた。
「キスしてもいい?」
僕は微笑んだ。
「何度も聞くね」
彼女は笑った。
「聞かないほうがいい?」
「絶対にやめないでほしいな」
彼女は優しくキスをした。
顔を離したとき、微笑んでいた。
「さて」
僕は眉を上げた。
「さて?」
「明日だね」
僕はため息をついた。
「ああ、そうだね」
彼女は小さく笑った。
「旅行の最後の丸一日」
僕は街を見た。
その言葉が、胸に重く沈んだ。
明日。
そして、帰りの旅。
見慣れた青い扉のある家へ戻る。
ビデオ通話の日々へ戻る。
距離のある生活へ戻る。
一瞬、悲しみが近づいてくるのを感じた。
でも、そのとき葵が僕の手を取った。
「ねえ」
僕は彼女を見た。
「まだ明日があるよ」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女も微笑んだ。
「だから、明日を楽しもう」
◇ ◇ ◇
宿泊施設に戻るころには、僕はすっかり疲れていた。
でも、心地よい疲れだった。
意味のあることをしたあとに感じる疲れ。
ただ何かが起こるのを待っていたのではなく、自分自身が人生に参加していたのだと思い出させてくれる疲れだった。
黒田さんが、計画に従って夜のケアを手伝ってくれた。
葵は、もう少しだけそばにいてくれた。
僕たちは静かに話した。
拓海君のこと。
観客のこと。
青い扉の家のこと。
そして、理沙さんも朗読中に泣いていたくせに、それを認めようとしなかったこと。
その話は、特に愉快だった。
◇ ◇ ◇
やがて、葵が立ち上がった。
「そろそろ帰らなきゃ」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女は身をかがめた。
「おやすみ、春人」
「おやすみ、葵」
彼女は優しくキスをした。
それから微笑んだ。
「明日ね?」
僕はうなずいた。
「明日」
◇ ◇ ◇
葵が帰ったあと、僕はパソコンを開いた。
メッセージがいくつか届いていた。
悠斗から一通。
森田幸子先生から一通。
そして、拓海君から一通。
僕は最初に、拓海君のメッセージを開いた。
『僕を応援してくれて、ありがとうございました』
僕は微笑んだ。
続きを読んだ。
『今日は本当に怖かったです』
『でも、みんなが拍手してくれるのを聞いて、これからも小説を書いていいのかもしれないと思いました』
胸が締めつけられた。
僕は返信した。
『もちろん、書き続けてほしい』
『君の物語は、聞いてもらう価値のある作品だったよ』
『これからも、君にしか書けない物語を書き続けてほしい』
少しして、返事が届いた。
『はい。書きます』
僕は微笑んだ。
◇ ◇ ◇
次に、幸子先生のメッセージを開いた。
悠斗から、交流会の様子を聞いたらしい。
『朗読はうまくいったそうですね』
僕は微笑んだ。
すると、次のメッセージが届いた。
『褒められたからといって、調子に乗らないように』
僕は笑った。
やっぱり先生らしい。
そして――
『でも、自分を誇りに思っていいですよ』
僕は画面を見つめた。
しばらく、先生の声が聞こえてくるような気がした。
厳しくて。
現実的で。
でも、どこか優しい声。
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます、先生」
◇ ◇ ◇
最後に、僕は新しい文書を開いた。
点滅するカーソルを見つめた。
そして、書き始めた。
『今日、僕は大勢の人の前で、自分の物語を伝えた。』
少し間を置いた。
『人生のすべての障害を乗り越えたからではない。』
『僕の障害が消えたからでもない。』
『世界が突然、簡単な場所になったからでもない。』
僕は続きを書いた。
『人々が協力して、僕が参加できる環境を整えてくれたからだ。』
『僕の言葉には聞く価値があると、信じてくれる人がいたからだ。』
『そして僕自身も、ようやくそのことを信じ始めたからだ。』
◇ ◇ ◇
僕は窓を見た。
夜の街に、無数の明かりがきらめいていた。
この街のどこかで、葵も眠る準備をしているのだろう。
明日、僕たちはまた会える。
そして、そのあと――
僕は家に帰らなければならない。
そのことを考えると、胸が痛んだ。
自分で認めたくないほどに。
でも、今夜は別れのことばかり考えたくなかった。
拍手を思い出したかった。
拓海君の笑顔を。
葵の涙を。
新しい招待を。
青い扉のある家を。
そして、自分が想像していたよりも、未来がずっと広いものになり始めているという、不思議で素晴らしい感覚を。
◇ ◇ ◇
僕は文書に戻った。
そして、最後の段落を書いた。
『長い間、僕は未来とは、自分の身に起こるものだと思っていた。』
『環境や制約、そして僕の安全を守るために必要な慎重な準備によって決められるものだと。』
『でも今日、僕は少しずつ理解し始めた。』
『未来は、自分自身も作り上げていけるものなのだと。』
『一つの物語。』
『一つの決断。』
『慎重に計画された、一度の旅。』
『そして、愛する人と過ごす、ごく普通の午後。』
僕は微笑んだ。
そして、文書を保存した。
窓の外では、夜空の下で街が動き続けていた。
その明かりの向こうのどこかで――
明日が僕を待っている。
すべてが簡単になるという約束としてではなく。
僕たちが一緒に何を作り上げていけるのか、もう一度確かめるための、新しい機会として。




