第73話 僕たちが選んだ夢と、交わすことを恐れていた約束の距離
人生を変える知らせというものは、もっと劇的に届くものだと思っていた。
例えば、突然の電話。
緊張した声。
あるいは、封筒に入った重要な書類。
少なくとも、何か特別な前触れくらいはあるはずだ。
ところが現実は違った。
その朝、僕は朝食を終えたばかりだった。
夏美さんはいつものように看護記録を確認していて、僕はパソコンの画面に表示された原稿を眺めながら、どうすれば架空の探偵にもう少しまともな推理をさせられるか考えていた。
そのときだった。
スマートフォンが鳴った。
画面には、葵の名前。
僕は微笑んだ。
「おはよう、葵」
返事がなかった。
「……葵?」
『春人』
その声を聞いた瞬間、僕は何かあったのだと分かった。
「どうしたの?」
『来た』
「何が?」
『結果』
僕は動きを止めた。
「面接の?」
『うん』
心臓が速くなった。
「それで?」
電話の向こうで、葵が息を吸う音がした。
そして――
『採用された』
僕は数秒間、言葉を失った。
それから、思わず笑った。
「本当に!?」
『うん!』
「葵! おめでとう!」
彼女が笑った。
でも、その笑い声は少し震えていた。
『ありがとう……』
僕は胸がいっぱいになった。
「すごいじゃないか!」
『まだ信じられない』
「僕は信じてたよ」
『嘘。昨日、私より心配してたくせに』
「それは応援の一種だから」
『どういう種類なの?』
「高度な精神的支援」
葵は吹き出した。
そして、僕も笑った。
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちはただ喜んでいた。
葵は採用通知の内容を説明してくれた。
正式な勤務開始日は、数か月後。
それまでに必要な手続きと、現在の勤務先との調整を行うことになる。
待遇や勤務条件については、正式な書面を確認したうえで返答する必要があった。
つまり、まだすべてが決まったわけではない。
でも、彼女が望んでいた仕事への扉が開いたことは確かだった。
「本当にすごいよ」と僕は言った。
葵は照れくさそうに笑った。
『そんなに褒めないで』
「どうして?」
『恥ずかしいから』
「じゃあ、もっと褒めよう」
『春人!』
「努力家で、優しくて、頭がよくて――」
『やめて!』
「しかも、僕という非常に魅力的な恋人がいる」
葵は大きなため息をついた。
『最後の一つで全部台無し』
「ひどいな」
彼女は笑った。
そして、少し静かになった。
『……春人』
「うん?」
『本当に、よかったのかな』
僕の笑顔が少し消えた。
「何が?」
『この仕事を受けること』
僕は彼女の声に耳を傾けた。
『もし正式に受けたら、今より遠くに住むことになる』
「うん」
『簡単には会えなくなるよ』
「そうだね」
『それでも……』
彼女は言葉を止めた。
僕は急かさなかった。
やがて、小さな声が聞こえた。
『私、嬉しいんだ』
僕は微笑んだ。
「それでいいんだよ」
◇ ◇ ◇
通話を終えたあと、僕はしばらく画面を見つめていた。
葵が採用された。
その事実が、何度も頭の中で繰り返された。
嬉しかった。
本当に。
彼女がどれほど努力してきたか、僕は知っている。
研修のために慣れない街へ行き、新しい知識を学び、難しい課題に向き合ってきた。
疲れた夜もあった。
自信をなくした日もあった。
それでも、彼女は諦めなかった。
だから、採用されたと聞いたとき、僕は心から誇らしかった。
ただ――
喜びのすぐ隣に、別の感情があった。
寂しさ。
不安。
そして、まだ形になっていない未来への恐れ。
僕は小さくため息をついた。
夏美さんが顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「葵が採用されたんです」
彼女の顔が明るくなった。
「それはおめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「嬉しいでしょう?」
僕はうなずいた。
「すごく」
夏美さんは僕を見つめた。
「でも?」
僕は苦笑した。
「どうして分かるんですか?」
「春人さん、嬉しいときはもっと分かりやすく嬉しそうにしますから」
