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第80話 まだ名前のない居場所と、僕たちが手放さなかった小さな約束

物語の書き出しには、不思議な力がある。

たった一行で、読者を知らない世界へ連れていくことができる。

たった一つの言葉で、誰かの人生を変えることだってあるかもしれない。

少なくとも、僕はそう信じている。

だからこそ、書き出しにはいつも悩まされる。

今回も例外ではなかった。

僕は、パソコンの画面を見つめていた。

『その街には、まだ僕の家がなかった。』

悪くない。

むしろ、気に入っていた。

問題は、その次だった。

『けれど、僕の名前を知っている人が、少しずつ増えていた。』

これも悪くない。

では、その次は?

僕は考えた。

五分。

十分。

十五分。

そして、気づいた。

僕は、物語を二行しか書いていない。

「……これは困った」

夏美さんがこちらを見た。

「どうしました?」

「小説が進みません」

「まだ書き始めたばかりですよね?」

「はい」

「どのくらい書きました?」

僕は少し考えた。

「二行です」

夏美さんは黙った。

そして、笑った。

「春人さん」

「はい」

「もう少し書いてから悩んでもいいと思いますよ」

僕は目を閉じた。

「正論は人を傷つけるんですね」

◇ ◇ ◇

短編作品集の話が出てから、数日が経っていた。

悠斗君たちの創作サークルは、思っていた以上に活発だった。

オンラインのグループには、毎日のように新しいメッセージが届いた。

作品の感想。

好きな作家の話。

おすすめの本。

そして、ときどき、まったく関係のない話題。

昨日は、なぜかカレーに入れるじゃがいもの大きさについて、三十件以上の議論が続いていた。

僕は参加しなかった。

いや、正確には、参加しようとした。

でも、僕が返信を入力している間に、議論はすでに福神漬けの必要性へと移っていた。

文学とは、実に奥が深い。

そんなサークルで、僕は少しずつ居場所を見つけ始めていた。

まだ直接会ったことのない人たち。

同じ街に住んでいるわけでもない人たち。

それでも、言葉を通してつながっている。

それが、僕にはうれしかった。

◇ ◇ ◇

その日の午後、悠斗君から連絡があった。

『春人さん、短編の進み具合はどうですか?』

僕は画面を見た。

そして、正直に返信した。

『二行』

すぐに返事が来た。

『えっ』

僕は続けた。

『傑作の二行だよ』

『自信満々ですね!』

『もちろん』

『じゃあ、完成が楽しみです!』

僕はため息をついた。

「……期待が重い」

夏美さんが笑った。

「自分で傑作って言ったんでしょう?」

「言葉には責任が伴うんですね」

「そうですね」

僕は画面に向き直った。

そして、三行目を書いた。

『僕が初めてその街を訪れたのは、雨の降る午後だった。』

少し考えた。

「……悪くない」

夏美さんが微笑んだ。

「三行になりましたね」

僕はうなずいた。

「大きな進歩です」

◇ ◇ ◇

翌日、恵美さんから連絡があった。

アパートの件だった。

電気設備の詳しい調査について、管理会社から追加の説明が届いたらしい。

必要な改修の一部は、建物全体に関わる可能性があるという。

つまり、部屋の中だけを変更すれば済む話ではないかもしれない。

さらに、浴室の入口を広げる工事についても、構造上の制限がある可能性があった。

僕は資料を読みながら、ため息をついた。

「また問題ですね」

恵美さんはうなずいた。

「はい」

「この物件、どう思いますか?」

彼女は少し考えた。

「現時点では、慎重に考える必要があります」

僕は苦笑した。

「恵美さんの得意な言葉ですね」

彼女も微笑んだ。

「そうかもしれません」

そして、真剣な表情になった。

「春人さん。物件を探すことは大切ですが、条件に合わない場所を無理に選ぶ必要はありません」

僕はうなずいた。

「分かっています」

「安全に生活できることが、最優先です」

「はい」

僕は画面を見た。

期待していた物件だった。

一階。

比較的広い寝室。

駅や商店街にも近い。

そして、葵の暮らす街にある。

でも、それだけでは足りない。

