第79話 ようやく明日へ届いた言葉と、まだ分かち合い方を学んでいる僕たちの夢
人前で話すことは、昔からあまり得意ではなかった。
もっとも、僕の場合、人前で話すという行為そのものが、少し複雑だったりする。
人工呼吸器。
意思伝達装置。
姿勢の調整。
周囲の環境。
そして、何より大切なのが、僕の話を最後まで聞いてくれる人たちの存在だった。
だからといって、僕に話したいことがないわけではない。
むしろ、逆だった。
僕には、話したいことが山ほどあった。
書きたいことも。
伝えたいことも。
そして、できれば聞いてほしくないことも。
たとえば、僕が初めて書いた推理小説の犯人が、登場してから三ページ目で自分の犯罪を告白してしまったこととか。
あれは推理小説ではなかった。
ただの自白記録だった。
幸子先生には、今でも時々その話を持ち出される。
できれば忘れていただきたい。
しかし、今回の問題はもっと深刻だった。
僕は、これから知らない人たちの前で、自分の小説を朗読することになっていた。
しかも――
自分から参加すると言ってしまったのだ。
人間というのは、どうしてこうも自分を追い込む生き物なのだろう。
◇ ◇ ◇
「春人さん、準備はできていますか?」
夏美さんが、僕の隣から声をかけた。
「精神的には、まったく」
彼女は笑った。
「機器の準備はできていますよ」
「精神の予備電源はありませんか?」
「残念ながら」
僕はため息をついた。
「医療技術はまだまだ発展途上ですね」
夏美さんは笑いながら、僕の姿勢と意思伝達装置の位置を確認した。
今日は、健二さんが紹介してくれた地域団体のオンライン文学イベントの日だった。
葵が暮らしている街で活動する人たちが中心になって開催する、小さな朗読会。
参加者は十数人ほどだという。
大きなイベントではない。
有名な作家が集まるわけでもない。
それでも、僕にとっては大きな意味があった。
自分の作品を、知らない人たちに聞いてもらう。
しかも、そこには僕がいつか暮らすかもしれない街の人たちがいる。
それだけで、胸が落ち着かなくなった。
「緊張していますか?」
夏美さんが尋ねた。
「少し」
彼女は僕を見た。
「少し?」
僕は考え直した。
「かなり」
「でしょうね」
「否定してくださいよ」
「嘘はよくありませんから」
僕は目を閉じた。
「最近、僕の周りには正直な人しかいませんね」
◇ ◇ ◇
開始十五分前。
僕はオンライン会議に接続した。
画面には、すでに何人かの参加者がいた。
健二さん。
悠斗君。
イベントの主催者。
そして、初めて見る人たち。
「春人さん!」
悠斗君が手を振った。
僕は微笑んだ。
「こんにちは」
「今日は楽しみにしてました!」
「僕は逃げ出したい気分だよ」
彼は笑った。
「大丈夫ですよ!」
「その言葉に根拠は?」
「ありません!」
「正直でよろしい」
健二さんが笑った。
「春人君、あまり緊張しなくていいよ。みんな本が好きな人ばかりだから」
「それが問題なんです」
「どうして?」
「本が好きな人ほど、文章の粗に気づきますから」
悠斗君が吹き出した。
「それ、分かります!」
僕はため息をついた。
「分かってもらえても、安心できないんだけどね」
◇ ◇ ◇
朗読会が始まった。
最初の参加者は、短い詩を読んだ。
次の人は、家族との思い出をもとにした随筆を紹介した。
悠斗君は、自分が書いている短編小説の冒頭を読んだ。
都会の片隅にある古い喫茶店を舞台にした物語だった。
店主が毎朝、誰も座らない席にコーヒーを置く。
その理由を、一人の高校生が調べ始めるという話。
僕は思わず引き込まれた。
朗読が終わると、僕は感想を伝えた。
「すごくいい導入だと思う」
悠斗君の顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「うん。ただ、店主の秘密を明かすのは、もう少し引っ張ってもいいかもしれない」
彼はうなずいた。
「なるほど……!」
「でも、誰も座らない席にコーヒーを置くっていう発想は好きだよ」
「ありがとうございます!」
僕は微笑んだ。
そして、気づいた。
他人の作品について話している間は、まったく緊張していなかった。
問題は――
自分の番が近づいていることだった。
◇ ◇ ◇
「それでは、次は高橋春人さんです」
主催者の声が聞こえた。
僕の心臓が跳ねた。
「春人さんは、現在、長編の推理小説を執筆されていて、最近、編集者への再投稿をされたそうです」
画面の向こうで、何人かが拍手した。
僕は思わず苦笑した。
「まだ返事は来ていませんけどね」
主催者は微笑んだ。
「今日は、その作品から一場面を紹介していただきます」
僕はうなずいた。
事前に準備していた文章を、意思伝達装置の読み上げ機能で再生できる状態にしてあった。
でも、ただ機械に読ませるだけではない。
どこで間を置くか。
どの言葉を強調するか。
どんな順番で説明するか。
それらは、僕自身が決めていた。
画面の向こうの人たちを見た。
そして、ゆっくりと話し始めた。
「こんにちは。高橋春人です」
少し間を置いた。