「僕ってそんなに単純ですか?」
「かなり」
「ひどい」
彼女は笑った。
それから、優しく言った。
「嬉しいことと、不安なことが同時にあってもいいんですよ」
僕は黙った。
その言葉は、思っていた以上に胸に残った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、もう一つの知らせが届いた。
今度は僕宛てだった。
出版社からのメール。
僕は受信箱に表示された件名を見つめた。
『ご投稿いただいた作品について』
一瞬、心臓が止まったかと思った。
もちろん、本当に止まったわけではない。
もし止まっていたら、夏美さんがもっと大変なことになっていたはずだ。
僕はメールを開いた。
そして、ゆっくり読み始めた。
編集者は、僕の探偵小説を読んでくれたらしい。
登場人物の会話。
主人公の独特な視点。
日常の細かな描写。
そうした部分に魅力を感じたと書かれていた。
僕は思わず微笑んだ。
しかし、次の段落で表情が変わった。
物語の中盤に、展開がやや散漫になる部分がある。
事件の手掛かりが十分に整理されていない。
そして、終盤の推理には、偶然に頼りすぎている箇所がある。
僕は画面を見つめた。
「……ああ」
夏美さんが振り向いた。
「今度は何ですか?」
「探偵が、僕の知らないところで推理をサボっていたみたいです」
「え?」
「出版社から返事が来ました」
◇ ◇ ◇
メールには、現段階では出版を決定できないと書かれていた。
ただし、作品の方向性には可能性を感じているという。
大幅な改稿を行い、完成度を高めた場合には、改めて検討したいとのことだった。
再投稿の方法についても説明されていた。
僕は最後まで読んだ。
それから、もう一度最初から読んだ。
採用ではない。
契約でもない。
でも、完全に門前払いされたわけでもなかった。
それがどういう意味なのか、僕にはまだ分からなかった。
「……どう思います?」と僕は夏美さんに尋ねた。
彼女は少し考えた。
「ちゃんと読んで、具体的な意見をくれたんですよね?」
「はい」
「それなら、次に何をすればいいか分かるじゃないですか」
僕は画面を見た。
「そうですね」
少し間を置いた。
「ただ、その『次にすること』が、ものすごく大変そうなんです」
夏美さんは笑った。
「それは頑張ってください」
「冷たい」
「応援していますよ」
「言葉だけじゃなく、原稿も直してほしいです」
「それは春人さんのお仕事です」
僕は深いため息をついた。
どうやら、看護師という職業には、作家の原稿を代わりに修正する業務は含まれていないらしい。
残念だった。
非常に。
◇ ◇ ◇
僕は幸子さんにメールを転送した。
十分後、電話がかかってきた。
早い。
恐ろしく早い。
「もしもし」
『春人さん』
「はい」
『メールを読みました』
「はい」
『いい返事じゃありませんか』
僕は瞬きをした。
「……え?」
『具体的な改善点が書かれています』
「でも、出版は決まってませんよ」
『当然です』
僕は固まった。
「当然?」
『今の原稿では、終盤の論理が弱いと以前から言っていたでしょう』
僕は天井を見た。
「幸子さん」
『何ですか』
「もう少し優しく言えませんか?」
『では、優しく言いましょう』
僕は少し期待した。
『終盤の論理が、少々弱いですね』
「内容が同じです!」
幸子さんは笑った。
◇ ◇ ◇
しかし、そのあと彼女は真剣な声になった。
『春人さん。これは大切なことですよ』
僕は黙った。
『編集者は、あなたの作品に時間を使ってくれたんです』
「はい」
『そして、改善する価値があると判断した』
僕は画面を見た。
『もちろん、改稿すれば必ず出版されるという意味ではありません』
「分かっています」
『でも、あなたが作家として成長する機会にはなります』
僕はゆっくり息を吐いた。
「……そうですね」
『それに』
「それに?」
『あの探偵には、もう少し働いてもらう必要があります』
僕は笑った。
「本人は嫌がると思います」
『構いません。作者の責任です』
「ひどい職場ですね」
『あなたが経営者でしょう』
僕はまた笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は葵に出版社からの返事を伝えた。
