第83話 ようやく縮まり始めた距離と、明日の向こうで待っている僕たちの約束
世の中には、実際よりもずっと刺激的に聞こえるものがある。
例えば――
交通事業者との打ち合わせ。
多くの人にとって、それは誰かが書類棚を整理しているところを眺めるのと同じくらい、退屈なものだろう。
でも、僕にとっては?
ほとんど冒険の始まりだった。
なぜなら、車椅子の固定装置や医療機器、交通安全に関する複雑な条件の向こうに、一つの可能性が見え始めていたからだ。
僕が、ようやく葵に会いに行けるかもしれないという可能性。
パソコンの画面越しではなく。
深夜のビデオ通話でもなく。
実際に。
同じ街で。
同じ空の下で。
そして、すべてがうまくいけば、小さなカフェで彼女と向かい合いながら、僕が何軒の本屋を回りたいと言い出すかについて、呆れられることになるのかもしれない。
もちろん、僕はあまり期待しすぎないようにしていた。
残念ながら――
その努力は、見事に失敗していた。
◇ ◇ ◇
「春人さん?」
夏美さんがこちらを見た。
「はい?」
「もう十分くらい、そのメールを見つめていますよ」
僕は微笑んだ。
「そうですか?」
「はい」
「興味深いですね」
彼女は笑った。
「緊張しているんですか?」
僕は少し考えた。
「特には」
彼女は眉を上げた。
「本当に?」
「まあ、少しは」
「どのくらいですか?」
僕は画面に目を戻した。
「頭の中で、旅行の全行程を十七回ほど計画したくらいです」
夏美さんは吹き出した。
「それ、かなり緊張していますよね」
「僕としては、慎重さを伴う熱意と呼びたいところです」
「そうでしょうね」
◇ ◇ ◇
交通事業者との事前相談は、その日の午前中に行われた。
恵美さんも通話に参加した。
僕の普段の看護師の一人も同席していた。
事業者の担当者は、藤田さんという男性だった。
眼鏡をかけた中年の男性で、落ち着いた話し方をする人だった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
彼は丁寧に頭を下げた。
恵美さんがうなずいた。
「こちらこそ、条件の確認にご協力いただきありがとうございます」
藤田さんは微笑んだ。
「もちろんです。弊社では移動に複雑な支援を必要とするお客様の送迎も行っていますが、個別の状況に応じた評価が必要になります」
僕は真剣に聞いていた。
彼は、特殊な福祉車両の写真を画面に表示した。
広い車内。
車椅子用のリフト。
乗車したままの車椅子を固定するための装置。
そして、医療機器などを置けそうな追加スペース。
しかし、写真だけでは僕に適しているかどうかは分からない。
藤田さんは、車両の寸法と固定装置が僕の電動車椅子に対応しているか、確認する必要があると説明した。
医療機器についても、安全に固定できる場所が必要になる。
さらに、移動中も人工呼吸器や必要な物品に安全にアクセスできるよう、配置を検討しなければならない。
僕はうなずいた。
「なるほど」
彼は微笑んだ。
「対応できる可能性のある車両はあります。ただ、詳しい評価が終わるまでは、お約束できません」
僕は、その慎重な姿勢をありがたく感じた。
本当に。
◇ ◇ ◇
恵美さんはいくつか質問した。
車両は、僕の電動車椅子の寸法に対応できるのか。
固定装置は、車椅子の指定された固定位置と適合するのか。
必要な看護を行える位置に、資格を持つ看護師が座れるだけの空間はあるのか。
車両の電源設備はどうなっているのか。
予備電源は、どのように確保するのか。
そして、万が一車両が故障した場合、どのような対応を取るのか。
藤田さんは、答えられる質問には丁寧に答えた。
確認が必要な点については、技術担当者に相談すると約束してくれた。
最後に、彼は僕を見た。
「高橋さんからも、何かご質問はありますか?」
僕は微笑んだ。
「あります」
「どうぞ」
「座席の乗り心地はどうでしょうか?」
一瞬、沈黙が流れた。
それから、藤田さんは笑った。
「そうですね。お客様によって感じ方は違うかもしれません」
僕はにやりと笑った。
「何時間も移動することになるので、中世の拷問器具に乗せられたような状態で到着するのは避けたいんです」
夏美さんが口元を押さえた。
恵美さんは笑った。
藤田さんも微笑んだ。
「快適性についても、しっかり確認しましょう」
「それは助かります」
◇ ◇ ◇
打ち合わせが終わったあとも、恵美さんは通話に残っていた。
「どうでしたか?」
僕は少し考えた。
「希望が持てました」
彼女は微笑んだ。
「よかったです」
「でも、まだ確認することがたくさんあるのも分かっています」
