第81話 まだ開けていない扉と、ようやく帰る場所を見つけ始めた僕たちの夢
希望というものは、時として残酷だ。
なぜなら、いつも絶妙に都合の悪いタイミングで現れるからだ。
たいていは、僕が別のことに集中しようとしているときだった。
例えば――
穏やかな午後、短編小説を書いていると、突然一通のメールが届く。
すると、それまで平和だった一日は、期待と不安、そしてパソコンを窓から放り投げたいという衝動が入り混じった、実に複雑なものへと変わってしまう。
もっとも、僕には実際にパソコンを投げることなどできない。
重度の筋力低下があるため、そんな芸当は到底不可能だった。
だが、気持ちだけは十分にあった。
そして、この日の午後――
希望は、再び僕の受信箱に届いていた。
◇ ◇ ◇
「春人さん?」
夏美さんが僕を見た。
「どうしました?」
僕はパソコンの画面を見つめていた。
「……メールが届きました」
彼女は微笑んだ。
「誰からですか?」
「編集者さんです」
夏美さんの表情が明るくなった。
「あら!」
僕はうなずいた。
「そういうことです」
「もう開きました?」
「いいえ」
「どうしてですか?」
「中身によっては、僕の人生が根本から変わってしまう可能性があるので」
夏美さんは笑った。
「ちょっと大げさじゃありません?」
「僕は小説家ですから。大げさなのは職業病みたいなものです」
彼女は微笑んだ。
「読む間、そばにいましょうか?」
僕は少し考えた。
「お願いします」
夏美さんは机のそばに椅子を寄せた。
僕は意思伝達装置が使いやすい位置にあることを確認した。
そして――
メールを開いた。
◇ ◇ ◇
前回よりも長いメールだった。
ずっと長かった。
それだけで心臓が速く打ち始めた。
編集者は、改訂した原稿と追加の著者情報を送ったことへのお礼を述べていた。
そして、僕の目はある一文で止まった。
『ご提出いただいた原稿について、初回の編集検討を終えました。』
僕は画面を見つめた。
「……初回の検討」
夏美さんが少し身を乗り出した。
「何て書いてあります?」
僕は続きを読んだ。
編集者は、作品の持つ感情的な深みを評価してくれていた。
特に、森探偵が消された家族の歴史を追う展開と、忘れられた庭に花を咲かせ続ける老婦人の場面に関心を持ってくれたらしい。
また、森が自分自身の思い込みと向き合わざるを得なくなる場面に、作品の大きな魅力があるとも書かれていた。
しかし――
そこから内容が変わった。
原稿には、さらに改善できる点がいくつかあるという。
捜査の展開には、もう少し明確なつながりが必要だった。
ある脇役の動機は、十分に描かれていなかった。
そして、中盤のテンポにも改善の余地があるらしい。
編集者は、再度改稿した原稿を送ってほしいと書いていた。
出版の申し出ではない。
契約でもない。
保証もない。
それでも――
確かな関心を持ってくれている。
僕はメールを二度読んだ。
そして、三度目も読んだ。
夏美さんは辛抱強く待っていた。
やがて、彼女が尋ねた。
「それで、どうでした?」
僕は彼女を見た。
「……また改稿してほしいそうです」
夏美さんは微笑んだ。
「それは期待できそうですね」
僕はゆっくりうなずいた。
「はい」
そして、再び画面を見た。
「残念ながら、森探偵は今回も誰かを感心させることに失敗したようです」
夏美さんは笑った。
「もう少し手を加えればいいんじゃありません?」
「彼には、かれこれ三年ほど手を加え続けているんですが」
「それなら、改稿の経験は十分ですね」
僕はため息をついた。
「それ、褒め言葉になっていませんよ」
◇ ◇ ◇
僕はすぐに幸子先生へ連絡した。
もちろん、先生はいつもどおり、温かく励ましに満ちた態度で応じてくれた。
「それで?」
僕は微笑んだ。
「先生、こんにちは」
「編集者から返事が来たんでしょう?」
「はい」
「で?」
「もう一度改稿してほしいそうです」
幸子先生はうなずいた。
「いいじゃない」
僕は瞬きをした。
「いいんですか?」
「ええ」
「でも、いろいろ指摘されましたよ」
「当然でしょう」
僕は先生を見つめた。
「……楽しんでますね?」
「とてもね」
僕はため息をついた。
先生は微笑んだ。
「春人。編集者が具体的な問題点を挙げて、再提出を求めてくれたのなら、真剣に受け止める価値があるわ」
「はい」
「ただし、採用が決まったわけではないことも忘れないで」
「分かっています」
「それから、編集者の提案がすべて正しいと思い込まないこと」
僕は少し驚いた。
幸子先生は続けた。
「編集者の意見は貴重よ。でも、どんな物語を書きたいのかを決める責任は、あくまであなたにあるの」
僕はうなずいた。
「そうですね」
「指摘をよく読んで、どの変更が作品を強くするのか考えなさい。それから、目的を持って書き直すの」
僕は微笑んだ。
「分かりました」
先生は画面に顔を近づけた。