彼女は自分のことのように喜んでくれた。
『すごいじゃない!』
「まだ出版が決まったわけじゃないよ」
『でも、読んでもらえたんでしょ?』
「うん」
『しかも、改稿の提案まで!』
僕は微笑んだ。
「そうだね」
葵は嬉しそうに笑った。
『春人、頑張ってたもん』
僕は少し照れくさくなった。
「ありがとう」
『絶対、いい作品になるよ』
「そこまで言われると、プレッシャーが」
『大丈夫』
「どうして?」
『だって、春人はしつこいから』
僕は固まった。
「……それ、褒めてる?」
『もちろん』
「母さんと同じこと言うんだね」
葵は笑った。
『じゃあ、間違いないね』
◇ ◇ ◇
しばらくして、葵が静かになった。
僕は気づいた。
「どうしたの?」
『……仕事のことなんだけど』
「うん」
『正式な条件を確認して、問題がなければ受けようと思ってる』
僕はうなずいた。
「いいと思う」
彼女は僕を見た。
『本当に?』
「うん」
『春人は……』
そこで言葉が止まった。
僕は待った。
『寂しくない?』
胸が少し痛んだ。
正直に言えば、寂しかった。
でも、それを口にすると、彼女が自分の決断を責めてしまう気がした。
だから、僕は笑おうとした。
「大丈夫だよ」
葵は黙った。
「今だって離れてるし」
『……うん』
「仕事が忙しくなるのは仕方ないよ」
『うん』
「それに、もし遠距離が大変になったら――」
僕は一瞬ためらった。
そして、言ってしまった。
「無理して続けなくてもいいから」
◇ ◇ ◇
画面の向こうで、葵の表情が変わった。
最初は驚き。
次に、困惑。
そして――
悲しみ。
『……どういう意味?』
僕は慌てた。
「いや、だから」
『春人』
彼女の声が少し低くなった。
『それって、別れてもいいってこと?』
僕の胸が締めつけられた。
「そうじゃないよ」
『じゃあ、どうしてそんなこと言うの?』
僕は答えられなかった。
葵は視線を落とした。
『私、仕事を頑張りたいって言っただけだよ』
「分かってる」
『春人と別れたいなんて、一度も言ってない』
「うん」
『なのに、どうして春人が先に諦めようとするの?』
その言葉が、胸に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
僕は黙った。
葵も黙った。
画面越しの沈黙は、同じ部屋にいるときの沈黙よりずっと重く感じられた。
彼女の表情は、怒っているというより傷ついていた。
僕は何か言わなければと思った。
でも、適切な言葉が見つからなかった。
「……葵」
『何?』
「僕は、君の邪魔をしたくないんだ」
彼女は顔を上げた。
『邪魔?』
「君には、やりたいことがある。頑張ってきた仕事がある。だから――」
『だから、私が春人を好きでいることまで、春人が決めるの?』
僕は息をのんだ。
葵の目が潤んでいた。
『私が何を大切にしたいかは、私が決めることじゃないの?』
僕は何も言えなかった。
なぜなら、そのとおりだったからだ。
◇ ◇ ◇
母が僕に残してくれた言葉。
自分の人生を選ぶ自由。
僕は、その大切さを誰より理解しているつもりだった。
なのに、葵の未来についてはどうだろう。
彼女を傷つけたくないという理由で。
彼女の負担になりたくないという理由で。
僕は、彼女が何を選ぶべきかを先回りして決めようとしていた。
それは、僕自身が嫌ってきたことと、どこが違うのだろう。
「……ごめん」
僕は小さく言った。
葵は黙っていた。
「本当に、ごめん」
『……うん』
「僕、怖かったんだと思う」
彼女が顔を上げた。
「君が遠くに行って、仕事が忙しくなって……そのうち、僕と一緒にいることが負担になるんじゃないかって」
葵の表情が揺れた。
「だから、そうなる前に、君が逃げられるようにしておこうとした」
僕は苦笑した。
「でも、それって結局、君の気持ちを聞いてなかったんだね」
◇ ◇ ◇
葵はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
『……私だって怖いよ』
僕は彼女を見た。
『新しい仕事も、引っ越しも、春人と離れることも』
