第78話 まだ約束するのが怖い明日と、すでに僕たちの帰る場所になっていた愛
未来の計画を立てるうえで、一つだけ困ったことがある。
それは、未来というものが、こちらの計画書をまったく読んでくれないということだ。
僕はこれまで、何度もその事実を思い知らされてきた。
たいていは書類のせいだった。
ときには医療関係の手続き。
そして最近では、メールの最後の一段落まで重要な情報を隠しておくことが、どうやら不動産業界では普通らしいと知った。
ここまでくると、不動産業界は推理小説家になれなかった人たちによって設立されたのではないかと疑いたくなる。
残念ながら、今回の謎は行方不明者や怪しい遺産相続の話ではなかった。
電気の問題だった。
もっと正確に言えば――
僕が使っている医療機器を動かすための電気。
そして、それは僕があまり楽しめる種類の謎ではなかった。
◇ ◇ ◇
「なるほど」
僕はパソコンの画面を見つめながら言った。
「これは困りましたね」
人工呼吸器の状態を確認していた夏美さんが、こちらを見た。
「どうしました?」
「アパートに問題があるみたいです」
彼女は少し眉を上げた。
「またですか?」
「どうやら」
僕はメールをもう一度開いた。
物件の管理担当者が、前回のメールで触れていた問題について、ようやく説明してくれたのだ。
建物は、僕が最初に思っていたよりも古かった。
一階の部屋には、バリアフリーの面で期待できる部分がいくつかあった。
しかし、建物の電気設備が、僕の使用する医療機器に対応できるかどうかは、まだ評価されていなかった。
建物全体を対象とする非常用発電設備もなかった。
管理担当者によれば、許可を得れば一部の電気設備を改修できる可能性はあるものの、既存の配線には制約があるらしい。
僕は画面を見つめた。
「素晴らしいですね」
夏美さんが近づいてきた。
「具体的には何と書いてありますか?」
僕は説明した。
彼女は真剣に聞いてから、うなずいた。
「それは詳しく調べる必要がありますね」
「ですよね」
「先方は、春人さんが使用している機器を把握しているんですか?」
「一般的な情報しか伝えていません」
「それなら、現時点では適しているかどうか判断できないと思います」
僕はため息をついた。
「また調査ですね」
「おそらく」
僕は天井を見上げた。
「この調子だと、調査資料を保管するためだけに、もう一部屋必要になりそうです」
夏美さんは笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午前中、恵美さんとオンラインで話し合った。
彼女は管理担当者から届いた資料を慎重に確認した。
「建物に非常用発電機がないことだけで、この物件が不適切だと決まるわけではありません」
僕はうなずいた。
「はい」
「ただし、電気設備が必要な機器に安全に対応できるか、停電時にどのような備えが必要になるかを確認しなければなりません」
「人工呼吸器には予備電源の備えがありますけど、それだけで建物の問題を無視できるわけじゃありませんからね」
「そのとおりです」
恵美さんは資料を読み進めた。
「緊急時の搬送経路、改修の制限、それから実際に看護を提供するための空間についても確認が必要です」
僕は間取り図を見た。
浴室の入口は、やはり気になった。
寝室は十分な広さがありそうだったが、写真だけでは分からない。
それに、必要な変更を管理会社が認めてくれるかどうかも不明だった。
「まだ調べる価値はありますか?」
僕が尋ねると、恵美さんは少し考えた。
「判断するために必要な情報を集める価値はあると思います」
僕は小さく笑った。
「ずいぶん慎重な答えですね」
彼女も微笑んだ。
「それが私の仕事ですから」
◇ ◇ ◇
話し合いが終わったあと、僕は葵に電話した。
彼女は自分のアパートから出てくれた。
「春人!」
「やあ」
「アパートの件、何か分かった?」
「残念ながら」
彼女の表情が変わった。
「えっ、何かあったの?」
僕は電気設備の問題を説明した。
葵は最後まで黙って聞いていた。
そして、ため息をついた。
「また問題が出てきたんだね」
「そういうこと」
「じゃあ、もう諦めるしかないの?」
「必ずしもそうじゃないよ」
彼女は驚いたようだった。
「本当?」
「電気設備の調査が必要だし、建物についても詳しく確認しないといけない。でも、まだ不可能だと決まったわけじゃない」
葵は少し考えた。
「すぐに駄目ってわけじゃないなら、まだいいのかな」
「そうだね」
彼女は微笑んだ。
「春人、すっかりアパート探しの専門家になってきたね」
僕は目を細めた。
「なりたくてなったわけじゃないけどね」
葵は笑った。
「それでも専門家は専門家だよ」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、今度は少し期待できる連絡が届いた。
葵の街にある看護事業所の小林さんからだった。
小林さんの事業所が、別の認可を受けた看護事業者と話をしたらしい。
その事業者には、医療的な支援が多く必要な人の在宅生活を支えた経験があった。
そして、複数の事業所が協力する形で看護体制を整えられる可能性について、話し合う用意があるという。
