第84話 明日までの日々を数えながら、ようやく僕たちの夢を運び始めた道
人生には、その後のすべてを変えてしまうような日付がある。
誕生日。
卒業式。
記念日。
そして、世界を少しだけ寂しくない場所に変えてくれる誰かと出会った日。
それから、どうやら――
自分の電動車椅子を、家具のように分解することなく乗せられる車両が見つかった日も、その一つらしい。
個人的には、これはかなり大きな出来事だと思っている。
残念ながら、世間一般の人々が僕と同じくらい興奮するかどうかは分からない。
いや。
もしかすると、そうでもないのかもしれない。
なぜなら、旅行の日程がようやく決まりそうだと大地さんに伝えた途端、彼はマーチングバンドを手配すべきかと聞いてきたからだ。
僕は断った。
次に、花火はどうかと聞いてきた。
もちろん、それも断った。
すると今度は、小規模なパレードなら許されるかと尋ねてきた。
僕は一瞬、本気で電話番号を変えようかと考えた。
◇ ◇ ◇
その朝は、恵美さんからのメールで始まった。
僕は机に向かい、執筆予定の最新の変更を確認していた。
すると、夏美さんが通知に気づいた。
「春人さん、メールが届いていますよ」
僕は画面を見た。
「誰からですか?」
「佐藤さんです」
その名前を聞いた瞬間、僕の意識は一気にそちらへ向いた。
ここ数週間、佐藤恵美さんは、僕にとってほとんど奇跡を起こす人のような存在になっていた。
もちろん、あらゆる問題を魔法のように解決できるわけではない。
そんなことは誰にもできない。
でも彼女には、複雑な問題の山を、一つの実行可能な計画に変えていくという、驚くべき能力があった。
僕に言わせれば、それは立派な特殊能力だった。
メールを開いた。
そして、ほかのことがすべて頭から消えた。
『春人さんへ』
『文学交流会の主催者から、開催日の正式な連絡がありました。現在得られている情報を踏まえると、旅行の候補となる週末を具体的に設定できそうです。』
『ただし、交通手段、看護体制、必要な医療的評価が完了するまでは、最終的な手配を確定することはできません。』
『それでも、着実に前進しています。』
僕はメールを見つめた。
そして、もう一度読んだ。
さらに、もう一度。
ようやく、夏美さんを見た。
「これは……」
彼女は微笑んだ。
「いい知らせですか?」
「日程が見えてきたみたいです」
彼女の表情が明るくなった。
「旅行のですか?」
僕はうなずいた。
「まだ候補ですけど」
「それは素敵ですね!」
僕はもう一度メールを見た。
週末。
実際に存在する、一つの週末。
遠い未来の、いつになるか分からない時期ではない。
『いつか』でもない。
『状況が許せば』でもない。
カレンダーに丸をつけられる、具体的な週末。
僕は微笑んだ。
「ここで喜んだら、少し無責任でしょうか?」
夏美さんは笑った。
「そんなことありませんよ」
「よかった」
少し間を置いた。
「もう、かなり喜んでしまっているので」
◇ ◇ ◇
次に必要だったのは、関係者全員との日程調整だった。
言葉にすると簡単に聞こえる。
実際は、そうではなかった。
当然ながら。
交通事業者。
僕の看護チーム。
旅行計画を確認する医療関係者。
文学交流会の主催者。
そして、もちろん葵。
最後の一人が、僕にとっては最も重要だった。
もっとも、恵美さんにその優先順位を伝えたら、きっと反論されるだろう。
「春人さん、まずは安全に実施できることを確認しなければなりません」
午後の通話で、彼女はそう言った。
「分かっています」
「それに、日程はまだ仮のものです」
「分かっています」
「変更が必要になる可能性もあります」
「理解しています」
彼女は微笑んだ。
「今日はずいぶん協力的ですね」
僕は少し考えた。
「そんなに驚かないでください」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
恵美さんが、候補となる予定を画面に表示した。
移動は文学交流会の前日。
交流会そのものは、翌日の一部の時間を使って行われる。
帰路はそのあとに設定し、必要なケアを急がずに行えるだけの余裕を確保する。
正確な旅程は、交通事業者の最終評価と、資格を持つ看護師の勤務調整によって決まる。
僕は真剣に聞いていた。
珍しく、冗談で話を遮らなかった。
まあ。
それほど多くは。
恵美さんの説明が終わると、僕はカレンダーを見た。
候補の週末が、色付きで表示されていた。
僕はしばらく見つめた。
「何だか、すごいですね」
恵美さんは微笑んだ。
「何がですか?」
「こうして、日程が書かれているのを見ることが」
彼女はうなずいた。
「そうでしょうね」
僕は青い玄関扉のほうを見た。
これまで何年もの間、僕の予定の多くは病院や医療機器、日々の生活に必要なことを中心に組み立てられてきた。
でも、今回は違う。
これは、僕が自分でやりたいと思ったことだった。
病気だからではない。
何か問題が起きたからでもない。
ただ、別の街に愛する人がいるから。
そして、僕の作品を聞いてみたいと招いてくれた作家たちがいるから。
僕は微笑んだ。
「このまま進めましょう」
◇ ◇ ◇
一方、葵は新しい趣味を見つけていた。
数を数えることだ。
正確には――
僕が到着するかもしれない日まで、あと何日あるかを数えること。
中村理沙さんによると、これはかなり深刻な問題になりつつあったらしい。
「葵」
「はい?」
「どうして、ずっとスマホを見ているの?」
葵は病院の休憩室のテーブルから顔を上げた。
「見てませんよ」
理沙さんは画面をちらりと見た。
「それ、カレンダーでしょう?」
葵は慌ててスマートフォンを伏せた。
「違います」
理沙さんは眉を上げた。
「葵」
「……はい?」
「あと何日か数えてるの?」
葵の頬が赤くなった。
「数えてません」
理沙さんは微笑んだ。
「本当に?」
葵はためらった。
「……少しだけ」
理沙さんは笑った。
◇ ◇ ◇
どうやら葵は、天気予報まで確認し始めていたらしい。
何度も。
何度も。
しかも、旅行の候補日はまだ先で、天気予報が出たとしても、ほとんど予想の域を出ない時期だった。