「うん」
『でも、だからって、最初から諦めたくない』
僕はうなずいた。
『私は春人が好き』
胸が熱くなった。
『仕事も大切。でも、春人も大切なの』
「……うん」
『両方を大切にする方法を、一緒に考えたい』
僕は目を閉じた。
その言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいった。
「僕もだよ」
葵は少し笑った。
『じゃあ、勝手に別れ話みたいなこと言わないで』
僕は苦笑した。
「はい」
『本当に』
「はい」
『次に言ったら怒るから』
「もう怒ってるような……」
『もっと怒る』
僕は笑った。
「それは怖い」
◇ ◇ ◇
その夜の通話は、いつもより短かった。
喧嘩が完全に解決したわけではなかった。
お互い、少し疲れていた。
でも、切る前に葵は言った。
『春人』
「うん?」
『明日、また話そう』
僕は微笑んだ。
「うん」
『おやすみ』
「おやすみ、葵」
通話が終わった。
画面が暗くなった。
僕はしばらく、そのままでいた。
そして、深いため息をついた。
「……やってしまった」
◇ ◇ ◇
翌朝、由紀さんから電話があった。
どうやら葵と話したらしい。
もちろん、詳しい内容までは聞いていないようだった。
でも、僕の様子を見て、すぐに何かを察した。
「春人」
「はい」
「何かあった?」
僕は苦笑した。
「どうしてみんな、そんなに勘がいいの?」
「あなたが分かりやすいからよ」
「またそれ?」
由紀さんは笑った。
それから、僕は昨夜のことを話した。
彼女は最後まで黙って聞いてくれた。
そして、こう言った。
「あなた、葵ちゃんを守ろうとしたのね」
僕はうなずいた。
「でも、結果的に傷つけた」
「そうね」
僕はため息をついた。
「そこは否定してほしかった」
「嘘をついても仕方ないでしょう?」
「……確かに」
由紀さんは優しく微笑んだ。
「でも、ちゃんと謝れたんでしょう?」
「うん」
「それなら、次は行動で示せばいいのよ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、恵子さんから連絡があった。
母の資料の整理を続けていたところ、もう一通の手紙が見つかったという。
宛名はなかった。
日付も書かれていなかった。
ただ、最初の一行にこう書かれていた。
いつか春人の人生で、大切な存在になってくれるあなたへ。
僕はその文章を見た瞬間、胸が締めつけられた。
恵子さんは、手紙が未完成であることを説明してくれた。
母が実際に誰かへ渡すつもりだったのか、それとも自分の考えを整理するために書いたものなのかは分からない。
僕は少し迷った。
それから、読ませてもらうことにした。
◇ ◇ ◇
いつか春人の人生で、大切な存在になってくれるあなたへ。
あなたが誰なのか、私はまだ知りません。
もしかしたら、春人の友人かもしれません。
仕事仲間かもしれません。
あるいは、彼が心から愛する人かもしれません。
どんな関係であっても、どうか一つだけ覚えていてください。
春人は、誰かに守られるためだけに生きているのではありません。
彼には、自分の考えがあります。
好きなことも、嫌いなこともあります。
時には頑固で、時には生意気で、きっとあなたを困らせることもあるでしょう。
僕は思わず笑った。
「……母さん」
まったく。
亡くなってから何年も経っているのに、まだ僕の性格について余計なことを言っている。
僕は続きを読んだ。
どうか、彼をかわいそうな人として見ないでください。
彼の人生を、誰かの犠牲の上に成り立つものだと思わないでください。
彼が助けを必要とすることと、彼自身の人生を選べることは、矛盾しません。
もし彼を愛してくれるなら、彼があなたを愛することも、同じように大切にしてください。
彼に与えるものだけでなく、彼から受け取るものにも目を向けてください。
そして、どうか二人で笑ってください。
私は、春人が幸せそうに笑う顔が大好きです。
そこで、文章は途切れていた。
◇ ◇ ◇
僕は長い間、画面を見つめていた。
母は、まだ会ったことのない誰かに向けて書いていた。
いつか僕の人生に現れるかもしれない人。
僕を理解しようとしてくれる人。
