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第76話 開かない扉の向こうで、それでも抱き続けた僕たちの夢

完璧だと思えるアパートを見つけることには、ある種の残酷さがある。

家賃が高いからではない。

遠くにあるからでもない。

ましてや、自分が契約する前に誰かに借りられてしまうかもしれないからでもない。

違う。

一番残酷なのは、自分が望んでいたものがすべて揃っている場所を見つけたのに――

そこが、自分にとって安全に暮らせる場所ではないと知ることだ。

残念ながら、僕はそういう失望を味わうことに、かなり慣れ始めていた。

しかも、まだ火曜日だった。

◇ ◇ ◇

管理会社から届いたメールは、金曜日の夕方からずっと受信箱に残っていた。

僕は何度も読んだ。

読み返した。

そして、せっかくの穏やかな夜を台無しにした一文を、何度も見つめていた。

「お申し込みを進められる前に、建物に関して一つ重要な事項をご説明する必要がございます。」

当然ながら、そのメールには肝心の内容が書かれていなかった。

どうやら不動産管理会社は、推理小説家の技法を取り入れることにしたらしい。

重要な情報を隠す。

読者の不安をあおる。

そして、気になるところで話を終わらせる。

作家志望の人間としては、その手法に敬意を表したい。

しかし、入居希望者としては、腹立たしいことこの上なかった。

「春人さん」

僕は夏美さんのほうを見た。

「はい?」

「あと十分で面談が始まりますよ」

僕はため息をついた。

「素晴らしいですね」

「緊張していますか?」

「まったく」

彼女は眉を上げた。

僕は少し考えた。

「……少しだけ」

夏美さんは微笑んだ。

「正直でよろしいですね」

「最近、努力しているんです」

◇ ◇ ◇

葵は研修先の街にある自分のアパートから、ビデオ通話に参加した。

彼女は僕よりずっと目が覚めているように見えた。

新しい仕事の準備で前の晩も遅くまで起きていたことを考えると、驚くべきことだった。

「おはよう、春人!」

「おはよう」

「準備はいい?」

「もちろん」

彼女は微笑んだ。

「本当に?」

「いや、全然」

葵は笑った。

「でも、一緒に話せるんだから大丈夫だよ」

僕も微笑んだ。

「そうだね」

しばらくして、管理会社の担当者が通話に参加した。

田中さんという男性だった。

四十代くらいで、濃い色のスーツを着ていた。

その表情からは、今朝すでに何件か難しい話し合いを終えてきたような印象を受けた。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます」と葵が答えた。

