第75話 諦めたくない夢と、僕たちを待ってはくれない明日
計画を立てることについて、僕が学んだことは二つある。
一つ目は、物事が計画どおりに進むことなんて、めったにないということ。
そして二つ目は、ようやく何かに希望を持てるようになった瞬間、人生というものは、希望だけでは何の保証にもならないのだと思い知らせてくる、実に見事な才能を持っているということだ。
残念ながら、僕はまたしてもその事実を思い知らされることになった。
始まりは月曜日の朝だった。
ごく普通の月曜日。
本来なら、その朝一番の重要な決断といえば、小説の執筆を始めるか、それとも受信箱に増え続ける未読メールを見なかったことにして、あと二十分ほど現実逃避するか、その程度で済むはずだった。
当然、僕は後者を選んだ。
「春人さん」
僕は夏美さんのほうを見た。
「はい?」
「メールは確認しましたか?」
僕は彼女を見つめた。
「それはずいぶん個人的な質問ですね」
夏美さんは眉を上げた。
「確認するように声をかけてほしいって、春人さんが言ったんですよ」
「僕が?」
「昨日です」
「本当に?」
「間違いありません」
僕はため息をついた。
「分かりました。敵と向き合うことにします」
「メールが敵なんですか?」
「中には、かなり攻撃的なものもありますから」
夏美さんは笑った。
僕は受信箱を開いた。
そして、すぐに後悔した。
恵美さんからのメール。
次の診察に関するお知らせ。
執筆ソフトの広告。
書店からのメールが三通。
そして、森田幸子さんからのメール。
件名には、こう書かれていた。
あなたの探偵は、まだ馬鹿のままです。
僕は画面を見つめた。
「……素晴らしい」
夏美さんが画面をちらりと見た。
「何かありましたか?」
「僕の文学の師匠が宣戦布告してきました」
「またですか?」
「彼女との戦争は、一度も終わったことがありません」
◇ ◇ ◇
幸子さんのメールは、驚くほど短かった。
本来なら、その時点で警戒するべきだった。
春人へ。
修正した構成案を読みました。
中盤は前よりよくなっています。
でも、結末は相変わらずひどい。
宇宙が都合よく答えを差し出してくれるからといって、それで探偵が事件を解決できることにはなりません。
今日の午後、電話してください。
それから、ちゃんと何か食べなさい。お腹が空いていると、あなたの文章はさらに悪くなります。
――幸子
僕は二度読んだ。
それから、三度目も読んだ。
「まあ……中盤はよくなったらしい」
夏美さんが微笑んだ。
「進歩ですね」
「結末はひどいって言われましたけど」
「建設的な批評ですよ」
「僕の探偵まで侮辱されました」
「でも、春人さん自身が、あの探偵は面倒くさい男だって言ってませんでした?」
「そうですけど、僕の面倒くさい男なんです」
夏美さんは笑った。
僕は原稿を開いた。
第一ページから、森探偵が僕を見つめ返してきた。
もちろん、比喩的な意味でだ。
本当にこちらを見ていたわけではない。
もっとも、修正作業がここまで難航していると、彼が文書ファイルから這い出してきて、作者に正式な苦情を申し立てても、僕はあまり驚かなかっただろう。
◇ ◇ ◇
問題は結末だった。
いや、正確には、結末に至るまでのすべてが問題だった。
僕の推理小説では、古い写真から特定の人物が意図的に消されている事件が起きる。
家族写真。
学校の集合写真。
結婚式の写真。
新聞の記録写真まで。
最初、それぞれの出来事には何の関係もないように見える。
しかし、森探偵は次第に、改ざんされた写真の一枚一枚が、過去を書き換えられた家族とつながっていることを突き止めていく。
偽造された手紙。
止まった時計。
廃屋の前で花に水をやり続ける老女。
そして、公的な記録のほとんどから存在を消された一人の男。
設定は気に入っていた。
幸子さんも気に入っていた。
投稿原稿を読んでくれた編集者も、設定そのものには興味を示してくれていた。
残念ながら、設定が面白いことと、推理小説として成立していることは、まったく別の問題だった。
今の原稿では、森探偵は写真の裏に隠されていた古い手紙を偶然見つけ、その手紙によって事件のほぼすべてが明らかになる。
幸子さんは、この展開をこう評した。
「作者が書くのに疲れて、探偵に答えを投げつけたようなものね」
ひどい言い方だった。
ほとんど。
確かに、僕は書くことに疲れていた。
でも、それは今、関係ないはずだ。
◇ ◇ ◇
昼食の時間までに、僕は同じ場面を四回書き直した。
しかも、書き直すたびに悪くなっていた。
森探偵だけが、この小説の制作に関わっている馬鹿ではないのかもしれない。
そんな疑いが芽生え始めていた。
夏美さんが僕の表情に気づいた。
「執筆は順調ですか?」
「最悪です」
「そんなに?」
「事件を捜査できない探偵を生み出してしまいました」
彼女は微笑んだ。
「もっと手がかりが必要なんじゃないですか?」
「手がかりはあります」
「じゃあ、何が問題なんですか?」
「本人が、それをどうすればいいのか分かっていないんです」
「手がかりを変えてみたらどうですか?」
僕は動きを止めた。
それは腹立たしいほど筋の通った提案だった。
「……可能かもしれません」
夏美さんは微笑んだ。
「ほら」
僕は目を細めた。
「だんだん幸子さんに似てきましたね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「やめたほうがいいですよ」
◇ ◇ ◇
午後、幸子さんから電話がかかってきた。
画面に彼女の顔が映った。
手には紅茶のカップ。
これから他人の創作意欲を粉々にするつもりの人間にしては、あまりにもくつろいでいるように見えた。
「春人」
「先生」
「先生って呼ばないで」
「はい、先生」
彼女はため息をついた。
「結末は直した?」
「こんにちは、くらい言ってくれてもいいんじゃないですか?」
「直したの?」
「いいえ」
「結構。少なくとも正直ね」
僕はうめいた。
幸子さんは紅茶を一口飲んだ。
「一つ聞くわ。どうして森はあの手紙を見つけるの?」
「写真が少し傾いていることに気づくからです」
「どうして気づくの?」
「観察力があるからです」
「観察力がある?」
「はい」
「じゃあ、どうして前に三回もその場所を訪れたときには、同じ写真に気づかなかったの?」
僕は口を開いた。
閉じた。
そして眉をひそめた。
「……気が散っていたから?」
「何に?」