僕と一緒に笑ってくれる人。
その人が誰になるのか、母は知らなかった。
でも今、僕には思い浮かぶ顔があった。
葵。
僕は目を閉じた。
昨夜の会話がよみがえった。
僕は、彼女に負担をかけたくないと言った。
でも、母は手紙の中で、僕の人生を誰かの犠牲だと思わないでほしいと書いていた。
僕は、自分がどれほどその考え方を内面化していたのか、初めて気づいた気がした。
誰かに愛されることを、申し訳なく思う必要はない。
誰かと未来を築きたいと願うことを、わがままだと思う必要もない。
もちろん、相手の希望や限界を尊重しなければならない。
でも、それは僕が勝手に相手の幸せを決めることとは違う。
僕は小さくつぶやいた。
「……ありがとう、母さん」
◇ ◇ ◇
その夕方、僕は佐藤恵美さんに連絡した。
恵美さんは、僕の生活支援に関する調整を手伝ってくれている担当者だった。
以前から、引っ越しの可能性について少し相談していた。
でも、今回はもう少し具体的に話したかった。
「こんにちは、春人さん」
「こんにちは」
「今日はどうされました?」
僕は少し緊張しながら言った。
「別の街への引っ越しについて、本格的に調べ始めたいんです」
恵美さんはうなずいた。
「分かりました。まずは、可能性を確認するところからですね」
「はい」
「希望する地域は決まっていますか?」
僕は葵が働く予定の街を伝えた。
恵美さんはメモを取った。
そして、いくつかの確認事項を説明してくれた。
現在利用している保険制度の適用範囲。
新しい地域で利用可能な看護サービス。
必要な医療機器の継続利用。
主治医や専門医との連携。
緊急時の対応体制。
バリアフリー住宅の条件。
交通手段。
そして、移行期間中に支援が途切れないようにするための調整。
僕は聞きながら、少しずつ現実の重さを感じ始めた。
◇ ◇ ◇
「……思っていたより大変ですね」
恵美さんは微笑んだ。
「簡単ではありません」
「ですよね」
「ただ、今すぐ引っ越すと決める必要はありませんよ」
僕はうなずいた。
「まずは情報を集める」
「そうです」
彼女は続けた。
「必要なサービスが確保できるかどうかを確認し、選択肢を整理してから判断しましょう」
僕は少し安心した。
「分かりました」
「それから、春人さん」
「はい?」
「今回の引っ越しは、ご自身が希望していることなんですよね?」
僕は一瞬、言葉を止めた。
そして、ゆっくり答えた。
「はい」
恵美さんは微笑んだ。
「それが大切です」
◇ ◇ ◇
通話を終えたあと、僕は新しい文書を作った。
題名は――
引っ越し計画
少し考えた。
それから書き直した。
引っ越しの可能性を調べる計画
こちらのほうが正確だった。
まだ何も決まっていない。
葵も正式な条件を確認している途中だ。
僕の支援体制が移せるかどうかも分からない。
住宅も決まっていない。
でも、調べることはできる。
質問することはできる。
可能性を一つずつ確認することはできる。
僕は項目を並べ始めた。
看護。
医療。
住宅。
交通。
費用。
仕事。
そして――
葵との生活。
最後の項目を書いたとき、自然と微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は葵にメッセージを送った。
今夜、時間ある?
数分後、返事が来た。
あるよ。どうしたの?
僕は少し考えた。
そして返信した。
ちゃんと話したい。昨日のことも、これからのことも。
すぐに返事が来た。
うん。私も。
◇ ◇ ◇
僕たちは、夕食を食べながらビデオ通話をすることにした。
いわゆる、オンラインデートだ。
葵は簡単なパスタを作っていた。
僕は看護師の支援を受けながら、いつもの夕食を楽しんでいた。
画面越しに、葵がフォークを持ち上げた。
『いただきます』
「いただきます」
しばらく、普通の話をした。
今日の出来事。
天気。
葵の研修先での出来事。
僕の原稿。
そして、幸子さんから受けた容赦のない批評。
葵は笑った。
『幸子さん、相変わらずだね』
「僕の探偵より怖いよ」
『でも、春人のこと応援してるんでしょ?』
「うん」
僕は微笑んだ。
「すごく」
◇ ◇ ◇
食事が終わるころ、僕は少し真剣になった。