彼女はカフェのホームページを確認した。
それから写真を見た。
そして、またホームページを開いた。
勤務表も確認した。
当日に何を着ようか考えた。
さらに、新しい服を買うべきかどうかまで悩み始めた。
理沙さんは、その様子をますます面白そうに眺めていた。
「まるで初デートを控えているみたいね」
葵は不満そうな顔をした。
「私たち、もうずっと付き合ってるんですよ!」
「知ってるわ」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うんですか?」
理沙さんは微笑んだ。
「だって、スマホを見ながら笑ってる顔が、恋する高校生みたいなんだもの」
葵は顔を覆った。
「もう、やめてください」
「すっかり恋に夢中ね」
「理沙さん!」
「かわいいわ」
葵はうめいた。
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話がかかってきた。
「春人!」
「やあ」
彼女は笑っていた。
妙に。
僕は目を細めた。
「何をしていたの?」
「何も」
「それは心配だね」
彼女は笑った。
「どうして?」
「君がそういう言い方で『何も』って言うときは、たいてい何かしているから」
彼女はためらった。
「……カレンダーを見てた」
僕は微笑んだ。
「本当に?」
「たぶん」
「何回くらい?」
彼女は視線をそらした。
「少し」
「葵」
「……たくさん」
僕は笑った。
彼女はすぐに抗議した。
「笑わないで!」
「君を笑ってるわけじゃないよ」
「笑ってる!」
「ほんの少しだけ」
◇ ◇ ◇
お互いをからかい終えると、葵は静かになった。
「春人?」
「うん?」
「緊張してる?」
僕は少し考えた。
「旅行のこと?」
彼女はうなずいた。
「うん」
僕は机を見た。
パソコンには、旅行計画の資料が開かれていた。
「してるよ」
葵の表情が和らいだ。
「私も」
僕は微笑んだ。
「本当に?」
「もちろん」
彼女は視線を落とした。
「春人が到着したら、どんな感じになるんだろうって、ずっと考えてる」
僕はうなずいた。
「僕もだよ」
「もし泣いちゃったら?」
「そのときは、僕がくだらない冗談を言うと思う」
彼女は笑った。
「それで、もっと泣いちゃったら?」
「さらにひどい冗談を言うよ」
「春人!」
僕は微笑んだ。
「作家と付き合うって、そういう危険があるんだよ」
◇ ◇ ◇
数日後、交通手段の詳しい評価が行われた。
そして、しばらくの間――
すべてが、かなり不安な方向へ進み始めた。
交通事業者から技術担当者が来て、僕の車椅子と医療機器の条件を確認した。
恵美さんも参加した。
夏美さんもいた。
普段の看護師の一人も評価に加わった。
担当者は、慎重に車椅子を測定した。
幅。
長さ。
固定位置。
必要な医療機器が占める空間。
移動中に看護師がケアを行うために必要なスペース。
すべてだ。
最初のうちは、順調に見えた。
ところが、担当者が眉をひそめた。
経験上、自分の将来の計画がかかっているものを調べている人が眉をひそめるのは、あまりいい兆候ではない。
「うーん……」
僕は彼を見た。
「不吉な声ですね」
彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「少し確認しています」
僕は夏美さんを見た。
「誰かがそう言うと、どうも不安になるんですよね」
彼女は安心させるように微笑んだ。
◇ ◇ ◇
問題は、候補車両の車内スペースだった。
僕の車椅子そのものは、収まりそうだった。
でも、入ればいいというわけではない。
固定装置を適切に使用できる空間が必要だった。
医療機器も安全に配置しなければならない。
そして、移動中に看護師が必要なケアを行えるだけの余裕が必要だった。
担当者は測定結果を確認した。
それから、少し首を振った。
「この配置では、十分とは判断できません」
胸が沈んだ。
恵美さんが身を乗り出した。
「懸念点を詳しく教えていただけますか?」
「一部の作業スペースが狭すぎます。この問題を解決しないまま、承認することはできません」
僕は画面に表示された車両の図面を見つめた。
一瞬、頭の中で思い描いていた道が消えてしまったように感じた。
「つまり……」
僕はためらった。
「この車両は使えないということですか?」
担当者は僕を見た。
「必ずしも、そうではありません」
僕は瞬きをした。
彼は続けた。
「別の配置なら対応できる可能性があります。弊社には、使用可能な車内空間がさらに広い車両もありますので」
恵美さんがうなずいた。
「そちらを評価していただくことは可能でしょうか?」
「はい」
担当者はメモを取った。
「ただし、寸法と固定装置の適合性を確認してからでないと、判断はできません」
僕はゆっくり息を吐いた。
また一つ問題が増えた。
また一つ遅れる。
また一つ確認しなければならない。
でも、終わりではない。
まだ。
◇ ◇ ◇
評価が終わったあと、僕はいつもより静かだった。
夏美さんが気づいた。
「春人さん?」
「はい?」
「がっかりしましたか?」
僕は嘘をつこうか考えた。
それから、やめた。
「少し」
彼女はうなずいた。
「そうですよね」
僕は写真を見た。
「問題が出るかもしれないことは、分かっていたんです」
「はい」
「でも、心のどこかで、これくらいは簡単に決まると思っていたみたいです」
夏美さんは優しく微笑んだ。
「まだ、別の選択肢がありますよ」
「分かっています」
少し間を置いた。
「ただ、一歩進むたびに、別の謎を解かなければならないのは疲れますね」
彼女は小さく笑った。
「でも、春人さんは推理作家でしょう?」
僕は彼女を見つめた。
「それは、非常に不公平な指摘です」
彼女は微笑んだ。
「そうですか?」
「はい」
僕は画面に目を戻した。
「森探偵は、謎を解けば報酬がもらえるんです」
彼女は笑った。
「春人さんは違うんですか?」
「少なくとも、十分にはもらっていません」
◇ ◇ ◇
その夜、葵に何があったか話した。
彼女の表情がすぐに変わった。
