第85話 昨日を越えて僕を運んだ道と、ようやく明日の果てで待っていてくれた君
ずっと待ち続けていた朝が、ついにやって来た。
そして、当然ながら――
僕は怖くてたまらなかった。
叫び声を上げたり、部屋の中をぐるぐる走り回ったりするような恐怖ではない。
そもそも、僕の身体の状態を考えれば、そんなことはかなり難しい。
いや。
もっと静かな恐怖だった。
胸の奥のどこかに居座って、なかなか消えてくれないような感覚。
何時なのか十分に分かっているのに、数分おきに時計を見てしまうような感覚。
何か大切なものを忘れているのではないかと、不安になるような感覚。
着替えは?
準備済み。
パソコンは?
準備済み。
医療物品は?
確認済み。
人工呼吸器の関連機器と予備の準備は?
確認済み。再確認済み。さらに、実際に何をしているのか十分に理解している専門家たちによって、三度目の確認まで済んでいた。
僕の尊厳は?
残念ながら、大地さんが送別のスピーチをすると宣言した瞬間に、どこかへ消えてしまった。
◇ ◇ ◇
「春人さん?」
夏美さんが、僕の視界に顔をのぞかせた。
「はい?」
「ずっと時計を見ていますよ」
僕は微笑んだ。
「そうですか?」
「もう十五分くらい」
「興味深いですね」
彼女は笑った。
「楽しみですか?」
「ものすごく」
「緊張していますか?」
「それも、ものすごく」
彼女は微笑んだ。
「無理もありませんね」
僕は玄関の近くに並べられた荷物を見た。
すべて旅行計画に従って整理されていた。
機器の確認も終わっている。
交通事業者からは、迎えの時間について再確認の連絡があった。
同行する看護師も、ほかの看護チームの人たちと必要な手順を確認していた。
僕に残された仕事は、ただ待つことだけだった。
ところが、それが一番難しかった。
「どうやら、時間が止まってしまったようです」
僕は考え込むように言った。
夏美さんは時計を見た。
「止まっていませんよ」
「本当ですか?」
「間違いありません」
僕はため息をついた。
「それなら、止まっているふりがずいぶん上手ですね」
◇ ◇ ◇
その少しあと、旅行に同行する看護師が到着した。
黒田さんという人だった。
彼女は最終準備の打ち合わせにも参加していて、承認されたケア計画をよく理解していた。
温かい笑顔で挨拶してくれた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます」
「冒険の準備はできていますか?」
僕は少し考えた。
「精神的な意味ですか? それとも、実務的な意味ですか?」
彼女は笑った。
「両方です」
「実務的には、できています」
「精神的には?」
僕は微笑んだ。
「到着したら、お答えします」
◇ ◇ ◇
朝の確認は予定どおりに進んだ。
黒田さんと夏美さんは、必要な機器や物品、書類を確認した。
移動中の対応について確認し、看護の引き継ぎについても話し合った。
僕はその会話を注意深く聞いていた。
僕の快適さや希望に関係することがあれば、二人は必ず僕自身に尋ねてくれた。
そのことが、僕にはとてもありがたかった。
本当に。
なぜなら、これは単なる医療的な移送ではなかったからだ。
僕の旅行だった。
僕自身が決めたことだった。
長い間望んできた経験を、ようやく実現する機会だった。
だから、自分に関わる決定には、できる限り参加したかった。
◇ ◇ ◇
迎えの車が到着する少し前、玄関の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、大地さんだった。
当然ながら。
彼はファイルを持っていた。
大きなファイルを。
しかも、妙に見覚えのあるファイルだった。
僕はそれを見つめた。
「駄目です」
彼は瞬きをした。
「何が?」
「何を計画しているのか知りませんけど、駄目です」
彼は不満そうな顔をした。
「まだ何も言ってないだろ!」
「だから心配なんです」
その後ろから、由紀さんが入ってきた。
彼女は小さなお菓子の袋を持っていた。
大地さんのファイルとは違って、お菓子は大歓迎だった。
「おはよう、春人」
僕は微笑んだ。
「おはようございます」
彼女は車椅子のそばに来て、僕の顔をじっと見た。
「気分はどう?」
僕は少し考えた。
「何か大切なことを始めようとしている気分です」
彼女の表情が和らいだ。
「だって、本当にそうなんだもの」
◇ ◇ ◇
大地さんが咳払いをした。
「さて」
僕は目を閉じた。
「ああ、嫌な予感がします」
彼はファイルを開いた。
「短いスピーチを用意してきた」
由紀さんがため息をついた。
「大地」
「本当に短いんだ!」
僕は彼を見た。
「どのくらい短いんですか?」
彼はページを確認した。
「だいたい二十分」
僕は見つめた。
「それは短くありません」
「俺にしては短い」
