第82話 まだ旅していない道と、ようやく手が届きそうになった僕たちの明日
世の中には、多くの人が簡単だと思っていることがある。
スーパーへ買い物に行くこと。
友達に会いに行くこと。
週末に小旅行をすること。
あるいは、何でもない金曜日の午後に、別の街で数日過ごそうと決めること。
多くの人にとって、そうした決断に必要なのは、予定表と少しのお金、それから朝食がおいしいホテルはどこかという、ささやかな議論くらいだろう。
しかし、僕の場合は――
それよりも、はるかに多くの書類が必要になる。
医療機器。
移動手段の手配。
専門的な看護。
緊急時の対応手順。
予備電源。
そして、一つ答えが出るたびに、なぜか二つも三つも増えていく質問の数々。
旅行が複雑になることは、以前から分かっていた。
だが、頭で理解していることと、実際にその過程を目の当たりにすることは、まったく別の話だった。
パソコンの画面に並ぶ、増え続ける書類を見つめながら、僕はある疑念を抱き始めていた。
もしかすると、短い旅行を計画することは、推理小説を一冊書き上げるより難しいのではないだろうか。
これは、なかなか重大な問題だ。
なにしろ、森探偵には何年も苦労させられているのだから。
◇ ◇ ◇
「春人さん?」
夏美さんがこちらを見た。
「はい?」
「大丈夫ですか?」
僕は画面を見つめた。
「恐ろしい事実を発見しました」
彼女は眉を上げた。
「何ですか?」
「どうやら、週末に家を離れるだけで、小さな事務局を設立する必要があるようです」
夏美さんは笑った。
「ちょっと大げさですね」
「そうでしょうか?」
僕は書類に目を向けた。
「移動手段の評価。看護体制。医療機器の一覧。緊急連絡先。宿泊施設の条件」
少し間を置いた。
「しかも、現地で何を食べたいかなんて、まだ誰にも聞かれていないんですよ」
彼女は微笑んだ。
「そこは簡単そうですけどね」
「そうとも限りません。大地さんが関わってくるかもしれませんから」
「ああ……」
彼女は神妙にうなずいた。
「それは問題ですね」
「でしょう?」
◇ ◇ ◇
その日の午前十時、旅行についての打ち合わせが始まった。
恵美さんはビデオ通話で参加した。
夏美さんは僕のそばにいて、医療機器や意思伝達装置が使いやすい位置にあることを確認してくれた。
普段から僕の呼吸管理を担当している看護師の一人も参加していた。
会議の目的は単純だった。
葵の暮らす街へ、短期間の訪問ができるかどうかを調べること。
しかし、残念ながら、その答えはまったく単純ではなかった。
恵美さんが資料を共有した。
「まず、移動中にどのような支援が必要になるのかを確認しましょう」
僕はうなずいた。
「分かりました」
「現在の看護体制は、ご自宅での生活を前提に整えられています。旅行となると、さらに検討しなければならないことが増えます」
「例えば?」
「交通手段、医療機器へのアクセス、予備の物品、人員配置、緊急時の対応などです」
僕はかすかに微笑んだ。
「つまり、全部ですね」
恵美さんは小さく笑った。
「かなり多いですね」
看護師が続けた。
「人工呼吸器の使用環境や、必要な医療機器の電源条件、移動中も安全にケアを継続するための手順を確認する必要があります」
僕は真剣に聞いていた。
「今の看護師さんたちに同行してもらうことはできますか?」
恵美さんは少し考えた。
「それも調べる必要があります。現在の勤務体制やサービスの適用範囲が、そのまま旅行中にも認められるとは限りません」
僕はうなずいた。
「そうですよね」
「宿泊する場合には、滞在中を通して必要な専門看護を確保できるかどうかも重要になります」
僕は画面を見た。
「もちろんです」
◇ ◇ ◇
話し合いは、一時間近く続いた。
終わるころには、一つ大切なことが分かっていた。
短い旅行が、必ずしも不可能というわけではない。
しかし、思いつきで出かける週末旅行のようには扱えない。
少なくとも、僕の場合は。
予約をする前に、何が実現可能なのかを確かめる必要がある。
そのためには、関係する医療者に相談し、資格を持つ看護師の確保を確認し、交通手段や宿泊施設を評価しなければならない。