僕はメールを慎重に読んだ。
それから、もう一度読んだ。
サービスの提供が決まったわけではない。
人員の確保が約束されたわけでもない。
まして、引っ越しが認められたわけでもなかった。
それでも――
一歩前進したように感じた。
僕は恵美さんにメールを転送した。
しばらくして、返信が届いた。
「検討する価値があります。ただし、それぞれの事業所がどの看護を担当するのか、必要な時間帯を確実にカバーできるのか、保険制度やケアプラン上で実施可能なのかを確認する必要があります」
僕はうなずいた。
もっともな話だった。
二つの事業所が協力を検討してくれるからといって、二十四時間の専門的な看護体制が突然完成するわけではない。
人員配置。
責任の所在。
連携方法。
勤務の空白が生じた場合の対応。
緊急時の手順。
確認しなければならないことは、まだ山ほどある。
でも、少なくとも話し合いは進んでいた。
僕は微笑んだ。
「これは興味深いですね」
夏美さんがこちらを見た。
「いい知らせですか?」
「可能性としては」
彼女は微笑んだ。
「それはよかったです」
僕は笑った。
「最近、可能性ばかり集めていますけどね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話がかかってきた。
「春人!」
僕は微笑んだ。
「やあ」
「ねえ、聞いて!」
「病院長に昇進した?」
彼女は笑った。
「違う!」
「最高経営責任者?」
「春人!」
「看護師全員を統率する最高司令官?」
「もう! いい加減にして!」
僕は笑った。
「分かったよ。それで?」
葵は画面に顔を近づけた。
「来週、何日かお休みが取れたの」
僕は瞬きをした。
「へえ」
「それで、考えたんだけど……」
彼女は言葉を止めた。
僕は待った。
そして、彼女は微笑んだ。
「会いに行ってもいい?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……本当に?」
葵はうなずいた。
「本当」
胸が温かくなった。
「こっちに?」
「違うよ。別の街にいる知らない男の人に会いに行こうと思って」
僕は笑った。
「面白い冗談だね」
彼女は微笑んだ。
「春人に会いたいの」
僕の表情が自然と柔らかくなった。
「僕も会いたいよ」
◇ ◇ ◇
それから三十分ほど、僕たちは訪問の予定について話し合った。
移動手段。
仕事の予定。
宿泊先。
そして、僕と過ごす時間だけでなく、昔の友達にも会うかどうか。
僕は両方楽しんでほしいと伝えた。
葵は面白そうに僕を見た。
「もう私を追い払おうとしてるの?」
「もちろん」
「春人!」
僕は笑った。
「冗談だよ。でも、本当に好きなことをしてほしいんだ」
彼女は微笑んだ。
「分かってる」
「せっかくのお休みなんだから」
「うん」
彼女は少し間を置いた。
「でも、週末のほとんどを誰と過ごすかは、もう決めてるよ」
僕は眉を上げた。
「誰?」
「ある、ちょっと面倒くさい小説家さん」
僕は微笑んだ。
「ひどい人みたいだね」
「そうなの」
「じゃあ、どうして付き合ってるの?」
彼女は画面に顔を近づけた。
「大好きだから」
心臓が妙に大きく跳ねた気がした。
「……ああ」
葵は笑った。
「春人、顔が真っ赤!」
「君は本当に困った人だね」
「でも、好きなんでしょ?」
僕は微笑んだ。
「残念ながらね」
◇ ◇ ◇
葵が来るまでの数日間は、信じられないほど長く感じられた。
月曜日は、おそらく三年くらいあった。
火曜日はもっと長かった。
水曜日になるころには、暦に正式な苦情を申し立てようかと考え始めていた。
幸い、やるべきことはたくさんあった。
小説の原稿。
看護サービスの再評価。
アパートの調査。
そして、健二さんが紹介してくれた地域団体の文学イベントに向けた準備。
仕事が足りないということはなかった。
残念ながら、どれだけ忙しくしても、時間が早く進むわけではなかった。
木曜日の午後、幸子さんから電話がかかってきた。
「春人」
「こんにちは、先生」
「投稿の準備はできた?」
僕は微笑んだ。
「もう少しです」
「もう少し?」
「あらすじを最後に確認したくて」
「なら確認しなさい」
「はい、先生」
「原稿の形式は?」
「終わっています」
「添え状は?」
「できています」
幸子さんは目を細めた。
「じゃあ、何を待っているの?」
僕は少しためらった。
「……分かりません」
彼女は僕を見つめた。
それから、表情を和らげた。
「怖いのね」
僕はため息をついた。
「とても」
◇ ◇ ◇
幸子さんは椅子にもたれた。
「いいことじゃない」
僕は瞬きをした。
「いいことですか?」
「もちろん」
「どうして?」
「それだけ大切に思っているってことでしょう」
僕は考えた。
彼女は続けた。
「でも、大切に思っているからといって、一生準備だけしていていいわけじゃないのよ」
僕は画面の原稿を見た。
森探偵。
老女。
花。
消された男。
長い間、僕の頭の中に住み続けていた登場人物たち。
何度も書き直した。
何度も失敗した。
この物語を完成させる意味があるのかと疑ったこともあった。
そして今――
原稿は、僕の手を離れようとしていた。