「今日は、僕が書いている推理小説の一場面を聞いていただこうと思います」
僕は微笑んだ。
「ちなみに、主人公の森探偵は、僕よりもずっと不健康な生活をしています」
何人かが笑った。
「彼の食生活については、僕の師匠からも厳しい指摘を受けています」
さらに笑い声が起こった。
少しだけ、緊張がほぐれた。
「それでは、始めます」
◇ ◇ ◇
森探偵は、古い家の庭に立っていた。
庭には、色とりどりの花が咲いていた。
そのほとんどは、長い間手入れされていないように見えた。
しかし、庭の一角だけは違っていた。
そこだけ、土が湿っていた。
花は生き生きとしていた。
そして、老女は毎朝、同じ場所に水をやっていた。
森は最初、それを不審に思っていた。
何かを隠しているのではないか。
土の下に証拠が埋められているのではないか。
あるいは、そこに何かを埋めた過去があるのではないか。
だが、違った。
老女は、何かを隠そうとしていたのではなかった。
忘れまいとしていたのだ。
かつて、そこに立っていた人を。
もう誰も名前を口にしなくなった人を。
記録から消され、写真からも消され、まるで最初から存在しなかったかのように扱われた人を。
その人が好きだった花だけは、まだ残っていた。
森は、老女の隣に立った。
「どうして、毎日ここに水をやるんですか」
老女は答えなかった。
ただ、花を見つめていた。
長い沈黙のあと、彼女は言った。
「私がやめたら、誰も覚えていなくなるから」
森は何も言えなかった。
真実を明らかにすることが、必ずしも誰かを救うとは限らない。
失われた年月は戻らない。
傷つけられた人の心が、すぐに癒えるわけでもない。
それでも――
忘れられた人が、確かにそこにいたと伝えることには意味がある。
森は老女の隣に腰を下ろした。
そして、彼女が花に水をやり終えるまで、何も言わずに待った。
◇ ◇ ◇
読み上げが終わった。
画面の向こうは静かだった。
一秒。
二秒。
三秒。
僕は不安になった。
もしかして、退屈だったのだろうか。
文章が長すぎた?
説明が多すぎた?
それとも、僕の推理小説はやはり推理小説ではなく、園芸小説になってしまったのだろうか。
そのとき――
拍手が聞こえた。
一人。
また一人。
そして、画面の向こうにいる人たちが、次々と拍手してくれた。
僕は瞬きをした。
「……ありがとうございます」
主催者が微笑んだ。
「とても素敵な場面でした」
僕は少し照れくさくなった。
「ありがとうございます」
悠斗君が手を挙げた。
「春人さん!」
「何?」
「すごくよかったです!」
「本当?」
「はい! 最後に探偵が何も言わずに座るところが、特に好きです」
僕は微笑んだ。
「ありがとう」
すると、別の参加者が話しかけてきた。
「高橋さん、一つ質問してもいいですか?」
「もちろんです」
「どうして、最後に探偵に何も言わせなかったんですか?」
僕は少し考えた。
「最初は、何か言わせようと思っていたんです」
相手はうなずいた。
「でも、書き直しているうちに、言葉で解決できないこともあるんじゃないかと思うようになりました」
僕は続けた。
「森は真相を知りました。でも、老女が失った時間を取り戻すことはできません」
少し間を置いた。
「だから、彼にできるのは、彼女のそばにいることだけだったんです」
画面の向こうで、何人かが静かにうなずいた。
その瞬間、僕は初めて、自分の物語が誰かに届いたのだと感じた。
◇ ◇ ◇
イベントが終わりに近づいたころ、一人の若い参加者が僕に話しかけてきた。
彼は、僕と同じように電動車椅子を使っているという。
名前は拓海君。
高校生だった。
「高橋さん」
「はい」
「僕も、少しだけ小説を書いているんです」
僕は微笑んだ。
「そうなんだ」
「でも、誰にも見せたことがなくて」
「どうして?」
彼は少しためらった。
「自分なんかが書いたものを、誰かが読みたいと思うのかなって」
僕は黙って聞いた。
「それに、僕はあまり外に出られないし、経験も少ないから……」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し痛んだ。
昔の自分を思い出したからだ。
僕も、似たようなことを考えたことがあった。
自分には書けない物語があるのではないか。
自分には知らない世界が多すぎるのではないか。
誰かに読んでもらう価値があるのだろうか。
僕はゆっくりと答えた。
「拓海君」
「はい」
「僕も、そう思ったことがあるよ」
彼は驚いたようだった。
「本当ですか?」
「うん」
僕は微笑んだ。
「でも、物語を書くために、世界中のすべてを経験している必要はないと思う」
彼は静かに聞いていた。
「もちろん、知らないことは調べなきゃいけないし、自分とは違う経験を持つ人の話も聞かなきゃいけない」
僕は続けた。
「でも、自分が見てきたものや、感じてきたことにも、ちゃんと価値があるんだよ」
拓海君は黙っていた。
「君が書きたいと思った物語なら、まずは書いてみたらいい」
彼は小さくうなずいた。
「……はい」
そして、少し恥ずかしそうに笑った。
「今日、高橋さんの話を聞いて、もう少し書いてみようと思いました」