「それと、春人」
「はい?」
「重要な証拠を偶然発見させるのは、そろそろやめなさい」
僕は目を閉じた。
「……先生も気づいていましたか」
「誰でも気づくわよ」
◇ ◇ ◇
その夜、葵に電話した。
彼女はすぐに出てくれた。
「春人!」
「やあ」
「今日はどうだった?」
「なかなか興味深い一日だったよ」
葵は目を細めた。
「何かあったの?」
「編集者さんから返事が来たんだ」
彼女の目が大きく開いた。
「えっ!?」
僕は笑った。
「そんなに大きな声を出さないで」
「何て書いてあったの!?」
「また叫んでるよ」
「春人!」
僕は微笑んだ。
「もう一度改稿してほしいって。それだけの関心は持ってもらえたみたい」
一瞬、彼女は完全に固まった。
そして――
「すごいじゃない!」
僕は笑った。
「まだ採用されたわけじゃないよ」
「分かってる!」
「直さなきゃいけないところもいくつかあるし」
「分かってる!」
「出版される保証もないんだよ」
「分かってるってば!」
僕は彼女を見つめた。
「じゃあ、どうしてそんなに叫んでるの?」
「だって、誰かが春人の小説を読んで、もっと読みたいって思ってくれたんでしょう!」
僕は黙った。
葵は微笑んだ。
「それって、お祝いする価値があることだよ」
僕は少し視線を落とした。
そして、微笑んだ。
「……そうだね」
きっと、彼女の言うとおりだった。
◇ ◇ ◇
葵にも知らせがあった。
専門研修プログラムの一次選考を通過したという。
僕はうれしくなった。
「おめでとう!」
彼女は笑った。
「ありがとう」
「すごいじゃないか」
「でも、まだ面接があるんだ」
「そうだね」
「それに、研修を受けるなら、かなり大きな責任も伴うの」
僕はうなずいた。
「うん」
彼女は少しためらった。
「もし採用されたら、しばらくは今の病院で働き続ける必要があると思う」
僕は黙った。
怒っていたわけではない。
ただ、答える前に少し考えたかった。
数週間前の言い争いで、僕は一つ学んでいた。
どれほど善意があっても、不用意な言葉で相手を傷つけることはある。
やがて、僕は微笑んだ。
「それなら、採用されるといいね」
葵は僕を見た。
「本当に?」
「本当だよ」
彼女は視線を落とした。
「でも、私たちは?」
僕は少し考えた。
「これからも、一緒に考えていくしかないと思う」
彼女は黙っていた。
「離れて暮らすのが簡単だなんて、言うつもりはないよ」
僕は続けた。
「寂しくなることも、もどかしくなることもあると思う」
葵はゆっくりうなずいた。
「でも、まだ起きていないことを怖がって、君に大切な機会を諦めてほしくないんだ」
彼女の表情が和らいだ。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「僕たちは、まったく同じ夢を持っていなくてもいいんだから」
葵は小さく笑った。
「春人、上達したね」
「何が?」
「彼氏として」
僕はにやりと笑った。
「素晴らしい。修了証書はいつもらえるのかな?」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
翌朝、健二さんから連絡があった。
メッセージは珍しく短かった。
『春人君、ちょっと見てもらいたいものを見つけたんだ。』
僕はすぐに警戒した。
誰かに「見てもらいたいものがある」と言われると、たいてい二つの可能性がある。
本当に大切なものか。
あるいは、大地さんが僕を困らせる新しい方法を思いついたか。
幸い、今回は健二さんだった。
添付ファイルを開いた。
物件情報だった。
住宅街にある、小さな平屋の賃貸住宅。
ささやかな前庭。
舗装されたアプローチ。
広そうに見える玄関。
そして――
青い玄関扉。
僕は写真を見つめた。
一瞬、ほかのことをすべて忘れた。
その扉が、今の家の玄関と驚くほど似ていたからだ。
母がかつて暮らしていた家。
僕が長い年月を過ごした家。
自立とは、必ずしもすべてを一人で行うことではないと学んだ家。
そして、葵が僕の日常の一部になった家。
「……青い扉だ」
夏美さんがこちらを見た。
「え?」
僕は写真を見せた。
彼女は微笑んだ。
「あら」
「でしょう?」
「見覚えがありますね」
僕はうなずいた。
「すごく」
◇ ◇ ◇
少しして、健二さんから電話が来た。
「どうだった?」
僕は微笑んだ。
「きれいな家ですね」
「気に入ると思ったんだ」
「特に玄関が」
健二さんは笑った。
「僕も気づいたよ」
僕は物件情報を詳しく見た。
確かに、期待できそうだった。
しかし、写真は当てにならないこともある。
十分に広く見える入口でも、実際には僕の車椅子が通れないかもしれない。
広々と見える浴室でも、介助に必要なスペースが確保できないかもしれない。
そして、一階にあるからといって、必ずしもバリアフリーとは限らない。