少なくとも、次の段階へ進む準備はできていた。
「もし、断られたら?」
僕が尋ねると、幸子さんは肩をすくめた。
「そのときは断られたってことよ」
僕は彼女を見つめた。
「それが励ましの言葉ですか?」
「嘘をついてほしい?」
「……いいえ」
「なら、送りなさい。春人」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はしばらく黙っていた。
それから、送信用のメールを開いた。
編集者の宛先は、すでに入力してある。
原稿も添付した。
あらすじも添付した。
添え状も用意した。
あとは送信ボタンを押すだけだった。
たった一つの操作。
それだけなのに、心臓が落ち着かなかった。
母のことを考えた。
子どものころに夢中になった物語のことを考えた。
小説を書くために費やしてきた時間を思い出した。
僕を励ましてくれた人たちの顔が浮かんだ。
そして、この小説を書きながら変わってきた自分自身のことを考えた。
それから――
送信ボタンを押した。
メールが送信された。
確認の表示が現れた。
僕は画面を見つめた。
「……あ」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
僕は唾を飲み込んだ。
「送りました」
彼女は微笑んだ。
「原稿ですか?」
僕はうなずいた。
「はい」
彼女の笑顔が広がった。
「おめでとうございます、春人さん」
僕は送信済みのメールを見た。
そして、小さく笑った。
「さて」
少し間を置いた。
「今度は待つしかありませんね」
◇ ◇ ◇
葵が到着したのは、金曜日の午後だった。
なぜ分かったかというと、玄関のチャイムが鳴る三十秒ほど前に、大地さんが大声で知らせてくれたからだ。
「春が来たぞー!」
僕は彼を見つめた。
「……何ですか?」
彼は満面の笑みを浮かべていた。
「お前の彼女だよ!」
僕は目を閉じた。
「王族の到着みたいに発表しないでください」
「もう遅い!」
背後から由紀さんが現れた。
「大地、騒がないの」
「祝ってるんだ!」
「春人が恥ずかしがってるでしょう」
「それもお祝いの一部だ!」
僕はため息をついた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
そして突然、そんなことはどうでもよくなった。
◇ ◇ ◇
数分後、葵が部屋に入ってきた。
薄いカーディガンをブラウスの上に羽織っていた。
髪は少し風に乱れていた。
肩には小さな旅行かばんを掛けていた。
少し疲れているように見えた。
でも、とても綺麗だった。
そして何より――
本当に、そこにいた。
しばらく、僕たちはただ見つめ合った。
やがて、彼女が微笑んだ。
「ただいま、春人」
胸が締めつけられた。
「……おかえり」
彼女は僕の車椅子に近づいた。
「抱きしめてもいい?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
葵は僕の姿勢や医療機器に気を配りながら、そっと身をかがめて抱きしめてくれた。
僕は、望むように腕を回して抱き返すことはできない。
でも、できる限り、その温もりを感じようとした。
彼女の体温。
懐かしい髪の香り。
すぐそばで聞こえる呼吸。
画面越しの通話では、決して伝わらない小さなものたち。
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
そして、彼女がささやいた。
「会いたかった」
僕は目を閉じた。
「僕もだよ」
◇ ◇ ◇
当然ながら、その瞬間を台無しにしたのは大地さんだった。
「素晴らしい!」
僕たちは同時に振り返った。
彼は入口の近くに立っていた。
手にはティッシュ。
僕は目を細めた。
「……泣いてるんですか?」
「泣いてない!」
彼は目元を拭った。
「花粉症だ!」
由紀さんが腕を組んだ。
「大地」
「何だ?」
「二人きりにしてあげなさい」
「でも――」
「今すぐ」
彼は大げさにため息をついた。
「分かったよ」
部屋を出ながら、彼はつぶやいた。
「最近の若い者は、ロマンスの価値が分かってないな」
葵は吹き出した。
僕はため息をついた。
「おかえり」
彼女は微笑んだ。
「ただいま」
◇ ◇ ◇
最初の夜は、驚くほど普通だった。
葵は荷物を片づけた。
僕たちは移動中の出来事について話した。
彼女は新しい職場の同僚たちの話をしてくれた。
僕は原稿を送ったことを話した。
夏美さんはいつもどおり僕の看護を担当し、葵も僕たちが決めていた仕事と私生活の境界を大切にしてくれた。
今回、葵は看護師として来たわけではない。
僕の恋人として会いに来てくれたのだ。
だから、彼女にもゆっくり楽しんでほしかった。
夜には、一緒にテレビを見た。
葵は僕の車椅子の隣に座った。
ときどき、彼女の肩が僕の肩に触れるほど近づいた。
特別な出来事はなかった。
大げさな愛の告白もない。
壮大な演出もない。
ただ――
一緒にいる。
それだけのことが、僕には特別に思えた。
◇ ◇ ◇
土曜日の昼は、家族で食事をすることになっていた。
大地さんが強く希望したからだ。
つまり、ほかの全員は参加せざるを得なかった。