由紀さんは彼の手からファイルを取り上げた。
「絶対に駄目」
大地さんは傷ついたような顔をした。
「でも、練習したんだぞ!」
僕は微笑んだ。
「それなら、きっと素晴らしい出来だったんでしょうね」
彼は僕を指さした。
「それじゃ意味がないだろ!」
◇ ◇ ◇
結局、かなりの交渉の末、大地さんには三つの文だけ話すことが許された。
彼は僕の前に立った。
シャツを整えた。
咳払いをした。
そして、珍しく真剣な顔になった。
「春人」
僕は彼を見た。
「はい?」
「俺たちは、お前を誇りに思ってる」
僕の笑顔が、少しだけ消えた。
うれしくなかったからではない。
その言葉を予想していなかったからだ。
大地さんは続けた。
「気をつけて行ってこい」
少し間を置いた。
それから、にやりと笑った。
「それと、恋人には、おじさんがどれだけ恥ずかしい人間か知られないようにな」
僕は笑った。
「その船は、ずいぶん前に出航してしまいましたよ」
由紀さんが吹き出した。
大地さんは大げさにため息をついた。
「じゃあ、俺の名誉はもう取り戻せないな」
◇ ◇ ◇
数分後、由紀さんが僕のそばに来た。
彼女は手に小さなものを持っていた。
母の写真だった。
いつも机の近くに置いている写真。
「出かける前に、見ておきたいかと思って」
胸が締めつけられた。
僕は写真を見た。
美咲は笑っていた。
見慣れた、あの笑顔。
病室で見た笑顔。
静かな午後に見た笑顔。
数えきれないほど、僕のそばにいてくれたときの笑顔。
しばらく、僕は何も言わなかった。
それから、優しく微笑んだ。
「母さん」
部屋は静かだった。
「僕、ようやく行くよ」
由紀さんの目に涙が浮かんだ。
僕は続けた。
「青い扉の向こうへ」
声が少し小さくなった。
「母さんが望んでくれたように」
◇ ◇ ◇
その静けさを破ったのは、外に車が到着する音だった。
夏美さんが窓を見た。
「春人さん」
僕は彼女を見た。
「はい?」
「お迎えが来ましたよ」
一瞬、誰も動かなかった。
それから、大地さんが玄関を見た。
「さて」
僕は微笑んだ。
「さて」
彼はにやりと笑った。
「いよいよ、大冒険の始まりだな」
僕はため息をついた。
「お願いですから、またスピーチを始めないでください」
◇ ◇ ◇
車椅子対応の車両は、想像していたよりも大きかった。
外観は簡素で、業務用らしい落ち着いたものだった。
特に派手なところはない。
点滅するライトもない。
英雄的な音楽も流れていない。
『春人の大恋愛遠征』と書かれた横断幕もなかった。
ありがたいことに。
運転手が自己紹介をして、黒田さんと乗車手順を確認した。
リフトが準備された。
車内は、承認された計画に従って配置されていた。
僕の車椅子は所定の位置へ慎重に移動され、指定された固定箇所を使って固定された。
スタッフは固定装置を確認し、医療機器が安全に配置されていることを確かめた。
黒田さんは、移動中に必要なケアを行える位置に設けられた席に着いた。
すべてが慎重に行われた。
急ぐことなく。
僕は、見られる範囲でその様子を見守っていた。
それから、開いた車両の扉の向こうを見た。
そこには、由紀さんと大地さん、夏美さんが立っていた。
三人とも笑っていた。
ただ、由紀さんは今にも泣きそうだった。
◇ ◇ ◇
「春人!」
大地さんが呼んだ。
僕は彼を見た。
「はい?」
「例の案内書を忘れるなよ!」
僕はため息をついた。
「すぐに忘れるつもりです」
彼は笑った。
由紀さんが少し近づいた。
「着いたら連絡してね」
「はい」
「それから、楽しんできて」
僕は微笑んだ。
「そうします」
彼女は優しく首を振った。
「違うわ」
僕は彼女を見た。
彼女は微笑んだ。
「楽しもうとするだけじゃなくて、ちゃんと楽しんでいらっしゃい」
胸が温かくなった。
僕はうなずいた。
「はい」
◇ ◇ ◇
夏美さんが微笑んだ。
「素敵な旅行になりますように」
僕は彼女を見た。
「ありがとうございます」
彼女は小さく笑った。
「こちらのことは心配しないでくださいね。大丈夫ですから」
僕は微笑んだ。
「よかった」
それから、少し間を置いた。
「大地さんを僕のパソコンに近づけないでください」
大地さんが抗議した。
「どうしてだ?」
「帰ってきたら『森探偵』が恋愛コメディーに書き換えられていた、なんてことになりたくないので」
みんなが笑った。
◇ ◇ ◇
扉が閉まった。
エンジンがかかった。
そして、ゆっくりと――
車が動き始めた。
僕は窓の外に広がる、見慣れた道を眺めた。
家々。
木々。
子どものころ、自転車に乗る子どもたちを眺めていた角。
母がよく立ち寄っていた小さな店。
住宅街から外へと続く道。
すべてが、いつもどおりに見えた。
痛いほど、いつもどおりだった。
それなのに――
何かが違って感じられた。