僕が生活するには、もっと多くの条件が必要だった。

「……今回は、見送ったほうがいいかもしれませんね」

僕が言うと、恵美さんは静かにうなずいた。

「その判断も、一つの前進だと思います」

僕は少し笑った。

「前進しているのに、家が遠くなる気がします」

「そう感じるのも自然だと思います」

◇ ◇ ◇

その夜、葵に話した。

「そうなんだ……」

彼女は残念そうだった。

「うん」

「結構よさそうな部屋だったのにね」

「そうだね」

僕は少し間を置いた。

「でも、無理して選ぶわけにはいかないから」

葵はうなずいた。

「もちろん」

しばらく、僕たちは黙っていた。

そして、彼女が微笑んだ。

「また探そう」

僕は彼女を見た。

「うん」

「今度は、もっといいところが見つかるかもしれないし」

僕は小さく笑った。

「君は前向きだね」

彼女は首を振った。

「そうでもないよ」

「そう?」

「本当は、すごく残念」

彼女は少し笑った。

「でも、春人が安全に暮らせない場所だったら、意味がないもん」

胸が温かくなった。

「ありがとう」

彼女は微笑んだ。

「どういたしまして」

◇ ◇ ◇

数日後、僕は幸子先生とオンラインで話していた。

短編の相談をするためだった。

彼女は、僕の書いた三行を読んだ。

そして、しばらく黙った。

僕は緊張した。

「……どうでしょう?」

幸子先生は画面を見たまま言った。

「三行ね」

「はい」

「ずいぶん短いわね」

「短編ですから」

彼女は僕を見た。

「短編にも限度があるでしょう」

僕は笑った。

「冗談です」

「知ってるわ」

彼女は少し考えた。

「でも、書き出しは悪くない」

僕は驚いた。

「本当ですか?」

「ええ」

彼女は続けた。

「ただし、ここから何を書くのかが大切よ」

僕はうなずいた。

「はい」

「街に家がない主人公が、何を探しているのか」

僕は考えた。

「居場所、でしょうか」

幸子先生は微笑んだ。

「それは答えとしては簡単すぎるわね」

僕は黙った。

「居場所って何?」

彼女が尋ねた。

僕は少し考えた。

「……安心できる場所?」

「それだけ?」

「自分らしくいられる場所」

「それだけ?」

僕は考え込んだ。

幸子先生は静かに言った。

「春人。あなたは最近、そのことをずっと考えているでしょう」

僕は彼女を見た。

「はい」

「だったら、簡単に答えを出さないことね」

◇ ◇ ◇

その言葉は、僕の中に残った。

居場所とは何だろう。

家だろうか。

人だろうか。

それとも、自分が何かを選べるということだろうか。

僕は、その夜、しばらく考えた。

そして、物語の主人公を少し変えることにした。

彼は、知らない街に引っ越してきた青年だった。

しかし、そこにはまだ、自分の家と呼べる場所がなかった。

一時的な住まい。

慣れない街。

知らない人たち。

そして、彼には一つだけ、奇妙な習慣があった。

毎日、街のどこかで一人の人に話しかけるのだ。

最初は、ただ道を尋ねるだけ。

次の日は、本屋の店員におすすめを聞く。

その次の日は、公園で犬を散歩させている老人と話す。

そして、少しずつ、彼の名前を知っている人が増えていく。

僕は、その設定を気に入った。

でも、幸子先生の言葉を思い出した。

簡単に答えを出さないこと。

だから、主人公はすぐに幸せにならない。

寂しい日もある。

誰とも話せない日もある。

そして、ようやく知り合った人と、すれ違ってしまう日もある。

それでも、彼は街を歩き続ける。

僕は微笑んだ。

「……これなら、書けそうだ」

◇ ◇ ◇

そのころ、葵の研修についても新しい動きがあった。

彼女は、正式に応募することを決めたという。

まだ選ばれたわけではない。

面談もある。

勤務の調整も必要だった。

でも、自分から挑戦してみたいと思ったらしい。

その日の夜、彼女は少し緊張した顔で電話してきた。

「春人」

「やあ」

「今日、応募したよ」

僕は微笑んだ。

「おめでとう」

彼女は少し驚いた。

「まだ決まってないよ?」

「応募したことに、おめでとう」

葵は黙った。

それから、微笑んだ。

「ありがとう」

僕は続けた。

「勇気が必要だったでしょう?」

彼女はうなずいた。

