第77話 まだ届かない未来へ、僕たちが一つずつ灯していく希望
人生には、期待してはいけないと分かっていても、どうしても期待してしまう瞬間がある。
たとえば、出版社からメールが届いたとき。
たとえば、恋人から「大事な話がある」と言われたとき。
あるいは、何週間も探し続けていた条件に合いそうなアパートが、突然見つかったとき。
僕の場合、その三つが同じ週に起きようとしていた。
しかも、月曜日の朝からだった。
どうやら神様は、僕の人生に平穏な一週間を与えるつもりがないらしい。
◇ ◇ ◇
「春人さん、おはようございます」
夏美さんの声で、僕は窓の外から視線を戻した。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
人工呼吸器の規則的な作動音が、いつもどおり部屋に響いている。
夏美さんは僕の状態と機器を確認しながら、いつもの穏やかな表情を浮かべていた。
「今日は何か予定がありますか?」
僕は少し考えた。
「世界征服です」
彼女は手を止めなかった。
「そうですか」
「驚かないんですか?」
「春人さんなら、まず計画書を作ると思いますので」
僕は目を細めた。
「……僕のことをよく分かっていますね」
「長い付き合いですから」
彼女は微笑んだ。
「それで、本当の予定は?」
「原稿の修正と、恵美さんへの連絡と、葵との電話です」
「忙しいですね」
「世界征服よりも大変かもしれません」
夏美さんは笑った。
そのとき、パソコンに通知が表示された。
差出人の名前を見た瞬間、僕は姿勢を正したくなった。
もちろん、実際にはそう簡単に姿勢を変えられない。
でも、気持ちだけは正した。
健二さんだった。
件名には、こう書かれていた。
「住宅について、少し面白い情報があります。」
僕は瞬きをした。
「……おや」
夏美さんがこちらを見た。
「どうしました?」
「どうやら、世界征服は延期になりそうです」
◇ ◇ ◇
健二さんからのメールには、一件の住宅情報が添付されていた。
葵が暮らす街の住宅街にある、小さな集合住宅。
建物は二階建てだった。
しかし、今回紹介された部屋は一階にあった。
道路から玄関までの経路に大きな段差はなく、共用廊下も比較的広い。
室内の写真には、ゆったりしたリビングと、広く見える浴室が写っていた。
何より、部屋の入口が直接屋外の共用通路につながっていた。
僕は写真を拡大した。
もう一度見た。
そして、説明文を読んだ。
「……本当に?」
前回のアパートを思い出した。
書店の上。
大きな窓。
素敵な立地。
そして、緊急時に安全な避難方法を確認できなかった建物。
今回は少なくとも、上層階からの避難という問題はなさそうだった。
もちろん、それだけで安全だと判断できるわけではない。
玄関の幅。
室内の通路。
浴室の使いやすさ。
人工呼吸器や関連機器を設置する場所。
停電時の備え。
看護師が安全にケアを提供できる空間。
緊急車両のアクセス。
そして、実際に必要な看護を確保できるかどうか。
確認すべきことは、まだ山ほどあった。
僕はメールの最後を読んだ。
「まだ一般募集前の物件ですが、管理担当者から基本的な情報を確認できるそうです。興味があれば紹介します。ただし、医療機器の使用や避難計画については、必ず専門家と一緒に確認してください。」
僕は微笑んだ。
健二さんは、僕が何を期待しているか分かっている。
同時に、期待だけで決めてはいけないことも分かっている。
それが、ありがたかった。
◇ ◇ ◇
僕はすぐに葵へメッセージを送った。
「新しいアパートの情報が届いた。」
返事は三分後に来た。
「えっ、本当!?」
「うん。一階だよ。」
「一階!?」
「そう。」
「写真ある?」
僕は資料を送った。
それから十秒もしないうちに、電話が鳴った。
「春人!」
「おはよう、葵」
「これ、本当に一階なの?」
「資料によればね」
「リビング広そう!」
「そうだね」
「窓も大きい!」
「うん」
「しかも近くに公園がある!」
「落ち着いて、葵」
彼女は一瞬黙った。
それから、僕を見た。
「……ごめん」
僕は微笑んだ。
「謝らなくていいよ」
「でも、また期待しすぎちゃった」
「僕も少し期待してる」
葵は画面を見つめた。
「本当?」
「うん」
僕は写真を見た。
「ただ、今回は順番を間違えたくないんだ」
彼女はうなずいた。
「最初に安全性と看護の条件を確認する」
「そう」
「それから、家具の配置を考える」
僕は微笑んだ。
「正解」
彼女は少し考えた。
「……でも、本棚を置く場所くらいは考えてもいい?」
「それは最優先事項だよ」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、恵美さんとオンラインで話した。
彼女は資料を慎重に確認していた。
「前の物件より、検討しやすい条件がいくつかありますね」
僕はうなずいた。
「一階というのは大きいですよね」
「そうですね。ただ、出入口が地上階にあることと、必要な安全条件をすべて満たしていることは別です」
「はい」
恵美さんは画面にチェックリストを表示した。
「実際の寸法が必要です。写真だけでは判断できません」
「玄関と廊下ですね」
「それに浴室、寝室、医療機器の配置、電源設備、緊急時の搬送経路です」
僕はメモを取った。