今回は、病院へ向かう途中で景色を見ているのではない。
自分が行きたい場所へ向かっているのだ。
僕は微笑んだ。
「しばらく、行ってきます」
◇ ◇ ◇
旅の最初の時間は静かだった。
黒田さんは定期的に僕の状態を確認し、旅行計画に従って機器を監視していた。
運転手は、あらかじめ決められた経路を進んでいた。
車は街の中を安定して走っていた。
僕は、景色が少しずつ変わっていくのを眺めた。
見慣れた建物が消えていった。
道路が広くなった。
住宅街が、知らない場所へと変わっていった。
そして、やがて街が後ろへ遠ざかり始めた。
僕は窓の外を見つめた。
長い間、医療的な理由以外で故郷を離れることが、どんな気持ちなのか想像してきた。
道を思い描いた。
流れていく景色を思い描いた。
知らない場所を見るときの、不思議な高揚感を思い描いた。
でも、想像だけでは、この感覚を十分に表すことはできなかった。
本当に、何かへ向かって進んでいるという感覚を。
◇ ◇ ◇
子どものころのことを思い出した。
病室のこと。
外の世界が、途方もなく遠く感じられた長い日々のこと。
母がそばに座り、本を読んでくれたり、物語を聞かせてくれたりしたこと。
家の青い扉。
そして、母が残してくれた未完成の手紙。
『いつか、旅をしてほしい。』
僕は微笑んだ。
「ねえ、母さん」
道は前へと続いていた。
「どうやら、今日がその『いつか』みたいだよ」
◇ ◇ ◇
一方、別の街では、葵が危機に陥っていた。
非常に深刻な危機だった。
彼女は、待ち合わせ場所に三時間も早く到着していたのだ。
三時間。
どうやら、葵に言わせれば、これはまったく合理的な行動らしい。
理沙さんは反対だった。
強く。
◇ ◇ ◇
「葵」
「はい?」
「どうして私たち、ここにいるの?」
葵は入口を見た。
「春人を迎えるためです」
理沙さんは彼女を見つめた。
「それは知ってるわ」
「じゃあ、どうして聞くんですか?」
「到着まで、あと三時間もあるからよ」
葵はためらった。
「……早めに来たかったので」
理沙さんは目を閉じた。
「早め?」
「はい」
「三時間も?」
葵は視線をそらした。
「……少し、早すぎたかもしれません」
理沙さんは吹き出した。
◇ ◇ ◇
二人は、僕の宿泊施設の近くにある、事前に決められた到着場所で待ち合わせることになっていた。
車両が安全に停車でき、建物の中までの経路も確認されている場所だった。
葵は、早めに到着すると言い張った。
理沙さんは付き添うことに同意した。
もっとも、今ではその判断を少し後悔し始めていたらしい。
葵はスマートフォンを確認した。
そして、もう一度確認した。
それから髪を整えた。
そして入口を見た。
理沙さんは面白そうに眺めていた。
「そんなに見つめていたら、念力で春人君が現れるとでも思ってるの?」
葵は眉をひそめた。
「思ってません」
「だって、あの扉をものすごい勢いで見つめてるんだもの」
「理沙さん!」
◇ ◇ ◇
葵は家を出る前、服を二回も着替えていた。
理沙さんによると、最初の服も十分よかったらしい。
二着目も。
三着目も。
でも葵は、どれもしっくりこないと感じていたようだった。
結局、シンプルなブラウスと、動きやすいスカートを選んだ。
派手すぎず。
かしこまりすぎず。
自分が心地よくいられる服装だった。
理沙さんは微笑んだ。
「とても似合ってるわよ」
葵は視線を落とした。
「本当ですか?」
「ええ」
「本当に?」
「葵」
「はい?」
「もう一回聞いたら、相談料を取るわよ」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
そのころ、僕のスマートフォンにメッセージが届いた。
『大丈夫?』
僕は微笑んだ。
『うん。』
数秒後――
『移動は順調?』
『今のところ順調だよ。』
すると――
『疲れてない?』
『それほどでもないよ。』
さらにメッセージが届いた。
『ちゃんと食べた?』
僕は画面を見つめた。
それから、入力した。
『君は僕の恋人? それとも母親?』
返事は、ほとんどすぐに届いた。
『どっちだって心配するの!』
僕は笑った。
黒田さんが僕を見た。
「何か面白いことでも?」
僕は微笑んだ。
「葵です」
彼女は納得したようにうなずいた。
「ああ」
◇ ◇ ◇
旅は続いた。
景色は街中の道路から、開けた道へと変わっていった。
畑が通り過ぎた。
小さな町が現れては消えた。
ときどき、地図でしか見たことのない場所の名前が標識に現れた。
僕はすべてを眺めていた。
交差点の一つひとつ。
知らない建物の一つひとつ。
小さな景色の一つひとつ。
ほとんどの人にとっては、特に面白くもないものなのだろう。
でも、僕には面白かった。
なぜなら、それらはただの道ではなかったからだ。
世界が、僕の日常の慣れ親しんだ境界よりもずっと広いという証拠だった。