さらに、何か問題が起きた場合の準備も必要だった。
医療機器の不具合。
予期しない遅延。
停電。
体調の変化。
看護師の勤務変更。
そして、旅行そのものを中止しなければならない可能性。
会議が終わったあと、僕はしばらく黙っていた。
夏美さんが気づいた。
「何を考えているんですか?」
僕はため息をついた。
「全部必要なことだって、分かっているんです」
彼女はうなずいた。
「はい」
「でも……」
僕は窓のほうを見た。
「時々、ただ行きたいと思った場所へ行けたらいいのにって思うんです」
彼女の表情が和らいだ。
「そうですよね」
僕はかすかに微笑んだ。
「準備すること自体が嫌なわけじゃないんです」
少し間を置いた。
「ただ、やりたいことよりも、そのための準備のほうがずっと大きく感じられるのが、少しつらいんです」
◇ ◇ ◇
その日の午後、葵から電話があった。
仕事の休憩時間だった。
「春人!」
「やあ」
「打ち合わせ、どうだった?」
僕は少し考えた。
「有意義だったよ」
彼女は微笑んだ。
「よかった」
「ただ、秘書を雇う必要があるかもしれない」
葵は笑った。
「どうして?」
「どうやら君に会いに行くには、十七もの行政機関と、ちょっとした神の奇跡が必要らしいからね」
「春人!」
僕は微笑んだ。
「大げさに言ってるだけだよ」
「少しだけ?」
「かなり」
彼女は笑った。
それから、表情を和らげた。
「でも、本当のところはどうだったの?」
僕は説明した。
まだ何も承認されていない。
予約もしていない。
しかし、恵美さんと看護チームが、確認すべき主な問題を整理してくれた。
葵は真剣に聞いていた。
「じゃあ、まだ可能性はあるんだね?」
僕はうなずいた。
「うん」
彼女は微笑んだ。
「よかった」
「そうだね」
僕は少し間を置いた。
「でも、まだあまり期待しすぎないでほしいんだ」
彼女の笑顔が少しだけ薄れた。
「分かってる」
◇ ◇ ◇
その日のあと、葵は中村理沙さんと話した。
その夜、会話の内容を教えてくれた。
どうやら理沙さんは、葵が上の空になっていることに気づいたらしい。
「何か気になることでもあるの?」
葵はうなずいた。
「春人が、こっちに来られるかもしれないんです」
理沙さんは微笑んだ。
「それは素敵ね」
「まだ、分からないんですけど」
「分からない?」
葵は視線を落とした。
「何も決まっていないんです」
理沙さんは静かに聞いていた。
「なのに、もう一緒に行きたい場所をいろいろ考えちゃって……」
「それの何が悪いの?」
葵はためらった。
「だって、もし実現しなかったら……」
理沙さんは少し考えた。
「そのときは、がっかりするでしょうね」
葵は彼女を見た。
「それが怖いんです」
理沙さんは優しく微笑んだ。
「がっかりするかもしれないからといって、希望を持ったことが間違いになるわけじゃないのよ」
葵は黙っていた。
「でも、まだ決まっていないことだけに、自分の幸せを全部預けてしまわないこと」
彼女はゆっくりうなずいた。
「はい」
「可能性を喜んでいいの。準備を応援してもいい。でも、旅行が実現してもしなくても、あなたたちの関係は続いているんだから」
葵はかすかに微笑んだ。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から再び電話があった。
彼女は少し考え込んでいるようだった。
「春人?」
「うん?」
「私、ちょっと浮かれすぎてたかもしれない」
僕は微笑んだ。
「旅行のこと?」
彼女はうなずいた。
「もう、案内したい場所のリストまで作っちゃった」
僕は笑った。
「何か所?」
彼女はためらった。
「……十一か所」
僕は見つめた。
「十一?」
「もしかしたら十二」
僕はにやりと笑った。
「僕が本屋を回りすぎるって言ってたのは、誰だったかな?」
彼女は笑った。
「それとは違うの!」
「どう違うの?」
「だって、どれも大切な場所なんだもん!」
「本屋だって大切な場所だよ」
「春人!」
僕たちは笑った。
それから、彼女は静かになった。