「そのとおりです」
僕はうなずいた。
「車両は使えるかもしれない」
「はい」
「でも、看護体制はまだ確定していない」
「そうですね」
「医療的な評価も終わっていない」
「はい」
僕はため息をついた。
「つまり、前進はしているけれど、まだ予約できる段階ではないということですね」
恵美さんは微笑んだ。
「その理解で合っています」
僕はもう一度、車両の写真を見た。
車両。
実際に存在する車両。
ただの想像ではない。
初めて、自分の電動車椅子がその中に固定される光景を思い浮かべることができた。
扉が閉まる。
エンジンがかかる。
そして、道が前へと続いていく。
僕は微笑んだ。
「それでも」
恵美さんがこちらを見た。
「はい?」
「いい始まりですね」
◇ ◇ ◇
一方、葵は葵で、別の問題に直面していた。
どうやら――
挨拶の仕方を忘れてしまったらしい。
これは、なかなか驚くべきことだった。
なにしろ、彼女はこれまでの人生で、数えきれないほど人と会話してきたはずなのだから。
しかも、看護師として働いている。
人に挨拶することは、仕事のうえでも重要なはずだ。
それなのに、僕と再会できるかもしれないというだけで、そんな基本的なことさえ分からなくなってしまったらしい。
あとでその話を聞いた僕は、当然ながら大笑いした。
◇ ◇ ◇
葵によると、事の始まりは病院の休憩室だった。
中村理沙さんがお茶を飲んでいると、葵が突然話しかけた。
「理沙さん?」
「何?」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「もちろん」
葵はためらった。
「春人に会ったら、何て言えばいいと思いますか?」
理沙さんは瞬きをした。
「……こんにちは?」
葵は眉をひそめた。
「そうじゃなくて……」
彼女は視線を落とした。
「実際に会ったとき、最初に何て言えばいいのかなって」
理沙さんは葵を見つめた。
それから、微笑んだ。
「葵」
「はい?」
「あなた、今、恋人への挨拶の仕方を私に聞いているの?」
葵は顔を覆った。
「そんな言い方しないでください!」
理沙さんは吹き出した。
◇ ◇ ◇
葵はいくつか候補を考えた。
「春人! 会えてうれしい!」
彼女は首を振った。
「何だか堅いな……」
「春人! やっと来られたんだね!」
彼女は眉をひそめた。
「これじゃ、刑務所から脱出してきた人を迎えているみたい」
理沙さんは危うくお茶をこぼしかけた。
葵はもう一度試した。
「私の街へようこそ!」
少し間を置いた。
「……観光案内みたい」
理沙さんは笑いすぎて、カップを置かなければならなかった。
とうとう、葵はため息をついた。
「どうしたらいいんでしょう?」
理沙さんは微笑んだ。
「春人君の顔を見て、自然に出てきた言葉を言えばいいのよ」
葵は彼女を見つめた。
「それ、ひどいアドバイスです」
「最高のアドバイスよ」
「もし泣いちゃったら?」
「そのときは泣けばいいわ」
「何も言えなかったら?」
「そのときは、何も言わなくていいの」
葵は視線を落とした。
理沙さんの表情が和らいだ。
「葵、完璧な再会を演出する必要なんてないのよ」
少し間を置いた。
「ただ、そこにいればいいの」
◇ ◇ ◇
その夜、葵は僕にその話をした。
僕は彼女を見つめた。
「……挨拶の練習をしたの?」
彼女は顔を覆った。
「笑わないで!」
僕は即座に笑い始めた。
「春人!」
「ごめん!」
もちろん、まったく反省していなかった。
彼女はうめいた。
「やっぱり話さなきゃよかった……」
僕は微笑んだ。
「ちなみに、僕は普通に『こんにちは』で十分うれしいよ」
彼女は僕を見た。
「本当に?」
「もちろん」
少し間を置いた。
「ただし、『ようこそ、尊き旅人よ。ここは偉大なる葵王国です』でも構わないけど」
彼女は吹き出した。
「絶対に言わない!」
僕はにやりと笑った。
「残念だな」
◇ ◇ ◇
しかし、笑いが収まると、葵は静かになった。
「春人?」
「うん?」
「もし、想像していたのと違ったらどうしよう」
僕は彼女を見た。
「どういうこと?」
彼女はためらった。
「何度も再会するところを想像しているから、実際に会ったとき、変な感じがしたらどうしようって」
僕は少し考えた。
「そうだね……」
彼女は待っていた。
「たぶん、少し変な感じはすると思うよ」
葵の表情が変わった。
僕は優しく微笑んだ。
「僕たちは長い間、画面越しに話してきたからね。同じ場所にいることに、少し慣れる時間が必要かもしれない」
彼女はゆっくりうなずいた。
「でも、それが悪いことだとは限らないよ」