「うん」

「だったら、それだけでもお祝いする価値があるよ」

彼女の目が少し潤んだ。

「春人……」

僕は笑った。

「泣くのは、合格してからにして」

彼女は笑った。

「もう!」

◇ ◇ ◇

翌週、由紀さんが僕の家に来た。

大地さんも一緒だった。

僕は彼を見た瞬間、警戒した。

なぜなら、彼は大きな紙袋を持っていたからだ。

「……何ですか、それ」

彼はにやりと笑った。

「プレゼントだ!」

僕は目を細めた。

「嫌な予感がします」

由紀さんがため息をついた。

「私も」

大地さんは紙袋から、小さな木製の看板を取り出した。

そこには、こう書かれていた。

『未来の高橋・水野家』

僕は固まった。

「……大地さん」

「どうだ!」

「まだ何も決まってません」

「分かってる!」

「じゃあ、どうして?」

「未来への投資だ!」

由紀さんが額に手を当てた。

「大地……」

僕はため息をついた。

「これ、どこに置くつもりですか?」

彼は胸を張った。

「玄関だ!」

僕は即答した。

「却下です」

「何でだ!」

「まだ存在しない家の看板を、今の家に置く理由がありません」

彼は考え込んだ。

そして、突然ひらめいたように言った。

「じゃあ、仮設看板として――」

「却下です」

◇ ◇ ◇

結局、看板は由紀さんに没収された。

大地さんは不満そうだった。

「せっかく作ったのに」

僕は微笑んだ。

「気持ちはありがたいです」

彼は顔を上げた。

「本当か?」

「はい」

僕は少し間を置いた。

「でも、次は作る前に相談してください」

彼はうなずいた。

「分かった!」

由紀さんが僕を見た。

「春人、気をつけなさい」

僕は瞬きをした。

「何がですか?」

「その言い方だと、次も作るわよ」

僕は固まった。

大地さんはにやりと笑った。

「次は表札だな!」

「大地さん!!」

◇ ◇ ◇

その日の午後、僕は健二さんと話した。

アパート探しについて相談するためだった。

彼は、僕の話を最後まで聞いてくれた。

「なるほどね」

「はい」

「その物件は、今のところ難しそうだね」

僕はうなずいた。

「そう思います」

健二さんは少し考えた。

「春人君、一つ聞いてもいい?」

「もちろんです」

「引っ越し先の街で、どんな生活をしたい?」

僕は少し驚いた。

「どんな生活、ですか?」

「うん」

彼は微笑んだ。

「家の条件や看護体制はもちろん大事だけど、それが整った先で何をしたいのかも考えておくといいと思う」

僕は黙った。

そして、考えた。

葵と会う。

それは当然だった。

でも、それだけではない。

本屋に行きたい。

図書館にも行きたい。

創作サークルの人たちと、直接会って話してみたい。

地域のイベントに参加したい。

そして、自分の仕事を続けたい。

僕は少しずつ話した。

健二さんはうなずきながら聞いていた。

「いいね」

僕は微笑んだ。

「ありがとうございます」

彼は続けた。

「それなら、住む場所を探すときも、その生活ができるかどうかを考えられるね」

僕はうなずいた。

「確かに」

「ただ住めるだけじゃなくて、暮らせる場所を探すんだよ」

その言葉が、僕の胸に残った。

◇ ◇ ◇

数日後、悠斗君たちの創作サークルで、初めてのオンライン作品検討会が開かれた。

参加者は六人。

僕を含めて、全員が何かを書いていた。

詩。

短編小説。

エッセイ。

そして、なぜか料理の失敗談をまとめた作品。

僕は、その最後の作品が一番気になった。

作者は、二十代の女性だった。

「タイトルは『私が台所を出入り禁止になった日』です」

僕は思わず笑った。

「すごく気になります」

彼女は笑った。

「ありがとうございます」

作品の冒頭は、こうだった。

『その日、私は卵を焼こうとした。ただし、卵は最後まで卵のままだった。』

僕は吹き出した。

悠斗君も笑っていた。

文学には、いろんな形がある。

そして、それが楽しかった。

◇ ◇ ◇

僕の番になると、まだ途中の短編を紹介した。

主人公が、知らない街で少しずつ人と出会っていく物語。

みんな、真剣に聞いてくれた。

読み終えると、悠斗君が言った。

「春人さん、これ、すごく好きです」

僕は微笑んだ。