僕もうなずいた。

「よろしくお願いします」

田中さんは資料を開いた。

「バリアフリー設備と緊急時の対応について、いくつかご質問をいただいておりますね」

「はい」と僕は答えた。

「お部屋の詳細についてお話しする前に、まず重要な点をご説明しなければなりません」

胸が締めつけられた。

来た。

◇ ◇ ◇

田中さんは建物の図面を画面に表示した。

アパートは上層階にあった。

建物にはエレベーターがある。

入口には段差がない。

廊下も比較的広く見えた。

ここまでは順調だった。

しかし、田中さんは非常階段を指さした。

「火災などで避難が必要になった場合、エレベーターは使用しないよう案内しております」

僕はうなずいた。

それ自体は驚くことではなかった。

「ただし」と彼は続けた。「現在、この建物には、階段を自力で利用できない入居者のための、確立された避難支援体制がございません」

僕は画面を見つめた。

葵の表情が変わった。

「それは、具体的にはどういうことですか?」と彼女が尋ねた。

田中さんは少しためらった。

「高橋様のような状況にある方を、上層階からどのように安全に避難させるかについて、現時点では確実な方法をご案内できないということです」

沈黙が流れた。

僕は図面を見た。

エレベーターを見た。

そして、非常階段に視線を戻した。

「……そうですか」

◇ ◇ ◇

田中さんは説明を続けた。

停電の状況によっては、エレベーターが使えなくなる。

建物には避難専用のエレベーターがない。

僕の移動能力や医療上の必要性に対応できる、訓練を受けた人員による避難支援体制も確認されていない。

彼は、僕たちがさらに時間や費用をかける前に、管理会社として正確な情報を伝えたいのだと説明した。

その姿勢には感謝していた。

本当に。

でも、感謝したからといって、失望が小さくなるわけではなかった。

「つまり」と僕はゆっくり言った。「避難が必要な緊急事態が起きた場合、僕を安全に建物の外へ出すための確実な計画は、今のところないということですね」

「そのとおりです」

僕はうなずいた。

葵が僕を見た。

彼女の目にも失望が浮かんでいた。

書店の上にあるアパート。

近くの図書館。

広いリビング。

二人で家具の配置まで想像していた場所。

そのすべてが、急に遠ざかってしまったように感じた。

◇ ◇ ◇

僕はさらにいくつか質問した。

個別の避難計画を作成することは可能なのか。

一階に利用できる部屋はないのか。

専門家による建物の確認はできるのか。

人工呼吸器を使用し、専門的な看護を必要とする入居者への対応手順はあるのか。

田中さんは、答えられる範囲で丁寧に説明してくれた。

調査できる事項もあった。

管理会社や関係する専門家との相談が必要な事項もあった。

でも、現時点で僕の必要条件を満たすと確認できる体制はなかった。

そして、候補の部屋は一階ではなかった。

僕は葵を見た。

葵も僕を見た。

言葉にする必要はなかった。

どれほど気に入ったアパートでも、緊急時の安全性が確認できないまま契約を進めることはできない。

「詳しく説明していただき、ありがとうございました」と僕は言った。

田中さんはうなずいた。

「ご希望に沿うお答えができず、申し訳ございません」

僕はかすかに微笑んだ。

「正直に説明していただけて、ありがたいです」

◇ ◇ ◇

通話が終わっても、葵は画面に残っていた。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

やがて、彼女がため息をついた。

「……また駄目だったね」

僕はうなずいた。

「まただね」

「あのアパート、本当に気に入ってたのに」

「僕も」

彼女は視線を落とした。

「下に書店があったのにね」

僕は弱々しく笑った。

「そこが一番危険な設備だったかもしれない」

葵は瞬きをした。

「え?」

「僕の銀行口座が無事では済まなかっただろうから」

彼女は笑った。

でも、その笑いはすぐに消えた。

「春人……」

「何?」

「がっかりした?」

僕は彼女を見た。

そして、うなずいた。

「すごく」

彼女は黙った。

僕は続けた。

「こういうことを確認してよかったって、分かってるんだ」

「うん」

「でも、本当に住めたらいいなって思ってた」

葵は寂しそうに微笑んだ。

「私もだよ」

◇ ◇ ◇

一瞬、僕は彼女に、きっと大丈夫だと言おうとした。

また別のアパートが見つかる。

いつか、すべてがうまくいく。

そんなふうに。

でも、僕には分からなかった。

そして、ここ数週間で話し合ってきたことを思えば、安心させるためだけの約束はしたくなかった。

だから、代わりにこう言った。

「一つ、学べたことがあるよ」

葵が顔を上げた。

「何?」

「物件に期待する前に、何を確認しなければならないのか、前より分かった」

彼女はかすかに微笑んだ。

「そうだね」

「それに、実際に手に入れていたものを失ったわけじゃない」

葵は少し考えた。

「可能性は一つ失ったけどね」

僕はうなずいた。

「うん」

そして、微笑んだ。

「でも、未来そのものを失ったわけじゃない」

葵はしばらく黙った。

それから、微笑み返してくれた。

「うん。未来そのものじゃないね」

◇ ◇ ◇

翌朝、僕には看護サービスの再評価が予定されていた。

正直に言えば、気が重かった。

その目的が理解できなかったからではない。

理解していた。

現在受けているサービスは、記録された医療上の必要性に基づいている。

その必要性は定期的に確認されなければならない。

サービスの承認に関わる人たちには、正確な情報が必要だ。

それは合理的なことだった。

僕を疲れさせるのは、同じ生活上の現実を何度も説明しなければならないことだった。

人工呼吸器。

専門的な看護。

昼夜を通して必要な介助。

看護が途切れた場合の危険性。

そして、僕が自分の生活をうまく管理できるようになったからといって、必要な支援が消えるわけではないという事実。

恵美さんも面談に参加し、手続きの確認を手伝ってくれた。

夏美さんも、現在の看護内容について説明できるよう待機していた。

僕は音声入力や意思伝達のための機器を使って参加した。

担当者は丁寧に自己紹介した。

そして、質問が始まった。

◇ ◇ ◇

「日常生活に介助は必要ですか?」

「はい」

「医療機器を継続的に使用していますか?」

「はい。人工呼吸器を使用しています」

「日中を通して専門的な看護が必要ですか?」

「はい」

「夜間もですか?」

「はい」

質問は続いた。

簡単に答えられるものもあった。

詳しい説明が必要なものもあった。

薬の管理。

気道管理。

状態の観察。

緊急時の対応。

体位調整の介助。

医療機器の管理。

状態が変化した際に、適切な資格を持つ人が対応できる必要性。

僕は慎重に答えた。

必要に応じて、夏美さんが補足してくれた。

恵美さんは、必要な看護内容が正確に記録されるよう、話し合いを整理してくれた。

すべてが専門的だった。

すべてが整然としていた。

それなのに、面談の途中から、僕は自分の存在が少しずつ見えなくなっていくような、不思議な感覚を覚え始めた。

◇ ◇ ◇

担当者が不親切だったわけではない。

むしろ丁寧だった。

話を聞いてくれた。

必要な確認をしてくれた。

僕が答える時間も十分に取ってくれた。

でも、会話のほとんどは、僕にできないことについてだった。

何に介助が必要なのか。

どんな医療機器に頼っているのか。

必要な看護が受けられなかったら、何が起きるのか。

それらの質問が重要であることは分かっていた。

でも、途中から、まったく関係のないことを言いたくなった。

僕は小説を書いている。

友達がいる。

恋人がいる。

書店に行くのが好きだ。

文学の師匠と口論する。

そして、出版宣伝を絶対に任せてはいけない叔父がいる。

僕は医療上の必要事項を並べただけの存在ではない。

もちろん、そうしたことが看護の必要性を変えるわけではなかった。

むしろ、そこが大切だった。

僕は自分の人生で多くの意味ある選択をしながら、同時に高度な専門的看護を必要としている。

その二つは、何も矛盾していない。

◇ ◇ ◇

面談の終わり近く、担当者が僕の生活状況に大きな変化があったかどうか尋ねた。

僕は、将来的な引っ越しの可能性について調査していることを説明した。

ただし、一つだけ明確にした。

「引っ越しが承認されたわけでも、日程が決まったわけでもありません。今は情報を集めているだけです」

担当者はうなずいた。

「承知しました」

「現在の看護体制は、引き続き必要です」

恵美さんも、引っ越しの調査と現在のサービスを別々に扱っていることを確認した。

担当者はその区別を理解してくれた。

そして、面談は終わった。

その場で決定が出たわけではなかった。

サービスに即時の変更もなかった。

追加書類が必要になる可能性はあった。

そして、再評価は所定の手続きに沿って続けられることになった。

僕は全員にお礼を言った。

それから、通話が終わった。

◇ ◇ ◇

しばらく、僕は何も映っていない画面を見つめていた。

夏美さんが、そばにある機器を静かに調整してくれた。

「どうですか?」

僕は少し考えた。

「自分が存在している理由を、一時間かけて説明したような気分です」

彼女は僕を見た。

それから、優しく首を振った。

「そういうことをしていたわけではありませんよ」

「分かってます」

僕はため息をついた。

「でも、ときどきそう感じるんです」

夏美さんは椅子を寄せた。

「あの面談は、春人さんに必要な看護を記録するためのものです」

「はい」

「春人さんの人生に価値があるかどうかを決めるためのものではありません」

僕は彼女を見た。

彼女は続けた。

「それは、まったく別の問題です」

僕は黙った。

そして、かすかに微笑んだ。

「いい言い方ですね」

彼女も微笑んだ。

「ありがとうございます」

僕は少し間を置いた。

「でも、文学的な業績についての質問も追加するべきだと思います」

夏美さんは笑った。

「何と答えるんですか?」

「現在、年上の女性作家にいじめられています」

彼女は大笑いした。

◇ ◇ ◇

その午後、僕は原稿に戻った。

気分転換が必要だった。

残念ながら、森探偵はまたしても協力的ではなかった。

ようやく物語の構成は修正できていた。

手がかりもつながり始めていた。

探偵の失敗には結果が伴うようになった。

結末も、奇跡のように現れる手紙に頼らなくなった。

でも、まだ何かがおかしかった。

あの老女。

花。

廃屋。

彼女が何を隠しているのかは分かっていた。

なぜ庭に通い続けているのかも分かっていた。

その行動が行方不明の男とどうつながるのかも分かっていた。

でも、読者が彼女を気にかける理由が分からなかった。

彼女は情報を与えるためだけに存在していた。

そして、それこそ幸子さんが注意していた問題だった。

僕はメッセージを開いた。

そして、質問を送った。

「手がかりに感情的な意味を持たせるには、どうすればいいですか?」

十分後、返事が届いた。

「その手がかりに関わっているのは、書類棚ではなく人間だということを忘れないことね。」

僕は画面を見つめた。

「……なるほど」

◇ ◇ ◇

僕はもう一度、老女について考えた。

何年もの間、彼女は廃屋へ通っていた。

同じ場所の土に水をやっていた。

誰も気にかけない庭を守っていた。

なぜ?