僕は言葉を失った。
◇ ◇ ◇
イベントが終わったあと、僕はしばらく画面を見つめていた。
夏美さんが隣から声をかけた。
「どうでした?」
僕は少し考えた。
「……不思議な気分です」
「不思議?」
「はい」
僕は微笑んだ。
「まだ本も出版されていないのに、誰かが僕の文章を聞いて、書きたいと思ってくれたんです」
夏美さんは優しく笑った。
「素敵なことですね」
僕はうなずいた。
「本当に」
しばらくして、葵から電話がかかってきた。
彼女は休憩時間を利用して、イベントの最後の部分だけ参加してくれていた。
「春人!」
「やあ」
「すごくよかったよ!」
僕は笑った。
「最後しか聞いてなかったでしょう?」
「でも、聞けたところはすごくよかった!」
「それはどうも」
彼女は微笑んだ。
「拓海君との話も聞いたよ」
僕は少し黙った。
「……うん」
「春人、うれしかったでしょう?」
僕は微笑んだ。
「すごく」
葵の表情が柔らかくなった。
「よかったね」
僕はうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
翌日、アパートの管理担当者から新しい資料が届いた。
電気設備について、予備的な確認が行われたらしい。
結果は、予想していたとおり、簡単なものではなかった。
必要な医療機器を安全に使用するためには、専門家による詳しい評価が必要だった。
場合によっては、電気設備の改修も必要になる。
しかし、その改修には建物側の承認が必要で、費用も小さくない可能性があるという。
さらに、浴室の入口の問題も残っていた。
僕は資料を読みながらため息をついた。
「また壁ですね」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「アパートの問題が、思っていたより複雑そうです」
彼女はうなずいた。
「恵美さんに相談しましょう」
「そうですね」
僕は資料を転送した。
しばらくして、恵美さんから返信が届いた。
専門家による現地評価を依頼するか、それとも別の物件を優先して探すか。
費用や時間も含めて、慎重に考える必要があるという。
僕は画面を見つめた。
以前の僕なら、ここでひどく落ち込んでいたかもしれない。
また駄目なのか。
どうしてこんなに難しいのか。
いつになったら前に進めるのか。
でも、今回は少し違った。
確かに残念だった。
けれど、まだ結論を急ぐ必要はなかった。
この物件を調べ続けることもできる。
別の物件を探すこともできる。
そして、どちらを選ぶにしても、僕の人生がそこで終わるわけではない。
◇ ◇ ◇
その日の午後、小林さんとのオンライン会議が行われた。
参加者は僕と恵美さん。
そして、小林さんの事業所と、協力の可能性を検討している別の看護事業所の担当者だった。
最初は、穏やかな雰囲気だった。
僕の現在の看護体制。
必要な医療的支援。
生活の希望。
緊急時の対応。
そして、引っ越し先でどのような生活を送りたいか。
一つずつ確認していった。
しかし、話が具体的になるにつれて、問題も見えてきた。
夜間の人員配置。
勤務交代の際の責任。
急な欠勤が出た場合の対応。
医師との連携。
保険制度上の条件。
そして、二十四時間の看護を途切れさせずに提供できるかどうか。
どれも簡単な問題ではなかった。
担当者の一人が言った。
「現時点では、必要な時間帯すべてに人員を配置できるとは申し上げられません」
僕はうなずいた。
「分かりました」
小林さんも静かに続けた。
「期待を持たせるようなことだけを申し上げるのは、適切ではありません」
僕は彼女を見た。
「はい」
「安全な体制を確保できると確認できるまでは、受け入れをお約束することはできません」
少し胸が痛んだ。
でも、僕はうなずいた。
「ありがとうございます」
小林さんは少し驚いたようだった。
「ありがとうございます、ですか?」
僕は微笑んだ。
「はい。できないことを、できると言われるより、ずっと安心できますから」
彼女の表情が柔らかくなった。
◇ ◇ ◇
会議の途中で、少し気になることがあった。
別の事業所の担当者が、僕の生活について質問するとき、何度か恵美さんのほうを見て話したのだ。
「ご本人は、日中どのように過ごされる予定でしょうか?」
恵美さんが答えようとする前に、僕は意思伝達装置で発言した。
「その質問には、僕から答えてもいいですか?」
担当者は少し驚いた。
「あ、はい。もちろんです」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして、自分の希望を説明した。
小説を書くこと。
地域の文学活動に参加すること。
友人を作ること。
可能であれば、図書館や文化施設にも行きたいこと。
そして、必要な看護を受けながら、自分で生活の選択をしていきたいこと。
担当者はうなずいた。
「なるほど」
僕は少し間を置いた。
「それから、一つお願いがあります」
「はい」
「僕についての質問は、まず僕に聞いていただけるとうれしいです」
画面の向こうが静かになった。