「葵」
彼女は顔を上げた。
『うん?』
「昨日は、ごめん」
葵は静かに僕を見た。
「君の気持ちを勝手に決めようとした」
彼女は何も言わなかった。
僕は続けた。
「僕は、君に負担をかけたくないって思ってた。でも、それを理由に、君が何を望んでいるかを聞かずに話してしまった」
葵の表情が少し和らいだ。
『……うん』
「本当は、僕も怖いんだ」
彼女はうなずいた。
「離れて暮らすことも。君の生活が変わることも。僕たちの関係が、今までと同じじゃなくなることも」
僕は少し笑った。
「でも、怖いからって、最初から諦めたくない」
葵の目が潤んだ。
『私も』
◇ ◇ ◇
僕は今日、恵美さんと話したことを伝えた。
引っ越しについて情報を集め始めたこと。
必要な看護サービスや住宅の条件を調べること。
まだ何も保証されていないこと。
でも、可能性を探りたいと思っていること。
葵は驚いた顔をした。
『もう相談したの?』
「うん」
『春人……』
「まだ引っ越すって決めたわけじゃないよ」
僕は微笑んだ。
「でも、君と一緒に暮らせる可能性があるなら、ちゃんと調べたい」
葵は口元を押さえた。
『……ありがとう』
「お礼を言うのはまだ早いよ」
『どうして?』
「これから大量の書類仕事が待ってるから」
葵は笑った。
『そこはロマンチックに言ってよ!』
「僕たちの愛は、申請書と確認書類を乗り越えていくんだ」
『全然ロマンチックじゃない!』
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
それから、僕たちは現実的な話をした。
葵が新しい仕事を始めた場合、勤務に慣れるまで忙しくなること。
僕の引っ越しが可能かどうか分かるまで、時間がかかること。
その間、会える頻度が減るかもしれないこと。
お互いに疲れている日もあるだろう。
予定が合わないこともあるだろう。
連絡できない時間もある。
それでも、関係を続けたい。
その気持ちを、僕たちは確認した。
「無理な約束はしないようにしよう」と僕は言った。
葵はうなずいた。
『うん』
「毎日絶対に何時間も話すとか」
『それは難しい日もあると思う』
「そうだね」
僕は微笑んだ。
「でも、忙しいときは忙しいって伝える」
『寂しいときは、寂しいって言う』
「不安なときも」
『うん』
「それから……」
僕は少し照れくさくなった。
「好きだってことも、ちゃんと伝える」
葵の頬が赤くなった。
『……うん』
◇ ◇ ◇
少し沈黙が続いた。
でも、今度の沈黙は重くなかった。
葵が微笑んだ。
『春人』
「何?」
『私たち、これから大変だね』
僕は考えた。
「そうだね」
『でも……』
彼女は画面越しに僕を見つめた。
『一緒に考えられるなら、頑張れる気がする』
僕は微笑んだ。
「僕も」
◇ ◇ ◇
そのあと、僕は母の手紙のことを話した。
恵子さんが見つけてくれた、未完成の手紙。
いつか僕の人生で大切な存在になる人に宛てた文章。
葵は驚いた。
『そんな手紙があったの?』
「うん」
『読んでもいいの?』
僕は少し考えた。
「……読んでほしい」
葵は静かにうなずいた。
僕は、恵子さんから送られてきた文章を画面に表示した。
そして、ゆっくり読み上げた。
母の言葉を。
僕の人生を、誰かの犠牲だと思わないでほしいという願いを。
僕をかわいそうな人として見ないでほしいという願いを。
そして――
二人で笑ってほしいという言葉を。
読み終えたとき、葵は泣いていた。
◇ ◇ ◇
『……素敵なお母さんだね』
僕はうなずいた。
「うん」
葵は涙を拭った。
『会ってみたかった』
胸が締めつけられた。
「僕も、会わせたかった」
彼女は微笑んだ。
『きっと、たくさん質問されたんだろうね』
僕は笑った。
「十七個は覚悟したほうがいい」
『そんなに!?』
「発表中にね」
葵は吹き出した。
僕も笑った。
◇ ◇ ◇
やがて、葵は静かに言った。
『春人のお母さんが書いてくれたこと、私も大切にしたい』
僕は彼女を見た。
『春人を守るためだけに一緒にいるんじゃない』
「うん」
『春人と一緒に笑いたいし、いろんなことを経験したい』
僕の目が熱くなった。
『私が困ったときは、春人にも支えてほしい』