単に、そこに何かが埋まっているからではない。

それは仕組みとしての説明にすぎない。

でも、彼女にとって、それは何を意味するのだろう?

僕は彼女の過去を想像し始めた。

もしかしたら、行方不明の男を知っていたのかもしれない。

愛していたのかもしれない。

裏切ったのかもしれない。

あるいは、世界から存在を消された男の、最後に残された証拠を守るため、何十年も過ごしてきたのかもしれない。

そして、別の可能性が浮かんだ。

もし、花は何かを隠しているのではなかったら?

もし、花そのものが慰霊のためのものだったら?

正式な慰霊碑ではない。

墓でもない。

ただ、世界中の人々が忘れることに同意してしまった誰かを、一人だけ覚え続けている場所。

僕は動きを止めた。

これだ。

花は単なる手がかりではない。

記憶を守る行為だった。

そして突然、老女は都合のいい証人以上の存在になった。

彼女自身の物語を持つ人間になったのだ。

◇ ◇ ◇

僕は幸子さんに電話した。

何度か呼び出し音が鳴ったあと、彼女が出た。

「春人」

「先生」

「先生って呼ばないで」

「はい、先生」

彼女はため息をついた。

「今度は何をしたの?」

「老女の問題を解決できたと思います」

少し間があった。

「それは物騒な言い方ね」

「文字どおりじゃありません!」

「よかった。少し心配したわ」

僕は笑った。

そして、新しい考えを説明した。

花。

行方不明の男。

老女の罪悪感。

そして、彼の記憶が残る唯一の場所だったからこそ、庭の手入れを続けていたこと。

幸子さんは黙って聞いていた。

話し終えると、少し静かになった。

それから言った。

「前よりいいわ」

僕は微笑んだ。

「本当ですか?」

「ええ」

思わず喜びそうになった。

しかし、彼女は続けた。

「ただし、安っぽいお涙頂戴にならないようにしなさい」

僕の笑顔が消えた。

「……もちろんです」

◇ ◇ ◇

幸子さんは椅子の背にもたれた。

「春人。登場人物が泣けば、それだけで悲しみが意味を持つわけじゃないの」

僕はうなずいた。

「はい」

「彼女に選択をさせなさい。矛盾も持たせなさい。何かについて間違っていたことにしなさい」

僕は考えた。

「もしかしたら、彼女自身が男の存在を消すことに協力していたのかもしれません」

幸子さんの表情が変わった。

「続けて」

「誰かを守っているつもりだった。でも、真実を隠すことに協力したせいで、自分が守りたかったものまで壊してしまった」

幸子さんは微笑んだ。

「そこよ」

僕は瞬きをした。

「何がですか?」

「ようやく、人間を書き始めたわね」

僕はメモを見た。

初めて、なぜその人物がずっと気になっていたのか分かった。

僕は彼女に秘密を与えていた。

でも、良心を与えていなかったのだ。

◇ ◇ ◇

一方、葵の新しい職場での一週間が始まっていた。

そして、どうやら相当大変らしかった。

初日の勤務が終わったあと、彼女から届いたメッセージは短かった。

「生き延びた。」

僕は微笑んだ。

「おめでとう。新聞社に知らせようか?」

「やめて。」

「もう遅い。見出しまで考えた。」

「春人!」

僕は笑った。

それから電話した。

彼女はアパートから出た。

髪が少し乱れていた。

疲れた表情をしていた。

でも、どこか以前とは違っていた。

達成感のようなものがあった。

「やあ」と僕は言った。

「やっほー」

「初日はどうだった?」

彼女は考えた。

「忙しかった」

「いい意味で? 悪い意味で?」

「……両方かな?」

僕は微笑んだ。

「そんなものかもしれないね」

◇ ◇ ◇

その後の数日間で、葵は少しずつ新しい仕事に慣れていった。

会議に参加した。

部署の手順を学んだ。

同僚たちと働いた。

そして、患者が病院での治療から自宅での生活へ移るための支援について、話し合いに参加するようになった。

ある夜、彼女はいつもより考え込んだ様子で電話してきた。

「今日、ちょっと考えさせられることがあったの」と言った。

僕は彼女を見た。

「大丈夫?」

「うん」

彼女は少しためらった。

「もちろん、詳しいことは話せないんだけど」

僕はうなずいた。

「当然だよ」

彼女は続けた。

「本人が何を望んでいるのか聞かないまま、周りの人たちがその人のことを決め始めてしまうのって、簡単なんだなって思った」

僕は黙って聞いた。

「みんな善意で動いていることもあるの。家族も、医療者も、みんな」

「うん」

「でも、善意があるからって、本人の話を聞いていることにはならないんだよね」

僕は母の古い書類を思い出した。

住宅の計画。

チェックリスト。

手紙。

そして、僕の未来は僕自身のものだと、いつも母が主張していたこと。

「そうだね」と僕は言った。

◇ ◇ ◇

葵は視線を落とした。

「理沙さんに言われたことを思い出したの」

「何て?」

「誰かを支えることと、その人の代わりに全部決めることは違うって」

僕は微笑んだ。

「聞き覚えがあるね」

彼女は小さく笑った。

「うん」

そして、僕を見た。

「春人はさ、周りの人に勝手に一番いい方法を決められるの、嫌になることある?」

僕は考えた。

「ときどきね」

彼女は続きを待った。

「でも、一番難しいのは、本人たちがそうしていることに気づいていないときだと思う」

葵はうなずいた。

僕は続けた。

「助けているつもりなんだよ。実際に助けてくれていることもある。でも、ときどき聞くことを忘れてしまう」

彼女は黙った。

それから言った。

「私は、忘れない看護師になりたい」

僕は微笑んだ。

「なれるよ」

彼女は首を振った。

「きっと失敗もすると思う」

「もちろん」

彼女は驚いたように僕を見た。

僕はにやりと笑った。

「人間なんだから」

「ありがとう」

「残念ながらね」

「春人!」

僕は笑った。

◇ ◇ ◇

その週末、恵子さんからまたメッセージが届いた。

母の書類の中から、別のものが見つかったらしい。

またしても。

ここまで来ると、母は歴史資料館を一つ開設できるほどの書類を残していたのではないかと思い始めた。

でも、今回は手紙ではなかった。

地図だった。

僕たちが昔住んでいた地域を、母が手描きした地図だった。

いくつかの場所に印がついていた。