そんなことは、僕が誰よりもよく知っていた。
「寸法は確認されていますか?」
「まだだよ」
「電気設備は?」
「不明」
「緊急時の出入りは?」
「確認が必要だね」
「改修の許可は?」
「それも分からない」
僕はため息をついた。
「つまり、今分かっているのは、扉が青いということだけですね」
健二さんは笑った。
「まあ、そういうことだね」
僕は微笑んだ。
「少なくとも、一つは確認できたわけですね」
◇ ◇ ◇
僕は物件情報を恵美さんに転送した。
彼女は、専門的な調査を行う価値があるか判断する前に、管理会社へ追加情報を求めることができると返事をくれた。
僕も賛成だった。
急ぐ理由はない。
少なくとも、もう焦って決めるつもりはなかった。
それでも――
午後の間、何度も写真を見返してしまった。
あの青い扉。
今の家を思い出させる。
そして、だからこそ、少し怖くもあった。
なぜなら初めて、別の玄関扉を開けても、そこを自分の居場所だと感じられる未来を想像できたからだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、もう一通メッセージが届いた。
今度は拓海君からだった。
以前、朗読会のあとで僕に話しかけてくれた高校生だ。
『高橋さん、僕の書いた小説を読んでもらえませんか?』
僕は微笑んだ。
『もちろん。』
数分後、短編小説が送られてきた。
タイトルは『校門の向こうの文化祭』。
主人公は電動車椅子を使う男子高校生だった。
彼は学校の文芸祭に参加したいと思っていた。
しかし、家族は交通手段や会場のバリアフリー、必要な支援を受けられるかどうかを心配していた。
主人公は、ただ諦めるのではなく、何が必要なのかを自分で調べ始める。
先生に相談する。
主催者に連絡する。
移動経路を確認する。
そして、家族と協力しながら計画を立てていく。
完璧な作品ではなかった。
会話が少し不自然なところもあった。
展開が急ぎすぎている場面もあった。
そして、主人公を励ますためだけに登場したような脇役もいた。
その問題なら、僕にもよく分かる。
森探偵の物語にも、かつて妙に哲学的なタクシー運転手が登場したことがあった。
幸子先生の最初の講評のあと、彼は原稿から姿を消した。
しかし――
拓海君の物語には、本物の思いが込められていた。
主人公は、奇跡のような変化を求めているわけではない。
介助が必要なくなったことを証明しようとしているわけでもない。
ただ、参加する機会が欲しいのだ。
僕は、その点がとても好きだった。
◇ ◇ ◇
その夜、拓海君とオンラインで話した。
「読んでもらえましたか?」
彼は緊張していた。
「読んだよ」
「……ひどかったですか?」
僕は微笑んだ。
「そんなことないよ」
彼は瞬きをした。
「本当ですか?」
「本当」
僕は少し間を置いた。
「でも、もっとよくできるところはいくつかあると思う」
拓海君は熱心にうなずいた。
「教えてください」
僕は感想を伝えた。
会話をもう少し自然にすること。
いくつかの場面を丁寧に描くこと。
家族全員が同じ心配を口にするのではなく、それぞれに違う考え方や性格を持たせること。
拓海君は真剣に聞いていた。
それから、僕は微笑んだ。
「でも、特に好きだったところがあるんだ」
「どこですか?」
「主人公が、みんなの助けを必要としなくなったから自立できた、という話になっていないところ」
拓海君は驚いたようだった。
僕は続けた。
「自分の人生について、もっと積極的に決められるようになっていくんだよね。介助は必要なままだし、準備もしなきゃいけない。でも、その過程に本人がきちんと参加している」
拓海君は微笑んだ。
「それを書きたかったんです」
「だったら、そこは大切にしたほうがいい」
彼はうなずいた。
「ありがとうございます」
僕は小さく笑った。
「どういたしまして」
少しして、彼が尋ねた。
「僕も、いつか小説家になれると思いますか?」
僕は少し考えた。
「でも、もう小説を書いているんでしょう?」
彼は瞬きをした。
「はい……」
「だったら、もう始めていると思うよ」
彼の表情が明るくなった。
◇ ◇ ◇
一方、葵は研修のことを中村理沙さんに相談していた。
その夜、彼女が会話の内容を教えてくれた。
どうやら理沙さんは、葵がひどく緊張していることに気づいたらしい。
「面接が心配なの?」
そう尋ねられた葵は、首を振ったという。
「それだけじゃないんです」
「じゃあ、何?」
葵はためらった。
「もし採用されたら、どうしようって……」
理沙さんは微笑んだ。
「それは、あなたが望んでいることでしょう?」
「はい」
「だったら、どうして怖いの?」
葵は視線を落とした。
「春人と私のことが、もっと難しくなるかもしれないからです」
理沙さんは静かに聞いていた。
そして、葵の心に残る言葉を口にした。
「自分の仕事を大切にすることを、謝る必要はないのよ」