僕は彼女を見つめた。
幸子さんは微笑んだ。
「そういうことよ」
◇ ◇ ◇
それから一時間、僕たちは小説の謎を徹底的に解体した。
もちろん、文字どおりではない。
もっとも、原稿を全部削除して、装飾用の文鎮を集める仕事に転職しようかと考えた瞬間は何度かあった。
幸子さんは、重要な手がかりを一つずつ説明するよう求めた。
いつ登場するのか。
なぜ重要なのか。
読者はそこから何を推測できるのか。
なぜ森探偵は最初に見落としたのか。
そして、何が変わったことで、その意味を理解できるようになるのか。
やがて、僕にも問題が見えてきた。
僕は手がかりを、探偵が集めるべき物として扱っていた。
でも、優れた推理小説は、単に情報を集める物語ではない。
その情報が何を意味するのかを理解していく物語なのだ。
「探偵の結論は意外であるべきよ」と幸子さんは説明した。「でも、不可能な推理に見えてはいけない」
僕はうなずいた。
「読者が読み返したとき、答えは最初からそこにあったんだって分かるようにするんですね」
「そのとおり」
彼女は画面に少し顔を近づけた。
「それから、もう一つ」
「何ですか?」
「探偵が失敗することを、そんなに恐れないで」
僕は眉をひそめた。
「恐れてませんよ」
「恐れてるわ。森が間違えるたびに、あなたはすぐ別の手がかりを与えて、彼が馬鹿に見えないようにしている」
僕は考えた。
間違っていなかった。
最近、彼女の指摘が正しいことが多すぎる。
非常に腹立たしい傾向だった。
「失敗させなさい」と幸子さんは続けた。「その失敗に結果を伴わせるの。そして、彼自身の力で真実に近づかせなさい」
僕は黙った。
やがて、うなずいた。
「……分かった気がします」
「よろしい」
彼女はまた紅茶を飲んだ。
「じゃあ、直して」
「恐ろしい人ですね」
「知ってるわ」
◇ ◇ ◇
通話を終える前に、僕は彼女の背後にある本棚に気づいた。
古いノートが何冊も積まれている。
その中に、色あせた青い表紙のノートがあった。
背表紙に書かれた題名を、僕は知っていた。
『海が僕たちの名前を忘れた夏』
幸子さんの未完の小説だった。
以前から、その作品について聞いたことはあった。
でも、彼女が詳しく話すことはほとんどなかった。
「先生?」
彼女はため息をついた。
「今度は何?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「もう聞いてるじゃない」
「先生の小説についてです」
彼女の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
でも、僕には分かった。
「何?」
「どうして完成させなかったんですか?」
一瞬、答えてくれないかもしれないと思った。
でも、彼女は本棚に目を向けた。
「どう終わらせればいいのか、分からなくなったからよ」
僕は瞬きをした。
「本当に?」
「ええ。私だって、ときどき問題にぶつかるのよ」
「無敵だと思ってました」
「くだらない質問に対してだけはね」
僕は笑った。
でも、彼女は笑わなかった。
◇ ◇ ◇
幸子さんはカップを置いた。
「あの物語を書き始めたのは、ずいぶん昔のことよ」
僕は黙って聞いた。
「同じ海辺の町で育った二人の話だった。二人は、十年後にもう一度会う約束をするの」
「恋愛小説みたいですね」
「恋愛だけの話じゃなかったわ」
「どんな話だったんですか?」
「記憶と後悔。そして、人は自分が何も変わっていないと思いながら、どれほど変わってしまうのかという話」
僕はうなずいた。
「どうして書けなくなったんですか?」
彼女は静かになった。
それから、言った。
「あの小説を書いている途中で、大切な人が亡くなったの」
僕の笑顔が消えた。
「……すみません」
幸子さんは首を振った。
「ずっと昔のことよ」
でも、その声は柔らかくなっていた。
「ほとんど書き終えていたの。結末も決めていた。二人は再会して、互いを許して、もう一度やり直すはずだった」
彼女は窓のほうを見た。
「でも、葬儀が終わったあと、その結末を書けなくなった」
僕は何も言わなかった。
「すべての別れが、望めば修復できるみたいに書くことが、嘘のように感じられたの」
彼女の指先がカップに触れた。
「だから、やめたのよ」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちは黙っていた。
それから、僕は尋ねた。
「いつか、完成させると思いますか?」
幸子さんは考えた。
「分からないわ」
「完成させたいとは思いますか?」
彼女は少し驚いたようだった。
それから、かすかに微笑んだ。
「……ときどきね」
僕は考えた。
未完の物語。
約束。
もう実現できないように思える結末。
そして、僕と葵が築こうとしている未来。
「もしかしたら」と僕はゆっくり言った。「最初に考えていた結末じゃなくてもいいのかもしれません」
幸子さんが僕を見た。
僕は続けた。
「登場人物たちは、望んだものを全部手に入れなくてもいいのかもしれない。ただ、そのあとも生きていく方法を見つければ」
彼女は黙っていた。
やがて、微笑んだ。
「気をつけなさい、春人」
「何をですか?」
「少しずつ、作家らしいことを言うようになってきたわよ」
僕は笑った。
「ついに!」
「調子に乗らないで」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話がかかってきた。
彼女は疲れているようだった。
嫌な一日を過ごしたというより、大切なことの準備に一日中追われていたような疲れ方だった。
「やあ」と僕は言った。
「やっほー」
「疲れてるね」
「ありがとう。とってもロマンチックな言葉ね」
「喜んでもらえて何より」
彼女は弱々しく笑った。
僕はその表情を見つめた。
「大丈夫?」
「うん」
少しためらった。
「……たぶん」
僕は待った。
やがて、彼女はため息をついた。
「新しい仕事が始まるの、緊張してる」
僕はうなずいた。
「当然だと思うよ」
「ちゃんとやれなかったらどうしよう」
僕は瞬きをした。
「葵」
「何?」
「君は看護師だよ」
「それは分かってる」
「しかも、すごく優秀な看護師」
「春人……」
「それに、誰かが指示を聞かなかったときは、ものすごく怖い女性にもなる」
彼女は僕を見つめた。
「……何ですって?」
僕は微笑んだ。
「ほら。怖い」
「春人!」