葵は僕を見た。
僕は続けた。
「完璧な再会なんて、必要ないんだ」
そして、微笑んだ。
「本当の再会ができれば、それでいい」
彼女の目が優しくなった。
「……うん」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、由紀さんが書類の整理を手伝いに来てくれた。
旅行の準備に関係する書類もあった。
現在の看護体制に関する資料もあった。
そして、何年も引き出しにしまわれたままだった、古い家族の書類もいくつかあった。
残念ながら、大地さんは書類整理について、独自の哲学を持っていた。
つまり――
書類があるなら、ファイルに入れるべきだ。
ファイルがあるなら、ラベルを貼るべきだ。
そして、ラベルを貼るなら、不必要なほど大きな文字で書くべきだ。
その結果、僕たちの前には、こんな名前のファイルがあった。
『極めて重要な重要書類』
僕は見つめた。
「……意味が重複していませんか?」
由紀さんはため息をついた。
「聞かないで」
◇ ◇ ◇
古い箱を整理していると、由紀さんが見覚えのあるノートを見つけた。
母のノートだった。
美咲は、何年もそのノートを使っていた。
実用的な覚え書きを書くこともあった。
僕が言ったことを記録することもあった。
そして時には、誰にも読ませるつもりのなかった思いを綴ることもあった。
由紀さんが慎重にノートを開いた。
すると、一枚の紙が滑り落ちた。
彼女は床に落ちる前に受け止めた。
「これは……?」
僕は彼女を見た。
「また何か挟まっていましたか?」
由紀さんはうなずいた。
紙は少し黄ばんでいた。
両面に文字が書かれていた。
由紀さんは最初の一行を読んだ。
そして、動きを止めた。
表情が変わった。
「春人……」
僕は彼女を見た。
「どうしました?」
「これ、お母さんがあなたに書いたものみたい」
◇ ◇ ◇
由紀さんは、僕にも見える位置に紙を置いてくれた。
その筆跡は、間違いなく母のものだった。
一番上には、こう書かれていた。
『春人へ。家の壁の向こうにある世界が、今よりも大きく感じられるようになったときに。』
胸が締めつけられた。
由紀さんは待ってくれた。
そして、僕がお願いすると、読み始めた。
『大切な春人へ。』
『時々、あなたが大人になったとき、どんな人生を送っているのだろうと考えます。』
『どんな本を好きになって、どんな人たちと出会って、どんな夢を持つのだろう。』
『世界が、いつもあなたに優しいとは限らないことを、私は知っています。』
『狭すぎる扉もあるでしょう。あなたを迎える準備ができていない場所もあるでしょう。そして、助けが必要なことと、自分で決断できないことを混同する人にも出会うかもしれません。』
『でも、そんなことがあっても、この世界は自分以外の人たちだけのものだなんて、思わないでほしいのです。』
由紀さんの声が震えた。
僕は黙っていた。
彼女は続きを読んだ。
『いつか、あなたに旅をしてほしいと思っています。』
『遠くなくてもいいのです。隣の街でもいい。ずっと見てみたかった場所でもいい。』
『あなたを、ただ介助が必要な人としてではなく、春人という一人の人間として知ってくれる友達ができてほしい。』
『あなたが話すときには耳を傾け、あなたがくだらない冗談を言ったときには笑ってくれる人たちと出会ってほしいのです。』
僕は胸が締めつけられるのを感じながら、微笑んだ。
「……くだらない冗談」
由紀さんは小さく笑った。
「お母さん、あなたのことをよく分かっていたのね」
◇ ◇ ◇
手紙は続いていた。
『そして、いつか行ったことのない場所を見つめるとき、そこへ行けない理由ばかりを考えないでほしいのです。』
『どうすれば行けるのだろうと、考えてみてほしい。』
『私は、あなたの人生が、ただ待つことだけで満たされてほしくないのです。』
最後の一文は、紙の途中で途切れていた。
『そして、いつか、この小さな青い扉の向こうの世界を見てみたいと思わせてくれる人に出会ったなら、どうかあなたには……』
そこまでだった。
文章は、未完成だった。
続きはなかった。
説明もなかった。
母が最後まで書き終えることのなかった、一つの思いだけが残されていた。
長い間、由紀さんも僕も何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
やがて、僕は机の上の写真を見た。
母が笑っていた。
僕は言葉を飲み込んだ。
「母さん、僕に旅をしてほしかったんですね」
由紀さんはうなずいた。
「そうね」
僕はかすかに微笑んだ。
「いつも、いろいろ心配していたのに」