料理は由紀さんが作った。
葵も少し手伝った。
僕は監督を務めた。
大地さんによれば、僕の監督とは、彼の料理に文句を言うことらしい。
これは不当な評価だ。
僕はテーブルの飾りつけにも文句を言ったのだから。
「どうしてこんなにキャンドルがあるんですか?」
「雰囲気だよ」
「まだ昼ですよ」
「ロマンスに時間制限はない!」
葵は笑った。
由紀さんはため息をついた。
「大地、毎回の食事をイベントにしないで」
彼は不満そうだった。
「思い出を作ってるんだ!」
「火事の危険を作ってるんでしょう」
僕は微笑んだ。
「ようやく分かってくれる人がいました」
◇ ◇ ◇
食事は、意外にも楽しいものになった。
葵の仕事。
僕の執筆活動。
文学イベント。
健二さんの紹介で知り合った人たち。
そんな話をしていた。
しかし、やがて大地さんが咳払いをした。
僕はすぐに警戒した。
「……嫌な予感がします」
彼は僕を見た。
「何だ?」
「何か始めようとしてますね」
「俺が?」
「はい」
彼はにやりと笑った。
「まあ、せっかくだからな」
そして、テーブルの下に手を伸ばした。
僕は目を閉じた。
「お願いですから、やめてください」
彼が取り出したのは、一冊の分厚いファイルだった。
葵が笑い始めた。
由紀さんは彼を見つめた。
「大地」
「何だ?」
「それは何?」
彼は誇らしげに表紙を見せた。
『高橋・水野家 未来発展計画』
僕は固まった。
「……冗談ですよね?」
◇ ◇ ◇
大地さんはファイルを開いた。
「第一段階。引っ越しに向けた調査を継続する」
僕はため息をついた。
「もうやってます」
「第二段階。適切な住宅と看護体制を確保する」
「それも調べています」
「第三段階。家庭円満」
僕は瞬きをした。
「……何ですか?」
彼は満足そうに言った。
「同居だよ!」
葵は口元を押さえた。
僕は目を細めた。
「大地さん」
「何だ?」
「第四段階がないと言ってください」
彼は少しためらった。
僕は嫌な予感がした。
「……まさか」
大地さんはゆっくりページをめくった。
『第四段階 ウェディングベル!?』
葵の顔が真っ赤になった。
僕は固まった。
由紀さんがファイルを勢いよく閉じた。
「大地!」
「何だよ!?」
「そんなこと、あなたが決めることじゃないでしょう!」
「疑問符を付けただろ!」
「そういう問題じゃない!」
◇ ◇ ◇
その後の言い争いは数分続いた。
葵は顔を赤くしたまま笑っていた。
僕は、叔父との親族関係を法的に解消できるかどうか考えていた。
最終的に、由紀さんがファイルを没収した。
ようやく平和が戻った。
少なくとも、ある程度は。
由紀さんは僕たちを見た。
「ごめんなさいね」
葵は微笑んだ。
「大丈夫です」
僕はため息をついた。
「もう慣れていますから」
大地さんは不満そうだった。
「感謝されてもいいくらいだぞ!」
僕は無視した。
由紀さんの表情が柔らかくなった。
「でも、真面目な話、二人とも何も急ぐ必要はないのよ」
葵はうなずいた。
「はい」
僕も由紀さんを見た。
「同じ街で暮らせるかどうかさえ、まだ分かりませんから」
「そうよ」
由紀さんは続けた。
「それに、もし引っ越しが実現しても、ほかのことまで急いで決める必要はないんだから」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
大地さんが手を挙げた。
由紀さんは彼を指さした。
「駄目」
彼は黙って手を下ろした。
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕と葵は近くの公園へ行く予定だった。
天気予報では晴れだった。
当然ながら、天気は別の計画を立てていたらしい。
出かける準備が整うころには、空一面に黒い雲が広がっていた。
そして、雨が降り始めた。
小雨ではなかった。
窓が震え、道路が灰色の川のように見えるほどの大雨だった。
僕は窓の外を見た。
「なるほど」
葵が隣に立った。
「残念だね」
「どうやら、天気に予定を聞かれていたらしい」
彼女は笑った。
「嫉妬してるのかな?」
「何に?」
「私たちのデートに」
僕は微笑んだ。
「それなら仕方ないね」
◇ ◇ ◇
僕たちは家で過ごすことにした。
葵は窓の近くに椅子を置いた。
夏美さんに手伝ってもらい、僕もその隣に車椅子を移動させた。
窓ガラスを雨粒が流れていた。
しばらく、僕たちは黙って外を眺めた。
雨の中では、世界が少し静かになったように感じられた。
やがて、葵が口を開いた。
「春人?」
「何?」
「ちょっと話してもいい?」
僕は彼女を見た。
「もちろん」
彼女は少しためらった。
そして、自分の手元に視線を落とした。
「私ね、ときどき怖くなるの」
僕の笑顔が消えた。
「何が?」
彼女は雨を見つめた。
「私たちのこと」
◇ ◇ ◇
僕は黙って聞いた。
葵は続けた。
「ちゃんと慎重に進めてるって分かってる」
「うん」
「焦っちゃいけないことも分かってる」
僕はうなずいた。
「でもね……」
彼女の声が小さくなった。
「いつまでも、実現するか分からない未来を待ち続けることになるんじゃないかって、怖くなるときがあるの」
胸が締めつけられた。