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
やがて、葵も笑い始めた。
でも、笑いが収まると、不安はまだ残っていた。
「研修してきたことは分かってるの」と彼女は言った。「でも、正式な職員として働くのは違う気がする」
「実際、違うと思うよ」
彼女が僕を見た。
僕は続けた。
「新しい責任もあるし、新しい同僚もいる。まだ君のことを知らない人たちもいる」
「そうなの」
「それで、期待を裏切るんじゃないかって心配なんだね」
彼女はうなずいた。
僕は少し考えた。
「葵、一つ言ってもいい?」
「もちろん」
「君は、自分が十分にできるかどうかを心配しすぎて、大切なことを忘れてると思う」
「何?」
「向こうが君を採用したんだよ」
彼女は瞬きをした。
「うん……」
「間違えて他人の雇用契約書を送ってきたわけじゃないでしょ?」
葵は笑った。
「当たり前でしょ」
「君ならできると思ったから、採用したんだよ」
彼女は黙った。
僕は微笑んだ。
「それに、まだ知らないことがあったら、これから学べばいい」
「……簡単に言うね」
「簡単じゃないよ」
僕は少し間を置いた。
「でも、初日から全部知っている必要はないでしょ?」
葵はしばらく僕を見つめた。
それから、微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
通話を終える前に、葵が僕の原稿について尋ねた。
僕は幸子さんから受けた最新の批評を説明した。
葵は笑いすぎて、話したことを後悔し始めた。
「本当に探偵を馬鹿だって言ったの?」
「直接は言ってない」
「何て言ったの?」
「宇宙が代わりに事件を解決してるって」
葵は口元を押さえた。
「そっちのほうがひどい!」
「温かい応援をありがとう」
彼女は笑った。
そして、少し考え込んだ。
「でも、正しいのかも」
僕は彼女を見つめた。
「ブルータス、お前もか」
「何?」
「何でもない。文学そのものに裏切られた気分だよ」
葵は微笑んだ。
「じゃあ、もっといい結末を書けばいいじゃない」
僕はため息をついた。
「みんな批評家になってしまった」
◇ ◇ ◇
二日後、恵美さんから連絡があった。
進捗報告が来ることは分かっていた。
でも、その内容がこれほど気の重くなるものだとは思っていなかった。
「春人さん」と彼女は切り出した。「検討されている地域の看護サービスについて、いくつか初期的な問い合わせをしました」
僕は少し姿勢を正した。
「それで?」
「複数の事業所から、現在のところ春人さんに必要な看護体制を提供することは難しいという回答がありました」
胸の奥が沈んだ。
「……そうですか」
「二十四時間の専門的な看護に対応していない事業所もあれば、人員不足の事業所もあります」
僕は画面を見つめた。
「ほかの事業所は?」
「一か所、詳しい状況について相談に応じる意向を示しているところがあります」
希望が少し湧いた。
「本当ですか?」
「はい。ただし、実際に必要な人員を確保できるかどうかは、まだ確認できていません」
その希望が少し薄れた。
「つまり、保証はないんですね」
「現段階では、ありません」
僕はうなずいた。
◇ ◇ ◇
恵美さんは状況を説明し続けた。
その事業所には、僕の看護上の必要事項について、さらに詳しい情報が必要だった。
人員を確保できるかどうかも調べなければならない。
継続的な勤務体制を組めるかどうかも確認が必要だ。
保険やサービスの承認条件についても、検討しなければならない。
それでも、実現できる保証はなかった。
僕は注意深く聞いていた。
でも、条件が一つ増えるたびに、引っ越しの可能性が少しずつ遠ざかっていくように感じた。
ついに、ずっと避けていた質問をした。
「本当に、できると思いますか?」
恵美さんは少し黙った。
「まだ判断するには早いと思います」
僕はため息をついた。
「それは、あまり励みになる答えじゃないですね」
「お気持ちは分かります」
彼女は少し画面に身を乗り出した。
「でも、十分に調べる前から不可能だとは言いたくありません」
僕は彼女を見た。
「同時に、必ず実現できると約束することもできません」
僕はゆっくりうなずいた。
「……そうですよね」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕は引っ越し計画の文書を見つめた。
確認事項はさらに増えていた。
看護事業所。
保険の条件。
医療機器の供給業者。
医師。
バリアフリー住宅。
交通手段。
緊急時の対応。
地域の施設。
そして、新しい一文。
二十四時間の専門的な看護体制を確保できると確認した事業所は、まだない。
僕は何度もその文章を読んだ。
画面の上では、ほんの短い一文だった。
でも、その言葉が、僕の引っ越しの可否を決めるかもしれない。
僕はため息をついた。
「いやあ、実に励みになりますね」
夏美さんがこちらを見た。
「悪い知らせですか?」
「正確には、そうでもありません」
僕はためらった。
「いい知らせがなかった、という感じです」
彼女はうなずいた。
「引っ越しのことですか?」
「はい」
◇ ◇ ◇
夏美さんは少し黙った。
それから、予想していなかったことを尋ねた。
「春人さん、一つ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「もし引っ越すことになったら、今の看護チームはどうなるんですか?」
僕は瞬きをした。
「新しい地域の看護チームに引き継ぐことになると思います」
彼女はうなずいた。
「そうですよね」
僕はその表情を見つめた。
「夏美さん?」
「はい?」
「心配ですか?」
彼女は微笑んだ。
「春人さんのことは、少し心配です」
僕は眉をひそめた。
「どうして?」
「ここで安定した生活を築くために、春人さんがどれだけ頑張ってきたか知っていますから。その生活がどれほど大切かも」
僕はうなずいた。
彼女は続けた。
「それに、新しい看護チームと一から関係を築くのは、大きな変化になります」
「そうですね」
そして、彼女は微笑んだ。
「でも、だからといって、可能性を調べるのをやめる必要はありませんよ」
◇ ◇ ◇
僕は彼女を見た。
「僕がいなくなったら、寂しいですか?」
夏美さんは眉を上げた。
「褒めてもらいたいんですか?」
「もちろんです」
彼女は笑った。
「それなら、はい。寂しくなると思います」