「建物側が何に対応できるのかも確認したいですね」
「そのとおりです」
彼女は続けた。
「そして、何よりも重要なのは、住む場所が見つかっても、それだけでは引っ越せないということです」
僕はうなずいた。
「二十四時間の専門的な看護体制が必要ですから」
「はい。現在の看護サービスを維持しながら、移転先で継続的なケアが本当に確保できるか、別に確認しなければなりません」
僕はため息をついた。
「つまり、まだ長い道のりですね」
恵美さんは優しく微笑んだ。
「でも、調べる価値のある情報が一つ増えました」
僕はその言葉を考えた。
一つ増えた。
それだけだった。
でも、以前の僕なら、そんな小さな進展に意味があるとは思えなかったかもしれない。
今は違った。
◇ ◇ ◇
翌日、さらに予想外の連絡があった。
以前問い合わせていた看護事業所からだった。
「高橋様のご希望について、もう少し詳しくお話を伺いたいと考えております。」
僕はその一文を三回読んだ。
最初は、単なる事務的な返信だと思った。
でも、続きには、経験豊富な看護師とのオンライン面談を提案する内容が書かれていた。
僕はすぐに恵美さんへ転送した。
彼女からの返信は、いつもどおり慎重だった。
「良い進展ですね。ただし、面談は受け入れの確約ではありません。必要な看護内容と事業所の対応能力を確認する機会として考えましょう。」
僕は微笑んだ。
まったくそのとおりだった。
そして、僕は葵に連絡した。
彼女は仕事中だったので、短いメッセージだけ送った。
「看護事業所が面談してくれることになった。」
しばらくして、返事が届いた。
「すごい! でも、焦らずにね。」
僕は笑った。
どうやら、僕たちは同じことを学び始めているらしい。
◇ ◇ ◇
面談は木曜日に行われた。
恵美さんも参加した。
夏美さんは、僕の許可を得て、現在の看護内容を説明できるよう同席してくれた。
相手は小林さんという看護師だった。
落ち着いた声で話す、五十代くらいの女性だった。
「高橋さん、初めまして」
「初めまして。よろしくお願いします」
「まず、現在の生活について少し教えていただけますか?」
僕はうなずいた。
そして、説明を始めた。
人工呼吸器を使用していること。
二十四時間の専門的な看護が必要なこと。
日常生活の多くの場面で介助を受けていること。
現在は、慣れた看護体制のもとで生活していること。
小林さんは丁寧に聞いていた。
必要に応じて質問した。
機器について。
緊急時の対応について。
現在の看護記録について。
医療機関との連携について。
僕は慎重に答えた。
その途中で、小林さんが少し意外な質問をした。
「高橋さんは、普段どんなことをして過ごされているんですか?」
僕は瞬きをした。
「……普段、ですか?」
「はい。医療的なこと以外で」
僕は少し考えた。
それから微笑んだ。
「小説を書いています」
彼女の表情が明るくなった。
「小説ですか?」
「はい。推理小説です」
「それは素敵ですね」
僕は笑った。
「主人公がなかなか事件を解決してくれないんですけど」
小林さんも笑った。
◇ ◇ ◇
面談が進むにつれ、僕は少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。
小林さんは、僕の医療上の必要性を軽く考えていなかった。
むしろ、細かいところまで確認していた。
でも同時に、僕がどんな生活を送りたいのかにも関心を持ってくれた。
「もしこちらの街に来られるとしたら、どんな生活を希望されていますか?」
僕は考えた。
「安全に暮らせることが第一です」
彼女はうなずいた。
「それから、できれば執筆を続けたいです」
「はい」
「図書館に行ったり、地域の活動に参加したり……」
僕は少し笑った。
「普通のことをしたいんです」
小林さんは微笑んだ。
「普通のことは、大切ですよ」
その言葉が、思いがけず胸に残った。
◇ ◇ ◇
もちろん、面談の最後には現実的な話になった。
小林さんは、事業所が現在対応できる看護内容について説明した。
経験のある看護師はいる。
でも、僕に必要な二十四時間の継続的な看護を、安定して提供できるかは別問題だった。
人員配置。
勤務体制。
保険や契約上の条件。
医療機関との連携。
緊急時の対応。
確認しなければならないことが多かった。
「現時点で、受け入れをお約束することはできません」と小林さんは言った。
僕はうなずいた。
「分かっています」
「ただ、必要な情報を整理して、事業所内で検討することはできます」
僕は彼女を見た。
「それだけでも、ありがたいです」
小林さんは微笑んだ。
「では、次の段階で必要になる資料について、恵美さんと相談させてください」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はしばらく黙っていた。
夏美さんがこちらを見た。
「どうでした?」
僕は考えた。
「……よかったです」
彼女は微笑んだ。
「そうですね」
「まだ何も決まっていませんけど」
「はい」
僕は画面を見た。
「でも、ちゃんと話を聞いてもらえた気がします」
夏美さんはうなずいた。
「それは大切なことですね」
僕は微笑んだ。
そして、少し間を置いてから言った。
「……寂しくなりますか?」
彼女は僕を見た。