彼女は僕を見た。
「もし、条件に合う家が見つからなかったら?」
僕はすぐには答えなかった。
「もし、看護体制が整わなかったら?」
僕は聞いていた。
「もし、ずっと『いつか』って言い続けて、その『いつか』が何の意味もなくなっちゃったら?」
しばらく、雨の音だけが聞こえた。
そして、僕は口を開いた。
「葵」
彼女がこちらを見た。
「僕たちが一緒に暮らせるかどうか、今はまだ分からない」
彼女の表情が変わった。
僕は続けた。
「もちろん、そうしたい。心から」
僕は窓の外を見た。
「でも、安全に実現する方法がまだ分からないことを、必ずできるって約束することはできない」
彼女はゆっくりうなずいた。
「分かってる」
僕は小さく微笑んだ。
「でも、別のことなら約束できるよ」
「何?」
「今、僕たちの間にあるものは、本物だってこと」
◇ ◇ ◇
葵は僕を見つめた。
僕は続けた。
「僕たちの関係は、アパートが見つかってから始まるわけじゃない」
彼女の目が柔らかくなった。
「もう、始まってるんだ」
僕は微笑んだ。
「話したり、笑ったり、本棚の置き場所で言い争ったり」
彼女は小さく笑った。
「春人の本、多すぎるもん」
「ひどい言いがかりだね」
彼女は微笑んだ。
僕は続けた。
「お互いを支えて、会えないときは寂しくなって、それでも時間を作って話してる」
少し間を置いた。
「そして、ときにはこうして、窓の隣で一緒に雨を眺められる」
葵は窓の外を見た。
それから、僕を見た。
「じゃあ、未来が思っていたより遠くても……」
「僕たちには今日がある」
彼女の目に涙が浮かんだ。
僕は微笑んだ。
「それに、僕は今日が好きだよ」
◇ ◇ ◇
葵はそっと僕の手を取った。
優しく握ってくれた。
僕は重なった手を見た。
それから、彼女を見た。
葵は涙を浮かべながら微笑んだ。
「私も、今日が好き」
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
雨は降り続いていた。
家のどこかでは、大地さんが由紀さんと、スープだけで夕食になるかどうかを言い争っていた。
僕は笑った。
葵がこちらを見た。
「どうしたの?」
「何でもない」
「春人」
「ただ、ちょっと思っただけ」
「何を?」
「僕たちの恋愛って、背景音まで変だなって」
葵は吹き出した。
◇ ◇ ◇
その日の夜、葵はもう一つ、今まで言えずにいたことを話してくれた。
職場の上司から、専門性を高めるための研修について相談されたという。
昇進というわけではなかった。
少なくとも、今の段階では。
でも、退院後の在宅生活を支える仕事に関わるための、追加の研修や役割を担う機会になるかもしれないらしい。
その機会を選ぶなら、今の職場で、より長く働くことを求められる可能性があった。
葵は不安そうに説明した。
「まだ何も決めてないんだけど」
僕はうなずいた。
「でも、興味があるんだね」
彼女は少しためらった。
「……うん」
僕は微笑んだ。
「だったら、詳しく聞いてみたらいいと思う」
葵は瞬きをした。
「本当に?」
「もちろん」
「でも、私たちのことは?」
僕は彼女を見た。
「僕たちのこと?」
彼女は眉をひそめた。
「春人」
僕は優しく微笑んだ。
「葵。僕がどこに住めるかまだ分からないからって、君にとって大切な機会を断ってほしくないんだ」
彼女は視線を落とした。
「でも、もっと難しくなるかもしれないよ」
「そうかもしれない」
僕は少し間を置いた。
「でも、君が望む仕事に近づく機会になるかもしれない」
彼女は黙った。
「もし、いつか同じ街で暮らせるようになったら、君にはそこで築いた生活を大切にしてほしいんだ」
◇ ◇ ◇
葵は長い間、僕を見つめていた。
それから、小さな声で尋ねた。
「がっかりしない?」
僕は微笑んだ。
「君に対しては、しないよ」
彼女の目に涙が浮かんだ。
僕は小さく笑った。
「そんなに泣かれたら、僕まで泣きそうになるよ」
彼女は目元を拭った。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
葵は微笑んだ。
「ありがとう」
僕は彼女を見た。
「ただ、一つだけ約束して」
「何?」
「僕の気持ちを、僕に聞かずに決めないで」
彼女はうなずいた。
「分かった」
「それから、君の夢を応援することが、僕の夢を諦めることだと思わないで」
彼女は微笑んだ。
「うん」
「よかった」
僕はにやりと笑った。
「だって、僕はまだ有名な小説家になるつもりだからね」
葵は笑った。
「もちろん」
「そのときは、僕の巨大な自尊心にも付き合ってもらわないと」
「春人、それはもう十分付き合ってるよ」
僕は驚いたふりをした。
「何てことを言うんだ!」
◇ ◇ ◇
日曜日の朝は、あまりにも早くやってきた。
葵は午後には帰る予定だった。
朝食の間、僕たちはその話をしなかった。
代わりに、本の話をした。
彼女の同僚の話。
以前のオンラインデートで見た、ひどい映画の話。
週末が終わろうとしている事実以外なら、何でもよかった。
でも、やがて避けられなくなった。
葵は僕の隣に座った。
「春人?」
「何?」
「あと何時間かで帰らないと」
僕はうなずいた。
