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第72話 母が開いてくれた扉と、僕たちがこれから築いていく居場所

母の過去について調べ始めて、僕が最初に知ったこと。

それは、母が普通の人間なら一生かかっても出席しきれないほどの会議に参加していたらしい、ということだった。

本当に。

会議。

委員会。

企画会議。

相談会。

前回の会議について話し合うための追加会議。

そして、恵子さんが見つけてくれた資料を見る限り、さらに会議を開く必要があるかどうかを決めるための会議まであったらしい。

僕はパソコンの画面を見つめた。

「やれやれ……」

夏美さんが記録から顔を上げた。

「どうしたんですか?」

「どうやら母さんは、会議に出席することを職業にしていたみたいです」

夏美さんは笑った。

「そんな職業はありませんよ」

「だったら、誰かが母さんに相当な額の未払い賃金を払うべきですね」

「何を読んでいるんですか?」

「昔の地域自立生活支援事業の資料です」

「何か面白いことはありました?」

僕は少し考えた。

「あるかもしれません」

それから、新しく届いたメールを見た。

「いや……」

胸が少し高鳴った。

「かなり、あるかもしれません」

◇ ◇ ◇

そのメールは、朝食のあとに藤村恵子さんから届いていた。

件名:清水明さんに関する情報

僕はメールを開いた。

春人くんへ。以前の同僚を通じて、清水明さんと連絡を取ることができました。現在は退職されていますが、お母さんのことを覚えていらっしゃいます。あなたが希望するなら、お話ししてもいいとのことです。

僕は読むのを止めた。

そして、もう一度読み直した。

清水明。

写真に写っていた男性。

母のノートに名前が残されていた人物。

僕が自立という言葉の意味さえ理解していなかったころから、母と一緒に僕の未来の可能性を探っていたらしい人。

生きていた。

そして、母のことを覚えていた。

僕はメールを見つめた。

数秒間、どうすればいいのか分からなかった。

珍しいことだった。

普段の僕なら、どんなことに対しても意見がいくつかある。

しかも、聞かれていなくても言ってしまう。

ところが今は――

何も浮かばなかった。

◇ ◇ ◇

夏美さんが気づいた。

「春人さん?」

僕は彼女を見た。

「見つかったんです」

「誰がですか?」

「清水明さんです」

彼女の表情が和らいだ。

「お母さんと一緒に活動していた方ですか?」

僕はうなずいた。

「母さんのことを覚えているそうです」

夏美さんは微笑んだ。

「よかったですね」

僕はもう一度メールを見た。

「ええ」

少し間を置いた。

「……たぶん」

彼女は首をかしげた。

「嬉しくなさそうですね」

僕は考えた。

「ずっと、どんな人なんだろうって思っていたんです」

「そして、ようやく分かるかもしれない」

「そうなんです」

僕は母の写真に目を向けた。

「でも、聞きたくないことまで聞いてしまったら、どうしようって」

夏美さんはすぐには答えなかった。

やがて、こう言った。

「どこまで質問するかは、春人さんが決めていいんですよ」

僕はその言葉について考えた。

単純な答えだった。

でも、役に立つ答えでもあった。

一度の会話で、母の人生のすべてを知る必要はない。

話を聞いて。

質問して。

答えを理解するために時間をかければいい。

◇ ◇ ◇

僕は恵子さんに返信した。

ぜひお話ししたいです。見つけてくださってありがとうございます。

それから、もう一文加えた。

恵子さんも通話に参加していただけませんか?