「何がですか?」
「もし、本当に引っ越すことになったら」
夏美さんは少し驚いたようだった。
それから、優しく微笑んだ。
「もちろん、寂しくなると思います」
僕は黙った。
「でも、春人さんが安全に、自分の望む生活を築けるなら、それは喜ばしいことでもあります」
胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
彼女は笑った。
「ただし、まだ引っ越すと決まったわけではありませんよ」
僕も笑った。
「はい。分かっています」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話がかかってきた。
画面に映った彼女は、いつもより疲れて見えた。
「やあ」
「……やっほー」
僕は眉をひそめた。
「大丈夫?」
彼女は微笑もうとした。
「うん」
僕は少し黙った。
「葵」
「何?」
「本当に?」
彼女はしばらく僕を見つめた。
それから、深いため息をついた。
「……今日は、ちょっと駄目だった」
僕は静かに聞いた。
「何があったの?」
葵は少しためらった。
「仕事でね。確認しなきゃいけないことを、一つ見落としかけたの」
僕は黙っていた。
「先輩が気づいてくれて、実際に問題になる前に確認できたんだけど……」
彼女は視線を落とした。
「すごく情けなくなっちゃった」
◇ ◇ ◇
僕は彼女の話を遮らなかった。
葵は続けた。
「新しい職場で、ちゃんとやりたいって思ってたの」
「うん」
「みんなに迷惑をかけたくなかった」
「うん」
「なのに、まだ分からないことばかりで……」
声が少し震えた。
「私、本当にここで働いていけるのかなって」
僕は彼女を見た。
そして、静かに言った。
「葵」
彼女が顔を上げた。
「失敗しそうになったことは、怖かったと思う」
彼女はうなずいた。
「うん」
「でも、気づいてもらえて、確認できたんだよね」
「……うん」
「それなら、そこから学べることがあるんじゃないかな」
葵は黙った。
僕は続けた。
「もちろん、仕事のことは僕より君のほうがずっと詳しい」
彼女はかすかに笑った。
「そんなことないよ」
「あるよ」
僕は微笑んだ。
「僕は探偵を一人、まともに事件解決させるだけで苦労してるんだから」
葵は少し笑った。
◇ ◇ ◇
「でもね」と僕は続けた。
「君が新しい仕事を始めたばかりだってことは、忘れなくていいと思う」
葵は僕を見た。
「最初から全部知っている必要はないし、分からないことを確認するのは、恥ずかしいことじゃない」
彼女は目を伏せた。
「……理沙さんにも、似たようなことを言われた」
僕は微笑んだ。
「さすが理沙さん」
葵は小さく笑った。
「自分が分からないことを認められる看護師になりなさいって」
僕はうなずいた。
「いい言葉だね」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「春人、私、怖いんだ」
胸が締めつけられた。
「何が?」
「いつか、本当に大きな失敗をしてしまうんじゃないかって」
僕は彼女を見つめた。
簡単に「そんなことはない」と言いたくなった。
でも、それは僕に分かることではなかった。
だから、別のことを言った。
「だからこそ、確認したり、相談したりするんだと思う」
葵は顔を上げた。
「君一人で、全部を背負わなくていい」
彼女の目から、涙がこぼれた。
◇ ◇ ◇
「……ありがとう」
葵は目元を拭った。
僕は微笑んだ。
「どういたしまして」
彼女は少し笑った。
「春人って、ときどきすごくいいこと言うよね」
「ときどき?」
「うん」
「そこは『いつも』じゃないの?」
葵は笑った。
「調子に乗らないで」
僕も笑った。
しばらくして、彼女は深く息を吐いた。
「明日、もう一回ちゃんと確認してみる」
「うん」
「同じことを繰り返さないように」
「うん」
彼女は微笑んだ。
「少し元気出た」
僕も微笑んだ。
「よかった」
そして、彼女が小さな声で言った。
「……春人がいてくれて、よかった」
僕は一瞬、言葉を失った。
それから、静かに答えた。
「僕も、葵がいてくれてよかったよ」
◇ ◇ ◇
翌朝、幸子さんからメールが届いた。
件名は、いつもどおり優しくなかった。
「いつまで探偵を迷子にさせておくつもり?」
僕はため息をついた。
「おはようございます、先生」
もちろん、彼女には聞こえない。
メールを開いた。
「改稿した部分を読みました。
前よりずっとよくなっています。
特に、老女の動機と森の誤った推理が結びついた点は評価できます。
ただし、最後の場面をもう少し見直しなさい。
事件の解決と、登場人物の感情的な決着は、必ずしも同じ瞬間に起こる必要はありません。
それから、森にもう少しまともな食事をさせてあげなさい。
あの男は毎回、菓子パンばかり食べています。
――幸子」
僕は画面を見つめた。
それから、笑った。
「……最後の一文は必要だったんでしょうか」
夏美さんがこちらを見た。
「何かありました?」
「文学的な攻撃を受けました」
「またですか?」
「はい」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
僕はその日、原稿の最後の数章を修正した。
森探偵は、ようやく真実にたどり着く。