「心配していたからこそ、でしょうね」
僕は考えた。
何年もの間、母の愛情は思い出の中にあった。
写真。
家族が語ってくれる話。
そして、母が残してくれた小さなものたち。
でも今――
ここに、もう一つ母の思いがあった。
母が僕のために想像していた未来を、少しだけ知ることができた。
障害がなくなる未来ではない。
介助が必要なくなる未来でもない。
ただ、それらが人生のすべてを奪ってしまうわけではない未来。
僕は未完成の文章を見た。
そして、微笑んだ。
「母さん、葵のことを気に入ったと思います」
由紀さんの目に涙が浮かんだ。
「春人……」
僕は小さく笑った。
「でも、大地さんが勝手に結婚式の計画を立てていることには、きっと心配したでしょうね」
由紀さんは吹き出した。
「絶対にそうね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵に手紙のことを話した。
彼女は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
未完成の最後の一文を伝えると、目に涙が浮かんだ。
「春人……」
僕は優しく微笑んだ。
「うん」
「お母さん、本当に素敵な人だったんだね」
「そうだよ」
葵は涙を拭った。
「私も会ってみたかった」
胸が締めつけられた。
「僕も、会わせたかったよ」
しばらく、僕たちは黙っていた。
それから、葵が微笑んだ。
「きっと、春人のことを誇りに思っているよ」
僕は視線を落とした。
「そうかな」
「旅行を計画しているからだけじゃないよ」
彼女は続けた。
「自分の望む人生を生きる方法を、今も見つけ続けているから」
僕は微笑んだ。
「……ありがとう」
◇ ◇ ◇
翌朝、葵のもとに一通のメールが届いた。
僕と違って、彼女はすぐに開いた。
そのほうが、きっと精神的には健康的なのだろう。
残念ながら、その結果、彼女は危うくスマートフォンを落としかけた。
なぜなら、メールはこんな言葉で始まっていたからだ。
『このたび、選考の結果……』
葵は画面を見つめた。
そして、もう一度読んだ。
さらに、もう一度。
彼女は、病院から在宅ケアへの移行支援に関する専門研修プログラムに合格していた。
◇ ◇ ◇
葵は、連絡できるようになるとすぐに電話をかけてきた。
「春人!」
僕は微笑んだ。
「やあ」
「受かった!」
僕は瞬きをした。
「研修プログラムに?」
「そう!」
僕は笑った。
「葵、すごいじゃないか!」
彼女は輝くような笑顔だった。
「信じられない!」
「僕は信じられるよ」
彼女は微笑んだ。
「本当に?」
「もちろん」
少し間を置いた。
「君は才能があるし、努力家だし、時々ものすごく怖いからね」
彼女は吹き出した。
「時々?」
「かなり頻繁に」
「春人!」
僕はにやりと笑った。
「おめでとう」
◇ ◇ ◇
最初の興奮が落ち着くと、葵は条件について説明してくれた。
研修には、追加の講義がある。
実技評価もある。
指導を受けながらの実務もある。
そして、一定期間、現在の病院で勤務を続ける必要がある。
忙しくなるだろう。
自由な時間も減る。
将来の引っ越しに関する計画にも、影響するかもしれない。
葵は少し考え込んだ。
「まだ正式には受諾していないんだ」
僕はうなずいた。
「そうなんだね」
「受けたいと思ってる」
「だったら、受けたほうがいいよ」
彼女はためらった。
「でも……」
僕は微笑んだ。
「葵」
彼女は僕を見た。
「君は、このために頑張ってきたんだよ」
「うん」
「それに、本当にやりたいことなんでしょう?」
彼女はうなずいた。
「そう」
「だったら、僕たちが付き合っているからって、それを問題みたいに考えないでほしい」
彼女の目が優しくなった。
「でも、私たちの将来は?」
僕は少し考えた。
「僕たちの未来には、二人分の人生が入る余地が必要だと思う」
彼女は黙っていた。
僕は続けた。
「君の仕事は大切だよ。僕の執筆も大切。僕の看護体制も大切。そして、僕たちの関係も大切なんだ」
僕は微笑んだ。
「それらを、どうやって一緒に成り立たせていくか考えなきゃいけないんだと思う」
葵はしばらく僕を見つめた。
それから、微笑んだ。
「……そうだね」
◇ ◇ ◇
その日のあと、葵は研修の参加を正式に受諾した。
理沙さんに報告すると、彼女は誇らしそうに微笑んだ。
「できると思っていたわ」
葵は笑った。
「ありがとうございます」
「うれしい?」
「すごく」
「よかった」
理沙さんは少し間を置いた。
「春人君は?」
葵は微笑んだ。
「受けたほうがいいって言ってくれました」