図書館。

公園。

地域の交流施設。

書店。

車椅子で利用できる交通機関の停留所。

そして、僕がいつか授業を受けられたらいいと母が考えていた場所。

今ではなくなってしまった場所もあった。

名前が変わった施設もあった。

でも、印は残っていた。

丁寧に描かれた印。

丁寧に書かれた名前。

そして、いくつかの場所の横には、母のメモがあった。

「春人がほかの子どもたちと出会える場所になるかもしれない。」

「車椅子で利用できるか確認すること。」

「交通手段について問い合わせる。」

「本を読んだり、家の外で時間を過ごしたりするのに、いい場所かもしれない。」

僕は地図を見つめた。

◇ ◇ ◇

長い間、僕は母の計画を、主に医療上の必要性に関わるものだと思っていた。

病院。

看護。

医療機器。

バリアフリー住宅。

でも、書類が見つかるたびに、その理解がどれほど不完全だったのか分かってきた。

母が計画していたのは、一つの人生だった。

単なる看護体制ではない。

僕に行く場所があってほしかった。

出会う人がいてほしかった。

楽しめることがあってほしかった。

家の壁の外に広がる世界を経験してほしかった。

僕はかすかに微笑んだ。

「母さん……」

そして、もう一度地図を見た。

そのとき、一つの考えが浮かんだ。

◇ ◇ ◇

僕は新しい文書を開いた。

一番上に、こう入力した。

「葵の街で見つけたい場所」

それから、リストを作り始めた。

図書館。

書店。

公園。

車椅子で利用できるカフェ。

地域の交流施設。

文学サークル。

交通サービス。

障害のある人たちの地域団体。

人と出会える場所。

執筆を続けられる場所。

葵が家にいないときでも、自分の生活を築ける場所。

まだ引っ越すと決めたわけではない。

そもそも、引っ越しが可能なのかさえ分からない。

でも、その街について知ることはできる。

そこでの自分の生活を想像することはできる。

単に葵の恋人としてではなく。

高橋春人として。

作家として。

読書好きの一人として。

友人として。

専門的な看護を多く必要とする、一人の男性として。

それでも、世界を経験したいと願う人間として。

◇ ◇ ◇

そのリストを葵に見せると、彼女は珍しく黙った。

「春人……」

「何?」

「これ、全部作ったの?」

僕はうなずいた。

「由紀さんの言っていたことが正しかったんだ」

「何のこと?」

「もし引っ越すなら、君が仕事をしている間も、僕自身の生活が必要だって」

葵は微笑んだ。

「そうだね」

「だから、どんな生活ができるのか調べてるんだ」

彼女はもう一度リストを見た。

そして、笑った。

「何?」

「書店が三軒?」

僕は微笑んだ。

「正確には四軒だよ」

「春人!」

「一軒は古本屋だから」

「だからって別扱いにはならないでしょ!」

「文化的に重要な違いなんだよ」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

数日後、僕は葵の街にある障害者の地域団体へ連絡した。

将来的な引っ越しの可能性を調べていることを説明した。

電動車椅子を使っていること。

人工呼吸器を使用していること。

二十四時間の専門的な看護が必要なこと。

そして、バリアフリー住宅や交通手段、地域の施設についてもっと知りたいこと。

その団体は、メンバーの一人とオンラインで話す機会を設けてくれた。

彼の名前は健二さんだった。

電動車椅子を使っていて、数年前に多くの介助と看護を必要とする状態で別の街へ引っ越した経験があるという。

通話が始まると、彼は微笑んだ。

「引っ越しを考えているんだって?」

「可能なら、ですけど」

「危険な言葉だね」

僕は笑った。

「どうしてですか?」

「考え始めた途端、今まで考えなくて済んでいたことが、どれだけ多かったか分かるから」

僕は彼を見つめた。

「……分かってくれるんですね」

「残念ながらね」

◇ ◇ ◇

健二さんは、自分の経験を話してくれた。

何か月にも及ぶ準備。

適切な住宅を見つける難しさ。

新しい看護事業所との調整。

知らない交通機関を利用する難しさ。

そして、ほとんど知り合いのいない街に引っ越したあとの、不思議な孤独感。

「それが一番つらかったんだ」と彼は認めた。

「看護を見つけることですか?」

「それも大変だった。でも、ある程度は予想していたんだ」

彼は少し間を置いた。

「驚いたのは、引っ越したあとに感じた孤独のほうだった」

僕は聞いていた。

「新しい街で生きていけるようにすることばかり考えていて、そこでどう暮らしていくのかを十分に考えていなかったんだ」

その言葉は心に残った。

◇ ◇ ◇

健二さんは続けた。

「アパートはあった。看護体制も整っていた。機器も問題なく使えていた。必要なことは全部機能していたんだ」

彼はかすかに微笑んだ。

「でも、近くに友達がいなかった。どこへ行けばいいのかも分からなかった。自分の時間をどう過ごせばいいのかも分からなかった」

「何が変わったんですか?」

「地域の交流会に参加し始めたんだ」

そこで少しずつ人と出会ったという。

行きたいと思える場所を見つけた。

自分にとって使いやすい交通手段を覚えた。

そして、新しい街を自分の居場所だと感じられる日常を築いていった。

「時間はかかったよ」と彼は言った。

僕はうなずいた。

「引っ越したことを後悔したことはありますか?」

彼は少し考えた。

「あるよ」

僕は驚いた。

彼は笑った。

「引っ越したからって、すべての問題が魔法みたいに解決するわけじゃないからね」

「そうですよね」

「でも、どんな生活を築けるのか試す機会を、自分に与えたことは後悔していないよ」

◇ ◇ ◇

僕たちは一時間近く話した。

健二さんは、自分の経験が僕にもそのまま当てはまるとは言わなかった。

必要な看護内容は違う。

保険の条件も違う。

住宅の条件も違う。

彼にできたことが、僕にもできるとは限らない。

でも、考えるべき具体的な質問を教えてくれた。

歩道はどれくらい利用しやすいのか。

地域の交通機関を安定して使えるのか。

複雑な障害や医療上の必要性を理解している団体はあるのか。

恋人との関係とは別に、活動に参加できる場所はあるのか。