僕は続けた。
「もちろん、医療的な説明については、看護師さんや恵美さんの助けが必要なこともあります」
少し微笑んだ。
「でも、どんな生活をしたいかは、僕自身が答えられますから」
担当者はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
「いえ」
僕は穏やかに答えた。
「分かっていただければ大丈夫です」
◇ ◇ ◇
会議が終わったあと、恵美さんが言った。
「春人さん、さっきの伝え方、とてもよかったと思います」
僕は少し照れくさくなった。
「ありがとうございます」
「ご本人の意思を中心に考えることは、支援の基本ですから」
僕はうなずいた。
「分かってはいるんですけどね」
「はい」
「ときどき、僕のことを話しているのに、僕だけが会話の外にいるみたいになるんです」
恵美さんは静かに聞いていた。
「助けてもらうことは、嫌じゃないんです」
僕は続けた。
「むしろ、助けてもらわないと生活できないことがたくさんあります」
少し間を置いた。
「でも、それと、自分の人生について決められないことは違いますから」
恵美さんは微笑んだ。
「そのとおりです」
◇ ◇ ◇
その夜、葵に会議のことを話した。
彼女は真剣に聞いていた。
「そんなことがあったんだ」
「うん」
「嫌だった?」
僕は少し考えた。
「少しね」
彼女はうなずいた。
「そうだよね」
僕は微笑んだ。
「でも、ちゃんと伝えられたから」
葵の表情が柔らかくなった。
「春人らしいね」
「そう?」
「うん」
彼女は少し考えてから言った。
「私も、仕事で気をつけなきゃ」
僕は彼女を見た。
「どうして?」
「患者さんのことを話すとき、つい家族やほかのスタッフに確認したくなることがあるから」
彼女は続けた。
「もちろん、必要な場合もあるけど、本人に聞けることは本人に聞かないとね」
僕は微笑んだ。
「うん」
葵は少し照れくさそうに笑った。
「春人と付き合ってると、いろいろ勉強になるな」
僕はにやりと笑った。
「授業料を請求しようかな」
彼女は笑った。
「いくら?」
「一回につき、チーズケーキ一個」
「高い!」
「専門的な講義だからね」
「調子に乗らない!」
僕たちは笑った。
◇ ◇ ◇
数日後、編集者からメールが届いた。
僕は画面を見た瞬間、心臓が跳ねた。
「……来た」
夏美さんがこちらを見た。
「何がですか?」
「編集者からです」
彼女は微笑んだ。
「開いてみましょう」
僕は深呼吸した。
もっとも、人工呼吸器を使用している僕の場合、それは気持ちの問題でもあった。
そして、メールを開いた。
内容は、原稿を受け取ったという確認だった。
まだ採用が決まったわけではない。
不採用の連絡でもなかった。
ただ、追加で著者紹介と作品についての簡単な説明を送ってほしいという依頼があった。
僕は画面を見つめた。
「……なるほど」
夏美さんが尋ねた。
「どうでした?」
「まだ結果は出ていません」
「そうですか」
「でも、著者紹介を書いてほしいそうです」
彼女は微笑んだ。
「いいですね」
僕はため息をついた。
「そうでしょうか」
「どうしてですか?」
「自分のことを書くのが、一番難しいんです」
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は著者紹介を書き始めた。
『高橋春人。推理小説を中心に執筆活動を行う。』
そこまでは簡単だった。
問題は、その先だった。
僕は自分の障害について書くべきだろうか。
人工呼吸器を使っていること。
電動車椅子で生活していること。
二十四時間の看護を必要としていること。
それらは、確かに僕の人生の一部だった。
でも、それだけが僕ではない。
一方で、隠したいわけでもなかった。
僕はしばらく考えた。
それから、文章を書き直した。
『高橋春人。推理小説を中心に執筆活動を行う。重度の身体障害があり、電動車椅子と人工呼吸器を使用しながら生活している。日々の暮らしの中で感じる人間関係や記憶、選択の重みを、物語を通して描くことを大切にしている。』
僕は読み返した。
悪くない。
でも、何か足りない気がした。
少し考えてから、一文を追加した。
『好きなものは、推理小説、静かな午後、そして少し変わった人たちとの会話。』
僕は微笑んだ。
「これでいいかな」
そのとき、幸子さんからメッセージが届いた。
『著者紹介は書けた?』
僕は返信した。
『今、書いています』
すぐに返事が来た。
『余計なことを書きすぎないように』
僕は苦笑した。
「先生、見ていたんですか?」
◇ ◇ ◇
一方、葵の仕事にも新しい動きがあった。
彼女は、上司から紹介された研修について、詳しい説明を受けたという。
退院後の在宅生活を支えるための連携。
患者本人の希望を確認する方法。
家族や支援者との調整。
医療機器を必要とする人の退院支援。
それらについて学ぶ機会があるらしい。
その日の夜、葵は少し興奮した様子で電話してきた。
「春人!」
「やあ」
「今日、すごく勉強になったの!」
僕は微笑んだ。
「何があったの?」