「じゃあ、旅行は中止なの?」
僕は首を振った。
「違うよ」
彼女は息を吐いた。
「よかった」
「でも、最初の車両の配置は、評価を通らなかった」
彼女は真剣に聞いていた。
「会社が別の方法を調べてくれてる」
葵はうなずいた。
「じゃあ、まだ可能性はあるんだね」
「うん」
彼女は少し黙った。
それから、優しく微笑んだ。
「問題が見つかってよかったと思う」
僕は彼女を見た。
「僕もだよ」
「悔しいけどね」
「だからこそ、だね」
彼女はうなずいた。
「だって、安全に来てほしいから」
僕は微笑んだ。
「僕も、注意喚起のための失敗例にはなりたくないからね」
葵は笑った。
「春人!」
「何?」
「本当にもう」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、葵は理沙さんと、思いがけず大切な話をすることになった。
二人は、新しい研修プログラムについて話していた。
葵は、研修日程や学ぶ内容を確認し始めていた。
病院から在宅への移行。
ケアの調整。
患者への説明と支援。
家族への支援。
継続的なケア。
どれも、彼女が本当に学びたいと思っていた分野だった。
しかし、話を聞いていた理沙さんは、あることに気づいた。
「葵」
「はい?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろんです」
「春人君が来たとき、自分はどんな役割になると思ってる?」
葵は瞬きをした。
「役割、ですか?」
理沙さんはうなずいた。
「彼の恋人として」
葵はためらった。
「えっと……」
彼女は医療機器のことを考えた。
交通手段のこと。
看護の予定。
すべてが順調に進むようにしなければならないという思い。
「必要なことがあれば、手伝うと思います」
理沙さんは優しく微笑んだ。
「そう?」
葵は眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
◇ ◇ ◇
理沙さんはお茶を置いた。
「あなたは看護師よ、葵」
「はい」
「それは誇りに思っていいこと」
葵はうなずいた。
「でも、春人君には、すでに看護チームがいるでしょう?」
「はい」
「彼のケアの内容も分かっているし、確立された手順もある。今回の旅行で必要な専門的な看護を担当するのも、そのために手配された看護師たちよ」
葵は黙って聞いていた。
理沙さんは続けた。
「もちろん、あなたも彼を支えられるわ。本人が望めば、予定を考える手伝いもできる。でも、一緒に過ごす時間を、もう一つの看護勤務に変える必要はないのよ」
葵は視線を落とした。
「……そう考えたこと、ありませんでした」
理沙さんは微笑んだ。
「ただ、彼の恋人でいていいのよ」
しばらく、葵は何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
「すごく簡単なことみたいに聞こえますね」
「簡単なことよ」
理沙さんは少し間を置いた。
「だからといって、いつも簡単にできるとは限らないけれどね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵はビデオ通話でその話をしてくれた。
「春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
彼女はためらった。
「旅行中、私が会いに行ったとき……」
僕は微笑んだ。
「うん?」
「介助を手伝ってほしい?」
僕は少し考えた。
「具体的には、何を?」
彼女は考え込んだ。
「分からない。ただ、何かしなきゃいけないような気がして」
僕は優しく微笑んだ。
「葵」
彼女は僕を見た。
「君が僕の看護師になる必要はないよ」
彼女の表情が和らいだ。
「分かってる」
「君は、僕の恋人だから」
彼女はうなずいた。
「だから、恋人として一緒に過ごしたいんだ」
葵は微笑んだ。
「本当に?」
「もちろん」
少し間を置いた。
「ただし、本を選ぶのを手伝ってくれるなら、歓迎するけど」
彼女は笑った。
「それは看護じゃないでしょ!」
「そのとおり」
◇ ◇ ◇
僕たちは、しばらくそのことについて話した。
旅行中の医療的な責任は、手配された看護チームが担うこと。
何か調整が必要になれば、担当の看護師が対応すること。
休息が必要になったら、僕がそう伝えること。
そして、予定を変更する必要があれば、変更すること。
葵が、一日のすべてを監督する必要はない。
何もかも正しく行われているか、常に確認し続ける必要もない。
ただ、そこにいてくれればいい。
葵自身として。
僕の冗談に笑ってくれる女の子。
本屋を巡る計画について、僕と言い争ってくれる女の子。
そして、いつの間にか、僕が一番話したいと思う相手になっていた女の子として。
葵は微笑んだ。
「何だか、少し安心した」
僕はにやりと笑った。
「よかった」
彼女は笑った。
「これで、何でもかんでも心配しなくて済むかも」
僕は少し考えた。
「そこまで非現実的な約束はしないほうがいいよ」
「春人!」
◇ ◇ ◇
旅行の候補日が近づくにつれて、僕は思いがけないことに気づいた。
怖かったのだ。
いつもではない。
耐えられないほどでもない。
でも、家が静かになり、机の上の書類を見つめていると、ときどき胸の奥に奇妙な感覚が広がった。
僕は人生のほとんどを、ケアの環境が慎重に整えられた場所で過ごしてきた。
病院。
子どものころから暮らしてきた家。
医療機器の配置が分かっている場所。
看護師が手順を知っている場所。
一日を無事に過ごすための、小さな条件の一つひとつを理解している場所。
旅行とは、そうした慣れ親しんだ環境の多くから離れることだった。
たとえ、一時的であっても。
そして、僕は行きたいと思っていたけれど――
怖くないふりをすることはできなかった。
◇ ◇ ◇
由紀さんは、訪ねてきたときにそのことに気づいた。
彼女は食べ物と、別の箱から見つけたという写真を何枚か持ってきてくれていた。
旅行の話をしている途中、彼女は突然口を止めた。
「春人?」
「はい?」
「心配してる?」