「ただ、本当に春人に来てほしいんだ」
胸が温かくなった。
「分かってるよ」
「でも、実現しないかもしれないことに期待するのが怖いの」
僕は優しく微笑んだ。
「僕もだよ」
葵は僕を見た。
「本当に?」
「もちろん」
少し間を置いた。
「でも、希望を持つこと自体は悪くないと思う。ただ、希望と計画は別物だって覚えておけばいいんじゃないかな」
葵は微笑んだ。
「何だか賢いこと言うね」
僕はにやりと笑った。
「僕にも、たまにはそういう瞬間があるんだよ」
◇ ◇ ◇
翌朝、恵美さんから青い扉の家について、最初の情報が届いた。
僕はすぐに資料を開いた。
寸法はまだ不完全だったが、期待できる点がいくつかあった。
玄関までのアプローチは、比較的平坦なようだった。
主な生活空間は、すべて一階にある。
寝室の広さも、悪くなさそうだった。
しかし、残念ながら――
浴室は別問題だった。
入口の幅が十分ではない可能性がある。
車椅子の方向転換に必要なスペースも確認しなければならない。
そして、電気設備についても、さらに調査が必要だった。
僕は間取り図を見つめた。
「……やっぱり」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「浴室です」
彼女はうなずいた。
「またですか?」
「どうやら、浴室というものは僕に宣戦布告しているようです」
夏美さんは笑った。
僕は微笑んだ。
「でも、この家はまだ調べる価値がありそうです」
恵美さんも同じ意見だった。
現地で専門的なバリアフリー評価を行う前に、正確な寸法、改修の可能性、電気設備に関する資料を求めることになった。
僕も賛成した。
青い扉に心を奪われるあまり、その向こうにある問題を見落としたくはなかった。
それでも――
写真を見るたびに、懐かしく温かな気持ちになった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は森探偵の原稿に戻った。
残念ながら、彼はまた僕を困らせていた。
編集者は、ある脇役の行動に説得力がないと指摘していた。
最初、僕は納得できなかった。
当然だ。
僕は作者なのだから。
登場人物たちが何をしているのか、誰よりも理解しているはずだった。
ところが、原稿を読み直してみると、実に恥ずかしい事実が判明した。
編集者が正しかったのだ。
その人物は、重要な情報を隠していた。
しかし、隠す理由が弱かった。
というより、ほとんど存在しなかった。
僕は画面を見つめた。
「……これは困ったな」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「登場人物の一人が、馬鹿みたいな行動をしているんです」
彼女は微笑んだ。
「春人さんの小説では、よくあることじゃありません?」
僕は彼女を見た。
「今のは、必要以上に残酷でしたよ」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
僕は幸子先生に連絡した。
先生は問題の場面を読んだ。
そして、僕を見た。
「春人」
「はい?」
「どうして、この人物は嘘をついているの?」
僕は当初の理由を説明した。
先生は静かに聞いていた。
それから尋ねた。
「でも、探偵が写真を発見したあとも、なぜ嘘をつき続ける必要があるの?」
僕は答えようとした。
しかし、言葉が止まった。
「……いい質問ですね」
幸子先生は微笑んだ。
「でしょう?」
僕はため息をついた。
「楽しんでますね」
「とても」
先生は椅子にもたれた。
「真実が明らかになったら、この人物は何を失うのか考えてみなさい」
僕は考えた。
偽造された手紙。
消えた写真。
記録から消された家族の歴史。
そして、長年にわたって誰かの記憶を守り続けてきた老婦人。
突然――
一つの考えが浮かんだ。
もし、その人物が守ろうとしていた相手が、誰もが想像していた人物ではなかったとしたら?
もし、別の誰かを守っていたとしたら?
その人物の関与が明らかになることで、手紙の意味そのものが変わってしまうとしたら?