葵は黙っていた。
「でも、恋人同士なら現実的な判断も必要になるわ。距離が問題にならないふりをすることはできない」
「分かっています」
「だったら、ちゃんと話し合うこと。立てられる計画は立てる。約束できないことについては、正直でいる」
葵はうなずいた。
理沙さんは微笑んだ。
「それに、もっといい看護師になりたいという気持ちは、あなた自身のものよ。恋愛のために正当化する必要なんてないの」
◇ ◇ ◇
葵の話が終わると、僕は微笑んだ。
「理沙さんって、賢い人だね」
「そうなの」
「僕も恋愛相談をしてみようかな」
葵は笑った。
「どうして?」
「どうやら、僕たちの周りにいる人たちは、みんな僕たちより恋愛に詳しいみたいだから」
彼女はにやりと笑った。
「たぶん、そうだね」
僕はため息をついた。
「実に心強い話だ」
葵はまた笑った。
それから、表情を和らげた。
「春人?」
「うん?」
「応援してくれて、ありがとう」
僕は微笑んだ。
「もちろんだよ」
彼女は少しためらった。
「簡単なことじゃないって、分かってるから」
「うん」
僕は正直に答えた。
「簡単じゃない」
そして、微笑んだ。
「でも、だからといって、挑戦する価値がないわけじゃないからね」
◇ ◇ ◇
残念ながら、ようやく生活が少し落ち着いてきたと思った矢先――
大地さんが再び動き出した。
僕のもとに、家族会議の招待状が届いた。
件名は――
『春人の未来の幸せ大作戦』
僕は画面を見つめた。
そして、すぐに由紀さんへ連絡した。
「これ、許可したんですか?」
彼女はため息をついた。
「してないわ」
「警戒したほうがいいですか?」
「かなりね」
僕は目を閉じた。
「素晴らしいですね」
◇ ◇ ◇
会議は、その週末に開かれた。
由紀さんと大地さんが家に来た。
葵はビデオ通話で参加した。
夏美さんは僕の姿勢や機器の位置を確認してから、通常の看護業務に戻った。
大地さんはテレビの前に立った。
ネクタイを締めていた。
それだけで十分に危険な兆候だった。
「皆さん、ようこそ!」
僕はため息をついた。
「大地さん……」
「本日は、春人の未来の幸せについて話し合います!」
葵が口元を押さえた。
笑いをこらえているのだろう。
大地さんは最初のスライドを表示した。
『第一段階:理想の家』
そこには、巨大な豪邸が映っていた。
プール付き。
専用映画館付き。
そして、どう見てもヘリポートまであった。
僕は画面を見つめた。
「……これは何ですか?」
「理想の出発点だ!」
「出発点?」
「そうだ!」
僕はため息をついた。
「大地さん、僕は小説を書いているだけです。国際企業の経営者じゃありません」
彼は軽く手を振った。
「細かいことは気にするな!」
次のスライドが現れた。
『第二段階:究極の家庭図書館』
こちらは、まだ少し現実的だった。
二階建ての本棚と、螺旋階段に気づくまでは。
僕は画面を見つめた。
「……僕が車椅子を使っていること、分かっていますよね?」
大地さんは固まった。
画面を見た。
僕を見た。
もう一度、画面を見た。
「……そこは少し見落としていたかもしれん」
由紀さんは顔を覆った。
葵は吹き出した。
◇ ◇ ◇
次のスライドには、こう書かれていた。
『第三段階:理想の新婚生活』
暖炉のそばに座る二人のイラストが表示された。
一人は、どうやら僕らしい。
もう一人は葵だ。
しかし、なぜか男性のほうには立派なひげが生えていた。
僕は見つめた。
「どうして僕にひげがあるんですか?」
大地さんは眉をひそめた。
「画像作成ソフトの調子が悪くてな」
「なるほど」
葵は笑いすぎて、カメラから顔をそむけていた。
そして、最後のスライドが現れた。
『第四段階:ウェディングベル?』
僕は目を閉じた。
「……やっぱり」
由紀さんが立ち上がった。
「大地」
彼はすぐに背筋を伸ばした。
「はい、あなた」
「消しなさい」
「でも――」
「今すぐ」
彼は従った。
◇ ◇ ◇
しばらく、部屋は静かだった。
やがて、大地さんが椅子に座った。
そして、思いがけないことが起きた。
彼は冗談をやめた。
「春人」
僕は彼を見た。
「はい?」
「俺が調子に乗りすぎるのは分かってる」
僕はかすかに笑った。
「そうですね」
彼は苦笑した。
それから、真剣な表情になった。
「でも、お前が引っ越したらどうなるのか、ずっと考えていたんだ」
僕は黙った。
彼は続けた。
「俺たちから遠く離れることになるだろう」
由紀さんが彼を見た。
「葵ちゃんは向こうにいる。でも、葵ちゃんにも仕事があるし、自分の生活がある」
葵はゆっくりうなずいた。
大地さんは僕を見た。
「だから、お前の周りにちゃんと人がいてほしいんだ」
胸が締めつけられた。
彼は続けた。
「看護師さんや医者だけじゃない。友達とか、お前のことを知っている人とか。何かあったとき、気づいてくれる人たちがな」