「ありがとう」

別の参加者が尋ねた。

「主人公は、最後に家を見つけるんですか?」

僕は少し考えた。

「まだ決めていません」

相手は驚いた。

「そうなんですか?」

「はい」

僕は微笑んだ。

「でも、家を見つけることだけが、この物語の答えじゃない気がするんです」

みんな静かに聞いていた。

「主人公が、どこで暮らすかを決める前に、その街でどう生きたいかを知っていく話にしたいんです」

悠斗君がうなずいた。

「なるほど……」

僕は続けた。

「だから、最後に家が見つからなくても、何かを得られる物語にしたい」

しばらく沈黙があった。

そして、参加者の一人が微笑んだ。

「それ、すごくいいと思います」

胸が温かくなった。

◇ ◇ ◇

会が終わったあと、僕は少し疲れていた。

でも、心地よい疲れだった。

夏美さんが声をかけた。

「楽しかったですか?」

僕は微笑んだ。

「はい」

「よかったですね」

「本当に」

僕は少し考えた。

「最近、思うんです」

「何をですか?」

「僕、前よりも人と話すことが増えたなって」

夏美さんはうなずいた。

「そうですね」

「昔は、家の中で一人で書いている時間がほとんどでした」

僕は微笑んだ。

「もちろん、今も書いている時間は長いですけど」

彼女は笑った。

「かなり長いですね」

「否定しないでください」

「事実ですから」

僕は笑った。

そして、続けた。

「でも、最近は書いたものを誰かに見せたり、感想を聞いたり、一緒に考えたりできるようになりました」

夏美さんは優しく微笑んだ。

「素敵な変化ですね」

僕はうなずいた。

「はい」

◇ ◇ ◇

その夜、葵と電話した。

彼女は少し疲れているようだった。

「今日も忙しかった?」

僕が尋ねると、彼女はうなずいた。

「うん」

「大丈夫?」

「大丈夫」

彼女は微笑んだ。

「でも、ちょっと疲れた」

僕は少し考えた。

「じゃあ、今日は短めにしようか」

葵は首を振った。

「ううん」

「無理しなくていいよ」

彼女は微笑んだ。

「春人の声、聞きたかったから」

胸が温かくなった。

「……そっか」

彼女は笑った。

「また照れてる」

「君は本当に観察力が鋭いね」

「看護師だから」

「便利な職業だね」

僕たちは笑った。

◇ ◇ ◇

しばらくして、葵が尋ねた。

「短編、進んでる?」

僕は微笑んだ。

「少しずつ」

「どんな話になりそう?」

僕は説明した。

知らない街。

家のない主人公。

少しずつ増えていく知り合い。

そして、居場所とは何かを探す物語。

葵は静かに聞いていた。

「……春人らしいね」

僕は笑った。

「そう?」

「うん」

彼女は少し考えた。

「でも、主人公は寂しくないのかな」

僕は黙った。

「知らない街で、家もなくて、知ってる人も少ないんでしょう?」

「そうだね」

「だったら、きっと寂しい日もあるよね」

僕はうなずいた。

「あると思う」

葵は微笑んだ。

「そういうところも書いてほしいな」

僕は彼女を見た。

「どうして?」

「だって、居場所を見つけるって、楽しいことばかりじゃないと思うから」

僕は黙った。

そして、微笑んだ。

「……いいこと言うね」

彼女は得意そうに笑った。

「でしょ?」

僕はにやりと笑った。

「共同著者にしようかな」

彼女は笑った。

「印税は半分ね!」

「それは困る」

◇ ◇ ◇

数日後、看護サービスの再評価について、恵美さんから連絡があった。

追加資料の提出が完了したという。

ただし、まだ最終的な判断は出ていなかった。

僕は少し安心した。

「ありがとうございます」

恵美さんは微笑んだ。

「いえ。今後、追加の確認が入る可能性もありますので、引き続き対応していきましょう」

僕はうなずいた。

「はい」

彼女は続けた。

「それから、引っ越しの調査についても、焦らず進めましょう」

「分かりました」

僕は少し考えた。

「恵美さん」

「はい?」

「最近、少し考え方が変わった気がするんです」

彼女は僕を見た。

「どう変わりました?」

「前は、引っ越せるかどうかばかり考えていました」

僕は続けた。

「でも今は、引っ越した先でどう暮らしたいかも考えるようになりました」