僕はかすかに微笑んだ。
「何をですか?」
彼女は僕をじっと見た。
くだらない答えではごまかせないと、はっきり分かる視線だった。
僕はため息をついた。
「少し」
彼女は椅子を近づけた。
「聞かせて」
僕はしばらく窓を見ていた。
それから、口を開いた。
「何かあったらどうしようって、思うんです」
由紀さんは黙っていた。
「みんなが慎重に準備してくれていることは分かっています。必要なことだって分かっています。でも……」
僕は少し間を置いた。
「家から遠く離れた場所で、何か起きたら?」
彼女の表情が和らいだ。
◇ ◇ ◇
由紀さんは少し考えてから答えた。
「それは、もっともな不安だと思うわ」
僕は彼女を見た。
「本当に?」
「もちろん」
彼女は優しく微笑んだ。
「たくさんの準備が必要な旅行を考えているんだもの。緊張しないほうが不思議よ」
僕はうなずいた。
「でも、そのせいで諦めたくないんです」
「だったら、諦めなくていいの」
僕は彼女を見た。
由紀さんは続けた。
「勇気があるって、何も怖くないふりをすることじゃないのよ」
僕は黙っていた。
「危険を理解して、備えを整えて、そのうえで自分がどうしたいのか決めることだと思うわ」
僕はその言葉を考えた。
由紀さんは微笑んだ。
「そして、専門家が安全ではないと判断したなら、そのときは考え直せばいい」
僕はうなずいた。
「でも、安全に行けると判断されたなら……」
彼女は少し間を置いた。
「怖いという理由だけで、家に残る必要はないのよ」
胸が締めつけられた。
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
由紀さんは母の写真を見た。
「美咲は、いつもあなたのことを心配していたわ」
僕は小さく笑った。
「知っています」
「でも、いろいろな経験もしてほしいと思っていた」
由紀さんは微笑んだ。
「その二つの気持ちの間で、悩むこともあったのよ」
僕は写真を見た。
「少しずつ、その気持ちが分かってきた気がします」
彼女はうなずいた。
「楽しみでも、怖くてもいいの」
僕は微笑んだ。
「最近は、それが僕の得意分野みたいです」
由紀さんは笑った。
◇ ◇ ◇
二日後、思いがけないメールが届いた。
編集者からだった。
改稿した『森探偵』の原稿を読んでくれていた、あの編集者だ。
僕は通知を見つめた。
それから、夏美さんを見た。
「これは……」
彼女は微笑んだ。
「また大事なメールですか?」
「たぶん」
「開かないんですか?」
僕はためらった。
「いずれは」
彼女は笑った。
「春人さん」
「心の準備をしているんです」
「見つめることで?」
「そのとおりです」
◇ ◇ ◇
ようやく、僕はメールを開いた。
編集者は、改稿に対する感謝を述べていた。
捜査の構成が以前より明確になったこと。
物語の感情的な重みが増したこと。
登場人物の動機を修正したことで、中心となる謎がより強くなったこと。
そして、ある一文を読んだ瞬間、僕は動きを止めた。
『原稿および今後の可能性について、ぜひ一度お打ち合わせの機会を設けられればと考えております。』
僕は見つめた。
そして、もう一度読んだ。
さらに、もう一度。
心臓が速く打ち始めた。
打ち合わせ。
出版契約ではない。
採用の決定でもない。
保証でもない。
でも、打ち合わせだった。
次に何ができるのかを話し合う機会。
僕は微笑んだ。
「夏美さん?」
「はい?」
「どうやら森探偵が、打ち合わせに招待されたみたいです」
彼女は笑った。
「素晴らしいじゃないですか!」
僕はもう一度メールを見た。
「僕より成功している気がします」
「春人さん!」
◇ ◇ ◇
その夜、幸子先生に報告した。
先生は真剣に聞いてくれた。
それから、微笑んだ。
「いい知らせね」
僕はうなずいた。
「はい」
「でも、まだ何も決まったと思わないこと」
「分かっています」
「打ち合わせは機会であって、契約ではないわ」
「分かっています」
先生は微笑んだ。
「よろしい」
僕は彼女を見た。
「説教なしで喜ばせてくれるつもりはないんですね」
先生は笑った。
「もちろん、喜んでいいわよ」
「本当ですか?」
「打ち合わせの準備を終えたらね」
僕はため息をついた。
「やっぱり」
◇ ◇ ◇
僕たちは、編集者が何を話したいのか考えた。
原稿に残る弱点。
想定読者。
推理の構成。
今後の改稿の可能性。
そして、企画が進むことになった場合に必要になる、実務的なこと。
僕はメモを取った。
それから、幸子先生を見た。
「先生は、十分な作品になったと思いますか?」
先生は少し考えた。
「少なくとも、今回の話し合いの機会を得るにふさわしい作品にはなったと思うわ」
僕は黙っていた。
先生は続けた。
「今は、それが大切なのよ」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
一方、悠斗さんは文学交流会の準備を進めていた。
ある午後、彼から電話がかかってきた。
画面に映った笑顔があまりにも大きかったので、僕はすぐに警戒した。
「春人!」
「こんにちは、悠斗さん」
「全部、形になってきたよ!」
僕は眉を上げた。
「それは危険な響きですね」
彼は笑った。
「いや、本当に!」
彼の説明によると、開催日は正式に決まった。
会場も予約された。
主催者はプログラムの最終調整を進めている。
そして、僕が参加できる場合に備えて、招待朗読者としての枠も設けてくれていた。
僕は微笑んだ。
「それはうれしいです」
悠斗さんはうなずいた。
「ぜひ来てほしいんだ」
「僕も行きたいです」
彼はにやりと笑った。
「じゃあ、準備がうまくいくことを願おう」
◇ ◇ ◇
さらに、いい知らせがあった。
拓海君の作品が、短い朗読作品として採用されたのだ。
本人の代わりに、ボランティアが抜粋を朗読してくれることにもなった。
僕は微笑んだ。
「本当ですか?」
悠斗さんはうなずいた。
「もちろん」
「それは素晴らしいですね」
「喜ぶと思ったよ」
僕は笑った。
「すごくうれしいです」
悠斗さんは少し考え込んだ。