僕は原稿を見つめた。
「……あっ」
幸子先生が眉を上げた。
「何?」
「何か見つかった気がします」
先生は微笑んだ。
「よかったじゃない」
僕は改稿の構成を考え始めた。
久しぶりに、森探偵が協力的になってくれたような気がした。
もっとも、彼のことだから、長続きはしないだろう。
◇ ◇ ◇
その夜、拓海君から連絡があった。
彼は、予定されている文学交流会のことを聞いたらしい。
「高橋さん?」
「うん?」
「本当に参加するんですか?」
僕は微笑んだ。
「まだ分からないよ。旅行ができるかどうか、調べているところなんだ」
彼はうなずいた。
「そうなんですね」
「拓海君も参加したいの?」
彼はためらった。
「はい」
僕は微笑んだ。
「それはいいね」
「でも……」
「でも?」
彼は視線を落とした。
「みんなの前で自分の小説を読めるかどうか、自信がなくて」
僕は少し考えた。
「無理に読む必要はないよ」
彼は驚いた。
「本当ですか?」
「もちろん」
僕は続けた。
「参加するなら、自分がどんな形で参加したいのか、自分で決めていいんだ」
彼は耳を傾けていた。
「会場に行って聞くだけでもいいし、短い部分だけ紹介してもいい。もし自分で読むのが難しければ、主催者に相談して、誰かに代読してもらう方法だってあるかもしれない」
拓海君はゆっくりうなずいた。
「考えたことがありませんでした」
僕は微笑んだ。
「参加する方法は、一つじゃないからね」
彼は考え込んだ。
それから、微笑んだ。
「悠斗さんに聞いてみます」
「それがいいと思うよ」
◇ ◇ ◇
翌朝は、いつもどおりに始まった。
今思えば、その時点で警戒すべきだったのかもしれない。
僕は原稿を書いていた。
夏美さんは、普段どおり看護業務を行っていた。
すべてが穏やかだった。
しかし、定期的な医療機器の点検中に、予備電源の一部が試験に合格しなかった。
表示画面に警告が現れた。
夏美さんは、すぐに作業を中断した。
「春人さん、こちらを確認しますね」
僕は機器のほうを見た。
「分かりました」
彼女は定められた手順に従い、表示を確認し、必要な機器サポート窓口へ連絡した。
僕が使用している人工呼吸器の通常の作動には問題がなかった。
呼吸補助が中断されることもなかった。
しかし、不具合が見つかった予備電源を、そのまま頼りにすることはできない。
夏美さんは、その部品を使用対象から外し、交換または修理の手続きを進めた。
僕は、その間ずっと静かにしていた。
心配していなかったわけではない。
ただ、彼女が適切に対応してくれると信じていた。
◇ ◇ ◇
すべてが落ち着いたあと、僕はため息をついた。
「……さて」
夏美さんがこちらを見た。
「大丈夫ですか?」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「よかったです」
僕は機器を見た。
「嫌な出来事でしたね」
「そうですね」
「でも、点検中に見つかってよかったです」
彼女はうなずいた。
「本当に」
僕は少し考えた。
今回の不具合が、緊急事態につながることはなかった。
安全のための手順も機能した。
そして、必要になる前に問題を発見できた。
それでも――
大切なことを思い出させる出来事だった。
旅行の準備について話すとき、予備の医療機器は単なるチェックリストの一項目ではない。
本当に重要なものなのだ。
細かな準備には意味がある。
それを無視したからといって、僕がより自立できるわけではない。
ただ、安全を失うだけだ。
◇ ◇ ◇
その夜、葵に話した。
彼女の表情がすぐに変わった。
「大丈夫だったの?」
僕は微笑んだ。
「うん」
「本当に?」
「もちろん」
僕は何が起きたのか説明した。
点検で不具合が見つかったこと。
夏美さんが対応してくれたこと。
通常の人工呼吸器の作動には問題がなかったこと。
葵は息をついた。
「見つかってよかったね」
「本当に」
彼女はしばらく黙っていた。
それから言った。
「だからこそ、旅行の準備が大切なんだよね」
僕はうなずいた。
「うん」
少し間を置いた。
「僕も、少し分かってきた気がする」
「何が?」
「慎重になることと、諦めることは違うんだって」
葵は優しく微笑んだ。
「そうだね」
「怖いからという理由だけで、すべてを決めたくはないんだ」
僕は続けた。
「でも、準備に疲れたからって、本当の危険を無視したくもない」
彼女はうなずいた。
「いいバランスだと思う」
僕は微笑んだ。
「そうできるように頑張ってるよ」
◇ ◇ ◇
その週末、由紀さんが遊びに来た。
古い写真の入った小さな箱を持っていた。
大地さんも一緒だった。
幸い、プロジェクターは持っていなかった。