友達を作れるのか。

そして、何よりも大切なのは――

自分がそこに属していると感じられるのか。

通話が終わるころには、新しい連絡先がいくつか増え、質問のリストもずっと長くなっていた。

当然だ。

僕の書類は、また繁殖していた。

◇ ◇ ◇

その夜、僕は健二さんのことを葵に話した。

彼女は興味深そうに聞いていた。

「いい人そうだね」

「うん」

「何か役に立つアドバイスはもらえた?」

「たくさん」

「例えば?」

僕は微笑んだ。

「どうやら、新しい街に引っ越したからって、まったく別の人間に生まれ変わるわけじゃないらしい」

葵は笑った。

「残念だね」

「そうなんだ。謎めいた洗練された男になれると思ってたのに」

彼女は僕を見た。

「春人」

「はい?」

「春人はもう十分謎めいてるよ」

僕は瞬きをした。

「本当に?」

「どうしてそんなに本棚が必要なのか、誰にも理解できないもの」

僕は息をのんだ。

「ひどい」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

その週の後半、由紀さんが訪ねてきた。

小さなフォルダーを持っていた。

その表情から、中身が大切なものだと分かった。

「春人、これを見つけたの」

僕は微笑んだ。

「また保険関係の書類じゃないですよね?」

彼女は笑った。

「違うわ」

「よかった」

彼女はフォルダーを机に置いた。

「美咲のものよ」

僕の笑顔が柔らかくなった。

「何ですか?」

「チェックリスト」

僕は彼女を見つめた。

「……またチェックリスト?」

由紀さんは笑った。

「あなたのお母さん、準備が好きだったから」

「よく分かります」

◇ ◇ ◇

書類は手書きだった。

紙は少し黄ばんでいた。

一番上には、母の字でこう書かれていた。

「春人の人生にあってほしいもの」

僕は読み始めた。

春人を春人として見てくれる友達。

自分で決める機会。

安心して過ごせる家。

生きがいを感じられる仕事や活動。

「嫌だ」と言ったときに聞いてくれる人。

「やりたい」と言ったときに喜んでくれる人。

間違える自由。

僕はそこで止まった。

最後の項目が意外だった。

「間違える自由……」

由紀さんはうなずいた。

「美咲は、それが大切だと思っていたのよ」

僕は彼女を見た。

「本当に?」

「ええ、とても」

◇ ◇ ◇

由紀さんはかすかに微笑んだ。

「美咲はよく言っていたの。みんな、春人が失敗しないように守ろうとするって」

僕は聞いていた。

「でも、周りが全部決めてしまったら、自分の選択から学ぶ機会がなくなるんじゃないかって心配していたのよ」

僕はもう一度、紙を見た。

間違える自由。

なんて単純な考えだろう。

でも、僕にとっては大きな意味があった。

ときどき、周りの人たちは、僕の決断が完璧でなければならないかのように扱うことがあった。

間違った選択をすれば、そもそも僕に選ばせるべきではなかったと証明されてしまうかのように。

でも、誰だって間違える。

誰だって考えを変える。

誰だって、うまくいかない挑戦をする。

どうして僕の人生だけが違わなければならないのだろう。

◇ ◇ ◇

そのとき、紙の一番下に何かが書かれていることに気づいた。

書きかけの一文だった。

「いつか春人が恋をしたら……」

僕は固まった。

「……あ」

由紀さんが身を乗り出した。

「どうしたの?」

僕はその部分を見せた。

彼女は微笑んだ。

「あら」

僕はその言葉を見つめた。

母は、その続きを書いていなかった。

説明もなかった。

助言もなかった。

丁寧に書かれた結論もなかった。

ただ、その言葉だけが残されていた。

いつか春人が恋をしたら……。

僕は唾を飲み込んだ。

「母さん、何を書こうとしていたんでしょうね」

由紀さんは長い間、黙っていた。

それから、首を振った。

「分からないわ」

僕は彼女を見た。

由紀さんは優しく微笑んだ。

「それに、分かるふりをするべきじゃないと思う」

僕はゆっくりうなずいた。

「……そうですね」

◇ ◇ ◇

僕たちはしばらく静かに座っていた。

やがて、由紀さんが口を開いた。

「でも、覚えていることなら話せるわ」

僕は顔を上げた。

「何ですか?」

「美咲は、あなたがあなた自身として愛されることを望んでいたの」

胸が締めつけられた。

「誰かが愛情と同情を混同するんじゃないかって心配していた。介助が必要な人は、対等な恋人にはなれないと思われるんじゃないかって」

僕は聞いていた。

「でも、美咲自身は、そんなことを信じていなかった」

由紀さんは微笑んだ。

「あなたにも誰かを愛する機会があってほしい。そして、誰かから愛されてほしい。そう願っていたのよ」

僕は書きかけの一文を見た。

いつか春人が恋をしたら……。

葵のことを考えた。

彼女の笑顔。

笑い声。

頑固なところ。

夢。

僕が冗談の陰に気持ちを隠そうとすると、決して見逃してくれないところ。

そして、自分自身の未来を築こうとしている姿。

僕はかすかに微笑んだ。

「母さん……」

声が柔らかくなった。

「恋をしたよ」

◇ ◇ ◇

その夜、僕は葵にチェックリストのことを話した。

彼女は静かに聞いていた。

書きかけの一文について話すと、表情が変わった。

「お母さんが、そう書いてたの?」

僕はうなずいた。

「うん」

葵は視線を落とした。

しばらく、何も言わなかった。

それから微笑んだ。

「会ってみたかったな」

胸が締めつけられた。

「僕も、会わせたかった」

彼女は僕を見た。

「私のこと、気に入ってくれたと思う?」

僕は少し考えた。

そして、微笑んだ。

「きっと、たくさん質問されたと思う」

葵は笑った。

「本当に?」

「絶対に」

「どんなこと?」

「仕事の計画とか、家族のこととか、好きな本とか、息子とどういうつもりで付き合っているのかとか」

葵は大笑いした。

「怖すぎる!」

「母さんは徹底してたからね」

「春人みたいに?」

僕は微笑んだ。

「僕よりずっと」

◇ ◇ ◇

葵はまた静かになった。

「春人?」

「何?」

「私が春人を愛していること、分かってくれたらいいな」

僕は彼女を見た。

そして、うなずいた。

「きっと伝わったと思う」

葵は微笑んだ。