「春人、この交流会は特別なものになりそうだよ」
僕は微笑んだ。
「どうしてですか?」
「普通なら出会わなかったかもしれない人たちが、集まるからさ」
彼は少し間を置いた。
「違う背景。違う経験。違う物語の伝え方」
僕は考えた。
そして、うなずいた。
「文学って、そういうものですよね」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はしばらく静かにしていた。
最初、この招待は葵に会いに行くための、ちょうどいい理由のように思えた。
彼女に会える機会。
旅行する理由。
でも今は、それ以上の意味を持ち始めていた。
僕は自分の作品を紹介する。
ほかの作家たちと出会う。
物語を聞く。
そして、自宅の外にある文学の世界に参加する。
これまで何年もの間、僕の執筆生活の多くは、この部屋の中にあった。
この机で。
このパソコンを通して。
それは、悪いことではなかった。
書くことは、僕に自由を与えてくれた。
でも、もしかすると画面の向こうには、別の形の自由も待っているのかもしれない。
僕は微笑んだ。
この旅は、葵に会うためだけのものではないのかもしれない。
自分自身の新しい一面を見つける旅でもあるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
残念ながら、大地さんはまったく違う結論に達していた。
彼は、旅行の候補日が決まったのだから、送別会が必要だと考えたらしい。
盛大なものを。
飾り付け付きで。
スピーチ付きで。
そして、どうやらケーキも必要らしい。
僕がそのことを知ったのは、彼が色とりどりの紙を大量に持って家にやって来たときだった。
「春人!」
僕はすぐに警戒した。
「何をしたんですか?」
彼は不満そうな顔をした。
「どうして、いつも俺が何かしたと思うんだ?」
僕は彼を見つめた。
彼は少し考えた。
「……まあ、そうだな」
◇ ◇ ◇
彼は紙をテーブルいっぱいに広げた。
一枚は、パーティーの招待状の案。
別の一枚は、飾り付けの一覧。
三枚目には、進行予定が書かれていた。
一番上には、巨大な文字でこう書かれていた。
『春人の盛大なる出発記念パーティー』
僕は目を閉じた。
「大地さん」
「何だ?」
「旅行は、まだ確定していないんですよ」
「分かってる!」
「じゃあ、どうして送別会を計画しているんですか?」
「準備には時間がかかるからだ!」
僕はため息をついた。
「妙に筋が通っているのが腹立たしいですね」
彼はにやりと笑った。
「ありがとう!」
「褒めていません」
◇ ◇ ◇
数分後、由紀さんがやって来た。
テーブルの紙を一目見た。
そして、大地さんを見た。
「駄目」
彼は瞬きをした。
「何が?」
「駄目」
「でも――」
「駄目」
彼は大げさにため息をついた。
「誰も俺の創造性を評価してくれない」
僕は微笑んだ。
「僕は評価していますよ」
彼の表情が明るくなった。
「本当か?」
「安全な距離からなら」
由紀さんは吹き出した。
◇ ◇ ◇
そのあと、大地さんがしぶしぶマーチングバンドの案を諦めると、僕たちはリビングで一緒に過ごした。
午後の日差しが部屋を満たしていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、大地さんが僕を見た。
「春人」
「はい?」
「変な感じがするだろうな」
僕は彼を見た。
「何がですか?」
「お前が、どこか遠くにいるって思うことが」
僕はかすかに微笑んだ。
「短い旅行ですよ」
「分かってる」
彼は少し間を置いた。
「でも、俺たちはみんな、お前がここにいることに慣れているからな」
由紀さんもうなずいた。
「そうね」
僕は青い玄関扉を見た。
長い間、家族は僕に必要な支援を確保するために、生活の多くを調整してくれていた。
その愛情は、僕にとって何より大切だった。
でも、大地さんが言おうとしていることも分かった。
何かが変わり始めていた。
僕がもう支援を必要としなくなったからではない。
これからも必要だ。
でも、自分の人生が起こり得る場所が、少しずつ広がり始めていたからだ。
◇ ◇ ◇
「僕は、僕のままですよ」
大地さんは微笑んだ。
「分かってる」
「それに、大地さんが何か変なことをしたら、今までどおり電話します」
彼は笑った。
「じゃあ、毎日電話することになるな」
「たぶん」
由紀さんも微笑んだ。
僕は続けた。
「どこかへ行くことと、みんなを置いていくことは違いますから」
大地さんはうなずいた。
「それも分かってる」
彼は窓を見た。
「俺たちも、その考えに慣れようとしているんだろうな」
僕は微笑んだ。
「僕もです」
◇ ◇ ◇
その夜、葵と僕はいつもより長くビデオ通話をした。
彼女は忙しい勤務を終えたばかりだった。
僕も、一日の大半を旅行書類の確認と、編集者との打ち合わせの準備に使っていた。
二人とも疲れていた。
それでも、どちらも通話を終わらせたくなかった。
葵は肩に毛布をかけ、ベッドに座っていた。
「春人?」
「うん?」
「約束してもいい?」
僕は微笑んだ。
「また?」
彼女は笑った。
「うん」
「どんな約束?」
彼女は少し考えた。
「旅行を、完璧なものにしようとしないって」
僕は彼女を見た。
葵は続けた。
「いろんなことを想像してきたの。カフェとか、本屋とか、文学交流会とか。春人が到着するところとか」
彼女は少し間を置いた。
「でも、疲れるかもしれないし、予定が変わるかもしれない。全部できるとは限らないよね」
僕はうなずいた。
「そうだね」
「だから……」
彼女は優しく微笑んだ。
「想像どおりにならなくても、お互いにがっかりしないって約束できる?」
◇ ◇ ◇
僕は少し考えた。
それから、微笑んだ。
「うん」
葵の表情が和らいだ。
「本当に?」
「もちろん」
少し間を置いた。
「ただし、本屋に一軒も行かせてくれなかった場合は、がっかりする権利を留保したい」
彼女は笑った。
「春人!」
「これは真剣な話だよ。恋人同士にとって、根本的な問題だからね」
彼女は首を振った。
「本当にもう」
「よく言われるよ」