僕は微笑んだ。
「もちろん」
葵は少し笑った。
『でも、変な冗談ばっかり言うのは控えてね』
「それは無理な約束だな」
『春人!』
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
通話が終わる前に、僕たちは一つだけ約束した。
未来がどうなるか、今は分からない。
葵が新しい街で働き始める。
僕は原稿を改稿する。
引っ越しの可能性を調べる。
それぞれの生活が、少しずつ変わっていく。
でも、その変化を一人で抱え込まない。
不安があれば話す。
嬉しいことがあれば分かち合う。
そして、相手の未来を勝手に決めない。
「葵」
『うん?』
「僕たち、ちゃんとやっていけるかな」
彼女は少し考えた。
それから微笑んだ。
『分からない』
僕は瞬きをした。
「正直だね」
『でも、やっていきたい』
胸が温かくなった。
僕は微笑んだ。
「僕も」
◇ ◇ ◇
その夜、僕は原稿を開いた。
探偵は、物語の終盤で犯人を追い詰めようとしていた。
しかし、編集者の指摘どおり、推理の一部は偶然に頼りすぎていた。
僕は文章を読み返した。
そして、少し笑った。
「……君も、ちゃんと考えないと駄目だね」
もちろん、探偵は返事をしなかった。
架空の人物だから当然だ。
僕は最初の修正を加えた。
小さな変更だった。
でも、そこから物語が少しずつ変わり始めた。
◇ ◇ ◇
ふと、僕は思った。
人生も、似ているのかもしれない。
最初から完璧な筋書きがあるわけではない。
途中で間違えることもある。
誰かを傷つけてしまうこともある。
思いどおりに進まないこともある。
でも、そこで物語が終わるとは限らない。
書き直すことができる。
考え直すことができる。
そして、別の道を選ぶこともできる。
僕は母の写真を見た。
「母さん」
小さくつぶやいた。
「僕、また一つ決めたよ」
◇ ◇ ◇
パソコンの横には、二つの文書が開かれていた。
一つは、探偵小説の改稿計画。
もう一つは、引っ越しの可能性を調べるための計画。
どちらも、まだ始まったばかりだった。
どちらも、成功する保証はなかった。
でも、僕は不思議と落ち着いていた。
母が開こうとしてくれた扉の向こうには、まだ知らない世界が広がっている。
そして今、僕は自分の手で、次の扉を探そうとしていた。
◇ ◇ ◇
寝る前、葵からメッセージが届いた。
今日はありがとう。ちゃんと話せてよかった。
僕は微笑んだ。
返信した。
僕も。昨日は本当にごめんね。
すぐに返事が来た。
もう大丈夫。でも、次は勝手に私の気持ちを決めないでね。
僕は苦笑した。
はい、反省しています。
すると、もう一通。
それから、春人。
僕は画面を見つめた。
私は、あなたと一緒に未来を考えたい。
胸が温かくなった。
僕はゆっくり返信した。
僕もだよ。
少し考えた。
そして、もう一文加えた。
遠く離れていても、同じ未来を見ていけたらいいね。
数秒後、返事が届いた。
うん。二人で選んでいこう。
僕はその言葉を何度も読み返した。
◇ ◇ ◇
窓の外では、街の明かりが静かに輝いていた。
どこかで、葵は新しい仕事への準備を始めている。
どこかで、幸子さんは僕の探偵にさらなる試練を与える方法を考えているかもしれない。
そして僕は、これからの生活と、まだ完成していない物語の両方に向き合おうとしていた。
未来は、相変わらず不確かだった。
でも、もう以前ほど怖くはなかった。
なぜなら、僕たちはようやく理解し始めていたからだ。
愛するということは、相手の夢を自分のために小さくすることではない。
自分の夢を諦めることでもない。
お互いの選択を尊重しながら、二人で歩ける道を探していくことなのだ。
その道が、いつか同じ家の玄関へ続いているのかは、まだ分からない。
でも――
僕は、その可能性を信じてみたかった。
そして何より。
葵も、同じように思ってくれていた。
それだけで、今夜は十分だった。
僕は静かに目を閉じた。
明日になれば、また新しい問題が待っているだろう。
書類。
仕事。
原稿。
予定。
そして、きっと予想もしなかった出来事。
それでも構わない。
僕たちの物語は、まだ終わっていないのだから。