僕は微笑んだ。
「よかった」
「でも、春人さんのひどい冗談が聞けなくなることは、寂しくありません」
僕は息をのんだ。
「ひどい」
「それから、予定を思い出してもらおうとすると、聞こえないふりをするところも」
「重大な告発ですね」
「自分のパソコンと口論する癖も」
「先に喧嘩を売ってくるのはパソコンのほうです」
夏美さんは大笑いした。
◇ ◇ ◇
笑いが収まると、彼女は少し真剣になった。
「春人さんがここで生活を築いていく姿を、私は見てきました」
僕は聞いていた。
「自分で決めることに自信を持つようになって、友達もできて、執筆にも取り組んで」
彼女は微笑んだ。
「そして、恋もしましたね」
僕は顔が熱くなるのを感じた。
「その話もしないと駄目ですか?」
「もちろんです」
「ひどい」
彼女は小さく笑った。
「でも、言いたいのは、春人さんが成長してきたということです」
僕は黙った。
「だから、本当に引っ越したいと思っているなら、安全に実現できることを願っています」
胸が少し締めつけられた。
「お別れすることになっても?」
夏美さんは微笑んだ。
「それでも、です」
◇ ◇ ◇
その会話は、ずっと僕の心に残った。
僕はアパートを離れることばかり考えていて、今の看護チームと離れることがどんな気持ちになるのか、十分に考えていなかった。
夏美さんは家族ではない。
恋人でもない。
僕に必要な専門的な看護を提供してくれる、看護師だ。
その区別は大切だった。
でも、専門職としての関係だからといって、親しみが生まれないわけではない。
彼女は僕の日課を知っている。
好みも。
笑うことも。
苛立つことも。
そして、残念ながら、僕のひどい冗談のほとんども。
時間をかけて、信頼関係が築かれていた。
引っ越すということは、新しい人たちと、その信頼を一から築くということでもある。
不可能ではない。
でも、簡単でもない。
◇ ◇ ◇
その週の後半、僕は恵美さんと、引っ越しが実現した場合の引き継ぎについて話し合う機会を設けた。
現在の看護体制に関する部分には、夏美さんにも参加してもらった。
継続性。
研修。
記録。
緊急時の手順。
事業所間の連絡。
そして、必要なサービスに空白期間を作らないことの重要性。
恵美さんは明確に言った。
「適切な新しい体制が確保されるまでは、移行を進めることはありません」
僕はうなずいた。
「つまり、とりあえず引っ越して、何とかなることを祈るようなことはしないんですね?」
「絶対にしません」
「よかった。ものすごく悪い作戦に聞こえますから」
夏美さんが微笑んだ。
「そうですね」
僕は彼女を見た。
「でも、小説にしたら劇的な展開になりそうです」
「自分の人生を取材材料にしないでくださいね」
「約束はできません」
◇ ◇ ◇
面談の終わりに、僕は二人にお礼を言った。
恵美さんは微笑んだ。
「引き続き、情報を集めていきましょう」
夏美さんもうなずいた。
「それまでは、今までどおりの看護を続けますからね」
僕は微笑んだ。
「ありがとうございます」
恵美さんとの通話が終わると、夏美さんが僕を見た。
「少し安心しましたか?」
「少しだけ」
「よかったです」
僕は間を置いた。
「夏美さん?」
「はい?」
「もし、いつか引っ越すことになったら……」
彼女は続きを待った。
「次の看護師さんにも、ユーモアのセンスがあるといいな」
彼女は微笑んだ。
「それは難しいかもしれませんね」
「どうしてですか?」
「春人さんのユーモアは、かなり独特ですから」
僕は息をのんだ。
「また裏切られた!」
◇ ◇ ◇
一方、葵は別のアパートを見つけていた。
しかも、これがなかなか興味深い物件だった。
とても興味深い。
ある日の夕方、彼女が物件情報を送ってきた。
春人! これ見て!
僕はリンクを開いた。
建物は書店の近くにあった。
いや、単に近いだけではない。
ほとんど書店の真上だった。
物件情報によれば、公共図書館も比較的近い場所にあるらしい。
部屋も広そうだった。
入口には段差がない。
リビングは前に見た物件より大きい。
間取り図を見る限り、寝室にも医療機器と看護スタッフのための十分な空間を確保できる可能性があった。
僕は画面を見つめた。
「……おお」
電話が鳴った。
葵だった。
僕はすぐに出た。
「見た!?」
「見たよ」
「どう!?」
僕は微笑んだ。
「書店の上にあるアパートを見つけたんだね」
「そうなの!」
「葵」
「何?」
「僕をもう一度惚れ直させるつもり?」
彼女は笑った。
「成功してる?」
「ものすごく」
◇ ◇ ◇
僕たちは一時間近く、物件情報を確認した。
立地は魅力的だった。
間取りもよさそうだった。
家賃も、前のアパートより少し現実的に見えた。
でも、今回は浮かれすぎないことにした。
「寸法が必要だね」と僕は言った。
葵はうなずいた。
「ドアの幅?」
「ドアも、廊下も、浴室も、寝室も」
「分かった」
「それから、エレベーター」
彼女は物件情報を見た。
「エレベーターはあるよ」
「あるだけじゃ、僕の車椅子が入るとは限らないから」
「そうだね」
僕は続けた。
「停電したときのことも確認しないと」
葵の表情が真剣になった。
「エレベーターのこと?」
「それもあるし、緊急時の避難も」
彼女はうなずいた。
「非常用電源や避難手順についても聞いたほうがいいね」
「そうだね」
◇ ◇ ◇
僕たちは管理会社に確認する質問をまとめた。
ドアの正確な幅。
浴室の寸法。
エレベーターの広さと積載制限。
建物への出入り。
緊急時の避難手順。
停電時の対応。
医療機器を置くスペース。
必要な改修が認められるかどうか。
そして、僕に必要な看護を安全に行える間取りかどうか。
書き終わったころには、恵美さんからもらった確認事項と同じくらい長いリストになっていた。
葵はそれを見つめた。
「……多いね」
僕は微笑んだ。
「僕の世界へようこそ」
彼女は笑った。
「でも、少しずつ分かってきたね」
「そうだね」
僕は建物の一階にある書店の写真を見た。
そして、大げさにため息をついた。
「このアパートも駄目だったら、苦情を申し立てようかな」
「誰に?」
「宇宙に」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
残念ながら、宇宙はまだ僕を放っておいてくれなかった。
その夜、大地さんからメッセージが届いた。
春人!
いいことを思いついたぞ!
