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第74話 まだ見つからない僕たちの居場所と、心では測れない二人の距離

人生には、たった一枚の書類が未来を大きく変えてしまう瞬間があるらしい。

僕の場合、それはたいてい保険会社から届く書類だった。

しかも、あまり嬉しくない方向に。

だから葵から「正式に書類に署名した」と連絡が来たとき、僕は一瞬、何かの申請手続きで問題が起きたのかと思った。

「何の書類?」

『雇用契約書』

僕は動きを止めた。

「……ああ!」

『ああ、って何?』

「いや、てっきり何かの申請書類かと」

『春人!』

「ごめん、ごめん」

僕は笑った。

「それで、正式に決まったんだね?」

画面の向こうで、葵がうなずいた。

『うん』

その表情には、喜びと緊張が入り混じっていた。

『正式に受けることにした』

僕は微笑んだ。

「おめでとう、葵」

『ありがとう』

「本当に、よかったね」

彼女は少し照れくさそうに笑った。

『まだ実感が湧かない』

「大丈夫。そのうち実感するよ」

『いつ?』

「最初の給料日とか」

葵は吹き出した。

『そこなの!?』

「非常に重要な日だからね」

『もう……』

彼女は笑っていた。

でも、その笑顔の奥に、少しだけ不安が見えた。

僕は気づかないふりをしなかった。

「……怖い?」

葵はしばらく黙った。

そして、小さくうなずいた。

『ちょっとね』

僕は微笑んだ。

「僕もだよ」

◇ ◇ ◇

葵が新しい仕事を正式に受けることを決めたのは、前日の午後だった。

研修先で指導を担当していた中村理沙さんにも報告したらしい。

理沙さんは喜んでくれたという。

ただ、葵がまだ迷っているように見えたため、二人で少し話をしたそうだ。

『理沙さんに言われたの』

「何て?」

『仕事を選ぶことと、誰かを愛することは、必ずしも反対の方向を向いているわけじゃないって』

僕は黙って聞いた。

『でも、両方を大切にしたいなら、ちゃんと考えないといけないとも言われた』

「……なるほど」

『それからね』

「うん?」

『自分の人生を誰かに決めてもらおうとしちゃ駄目だって』

僕は苦笑した。

「耳が痛いな」

葵は笑った。

『春人のことも少し話したから』

「僕の悪口?」

『違うよ』

「本当に?」

『……ちょっとだけ』

「葵!」

彼女は楽しそうに笑った。

◇ ◇ ◇

僕たちはしばらく、新しい仕事について話した。

葵が働くことになるのは、退院後の生活支援や在宅療養への移行に関わる部署だった。

病院での治療が終わったあとも、患者が自分らしい生活を続けられるように、医療職や地域の支援機関と連携する仕事。

葵が以前から興味を持っていた分野だ。

彼女は仕事内容を説明するうちに、少しずつ表情を明るくしていった。

僕はその顔を見るのが好きだった。

何かを楽しみにしているときの葵は、本当に生き生きとしている。

「楽しみなんだね」と僕は言った。

葵は少し驚いた。

『……うん』

「よかった」

『春人』

「何?」

『ありがとう』

僕は首をかしげた。

「何が?」

『喜んでくれて』

胸が少し痛んだ。

僕は微笑んだ。

「当たり前だよ」

そして、今度はためらわずに言った。

「寂しくなると思う。でも、それ以上に嬉しい」

葵は静かに微笑んだ。

『私も、寂しくなると思う』

「うん」

『でも、頑張りたい』

僕はうなずいた。

「うん。頑張っておいで」

◇ ◇ ◇

翌朝、僕は佐藤恵美さんとのオンライン面談を予定していた。

目的は、引っ越しの可能性についての初期的な確認。

あくまで調査段階だ。

まだ物件も決まっていない。

看護サービスの確保もできていない。

保険関係の手続きも始まっていない。

つまり、現時点で決まっていることといえば、僕が引っ越しについて真剣に考え始めたという事実くらいだった。

それでも、僕にとっては大きな一歩だった。

夏美さんが通信機器の位置を確認してくれたあと、恵美さんとの通話が始まった。

「こんにちは、春人さん」

「こんにちは」