「分かってる」
彼女は視線を落とした。
「もっと一緒にいたかったな」
僕は小さく微笑んだ。
「僕も」
しばらく、僕たちは黙っていた。
それから、彼女が僕を見た。
「一つ、聞いてもいい?」
「もちろん」
葵は少しためらった。
そして突然、頬を赤くした。
僕は警戒した。
「……葵?」
彼女は視線をそらした。
「春人って、結婚について考えたことある?」
僕は固まった。
◇ ◇ ◇
数秒間、僕の頭は完全に機能を停止した。
僕は葵を見た。
葵も僕を見た。
遠くのほうで、大地さんが新しいプレゼンテーションを開く音が聞こえた気がした。
「……結婚?」
僕が聞き返すと、葵の顔はさらに赤くなった。
「今すぐって意味じゃないよ!」
「分かってる!」
「プロポーズしたわけじゃないからね!」
「分かってる!」
「ただ、ちょっと聞いてみたかっただけ!」
「分かってるって!」
僕たちは見つめ合った。
そして、同時に笑い始めた。
◇ ◇ ◇
ようやく落ち着くと、葵が口を開いた。
「ごめんね」
僕は微笑んだ。
「謝らなくていいよ」
彼女は僕を見た。
「ただね……」
少しためらった。
「昨日から、私たちの未来ってどんな感じなんだろうって考えてたの」
僕はうなずいた。
「それで、すごく普通のことばかり想像してるって気づいたの」
「たとえば?」
彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「一緒に買い物に行くこと」
僕は笑った。
「ロマンチックだね」
「家具を選ぶこと」
「危険な話題だね」
「本棚のことで言い争うこと」
「それは間違いなく危険だ」
彼女は笑った。
「それから、いつか……」
声が小さくなった。
「結婚できたらいいなって」
胸が温かくなった。
僕は彼女を見た。
そして、静かに答えた。
「うん」
葵は瞬きをした。
「……うん?」
「僕も考えたことがあるよ」
◇ ◇ ◇
葵は僕を見つめた。
「本当に?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
彼女は驚いていた。
僕は笑った。
「そんなに意外?」
「だって……!」
僕は少し考えてから言った。
「君と人生を共にするって、どういうことだろうって考えたことはある」
彼女の表情が柔らかくなった。
「ただ、同じアパートに住むってことじゃなくて」
僕はうなずいた。
「一緒に決めたり、支え合ったり、それぞれの仕事や好きなことも大切にしたり」
少し間を置いた。
「そして、きっと起こるいろんな難しいことに、一緒に向き合ったり」
葵は静かに聞いていた。
「結婚は、大きな決断だと思う」
「うん」
「現実的に考えなければならないことも、たくさんあるしね」
彼女はうなずいた。
「そうだね」
僕は微笑んだ。
「でも、その未来を想像すること自体は……」
彼女を見た。
「怖くないよ」
葵の目に涙が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
葵は小さく笑った。
「本当に?」
「本当に」
彼女は少し身を乗り出した。
「じゃあ、何が怖いの?」
僕は考えた。
「大地さんに結婚式を企画されること」
葵は吹き出した。
僕は続けた。
「きっと三百枚くらいのスライドを用意してくるよ」
彼女はさらに笑った。
「どんな題名かな?」
僕は目を細めた。
「『幸せな結婚生活大作戦』」
葵は椅子から落ちそうになるほど笑った。
◇ ◇ ◇
笑いが落ち着くと、彼女はもう一度僕を見た。
「春人?」
「何?」
「今、何かを決めなくてもいいんだよね」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
「ただ、春人も想像できるのかなって、知りたかったの」
僕はうなずいた。
「想像できるよ」
彼女は微笑んだ。
「私も」
しばらく、僕たちは見つめ合った。
それから、彼女はそっと顔を近づけ、優しくキスをしてくれた。
それはプロポーズではなかった。
日付や式についての約束でもなかった。
もっと静かなものだった。
僕たちがこれまで口にする勇気を持てなかった未来を、二人とも思い描いているということ。
それを確かめ合う、小さな瞬間だった。
◇ ◇ ◇
午後になり、葵は帰る準備を始めた。
荷物はまとまっていた。
帰りの移動手段も手配してあった。
そして僕は、寂しくないふりをすることに全力を尽くしていた。
少なくとも、自分ではうまくできているつもりだった。
葵が僕を見た。
「その顔してる」
僕は瞬きをした。
「どんな顔?」
「その顔」
「何のことか分からないな」
彼女は寂しそうに微笑んだ。
「寂しいって言いたくないときの顔」
僕はため息をついた。
「……分かったよ」
彼女は車椅子に近づいた。
「私も寂しい」
僕は彼女を見た。
「うん」
彼女は微笑んだ。
「家に着いたら電話するね」
「分かった」
「明日も」
「うん」
「たぶん、明後日も」
僕は笑った。
「ずいぶんしつこいね」
彼女は微笑んだ。
「でも、好きでしょ?」
僕は彼女を見た。
「うん」
声が少し柔らかくなった。
「本当に好きだよ」
◇ ◇ ◇
葵は慎重に僕を抱きしめた。