この五つの言葉は、警告として扱うべきだと思う。
できれば、公共の安全に関わる警報として。
僕は画面を見つめた。
そして返信した。
心配したほうがいい?
返事はすぐに来た。
心配無用!
僕はさらに心配になった。
数秒後、次のメッセージが届いた。
お前の出版記念イベントについて話そう!
僕は目を閉じた。
「……ああ、駄目だ」
◇ ◇ ◇
十分後、大地さんから電話がかかってきた。
彼は満面の笑みを浮かべていた。
それは決していい兆候ではなかった。
「春人!」
「大地さん」
「考えてたんだ!」
「それが心配なんです」
彼は無視した。
「お前の推理小説だよ!」
「それがどうしたんですか?」
「宣伝戦略が必要だ!」
僕は彼を見つめた。
「どうして?」
「お前は有名作家になるんだからな!」
「大地さん」
「何だ?」
「僕の小説は、まだ出版が決まっていません」
「まだ、だろ!」
「決まらない可能性だってあります」
「そんな馬鹿な!」
僕はため息をついた。
彼は画面に顔を近づけた。
「想像してみろ。盛大な出版記念パーティー!」
「嫌です」
「探偵をテーマにした飾りつけ!」
「嫌です」
「オリジナルグッズ!」
「絶対に嫌です」
「それから、お前の等身大パネル!」
僕は固まった。
「……何ですって?」
◇ ◇ ◇
大地さんは興奮したまま続けた。
「ポスターも作ろう! しおりも! 小さな探偵帽なんかもいいな!」
「大地さん」
「宣伝用のキャッチコピーも必要だ!」
僕は彼を見つめた。
「どんな?」
彼はにやりと笑った。
「椅子から一歩も離れずに、あらゆる謎を解き明かす男!」
沈黙。
完全な沈黙。
僕は彼を見た。
彼も僕を見た。
それから、僕はゆっくり言った。
「……二度とそれを言わないでください」
大地さんは瞬きをした。
「何だって?」
「絶対に」
「でも、覚えやすいだろ?」
「最悪です」
「本当に?」
「驚くほど最悪です」
◇ ◇ ◇
そのとき、大地さんの背後に由紀さんが現れた。
「何してるの?」
大地さんが振り向いた。
「春人の作家人生を計画してるんだ!」
由紀さんは目を閉じた。
「ああ、もう……」
「僕も同じことを言いました」と僕は答えた。
彼女が画面を見た。
「まさか、もう書店に連絡してないでしょうね?」
大地さんが突然静かになった。
由紀さんは彼を見つめた。
「大地」
彼は目をそらした。
「いや、その……」
「大地!」
僕は息をのんだ。
「何をしたんですか!?」
彼は両手を上げた。
「ちょっと問い合わせただけだ!」
「僕の小説、まだ完成すらしてないんですよ!」
由紀さんが電話を取った。
「春人、心配しないで。私が何とかするから」
「ありがとうございます」
背後で大地さんが抗議した。
「でも、探偵帽は――」
「駄目!」
通話が切れた。
僕は画面を見つめた。
そして、大笑いした。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は再び原稿に向かった。
幸子さんの助言が、まだ頭の中に残っていた。
探偵に失敗させる。
手がかりに意味を持たせる。
結末を、自分の力でたどり着いたものにする。
僕は森探偵が廃屋を訪れる場面を開いた。
老女が花に水をやっている。
探偵は、彼女がいつも同じ場所の土に水をやっていることに気づく。
元の原稿では、この描写は雰囲気を出すためだけのものだった。
でも、今は思った。
もし、これが重要な意味を持っていたら?
もし、老女が庭を大切にしているから水をやっているのではなかったら?
何かを守っているのだとしたら?
あるいは、何かを隠しているのだとしたら?
僕は存在を消された男の記録を思い出した。
偽造された手紙。
止まった時計。
改ざんされた写真。
少しずつ、一つの考えが形になっていった。
探偵に都合よく与えられる答えではない。
彼自身が犯す間違い。
早すぎる結論。
そして、その間違いによって、すべてを考え直さなければならなくなる展開。
僕は微笑んだ。
「……見つけた」
◇ ◇ ◇
僕は何時間も執筆を続けた。
言葉が簡単に出てきたからではない。
そんなことはなかった。
でも、何日かぶりに、物語がどこへ向かうべきなのか見えた気がした。
森探偵は、間違った人物を犯人だと決めつける。
その間違いによって、誰かの信頼を傷つける。
重要な証人と話す機会を失う。
そして、もう一度証拠を調べ直したとき、見落としていた矛盾に気づく。
止まった時計は、すべて同じ時刻を指していたわけではなかった。
それぞれ違う時刻を示していた。
でも、その時刻は、ある日付に対応していた。
改ざんされた写真の一枚とつながる日付に。
手がかりは、最初からそこにあった。
僕が、それに意味を与えていなかっただけだった。
僕は笑った。
「馬鹿だな、森」
それから、少し考えた。
「……いや、僕のせいか」
◇ ◇ ◇
新しい構成を書き終えたころには、すっかり夜も更けていた。
かなり遅い時間だった。
夏美さんが時計を見た。
「春人さん」
僕は顔を上げた。
「はい?」
「そろそろ休む準備をする時間ですよ」
「分かってます」
「二十分前にもそう言いましたよ」
「嘘をつきました」
彼女は笑った。
「少なくとも正直ですね」
僕は微笑んだ。
「これだけ保存させてください」
「はい」
僕は文書を保存した。
それから、スマートフォンを確認した。
葵からメッセージが来ていた。
二時間近く前だった。
今夜は少し勉強してるよ。時間ができたら電話してね。
僕は固まった。
「……あ」
夏美さんが気づいた。
「どうしました?」
「葵に電話するのを忘れてました」
彼女は微笑んだ。
「じゃあ、メッセージを送ってみたらどうですか?」
僕は時刻を確認した。
もう眠っているかもしれない時間だった。
少しためらった。
それから、入力した。
ごめん。原稿の修正に夢中になってた。まだ起きてる?
返事はなかった。
僕は画面を見つめた。
なぜか、その沈黙が思っていた以上に気になった。
◇ ◇ ◇
翌朝、目を覚ますとメッセージが届いていた。
ごめん! 勉強してたら寝ちゃった。
電話できなくてごめんね。
僕は微笑んだ。
そして返信した。
僕も原稿に夢中になって、電話するのを忘れてた。
数秒後。
じゃあ、二人とも忘れてたの?