彼女は、見学した退院支援の話し合いについて説明してくれた。
もちろん、患者の個人情報に関わることは話さなかった。
でも、そこで学んだことを熱心に語ってくれた。
「病院を出られることと、安心して家で暮らせることって、同じじゃないんだよね」
僕はうなずいた。
「そうだね」
「必要な支援が整っていなかったら、退院できても生活が続かないかもしれない」
「うん」
葵は少し考えた。
「それに、本人が何を望んでいるのかを聞くことも大切なんだって、改めて思った」
僕は微笑んだ。
「いい勉強になったんだね」
彼女はうなずいた。
「うん」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「もっと勉強したいな」
その顔を見て、僕はうれしくなった。
◇ ◇ ◇
もちろん、平和な日々がいつまでも続くわけではない。
なぜなら、僕には大地さんがいるからだ。
ある日の午後、彼から電話がかかってきた。
「春人!」
僕は嫌な予感がした。
「……何ですか?」
「結婚式のテーマについて相談がある!」
僕は固まった。
「……何の結婚式ですか?」
「お前と葵ちゃんのだよ!」
僕は目を閉じた。
「まだ結婚するって決めてません」
「分かってる!」
「じゃあ、どうして?」
「準備は早いほうがいい!」
僕はため息をついた。
「大地さん」
「何だ?」
「何も準備しないでください」
「でも、文学をテーマにした結婚式ってどうだ?」
僕は黙った。
彼は続けた。
「招待状を本の表紙みたいにして、席札をしおりにして――」
「大地さん」
「新郎新婦の入場は、物語の第一章として――」
「大地さん!」
「何だ?」
「まだプロポーズもしてません!」
電話の向こうが静かになった。
そして――
「そうか! じゃあ、まずプロポーズの計画からだな!」
僕は天井を見上げた。
「誰か助けてください」
◇ ◇ ◇
幸い、その数分後、由紀さんから連絡があった。
『大地がまた何か言っていない?』
僕はすぐに返信した。
『結婚式の計画を立てています』
返事は一瞬だった。
『分かった』
その十分後、大地さんから短いメッセージが届いた。
『計画書を没収された』
僕は微笑んだ。
『よかったですね』
『よくない!』
僕は笑った。
世界には、解決できない問題がたくさんある。
でも、大地さんの暴走を止めるという問題については、由紀さんが非常に優秀だった。
◇ ◇ ◇
その週末、由紀さんが母の古いノートを持ってきた。
「春人、これを見つけたの」
僕は彼女を見た。
「何ですか?」
「美咲のノートの、別のページ」
胸が少し締めつけられた。
僕は画面に映されたページを見た。
母の文字だった。
見慣れた、少し丸みのある筆跡。
そこには、僕の将来についてのメモが書かれていた。
『春人が大人になったら』
『本人の希望を最初に聞くこと』
『必要な支援を、本人の選択を奪う理由にしないこと』
『失敗する可能性があるからといって、挑戦する機会をなくさないこと』
そして、ページの下のほうに、以前見つけたものと同じ、未完成の言葉があった。
『いつか春人が恋をしたら……』
その先は、やはり書かれていなかった。
僕は長い間、その文字を見つめた。
◇ ◇ ◇
「お母さん、何を書こうとしていたんでしょうね」
僕が尋ねると、由紀さんは静かに首を振った。
「分からないわ」
僕はうなずいた。
彼女は続けた。
「美咲が何を考えていたのか、私が勝手に決めることはできないから」
僕は微笑んだ。
「そうですね」
由紀さんは少し寂しそうに笑った。
「でも、あなたが自分で選ぶことを大切にしていたのは、確かだと思う」
僕はノートを見た。
そこには、母が僕の人生を心配していたことが、はっきりと残っていた。
でも、同時に――
僕が自分で人生を選べるようにしたいという願いも残っていた。
僕はしばらく考えた。
そして、微笑んだ。
「だったら、続きを僕が書いてみようかな」
由紀さんは驚いた。
「続きを?」
「はい」
僕はうなずいた。
「お母さんが何を書こうとしていたのかは分からないけど、今の僕が何を思っているのかなら、書けますから」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「そうね」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は新しい文書を開いた。
題名は――
『いつか僕が恋をしたら』
僕は少し考えた。
そして、書き始めた。
『お母さんへ。
あなたがこの言葉の続きをどう書こうとしていたのか、僕には分かりません。
でも、今の僕なら、こう書きたいと思います。
いつか僕が恋をしたら、その人を大切にしたい。
その人の夢を、僕の夢と同じくらい大切にしたい。
僕の障害を理由に、相手の人生を狭くしたくない。
でも、だからといって、自分の幸せを諦めることもしたくない。
助けが必要なことを恥ずかしいと思わず、助けてくれる人たちへの感謝を忘れず、それでも自分の人生は自分で選びたい。
そして、愛する人と一緒に、完璧ではない未来を作っていきたい。
お母さん。