数分後、返事が届いた。

もちろんよ。

僕は微笑んだ。

そして突然、気づいた。

緊張している。

ものすごく緊張している。

考えてみれば、おかしな話だった。

僕は文学交流会で人前に立って朗読した。

出版社に原稿も投稿した。

森田幸子さんの文学批評にも耐え抜いた。

引退した男性一人と話すくらい、怖いはずがない。

もっとも――

幸子さんは、母を知らなかった。

少なくとも、清水明が知っていたような母を。

そこが決定的に違っていた。

◇ ◇ ◇

ビデオ通話は翌日の午後に決まった。

当然ながら、僕はその間ずっと質問を準備していた。

大量の質問を。

昼食までに二十三個。

夕食までに三十一個。

寝るころには四十六個。

どうやら、僕が母から受け継いだのは頑固さだけではなかったらしい。

その夜、由紀さんから電話があった。

明日の面談について話すと、彼女は微笑んだ。

「清水明さん?」

「覚えてる?」

由紀さんは少し考えた。

「名前には聞き覚えがあるわ」

僕の胸が高鳴った。

「本当に?」

「美咲は、いろいろな支援の仕組みを調べるのを手伝ってくれている人たちの話をしていたから」

「その一人だった?」

「そうかもしれない。でも、はっきり言えるほど覚えていないの」

僕はため息をついた。

「やっぱり」

由紀さんは笑った。

「ごめんね」

「ううん、大丈夫」

彼女は僕を見つめた。

「緊張してる?」

嘘をつこうか考えた。

でも、やめた。

「ものすごく」

彼女の表情が和らいだ。

「どうして?」

僕は母の写真を見た。

「僕の知らない母さんを、あの人は覚えているかもしれないから」

由紀さんはうなずいた。

「それが不思議な感じなのね?」

「うん」

彼女は優しく微笑んだ。

「春人、あなたが生まれる前から、お母さんには一人の人間としての人生があったのよ。それに、あなたの病室や家の外にも、美咲自身の人生はあったの」

僕は黙った。

「だからって、あなたがお母さんを十分に知らなかったということにはならないわ」

僕は彼女を見た。

「まだ知らないお母さんの一面があるってだけよ」

◇ ◇ ◇

翌日の午後、僕は予定より十五分早く準備を終えていた。

個人的には新記録だった。

夏美さんが、僕のコミュニケーション機器を使いやすい位置に整えるのを手伝ってくれた。そのあと、必要なときに対応できるようにしながら、通常の看護業務に戻った。

僕はビデオ会議を開いた。

最初に恵子さんが現れた。

「こんにちは、春人くん」

「こんにちは」

「気分はどう?」

僕は少し考えた。

「博士論文の口頭試問を受ける直前みたいです」

彼女は笑った。

「ただのお話よ」

「難しい質問が始まる前って、みんなそう言うんです」

恵子さんは微笑んだ。

「焦らず、ゆっくりでいいからね」

僕はうなずいた。

すると、もう一人の参加者が入室した。

◇ ◇ ◇

画面に映った男性は、銀色の髪をしていた。

細いフレームの眼鏡。

きちんとアイロンのかかったシャツ。

そして、長い年月を静かに重ねてきたことが分かる顔。

写真の男性より年を取っていた。

当然だ。

どうやら時間というものは、僕の記憶に残る母の姿以外には、平等に流れ続けているらしい。

男性は眼鏡を直した。

そして微笑んだ。

「こんにちは」

僕は息をのんだ。

「こんにちは」

「高橋春人さんですか?」

「はい」

彼の表情が変わった。

大げさな変化ではなかった。

でも、僕には分かった。

「いやあ……」

彼は少しカメラに近づいた。

「大きくなりましたね」

僕は見つめた。

それから笑った。

「そうでなかったら困ります」

彼も笑った。

「確かに。失礼しました。ただ……」

その笑顔が優しくなった。