そして、その一部を僕自身も経験できるという証拠だった。
◇ ◇ ◇
ところが――
車の流れが遅くなった。
最初は、ほとんど気づかなかった。
車が速度を落とした。
さらに遅くなった。
そして、ついに停止した。
運転手が交通情報を確認した。
「この先で渋滞しているようですね」
僕は彼を見た。
「どのくらいですか?」
「まだ何とも言えません」
僕は窓の外を見つめた。
前方には車が長く並んでいた。
ほとんど動いていない。
僕はため息をついた。
「当然ですよね」
黒田さんは微笑んだ。
「こういうこともありますよ」
「分かっています」
少し間を置いた。
「でも、今日くらいは宇宙が特別扱いしてくれてもいいと思ったんですが」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
渋滞は続いた。
十分。
二十分。
三十分。
運転手は交通事業者の配車担当と連絡を取り、指示に従っていた。
黒田さんは予定された確認を続け、移動中の対応に問題がないことを確かめていた。
緊急事態ではなかった。
機器の問題もなかった。
医療的な異常もなかった。
ただの渋滞。
ごく普通の、腹立たしい渋滞だった。
それが、かえって悔しかった。
僕は時計を見た。
それから道を見た。
そして、また時計を見た。
「この調子だと、葵は僕を待っている間におばあさんになってしまいますね」
黒田さんは笑った。
「きっと、分かってくれますよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「分かっています」
それでも、がっかりしていた。
◇ ◇ ◇
僕は葵に電話した。
彼女は、ほとんどすぐに出た。
「春人!」
「やあ」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
彼女は微笑んだ。
「よかった」
僕はためらった。
「ちょっと遅れてるんだ」
彼女の表情が変わった。
「何かあったの?」
「大丈夫。ただの渋滞だよ」
彼女は息を吐いた。
「ああ……」
「予定より遅く着くかもしれない」
葵は僕を見た。
それから、優しく微笑んだ。
「いいよ」
僕は瞬きをした。
「本当に?」
「もちろん」
「でも、ずっと待ってるだろう?」
彼女は小さく笑った。
「春人」
「うん?」
「私、もうずっと長い間、春人を待ってたんだよ」
胸が締めつけられた。
彼女は続けた。
「一時間くらい増えたって、何とも思わない」
その表情が和らいだ。
「ただ、無事に来てほしいの」
僕は微笑んだ。
「……ありがとう」
◇ ◇ ◇
通話が終わると、少し気持ちが楽になった。
やがて、車の流れが戻り始めた。
最初はゆっくりと。
それから、少しずつ順調に。
運転手は、変更された到着予定時刻を関係者に連絡した。
旅は続いた。
そして、少しずつ――
標識に書かれた地名が変わり始めた。
見覚えのある名前になっていった。
実際に見たことがあるからではない。
葵が話してくれたからだ。
写真を送ってくれたからだ。
数えきれないほどのビデオ通話で、その場所について話してきたからだ。
彼女の病院の近くの通り。
お気に入りの商店街。
仕事帰りにときどき訪れる公園。
これまで彼女の話の中にしか存在しなかった街が、現実になり始めていた。
僕は窓の外を見つめた。
そして、微笑んだ。
「もうすぐですね」
◇ ◇ ◇
理沙さんのスマートフォンに、更新された到着情報が届いたとき、葵は入口の近くに立っていた。
理沙さんは画面を確認した。
それから、葵を見た。
「葵」
葵はすぐに振り向いた。
「何ですか?」
「もう近いわよ」
葵は固まった。
「……え?」
理沙さんは微笑んだ。
「春人君の車が、もうすぐ着くって」
数秒間、葵は動かなかった。
それから、道のほうを見た。
手が少し震えていた。
理沙さんの表情が和らいだ。
「大丈夫よ」
葵は彼女を見た。
「分かってます」
理沙さんは微笑んだ。
「話したことを思い出して」
葵はうなずいた。
「完璧な挨拶は、いらない」
「そう」
「ただ、そこにいればいい」
理沙さんは微笑んだ。
「そのとおり」
◇ ◇ ◇
車が静かな通りへ曲がった。
僕は窓の外を見た。
近くには店があった。
歩行者が何人かいた。
歩道には木々が並んでいた。
そして、前方に――
宿泊施設の入口が見えた。
心臓が速く打ち始めた。
運転手が速度を落とした。
そして、指定された到着場所に車を停めた。
僕は外を見つめた。
一瞬、彼女の姿が見つからなかった。
でも――
いた。
葵が。
入口の近くに立っていた。
シンプルなブラウスとスカートを着て。
風に髪を少し揺らしながら。
両手を身体の前で重ねて。
そして、車をじっと見つめていた。
胸が締めつけられた。
「葵……」
◇ ◇ ◇