僕は、恋をしました。
そして今、少しずつ、自分の人生を愛せるようになってきています』
僕は書き終えた文章を見つめた。
胸が温かかった。
◇ ◇ ◇
しかし、その夜、葵との会話は少し難しいものになった。
彼女は、研修の話をさらに進めることを考えていた。
その場合、今の街で働き続ける期間が、当初想像していたより長くなるかもしれないという。
「まだ決めてないんだけど」
葵は言った。
僕はうなずいた。
「うん」
「でも、もし受けるなら、しばらくは今の職場で頑張りたいなって」
僕は微笑もうとした。
「いいと思うよ」
でも、声が少し硬くなった。
葵はすぐに気づいた。
「春人?」
「何?」
「何か気になる?」
僕は少し黙った。
そして、正直に答えた。
「……少し、複雑かな」
彼女の表情が変わった。
「やっぱり、嫌?」
僕は首を振れるほど自由に動けないので、言葉で答えた。
「違うよ」
少し間を置いた。
「君が研修を受けることが嫌なんじゃない」
「じゃあ?」
僕は画面を見た。
「僕のほうは、どれだけ頑張っても、引っ越せるかどうか分からないから」
葵は黙った。
◇ ◇ ◇
僕は続けた。
「君は新しい仕事を始めて、少しずつ自分の場所を作ってる」
彼女は静かに聞いていた。
「それは本当にうれしいんだ」
僕は少し間を置いた。
「でも、僕はまだ、住める家があるかどうか、看護を受けられるかどうかを調べている段階なんだ」
葵の目が揺れた。
「春人……」
「だから、ときどき焦る」
僕は正直に言った。
「君が前に進んでいるのを見て、うれしいのに、少し置いていかれるような気持ちになることがある」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「……それって、私が悪いってこと?」
僕は驚いた。
「違うよ」
「でも、そう聞こえた」
胸が痛んだ。
「ごめん」
葵は視線を落とした。
「私だって、春人と一緒にいたいよ」
「分かってる」
「でも、仕事も頑張りたい」
「うん」
「その両方を望むのって、わがままなのかな」
僕はすぐに答えた。
「そんなことない」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは黙っていた。
画面の向こうで、葵は目元を拭った。
僕も胸が苦しかった。
何か言わなければと思った。
でも、焦って言葉を重ねれば、もっと傷つけてしまうかもしれなかった。
だから、少し時間を置いた。
やがて、僕は口を開いた。
「葵」
彼女が顔を上げた。
「何?」
「僕は、君の夢を応援したい」
彼女は黙っていた。
「それは本当だよ」
少し間を置いた。
「でも、僕自身が不安になることもある」
葵はゆっくりうなずいた。
「……うん」
「その不安を、君のせいにしたくない」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「私も、春人の気持ちをちゃんと聞きたい」
僕は微笑んだ。
「ありがとう」
彼女は少し考えた。
「今日は、もう少し落ち着いてから話したほうがいいかな」
僕はうなずいた。
「そうだね」
葵は寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
「うん」
僕は静かに答えた。
「おやすみ、葵」
「おやすみ、春人」
通話が終わった。
◇ ◇ ◇
画面が暗くなったあと、僕はしばらく黙っていた。
喧嘩というほどのものではなかったかもしれない。
でも、僕たちは確かに、互いの言葉に傷ついていた。
それがつらかった。
僕は葵を愛している。
彼女の夢を応援したい。
それでも、自分の未来が思うように進まないことに、焦りを感じる。
その二つは、矛盾しているのだろうか。
僕は考えた。
たぶん、矛盾していない。
誰かを愛しているからといって、不安がなくなるわけではない。
相手の幸せを願っているからといって、自分の寂しさが消えるわけでもない。
大切なのは、その気持ちをどう伝えるか。
そして、相手の気持ちをどう聞くか。
僕は小さくため息をついた。
「……難しいな」
夏美さんが静かに声をかけた。
「何がですか?」
僕は少し笑った。
「人間関係です」
彼女も微笑んだ。
「それは、誰にとっても難しいものですよ」
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、葵から電話がかかってきた。
僕はすぐに出た。
「やあ」
「……やあ」
少し気まずい沈黙があった。
それから、葵が口を開いた。
「昨日はごめんね」
僕は答えた。
「僕もごめん」
彼女は小さく笑った。
「なんか、同時に謝っちゃったね」
「そうだね」
僕は少し考えた。
「葵」
「何?」
「昨日、君が悪いって言いたかったわけじゃないんだ」
彼女はうなずいた。
「うん」
「ただ、僕も時々、どうしようもなく焦ることがあるって、伝えたかった」
彼女は静かに聞いていた。
「君の仕事が進むことは、僕にとってもうれしいことなんだ」
少し間を置いた。
「でも、僕の生活には、僕一人ではどうにもできない条件がたくさんある」