「私が最後にあなたの話を聞いたころは、まだ小さな男の子だったものですから」

◇ ◇ ◇

恵子さんが改めて僕たちを紹介してくれた。

清水明さんは、長年にわたり地域生活支援の計画に携わってきた人だった。

特に、バリアフリー住宅、教育、自立生活に関する取り組みに関わっていたという。

数年前に退職していた。

そして、当時の事業が終わってからは、僕の家族の状況に深く関わっていたわけではないと説明してくれた。

それは大切なことだった。

彼は、僕の人生を密かに追い続けていた人物ではない。

ただ、かつて母と一緒に仕事をしたことがある人だった。

そして、母を覚えていた。

「あなたのお母さんはね」と彼は話し始めた。「本当に素晴らしい方でした」

僕はかすかに微笑んだ。

「最近、いろんな人からそう言われます」

彼は笑った。

「でしょうね」

それから椅子にもたれた。

「それに、私が出会った中でも、特に粘り強い人でした」

僕はにやりとした。

「心当たりがあります」

◇ ◇ ◇

清水さんは微笑んだ。

「初めてお会いしたのは、私が地域支援の企画会議で提案を説明していたときです」

「どんな提案だったんですか?」

「住宅、日常生活の支援、専門的なケア、教育へのアクセスを連携させる初期のモデルです」

僕はうなずいた。

「母もそこに?」

「ええ」

彼は少し間を置いた。

「十七個も質問されました」

僕は瞬きをした。

「十七個?」

「発表中に、です」

僕は見つめた。

「そのあとも?」

「廊下まで追いかけてこられて、さらに十二個」

僕は吹き出した。

恵子さんも微笑んだ。

清水さんは懐かしそうに首を振った。

「あんな方には、それまで会ったことがありませんでした」

僕は考えた。

「怒っていたんですか?」

「いいえ、そういうわけではありません」

彼は微笑んだ。

「曖昧な答えに納得しない方だったんです」

僕はまた笑った。

「間違いなく母さんです」

◇ ◇ ◇

清水さんは、ある会議の話をしてくれた。

そこでは、重い身体障害のある人が施設以外の場所で生活することが現実的に可能なのか、複数の担当者が議論していたという。

ある参加者が、医療的な支援を多く必要とする人にとって、自立生活は複雑すぎるのではないかと発言した。

すると母が手を挙げた。

清水さんは、その場面をはっきり覚えていた。

「お母さんは、その方に『複雑であることと、不可能であることは同じなのですか』と尋ねたんです」

僕は動きを止めた。

「相手は何て?」

「課題について説明しようとしました」

「それで?」

「お母さんは、課題についてはすでに十分知っている、とおっしゃいました。知りたいのは、それを解決するつもりのある人がいるかどうかだ、と」

僕は画面を見つめた。

清水さんは微笑んだ。

「そして、この委員会は未来のために計画を立てるつもりなのか、それとも現在の制度が不十分である理由を説明するだけなのか、と質問されたんです」

僕は小さく笑った。

「母さんらしいです」

「ええ」

彼の表情が少し真剣になった。

「実に手ごわい方でした」

◇ ◇ ◇

僕は母の写真を見た。

何年もの間、僕は母が自分のために声を上げてくれていた姿を想像してきた。

でも、実際に交わされた会話を誰かから聞くのは、まったく違う体験だった。

母が、新しい意味で現実の人間になっていくようだった。

僕を世話してくれた女性というだけではない。

会いたくてたまらない母親というだけでもない。

知らない人たちでいっぱいの会議室に入り、相手の思い込みに異議を唱える人。

ときには周囲を居心地悪くさせる人。

難しい問題だからといって、解決できないまま放置することを認めない人。

「みんな、母の話を聞いてくれたんですか?」と僕は尋ねた。

清水さんは少し考えた。

「聞いてくれた人もいました」