車が完全に停止した。
運転手がリフトを準備した。
黒田さんは、降車に必要な機器とケアの準備が整っていることを確認した。
固定装置が、手順に従って解除された。
すべてが慎重に行われた。
専門的に。
急ぐことなく。
でも、僕には――
信じられないほど長く感じられた。
なぜなら、窓の向こうに彼女が見えていたからだ。
葵。
画面の中ではない。
写真の中でもない。
想像の中でもない。
本当に、そこにいる。
僕を待っている。
◇ ◇ ◇
ようやく、リフトが下がった。
扉が開いた。
そして、僕は午後の空気の中へ出た。
一瞬、世界が妙に静かになったように感じた。
車の音。
人々の声。
遠くから聞こえる街の音。
すべてが背景へと遠ざかっていった。
なぜなら、彼女が目の前にいたからだ。
葵。
彼女の目が大きく開いた。
唇が少し開いた。
数秒間、どちらも何も言わなかった。
それから――
「春人……」
彼女の声は震えていた。
僕は微笑んだ。
「やあ」
それだけだった。
あれだけ練習した挨拶。
あれだけ想像した会話。
あれだけ立てた計画。
最初に出てきた言葉は――
「やあ」
だった。
◇ ◇ ◇
葵は口元を覆った。
目に涙が浮かんだ。
それから、笑った。
小さな、震えるような笑いだった。
「本当に……」
そこで言葉が途切れた。
僕は優しく微笑んだ。
「来たよ」
彼女の頬を涙が一粒流れた。
そして、もう一粒。
彼女は首を振った。
「信じられない……」
声が詰まった。
僕は彼女を見た。
あれだけの通話を重ねて、待ち続けてくれた女の子。
不確かな計画を、一緒に乗り越えてくれた女の子。
一緒にいることを想像するしかなかった夜を、何度も過ごしてきた女の子。
僕は微笑んだ。
「さて」
彼女は涙を浮かべたまま笑った。
「さて?」
僕はにやりと笑った。
「ようこそ、葵の偉大なる王国へ……だったかな?」
彼女は吹き出した。
「春人!」
◇ ◇ ◇
少し離れた場所に立っていた理沙さんは、笑顔を隠すように口元を覆った。
葵は涙を拭った。
それから、近づいてきた。
「ねえ……」
彼女はためらった。
僕は彼女を見た。
「うん?」
「キスしてもいい?」
胸が温かくなった。
僕は微笑んだ。
「もちろん」
彼女は慎重に身をかがめた。
そして、僕にキスをした。
優しいキスだった。
短いキスだった。
劇的なものではなかった。
音楽もなかった。
花火もなかった。
壮大な愛の宣言もなかった。
ただ、一つのキス。
でも、何か月もの間、画面越しにしか会えなかった僕たちにとって――
それは、特別なものだった。
彼女が顔を離すと、頬が赤くなっていた。
僕は微笑んだ。
「やあ」
彼女は笑った。
「やあ」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちはただ見つめ合っていた。
僕は、小さなことに気づいた。
風に揺れる彼女の髪。
目元に残る、かすかな赤み。
もう一度泣きそうになるのをこらえながら、笑うときの表情。
カメラでは、どうしても伝えきれなかったもの。
葵も、同じような驚きに満ちた目で僕を見ていた。
「本当に、ここにいるんだね」
僕は微笑んだ。
「どうやらね」
彼女は笑った。
「会いたかった」
胸が締めつけられた。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
ようやく、理沙さんが近づいてきた。
「さて」
葵が振り向いた。
「理沙さん!」
理沙さんは微笑んだ。
「ちゃんと挨拶の仕方を覚えていたみたいね」
葵は顔を覆った。
「もう、やめてください!」
僕は笑った。
「これは素晴らしいですね」
葵が僕を指さした。
「春人まで調子に乗らないで!」
理沙さんはにやりと笑った。
「もう遅いわよ」
◇ ◇ ◇
再会のあと、僕たちは建物の中へ入った。
宿泊施設は、滞在に必要な条件を事前に確認したうえで選ばれていた。
到着場所からの経路は、車椅子で通行できるようになっていた。
部屋も、僕の車椅子や必要な機器、看護のための空間を確保できるように準備されていた。
黒田さんと施設のスタッフが、到着後の確認を終えた。
すぐに観光を始める必要はなかった。
どこかへ急いで出かける必要もなかった。
まずは、落ち着くこと。
僕は、その時間がありがたかった。
旅は楽しかった。
でも、疲れもあったからだ。
◇ ◇ ◇
すべてが整うと、葵は僕の車椅子のそばに座った。
しばらく、ただ僕を見ていた。
それから、微笑んだ。
「何だか、不思議」
僕は小さく笑った。
「今日、それを言ったのは二人目だよ」
彼女は不思議そうな顔をした。
「一人目は?」
「僕」
彼女は笑った。
僕は彼女を見た。
「でも、いい意味で不思議だね」
彼女はうなずいた。
「すごく、いい意味で」
◇ ◇ ◇
葵は、そっと僕の手に手を伸ばした。