それから、僕は真剣になった。
「葵」
彼女は僕を見た。
「休む必要があったら、ちゃんと伝えるよ」
彼女はうなずいた。
「うん」
「看護の予定が変わったら、僕たちの予定も調整する」
「そうだね」
「どこかに行けなくなったら、別のことをすればいい」
葵は微笑んだ。
「ただ一緒に座っているだけでも?」
僕も微笑んだ。
「むしろ、それがいい」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは黙っていた。
それから、葵が窓を見た。
「私が一番楽しみにしていること、分かる?」
僕は微笑んだ。
「何?」
「ボタンを押して、さよならしなくていいこと」
胸が締めつけられた。
その意味は、よく分かった。
僕たちのビデオ通話は、いつも同じように終わる。
最後の笑顔。
最後の「おやすみ」。
そして――
画面が暗くなる。
僕たちは、それぞれの部屋に戻る。
別々の街。
別々の日常。
でも、旅行が実現すれば、ほんの少しの間でも、別れはボタン一つではなくなる。
ただ、一緒にいられる。
僕は優しく微笑んだ。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
翌週、交通手段について、また連絡があった。
代替車両の評価が終わったのだ。
事業者は、車内の使用可能な寸法を確認した。
車椅子の固定方法。
医療機器の配置。
そして、看護師がケアを行うために必要なスペース。
今回は――
技術的な評価の結果が良好だった。
僕は報告書を見つめた。
それから、恵美さんを見た。
「ということは……」
彼女は微笑んだ。
「代替車両の配置が、今回の計画に関する事業者の技術評価を通過したということです」
胸が高鳴った。
「本当ですか?」
「はい」
僕は微笑んだ。
「よかった……」
「ただし、残りの承認はまだ必要です」
僕はうなずいた。
「もちろんです」
恵美さんは続けた。
「看護体制の調整も進んでいます。人員配置の案はありますが、正式な確定が必要です」
僕は真剣に聞いていた。
「医療的な評価は?」
「それが次の大きな段階です」
僕はうなずいた。
また一歩。
そして、もう一歩。
さらに、もう一歩。
でも今度は、道が少しはっきり見えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
その後の数日間で、計画はさらに具体的になっていった。
医療チームは、提案された旅行計画、僕の現在の状態、機器の準備、そして移動中の緊急時対応について確認した。
看護事業者は、必要な人員配置を調整した。
交通事業者は、車両の技術的な条件を最終確認した。
文学交流会の主催者からも、会場についての残りの情報が届いた。
そして、恵美さんはすべての調整を続けてくれた。
難しい話し合いも、まだあった。
時間についての問題。
機器についての問題。
途中で旅行を中断しなければならなくなった場合の対応。
何一つ、軽く扱われることはなかった。
誰も、熱意だけで準備の代わりになるとは考えていなかった。
僕は、そのことをありがたく思った。
この旅行を実現させたかったからだ。
でも、安全に実現させたかった。
◇ ◇ ◇
そして、ある午後――
恵美さんから電話があった。
僕は編集者との打ち合わせに向けたメモを整理していた。
すると、夏美さんが着信を知らせてくれた。
僕は画面を見た。
「こんにちは」
恵美さんは微笑んだ。
「こんにちは、春人さん」
「こんにちは」
彼女の前には、ファイルが開かれていた。
なぜか、それだけで緊張した。
「少しお時間はありますか?」
僕は小さく笑った。
「何だか、不吉な聞き方ですね」
彼女は微笑んだ。
「きっと、聞いていただきたいお話です」
心臓が速く打ち始めた。
◇ ◇ ◇
恵美さんは、必要な医療的評価が完了したことを説明した。
提案された旅行計画は、文書化された手順に従うことを条件に、関係する医療・看護の専門職によって承認された。
必要な時間帯の有資格看護師による対応も、確定した。
交通事業者は、代替車両の配置を承認し、利用可能であることを確認した。
必要な医療機器と予備の準備も確認された。
会場のバリアフリーに関する詳細も確認できた。
そして、不測の事態への対応を含めた旅程が、最終的に整った。
僕は聞いていた。
真剣に。
途中で口を挟むのが怖いくらいだった。
それから、恵美さんが微笑んだ。
「春人さん」
「はい?」
「旅行の承認が下りました」
一瞬――
何を言おうとしていたのか、分からなくなった。
僕は彼女を見つめた。
「……本当ですか?」
彼女はうなずいた。
「本当です」
僕は夏美さんを見た。
彼女は微笑んでいた。
恵美さんは続けた。
「交通手段も看護体制も確定しています。最終的な旅程に沿って、準備を進められます」
僕は息を飲んだ。
「つまり……」
音声によって伝えられた自分の声が、妙に静かに聞こえた。
「僕は、行けるんですか?」
恵美さんは微笑んだ。
「行けますよ」
◇ ◇ ◇
数秒間、僕は何も言わなかった。
信じられなかった。
あれだけの打ち合わせ。
あれだけのメール。
あれだけの測定。
あれだけの質問。
そして、複雑な条件の重みに押しつぶされて、計画が途中で終わってしまうのではないかと思った、数えきれない瞬間。
それが、ついに実現しようとしていた。
僕は葵に会いに行く。
文学交流会に参加する。
慣れ親しんだ故郷の道を離れ、知らない場所へ旅をする。
誰かに行く必要があると決められたからではない。
僕自身が、行きたいからだ。
僕は微笑んだ。
それから、笑った。
小さな、信じられないというような笑いだった。
「これは……」
夏美さんは微笑んだ。
「これは?」
僕は彼女を見た。
「荷造りを始めないといけませんね」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
当然ながら、最初に知らせたかったのは葵だった。
彼女が連絡できる時間になると、すぐに電話した。
葵は笑顔で出てくれた。
「春人!」
「やあ」