どうやらね。
私たち、駄目駄目だね。
僕は笑った。
まったくだね。
すると、もう一通届いた。
あとで話せる?
もちろん。
◇ ◇ ◇
その夜、ようやく通話できた。
葵は申し訳なさそうだった。
「ごめんね」
僕は首を振った。
「謝らなくていいよ」
「でも、寝ちゃったから」
「僕も夢中になってたし」
彼女は弱々しく微笑んだ。
「最近、忙しいね」
「そうだね」
しばらく、二人とも黙った。
それから、葵が尋ねた。
「春人は、嫌?」
「何が?」
「毎晩、電話できないのって」
僕は慎重に考えた。
「寂しいときはあるよ」
彼女は視線を落とした。
僕は続けた。
「でも、葵が何か悪いことをしてると思ってるわけじゃない」
彼女は顔を上げた。
「ただ、会いたいし、話したいんだ」
葵は寂しそうに微笑んだ。
「私も」
◇ ◇ ◇
僕たちは、お互いの日課について話した。
葵には、もうすぐ忙しい新しい勤務が始まる。
僕には執筆がある。
診察も。
看護体制の調整も。
そして、どうやら僕の人格の一部になりつつある、終わりのない事務手続きも。
いつも同じ時間に自由になれるとは限らない。
無理に決まった時間に電話しようとすれば、かえって負担になるかもしれなかった。
「だからさ」と僕は言った。「一回電話できなかったくらいで、大事件みたいに考えなくてもいいんじゃないかな」
葵はうなずいた。
「そうだね」
「忙しいときはメッセージを送ればいいし」
「時間があるときに電話すればいい」
「そういうこと」
彼女は微笑んだ。
「でも、おやすみは言いたいな」
僕は笑った。
「メッセージだけでも?」
「メッセージだけでも」
僕は微笑んだ。
「決まりだね」
◇ ◇ ◇
それから、葵が真剣な表情になった。
「春人?」
「何?」
「看護事業所の調査、どうだった?」
僕の笑顔が少し消えた。
僕は説明した。
必要な看護体制を提供できない事業所のこと。
詳しい相談には応じてくれる事業所が一か所あること。
そして、まだ何も確約されていないこと。
葵は最後まで口を挟まずに聞いていた。
話し終えると、彼女は少し黙った。
それから言った。
「……ごめんね」
僕は首を振った。
「謝らないで」
「もっと簡単だったらいいのに」
「僕もそう思う」
彼女は視線を落とした。
「ときどき、春人に無理をさせてるんじゃないかって思うの」
胸が締めつけられた。
「葵」
彼女が顔を上げた。
「君が僕に引っ越してって頼んだわけじゃないでしょ?」
「でも、私がいるから、こんなに調べてくれてるんだよね」
「君と一緒に未来を考えたいから、僕が調べることを選んだんだよ」
彼女は黙った。
僕は続けた。
「だからって、何が何でも引っ越すつもりはないよ。必要な看護体制が確保できないなら、できないんだから」
葵はゆっくりうなずいた。
「そのときは、別の方法を考えよう」と僕は言った。
彼女は微笑んだ。
「二人で?」
僕も微笑んだ。
「二人で」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、幸子さんからまたメールが届いた。
春人へ。
新しい構成案を読みました。
前よりいいです。
森はようやく、宇宙に手を引かれて物語の中を案内される男ではなく、探偵らしく行動し始めました。
このまま続けなさい。
――幸子
僕は画面を見つめた。
そして、微笑んだ。
「前よりいい、か」
夏美さんがこちらを見た。
「いい知らせですか?」
「とても」
「何て書いてあったんですか?」
「僕の探偵が、ようやく探偵らしくなったそうです」
夏美さんは笑った。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。長く険しい道のりでした」
◇ ◇ ◇
その日の午後、リクとイラストについてビデオ通話をした。
彼は新しいキャラクタースケッチを描いていた。
今度の森探偵は、僕の想像にずっと近かった。
少し太めの体格。
ぼさぼさの髪。
しわだらけのコート。
疲れた目。
そして、三日間眠っておらず、コーヒーをどこに置いたのかも忘れてしまった男のような表情。
僕は大満足だった。
「完璧」
リクは笑った。
「本当に?」
「もちろん」
「すごく不幸そうに見えますけど」
「そこがいいんだよ」
「探偵って、もっと格好よくあるべきじゃないですか?」
「格好いいよ」
リクはイラストを見つめた。
「……そうですか?」
「かなり特殊な意味でね」
彼は笑った。
◇ ◇ ◇
それから、リクが一枚のスケッチを指さした。
「一つ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「どうして、あのおばあさんは毎日花に水をやってるんですか?」
僕は固まった。
「……何?」
「廃屋の場面です」
僕は彼を見つめた。
リクは続けた。
「毎日、同じ場所に水をやってるって書いてありましたよね。でも、家が空き家なら、誰が庭の手入れをしてるんですか?」
僕はゆっくり微笑んだ。
「すごくいい質問だね」
彼は瞬きをした。
「本当ですか?」
「うん」
「重要なんですか?」
僕は少し考えた。
そして、にやりと笑った。
「今、重要になった」
リクは笑った。
「僕、事件の謎を解くのに協力しちゃいました?」
「そうかもしれない」
「探偵帽、もらえますか?」
僕は目を閉じた。
「……探偵帽の話はしないでくれ」
◇ ◇ ◇
それから数日間、物事は少しずつよい方向に進んでいるように見えた。
原稿の修正は進んでいた。
葵は新しい仕事の準備をしていた。
書店の上のアパートも、まだ候補として残っていた。
そして、恵美さんは引き続き、新しい街で専門的な看護体制を整えられるか調べてくれていた。
何も確実ではなかった。
でも、少なくとも前には進んでいた。
そして、金曜日がやって来た。
それと一緒に――
一通の封筒が届いた。
◇ ◇ ◇
届いたのは午後だった。
夏美さんが、ほかの郵便物と一緒に僕の机へ持ってきた。
「春人さん、これ、大事な書類みたいです」
僕は差出人を見た。
現在の看護サービスに関わる制度の運営機関からだった。
胸が締めつけられた。
「……あ」
夏美さんが気づいた。
「開けるのをお手伝いしましょうか?」
「お願いします」
彼女は封筒を開け、僕が読めるように書類を置いてくれた。
最初の部分は、ごく普通だった。
形式的な挨拶。
僕の名前。