「今日は、前回のお話をもう少し具体的に整理していきましょう」

「お願いします」

恵美さんは画面に資料を表示した。

そこには、いくつもの項目が並んでいた。

医療。

看護。

住宅。

交通。

保険。

緊急時対応。

生活環境。

僕はしばらく見つめた。

「……これは引っ越しの計画ですか?」

恵美さんが首をかしげた。

「そうですよ」

「小さな国を建国するための準備資料かと思いました」

彼女は笑った。

「それくらい確認事項が多いということですね」

「独立宣言も必要ですか?」

「それは必要ありません」

「残念」

◇ ◇ ◇

最初に話したのは、看護体制だった。

僕は人工呼吸器を使用している。

日常生活には専門的な看護支援が必要で、現在は二十四時間の体制で生活している。

だから、単に住む場所を見つければ引っ越せるわけではない。

「まず、新しい地域で必要な看護サービスを継続して利用できるかを確認する必要があります」と恵美さんは説明した。

僕はうなずいた。

「今の看護師さんたちが、そのまま来てくれるわけではないですからね」

「そうですね。事業所の対応地域や人員配置によっても変わります」

彼女は続けた。

「必要な資格や経験を持つスタッフを確保できるか、勤務体制を組めるか、緊急時にどう対応するか。そのあたりを事前に確認しなければなりません」

僕は画面を見た。

「……時間がかかりそうですね」

「かかる可能性はあります」

「どれくらい?」

「今の段階では、具体的な期間はお約束できません」

僕はため息をついた。

「ですよね」

◇ ◇ ◇

次は保険だった。

現在利用している制度やサービスについて、引っ越し先での適用条件を確認する必要があるという。

地域によって利用できる事業所が違う場合もある。

医療機器の供給体制。

消耗品の配送。

主治医との連携。

専門医の受診。

緊急搬送先の確認。

どれも、後回しにはできない。

僕は話を聞きながら、少しずつ気持ちが重くなっていくのを感じた。

恵美さんは、それに気づいたようだった。

「春人さん」

「はい?」

「一度に全部解決しようとしなくて大丈夫ですよ」

僕は苦笑した。

「でも、全部解決しないと引っ越せませんよね」

「必要な体制が整うことは大切です。ただ、今日は何が必要なのかを確認する日です」

僕は黙った。

「できるかどうかを判断するために、情報を集めるんです」

僕はゆっくりうなずいた。

「……そうですね」

◇ ◇ ◇

面談が終わったあと、僕はしばらく考えていた。

引っ越し。

それは、もっと単純なことだと思っていた。

新しい部屋を探して。

荷物をまとめて。

引っ越し業者を呼んで。

新しい街へ行く。

もちろん、僕の場合は少し複雑になるだろうとは思っていた。

でも、現実は想像以上だった。

今の生活は、多くの人の仕事と調整によって支えられている。

看護師。

医師。

支援担当者。

医療機器の業者。

そして、家族や友人。

僕が自分の人生を選ぶためには、その選択を実現できる環境が必要だった。

それは、独立していないという意味ではない。

むしろ、その環境があるからこそ、僕は自分で選べるのだ。

頭では理解していた。

でも、実際に新しい生活を計画し始めると、その重みを改めて感じた。

◇ ◇ ◇

午後、由紀さんが訪ねてきた。

いつものように、お菓子を持って。

「こんにちは、春人」

「こんにちは」

彼女はテーブルに袋を置いた。

「好きなお菓子、買ってきたわよ」

僕は微笑んだ。

「ありがとう」

「今日は何してたの?」

「引っ越しのことを調べてた」

由紀さんは椅子に座った。

「どうだった?」

僕は少し考えた。

「……思っていたより大変」

彼女はうなずいた。

「そうでしょうね」

「何か、もう少し簡単な方法はないのかな」

「必要な支援を減らすわけにはいかないものね」

「うん」

僕はため息をついた。

「アパートを探す前に、看護体制が整うか確認しないといけないんだ」

由紀さんは静かに聞いていた。

やがて、彼女が尋ねた。

「春人」

「何?」

「一つ聞いてもいい?」

「もちろん」