理沙さんはうなずいた。
「彼らしいわね」
葵は視線を落とした。
「私たち、お互いを支えることと、相手の人生を自分の思いどおりにしようとすることの違いを、少しずつ学んでいる気がします」
理沙さんは微笑んだ。
「それは大切なことね」
◇ ◇ ◇
一方、青い扉の家は、ますます複雑な問題を抱え始めていた。
健二さんが、追加情報を集める手配をしてくれていた。
玄関は期待できそうだった。
主寝室も、詳しい評価を行う価値がありそうな広さだった。
しかし、浴室には問題が残っていた。
電気設備についても、まだ答えが出ていなかった。
恵美さんが情報を一緒に確認してくれた。
「まだ候補から外す必要はありません」
僕はうなずいた。
「でも、使えると決めつけることもできませんね」
「そのとおりです」
僕は写真を見た。
青い扉は、胸が痛くなるほど懐かしく感じられた。
一瞬、母の家を思い出した。
静かな廊下。
本棚。
玄関が開く、聞き慣れた音。
そして、自分に言い聞かせた。
これは、あの家ではない。
そして、あの家である必要もない。
◇ ◇ ◇
「春人さん?」
恵美さんがこちらを見た。
「はい?」
「引き続き、この物件の評価を進めても大丈夫ですか?」
僕は考えた。
「はい」
彼女は微笑んだ。
「分かりました」
「でも、慎重に進めたいです」
「もちろんです」
僕はもう一度、写真を見た。
「どうやら、扉に愛着が湧いてしまったみたいで」
恵美さんは小さく笑った。
「それは自然なことだと思います」
「でも、扉だけでは足りませんからね」
彼女はうなずいた。
「そうですね」
僕は微笑んだ。
「安全に必要なケアを受けられない家なら、僕にとって正しい家ではありません」
「そのとおりです」
僕はため息をついた。
「たとえ、扉がどんなにきれいでも」
◇ ◇ ◇
その日の午後、拓海君からまたメッセージが届いた。
彼は小説を改稿していた。
そして、一つ決心したらしい。
文学交流会に、短い抜粋を提出したいという。
ただし、自分で朗読するのではなく、誰かに読んでもらいたいそうだ。
僕は微笑んだ。
「いいと思うよ」
拓海君は安心したようだった。
「本当ですか?」
「もちろん」
彼はためらった。
「臆病だと思われるんじゃないかって、心配だったんです」
僕は少し考えた。
「拓海君」
「はい?」
「君は、自分が書いたものを、まだ会ったことのない人たちに届けようとしているんだよ」
彼はうなずいた。
「はい」
「それだけでも、勇気がいることだと思う」
彼は僕を見た。
「それに、自分に合った発表方法を選んだからといって、その言葉が君のものではなくなるわけじゃない」
拓海君は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
僕たちは、そのあと一時間ほど、冒頭部分を見直した。
彼の文章は、かなりよくなっていた。
会話は以前より自然になっていた。
主人公の家族にも、それぞれ違った性格が感じられた。
物語の中心にある葛藤も、明確になっていた。
もちろん、まだ改善できるところはあった。
当然だ。
物語には、いつだって改善の余地がある。
それでも、確実によくなっていた。
最後に、拓海君が微笑んだ。
「もう、発表しても大丈夫だと思いますか?」
僕は少し考えた。
「人に読んでもらう準備はできていると思うよ」
彼の顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「本当」
それから、付け加えた。
「もちろん、だからといって、もう二度と改稿しなくていいわけじゃないけどね」
彼は笑った。
「森田先生みたいなことを言いますね」
僕はため息をついた。
「それは恐ろしい話だね」
◇ ◇ ◇
翌日、大地さんが巨大なバッグを持ってやって来た。
僕はすぐに警戒した。
「それは何ですか?」
彼はにやりと笑った。
「お前の旅行セットだ!」
僕は見つめた。
「……何ですって?」
「旅行セット!」
由紀さんがあとから入ってきた。
ひどく疲れた顔をしていた。
「大地……」
彼は無視した。
「さあ、春人の恋愛大冒険に必要なものを、すべて用意してきたぞ!」
僕は目を閉じた。
「その呼び方はやめてください」
彼はバッグを開いた。
最初に出てきたのは、お菓子だった。
まあ、理解できる。
次は旅行用のゲーム。
少し怪しくなってきた。
そして三つ目は、小さな飾り枕だった。
そこには、こう書かれていた。
『愛とは旅である』
僕は見つめた。
「……却下です」
大地さんは不満そうな顔をした。
「何でだ?」
「絶対に嫌です」