僕はうなずいた。

「ほかの人は?」

「会議の準備が上手になりましたね」

僕は吹き出した。

◇ ◇ ◇

やがて、僕たちは母のノートに書かれていた提案について話し始めた。

清水さんによると、その事業は、重い障害のある若者のために、一人ひとりに合わせた生活への道筋を作ろうとする試みだったという。

目標は、普段は別々に動いている制度やサービスを連携させることだった。

教育。

バリアフリー住宅。

交通手段。

医療サービス。

専門的な看護支援。

そして、何より大切なこととして、本人の希望。

「今では当たり前に聞こえるかもしれませんが」と彼は言った。「当時は、複数の組織が一緒に計画を立てることに慣れていなかったんです」

僕はうなずいた。

「母は、僕をその事業に参加させたかったんですか?」

「将来、そういう仕組みがあなたの選択肢になり得るのか、知りたかったんです」

少し間があった。

「お母さんは、一つのことにとても気を配っていました」

「何ですか?」

「専門家があなたに何をすべきだと考えるか、それだけを基準に計画を作りたくなかったんです」

胸が締めつけられた。

清水さんは続けた。

「あなた自身に、選択肢を持ってほしかったんですよ」

◇ ◇ ◇

僕は母の手紙を思い出した。

私は扉を開こうとしているだけです。

どの扉をくぐるかは、あなた自身が決めてください。

「母も、似たようなことを書いていました」と僕は静かに言った。

清水さんは興味深そうに見た。

「そうですか?」

僕はうなずいた。

「僕への手紙に」

彼の表情が和らいだ。

「美咲さんらしいですね」

僕はためらった。

「その事業は、実現したんですか?」

彼はため息をついた。

「当初、私たちが思い描いていた形では実現しませんでした」

胸が沈んだ。

「どうしてですか?」

「資金の問題です。行政上の意見の食い違いもありました。組織の優先事項も変わりました。一部は別の事業に取り入れられましたが、提案全体が恒久的な制度になることはなかったんです」

僕はうつむいた。

「じゃあ、母さんは実現しなかったもののために頑張っていたんですね」

清水さんは首を振った。

「そうとも言い切れません」

僕は顔を上げた。

「あのころの考え方の多くは、その後の議論や個別の支援の仕組みに影響を与えました。あの一つの提案が、今ある制度を作ったとは言えません」

彼は優しく微笑んだ。

「でも、あの努力に意味がなかったとも思いません」

◇ ◇ ◇

僕は考えた。

母は何年もかけて、可能性を作ろうとしていた。

成功した取り組みもあった。

成功しなかったものもあった。

思いがけない方向へ進んだものもあった。

そして、紙の上の計画のまま終わったものもあった。

それを受け入れるのは難しかった。

僕は、母の努力が何か目に見える成果につながっていてほしかった。

指をさして言えるような何かに。

ほら。これが母さんの成し遂げたことだ。

でも、変化というものは、そういう形で起こるとは限らないのかもしれない。

もっと遅くて。

もっと複雑で。

もっとすっきりしないものなのかもしれない。

そして、恐ろしく多くの会議を必要とするものなのだろう。

◇ ◇ ◇

「個人的なことを聞いてもいいですか?」と僕は言った。

清水さんはうなずいた。

「もちろんです」

「母さんが、怖がっているように見えたことはありましたか?」

彼の表情が変わった。

しばらく黙った。

そして――

「ありました」

僕は息をのんだ。

「本当に?」

「ええ。とても」

彼は少し身を乗り出した。

「あなたの健康を心配していました。将来、必要な支援が安定して受けられるかどうかも。そして、自分がいなくなったあと、誰かがあなたの声に耳を傾けてくれるかどうかを心配していました」