珍しく――
僕には冗談が浮かばなかった。
あの馬鹿げたプレゼンテーションや、勝手に進める結婚式の計画の裏で――
叔父は心配していたのだ。
本気で。
◇ ◇ ◇
僕は優しく微笑んだ。
「大地さん」
彼は僕を見た。
「何だ?」
「分かっています」
彼は黙っていた。
「それに、ありがたいと思っています」
僕は少し間を置いた。
「でも、もし引っ越しても、僕が消えてしまうわけじゃありません」
彼はかすかに微笑んだ。
「分かってる」
「必要な看護体制が安全に整うまでは、引っ越しを決めるつもりもありません」
由紀さんがうなずいた。
僕は続けた。
「引っ越したあとも、大地さんと由紀さんには頼ることがあると思います」
大地さんの表情が和らいだ。
「本当か?」
僕は笑った。
「もちろんです」
それから、付け加えた。
「ただし、パワーポイントの資料は少なめにしてください」
葵が吹き出した。
大地さんはにやりと笑った。
「それは約束できんな!」
◇ ◇ ◇
数日後、恵美さんから連絡があった。
現在受けている看護サービスの再評価について、進展があったという。
審査担当者が、追加の話し合いを希望していた。
日常生活で必要な介助や医療的ケアについて、さらに確認したいことがあるらしい。
最終的な判断は、まだ出ていない。
手続きが続いている間、現在のサービスも継続されていた。
それでも――
僕は緊張した。
恵美さんは、必要な書類を準備し、医療的な情報が正確に伝わるようにすると説明してくれた。
また、継続的な専門看護が僕の日常生活にどのような影響を与えているか、僕自身が説明する機会もあるという。
僕はうなずいた。
「分かりました」
彼女は微笑んだ。
「しっかり準備しましょう」
僕は彼女を見た。
「恵美さん」
「はい?」
「僕も話し合いに参加したいです」
「もちろんです」
「僕がそこにいるのに、みんなが僕について話しているだけ、というのは嫌なので」
彼女はうなずいた。
「では、春人さんが参加できるよう、十分な時間と意思伝達の環境を確保しましょう」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は説明のためのメモを作り始めた。
何かを大げさに伝えたいわけではなかった。
むしろ、その逆だ。
自分の状況を正確に説明したかった。
人工呼吸器による呼吸管理。
日常的に必要な呼吸ケア。
専門看護師が行う医療的な処置。
安定した人員配置の重要性。
ケアが途切れた場合に生じる危険。
そして、継続的な支援によって、僕が自宅で生活できているという事実。
しかし、もう一つ伝えたいことがあった。
僕の人生は、医療行為の集まりではない。
僕は小説を書いている。
家族と時間を過ごしている。
友達と交流している。
文学活動に参加している。
自分で決断している。
そして、将来の計画を立てている。
受けている看護は、そうした生活とは別のものではない。
それらを可能にしている大切な一部なのだ。
僕は文書を見つめた。
そして、こう書いた。
『専門的な看護を必要としていることは、自立したいという僕の願いを否定するものではありません。安定したケアがあるからこそ、自分の人生について選択することができるのです。』
もう一度読み返した。
そして、保存した。
◇ ◇ ◇
その週末、葵と僕はオンラインデートをすることにした。
特別な計画ではない。
二人とも忙しかった。
葵は研修の面接準備をしていた。
僕は森探偵が犯した数々の判断ミスを修正していた。
そして、二人とも疲れていた。
だから、ビデオ通話をしながら一緒に夕食を食べることにした。
葵はパスタを作った。
僕は夏美さんに必要な介助をしてもらいながら、夕食を取った。
お互いの顔が見えるよう、カメラの位置も調整した。
「乾杯!」
葵がグラスを持ち上げた。
僕は微笑んだ。
「乾杯」
彼女はパスタを一口食べた。
そして、眉をひそめた。
僕は警戒した。
「どうしたの?」
「何でもない」
「葵」
「大丈夫」
「全然、大丈夫そうに見えないけど」
彼女は皿を見つめた。
「……塩を入れすぎたかもしれない」
僕は笑った。
「どのくらい?」
彼女はためらった。
「かなり」
僕はにやりと笑った。
「救急車を呼ぼうか?」
「春人!」
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、僕たちは一緒に映画を見た。
正確には――
一緒に見ようとした。
最初の十分間は、再生のタイミングを合わせることに費やされた。
葵がカウントダウンした。
「三、二、一、再生!」
僕も再生した。
「待って!」
「どうしたの?」
「そっちが先に進んでる!」
「どのくらい?」
「二十秒!」
もう一度試した。
そして、また試した。
最終的に、数秒程度のずれで再生を始めることができた。
葵は勝ち誇った顔をした。