「手、つないでもいい?」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女は、僕の姿勢や動かせる範囲に気を配りながら、優しく手を取った。
温かい手だった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
ただ、一緒に座っていた。
画面もない。
ヘッドホンもない。
声が届くまでの遅れもない。
ただ、部屋の静かな音と、彼女の手の温もり。
僕は葵を見た。
「この感覚、もう少しで忘れてしまうところだったよ」
彼女の表情が和らいだ。
「私も」
◇ ◇ ◇
葵は微笑んだ。
「まだ、通話が切れちゃうんじゃないかって思っちゃう」
僕は笑った。
「それは困るね」
「それか、春人が話の途中で固まっちゃうとか」
「まあ、それは今でも起こるかもしれないけど」
彼女は吹き出した。
「春人!」
僕はにやりと笑った。
「ごめん。言わずにはいられなかった」
彼女は首を振った。
それから、僕の手を優しく握った。
「これが恋しかった」
僕は微笑んだ。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
少し休んだあと、午後の予定を確認した。
当初の計画には、葵が調べてくれたカフェが含まれていた。
でも、渋滞のせいで、使える時間が短くなっていた。
それに、僕も移動の疲れを感じていた。
葵は僕を見た。
「行かなくてもいいんだよ」
僕は少し考えた。
「分かってる」
「ここで過ごしてもいいし」
僕は微笑んだ。
「それも魅力的だね」
彼女は笑った。
「本当に?」
「すごく」
少し間を置いた。
「でも、予定が許すなら行ってみたいな」
葵はうなずいた。
「じゃあ、確認してみよう」
◇ ◇ ◇
黒田さんが、時間とケアの予定を確認した。
僕の体調に問題がなく、予定どおりに戻ることを条件に、短い外出をする余裕はあった。
僕は、行きたいという希望を改めて伝えた。
葵は微笑んだ。
「じゃあ、行こう」
僕はにやりと笑った。
「素晴らしい」
彼女は目を細めた。
「カフェは一軒だけ」
「もちろん」
「突然、本屋に寄るのもなし」
僕はため息をついた。
「冒険の楽しみを、全部奪ってしまうんだね」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
カフェは、葵が説明してくれたとおりの場所だった。
大きな窓。
木製のテーブル。
入口の近くにある小さな本棚。
そして、木々が並ぶ静かな通りを見渡せる景色。
入口と、利用する予定の経路は事前に確認されていた。
店内では、スタッフが僕の車椅子に十分なスペースのあるテーブルを案内してくれた。
黒田さんはケア計画に従って必要なときに対応できるようにしながら、僕たちが一緒の時間を楽しめるようにしてくれた。
葵は僕の向かいに座った。
しばらく、ただ微笑んでいた。
「何?」
僕が尋ねた。
彼女は首を振った。
「何でもない」
僕は眉を上げた。
「怪しいね」
彼女は笑った。
「ただ、幸せだなって」
胸が温かくなった。
僕は微笑んだ。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
僕たちは飲み物を注文した。
葵は紅茶を選んだ。
僕は自分に合ったものを選び、必要に応じて看護師に手伝ってもらった。
それから、窓の外を行き交う人々を眺めながら、一緒に過ごした。
ごく普通の光景だった。
痛いほど、普通だった。
通りを歩くカップル。
本の入った鞄を持つ学生。
店のショーウィンドウの前で立ち止まる年配の男性。
特別なことは、何もなかった。
それなのに――
これほど大切に感じられる午後が、最後にいつあったのか思い出せなかった。
葵が僕を見た。
「想像していたとおり?」
僕は少し考えた。
「いや」
彼女の表情が変わった。
「えっ……」
僕は微笑んだ。
「想像していたより、ずっといい」
彼女は僕を見つめた。
それから、小さく笑った。
「春人……」
◇ ◇ ◇
僕たちは、彼女の研修プログラムについて話した。
僕の編集者との打ち合わせについて。
文学交流会について。
拓海君の作品について。
そして、こうした話を同じ場所に座ってできることが、どれほど不思議なのかについて。
やがて、葵が椅子にもたれた。
「こういう時間に、慣れていけたらいいな」
僕は微笑んだ。
「僕も」
彼女は窓を見た。
「ただ、一緒にカフェで過ごすだけ」
僕はうなずいた。
「まあ、正確には君は紅茶を飲んでいるけどね」
彼女は笑った。
「春人!」
「正確さは大事だよ」
◇ ◇ ◇
残念ながら、僕たちの穏やかな午後は、ある事件によって中断された。
非常に深刻な事件だった。
少なくとも、僕に言わせれば。