僕は母の写真を見た。

清水さんは続けた。

「でも同時に、あなたの代わりに決めすぎてしまうことも心配していたんです」

喉が締めつけられた。

「手紙にも、そう書いてありました」

彼はゆっくりうなずいた。

「それをあなたに伝える方法を見つけられたのなら、よかったです」

◇ ◇ ◇

少し沈黙が続いた。

やがて清水さんが微笑んだ。

「もう少し明るい話も聞きますか?」

僕は小さく笑った。

「ぜひ」

「お母さんが、会議に手作りクッキーを持ってきたことがあるんです」

僕は瞬きをした。

「クッキー?」

「ええ」

「普通ですね」

「質問に答えてくれた人には一枚あげる、とおっしゃったんですよ」

僕は見つめた。

そして吹き出した。

恵子さんも口元を押さえた。

清水さんも一緒に笑った。

「もちろん、冗談でしたけどね」

僕は考えた。

「ほとんど?」

彼は微笑んだ。

「ほとんどです」

◇ ◇ ◇

面談が終わる前に、僕は写真に写っていた建物について尋ねた。

清水さんはうなずいた。

「よく覚えています」

「教育・福祉サービスセンターですよね?」

「ええ」

僕はためらった。

「母さんに連れられて、一度行ったことがある気がするんです」

彼は少し考えた。

「お母さんは、バリアフリー住宅のモデル展示にあなたを連れていくと話していました」

胸が高鳴った。

「本当ですか?」

「ええ。私がその日にいたかどうかは覚えていませんが、その話は記憶にあります」

僕は彼を見た。

「どんな展示だったんですか?」

「多くの支援を必要とする人が、地域でどのように暮らせるかを示すモデル住宅です」

僕は動きを止めた。

住宅。

母が訪れた場所。

僕の未来を想像した場所。

◇ ◇ ◇

清水さんによると、そのモデル住宅は期間限定の事業の一部だった。

誰かが恒久的に住むための場所ではなかった。

代わりに、バリアフリー設計と支援サービスを組み合わせることで、どんな暮らしが可能になるかを、計画担当者や家族、専門職に示すためのものだった。

広い出入口。

高さを調整できる設備。

使いやすい浴室。

医療機器を置くための空間。

専門的なケアを行う人たちのための適切な動線。

そして、普通の暮らしをするための場所。

単に医療を受けるためではない。

暮らすための場所。

その違いが、僕の心に残った。

「その部屋は、まだあるんですか?」と僕は尋ねた。

清水さんはためらった。

「建物は残っています。ただ、今その空間が何に使われているかは分かりません」

恵子さんがうなずいた。

「施設に連絡して、見学できるか聞いてみるわ」

僕は彼女を見た。

「お願いできますか?」

彼女は微笑んだ。

「聞いてみましょう」

◇ ◇ ◇

面談が終わったあとも、僕はしばらく黙っていた。

夏美さんが気づいた。

「どうでした?」

僕は彼女を見た。

「僕の知らない母さんの一面を、僕以上によく知っている人に会った気がします」

彼女は微笑んだ。

「いろいろ考えることがあったでしょうね」

「ええ」

僕は写真を見た。

「でも、よかったです」

少し間を置いた。

「本当に、よかった」

◇ ◇ ◇

その夜、葵から電話があった。

面接は翌朝だった。

当然、彼女は緊張していた。

ものすごく。

僕には、それが少しおかしかった。

葵は複雑な医療現場にも対応できる。

不安を抱えた患者さんとも落ち着いて話せる。

患者の安全のためなら、経験豊富な同僚に意見することもできる。

ところが、面接官が何人か座っている部屋は、それら全部より恐ろしいらしい。

「絶対、変なこと言っちゃう」と葵は宣言した。

僕は微笑んだ。

「たぶんね」

彼女は僕を見つめた。

「春人!」

「何?」

「そこは安心させるところでしょ!」

「安心させてるよ」

「どこが!?」

「たまに変なことを言うのは普通だって教えてる」

葵はうめいた。

「本当にどうしようもない人」

「なのに、なぜか愛されている」

彼女は笑いをこらえようとした。

失敗した。

見事に。

◇ ◇ ◇

僕たちは面接の練習をした。

なぜ退院後の在宅生活への移行を支援する看護に携わりたいのか。

研修で何を学んだのか。

患者の自己決定をどう考えるか。

患者本人と家族、医療職の意見が食い違ったとき、どう対応するか。

葵は丁寧に答えた。

ときにはためらいながら。

ときには、自分で思っている以上に自信を持って。

ある質問では、患者をただ決定を受け入れるだけの存在として扱わないことが大切だと説明した。

僕は微笑んだ。

「今の、よかったよ」

彼女は驚いた顔をした。

「本当に?」

「本当に」

少し安心したようだった。