「できた!」
僕はため息をついた。
「現代技術とは、まさに奇跡だね」
彼女は笑った。
「文句言わないの」
「もちろん」
◇ ◇ ◇
映画が終わったあとも、僕たちは通話を続けていた。
葵はソファに座っていた。
僕は車椅子で楽な姿勢を取っていた。
家の中は静かだった。
「春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
彼女は少しためらった。
「もし同じ街に住めるようになったら、どんな生活をしたい?」
僕は考えた。
最初は、立派なものを想像した。
きれいな家。
本でいっぱいの図書室。
静かな庭。
でも、そのあと――
もっと小さなことが浮かんできた。
「君が仕事から帰ってきたとき、今日あったことを聞きたいかな」
葵は微笑んだ。
「本当に?」
「うん」
僕は続けた。
「それから、ひどい映画を一緒に見たり」
彼女は笑った。
「どうして、ひどい映画なの?」
「そのほうが、一緒に文句を言えるから」
葵はにやりと笑った。
「確かに、私たちらしいね」
僕は微笑んだ。
「それから、一緒に本屋へ行きたい」
「もちろん」
「本棚をどこに置くかで、きっと言い争いになるだろうね」
葵は笑った。
「春人は絶対に本棚を増やしすぎるもん」
「本棚に多すぎるという概念は存在しないよ」
「存在するから!」
◇ ◇ ◇
しばらくして、葵は静かになった。
「本当に、いつかそんな日が来ると思う?」
僕は少し考えた。
「来てほしいと思ってる」
彼女はうなずいた。
「私も」
僕は続けた。
「でも、保証できないことを約束したくはないんだ」
「うん」
僕は微笑んだ。
「だから、もっと小さな約束をしない?」
葵が僕を見た。
「例えば?」
「これからも、お互いのために時間を作ること」
彼女の表情が和らいだ。
「忙しくても?」
「忙しいときこそ」
葵は微笑んだ。
「何か気になることがあったら、ちゃんと話すことも?」
僕はうなずいた。
「うん」
「それから、怖いからって、大切なことを決めないようにすること?」
僕は考えた。
「そうできるよう、努力するって約束なら」
彼女は小さく笑った。
「それならいいよ」
僕は微笑んだ。
「じゃあ、約束だね」
葵はカメラに向かって小指を立てた。
「指切りげんまん?」
僕は見つめた。
「……僕にはできないって知ってるよね」
彼女は固まった。
そして、顔を覆った。
「あっ! 春人、ごめん!」
僕は吹き出した。
「葵!」
彼女はひどく慌てていた。
「何も考えてなかった!」
「大丈夫だよ!」
僕は笑い続けた。
「言葉で指切りしたことにしよう」
彼女も笑った。
「うん」
◇ ◇ ◇
翌週、創作サークルで次の作品検討会が開かれた。
今回は、短編集に向けて書いている物語の、少し長い部分を読んだ。
主人公は、知らない街で少しずつ友達を作り始めていた。
本屋には定期的に通うようになった。
アパートの外でいつも花の世話をしている女性とも話すようになった。
街の道も、少しずつ見覚えのあるものになっていった。
しかし、彼はまだ寂しさを感じていた。
本当に自分の居場所があるのか、不安だった。
読み終えると、参加者の一人が話しかけてきた。
「春人さん、一つ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「この物語って、春人さんの実体験がもとになっているんですか?」
僕は瞬きをした。
「……完全にそういうわけではありません」
相手は微笑んだ。
「ただ、テーマに少し共通するものを感じたので」
僕はためらった。
「フィクションですから」
「もちろんです」
しかし、その質問が心に残った。
あとで幸子先生に話すと、先生は静かに聞いていた。
そして、微笑んだ。
「どうして、それが気になったの?」
僕は考えた。
「自分のことを書いているだけだと思われたくないんです」
先生はうなずいた。
「それの何が問題なの?」
僕は少し間を置いた。
「フィクションには、想像力が必要でしょう?」
幸子先生は僕を見た。
「春人」
「はい」
「想像力と実体験は、相反するものだと思っているの?」
僕は黙った。
先生は続けた。
「作家は誰でも、何かから物語を生み出しているの。記憶、観察、感情、まだ答えの出ていない疑問」
僕はうなずいた。
「そうですね」
「自分の知っている感情が物語に含まれているからといって、それがフィクションでなくなるわけじゃないわ」
僕は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「……確かに」
幸子先生はうなずいた。
「よろしい」
少し間を置いた。
「ところで、あの本屋の場面だけど」
僕はため息をついた。
「……始まりましたね」
「店主が哲学的すぎるわ」
僕は目を閉じた。
「やっぱりですか」
◇ ◇ ◇
数日後、思いがけないことが起きた。