彼は一冊のガイドブックを取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
『初めての恋愛大冒険を生き抜く方法』
僕は目を閉じた。
「大地さん」
「何だ?」
「それ、自分で書いたんですか?」
彼は誇らしげに答えた。
「そうだ!」
由紀さんはため息をついた。
「夜中の二時まで書いていたのよ」
◇ ◇ ◇
ガイドブックには、いくつもの章があった。
『第一章 彼女を必ず褒めること』
『第二章 レストラン選びで言い争わないこと』
『第三章 花は恋人の味方』
『第四章 ロマンチックな時間に森探偵の話をしないこと』
僕は見つめた。
「……最後だけ、妙に具体的ですね」
大地さんはうなずいた。
「お前のことを分かっているからな」
僕はため息をついた。
「森探偵は、僕の人生の大切な一部なんですが」
「だからこそ、注意が必要なんだ!」
由紀さんが本を取り上げた。
「もう十分よ」
大地さんは傷ついたような顔をした。
「でも、頑張って書いたんだぞ!」
彼女は優しく微笑んだ。
「ええ。ちゃんと見せてもらったわ」
◇ ◇ ◇
笑いが収まると、大地さんは僕のそばに座った。
「春人」
僕は彼を見た。
「はい?」
「こんなもの、必要ないってことは分かってる」
僕は微笑んだ。
「それは控えめな表現ですね」
彼は苦笑した。
「でも、何かしてやりたかったんだ」
僕は黙っていた。
彼は続けた。
「お前の母さんも、きっと喜んだだろうな」
胸が締めつけられた。
「そうですね」
「それに、心配もしただろう」
僕は小さく笑った。
「間違いなく」
大地さんは微笑んだ。
「俺たちも、うれしいのと心配なのが半分ずつなんだろうな」
僕は彼を見た。
「僕も同じです」
彼はうなずいた。
「そうか」
それから、にやりと笑った。
「じゃあ、せめてお菓子だけでも持っていけ」
僕は笑った。
「それなら受け取ります」
◇ ◇ ◇
数日後、僕は森探偵の原稿の大幅な改稿を終えた。
最後のページを見つめた。
それから、姿勢が許す範囲で少し体を休めた。
「……終わった」
夏美さんがこちらを見た。
「本当ですか?」
僕は微笑んだ。
「本当です」
彼女は笑った。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
少し間を置いた。
「もっとも、幸子先生なら、また何か問題を見つけるでしょうけど」
「でしょうね」
僕は彼女を見つめた。
「そこは否定してくれるところですよ」
彼女は微笑んだ。
「私は正直でいたいので」
◇ ◇ ◇
幸子先生は、その後数日かけて改稿部分を読んでくれた。
ようやく話す機会ができたとき、先生は珍しく真剣な表情をしていた。
それが、かえって不安だった。
「それで?」
先生は黙っていた。
僕はため息をついた。
「それ、やめてもらえませんか?」
彼女は僕を見た。
「何を?」
「わざと緊張感を高めるのを」
先生は微笑んだ。
「あなたは推理作家でしょう? 楽しみなさいよ」
「自分が被害者のときは、遠慮したいです」
ようやく、先生はうなずいた。
「ずっとよくなったわ」
僕は瞬きをした。
「……本当ですか?」
「ええ」
先生は続けた。
「登場人物の動機に説得力が出た。偽造された手紙にも、以前より明確な意味がある。そして、消えた写真も、単なる都合のいい手がかりではなくなったわ」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
先生は少し間を置いた。
「中盤は、まだ少し引き締められると思うけど」
僕はため息をついた。
「やっぱり」
「でも、大きな改善よ」
先生の表情が和らいだ。
「自分の仕事を誇っていいと思うわ」
一瞬、僕は何も言えなかった。
それから、微笑んだ。
「……誇りに思っています」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は原稿を再提出する準備をした。
書式を確認した。
あらすじを見直した。
求められていた変更点を確認した。
そして、編集者からの最初のメールを、もう一度読み返した。
保証はない。
契約もない。
出版の約束もない。
それでも、原稿は以前よりよくなっていた。
そして、僕は必要な仕事をやり遂げた。
ファイルを添付した。
丁寧なメッセージを書いた。
そして――
送信した。
数秒間、僕は画面を見つめた。
それから、微笑んだ。
「さて、森さん」
夏美さんがこちらを見た。
「何ですか?」