彼女は少し真剣な表情になった。

「あなた、本当にその街に住みたいの?」

◇ ◇ ◇

僕は瞬きをした。

「……どういう意味?」

「葵ちゃんがいるから引っ越したいのは分かるわ」

「うん」

「でも、あなた自身はどうなの?」

僕は黙った。

由紀さんは続けた。

「今の家も、生活も、仕事も、あなたが時間をかけて築いてきたものでしょう?」

「そうだね」

「それを変えることについて、ちゃんと考えてる?」

僕は少しむっとした。

「もちろん考えてるよ」

由紀さんは落ち着いていた。

「責めてるわけじゃないの」

「でも……」

「春人。葵ちゃんと一緒にいたいという気持ちは大切よ。でも、あなた自身がどんな生活をしたいかも、同じくらい大切なの」

僕は答えられなかった。

◇ ◇ ◇

しばらく沈黙が続いた。

そして、僕は小さく言った。

「……怖いんだ」

由紀さんが僕を見た。

「何が?」

「葵が遠くに行くこと」

僕は視線を落とした。

「今だって離れてる。でも、正式に仕事を始めたら、もっと忙しくなる」

由紀さんはうなずいた。

「そうね」

「会える時間も減るかもしれない」

「うん」

「だから……」

僕は言葉を探した。

「近くに住めたら、安心できる気がしたんだ」

由紀さんは静かに聞いていた。

「でも、それだけじゃないよ」

僕は続けた。

「葵と一緒に暮らしたいって、本当に思ってる」

「ええ」

「ただ……その二つの気持ちが、どこで分かれてるのか、自分でもよく分からない」

由紀さんは優しく微笑んだ。

「両方あってもいいのよ」

僕は顔を上げた。

「え?」

「葵ちゃんと一緒に暮らしたい気持ちも、離れるのが怖い気持ちも、どちらも本当なんでしょう?」

僕はうなずいた。

「うん」

「だったら、どちらか一つだけが正しいと思わなくていいの」

◇ ◇ ◇

由紀さんは少し間を置いた。

「でもね、春人」

「うん?」

「引っ越すなら、葵ちゃんが仕事に行っている時間も、あなたが幸せに暮らせる街を選んでほしい」

その言葉に、僕は黙った。

「あなたには、あなたの人生があるんだから」

僕は窓の外を見た。

今の街には、僕の生活があった。

友人。

行きつけの場所。

文学交流会。

執筆活動。

慣れ親しんだ環境。

それらをすべて置いていくことになるかもしれない。

もちろん、新しい街でも生活を築くことはできるだろう。

でも、それは簡単なことではない。

僕はゆっくりうなずいた。

「……分かった」

由紀さんは微笑んだ。

「それならよかった」

僕は彼女を見た。

「ところで」

「何?」

「お菓子、まだ食べてないんだけど」

由紀さんは吹き出した。

「せっかく真面目な話をしてたのに!」

「真面目な話をすると、お腹がすくんだよ」

「もう……」

◇ ◇ ◇

翌日、恵子さんからメールが届いた。

また母の資料が見つかったらしい。

今度は、昔の住宅計画に関するメモだった。

僕は興味深く開いた。

そこには、母がモデル住宅を見学したときに書いたと思われる項目が並んでいた。

必要な医療設備を置ける空間。

看護スタッフが安全に働ける環境。

車椅子で移動しやすい間取り。

緊急時の対応。

ここまでは、予想していた内容だった。

でも、その下に続く項目を見て、僕は少し驚いた。

近くに図書館があること。

本屋へ行けること。

公園や外出先があること。

友人と会える場所があること。

本人が興味を持てる活動に参加できること。

僕は画面を見つめた。

母は、僕が安全に暮らせる場所だけを探していたわけではなかった。

僕が楽しめる場所を探していた。

本を読める場所。

友達と会える場所。

外へ出かけられる場所。

自分の好きなことを続けられる場所。

僕は小さく笑った。

「……母さん」

◇ ◇ ◇

そのメモには、さらに一文があった。

春人の生活を、医療と介護だけで説明できるものにしたくない。

僕は息をのんだ。

しばらく、その言葉から目を離せなかった。

母は、僕がどんな人生を送るのか分からなかった。

作家になることも。

葵と出会うことも。

自分のアパートで暮らすことも。