近くのテーブルにいた女性が、突然鞄の中を探し始めた。
テーブルを確認した。
隣の椅子を確認した。
床も確認した。
その表情は、次第に不安そうになっていった。
「見つからない……」
葵が彼女を見た。
「どうしたんだろう?」
女性は困ったような顔をした。
「ノートが……ついさっきまであったのに」
僕は、すぐに興味を持った。
葵が気づいた。
「駄目」
僕は彼女を見た。
「何が?」
「探偵の話は禁止」
僕は無邪気に微笑んだ。
「まだ何も言ってないよ」
「その顔をしてる」
「どんな顔?」
「森探偵の顔」
僕はにやりと笑った。
「ずいぶん具体的な告発だね」
◇ ◇ ◇
女性は探し続けていた。
僕はテーブルを見た。
それから本棚を見た。
そして、もう一度女性を見た。
「ふむ」
葵は目を閉じた。
「春人」
「はい?」
「やめて」
僕は微笑んだ。
「興味深い」
彼女はうめいた。
「もう始まってる……」
僕は女性を見た。
「すみません」
彼女が振り向いた。
「はい?」
「ノートは、どんな見た目ですか?」
葵は顔を覆った。
女性は、小さな青いノートだと説明した。
僕は本棚を見た。
そこには、雑誌の山の上に置かれた、小さな青いノートがあった。
僕は微笑んだ。
「あちらにあるものではありませんか?」
女性が振り向いた。
目が大きく開いた。
「あっ!」
彼女は急いで近づいた。
「これです!」
◇ ◇ ◇
事件は解決した。
およそ十二秒で。
女性は僕たちにお礼を言った。
どうやら、雑誌を選ぶときにノートを棚に置き、そのまま忘れてしまったらしい。
葵は僕を見つめた。
僕は微笑んだ。
「事件解決」
彼女は吹き出した。
「そもそも事件じゃないでしょ!」
僕は不満そうな顔をした。
「すべての謎は、一つの疑問から始まるんだよ」
「置いた場所を忘れただけじゃない!」
「そして、僕が見つけた」
葵は首を振った。
「本当にもう」
僕はにやりと笑った。
「それでも、非常に優秀だろう?」
◇ ◇ ◇
カフェを出るころには、午後の光が夕暮れへと変わり始めていた。
空気が金色に染まっていた。
通りも、少し静かになっていた。
宿泊施設へ戻る前に、近くの車椅子で利用できる屋外の場所に、短時間立ち寄る余裕があった。
大げさな場所ではない。
ただ、空を眺められる場所だった。
葵は僕の車椅子のそばを歩いた。
黒田さんも、必要なケアに対応できる距離を保ちながら同行していた。
しばらく、僕たちは何も言わなかった。
ただ、一緒に進んだ。
かつては、途方もなく遠く感じられた街の中を。
◇ ◇ ◇
僕たちは、通りを見渡せる小さな広場の近くで立ち止まった。
夕空が頭上に広がっていた。
オレンジ色。
桃色。
淡い青色。
葵は僕のそばに立っていた。
「きれいだね」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女は僕を見た。
「疲れた?」
「少し」
「いつでも戻っていいんだよ」
僕はうなずいた。
「分かってる」
それから、微笑んだ。
「でも、あと少しだけここにいたいな」
彼女は微笑んだ。
「うん」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは夕日を眺めていた。
やがて、葵が口を開いた。
「春人?」
「うん?」
「私たちが別々の街に住まなくなったら、どんな感じになるのかなって考えることある?」
僕は少し考えた。
「ときどきね」
彼女は微笑んだ。
「私も」
僕は空を見た。
青い扉のある家の候補は、まだ残っている。
バリアフリーの問題も。
電気設備の問題も。
浴室の問題も。
僕が引っ越す場合、看護体制をどう整えるかという問題も。
そして今、葵には研修プログラムがある。
彼女の仕事がある。
彼女自身の未来がある。
考えなければならないことは、山ほどあった。
でも、今はそれらが壁のようには感じられなかった。
一つずつ向き合っていける問題のように感じられた。
◇ ◇ ◇
「急ぎたくないんだ」
僕は言った。
葵はうなずいた。
「私も」
「君の研修は大切だから」
「春人の執筆だって大切だよ」
「それに、僕のケアのことも」
「もちろん」
僕は微笑んだ。
「そして、僕たちのことも」
葵は僕を見た。
それから、微笑んだ。
「何より、私たちのことがね」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから、僕は続けた。
「きっと、何とかしていけると思う」
彼女はうなずいた。
「一緒に」
僕は微笑んだ。
「一緒に」
◇ ◇ ◇
葵は、薄れていく夕日を見た。
「ねえ……」
僕は彼女に目を向けた。
「何?」
「昔は、幸せって、何か大きなものじゃなきゃいけないと思ってた」
僕は黙って聞いていた。
「劇的で、一度に全部を変えてしまうようなもの」