「それに、自分の夢も諦めたくないっていうことも、分かってくれたらいいな」

僕は微笑んだ。

「きっと尊重してくれたよ」

葵の目が潤んだ。

「本当に?」

「うん」

僕は未完成のチェックリストを思い出した。

手紙。

住宅の計画。

母が開こうとしてくれた扉。

そして、言った。

「母さんは、僕が自分の未来を選べるように、ずっと頑張ってくれたんだ」

少し間を置いた。

「だから、僕が愛する人からその自由を奪うことなんて、望まないと思う」

葵は目元を拭った。

「春人……」

僕は微笑んだ。

「それに、きっと僕が本を買いすぎないように注意してって頼まれるよ」

葵は大笑いした。

◇ ◇ ◇

数日後、思いがけないことが起きた。

幸子さんからメールが届いた。

添付ファイルがあった。

件名はこうだった。

「大騒ぎしないこと。」

当然ながら、僕はすぐに大騒ぎした。

添付ファイルを開いた。

そして、固まった。

原稿だった。

第一ページに題名が書かれていた。

『海が僕たちの名前を忘れた夏』

僕はそれを見つめた。

それから、幸子さんのメッセージを読んだ。

「春人へ。

少しだけ書き直しました。

大げさに喜ばないこと。

完成させるかどうかは、まだ決めていません。

でも、この前あなたが言ったことがきっかけで、結末について考え直してみたくなったの。

時間があるときに読んでください。

ひどかったら、ちゃんと言いなさい。

――幸子」

僕は瞬きをした。

そして、微笑んだ。

「……おお」

◇ ◇ ◇

僕は読み始めた。

美しい物語だった。

静かで。

物悲しくて。

十年後に再会する約束をした二人の記憶に満ちた、海辺の町の物語。

でも、修正された部分は、幸子さんが以前説明してくれたものとは違っていた。

登場人物たちは、当初の予定どおりには再会しない。

代わりに、一人が町へ戻ってくる。

海は、まだそこにある。

街並みは変わっている。

古い家はなくなっている。

そして、子どものころに交わした約束は、二人が想像していた形では果たせないものになっていた。

それでも、生き残った人物は、その約束を無意味なものとして扱わなかった。

約束を未来へ持っていく。

過去を再現することによってではなく。

今をどう生きるか、選ぶことによって。

僕は二度読んだ。

それから、三度目も読んだ。

そして初めて、結末は登場人物自身がたどり着いたものに感じられなければならない、という幸子さんの言葉が理解できた気がした。

◇ ◇ ◇

僕は彼女に電話した。

すぐに出た。

「どう?」

僕は微笑んだ。

「こんにちは、くらい言ってくれてもいいんじゃないですか?」

「読んだの?」

「はい」

「それで?」

僕は答えを考えた。

「美しいです」

幸子さんは眉をひそめた。

「それは批評じゃないわ」

「分かってます」

「やり直し」

僕は笑った。

それから、メモを見た。

「感情の流れは、すごくいいと思います」

彼女は聞いていた。

「でも、登場人物が約束の意味を理解するのが、少し早すぎる気がします」

幸子さんの表情が変わった。

僕は続けた。

「最初は、もっと抵抗してもいいんじゃないでしょうか。望んだとおりにならなかったことに、怒っていてもいいと思うんです」

彼女は黙った。

「そうすれば、過去を受け入れることが、本当に苦しみながらたどり着いた答えに感じられると思います」

幸子さんは僕を見た。

しばらく、何も言わなかった。

それから微笑んだ。

「まあ」

僕は瞬きをした。

「何ですか?」

「見違えたわね」

僕は笑った。

「何がですか?」

「私の原稿を批評するなんて」

僕はにやりと笑った。

「恐ろしいでしょう?」

「非常にね」

◇ ◇ ◇

僕たちは一時間近く話した。

初めて、立場が少し逆転したように感じた。

質問するのは僕だった。

なぜ登場人物はその決断をしたのか。

何が変わったのか。

海は何を象徴しているのか。

なぜ約束が重要なのか。

そして、結末は何を意味しているのか。

幸子さんは真剣に答えてくれた。

意見が合わないこともあった。

僕の指摘が正しいと認めてくれることもあった。

そして、ときどき、あまり得意げになるなと注意された。

正直、それは余計だったと思う。

通話の終わりに、彼女は本棚の古い青いノートを見た。

「春人」

「はい?」

「ありがとう」

僕は瞬きをした。

「何がですか?」

「未完成の物語が、必ずしも失敗した物語ではないって思い出させてくれたこと」

僕は微笑んだ。

「どういたしまして」

彼女はうなずいた。

それから、目を細めた。

「さあ、自分の原稿を完成させなさい」

僕はため息をついた。

「……もちろんです」

◇ ◇ ◇

翌朝、看護サービスの再評価に関する新しい手紙が届いた。

今回は、追加書類の提出を求めるものだった。

期限も記載されていた。

即時の却下ではない。

利用時間の削減でもない。

サービス終了でもない。

でも、対応しなければならない新しい条件だった。

僕は手紙を見つめた。

そして、ため息をついた。

「またですか?」

夏美さんがこちらを見た。

「また書類ですか?」

「どうやら」

彼女は同情するように微笑んだ。

「何が必要なのか確認しましょう」

僕たちは内容を確認した。

最新の医療情報。

裏づけとなる記録。

看護上の必要事項についての補足説明。

不可能なことは何もなかった。

でも、無視できることもなかった。

僕は恵美さんに連絡した。

彼女は、どの記録が必要なのか、誰に依頼すればいいのかを整理してくれた。

提出期限を確認した。

そして、適切な手続きで書類を提出する計画を立てた。

面倒だった。

でも、少なくとも今回は、次に何をすればいいのか分かっていた。

◇ ◇ ◇

その日の午後、管理会社から追加のメールが届いた。

書店の上のアパートについて、さらに詳しい情報が書かれていた。

緊急時の対応は、依然として僕の必要条件を満たしていなかった。

僕のような状況にある人が安全に避難できると確認された手順はなかった。

そして、必要な対応を提供できる保証も、現時点ではなかった。

僕は慎重に読んだ。

それから、目を閉じた。

答えは、ほぼ明らかだった。

あのアパートの契約を進めることはできない。