葵はうなずいた。
「分かるよ」
「だから、時々、置いていかれるような気持ちになる」
彼女の表情が柔らかくなった。
「……そうだったんだね」
◇ ◇ ◇
葵は少し考えてから言った。
「私も、昨日は怖かった」
僕は彼女を見た。
「何が?」
「春人が、私の仕事を負担に感じてるんじゃないかって」
僕はすぐに答えた。
「そんなことないよ」
彼女は微笑んだ。
「うん。今は分かってる」
少し間を置いた。
「でも、昨日はそう聞こえちゃった」
僕はうなずいた。
「ごめん」
「ううん」
彼女は首を振った。
「私も、ちゃんと聞かずに決めつけちゃった」
しばらく、僕たちは黙っていた。
それから、葵が微笑んだ。
「ねえ、春人」
「何?」
「私たち、まだまだ勉強中だね」
僕は笑った。
「恋愛の?」
「うん」
「かなり難しい科目だね」
彼女は笑った。
「試験もないしね」
僕はにやりと笑った。
「大地さんなら作りそうだけど」
葵は吹き出した。
「やめて!」
僕たちは笑った。
◇ ◇ ◇
その日の夜、悠斗君からメッセージが届いた。
『春人さん、ちょっと相談があるんですけど』
僕は返信した。
『どうしたの?』
『僕たち、今度オンラインの創作サークルを作ろうと思ってるんです』
僕は興味を持った。
『へえ』
『地元の人が中心なんですけど、遠くに住んでる人も参加できるようにしたくて』
『いいね』
『春人さんも参加しませんか?』
僕は画面を見つめた。
少し驚いた。
『僕も?』
『もちろんです!』
続けてメッセージが届いた。
『それから、将来的には、誰でも参加しやすい会場を探して、対面の文学イベントも開けたらいいなって』
僕は微笑んだ。
『面白そうだね』
『ですよね!』
僕は少し考えた。
そして、返信した。
『ぜひ参加させてほしい』
すぐに返事が来た。
『やった!!』
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
そのあと、悠斗君からもう一つ連絡が届いた。
『実は、もう一つあるんです』
僕は少し警戒した。
『何?』
『地域の人たちで、短編小説の作品集を作ろうって話が出ていて』
僕は瞬きをした。
『作品集?』
『はい!』
彼は続けた。
『まだ企画段階なんですけど、もしよかったら、春人さんにも短編を書いてもらえないかなって』
僕は画面を見つめた。
「……え?」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
僕は少し笑った。
「また、新しい話が来ました」
「何の話ですか?」
「短編小説の作品集に参加しないかって」
彼女は微笑んだ。
「素敵ですね」
僕はうなずいた。
「はい」
まだ正式に決まった企画ではない。
出版が約束されたわけでもない。
でも、誰かが僕の文章を読みたいと思ってくれている。
誰かが、僕と一緒に物語を作りたいと思ってくれている。
そのことが、何よりうれしかった。
◇ ◇ ◇
僕は葵にメッセージを送った。
『悠斗君たちの創作サークルに参加することになったよ』
すぐに返信が来た。
『本当!?』
『うん』
『すごいじゃん!』
僕は微笑んだ。
『それから、短編作品集にも誘われた』
しばらく間があった。
そして――
『春人!!!!』
僕は笑った。
『落ち着いて』
『無理!!!!』
『まだ企画段階だよ』
『それでもすごいよ!!』
僕は微笑んだ。
そのあと、葵からもう一通届いた。
『春人、私の街にどんどん友達が増えてるね』
僕は画面を見つめた。
そして、ゆっくりと返信した。
『そうだね』
◇ ◇ ◇
その夜、僕は窓の外を眺めていた。
葵の街。
僕がまだ一度も訪れたことのない街。
そこには、葵がいる。
健二さんがいる。
悠斗君がいる。
そして、僕の文章を聞いてくれた人たちがいる。
いつか、僕もそこに住めるのだろうか。
分からない。
アパートの問題は残っている。
看護体制も、まだ整っていない。
現在の看護サービスの再評価も続いている。
引っ越しの日付なんて、決められる段階ではなかった。
それでも――
僕は、少しずつその街とつながり始めていた。
葵の恋人としてだけではない。
一人の小説家として。
一人の友人として。
そして、一人の人間として。
そのことが、僕にはとても大きく感じられた。
◇ ◇ ◇
僕は母の写真を見た。
その隣には、葵からもらった手紙が置いてあった。
僕は微笑んだ。
「お母さん」
少し間を置いた。
「また、新しい人たちに出会えたよ」
もちろん、返事はなかった。
でも、もうそれでよかった。
僕は続けた。
「僕の物語を、聞いてくれる人がいたんだ」
胸が温かくなった。
「それから、僕の話を聞いて、自分も書きたいって言ってくれた人がいた」
僕は少し笑った。
「不思議だね」
昔の僕は、誰かの物語に救われていた。
そして今、僕の物語が、誰かの背中を少しだけ押したのかもしれない。
それが本当なら――
こんなにうれしいことはなかった。
◇ ◇ ◇
僕は新しい文書を開いた。
題名は、まだ決めていなかった。
短編作品集に参加するなら、何を書こうか。
推理小説?