「これで、あなたはしばらく別の人の問題になりましたね」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
その週末、葵と僕は旅行のことを再び話し合った。
今度は、現実的に考えることにした。
十二か所を回る観光計画はなし。
疲れ果てるような予定もなし。
一緒に過ごせる時間について、勝手な期待を抱くこともしない。
ただ、静かな午後を過ごす。
できればカフェへ。
余裕があれば、本屋へ。
僕の体調と看護の予定に合わせて。
葵は微笑んだ。
「よさそうなカフェを見つけたんだ」
僕は眉を上げた。
「よさそう?」
彼女はうなずいた。
「入口は確認したんだけど、トイレと店内の広さは、まだちゃんと調べないといけないの」
僕は微笑んだ。
「すごいね」
「何が?」
「すっかりバリアフリー調査員になってる」
彼女は笑った。
「いい先生がいたからね」
僕はにやりと笑った。
「当然だね」
◇ ◇ ◇
彼女は写真を見せてくれた。
大きな窓。
木製のテーブル。
入口の近くに置かれた、小さな本の棚。
そして、並木のある静かな通りの景色。
落ち着いた雰囲気だった。
僕は微笑んだ。
「いいね」
葵の表情が明るくなった。
「本当に?」
「うん」
彼女はためらった。
「行けるかどうか、まだ分からないけど」
「分かってるよ」
「でも……」
僕は微笑んだ。
「想像するのは楽しいね」
彼女はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
その夜の残りの時間、僕たちは何気ないことを話して過ごした。
何を注文するか。
僕がコーヒーに文句を言うかどうか。
葵が写真を撮りたがるかどうか。
そして、景色を楽しむ代わりに、僕の小説について話し始めてしまうのではないかということ。
当然ながら、僕は森探偵もロマンチックな午後に参加する権利があると主張した。
葵は断固として反対した。
「春人!」
「何?」
「デート中は、探偵の話は禁止!」
僕は微笑んだ。
「少しだけでも?」
「駄目!」
「謎の消えたスプーンを発見した場合でも?」
彼女は吹き出した。
「絶対に駄目!」
僕はにやりと笑った。
「分かった。じゃあ、事件はこっそり解決するよ」
◇ ◇ ◇
翌週の月曜日、恵美さんからまた連絡があった。
交通事業者が、僕の車椅子の寸法を事前に確認してくれたという。
候補となる車両の一つが、対応できる可能性があるらしい。
詳しい適合性の評価は、まだ必要だった。
それでも、最初の結果は期待できるものだった。
さらに重要なのは、恵美さんが短期間の旅行に必要な看護体制について、具体的な相談を始めていたことだった。
まだ何も確定していない。
しかし、検討する価値のある方法が、少なくとも一つ見つかりそうだった。
文学交流会の主催者からも、会場についての情報が届いていた。
入口はバリアフリーに対応している。
車椅子用のスペースも設けられている。
そして、主催者は追加の配慮について相談する意思を示してくれていた。
トイレなど、まだ確認が必要な点は残っていた。
しかし、情報は前向きなものだった。
僕は真剣に聞いていた。
それから、何日も心の奥にあった質問をした。
「恵美さん?」
「はい?」
「そろそろ、日程の候補を考えてもいいでしょうか?」
彼女は微笑んだ。
「準備を進めるための仮の日程なら、検討してもいいと思います」
胸が高鳴った。
「……本当ですか?」
「はい。ただし、旅行が確定したわけではないことは、忘れないでくださいね」
僕はすぐにうなずいた。
「もちろんです」
「医療的な評価、看護体制、交通手段の確認など、まだ必要なことはあります」
「分かっています」
彼女は微笑んだ。
「でも、目標となる時期があれば、調整を進めやすくなりますから」
僕はカレンダーを見た。
初めて――
その旅が入りそうな場所が、そこにあった。
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕は数秒間、動かなかった。
もっとも、動かないこと自体は、僕にとって特に珍しいことではない。
しかし、今回は障害とは何の関係もなかった。
ただ、驚いていたのだ。
候補となる日程。
約束ではない。
予約でもない。
でも、カレンダーに書き込める、本当の期間。
僕は夏美さんを見た。
「……日程の候補ができたみたいです」
彼女は微笑んだ。
「旅行のですか?」
僕はうなずいた。
「はい」
彼女の表情が明るくなった。
「それは素敵ですね」
僕は微笑んだ。
「本当に行けるかもしれません」
◇ ◇ ◇
僕はすぐに葵へ電話した。
彼女は明るい笑顔で出てくれた。
「春人!」