創作サークルが、初めての対面式文学交流会を企画していると発表したのだ。
開催場所は、葵の暮らす街だった。
主催者たちは、バリアフリーに対応した地域の施設を利用したいと考えていた。
朗読会。
作品についての話し合い。
そして、地元の作家たちが直接交流できる機会。
そのあと――
悠斗君から個別にメッセージが届いた。
『春人さん、朗読者の一人として参加してもらえませんか?』
僕は画面を見つめた。
数秒間、返事ができなかった。
そして、入力した。
『僕が?』
すぐに返事が来た。
『はい!』
僕はもう一度メッセージを見た。
朗読者として参加する。
葵の暮らす街で開かれるイベントに。
これまでオンラインで話してきた人たちと、実際に会えるかもしれないイベントに。
胸が高鳴った。
しかし、すぐに現実が追いついてきた。
移動。
交通手段。
看護。
医療機器。
緊急時の対応。
考えなければならないことは、山ほどある。
僕は画面を見つめた。
そして、初めて――
別の可能性があるのではないかと思った。
引っ越しではない。
まだ、その段階ではない。
でも――
訪問することなら。
◇ ◇ ◇
翌朝、恵美さんに連絡した。
「一つ聞きたいことがあるんです」
彼女は微笑んだ。
「もちろんです」
「葵の街へ、短期間だけ行くことはできるでしょうか?」
恵美さんは少し考えた。
「可能性はあります。ただし、非常に慎重な準備が必要です」
僕はうなずいた。
「分かっています」
彼女は続けた。
「移動中の医療的なケア、滞在中の専門看護体制、医療機器、電源の確保、緊急時の対応、そしてバリアフリーの宿泊先などを検討する必要があります」
「はい」
「必要な支援を実際に手配できるかどうかも確認しなければなりません」
僕はもう一度うなずいた。
「もちろんです」
彼女は微笑んだ。
「でも、調べてみることはできますよ」
胸が高鳴った。
「……本当ですか?」
「はい。調べることと、旅行を決定することは別ですから」
「分かっています」
「まずは何が必要なのか、整理するところから始めましょう」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その日の午後、葵に話した。
彼女は僕を見つめた。
「待って」
僕は微笑んだ。
「何?」
「遊びに来ることを考えてるの?」
「考えてるだけだよ」
「こっちに?」
「まあ、君が住んでいるのはそっちだからね」
「春人!」
僕は笑った。
「まだ何も決まってないよ」
彼女は勢いよくうなずいた。
「分かってる」
「看護体制も、移動手段も、機器のことも、全部準備しないといけない」
「分かってる」
「それに、実現できないかもしれない」
「分かってるってば!」
彼女は満面の笑みを浮かべていた。
僕もつられて笑ってしまった。
「でも……」
彼女はためらった。
「でも、もしかしたら?」
僕はうなずいた。
「もしかしたらね」
しばらく、二人とも黙っていた。
そして、葵が口元を押さえた。
目に涙が浮かんでいた。
僕は優しく微笑んだ。
「ねえ」
彼女は少し震える声で笑った。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
彼女は首を振った。
「ただ……」
僕は待った。
「春人にこの街を案内するところ、何度も想像してたから」
胸が締めつけられた。
彼女は涙を浮かべながら微笑んだ。
「前に話した本屋さん」
「うん」
「駅の近くの小さなカフェ」
「そうだね」
「それから、湖のある公園」
僕は微笑んだ。
「覚えてるよ」
彼女は笑った。
「それを、本当に見せられるかもしれないんだね」
僕はうなずいた。
「そうだね」
◇ ◇ ◇
その夜、僕はパソコンの前で静かに過ごしていた。
招待状は、まだ画面に表示されていた。
『地域文学交流会・朗読者としてのご招待』
僕はもう一度、その言葉を読んだ。
これまでずっと、僕は引っ越しという形で未来を考えてきた。
家を見つけること。
看護サービスを整えること。
新しい生活を築くこと。
もちろん、それらは今でも大切だった。
でも、もしかしたら――
始め方は一つではないのかもしれない。
短い訪問。
人々と直接会う機会。
自分の目で街を見る機会。
そして、想像していた場所が、実際にはどんなところなのかを知る機会。
もちろん、簡単なことではない。
訪問するだけでも、慎重な計画が必要になる。
必要な支援を確保できる保証もない。
それでも、初めて気づいた。
引っ越すまで待たなくても、その未来の一部を経験できるかもしれないのだ。
◇ ◇ ◇
僕は母の写真を見た。
それから、葵の手紙を見た。
そして、青い扉のある家の写真に視線を移した。
僕は微笑んだ。
「母さん」
部屋は静かだった。
「また一つ、前に進む方法が見つかったかもしれないよ」
引っ越しではない。
まだ、その段階ではない。