現在利用しているサービスについての説明。
そして、見出しが目に入った。
サービス利用に関する再評価実施予定のお知らせ
僕は画面を見つめた。
しばらく、動けなかった。
◇ ◇ ◇
僕は読み進めた。
書類には、現在のサービス利用上の必要性と承認内容について、定期的な再評価が行われると書かれていた。
更新された情報が必要だという。
医療関係の書類。
現在必要な看護内容。
それを裏づける記録。
そして、再評価の手続きへの参加。
サービスを終了すると書かれているわけではなかった。
すぐに利用時間を減らすとも書かれていなかった。
でも、また一つ、事務手続きが始まるということだった。
また、不確実な期間がやって来る。
しかも今度は、すでに受けている看護に関わることだった。
僕はもう一度読んだ。
そして、三度目も。
夏美さんが静かに見守っていた。
「春人さん?」
僕はため息をついた。
「……どうやら宇宙は、僕の書類仕事がまだ足りないと思っているみたいです」
彼女はすぐには笑わなかった。
「再評価のお知らせですか?」
僕はうなずいた。
「はい」
◇ ◇ ◇
僕は書類を見つめた。
最悪のタイミングだった。
僕はすでに引っ越しの可能性を調べている。
新しい看護体制を整えられるか確認しようとしている。
そこへ今度は、現在のサービスについての再評価が始まる。
二つの異なる手続き。
どちらも重要。
どちらも複雑。
そして、どちらも無視できない。
苛立ちがこみ上げてきた。
「どうして今なんだよ……」
夏美さんは黙っていた。
「どうして、何もかも一度に来るんだろう」
この書類が必ずしも悪い結果を意味するわけではない。
それは分かっていた。
でも、分かっているからといって、不安が消えるわけではなかった。
僕は何年もかけて、必要な支援を受けながら自分の生活を築いてきた。
家がある。
日課がある。
看護チームがいる。
自分の人生がある。
そして今、その必要性をもう一度説明しなければならないと思うと、ひどく疲れた。
◇ ◇ ◇
夏美さんが優しく言った。
「春人さん、まずは書類に何と書いてあるか確認しましょう」
僕はゆっくり息を吸った。
「……はい」
「再評価が予定されていると書かれていますね」
「はい」
「看護が終了するとは書かれていません」
「そうですね」
「時間を減らすとも書かれていません」
僕は書類を見た。
「……はい」
彼女はうなずいた。
「だったら、恵美さんに連絡して、何が必要なのか確認しましょう」
僕は黙った。
彼女は続けた。
「一つずつ、ですよ」
僕は弱々しく笑った。
「みんな、そればかり言いますね」
「春人さんが、一度に十歩進もうとするからじゃないですか?」
思わず笑ってしまった。
「……それは否定できません」
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は恵美さんに連絡した。
彼女は一緒に通知を確認してくれた。
説明は慎重だった。
「これは再評価のお知らせであって、サービス終了の通知ではないようですね」
僕はうなずいた。
「僕もそう思いました」
「期限や必要書類を確認しましょう」
「はい」
「それから、現在のサービスの再評価と、引っ越しの可能性についての調査は、別々に進めていきましょう」
僕は彼女を見た。
「どうしてですか?」
「引っ越しの可能性を調べている間も、現在の看護体制を安定して維持する必要があるからです」
僕はゆっくりうなずいた。
「……そうですね」
彼女は続けた。
「将来引っ越すかもしれないという話が、今受けているサービスに不必要な影響を与えないようにしたいんです」
その説明は納得できた。
いや、納得できるどころではない。
とても重要なことだった。
◇ ◇ ◇
僕たちは次の手順を話し合った。
最新の医療関係書類を集める。
再評価の日程を確認する。
記録に現在の必要な看護内容が正確に反映されているか確認する。
専門的な看護を途切れさせずに継続する重要性を記録する。
そして、引っ越しについての調査は別に続ける。
僕はすべて計画書に追加した。
確認事項はまた増えた。
僕は画面を見つめた。
そして、笑った。
恵美さんが不思議そうにした。
「何かおかしいですか?」
「いえ、別に」
「では?」
「僕の書類、繁殖してるんじゃないかと思って」
彼女は笑った。
「そう感じることもありますよね」
「この調子だと、書類を保管するために二つ目のアパートが必要になりそうです」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は葵に電話した。
彼女はすぐに出た。
「やっほー!」
「やあ」
僕の表情を見て、彼女の笑顔が消えた。
「どうしたの?」
僕は手紙のことを話した。
彼女は注意深く聞いていた。
話し終えると、心配そうな顔になった。
「それって、看護の内容が変わるかもしれないってこと?」
「必ずしもそうじゃないよ」
僕は恵美さんの説明を伝えた。
再評価のこと。
必要な書類のこと。
今すぐ利用時間が減ったり、サービスが終了したりするという通知ではないこと。
葵はうなずいた。
「でも、ストレスになるよね」
「うん」
僕はため息をついた。
「特に今はね」
彼女は黙った。
それから、言った。
「春人」
「何?」
「引っ越しの調査、しばらくやめておく?」
僕は考えた。
魅力的な提案だった。
すべての文書を閉じてしまいたい。
物件情報を見るのをやめたい。
看護事業所のことを考えるのもやめたい。
そして、慣れ親しんだ日常に戻りたい。
そんな気持ちもあった。
でも、別の自分は分かっていた。
考えるのをやめても、問題が消えるわけではない。
やがて、僕は首を振った。
「まだ、やめたくない」
葵が僕を見た。
「急ぐつもりはないよ」と僕は言った。「今の看護を危険にさらすようなことも、絶対にしたくない」
彼女はうなずいた。
「でも、何ができるのか分かる前に諦めたくもないんだ」
葵は優しく微笑んだ。
「……うん」
◇ ◇ ◇
それから、僕たちはしばらく話した。
書類のことではなく。
アパートのことでもなく。
看護事業所のことでもなく。
ただ、普通の話をした。
葵の一日。
僕の執筆。
彼女の同僚に関する面白い出来事。
僕が注文した新しい本。
そして、当然のように、まだ存在しない未来のアパートに何台の本棚を置くべきかという、終わりの見えない議論。