それだけでも、かなり安心できた。
由紀さんは僕のそばに座り、写真を見せてくれた。
母の写真。
子どものころの僕の写真。
家族で集まったときの写真。
そして、大地さんが盛大にふざけている写真が何枚もあった。
人は、そう簡単には変わらないものらしい。
僕は笑った。
「どうして、こんな格好をしているんですか?」
大地さんは写真を見た。
「ああ、これか」
彼は誇らしげに微笑んだ。
「仮装パーティーだったんだ」
僕は見つめた。
「巨大なバナナの仮装を?」
「そうだ!」
「どうして?」
「誰かがやらなきゃいけなかったからな!」
僕は目を閉じた。
「なるほど」
◇ ◇ ◇
しばらくして、由紀さんが静かになった。
手には、母の写真があった。
美咲は僕の車椅子のそばに立っていた。
笑顔だった。
僕は写真を見た。
「ずいぶん昔ですね」
由紀さんはうなずいた。
「そうね」
彼女は少しためらった。
「春人」
「はい?」
「一つ、話してもいい?」
「もちろんです」
彼女は写真を見つめた。
「お母さんが生きていたころ、あなたの将来のことを、いつも心配していたの」
僕は黙っていた。
「あなたを信じていなかったわけじゃないのよ」
由紀さんは続けた。
「ただ、いろいろなことが簡単ではないと分かっていたから」
僕はうなずいた。
「そうですね」
彼女は僕を見た。
「そして今、あなたが旅行を考えているでしょう。私も、つい心配になってしまうの」
僕はかすかに微笑んだ。
「分かっています」
彼女はためらった。
「本当は、私も絶対に一緒に行くって言いたいくらいなの」
僕は彼女を見た。
「でも、それが必ずしもあなたの望んでいることではないとも分かっているのよ」
僕は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「由紀さん」
「何?」
「心配してくれるのは、嫌じゃありません」
彼女の表情が和らいだ。
「それに、助けを求めることも嫌じゃないんです」
少し間を置いた。
「でも、どんな助けが必要なのかは、僕自身も一緒に決めたいんです」
彼女はゆっくりうなずいた。
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
それまで珍しく静かだった大地さんが、突然せき払いをした。
「実はな……」
僕はすぐに警戒した。
「……何ですか?」
「チェックリストを作ったんだ」
僕は目を閉じた。
「やっぱり」
彼は一冊のファイルを取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
『春人の大冒険作戦』
僕はため息をついた。
「大地さん……」
「まあ、文句を言う前に聞いてくれ」
「もう手遅れです」
彼はファイルを開いた。
最初のページには、馬鹿げた提案がいくつも並んでいた。
『非常用のお菓子を持参する』
『本を多めに持っていく』
『カメラを忘れない』
『春人に本屋を丸ごと買わせない』
僕は見つめた。
「……最後の項目は必要ないと思います」
大地さんはにやりと笑った。
「お前のことは分かってるからな」
しかし、僕はあることに気づいた。
その下には、実用的な質問が並んでいた。
移動中の看護は誰が担当するのか。
どんな緊急用機器が必要なのか。
会場に利用可能なバリアフリートイレはあるのか。
車椅子と医療機器を安全に運べる交通手段はあるのか。
旅行を中止しなければならなくなった場合、どう対応するのか。
僕は彼を見た。
「……これ、実際に役立ちますね」
大地さんは胸を張った。
「当然だ!」
由紀さんが微笑んだ。
「その部分は、私も一緒に考えたのよ」
僕は笑った。
「なるほど。納得しました」
「おい!」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、葵に電話した。
太陽が沈み始めていた。
彼女の部屋には、温かなオレンジ色の光が差し込んでいた。
「やあ」
葵は微笑んだ。
「こんばんは」
しばらく、僕たちは何気ない話をした。
仕事のこと。
執筆のこと。
家族のこと。
そして、やがて――
旅行の話になった。
葵は少し考え込んだ。
「春人?」
「うん?」
「もし本当に来られることになったら、最初に何をしたい?」
僕は考えた。
「本屋かな」
彼女は笑った。
「やっぱり」
それから、僕は微笑んだ。
「いや、違うな」
葵は瞬きをした。
「本当に?」
「うん」
少し考えた。
「たぶん、まずは君とゆっくり過ごしたい」
彼女の表情が和らいだ。
「それだけ?」
「それだけ」
僕は続けた。
「特別な場所に行かなくてもいいんだ」
葵は静かに聞いていた。
「どこか落ち着ける場所で、一緒に座って、話をして。何か食べたりして」