しかし、事件を解決したからといって、すべてが元どおりになるわけではなかった。
老女が守ってきた記憶。
消された男の人生。
嘘を信じ続けた人々。
そして、森自身が犯した間違い。
真実が明らかになっても、失われた時間は戻らない。
でも、だからこそ、真実を知る意味がある。
僕はそう考えた。
最後の場面で、森は老女の庭を訪れる。
彼女はいつものように花に水をやっている。
森は、事件について何も尋ねない。
ただ、少し離れた場所に座る。
そして、彼女が花に水をやり終えるまで待つ。
僕はその場面を書き終えた。
カーソルが点滅していた。
長い間、画面を見つめた。
そして、初めて思った。
これでいい。
◇ ◇ ◇
僕は原稿を保存した。
それから、幸子さんにメールを送った。
「最終章を修正しました。確認をお願いします。」
数分後、返信が届いた。
「早いわね。ちゃんと考えたの?」
僕は笑った。
「もちろんです。」
「なら送って。」
僕はファイルを添付した。
送信ボタンを押した瞬間、胸が少し高鳴った。
まだ完成したとは言えない。
出版社が受け入れてくれるとも限らない。
でも、初めて、自分が書こうとしていた物語に近づけた気がした。
それだけで、十分にうれしかった。
◇ ◇ ◇
金曜日の夜、僕と葵は久しぶりにデートをすることにした。
正確には、オンラインデートだった。
でも、僕たちはそれをデートと呼ぶことにしていた。
同じ時間に夕食を食べる。
同じ映画を見る。
そして、できるだけ仕事や引っ越しの話をしない。
計画は完璧だった。
少なくとも、開始五分前までは。
「春人!」
画面の向こうで葵が叫んだ。
「何?」
「料理がまだ届かない!」
僕は時計を見た。
「あと五分で始まるよ」
「分かってる!」
「大丈夫。映画は逃げないから」
「でも、私のお腹は限界!」
僕は笑った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「おっ、僕の料理かな」
夏美さんが確認に向かった。
そして、数秒後。
聞き慣れた声が響いた。
「春人ー!」
僕は固まった。
「……あ」
葵が首をかしげた。
「どうしたの?」
僕は深いため息をついた。
「世界が終わった」
◇ ◇ ◇
大地さんだった。
しかも、なぜか大きな紙袋を三つ持っていた。
「よお、春人!」
「こんばんは、大地さん」
「差し入れだ!」
僕は目を細めた。
「何の?」
「デート用!」
僕は固まった。
画面の向こうで葵が笑い始めた。
「……どうして知ってるんですか?」
「由紀から聞いた!」
僕は目を閉じた。
「由紀さん……」
大地さんは得意げに袋を開けた。
中には、スナック菓子、飲み物、映画鑑賞用の小物が入っていた。
そして、なぜか二つの紙製の帽子。
僕はそれを見つめた。
「……帽子?」
「映画館の雰囲気を出そうと思ってな!」
「映画館で帽子をかぶる人、あまりいませんよ」
「細かいことは気にするな!」
葵は大笑いしていた。
◇ ◇ ◇
さらに悪いことに、大地さんは僕たちの映画を一緒に見ようとした。
「俺も見ていいか?」
「駄目です」
「どうして?」
「デートだからです」
「俺は邪魔しないぞ!」
「今、邪魔しています」
葵は笑いすぎて涙を拭っていた。
大地さんは少し考えた。
それから、僕を見た。
「なるほど」
僕はほっとした。
「分かってくれました?」
「つまり、俺は映画が終わるまで待てばいいんだな?」
「違います!」
そのとき、背後から由紀さんの声がした。
「大地!」
僕は救われた気がした。
由紀さんは腕を組んでいた。
「何してるの?」
大地さんは振り返った。
「差し入れを――」
「春人たちのデートを邪魔しないでって言ったでしょう!」
「差し入れだけだって!」
「帽子まで持ってきて!」
「必要だろ!?」
「必要ないわよ!」
僕と葵は、画面越しに顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
◇ ◇ ◇
ようやく二人が帰ったあと、僕たちは映画を始めた。
葵の料理は二十分遅れて届いた。
僕のパソコンは途中で一度、映像を止めた。
そして、映画の重要な場面で、葵のインターネット接続が切れた。
計画は散々だった。
でも、不思議なことに、僕はずっと笑っていた。
葵も同じだった。
映画が終わるころには、二人とも疲れきっていた。
「……楽しかったね」と葵が言った。
僕は微笑んだ。
「うん」
「全然、予定どおりじゃなかったけど」
「そうだね」
彼女は少し考えた。
「でも、こういうのもいいね」
僕はうなずいた。
「完璧じゃなくてもね」
葵は微笑んだ。
「うん」
◇ ◇ ◇
翌日、由紀さんが訪ねてきた。
今回は大地さんを連れていなかった。
それだけで、かなり平和だった。
「春人、少し話せる?」
僕はうなずいた。
「もちろんです」
彼女は椅子に座った。
そして、静かに言った。
「引っ越しのことなんだけど」
僕は少し緊張した。
「はい」
「一度、みんなでちゃんと話し合ったほうがいいと思うの」
僕は考えた。
「恵美さんたちも一緒に?」
「ええ。夏美さんも、必要ならほかの関係者も」
僕はうなずいた。
「いいと思います」
由紀さんは微笑んだ。
「それから、大地も参加したいって」
僕は目を閉じた。
「……本当に?」
「ええ」