でも、僕が医療や介護を受けるだけの人生ではなく、自分の好きなことを楽しめる人生を送ってほしいと願っていた。

そのことが、何より嬉しかった。

そして同時に、由紀さんの言葉を思い出した。

葵ちゃんが仕事に行っている時間も、あなたが幸せに暮らせる街を選んでほしい。

僕はゆっくり息を吐いた。

「……そうだね」

新しい街に住むなら、僕自身の生活もそこに必要なのだ。

◇ ◇ ◇

数日後、葵が見つけたアパートのオンライン内見をすることになった。

以前、二人で間取り図を見ながら家具を配置した物件だった。

あのときは、楽しかった。

本棚の位置。

机の場所。

ソファ。

二人の名前が並ぶ玄関。

でも、今回は少し違った。

実際に住めるかどうかを確認するための内見だった。

僕と葵はビデオ通話で参加し、不動産会社の担当者が部屋を案内してくれた。

最初に映ったのは、広いリビングだった。

明るい窓。

きれいな床。

新しいキッチン。

葵が嬉しそうに言った。

『春人、見て!』

「うん」

『すごくきれい!』

僕は微笑んだ。

「本当だね」

担当者が説明した。

『こちらはバリアフリー対応の物件としてご案内しております』

僕は少し期待した。

もしかしたら。

本当に、ここに住めるかもしれない。

◇ ◇ ◇

しかし、問題はすぐに見つかった。

最初は浴室だった。

担当者がドアを開けた瞬間、僕は眉をひそめた。

「……あれ?」

葵が気づいた。

『どうしたの?』

「ドア、狭くない?」

担当者が寸法を確認した。

そして、数値を伝えた。

僕は自分の電動車椅子の幅と必要な通行余裕を考えた。

「……厳しいですね」

葵の表情が変わった。

『入れない?』

「少なくとも、今のままじゃ難しいと思う」

担当者は申し訳なさそうに説明した。

『こちらの物件は、一般的なバリアフリー基準を意識した設計ですが、すべての車椅子や医療機器に対応しているわけではありません』

僕はうなずいた。

「分かりました」

◇ ◇ ◇

次に寝室を見せてもらった。

一見すると、十分な広さがあるように見えた。

でも、ベッドを置いて。

医療機器を配置して。

看護スタッフが安全にケアを行える空間を確保して。

さらに、僕の車椅子が移動できるようにすると――

ほとんど余裕が残らなかった。

僕は画面を見つめた。

「……これは難しいな」

葵は黙っていた。

担当者が別の配置を提案してくれたが、必要な空間を確保できるかは分からなかった。

僕は無理に話を進めなかった。

「ありがとうございます。いったん検討します」

◇ ◇ ◇

内見が終わったあと、僕たちはしばらく黙っていた。

画面には、以前葵が描いてくれた間取り図が残っていた。

玄関の横には、二人の名前。

春人。

葵。

そして、小さなハート。

葵が小さく言った。

『……ごめんね』

僕は顔を上げた。

「何が?」

『せっかく、いい部屋だと思ったのに』

僕は首を振った。

「葵が謝ることじゃないよ」

『でも……』

「僕たち、まだ探し始めたばかりだし」

彼女はうなずいた。

僕は少し笑った。

「それに、僕の本棚を置く場所も足りなかった」

葵は吹き出した。

『まだ言ってる!』

「重要な問題だからね」

『本当にもう……』

彼女は笑った。

でも、その目には少し涙が浮かんでいた。

◇ ◇ ◇

その夜、僕たちはもう一度、間取り図を見た。

今度は、ただ夢を見るためではなかった。

何が必要なのか。

何を確認しなければならないのか。

何を妥協できて、何を妥協できないのか。

一つずつ話した。

「浴室は絶対に必要な条件を満たさないと駄目だね」と僕は言った。

葵はうなずいた。

『うん』

「寝室も」

『医療機器と看護スタッフのスペースが必要だもんね』

「そう」

僕は少し考えた。

「それから、近くに図書館が欲しい」

葵が微笑んだ。

『図書館?』

「うん」

『どうして?』

僕は母のメモのことを話した。

図書館。

本屋。

公園。

友人と会える場所。

母が、僕の生活のために考えていたこと。

葵は静かに聞いていた。

そして、優しく微笑んだ。