少なくとも、今の状態では。

安全ではない。

責任ある選択でもない。

僕は葵に電話した。

◇ ◇ ◇

彼女はアパートから出た。

「やっほー!」

「やあ」

「大丈夫?」

僕は少しためらった。

「書店の上のアパート、覚えてる?」

彼女の笑顔が消えた。

「……あ」

「うん」

僕はメールの内容を説明した。

緊急時の対応。

不確実な点。

安全な避難計画が確認できないこと。

葵は静かに聞いていた。

それから、ため息をついた。

「じゃあ、あそこは無理なんだね」

僕は首を振った。

「今の状態ではね」

彼女は視線を落とした。

「あの場所、本当に好きだったのに」

「僕も」

しばらく、二人とも黙った。

やがて、葵が弱々しく微笑んだ。

「書店は春人がいなくても、何とか生き延びないとね」

僕は笑った。

「大きな経済的損失だろうね」

彼女も笑った。

◇ ◇ ◇

少しして、葵が尋ねた。

「大丈夫?」

僕は考えた。

「がっかりはしてる」

彼女はうなずいた。

「でも、諦めたわけじゃないよ」

葵が顔を上げた。

僕は微笑んだ。

「最近、いろんな人と話してるんだ」

「引っ越しについて?」

「うん」

僕は健二さんのことを話した。

地域団体のこと。

作り始めた地図のこと。

行ってみたい場所のこと。

図書館。

公園。

書店。

文学サークル。

そして、葵の街で、僕自身の生活を築けるかもしれないということ。

葵は黙って聞いていた。

それから、微笑んだ。

「春人……」

「何?」

「すごいと思う」

僕は小さく笑った。

「最近、そればかり言ってるね」

「本当にそう思ってるから」

◇ ◇ ◇

僕は画面を共有した。

地図が表示された。

いくつかの場所に印がついていた。

オンラインで調べて見つけた場所。

健二さんが勧めてくれた場所。

そして、まだ詳しい確認が必要な候補地。

それから、僕は新しい場所を一つ追加した。

バリアフリー住宅に関する情報を探す手伝いができるかもしれないと申し出てくれた地域団体だった。

葵が見つめた。

「それは?」

「新しく連絡してみる場所」

彼女は微笑んだ。

「また一つ、扉が増えたんだね」

僕は地図を見た。

そして、微笑んだ。

「うん」

「開くと思う?」

僕は少し考えた。

「分からない」

彼女はうなずいた。

「でも、確かめたいんだ」

◇ ◇ ◇

その夜、僕たちはいつもより長く話した。

葵は新しい職場での最初の一週間について話してくれた。

学んだこと。

出会った人たち。

自信をなくしかけた瞬間。

そして、自分は本当にここで働いていけるのかもしれないと感じた瞬間。

僕は聞いていた。

それから、自分の原稿について話した。

幸子さんの未完の小説。

庭にいる老女。

そして、宇宙の助けを借りずに事件を解決しようとする森探偵の最新の努力。

葵は笑った。

「少しは頭がよくなった?」

「少しずつね」

「作者と同じだね?」

僕は息をのんだ。

「葵!」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

やがて、会話は未来の話に戻った。

失ったアパートのことではない。

書類のことでもない。

看護事業所のことでもない。

ただ、未来について。

「春人」と葵が言った。

「何?」

「もし、すごく時間がかかったら?」

僕は彼女を見た。

「引っ越しに?」

彼女はうなずいた。

「何か月もかかったら? もっと長くかかったら?」

僕は考えた。

それから、かすかに微笑んだ。

「そのときは、何か月でも、もっと長くでも、かかるんだと思う」

葵は黙った。

僕は続けた。

「思い描いたとおりになるか分からないことを待つために、僕たちの人生を止めたくないんだ」

彼女は僕を見た。

「君には仕事がある。僕には執筆がある。友達もいるし、大切な人たちもいる」

彼女はうなずいた。

「そして、僕たちにはお互いがいる」

その表情が柔らかくなった。

僕は微笑んだ。

「同じ街にいなくてもね」

◇ ◇ ◇

葵は少し視線を落とした。

それから尋ねた。

「一つ、約束してもいい?」

僕は微笑んだ。

「どんな?」

「自分たちが何を望んでいるのか、話すのをやめないこと」

僕は聞いていた。

「難しいときも。がっかりしたときも。答えが思っていたものと違ったときも」

僕はうなずいた。

「うん」

「それから、お互いの代わりに勝手に決めないこと」

僕は微笑んだ。

「もちろん」

彼女は小さく笑った。

「そして、失うのが怖いからって、自分の夢を諦めないこと」

胸が温かくなった。

僕は彼女を見た。

「それなら、約束できるよ」

葵は微笑んだ。

「私も」

◇ ◇ ◇

そのあと、僕たちは現実的なことについて話した。

次にいつ会えるか。

彼女の勤務予定に合わせて、どう連絡を取り合うか。

恵美さんから、まだどんな情報が必要か。

いつ引っ越しの可能性について、もう一度話し合うか。

劇的なことは何もなかった。

詩的なことも何もなかった。

ただ、二人の人間が、自分自身を失わずに人生を重ね合わせようとしているだけだった。

でも、なぜかそれが、どんな壮大な愛の告白よりもロマンチックに感じられた。

◇ ◇ ◇

通話を終える前に、葵が僕を見た。

「春人?」

「何?」

「いつか、まだ私と一緒に暮らしたいと思ってる?」

僕は微笑んだ。

「もちろん」

彼女は安心したようだった。

「こんなにいろいろあっても?」

僕は小さく笑った。

「葵。アパートが一軒合わなかったくらいで、君への気持ちは変わらないよ」

彼女は微笑んだ。

「二軒でも?」

「二軒でも」

「三軒でも?」

僕は目を細めた。

「また変なアパートを見つけるつもり?」

葵は大笑いした。

「違うよ!」

「どうも君には才能がある気がしてきたんだけど」

「春人!」

僕は笑った。

それから、表情を柔らかくした。

「うん、葵」

彼女が僕を見た。

「僕は今でも、あの未来を望んでるよ」

彼女の目に涙が浮かんだ。

「私も」

◇ ◇ ◇

おやすみを言ったあと、僕はしばらく机の前にいた。

アパートは静かだった。

僕はいつもの青い電動車椅子に座っていた。

人工呼吸器の聞き慣れた作動音が、静かに続いていた。