「プレゼンテーションは禁止にしてください」
由紀さんは笑った。
「もう作ってるらしいわ」
僕は天井を見た。
「神様……」
◇ ◇ ◇
家族会議は翌週に開かれた。
僕。
由紀さん。
大地さん。
夏美さん。
恵美さん。
そして、葵もオンラインで参加した。
大地さんは、予想どおりノートパソコンを持ってきた。
画面には大きな文字が表示されていた。
『春人を彼女の街へ送り届けよう大作戦』
僕は固まった。
「……大地さん」
「どうだ?」
「題名を変えてください」
「何でだよ?」
「僕は宅配便じゃありません」
葵が笑った。
由紀さんは額を押さえた。
恵美さんは、どうにか真面目な表情を保とうとしていた。
夏美さんは完全に笑っていた。
◇ ◇ ◇
会議は、思ったよりも真剣なものになった。
現在の看護サービス。
再評価の手続き。
新しい街の看護事業所との面談。
住宅の条件。
医療機器の管理。
緊急時の対応。
保険や医療機関との調整。
そして、僕自身の希望。
恵美さんは一つずつ確認していった。
「現時点では、引っ越しの実施を決められる段階ではありません」
全員がうなずいた。
「特に、移転先で必要な専門的看護が確保できるかどうかが、最も重要な課題の一つです」
僕はうなずいた。
「はい」
由紀さんが僕を見た。
「春人、本当に自分で望んでいるのね?」
僕は彼女を見た。
そして、静かに答えた。
「はい」
彼女は黙った。
僕は続けた。
「葵の近くにいたいという気持ちはあります」
葵が画面の向こうで僕を見た。
「でも、それだけじゃないんです」
僕は少し考えた。
「新しい街で、自分の生活を築けるかもしれないと思っているんです」
◇ ◇ ◇
由紀さんはしばらく黙っていた。
それから、微笑んだ。
「そう」
僕はうなずいた。
「もちろん、今の生活を危険にさらしてまで引っ越すつもりはありません」
恵美さんも微笑んだ。
「それが大切ですね」
大地さんが手を挙げた。
僕は嫌な予感がした。
「何ですか?」
「つまり、作戦は続行だな?」
僕はため息をついた。
「調査は続行です」
「よし!」
彼はノートパソコンに何かを入力した。
画面の文字が変わった。
『春人を彼女の街へ送り届けよう大作戦・調査編』
僕は目を閉じた。
「……もう好きにしてください」
葵は大笑いしていた。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は母の古い書類を整理していた。
最近見つかったチェックリスト。
地図。
住宅に関するメモ。
そして、書きかけの手紙。
どれも、母が僕の未来について考えていた証拠だった。
その中に、見覚えのある封筒があった。
以前、一度読んだものだった。
でも、なぜかもう一度開きたくなった。
中には、母の字で書かれた短いメッセージがあった。
「春人へ。
あなたがどんな大人になるのか、私はまだ分かりません。
でも、あなたが何かを好きになったとき、それを好きだと言える人であってほしい。
誰かを愛したとき、その気持ちを恥ずかしがらないでほしい。
そして、何かに挑戦したいと思ったとき、怖いからという理由だけで諦めないでほしい。
もちろん、無理をしないで。
助けが必要なときは、ちゃんと助けを求めて。
でも、自分の人生を生きることを、遠慮しないでね。
愛を込めて。
母より」
僕は長い間、その手紙を見つめた。
◇ ◇ ◇
そして、ふと思い出した。
母が亡くなったあと、僕も手紙を書いたことがあった。
まだ若かった。
何をどう伝えればいいのか分からなかった。
ただ、母に言いたいことがたくさんあった。
僕は古いファイルを探した。
そして、見つけた。
題名は単純だった。
『母さんへ』
僕は開いた。
そこには、今よりずっと幼い僕の言葉が並んでいた。
寂しい。
会いたい。
どうしていなくなってしまったの。
これから、どうすればいいの。
母さんがいない世界で、どうやって生きていけばいいの。
僕は読み進めた。
胸が痛んだ。
でも、不思議と、あのころの自分を恥ずかしいとは思わなかった。
あのときの僕には、あの言葉が必要だったのだ。
◇ ◇ ◇
僕は新しい文書を開いた。
そして、題名を入力した。
『母さんへ――今の僕から』
しばらく、カーソルを見つめた。
それから、書き始めた。
「母さん。
久しぶり。
昔の僕が書いた手紙を見つけたよ。
あのころの僕は、母さんがいない世界でどうやって生きればいいのか分からなかった。
正直に言うと、今でも分からなくなることがある。
でも、少しずつ分かってきたこともあるんだ。
僕には、今も支えてくれる人たちがいる。
由紀さんと大地さん。
夏美さん。
恵美さん。
幸子さん。
そして、葵。
母さん、僕は恋をしたよ。
僕のことを、ただ守られるだけの人間としてではなく、一人の男性として見てくれる人なんだ。
彼女には夢がある。
僕にも夢がある。
そして今、僕たちは、その二つをどうやって大切にしていけるのか考えている。
簡単じゃないよ。
でも、母さんが僕のために開こうとしてくれた扉を、今度は僕自身の手で探しているんだ。
まだ、どこへたどり着くのか分からない。
でも、前に進んでいるよ。
母さん。
僕は、ちゃんと生きてるよ。」
最後の一文を入力した瞬間、涙がこぼれた。
◇ ◇ ◇
僕はしばらく、何もできなかった。