『素敵だね』

僕はうなずいた。

「うん」

『じゃあ、図書館も条件に入れよう』

僕は笑った。

「本屋も」

『はいはい』

「できれば大きな本屋」

『分かったってば!』

◇ ◇ ◇

次に僕たちが向き合ったのは、お金の問題だった。

これが、なかなか厄介だった。

家賃。

光熱費。

食費。

交通費。

通信費。

生活用品。

そして、引っ越しに伴うさまざまな費用。

僕たちは画面を共有して、簡単な予算表を作った。

最初は順調だった。

少なくとも、僕はそう思っていた。

ところが、葵が家賃の欄を見た瞬間、顔をしかめた。

『……高い』

僕も見た。

「高いね」

『思ってたより高い』

「非常に高い」

『春人』

「何?」

『これ、二人で払えるのかな』

僕は少し考えた。

「ちゃんと計算しないと分からないね」

葵はうなずいた。

◇ ◇ ◇

僕たちは、生活費をどう分担するかについても話した。

ただ半分ずつにすれば公平というわけではない。

収入。

それぞれの固定費。

利用している支援制度への影響。

個人的な支出。

そして、無理なく生活を続けられるかどうか。

僕は、自分が支払える範囲を正確に確認する必要があると説明した。

葵も、自分の給与からどれくらい生活費に回せるのか、勤務開始後の状況を見なければ分からないと言った。

「……大変だね」と僕はつぶやいた。

葵は笑った。

『うん』

「恋愛小説って、こういうところをあまり書かないよね」

『そう?』

「少なくとも、主人公たちが家賃と光熱費について一時間も話し合う場面は少ないと思う」

葵は吹き出した。

『確かに』

僕は真剣な顔をした。

「新しいジャンルを開拓しようかな」

『どんなジャンル?』

「家計管理恋愛小説」

葵は大笑いした。

『絶対に売れない!』

「失礼な。現実的な恋愛を描くんだよ」

『タイトルは?』

僕は少し考えた。

そして、厳かに言った。

「君と僕と、今月の電気代」

葵は笑いすぎて、しばらく何も言えなかった。

◇ ◇ ◇

それでも、笑いが収まると、僕たちは真剣な話に戻った。

葵が言った。

『私、春人に無理してほしくない』

僕はうなずいた。

「僕も、葵に無理してほしくない」

『うん』

「だから、ちゃんと考えよう」

葵は微笑んだ。

『二人で?』

「二人で」

僕は少し間を置いた。

「ただし、僕の本棚の予算は削らない方向で」

葵は目を細めた。

『春人』

「はい」

『削るよ』

「横暴だ!」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

その週末、葵が帰ってくることになった。

研修の合間に、短い休みが取れたらしい。

知らせを聞いた瞬間、僕は思わず笑ってしまった。

「本当に?」

『うん』

「いつ?」

『土曜日』

「何時?」

『お昼ごろ』

「何時何分?」

葵は笑った。

『そんなに細かく聞かなくても!』

「重要な情報だから」

『春人、落ち着いて』

「僕は非常に落ち着いている」

『全然そう聞こえないよ』

◇ ◇ ◇

土曜日。

僕は朝から落ち着かなかった。

夏美さんが何度も笑っていた。

「そんなに楽しみなんですね」

「別に」

「そうですか」

「ちょっと楽しみなだけです」

「ちょっと?」

「……かなり」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

葵が到着したのは、昼過ぎだった。

玄関のチャイムが鳴った瞬間、僕の胸が高鳴った。

夏美さんがドアを開けると、そこに葵が立っていた。

少し疲れた顔。

でも、いつもの笑顔。

そして、僕の大好きな声。

「ただいま」

僕は微笑んだ。

「おかえり」

葵は近づいてきた。

そして、そっと僕を抱きしめた。

僕も、できる範囲で彼女に応えた。

しばらく、何も言わなかった。

言葉が必要なかった。

◇ ◇ ◇

その日は、特別なことをしなかった。

一緒に昼食を食べた。

葵が買ってきたお菓子を楽しんだ。

僕の原稿について話した。

幸子さんの厳しい批評について笑った。