でも――
訪問すること。
小さな旅。
これまでパソコンの画面越しにしか知らなかった場所へ行く機会。
僕は、そこにいる人たちのことを考えた。
葵。
健二さん。
悠斗君。
創作サークルの仲間たち。
そして、もしかしたら拓海君にも会えるかもしれない。
僕の名前を知っている人たち。
僕の物語を聞きたいと思ってくれる人たち。
少しずつ、僕の人生の一部になり始めている人たち。
◇ ◇ ◇
その夜遅く、葵からメッセージが届いた。
『春人、まだ起きてる?』
僕は微笑んだ。
『もちろん。』
『旅行のこと考えてる?』
『少しね。』
『私も。』
僕は小さく笑った。
すると、もう一通届いた。
『もし今回は無理でも、こうして考え始められたことがうれしい。』
僕はその言葉を見つめた。
そして、返信した。
『僕もだよ。』
葵から、さらにメッセージが届いた。
『もし来られたら、街中の本屋を全部回らせたりしないから安心してね。』
僕は微笑んだ。
『それは残念だな。』
『春人!』
『少なくとも十二軒くらいは期待してたのに。』
『十二軒!?』
僕は笑った。
そして、入力した。
『じゃあ、まずは一軒からにしようか。』
すぐに返事が来た。
『約束ね。』
◇ ◇ ◇
僕はもう一度、招待状を見た。
旅行の日程は、まだ決まっていない。
看護体制も確保されていない。
交通手段の予約もしていない。
実現できる保証は、どこにもない。
でも、そこには別のものがあった。
可能性。
小さくて。
不確かで。
壊れやすいもの。
それでも――
調べてみる価値のある、確かな可能性だった。
僕は微笑んだ。
長い間、人生の新しい章を迎えるには、何か大きな変化が必要だと思っていた。
新しい家。
新しい街。
新しい始まり。
でも、始まりは必ずしも劇的な形で訪れるわけではないのかもしれない。
時には――
一通のメール。
一枚の招待状。
一つの会話。
あるいは、一つの質問。
『来てみませんか?』
そして、最も大切なのは、すぐに「はい」と答えられることではないのかもしれない。
答えられるかどうかを、確かめてみようと思えることなのだ。
◇ ◇ ◇
僕は短編小説を再び開いた。
主人公は、知らない街の小さな本屋の前に立っていた。
そこには、まだ自分の家がなかった。
未来がどうなるのかも分からなかった。
でも、店主は彼の顔を覚え始めていた。
花の世話をしている女性も、挨拶してくれるようになった。
そして、街の道も、以前ほど知らない場所には感じられなくなっていた。
僕は幸子先生の言葉を思い出した。
『簡単に答えを出さないこと。』
僕は微笑んだ。
そして、書いた。
『彼はずっと、自分の家と呼べる場所を探していた。だからこそ、すでに自分のために居場所を作ってくれている人たちの存在に気づかなかったのだ。』
少し間を置いた。
そして、続きを書いた。
『居場所とは、一度に見つかるものではないのかもしれない。』
『誰かが自分の名前を覚えてくれるたびに、少しずつ気づいていくものなのかもしれない。』
僕はもう一度読み返した。
そして、保存した。
◇ ◇ ◇
窓の外は、静かな夜だった。
人工呼吸器が、いつもの規則正しい音を立てていた。
別の街では、葵がそろそろ眠る準備をしているころだろう。
明日になれば、彼女はまた仕事へ向かう。
僕は、森探偵の原稿を改稿し続ける。
恵美さんは、短期間の訪問が可能かどうかを調べてくれる。
そして、安全に暮らせる家探しも、まだ終わっていない。
何も魔法のように変わったわけではなかった。
問題は、まだそこにある。
距離も変わらない。
不確かさも残っている。
それでも、僕の中では何かが変わっていた。
初めて、葵の街へ引っ越す日のことだけではなく――
その街を訪れる日のことを想像していた。
パソコンの画面越しに知り合った友達と、直接会う日。
僕の物語を聞きたいと思ってくれる人たちの前で、朗読する日。
そして、もしかしたら――
葵のお気に入りのカフェで一緒に過ごし、本屋を一軒だけ回るので本当に十分なのかと、二人で言い争う日。
僕は微笑んだ。
「一歩ずつ、だね」
その言葉には、どこか懐かしさがあった。
母も、そう信じていた。
由紀さんも。
葵も。
そして今――
僕自身も、少しずつ信じられるようになっていた。
僕はもう一度、招待状を見た。
それから、画面を閉じた。
諦めたからではない。
ただ、未来がそこにあると信じるために、一晩中見つめ続ける必要はないと思えたからだ。
未来は、まだそこにある。
僕が別の誰かになるのを待っているわけではない。
すべての困難が消えるのを待っているわけでもない。
ただ、次の慎重で確かな一歩を待っている。
そして、距離の向こうでは――
青い扉が、調べられる日を待っている。
まだ知らない街が、訪れる日を待っている。
そして、僕の愛する女の子が、自分の暮らす街を僕に案内できる日を夢見ている。