人工呼吸器の音が、静かに続いていた。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
僕は母の写真を見た。
そして、微笑んだ。
「……読んでくれるかな」
答えはなかった。
もちろん、あるはずがない。
でも、それでよかった。
この手紙は、返事をもらうために書いたものではなかった。
今の僕が、あのころの僕に伝えたかったことでもあったからだ。
僕はもう、何も分からないまま立ち尽くしているだけの少年ではない。
怖いことは、まだたくさんある。
分からないこともある。
でも、選べることもある。
愛せる人もいる。
書きたい物語もある。
そして、明日を迎えたいと思える理由がある。
◇ ◇ ◇
翌週、僕は健二さんが紹介してくれた地域団体のオンライン交流会に参加した。
正直、少し緊張していた。
知らない人たちと話すのは、昔から得意というわけではなかった。
しかも、今回は葵の街の人たちだった。
もし本当に引っ越すことになれば、いつか直接会うかもしれない人たち。
それが、妙に現実的に感じられた。
交流会には、さまざまな人が参加していた。
車椅子を使っている人。
地域での生活を支援する活動に関わっている人。
趣味のサークルを運営している人。
そして、僕と同じように本が好きな人もいた。
自己紹介の順番が回ってきた。
僕は少し緊張しながら話した。
「初めまして。高橋春人です」
画面の向こうで、何人かが微笑んだ。
「今は別の街に住んでいますが、将来的にこちらへ引っ越せるかどうか調べています」
僕は続けた。
「小説を書いています。推理小説です」
すると、一人の若い男性が顔を上げた。
「えっ、小説を書いてるんですか?」
僕はうなずいた。
「はい」
彼は笑った。
「僕もです!」
◇ ◇ ◇
彼の名前は悠斗さんだった。
大学を卒業したばかりで、短編小説を書いているという。
僕たちはすぐに話が合った。
好きな作家。
好きなジャンル。
物語の構成。
登場人物の作り方。
そして、原稿を書いている途中で、突然すべてが嫌になる瞬間について。
「ありますよね!」と悠斗さんが言った。
僕は笑った。
「あります」
「書き始めたときは傑作だと思ってるのに」
「三章くらいで、全部消したくなるんですよね」
彼は大笑いした。
「そうなんです!」
健二さんが笑った。
「どうやら、二人を会わせて正解だったみたいだね」
僕は微笑んだ。
「本当に」
◇ ◇ ◇
交流会の終わり近く、運営者の一人が僕に声をかけた。
「高橋さん、もしよろしければ、今度の文学交流会で作品を朗読してみませんか?」
僕は固まった。
「……僕がですか?」
「はい」
「でも、まだ出版もしていませんし……」
彼女は微笑んだ。
「出版している必要はありませんよ」
僕は瞬きをした。
「作品について話したり、短い部分を紹介していただいたりするだけでもいいんです」
僕は少し考えた。
以前、地元で参加した文学イベントを思い出した。
あのときも緊張した。
でも、自分の言葉を誰かに届けられたことが、うれしかった。
「オンラインでも参加できますか?」
「もちろんです」
僕は微笑んだ。
「それなら、ぜひ」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はしばらく画面を見つめていた。
まだ一度も訪れたことのない街。
そこで暮らせるかどうかも分からない街。
でも、その街に、僕の作品を聞いてみたいと言ってくれる人がいた。
一緒に小説の話をしてくれる人がいた。
僕がどんな人間なのか、知ろうとしてくれる人がいた。
そのことが、思っていた以上にうれしかった。
僕は葵に電話した。
彼女は休憩中だった。
「春人!」
「やあ」
「交流会どうだった?」
僕は微笑んだ。
「すごくよかった」
「本当?」
「うん。新しい友達ができたかもしれない」
葵の表情が明るくなった。
「よかったね!」
「それに、文学交流会で朗読することになった」
彼女は目を見開いた。
「ええっ!?」
僕は笑った。
「驚きすぎだよ」
「だって、すごいじゃん!」
◇ ◇ ◇
葵はしばらく喜んでくれた。
それから、少し静かになった。
「春人」
「何?」
「なんだか、うれしい」
僕は微笑んだ。
「何が?」
「春人が、私の街で、自分の居場所を見つけ始めてること」
胸が温かくなった。
僕はうなずいた。
「まだ引っ越せるか分からないけどね」
「うん」
「でも、ここでしかできないことも、向こうでできるかもしれないことも、少しずつ見えてきた気がする」
葵は微笑んだ。
「そうだね」
僕は少し考えた。
そして、言った。
「葵」
「何?」
「君の街に行きたい理由が、一つ増えたよ」
彼女は僕を見た。
僕は微笑んだ。
「新しい友達に、直接会ってみたい」
葵は笑った。
そして、少し涙ぐんだ。
「……うん」
◇ ◇ ◇
その夜、幸子さんから電話がかかってきた。
僕はすぐに出た。
「こんばんは、先生」
「春人」
声がいつもより静かだった。
僕は少し緊張した。
「……どうしました?」
「原稿を読んだわ」
心臓が跳ねた気がした。
「……はい」
「最後まで」
僕は黙った。
幸子さんは少し間を置いた。
それから言った。
「よくなったわね」
僕は瞬きをした。
「……本当ですか?」
「ええ」
僕は言葉を失った。
彼女は続けた。