恵美さんは微笑んだ。

「それは、とても大切なことですね」

僕はうなずいた。

「はい」

◇ ◇ ◇

その夜、僕は短編の続きを書いていた。

主人公は、知らない街の小さな本屋に入った。

店主は、無口な老人だった。

最初は、必要なことしか話さなかった。

でも、主人公が毎週通ううちに、少しずつ会話が増えていく。

ある日、主人公は店主に尋ねた。

『この街に長く住んでいるんですか?』

老人はうなずいた。

『もう四十年になる』

『じゃあ、この街のことは何でも知っているんですね』

老人は笑った。

『いや。四十年住んでいても、知らないことばかりだ』

主人公は驚いた。

『そうなんですか?』

老人は窓の外を見た。

『街っていうのは、建物のことじゃないからな』

『じゃあ、何なんですか?』

老人は少し考えた。

『そこで生きている人たちのことだよ』

僕はそこで手を止めた。

そして、微笑んだ。

「……いいかもしれない」

◇ ◇ ◇

そのとき、葵からメッセージが届いた。

『春人、起きてる?』

僕は返信した。

『もちろん』

『また書いてるの?』

『どうして分かったの?』

『分かるよ』

僕は笑った。

『怖いね』

『彼女だからね』

僕は微笑んだ。

しばらくして、もう一通届いた。

『ねえ、春人』

『何?』

『私たち、いつか同じ街に住めるかな』

僕は画面を見つめた。

すぐには答えなかった。

そして、ゆっくり入力した。

『分からない』

少し間を置いた。

『でも、できる方法を探し続けたい』

葵から返信が来た。

『うん』

そして――

『私も』

◇ ◇ ◇

僕はその言葉を見つめた。

胸が温かくなった。

未来は、まだ決まっていない。

家も。

看護体制も。

仕事も。

そして、僕たちがいつ同じ場所で暮らせるのかも。

でも、僕たちは少しずつ前に進んでいた。

僕は小説を書いている。

葵は看護師として成長している。

僕たちは、新しい人たちと出会っている。

そして、お互いの夢を大切にしながら、同じ未来を考えている。

僕はパソコンの画面を見た。

短編の主人公は、まだ家を見つけていなかった。

でも、街の中には、彼の名前を知っている人が増えていた。

僕は微笑んだ。

もしかしたら、それだけでも、物語は前に進んでいるのかもしれない。

◇ ◇ ◇

翌朝、僕は新しい一文を書いた。

『その街には、まだ僕の家がなかった。』

少し間を置いた。

そして、続きを書いた。

『けれど、僕が帰ってくるのを待ってくれる人が、少しずつ増えていた。』

僕は画面を見つめた。

そして、微笑んだ。

「……これだ」

夏美さんがこちらを見た。

「何か思いつきました?」

僕はうなずいた。

「はい」

「よかったですね」

「やっと、物語の方向が見えてきました」

彼女は微笑んだ。

「それは楽しみです」

僕は笑った。

「まだ完成までは長いですけどね」

「焦らず進めましょう」

僕はうなずいた。

「そうですね」

◇ ◇ ◇

窓の外では、朝日が街を照らしていた。

僕はまだ、葵の街に住んでいない。

そこに、自分の家もない。

でも、僕の名前を知っている人たちがいる。

僕の文章を読んでくれる人たちがいる。

僕と一緒に物語を作ろうとしてくれる人たちがいる。

そして、何より――

僕が帰ってくるのを待ってくれている人がいる。

僕は母の写真を見た。

その隣にある葵の手紙を見た。

そして、パソコンの画面を見た。

未来は、まだ遠い。

でも、遠いからといって、何も始まっていないわけではない。

僕たちは、すでに歩き始めている。

それぞれの場所で。

それぞれの夢を抱えながら。

そして、いつか同じ場所で笑える日を願いながら。

僕は微笑んだ。

「さて」

夏美さんがこちらを見た。

「どうしました?」

「次の一行を書きましょうか」

彼女は笑った。

「はい」

僕は画面に向き直った。

まだ名前のない居場所。

まだ形になっていない未来。

そして、僕たちが手放さなかった小さな約束。

そのすべてが、これからの物語になっていく。

僕はゆっくりと、新しい文章を入力し始めた。

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