僕は微笑んだ。
「普通の午後を過ごしたい」
葵の目に涙が浮かんだ。
「……素敵だね」
僕はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
夜が深まっても、僕たちは通話を続けていた。
葵が窓のほうを見た。
「今夜、空がすごくきれいだよ」
僕も窓のほうへ視線を向けた。
「そうだね」
彼女は微笑んだ。
「違う街にいるのにね」
僕はうなずいた。
「同じ空の下だね」
葵は小さく笑った。
「小説に出てきそうな台詞」
「使おうかな」
「私たちの会話を勝手に小説に使わないでよ!」
僕はにやりと笑った。
「もう遅いよ」
「春人!」
僕たちは笑った。
それから、彼女は静かになった。
「本当に来られるといいな」
僕は優しく微笑んだ。
「僕も」
「でも、もし来られなくても……」
彼女は少し間を置いた。
「こういう時間は、これからも大切にしたい」
「こういう時間?」
「話したり、お互いのために時間を作ったり。少しでも一緒にいられる方法を見つけたり」
僕はうなずいた。
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「約束?」
僕は彼女を見た。
「約束だよ」
◇ ◇ ◇
数日後、恵美さんから再び連絡があった。
彼女は僕の現在の看護チームと話し、旅行に必要な手配について情報を集め始めていた。
まだ、大きな問題はいくつも残っていた。
資格を持つ看護師を確保できるか。
適切な交通手段を手配できるか。
会場や宿泊施設が僕の必要とする条件を満たしているか。
そして、関係する医療者が、その計画を安全だと判断できるか。
何も承認されていない。
予約もしていない。
しかし、進展はあった。
恵美さんは、必要な条件を一つの計画書にまとめてくれた。
僕は共有された資料を開いた。
長いリストだった。
とても長かった。
しかし、最初に見た書類の山とは違っていた。
きちんと整理されていたのだ。
それぞれの項目には目的があった。
未解決の問題には、誰が調べるのかが書かれていた。
そして、一つずつ確認してから、次の段階へ進めるようになっていた。
僕は画面を見つめた。
「……これなら、何とかできそうな気がします」
恵美さんは微笑んだ。
「そのための計画書ですから」
僕は小さく笑った。
「初めて、何をすればいいのかが見えてきました」
彼女はうなずいた。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
僕は午後の間、計画書を確認していた。
交通手段。
看護体制。
医療機器。
宿泊施設。
会場のバリアフリー。
緊急時の対応。
医療者による評価。
何一つ保証されていない。
それでも、問題はもう、形のない巨大な壁のようには感じられなかった。
一つ一つの課題になっていた。
難しい課題。
大切な課題。
でも、調べることのできる課題だった。
僕は微笑んだ。
もしかすると、前進するというのは、こういうことなのかもしれない。
突然の奇跡ではない。
劇的な発表でもない。
ただ、複雑だった問題が、少しずつ明確になっていくこと。
◇ ◇ ◇
その夜、葵に電話した。
彼女はすぐに出てくれた。
「春人!」
「やあ」
「元気?」
「うん」
葵は微笑んだ。
「何だかうれしそうだね」
「恵美さんから連絡があったんだ」
彼女の目が大きく開いた。
「旅行のこと?」
「うん」
葵はカメラに顔を近づけた。
「どうだった?」
僕は説明した。
最初の計画書ができたこと。
必要な条件が整理されたこと。
相談しなければならない人たちが明確になったこと。
そして、それぞれの段階を順番に調べられるようになったこと。
葵は真剣に聞いていた。
「じゃあ……」
彼女はためらった。
「本当に実現できる可能性が出てきたの?」
僕は微笑んだ。
「少なくとも、具体的に検討できる可能性にはなったよ」
彼女は小さく笑った。
「よかった」
「うん」
僕は少し間を置いた。
「それで、恵美さんには、これからも計画を進めたいって伝えたんだ」
葵は僕を見つめた。
そして、微笑んだ。
「本当に?」
「本当だよ」
◇ ◇ ◇
しばらく、彼女は何も言わなかった。
それから、口元を押さえた。
目に涙が浮かんでいた。
僕は優しく微笑んだ。
「ねえ」
葵は笑った。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
彼女は首を振った。
「ただ、うれしくて」
胸が温かくなった。
「僕もだよ」
彼女は微笑んだ。
「まだ何も決まっていないのは分かってる」
「うん」
「準備しなきゃいけないことが、たくさんあるのも分かってる」