そこで僕は付け加えた。

「僕が言いそうなことと、ほぼ同じくらいよかった」

葵は目を回した。

「はい、出ました」

◇ ◇ ◇

やがて、彼女が僕に質問した。

「春人?」

「うん?」

「もし、採用されたら……」

そこで言葉が止まった。

僕は待った。

「本当に、引っ越すことを考えてくれる?」

僕は慎重に考えた。

「うん」

葵の目が大きくなった。

「本当に?」

「考えるよ」

少し間を置いた。

「でも、すぐに実現できるとは限らないし、それが一番いい選択かどうかも分からない」

彼女はうなずいた。

「分かってる」

「でも、可能性は調べたい」

彼女の表情が和らいだ。

「私と一緒に?」

僕は微笑んだ。

「もちろん」

◇ ◇ ◇

すると、葵は思いがけないことをした。

画面を共有したのだ。

間取り図が現れた。

僕は瞬きをした。

「何、それ?」

「アパート」

「それは分かるけど」

葵は緊張したように笑った。

「今、研修している街にあるの」

僕は見つめた。

それから彼女を見た。

「葵」

「何?」

「部屋探ししてたの?」

彼女は赤くなった。

「そういうわけじゃないよ」

僕は眉を上げた。

彼女はため息をついた。

「……分かった。ちょっとだけ」

◇ ◇ ◇

その間取り図は、バリアフリー対応と宣伝されているアパートのものだった。

葵が住まいの選択肢を調べているときに見つけたらしい。

ただし、僕の実際のニーズに合うかどうか、専門的な確認を受けたわけではないと、彼女は慎重に説明した。

広告に書かれた設備だけでは不十分かもしれない。

ドアの幅。

浴室の構造。

医療機器を置く場所。

建物への出入り。

そのほかにも、確認すべきことは山ほどある。

僕は、その慎重さがありがたかった。

彼女は、これが解決策だと言っているわけではない。

ただの可能性。

それでも――

間取り図を見た瞬間、僕の中で何かが変わった。

いつか一緒に暮らしたいと話すことと、実際に部屋を見ることは違う。

壁。

ドア。

キッチン。

寝室。

いつか、二人のものになるかもしれない場所。

◇ ◇ ◇

「よし」と僕は言った。

葵が微笑んだ。

「よし?」

「想像してみよう」

彼女は首をかしげた。

「想像?」

「僕たちが一緒に住むアパートを計画しているってことにして」

葵の顔が明るくなった。

「本当に?」

「本当に」

僕は間取り図を見た。

「まず最初の質問」

「うん?」

「僕の本はどこに置く?」

葵は笑った。

「最初の質問がそれ?」

「当然でしょ」

彼女はリビングを指さした。

「ここに本棚を置く?」

僕は考えた。

「足りない」

葵は僕を見つめた。

「何冊持ってるの?」

「それは非常に個人的な質問だよ」

◇ ◇ ◇

僕たちは、想像の中で家具を配置し始めた。

僕の机には、車椅子とコミュニケーション機器を使うための十分な空間が必要だ。

寝室には、医療機器を置く場所と、看護スタッフが安全にケアを行える空間が必要になる。

浴室も、広告にバリアフリーと書かれているだけでは駄目だ。

僕の実際の身体状況に合っていなければならない。

緊急時に確実に出入りできることも大切だ。

そして、僕たち二人のプライバシーも。

葵は注意深く聞いていた。

それから尋ねた。

「春人は、自分の書斎が欲しい?」

僕は考えた。

「たぶん」

彼女は微笑んだ。

「どうして、たぶんなの?」

「葵の近くで仕事をするのもいいなって思うから」

彼女の表情が和らいだ。

そこで僕は付け加えた。

「でも、僕がどれだけ仕事をサボってるか知られたときに逃げ込む部屋も必要だからね」

葵は笑った。

「もう手遅れだよ」

◇ ◇ ◇

僕たちは、仕事と私生活の境界についても話した。

葵は看護師だ。

でも、僕の担当看護師ではない。

僕の恋人だ。

もし一緒に暮らすことになっても、その関係と僕のケア体制を混同したくなかった。

「家に帰ってまで、葵が僕のケアの責任を負っていると感じてほしくないんだ」と僕は言った。

彼女はうなずいた。

「私も、そうしたくない」

僕は彼女を見た。

「仕事から帰ったら、ちゃんと仕事が終わった状態でいてほしい」

葵は優しく微笑んだ。

「春人も、自分のケアについて自分で決め続けられないとね」

「そういうこと」

僕たちは、看護スタッフが適切に家へ出入りできることについて話した。

勤務の調整。

プライバシー。

普通の恋人同士として過ごす時間と、僕が二十四時間の看護を必要とする現実を、どう両立させるか。

あまり華やかな話ではなかった。

でも、大切な話だった。

そして不思議なことに――