彼女は微笑んだ。
「でも、今日……」
僕を見た。
「今日、幸せって、ただ春人の隣に座っていることなんだなって思った」
胸が締めつけられた。
僕は優しく微笑んだ。
「それは、なかなかいい定義だね」
彼女は小さく笑った。
「うん」
◇ ◇ ◇
やがて、僕たちは宿泊施設へ戻った。
夜のケアの時間が近づいていた。
黒田さんが、必要な医療的対応を引き継いだ。
葵は、もう少しだけ僕のそばにいてくれた。
再び車椅子の隣に座った。
彼女の手が、僕の手の上に優しく重なっていた。
どちらも、この日を終わらせたくなかった。
でも、二人とも疲れていた。
そして、明日も大切な一日になる。
文学交流会。
作家たちとの出会い。
拓海君の物語。
僕自身の朗読。
たくさんのことが待っていた。
◇ ◇ ◇
ようやく、葵が時計を見た。
「そろそろ帰らなきゃ」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女はためらった。
それから、小さく笑った。
「また、不思議な感じがする」
僕は彼女を見た。
「どうして?」
「だって、さよならを言うから」
僕はうなずいた。
「そうだね」
彼女は視線を落とした。
「でも、違うんだよね」
僕は微笑んだ。
「何が?」
彼女は僕を見た。
「だって、明日また会えるから」
胸が温かくなった。
僕は微笑んだ。
「そうだね」
◇ ◇ ◇
彼女は少し近づいた。
「おやすみのキス、してもいい?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
彼女は優しくキスをした。
それから、少しの間、額を僕の額の近くに寄せた。
「おやすみ、春人」
僕は微笑んだ。
「おやすみ、葵」
彼女は顔を離した。
目が輝いていた。
「明日の朝、また来るね」
僕はうなずいた。
「待ってるよ」
◇ ◇ ◇
彼女が帰ったあと、部屋は静かになった。
でも、空っぽではなかった。
寂しくもなかった。
ビデオ通話を終えたあとの、あの感覚とは違っていた。
なぜなら、今回は彼女が何百キロも離れた場所にいるわけではないからだ。
すぐ近くにいる。
同じ街にいる。
同じ空の下にいる。
そして、明日また会える。
僕は窓を見た。
見知らぬ街が、夕暮れの灯りに包まれていた。
この街のどこかで、葵は家へ向かっている。
きっと笑っている。
きっとスマートフォンを確認している。
きっと、朝まであと何時間あるか数え始めている。
僕は小さく笑った。
◇ ◇ ◇
黒田さんが、夜に必要な準備を終えた。
「今日はどうでしたか?」
僕は微笑んだ。
「最高でした」
彼女はうなずいた。
「よかったですね」
僕はもう一度、窓を見た。
長い間、知らない場所へ旅をすることが、どんな気持ちなのか想像してきた。
人と出会うこと。
かつては遠いものに思えた、普通の時間を経験すること。
今日、僕はそのすべてを経験した。
完璧ではなかった。
遅れもあった。
慎重な準備も必要だった。
でも、経験できた。
そして、世界が突然簡単になったわけではない。
僕の障害が消えたわけでもない。
専門的なケアが必要なくなったわけでもない。
日常生活の現実的な課題は、今もそこにある。
でも、何かが変わった。
僕が望むことと、実際に経験できることの間にあった距離が、少しだけ縮まったのだ。
◇ ◇ ◇
僕はパソコンを開いた。
新しい文書が待っていた。
前の夜に書き始めたものだった。
最初の一文を読んだ。
『明日、僕は別の街へ旅をする。』
僕は微笑んだ。
そして、新しい一行を加えた。
『今日、僕は到着した。』
少し手を止めた。
それから、続きを書いた。
『道のりは、思っていたより長かった。』
『渋滞は最悪だった。』
『大地さんは、危うくパレードを開催するところだった。』
『そして葵は、予想していたとおり、たくさん泣いた。』
僕は小さく笑った。
それから、最後の一文を入力した。
『でも、僕を待っている彼女の姿を見たとき、気づいたんだ。』
『この旅で一番大切だったのは、距離ではなかった。』
『その道の終わりで、誰が待っていてくれるかということだった。』
◇ ◇ ◇
僕は文書を保存した。
そして、最後にもう一度、窓を見た。
知らない街。
知らない部屋。
外から聞こえる、知らない音。
でも、初めて、その知らないものたちが怖くなかった。
なぜなら、すぐ近くのどこかで――
葵が明日を待っているから。
そして明日――
彼女に会うために、街をいくつも越える必要はない。
ただ、朝を待てばいい。
僕は微笑んだ。
「また明日ね、葵」
窓の外では、夕暮れの空の下で、街の灯りが優しくきらめいていた。
そして、長い間で初めて――
「おやすみ」が、また長い別れの始まりには感じられなかった。
それは、一緒に過ごす次の一日の始まりのように感じられた。