「三台」と葵は言った。
僕は彼女を見つめた。
「三台?」
「三台」
「それじゃ家じゃない。文学の刑務所だよ」
彼女は笑った。
「春人!」
「最低でも六台は必要だ」
「六台!?」
「理想は七台」
「絶対に駄目!」
「五台?」
「四台」
僕は考えた。
「……四台半」
葵は大笑いした。
「本棚の半分って何なの!?」
「発明するよ」
◇ ◇ ◇
おやすみを言うころには、少し気分が軽くなっていた。
問題は消えていない。
今の看護サービスには再評価が予定されている。
新しい看護体制を確保できるかも分からない。
アパートの確認も終わっていない。
そして、葵の新しい仕事も、もうすぐ始まる。
でも、数か月前の僕にはなかったものが、今はある。
自分が何を望んでいるのか、以前よりはっきり分かっているということだ。
確実な答えではない。
保証でもない。
ただ、進みたい方向が見えている。
◇ ◇ ◇
寝る前、僕はもう一度原稿を開いた。
森探偵は、廃屋の庭に立っていた。
老女は花に水をやっている。
彼は間違いを犯した。
重大な間違いを。
そして今、それを認めて、もう一度やり直すかどうかを決めなければならない。
僕はその場面を見つめた。
そして、微笑んだ。
「さて、森」
カーソルが点滅していた。
「どうやら、僕たちは二人とも大変な一週間を過ごしているみたいだね」
僕は書き始めた。
今度は、都合のいい手紙など見つからなかった。
誰かが現れて、事件の真相を説明してくれることもなかった。
奇跡のような手がかりが、突然手元に落ちてくることもなかった。
代わりに、彼は証拠へ戻った。
見落としていたものを調べ直した。
自分の思い込みを疑った。
そして、もう一度始めた。
僕は微笑んだ。
もしかしたら、僕もそうするべきなのかもしれない。
◇ ◇ ◇
そのあと、執筆を終えた僕は、デスクトップにある二つの文書を見た。
引っ越し実現可能性調査計画
そして――
現在の看護サービス再評価
二つの異なるファイル。
二つの異なる課題。
一つは、今の僕の生活に関わるもの。
もう一つは、これから築きたい生活に関わるもの。
一瞬、その二つの間に挟まれているように感じた。
どちらかを選べば、もう一方を危険にさらしてしまうのではないか。
そんな気がした。
でも、そのとき母の言葉を思い出した。
私の計画を、あなたの義務にするつもりはないの。
私はただ、扉を開こうとしているだけ。
どの扉を通るかは、あなたが決めることよ。
僕は母の写真を見た。
「母さん」
部屋は静かだった。
「また一つ、扉を見つけたみたいだよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「いや、正確には十二個くらいかな」
しかも、どの扉を開けるにも、それぞれ別の申請書が必要らしかった。
◇ ◇ ◇
スマートフォンが震えた。
葵からのメッセージだった。
おやすみ、春人。
あんまり遅くまで書いてちゃ駄目だよ。
僕は微笑んだ。
そして返信した。
おやすみ、葵。
もうすぐやめるって約束する。
すぐに返事が来た。
全然信用できないんだけど。
僕は笑った。
僕のこと、よく分かってるね。
数秒後、もう一通届いた。
引っ越しがどうなっても、一つだけ知っておいてほしいことがあるの。
僕は待った。
挑戦しようとしている春人を、私は誇りに思ってるよ。
僕の笑顔が柔らかくなった。
しばらく、その言葉を見つめた。
それから入力した。
僕も葵を誇りに思ってる。
自分の夢を選んだことを。
少しして、返事が届いた。
じゃあ、二人とも頑張り続けようね。
僕は画面を見た。
そして、微笑んだ。
一緒に。
◇ ◇ ◇
窓の外では、街が静まり返っていた。
建物や道路の向こうで、葵は自分の仕事の新しい章を迎える準備をしている。
そして、青い玄関のあるこのアパートで、僕も自分自身の課題に向き合おうとしていた。
原稿には、まだ修正が必要だった。
看護サービスについても、対応しなければならないことがある。
引っ越しが実現するかどうかも分からない。
そして、僕たちが一緒に思い描いた未来は、まだ現実になるには遠かった。
でも、少しずつ分かってきたことがある。
そこへ至る道が難しいからといって、夢が無意味になるわけではない。
結果を保証できないからといって、約束が嘘になるわけでもない。
ときには、選び続けること自体が、何より大切なのかもしれない。
慎重に。
よく考えて。
信頼できる人たちと一緒に。
僕はもう一度、母の写真を見た。
それから、葵のメッセージを。
そして最後に、画面の中で待っている未完成の原稿を見た。
明日になれば、また新しい疑問が生まれるだろう。
新しい書類。
新しい電話。
新しい決断。
もしかしたら、また失望することもあるかもしれない。
でも、明日はまた、前へ進む機会でもある。
今は、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
ちょうどパソコンを閉じようとしたとき、新しいメールが届いた。
僕は通知を見た。
書店の上にあるアパートの管理会社からだった。
胸が高鳴った。
すぐに開いた。
高橋春人様
このたびは、当物件についてお問い合わせいただき、ありがとうございます。
バリアフリー設備、エレベーターの寸法、緊急時の対応に関するご質問を確認いたしました。
詳細について、ご相談の機会を設けることが可能です。
僕は微笑んだ。
そして、続きを読んだ。
ただし、お申し込みを進められる前に、建物に関して一つ重要な事項をご説明する必要がございます。
僕の笑顔が消えた。
「……勘弁してよ」
僕は画面を見つめた。
今度は何だ?
メールには、それ以上の説明がなかった。
ただ、面談可能な日時がいくつか記載されているだけだった。
僕は電動車椅子の背もたれに少し体を預けた。
そして、笑った。
面白かったからではない。
ここまで来ると、宇宙そのものが僕の人生を必要以上に複雑にすることへ、個人的な興味を抱いているように思えてきたからだ。
「分かったよ」と僕はつぶやいた。
「もう一つ、確認しようじゃないか」
僕は計画書を開いた。
そして、新しい項目を追加した。
管理会社に建物の重要事項について確認する。
それから、ファイルを保存した。
次の扉の向こうに何が待っていようと――
僕は、それを確かめるつもりだった。