「やあ」
「どうしたの?」
僕は少し間を置いた。
「知らせがあるんだ」
彼女の表情が変わった。
「いい知らせ?」
「そうだと思う」
彼女はカメラに顔を近づけた。
「教えて!」
僕は微笑んだ。
「恵美さんが、仮の日程を考え始めてもいいって」
葵は固まった。
数秒間、動かなかった。
そして――
「え?」
僕は笑った。
「まだ仮の日程だけどね」
「それって……」
彼女は息を飲んだ。
「実際に、カレンダーに書けるような日程?」
僕はうなずいた。
「うん」
彼女の目が大きく開いた。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「まだ何も確定していないよ」
「分かってる」
「看護体制も必要だし」
「分かってる」
「交通手段も」
「分かってるってば!」
「それから――」
「春人!」
僕は笑った。
「何?」
彼女は涙を浮かべながら微笑んでいた。
「一分だけ、喜んでもいい?」
胸が温かくなった。
僕は優しく微笑んだ。
「もちろん」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは何も言わなかった。
葵は、ただ微笑んでいた。
そして、僕は彼女を見ていた。
僕がまだ、家の壁の向こうにある未来を想像することさえ難しかったころ、人生に現れた女の子。
僕に挑戦を促してくれた女の子。
励ましてくれた女の子。
言い争ったこともあった。
一緒に笑ったこともあった。
そして、いつの間にか、僕の世界で最も大切な人の一人になっていた。
今――
僕たちはカレンダーを見ていた。
ただのカレンダー。
ごく普通のもの。
きっと、多くの恋人たちにとっては、当たり前のものなのだろう。
でも、僕たちにとっては――
特別なものだった。
◇ ◇ ◇
やがて、葵が口を開いた。
「春人?」
「うん?」
「前に話したこと、覚えてる?」
僕は微笑んだ。
「何のこと?」
「完璧な再会じゃなくてもいいって」
僕はうなずいた。
「覚えてるよ」
彼女は微笑んだ。
「本当の再会ができれば、それでいいんだよね」
胸が締めつけられた。
「そうだね」
彼女は一度視線を落とした。
そして、また僕を見た。
「少しずつ、近づいている気がする」
僕は微笑んだ。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
その夜、僕はカレンダーを開いた。
そこにあった。
旅行の仮の日程。
はっきりと、暫定的な予定として記されていた。
確定ではない。
予約もしていない。
保証もない。
それでも、そこに存在していた。
僕は長い間、それを見つめた。
それから、母のノートを開いた。
未完成の手紙が、キーボードのそばに置かれていた。
僕は最後の一文をもう一度読んだ。
『そして、いつか、この小さな青い扉の向こうの世界を見てみたいと思わせてくれる人に出会ったなら、どうかあなたには……』
僕は微笑んだ。
「母さん」
部屋は静かだった。
「少しずつ、分かってきた気がするよ」
母は、あの文章を最後まで書かなかった。
途中で何かに呼ばれたのかもしれない。
あとで続きを書くつもりだったのかもしれない。
本当の理由は、もう分からない。
でも、母が何を書こうとしていたのか、正確に知る必要はなかった。
その思いは、すでに伝わっていたからだ。
母は、僕に生きてほしかったのだ。
ただ、生き延びるだけではなく。
慣れ親しんだ壁の内側で、安全に過ごすだけでもなく。
本当に生きてほしかった。
必要なケアを受けながら。
大切な安全対策を守りながら。
そして、実現できる夢を、一つずつ追いかけながら。
◇ ◇ ◇
僕は青い玄関扉を見た。
母が数えきれないほど開けてきた扉。
友達や家族が、何度もくぐってきた扉。
たくさんの思い出を守ってきた扉。
長い間、それは僕にとって家を意味していた。
そして、今もそうだ。
でも、もしかすると――
それが僕の世界の限界を意味する必要はないのかもしれない。
僕は微笑んだ。
あの扉の向こうには、道がある。
その道の先には、別の街がある。
知らない通りがある街。
小さなカフェ。
本屋。
文学交流会。
そして、きっと今ごろ、挨拶の練習をしている女の子。
僕は小さく笑った。
それから、もう一度カレンダーを見た。
仮の日程。
一つの可能性。
一つの始まり。
僕は微笑んだ。
「一歩ずつ、だね」
距離が消えたわけではない。
まだ。
でも、初めて――
僕たちの間に続く道が、ようやく少しずつ短くなり始めているように感じられた。
そして、明日の向こう側では――
葵が待っている。