そして、リクが描いた探偵の新しいイラストを見た。

その探偵は、以前より少しだけ格好よくなっていた。

僕は眉をひそめた。

「……誰?」

葵が笑った。

「森探偵でしょ?」

「違う」

「どうして?」

「こんなに格好よくない」

葵は吹き出した。

「ひどい!」

「もっと疲れてるはずなんだ」

「作者がそんなこと言っていいの?」

「作者だから言えるんだよ」

◇ ◇ ◇

午後には、近くの公園へ出かけた。

天気は穏やかだった。

空は高く、風は少し冷たかった。

僕は青い電動車椅子で進み、葵は隣を歩いた。

必要な看護体制を維持しながらの外出だったが、僕たちはいつものように話を楽しんだ。

公園には、散歩をする人たちがいた。

子どもたちの笑い声。

犬の鳴き声。

風に揺れる木々。

何も特別なことはなかった。

でも、僕は幸せだった。

◇ ◇ ◇

ベンチの近くで、葵が立ち止まった。

「春人」

「うん?」

「新しい街にも、こんな公園があるといいね」

僕は微笑んだ。

「そうだね」

彼女は空を見上げた。

「図書館も」

「うん」

「本屋も」

「絶対に」

葵は笑った。

「それから……」

彼女は少し恥ずかしそうにした。

「二人で帰れる家も」

胸が温かくなった。

僕は彼女を見た。

「……うん」

◇ ◇ ◇

しばらく、僕たちは静かに過ごした。

葵が隣にいる。

ただ、それだけのこと。

でも、僕にとっては大切だった。

遠く離れている間、何度もビデオ通話をした。

声も聞いた。

顔も見た。

笑い合った。

でも、こうして同じ場所にいることとは違う。

画面越しでは感じられないものがある。

風の冷たさ。

隣にいる人の気配。

同じ景色を見ているという感覚。

僕は、そのすべてが愛おしかった。

◇ ◇ ◇

やがて、葵が言った。

「春人」

「何?」

「寂しかった?」

僕は一瞬、答えに迷った。

以前の僕なら、きっと笑ってごまかしていただろう。

大丈夫だよ。

平気だよ。

心配しなくていいよ。

そう言って。

でも、今は違った。

僕は彼女を見た。

「……うん」

葵の表情が変わった。

「すごく寂しかった」

彼女は黙った。

僕は続けた。

「毎日話せるのは嬉しい。でも、やっぱり会いたいって思う」

葵の目が潤んだ。

「……私も」

僕は微笑んだ。

「だから、今日来てくれて本当に嬉しい」

葵はそっと僕の手に触れた。

「私も、会いたかった」

◇ ◇ ◇

その瞬間、僕は気づいた。

寂しいと言うことは、弱さではない。

相手に負担をかけることでもない。

ただ、自分の気持ちを伝えることだ。

葵は、僕が寂しいと知ったからといって、自分の夢を諦めるわけではない。

僕も、彼女が寂しいと知ったからといって、すべてを解決できるわけではない。

でも、お互いの気持ちを知ることはできる。

それだけで、少し近づける。

◇ ◇ ◇

夕方、家に戻った。

葵は夕食まで一緒に過ごしてくれた。

僕たちは、引っ越しのことをもう一度話した。

新しい街での生活。

仕事。

看護。

住宅。

そして、二人の時間。

葵は真剣に聞いていた。

「春人」

「うん?」

「もし、引っ越せなかったら……」

僕は彼女を見た。

「うん」

「どうする?」

僕は少し考えた。

「そのときは、そのときで考えよう」

葵は黙った。

僕は続けた。

「別の方法があるかもしれないし、しばらく遠距離を続けることになるかもしれない」

「うん」

「でも、今すぐ答えを出さなくてもいいと思う」

葵は微笑んだ。

「……そうだね」

◇ ◇ ◇

帰る時間が近づくと、僕は少し落ち着かなくなった。

葵は荷物をまとめていた。

その姿を見ながら、胸の奥が重くなった。

また離れる。

また画面越しの会話に戻る。

また、次に会える日を数える生活が始まる。

僕はその現実が嫌だった。

でも、今度は隠さなかった。

「葵」

彼女が振り向いた。

「何?」

僕は少し笑った。

「……帰ってほしくないな」

葵の表情が和らいだ。

彼女は僕のそばに来た。

そして、そっと抱きしめてくれた。