彼女は首をかしげた。
「どうして、そんな顔してるの?」
僕は微笑んだ。
「どんな顔?」
「何か隠してるみたいな顔」
僕は少し考えた。
「興味深いね」
彼女は目を細めた。
「春人」
「はい?」
「何があったの?」
僕は彼女を見た。
しばらく、ただ見つめていた。
僕の人生で、とても大切な存在になった女の子。
不確かな日々を、一緒に待ってくれた女の子。
保証がなくても、希望を持ち続けることを学んでくれた女の子。
そして、僕は微笑んだ。
「葵」
彼女は静かになった。
「うん?」
「会いに行くよ」
◇ ◇ ◇
数秒間、彼女は動かなかった。
それから、目が大きく開いた。
「……え?」
僕は微笑んだ。
「旅行のこと」
彼女は僕を見つめた。
「承認されたんだ」
彼女の口が開いた。
そして、閉じた。
また開いた。
「春人……」
僕はうなずいた。
「看護体制も確定した。交通手段も手配できた。必要な確認も全部終わったよ」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「本当に来るの?」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女は口元を覆った。
それから、笑った。
そして、泣いた。
同時に。
なかなか器用なことだと思った。
僕は優しく微笑んだ。
「葵」
彼女は首を振った。
「ごめん……」
「謝らなくていいよ」
彼女は涙を浮かべたまま笑った。
「だって……」
そこで言葉が途切れた。
そして、微笑んだ。
「ずっと、その言葉を待ってたんだよ」
胸が締めつけられた。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
そのあと、僕たちはしばらく旅程について話した。
到着時の予定。
文学交流会。
行けるかもしれないカフェ。
そして、一緒に過ごせる時間。
葵は興奮していた。
ものすごく。
少し危険なくらいに。
途中で、彼女は僕に見せたい場所を次々と挙げ始めた。
僕は口を挟んだ。
「葵」
「何?」
「そのリスト、今いくつあるの?」
彼女はためらった。
「……十三」
僕は見つめた。
「十三?」
彼女は笑った。
「一つ増えたの!」
僕は大げさにため息をついた。
「現実的に考えようって約束したよね」
「分かってる!」
「カフェ一軒、行けたら本屋一軒。それが、いつの間にか県内一周旅行になってるんだけど」
彼女は吹き出した。
「分かった、分かった!」
◇ ◇ ◇
やがて、葵は静かになった。
「春人?」
「うん?」
「ありがとう」
僕は彼女を見た。
「何が?」
「ここまで頑張ってくれたこと」
僕は少し考えた。
「葵」
彼女は待っていた。
「僕が行きたいから、やっているんだよ」
彼女の目が優しくなった。
「分かってる」
「それに、君が大切だから」
彼女は微笑んだ。
「春人も、私にとって大切だよ」
僕は少し間を置いた。
「それに、文学交流会もあるしね」
彼女は笑った。
「そうだね」
「調査しなきゃいけない本屋もあるし」
「春人!」
◇ ◇ ◇
出発までの最後の数日間は、興奮と準備が入り混じった、不思議な時間だった。
看護チームは、最終的な計画を見直した。
医療機器と必要な物品は、文書化された条件に沿って確認された。
交通手段の予約も再確認された。
連絡先が整理された。
予定が見直された。
そして、不測の事態への対応について、最後の確認が行われた。
僕は、参加できる意思決定にはすべて参加した。
質問した。
情報を確認した。
何が起こるのか、自分で理解するようにした。
劇的な奇跡など、なかった。
僕の障害に伴う複雑な事情が、突然消えたわけでもない。
ただ、慎重な準備があった。
専門的な知識を持つ人たちがいた。
僕の話を聞いてくれる人たちがいた。
そして、ようやく一つになった計画があった。
◇ ◇ ◇
当然ながら、大地さんは再び送別会を開こうとした。
今度は、旅行が正式に決まったのだから、パーティーは法律上の義務だと主張した。
僕は、どの法律に基づくのか尋ねた。
彼は答えた。
「大地おじさん法だ!」
僕は法廷で争うつもりだと伝えた。
すると、裁判官も自分だと言い出した。
僕は、それは憲法上問題があるのではないかと指摘した。
彼は、ケーキと引き換えなら示談に応じると言った。
最終的に、由紀さんが介入した。
その結果、小さな家族の夕食会が開かれることになった。
マーチングバンドはなし。
花火もなし。
パレードもなし。
ただ、食事と笑い声と、長い間僕を支えてくれた人たち。
結局、それこそが僕の望んでいたものだった。
◇ ◇ ◇
夕食の途中、由紀さんが僕を見た。
「楽しみ?」
僕は微笑んだ。
「すごく」
「緊張もしてる?」
「それも、すごく」
彼女は小さく笑った。
大地さんがグラスを掲げた。
「春人に乾杯!」
僕は疑わしげに彼を見た。
彼は続けた。
「旅が安全でありますように! 文学交流会が成功しますように! そして、森探偵の話を始めたとき、恋人が寛大でありますように!」
みんなが笑った。
僕はため息をついた。
「最後の一つは、余計でしたね」
大地さんはにやりと笑った。
「絶対に必要だ」
◇ ◇ ◇
夕食のあと、由紀さんが母の未完成の手紙を持ってきてくれた。
透明な保護ケースに入れてあった。
「大切にしまっておけるようにと思って」
僕は手紙を見た。
見慣れた筆跡。
未完成の一文。
母が僕のために抱いていた希望。
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
由紀さんはうなずいた。
「きっと、喜んでいるわ」
胸が締めつけられた。
「そうだといいです」
由紀さんは僕を見た。
「春人」
「はい?」
「きっと、喜んでいるわよ」
◇ ◇ ◇
出発前夜は、静かに訪れた。
劇的な発表はなかった。
突然の緊急事態もなかった。
最後の瞬間に明かされる秘密もなかった。
ただ、聞き慣れた医療機器の静かな作動音。
パソコンの画面の光。
そして、明日、この家を出るのだという不思議な実感。
荷物は、最終計画に沿って準備されていた。