恋愛小説?
それとも、まったく違う物語?
僕は考えた。
そして、ふと笑った。
「……また忙しくなるな」
夏美さんがこちらを見た。
「何か思いつきました?」
僕は微笑んだ。
「まだです」
「そうですか」
「でも、書きたいことはたくさんあります」
彼女は笑った。
「それなら、きっと大丈夫ですね」
僕はうなずいた。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
そのとき、葵から電話がかかってきた。
僕はすぐに出た。
「やあ」
「春人!」
彼女は笑顔だった。
「ねえ、今度の創作サークル、私も見学していいかな?」
僕は笑った。
「君、看護師でしょう?」
「看護師だって本は読むよ!」
「それはそうだけど」
彼女は微笑んだ。
「春人が楽しそうにしてるところ、見たいんだ」
胸が温かくなった。
僕は微笑んだ。
「もちろん、主催者に聞いてみるよ」
「やった!」
彼女はうれしそうに笑った。
僕も笑った。
◇ ◇ ◇
しばらくして、葵が静かに言った。
「春人」
「何?」
「昨日、ちゃんと話せてよかった」
僕はうなずいた。
「僕も」
彼女は微笑んだ。
「私たち、きっとこれからも意見が合わないことがあるよね」
「あると思う」
「そのたびに、ちゃんと話せるかな」
僕は少し考えた。
「いつもうまくできるとは限らないと思う」
彼女は黙って聞いていた。
「でも、話そうとすることはできる」
葵の表情が柔らかくなった。
「うん」
僕は微笑んだ。
「それなら、僕たちらしいんじゃないかな」
彼女は笑った。
「そうだね」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はもう一度、パソコンの画面を見た。
新しい短編の白紙のページ。
まだ何も書かれていない。
でも、そこには無限の可能性があった。
僕はゆっくりと最初の一文を入力した。
『その街には、まだ僕の家がなかった。』
少し考えた。
そして、続きを書いた。
『けれど、僕の名前を知っている人が、少しずつ増えていた。』
僕は画面を見つめた。
これは、僕自身の物語に似ている。
でも、きっと別の物語になる。
僕は微笑んだ。
『そしてある日、僕は気づいた。
帰る場所とは、最初から用意されているものではない。
誰かと出会い、言葉を交わし、少しずつ作っていくものなのだと。』
僕はそこで手を止めた。
そして、保存した。
◇ ◇ ◇
窓の外では、夜の街が静かに広がっていた。
僕はまだ、葵の隣で眠ることはできない。
同じ家で朝を迎えることもできない。
彼女の仕事が終わるのを、同じ部屋で待つこともできない。
でも、僕たちは少しずつ、自分たちの未来を築いていた。
完璧ではない。
順調でもない。
ときには、意見が食い違う。
ときには、傷つく。
ときには、どうしようもなく不安になる。
それでも――
僕たちは、話し合うことを選んでいた。
互いの夢を大切にすることを選んでいた。
そして、自分自身の人生を諦めないことを選んでいた。
僕は母の写真を見た。
その隣にある葵の手紙を見た。
そして、新しい物語の最初の一文を見た。
僕は微笑んだ。
「まだまだ、これからだね」
人工呼吸器の規則正しい音が、静かな部屋に響いていた。
僕はその音を聞きながら、もう一度パソコンに向き直った。
未来は、まだ遠い。
でも、僕の言葉は、少しずつそこへ届き始めていた。
そして、いつか――
その言葉が、僕たちのまだ知らない明日へと続く道を照らしてくれるのかもしれない。