「私も、帰りたくない」

僕は目を閉じた。

しばらく、そのままでいた。

◇ ◇ ◇

やがて、葵が小さく言った。

「でも、また会えるよ」

僕はうなずいた。

「うん」

「次に会う日も、ちゃんと決めよう」

「うん」

「それまで、いっぱい話そう」

僕は微笑んだ。

「うん」

葵は少し離れた。

そして、僕の顔を見た。

「春人」

「何?」

「私たち、大丈夫だよ」

僕は少し考えた。

そして、微笑んだ。

「……そうだね」

◇ ◇ ◇

葵が帰ったあと、部屋は急に静かになった。

いつもと同じ部屋。

同じ机。

同じ本棚。

同じ窓。

でも、何かが違って感じられた。

僕はしばらく、玄関のほうを見ていた。

それから、パソコンを開いた。

新しい文書を作った。

題名は――

葵へ

僕は少し考えた。

そして、書き始めた。

◇ ◇ ◇

葵へ。

今日、君が帰ったあと、部屋がいつもより静かに感じられた。

たぶん、それだけ君と過ごした時間が楽しかったんだと思う。

僕は昔から、自分の気持ちを言葉にするのが得意だと思っていた。

何しろ、作家を目指しているくらいだから。

でも、君のことになると、どうしてこんなに難しいんだろう。

寂しいと言えば、君を困らせるかもしれない。

会いたいと言えば、君の仕事の邪魔になるかもしれない。

そんなことばかり考えて、僕は大切なことを言えなくなっていた。

でも、今日分かった。

君は、僕が本当の気持ちを話すことを望んでくれている。

だから、これからはちゃんと言おうと思う。

僕は君が好きだ。

君と一緒にいる時間が好きだ。

君が笑う顔が好きだ。

君が仕事について夢中で話す姿も好きだ。

そして、君が自分の夢を追いかけていることを、心から誇りに思っている。

僕は少し手を止めた。

そして、続きを書いた。

僕は、君に夢を諦めてほしくない。

でも、僕自身の夢も諦めたくない。

いつか、二人で暮らせる家が欲しい。

僕が物語を書いて、君が仕事から帰ってきて、夕食を食べながら今日の出来事を話す。

そんな、何でもない毎日が欲しい。

もちろん、現実はそんなに簡単じゃない。

僕には二十四時間の専門的な看護が必要だし、住む場所を変えるだけでもたくさんの準備が必要になる。

君にも仕事がある。

僕たちには、それぞれの生活がある。

でも、それでも。

いつか同じ家に帰れる未来を、僕は望んでいる。

患者と看護師としてではなく。

誰かを守る人と、守られる人としてでもなく。

ただ、春人と葵として。

二人で選んだ人生を、一緒に生きていきたい。

◇ ◇ ◇

僕は画面を見つめた。

胸が少し熱くなった。

そして、最後の部分を書いた。

母は、僕のために扉を開こうとしてくれた。

でも、その先へ進むかどうかは、僕自身が決めることだと教えてくれた。

今、僕は一つの扉の前に立っている。

その向こうに何があるのか、まだ分からない。

でも、もし君が望んでくれるなら。

僕は、君と一緒にその扉を開けたい。

急がなくていい。

無理をしなくていい。

僕たちの歩幅で、少しずつ進んでいこう。

いつか、二人の名前が並ぶ玄関に帰れる日まで。

春人より。

◇ ◇ ◇

僕は文章を読み返した。

一度。

二度。

三度。

いつもの僕なら、もっと修正していただろう。

表現を変えて。

言葉を削って。

文章の流れを整えて。

でも、今回は違った。

完璧な文章である必要はないと思った。

ただ、僕の気持ちが伝わればいい。

僕はメールに貼り付けた。

そして、少しだけためらった。

送信ボタン。

たった一つのボタン。

でも、それを押すことが、なぜかとても勇気のいることに思えた。

僕は深く息を吐いた。

そして――

送信した。

◇ ◇ ◇

返事が来たのは、三十分ほどあとだった。

葵からだった。

僕はすぐに開いた。

そこには、短い文章が書かれていた。

春人へ。

手紙、読んだよ。

泣いちゃった。

本当に、ありがとう。

私も、春人と一緒に暮らしたい。

まだどうなるか分からないけど、二人で考えていこうね。

それから、一つだけお願い。

僕は首をかしげた。

お願い?