「まだ細かい修正は必要よ。でも、少なくとも今の原稿は、最後まで一つの物語として成立している」
胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「それから」
僕は身構えた。
「はい」
「そろそろ、編集者に再提出する準備をしてもいいと思う」
僕は固まった。
◇ ◇ ◇
「……え?」
幸子さんはため息をついた。
「聞こえなかった?」
「いえ、聞こえました」
「じゃあ、どうしてそんな顔をしているの?」
僕は少し考えた。
「……本当に、いいんですか?」
彼女は僕を見た。
「春人」
「はい」
「完璧な原稿なんて、存在しないわ」
僕は黙った。
「でも、今のあなたは、自分が何を書こうとしているのか分かっている」
彼女は続けた。
「それに、批評を受けて、物語を直すこともできるようになった」
僕は静かに聞いていた。
「それは、作家にとって大切な力よ」
胸が締めつけられた。
幸子さんは微笑んだ。
「だから、次の段階に進んでみなさい」
僕はうなずいた。
「……はい」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はしばらく何もできなかった。
原稿は、まだ出版されていない。
編集者が受け入れてくれる保証もない。
それでも、ようやく次の扉の前に立てた気がした。
僕は母の写真を見た。
「母さん」
声が少し震えた。
「僕、もう一回挑戦してみるよ」
それから、葵にメッセージを送った。
「幸子さんが、原稿を再提出してもいいって。」
返事はすぐに来た。
「春人!!!!」
僕は笑った。
「落ち着いて。」
「無理!!!!」
「感嘆符が多いよ。」
「だって、すごいんだもん!!!!」
僕は笑い続けた。
◇ ◇ ◇
翌朝、恵美さんから連絡があった。
看護サービスの再評価に必要な追加書類について、準備が進んでいるという。
現在のサービスに変更が決まったわけではない。
引き続き、必要な記録を揃えて提出することになる。
僕は少し安心した。
でも、まだ結果が出たわけではない。
それを忘れないようにした。
同じ日の午後、新しいアパートの管理担当者からも連絡が届いた。
一階の部屋について、基本的な寸法を確認できたらしい。
ただし、まだ正式な専門家による評価ではなかった。
僕は資料を開いた。
玄関。
廊下。
浴室。
寝室。
リビング。
いくつかの寸法が記載されていた。
写真で見た印象と、数字で見る現実は違う。
それは前回の経験で学んだことだった。
僕は慎重に読み進めた。
そして、少し眉をひそめた。
「……あれ?」
◇ ◇ ◇
浴室の入口は、写真で見たより狭かった。
僕はもう一度確認した。
資料に記載された寸法は、僕が必要とする条件に近かった。
でも、十分かどうかは、実際の機器や介助方法を踏まえて確認しなければ分からない。
僕は恵美さんに連絡した。
彼女は資料を見て、すぐに答えた。
「ここは専門家による確認が必要ですね」
僕はうなずいた。
「やっぱり」
「ただ、今の段階で不可能と決めつける必要もありません」
僕は画面を見た。
「……そうですね」
「確認してから判断しましょう」
僕は微笑んだ。
「はい」
また一つ、答えを急がないことを学んだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、葵から電話があった。
彼女は少し疲れていた。
でも、以前より落ち着いて見えた。
「やっほー」
「やあ」
「今日、どうだった?」
僕は微笑んだ。
「いろいろあったよ」
「また?」
「また」
葵は笑った。
僕は看護サービスの書類について話した。
新しいアパートの寸法について話した。
そして、幸子さんの言葉についても話した。
葵は静かに聞いていた。
それから、微笑んだ。
「春人」
「何?」
「なんだか、少しずつ進んでるね」
僕は考えた。
「うん」
「すごくゆっくりだけど」
「そうだね」
彼女は微笑んだ。
「でも、止まってない」
僕も微笑んだ。
「うん。止まってない」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は一人で原稿を見つめていた。
森探偵の物語。
母への手紙。
引っ越しの計画。
そして、葵との未来。
どれも、まだ完成していない。
でも、以前ほど未完成であることを怖いとは思わなくなっていた。
物語は、途中だからこそ続けられる。
人生も、きっと同じだ。
僕は新しい文書を開いた。
そして、題名を入力した。
『これからの僕たちへ』
何を書こうか考えた。
でも、まだ言葉が浮かばなかった。
僕は笑った。
「……まあ、いいか」
今すぐ完成させる必要はない。
未来は、急いで書き終えるものではないのだから。
◇ ◇ ◇
そのとき、パソコンに通知が表示された。
差出人は、小林さんが所属する看護事業所だった。
僕は瞬きをした。
「……もう?」
メールを開いた。
そこには、こう書かれていた。
「高橋様
先日はお時間をいただき、ありがとうございました。
お伺いした看護上の必要事項について、事業所内で初期検討を行いました。
現時点では、二十四時間の継続的な看護体制を確約できる状況にはございません。
ただし、今後の対応可能性について、関係者と追加の協議を行う余地があると考えております。