「そうだね」
「でも……」
彼女は少し間を置いた。
「少しずつ、近づいているのかもしれないね」
僕はうなずいた。
「そうかもしれない」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕は原稿に戻った。
森探偵は、古い写真でいっぱいの部屋に立っていた。
一枚の写真が消えていた。
一通の手紙が偽造されていた。
そして、誰かが何年もの間、探偵の思い違いによって隠されていた秘密を守り続けていた。
僕は画面を見つめた。
そして、微笑んだ。
「さて、森さん」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「ようやく、あなたが何をすべきなのか分かった気がします」
彼女は笑った。
「それはよかったですね」
僕は改稿を始めた。
珍しく、言葉が自然に出てきた。
謎が少しずつ筋の通ったものになっていく。
登場人物たちが、より人間らしくなっていく。
そして、物語がようやく、僕にも見える結末へ向かって動き始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜遅く、僕は短編集用の原稿を開いた。
主人公は、知らない街に立っていた。
そこには、まだ自分の家がなかった。
未来がどうなるのかも分からなかった。
でも、少しずつ友達ができ始めていた。
そして今――
一通の招待状を受け取った。
これまで想像することしかできなかった場所へ、訪れるための招待状だった。
僕は微笑んだ。
そして、書いた。
『彼はずっと、その街を自分の故郷と呼べる日を待っていた。そのせいで、大切なことを忘れていたのだ。』
『そこに住む前に、訪れてはいけないという決まりなど、どこにもなかった。』
僕は少し間を置いた。
そして、続きを書いた。
『居場所を見つけるための最初の一歩は、家を見つけることではないのかもしれない。』
『ただ、差し出された招待を受け入れることなのかもしれない。』
僕は読み返した。
そして、保存した。
◇ ◇ ◇
翌朝、恵美さんからもう一通メッセージが届いた。
僕は、いつもの進捗報告だと思って開いた。
しかし、そこには短い文章が書かれていた。
『春人さん、問い合わせていた交通事業者の一社から返答がありました。』
胸が高鳴った。
僕は続きを読んだ。
『詳しい評価が必要ですが、春人さんの車椅子と必要な医療機器を載せられる可能性のある車両構成があるそうです。』
僕は画面を見つめた。
そして、もう一度読んだ。
車両。
移動手段の候補。
予約ではない。
承認でもない。
保証でもない。
しかし、具体的なものだった。
初めて、旅の形が少しずつ見え始めていた。
僕は微笑んだ。
「……なるほど」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
僕は彼女を見た。
「向こうへ行く方法が、見つかるかもしれません」
彼女の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「まだ、可能性だけですけど」
僕は小さく笑った。
「確認しなきゃいけないことは、まだたくさんあります」
彼女は微笑んだ。
「もちろんです」
「でも……」
僕はもう一度メッセージを見た。
「これは、始まりですね」
◇ ◇ ◇
僕は窓のほうを見た。
朝の光が、部屋いっぱいに差し込んでいた。
距離の向こうでは、葵がきっと、また忙しい一日を病院で始めているころだろう。
健二さんは、自分の日常を過ごしている。
悠斗君は、文学交流会の準備を進めている。
拓海君は、次の物語を書いている。
そして、静かな住宅街では――
青い扉のある小さな家が、安全に暮らせる場所になれるかどうか、調べられる日を待っている。
僕は微笑んだ。
まだ、答えの出ていない問題は山ほどある。
それでも初めて、この旅は不可能な夢ではないように感じられた。
調べることのできるもの。
準備することのできるもの。
そして、いつか本当に実現できるかもしれないもの。
僕は母のことを考えた。
母が長い年月をかけて、僕が自分の人生を築けるよう支えてくれたこと。
今も僕を支えてくれている人たちのこと。
そして、別の街で待っている、大切な女の子のこと。
それから、もう一度メッセージを見た。
移動できるかもしれない車両。
実現するかもしれない旅。
手が届くかもしれない明日。
僕は微笑んだ。
「一歩ずつ、だね」
未来は、まだ不確かだった。
でも、もしかしたら――
本当に久しぶりに――
その未来は、手を伸ばせば届きそうな場所まで、近づき始めているのかもしれなかった。