必要な医療物品も整理されていた。
交通事業者からは、迎えの予定が確認されていた。
看護師の勤務も決まっていた。
すべて、準備できていた。
合理的に考えられる限り、できる準備は整っていた。
僕は荷物を見た。
それから、青い玄関扉を見た。
長い間、ただそこにいた。
◇ ◇ ◇
夏美さんが、夜の確認を終えた。
「問題ありませんよ」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
彼女は荷物を見た。
「明日は大きな一日ですね」
僕はうなずいた。
「そうですね」
彼女は微笑んだ。
「今、どんな気持ちですか?」
僕は考えた。
楽しみだった。
緊張していた。
希望があった。
少し怖かった。
そして、不思議なくらい穏やかだった。
「何かの始まりに立っているような気分です」
夏美さんは優しく微笑んだ。
「きっと、そうなんでしょうね」
◇ ◇ ◇
しばらく執筆できるようにしてもらったあと、僕は新しい文書を開いた。
真っ白なページを見つめた。
そして、文字を入力し始めた。
『明日、僕は別の街へ旅をする。』
少し手を止めた。
なんて簡単な文章なのだろう。
ほとんど馬鹿げているほどだった。
何千人もの人が、毎日そんなことをしている。
仕事のために。
学校のために。
休暇のために。
あるいは、深く考えることもないような理由で。
でも、僕にとっては――
その言葉には、何年もの不確かさが詰まっていた。
何年もの慎重な準備。
そして、慣れ親しんだ場所の向こうにある世界を、自分ももっと自由に経験できる日が来るのだろうかと考え続けた年月。
僕は続きを書いた。
『明日がどんな一日になるのか、正確には分からない。』
『車が到着したときに緊張するのか、道のりが想像以上に長く感じられるのかも分からない。』
『葵が僕を見たとき、泣くかどうかも分からない。』
『もっとも、かなり高い確率で泣くとは思っている。』
僕は微笑んだ。
そして、もう一行書いた。
『でも、僕がそこへ行きたいということだけは、分かっている。』
◇ ◇ ◇
僕は文書を保存した。
それから、母のノートを開いた。
未完成の手紙が、そばに置かれていた。
最後の一文を、もう一度読んだ。
『そして、いつか、この小さな青い扉の向こうの世界を見てみたいと思わせてくれる人に出会ったなら、どうかあなたには……』
僕は母の写真を見た。
一瞬、母が隣に座っているところを想像した。
微笑んでいる。
心配している。
必要な物品は十分に持ったかと尋ねている。
大切なものを忘れないようにと言っている。
そして、おそらく大地さんに、馬鹿なことはやめなさいと注意している。
僕は小さく笑った。
「母さん」
部屋は静かだった。
「僕、行ってくるよ」
◇ ◇ ◇
スマートフォンに新しいメッセージが表示された。
葵からだった。
『まだ起きてる?』
僕は微笑んだ。
『うん。』
返事は、ほとんどすぐに届いた。
『私も。』
僕は笑った。
『眠れない?』
『あんまり。』
それから、もう一通。
『緊張してる。』
僕は微笑んだ。
『僕も。』
数秒が過ぎた。
そして、彼女から短い言葉が届いた。
『明日だね。』
僕はその言葉を見つめた。
明日。
いつか、ではない。
そのうち、でもない。
もしかしたら、でもない。
明日。
僕は返事を入力した。
『明日だね。』
◇ ◇ ◇
少しして、葵から電話がかかってきた。
画面に彼女の顔が映った。
部屋で、楽な服を着て座っていた。
髪は少し乱れていた。
疲れているように見えた。
幸せそうでもあった。
緊張しているようでもあった。
そして、きれいだった。
「こんばんは」
彼女が小さな声で言った。
僕は微笑んだ。
「こんばんは」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから、葵が笑った。
「何だか、不思議だね」
僕はうなずいた。
「うん」
「明日、本当に春人がここに来るんだね」
僕は微笑んだ。
「その予定だよ」
彼女は視線を落とした。
それから、また僕を見た。
「春人?」
「うん?」
「一つ言ってもいい?」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「会ったとき、何て言えばいいか分からなくなりそう」
僕は小さく笑った。
「それでいいよ」
「本当に?」
「うん」
少し間を置いた。
「ただ、『こんにちは』って言ってくれればいい」
彼女は笑った。
「その話、一生忘れさせてくれないんでしょ?」
「もちろん」
◇ ◇ ◇
僕たちは、もう少しだけ通話を続けた。
特に大切な話をしていたわけではない。
ただ、お互いの声を聞いていたかった。
やがて、葵が時計を見た。
「もう休まなきゃ」
僕は微笑んだ。
「君もね」
彼女は笑った。
「分かってる」
少しの間、彼女はためらった。
それから、静かに言った。
「春人?」
「うん?」
「気をつけて来てね」
胸が温かくなった。
「うん」
彼女は微笑んだ。
「待ってるから」
僕は彼女を見た。
画面の向こうにいる女の子。
明日には、もうそれほど遠くにはいなくなる女の子。
僕は優しく微笑んだ。
「分かってるよ」
◇ ◇ ◇
通話が終わると、部屋は再び静かになった。
僕は青い玄関扉を見た。
明日、その扉が開く。
別の診察のためではない。
緊急事態のためでもない。
何か問題が起きたからでもない。
僕自身が、行きたい場所へ行くためだ。
物語を愛する人たちに会うために。
想像することしかできなかった場所を、自分の目で見るために。
そして、僕が未来について考える方法を変えてくれた女の子に会うために。
僕は最後にもう一度、荷物を見た。
準備は整っていた。
道が待っていた。
そして、長い間で初めて――
明日が、ただ待ち続けるものには感じられなかった。
ようやく、自分から手を伸ばして届くもののように感じられた。
僕は微笑んだ。
「また明日ね、葵」
外では、夜が慣れ親しんだ街並みを静かに包み込んでいた。
そして、暗闇の向こうのどこかで――
葵の街へと続く道が、朝を待っていた。