つきましては、次の段階として、医療上の必要性、保険・契約上の条件、必要な人員配置について、さらに詳しい情報交換をお願いできれば幸いです。
なお、今回のご連絡は受け入れ決定を意味するものではございません。」
僕は長い間、画面を見つめた。
保証はない。
決定でもない。
まだ、引っ越せるとは言えない。
でも、断られたわけでもなかった。
話し合いは続けられる。
僕はゆっくり息を吐いた。
そして、微笑んだ。
「……そうか」
◇ ◇ ◇
僕はすぐに恵美さんへメールを転送した。
それから、葵にも短いメッセージを送った。
「看護事業所から返事が来た。」
少しして、彼女から返信があった。
「どうだった?」
僕は画面を見た。
そして、慎重に入力した。
「まだ受け入れは決まっていない。でも、追加の協議をしてくれるみたい。」
返事が来るまで、少し時間があった。
それから、画面に文字が表示された。
「……春人。」
「何?」
「それって、少しだけ前進したってことだよね?」
僕は微笑んだ。
「うん。」
「じゃあ、今日はそれを喜んでもいい?」
僕は少し考えた。
そして、返信した。
「もちろん。」
◇ ◇ ◇
葵から電話がかかってきた。
僕はすぐに出た。
画面の向こうで、彼女は笑っていた。
目には少し涙が浮かんでいた。
「春人!」
「やあ」
「よかったね!」
僕は微笑んだ。
「まだ何も決まってないよ」
「分かってる」
彼女はうなずいた。
「でも、よかったね」
僕はしばらく彼女を見つめた。
それから、笑った。
「……うん」
胸が温かくなった。
「よかった」
◇ ◇ ◇
僕たちは、しばらく何も話さなかった。
ただ、画面越しに笑っていた。
そして、その沈黙が不思議と心地よかった。
未来は、まだ遠い。
引っ越しの条件は、まだ揃っていない。
看護サービスの再評価も終わっていない。
新しいアパートが適しているかどうかも分からない。
僕の原稿が出版されるかどうかも分からない。
葵の仕事にも、これからたくさんの挑戦が待っている。
それでも、僕たちは少しずつ進んでいた。
同じ方向を見つめながら。
でも、それぞれの足元にある道も大切にしながら。
◇ ◇ ◇
「春人」と葵が言った。
「何?」
「いつか、本当に一緒に暮らせたらいいね」
僕は微笑んだ。
「うん」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
「でも、その前にやることがいっぱいあるね」
「山ほどね」
「書類も?」
「大量に」
「会議も?」
「もちろん」
「大地さんのプレゼンも?」
僕は目を閉じた。
「……それだけは勘弁してほしい」
葵は大笑いした。
僕も笑った。
◇ ◇ ◇
そのとき、葵の表情が柔らかくなった。
「ねえ、春人」
「何?」
「ありがとう」
僕は瞬きをした。
「何が?」
「私の夢を、大切にしてくれて」
僕は彼女を見た。
そして、微笑んだ。
「君も、僕の夢を大切にしてくれてるから」
葵は静かにうなずいた。
僕は続けた。
「だから、これからもそうしていきたい」
彼女は微笑んだ。
「うん」
◇ ◇ ◇
電話を終えたあと、僕は窓の外を見た。
夜の街は静かだった。
遠くで車の音が聞こえた。
部屋の中では、人工呼吸器の音が規則的に続いていた。
僕は母の写真を見た。
そして、かすかに微笑んだ。
「母さん」
少し間を置いた。
「また一つ、扉が見つかったよ」
答えはなかった。
でも、僕はもう答えを待っていなかった。
僕は自分の人生を生きている。
失敗しながら。
学びながら。
愛しながら。
そして、まだ見ぬ未来に向かって、少しずつ進みながら。
◇ ◇ ◇
そのとき、もう一通メールが届いた。
今度は、新しいアパートの管理担当者からだった。
僕は開いた。
「高橋様
お問い合わせいただいた一階住戸について、追加の確認を進めております。
現時点で確認できた寸法情報を添付いたします。
また、建物設備に関して、入居をご検討いただく前に確認していただきたい事項がございます。
詳細については、担当者より改めてご説明させていただきます。」
僕は画面を見つめた。
またしても。
またしても、重要な情報を後回しにするメールだった。
僕は深いため息をついた。
「……不動産会社って、みんな推理小説家なんですか?」
夏美さんが笑った。
「どうしました?」
僕は画面を見た。
そして、微笑んだ。
「どうやら、次の事件が始まったみたいです」
◇ ◇ ◇
僕はメールを保存した。
明日、詳しく確認しよう。
必要なら、専門家にも相談しよう。
そして、条件を満たさないなら、別の場所を探そう。
それでいい。
今の僕には、それが分かっていた。
一つの可能性に、すべてを賭ける必要はない。
一つの失敗で、未来を諦める必要もない。
僕たちの人生は、まだ続いている。
そして、その先には、まだ知らない場所がある。
まだ出会っていない人がいる。
まだ書いていない物語がある。
まだ交わしていない約束がある。
僕はパソコンを閉じた。
そして、静かに微笑んだ。
「おやすみ、葵」
彼女には聞こえない。
でも、いつか。
いつか、同じ部屋でその言葉を伝えられる日が来るかもしれない。
その日を夢見ながら、僕は今夜も、自分のいる場所で明日を迎える。
焦らずに。
諦めずに。
僕たちらしく。