長い間、僕たちは何も話さなかった。
そして、彼女がささやいた。
「愛してるよ、春人」
僕は目を閉じた。
「僕も愛してる」
彼女は少し体を離して、僕の顔を見た。
「ちゃんと食事してね」
僕は微笑んだ。
「はい、水野看護師」
彼女は目を細めた。
「私は春人の看護師じゃないよ」
僕はにやりと笑った。
「じゃあ、指示するのはやめてよ」
彼女は笑った。
「それは無理」
◇ ◇ ◇
葵が帰ったあと、家の中は静かになった。
何もなくなったわけではない。
ただ――
少し違って感じられた。
彼女が使っていた椅子は、まだ窓の隣にあった。
読んでいた本も、テーブルの上に残っていた。
部屋には、彼女がいた気配がかすかに残っているようだった。
僕はしばらく、その椅子を見つめた。
そして、微笑んだ。
別れを告げるのはつらかった。
もちろん、つらい。
でも、その痛みは、僕たちの関係がうまくいっていない証拠ではない。
一緒にいる時間が、それだけ大切だという証拠だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜、夏美さんが小さな封筒を持ってきた。
「葵さんから、帰ったあとに渡してほしいと頼まれました」
僕は瞬きをした。
「本当ですか?」
彼女は微笑んだ。
「はい」
僕は封筒を見た。
表には、僕の名前が書かれていた。
『春人へ』
夏美さんに手伝ってもらい、封筒を開けた。
中には、手書きの手紙が入っていた。
僕は読み始めた。
『春人へ
この週末、私たちは本当にいろんなことを話したね。
アパートのこと。
仕事のこと。
未来のこと。
それから、結婚のことまで。
あんなことを聞いたとき、すごく恥ずかしかった。
というか、今でも恥ずかしい。
でも、聞いてよかったと思ってる。
だって、雨を見ながら一緒に過ごしていたとき、大切なことに気づいたから。
私たちが引っ越す日が決まっていなくてもいい。
結婚する日が決まっていなくてもいい。
完璧な計画がなくてもいい。
もちろん、これからも一緒の未来に向かって努力したい。
でも、その未来を待つことに夢中になりすぎて、今の私たちが一緒に作っている生活を忘れたくないの。
私は、春人が笑わせてくれるところが好き。
小説に真剣に向き合っているところが好き。
私が怖くなったとき、ちゃんと話を聞いてくれるところが好き。
そして、私たちの人生を無理に合わせるために、私が自分らしさを小さくする必要はないって言ってくれるところが好き。
私は、これからも自分がなりたい人間になっていきたい。
春人にも、そうしてほしい。
いつか、同じ家で暮らせるかもしれない。
いつか、結婚するかもしれない。
そうなったら、私はうれしい。
でも、その前から知っていてほしいことがあるの。
春人は、もう私が望む未来の一部なんだよ。
春人がいないと私の人生が完成しないからじゃない。
私たちがこれからも一緒に選んでいく人生を、私は愛しているから。
次のおやすみまで。
葵より』
◇ ◇ ◇
僕は手紙を二回読んだ。
それから、三回目を読んだ。
読み終えるころには、目が潤んでいた。
僕は窓の外を見た。
雨はもうやんでいた。
夕空が少しずつ金色に染まっていた。
僕は微笑んだ。
「……葵」
しばらく、ただそこにいた。
それから、夏美さんに頼んで、母の写真の隣に手紙を置いてもらった。
二つが同じものだからではない。
もちろん、違う。
母は、僕が自分の人生を始められるようにしてくれた人だった。
葵は、僕が自分の意思で人生の一部を共にしたいと願っている人だった。
でも、二人は大切なことを思い出させてくれた。
愛は、僕の世界を小さくするものではない。
その世界で生き続ける勇気をくれるものなのだ。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は近づいている文学イベントの準備をした。
森探偵の物語から、短い場面を選んだ。
老女が花に水をやっているのは、証拠を隠すためではないと森が気づく場面だった。
彼女は、かつて知っていた人の最後の生きた記憶が消えてしまうことを恐れて、花に水をやり続けていたのだ。
僕はその場面を何度も読み返した。
それから、一文を直した。
もう一文も直した。
そして、幸子さんにまた小説全体を書き直していると怒られそうだと気づいた。
僕は笑った。
「すみません、先生」
カーソルが点滅していた。
僕は文書を保存した。
◇ ◇ ◇
通知が表示された。
葵からだった。
『家に着いたよ』
僕は微笑んだ。
『よかった』
続けてメッセージが届いた。
『手紙、読んだ?』
僕は母の写真の隣に置かれた封筒を見た。
『三回読んだよ』
少し間があった。
そして――
『春人!!』
僕は笑った。
『何?』
『恥ずかしいじゃん!!』
『書いたのは君だよ』
『分かってる!!』
僕は微笑んだ。
そして、入力した。
『僕も愛してるよ』
数秒後、返信が届いた。
『知ってる』
さらに、もう一通。
『それから、いつか電話を使わずにおやすみって言いたいな』
僕はその言葉を見つめた。
胸が温かくなった。
『僕もだよ』
◇ ◇ ◇
翌朝、恵美さんから新しい連絡が届いた。
現在の看護サービスの再評価に必要な追加書類を、提出に向けて整理しているという。