壁には本棚が並んでいる。

近くには母の写真がある。

すべてが見慣れたものだった。

すべてが、僕の築いてきた生活の一部だった。

そして初めて、新しい未来を探すことは、今の人生を否定することではないのだと気づいた。

僕はこの家を大切に思っていていい。

ここにいる人たちを。

この日常を。

そして同時に、ほかにどんな可能性があるのか考えてもいいのだ。

◇ ◇ ◇

僕は葵の街の地図を開いた。

まだ空白がたくさんあった。

調べていない場所。

答えの出ていない質問。

まだ探していない可能性。

僕は先ほど追加した地域団体を見た。

それから、近くの図書館を。

健二さんが勧めてくれた公園を。

そして最後に、葵が働くことになる地域を見た。

僕は微笑んだ。

書店の上のアパートは、もう候補ではない。

でも、街そのものが消えたわけではない。

そこに住む人たちも。

これから見つけられるかもしれない機会も。

一つの扉が閉じた。

だからといって、すべての扉に鍵がかかっているわけではない。

◇ ◇ ◇

僕は別の文書を開いた。

母の古いチェックリストだった。

春人を春人として見てくれる友達。

自分で決める機会。

安心して過ごせる家。

生きがいを感じられる仕事や活動。

「嫌だ」と言ったときに聞いてくれる人。

「やりたい」と言ったときに喜んでくれる人。

間違える自由。

僕は最後の一文をもう一度読んだ。

間違える自由。

検討してきたアパートのことを考えた。

立てた計画。

味わった失望。

そのどれも、引っ越しの可能性を調べるという選択が間違っていたことを意味するわけではない。

僕は学んでいたのだ。

決断していた。

質問していた。

新しい情報を知ったときには、考えを変えていた。

それも、生きることの一部だった。

そして、もしかしたら母が僕に望んでいたのは、まさにそういう人生だったのかもしれない。

◇ ◇ ◇

僕は母の写真を見た。

「母さん」

部屋は静かだった。

「少しずつ、分かってきた気がするよ」

僕はかすかに微笑んだ。

「母さんは、僕のために完璧な人生を作ろうとしていたんじゃないんだね」

目の奥が熱くなった。

「僕が自分の人生を築く機会を持てるように、頑張ってくれていたんだ」

一瞬、母が隣に座っている姿を想像した。

微笑んで。

僕の話を聞いて。

もしかしたら、僕がどれだけ大量の書類を集めたのかを知って、笑っているかもしれない。

僕は小さく笑った。

「でも、僕の書類整理の腕前には感心すると思うよ」

◇ ◇ ◇

スマートフォンが震えた。

葵からのメッセージだった。

「もう一回、おやすみ。」

僕は微笑んだ。

「さっき言わなかった?」

「言ったよ。」

「じゃあ、どうしてもう一回?」

数秒が過ぎた。

「言いたくなったから。」

胸が温かくなった。

僕は返信した。

「じゃあ、もう一回おやすみ、葵。」

またメッセージが届いた。

「いつか、電話を使わなくてもおやすみって言えるようになりたいな。」

僕はその言葉を見つめた。

そして、微笑んだ。

「僕も。」

彼女は小さなハートを送ってきた。

僕も送り返した。

◇ ◇ ◇

窓の外では、夜が静かに続いていた。

別の街で、葵は自分の仕事を築いている。

ここで、僕は執筆を続けている。

現在の看護サービスは、まだ再評価の途中で、決定は出ていない。

引っ越しが可能かどうかも、まだ分からない。

そして、あれほど気に入っていたアパートは、僕には適していないことが分かった。

何も魔法のように解決したわけではなかった。

でも、一つ変わったことがある。

僕はもう、失敗するたびに未来が遠ざかっていくとは思わなくなっていた。

ときには、失敗に見えることも、ただ新しい情報を得たということなのかもしれない。

ときには、閉じた扉は、その向こうの部屋が安全ではないという警告なのかもしれない。

そして、ときには、その扉を通らないと決めることも、諦めではなく希望なのかもしれない。

◇ ◇ ◇

僕はパソコンの中にある未完成の原稿を見た。

森探偵は、まだ庭に立っていた。

老女は、まだ花に水をやっていた。

真実は、まだ発見されるのを待っていた。

そして、探偵はようやく、正しい答えを見つけるためには、最初の答えが間違っていたと認める必要があることを学び始めていた。

僕は微笑んだ。

「さて、森」

カーソルが点滅していた。

「どうやら、僕たちは同じことを学んでいるみたいだね」

僕は原稿を保存した。

それから、最後にもう一度、引っ越し計画の文書を開いた。

一番下に、新しい一文を追加した。

「ふさわしい家とは、単に住みたいと思える場所ではない。安全に、自分らしく、意味のある生活を送れる場所でなければならない。」

僕は二度読んだ。

そして、保存した。

◇ ◇ ◇

明日になれば、また新しい疑問が生まれるだろう。

きっと、もっと書類も増える。

もっと話し合いが必要になる。

期待外れの答えも、また届くかもしれない。

でも、もしかしたら、新しい可能性も見つかる。

力になってくれる人に出会えるかもしれない。

調べてみる価値のある場所が見つかるかもしれない。

また一つ、扉が現れるかもしれない。

どの扉が開くのか、僕には分からない。

この道のりにどれほど時間がかかるのかも分からない。

そして、僕と葵が思い描く未来が、希望したとおりに実現するとは約束できない。

でも、別のことなら約束できる。

僕は質問し続ける。

今ある生活を守り続ける。

書き続ける。

愛し続ける。

そして、自分の未来を自分で選び続ける。

なぜなら、僕の夢は単に葵と同じアパートに住むことではないからだ。

二人が、それぞれ自分らしく生きられる生活を築くこと。

一緒にいられるときは、一緒に。

離れていなければならないときは、離れた場所で。

そして、いつでも成長し続けられる自由を持ちながら。

僕は葵からの最後のメッセージをもう一度見た。

「いつか、電話を使わなくてもおやすみって言えるようになりたいな。」

僕は微笑んだ。

「いつかね、葵」

それから、パソコンを閉じた。

未来を諦めたからではない。

明日になれば、その未来の続きを、また考えることができるからだ。

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