続きを読んだ。

新しい家では、本棚を置きすぎないでね。

僕は吹き出した。

「……そこ!?」

夏美さんが振り向いた。

「どうしました?」

僕は笑いながら答えた。

「僕の将来の家庭に、重大な問題が発生しました」

「何ですか?」

「本棚の数について意見が一致していません」

夏美さんは大笑いした。

◇ ◇ ◇

僕は葵に返信した。

それは交渉が必要だね。

すぐに返事が来た。

交渉の余地はありません。

僕は笑った。

厳しいな。

現実的なの。

少し考えた。

そして、もう一通送った。

でも、君と暮らせるなら、本棚を少し減らしてもいいかな。

数秒後、返事が来た。

……本当に?

僕は微笑んだ。

少しだけね。

葵から笑っている絵文字が届いた。

そして、そのあとに。

大好きだよ、春人。

僕は画面を見つめた。

胸が温かくなった。

ゆっくり返信した。

僕も大好きだよ、葵。

◇ ◇ ◇

その夜、僕は母の写真を見た。

そして、静かに話しかけた。

「母さん」

部屋は静かだった。

「僕、引っ越しのことを調べ始めたよ」

僕は微笑んだ。

「まだ、できるかどうか分からないけど」

写真の中の母は、いつものように優しく笑っていた。

「でもね」

僕は少し間を置いた。

「今度は、僕が自分で選んだ未来のために頑張ってみたいんだ」

胸が熱くなった。

「母さんが昔、僕のために考えてくれたみたいに」

僕は目を閉じた。

そして、ささやいた。

「今度は、僕が誰かと一緒に未来を考える番なんだね」

◇ ◇ ◇

窓の外では、夜の街が静かに広がっていた。

葵は別の街にいる。

僕はここにいる。

距離は変わっていない。

現実的な問題も、まだ何一つ解決していない。

看護。

住宅。

お金。

仕事。

そして、これからの生活。

考えなければならないことは山ほどある。

でも、僕は以前ほど不安ではなかった。

なぜなら、僕たちは少しずつ学んでいたからだ。

一緒にいるということは、必ずしも同じ場所にいることだけではない。

同じ未来を見ようとすること。

相手の夢を尊重すること。

自分の気持ちを隠さずに伝えること。

そして、何度でも話し合うこと。

僕は机の上に置かれた二つの資料を見た。

一つは、引っ越しのための確認事項。

もう一つは、母が昔書いた住宅計画のメモ。

その二つは、まったく違う時代に作られたものだった。

でも、どちらにも同じ願いが込められている気がした。

自分の人生を、自分で選ぶこと。

そして、その人生を、誰かと分かち合えること。

◇ ◇ ◇

寝る前、葵から最後のメッセージが届いた。

春人。

今日は会えて嬉しかった。

次に会う日も、楽しみにしてるね。

僕は微笑んだ。

返信した。

僕も。

少し考えた。

そして、もう一文加えた。

いつか、帰る場所が同じになったらいいね。

数秒後。

返事が届いた。

うん。いつか、きっと。

僕はその言葉を見つめた。

未来は、まだ遠かった。

手を伸ばしても、すぐには届かない。

でも、それはもう、ただの夢ではなかった。

少しずつ形を持ち始めていた。

僕たちが話し合い。

調べ。

悩み。

笑い。

そして、選び続けることで。

いつか、本当にたどり着けるかもしれない場所へ。

僕は静かに目を閉じた。

そして、心の中でつぶやいた。

葵。

僕たちの家は、まだ見つかっていない。

でも、僕たちの居場所は、もう少しずつでき始めているのかもしれないね。

そう思うと、不思議と心が温かくなった。

明日になれば、また現実的な問題が待っているだろう。

新しい書類。

新しい確認事項。

新しい不安。

そして、きっと新しい希望も。

それでも構わなかった。

僕たちは、まだ始めたばかりなのだから。

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