まだ最終的な判断は出ていなかった。
手続きが続く中、現在のサービスは維持されていた。
確認すべきことは、まだ残っている。
でも、必要な対応については計画が立っていた。
僕は少し安心した。
それから、新しいアパートの管理担当者から届いたメールを開いた。
電気設備について、さらに詳しく話し合う準備をしているらしい。
そのアパートは、まだ一つの可能性だった。
確実な解決策ではない。
少なくとも、今はまだ。
そして看護事業所も、複数の事業者が協力する形で僕に必要な看護を提供できるかどうか、引き続き検討していた。
何も保証されていない。
でも、話し合いは続いていた。
質問をしてくれる人たちがいた。
答えを探そうとしてくれる人たちがいた。
そして、今はそれで十分だと思えた。
◇ ◇ ◇
僕は先週作った文書を開いた。
『これからの僕たちへ』
ページは、まだほとんど白紙だった。
僕はしばらく見つめた。
そして、入力し始めた。
『昔の僕は、未来というものを目的地だと思っていた。
すべての障害を乗り越えた先にたどり着く場所。
家。
仕事。
恋人。
自分が思い描いたとおりの人生。
でも最近、未来は道の終わりで待っているものではないのだと、少しずつ分かってきた。
未来は、僕たちが今この瞬間にも築いているものなのだ。
何かを選ぶたびに。
助けを求めるたびに。
計画がうまくいっていないと認めるたびに。
もう一度挑戦しようと決めるたびに』
僕は少し手を止めた。
それから、続きを書いた。
『そして、ときには、僕たちができる最も大切な約束は、すべてが望みどおりになると保証することではない。
自分が何を望んでいるのか、正直であり続けること。
大切なものを守ること。
そして、待っている間も、生きることを忘れないことなのだ』
◇ ◇ ◇
僕は葵が残してくれた手紙を見た。
それから、母の写真を見た。
そして、パソコンに保存されている原稿を見た。
未完成のものが、こんなにもたくさんある。
答えの出ていないことも、たくさんある。
それでも――
僕はもう、迷子になったようには感じなかった。
僕は、編集者からの返事を待っている小説家だった。
別の街へ安全に引っ越せるかどうかを調べている一人の男性だった。
亡くなった母の愛から、今も多くのことを学んでいる息子だった。
そして、愛する女性と、不完全だけれど素晴らしい週末を過ごした恋人だった。
そのどれか一つが、ほかのものを消してしまうわけではない。
全部が、僕という人間の一部だった。
◇ ◇ ◇
僕は文書を保存した。
それから、カレンダーを見た。
文学イベントの日が近づいていた。
葵は仕事に戻っていた。
幸子さんは、きっとまた僕の原稿のどこかに問題を見つけるだろう。
大地さんは、おそらく新しいプレゼンテーションを準備しているに違いない。
そして、別の街では、看護事業所と不動産の管理担当者が、僕の未来に関わるかもしれない問題について検討していた。
心配することは、たくさんある。
期待することも、たくさんある。
やるべきことも、たくさんある。
僕は微笑んだ。
「さて」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「次の章は、面白くなりそうですね」
彼女は笑った。
「小説のですか?」
僕は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「それもあります」
◇ ◇ ◇
窓の外では、朝日が街を照らしていた。
世界は動き続けている。
そして、僕も。
保証された結末に向かっているわけではない。
完璧な未来に向かっているわけでもない。
でも、自分で選んだ人生に向かって、一つずつ慎重に決断しながら進んでいる。
誰かを愛しても、自分自身を失わずにいられる人生。
彼女が自分の夢を追うことを、申し訳なく思わずに済む人生。
看護を必要とすることが、自分の人生を選ぶ権利を手放すことにはならない人生。
そして、僕たちの間にある距離を認めながらも、その距離だけで関係のすべてが決まるわけではない人生。
葵といつ同じ家で暮らせるのか、僕には分からない。
次のアパートが条件に合うのかも分からない。
僕の小説が出版されるのかも分からない。
そして、大地さんがいつかプレゼンテーションを作るのをやめる日が来るのかも分からない。
最後の一つについては、特に望みが薄そうだった。
でも、分かっていることもある。
僕は葵を愛している。
葵も僕を愛してくれている。
そして、僕たちはすでに、守る価値のある何かを築いている。
いつかではない。
すべての準備が整ってからでもない。
今、この瞬間に。
なぜなら、帰る場所とは、必ずしも建物のことではないからだ。
ときには、自分を理解してくれる人がいる場所。
ときには、自分らしくなっていける自由。
そして、ときには――
雨の午後、隣に座って手を握りながら、まだ完成していない未来も美しいのだと思い出させてくれる、一人の女性のことなのだ。
僕はパソコンの隣に置かれた写真に微笑みかけた。
それから、窓の外を見た。
「また今度ね、葵」
そうつぶやいて、僕は再び執筆に戻った。