話せば話すほど、未来が現実のものに思えてきた。

◇ ◇ ◇

それから葵が、間取り図に何かを書き込み始めた。

小さな机。

ソファ。

本棚。

明らかに少なすぎる本棚。

僕は抗議した。

彼女は無視した。

そして、玄関の近くに二つの名前を書いた。

春人

葵

僕は見つめた。

胸が締めつけられた。

葵は恥ずかしそうにした。

「やりすぎ?」

僕は首を振った。

「ううん」

彼女はかすかに微笑んだ。

「本当に?」

僕はもう一度、その名前を見た。

「全然」

◇ ◇ ◇

一瞬、想像した。

二人の名前が並んだ玄関。

大変な勤務を終えた葵が帰ってこられる場所。

僕が執筆の愚痴をこぼせる場所。

一緒に食事をして。

一緒に笑って。

家具のことで言い争って。

二人の人生を築いていける場所。

困難のない幻想ではない。

現実的な問題が消えてしまう完璧な世界でもない。

本当の家。

本当の責任があって。

本当の選択がある場所。

僕は微笑んだ。

「いいね」

葵の目が潤んだ。

「私も」

◇ ◇ ◇

翌朝、葵は面接を受けた。

僕は朝から、心配していないふりをして過ごした。

見事に失敗した。

何度もスマートフォンを確認した。

それからメール。

そして、またスマートフォン。

夏美さんが僕を見た。

「画面がすり減っちゃいますよ」

僕はため息をついた。

「応援しているんです」

「スマートフォンを見つめることで?」

「精神的に」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

葵から電話が来たのは、昼食の少しあとだった。

僕はすぐに応答した。

「どうだった?」

彼女は僕を見つめた。

「まずは、こんにちはでしょ」

「こんにちは。で、どうだった?」

葵はため息をついた。

「分からない」

胸が締めつけられた。

「何があったの?」

彼女は椅子に腰を下ろした。

「思っていたより質問が難しかった」

僕はうなずいた。

「うん」

「患者の自己決定とか、退院支援とか、患者本人の希望と家族の希望が食い違った場合の対応とか」

「得意分野じゃないか」

「私もそう思ってた」

葵はうつむいた。

「でも、そのあと、ずっとこの街で働く覚悟があるかって聞かれたの」

僕は黙った。

「それで?」

「答える前に、ためらっちゃった」

◇ ◇ ◇

僕は彼女を見た。

「それだけ?」

葵はうなずいた。

「この仕事には真剣に興味があるけど、もし内定をいただいたら、条件を確認して、十分考えたうえで決めたいって答えたの」

僕は見つめた。

それから微笑んだ。

「葵」

「何?」

「すごくまともな答えだよ」

彼女は眉をひそめた。

「本当に?」

「うん」

「でも、ためらっちゃったんだよ」

「大切な決断だからでしょ」

葵はまだ不安そうだった。

僕は続けた。

「まだ約束する準備ができていないことを、約束したほうがよかった?」

彼女は首を振った。

「ううん」

「だったら、正直に答えたんだよ」

葵は黙った。

それから、かすかに微笑んだ。

「そうかも」

◇ ◇ ◇

葵は面接について、さらに話してくれた。

指導役の中村理沙さんは、研修で学んだことを自分の言葉で率直に話すよう勧めてくれたという。

面接官の一人は、患者の希望を尊重するために行動した経験について尋ねたらしい。

葵は、患者本人の声を直接聞き、家族やスタッフが本人にとって何が最善かを自動的に知っていると決めつけず、適切な専門職と連携することの大切さを説明した。

僕の個人的な医療情報は使わなかった。

それは、僕たち二人にとって大切なことだった。

でも、彼女の答えの根底にある考え方はよく分かった。

そして、僕は彼女を誇りに思った。

「うまくいったみたいじゃないか」と僕は言った。

葵は弱々しく微笑んだ。

「そうかな」

僕はにやりとした。

「素晴らしい自信だね」

彼女は笑った。

「うるさい」

「なんて専門的な言葉遣いなんだ」

◇ ◇ ◇

二日後、恵子さんから再び連絡があった。

地域サービスセンターが、かつてのモデル住宅を見学させてくれることになったのだ。

その空間は、もう当初の目的では使われていなかった。

取り外された設備もある。

変更された部分もある。

でも、建物のバリアフリー設備は維持されていて、職員が当時の事業について説明してくれるという。

僕はメッセージを見つめた。

そして、由紀さんに電話した。

「一緒に来てくれる?」

彼女は迷わなかった。

「もちろんよ」

◇ ◇ ◇

見学は翌週に決まった。

由紀さんが同行する。

普段どおり、看護師が必要な専門的ケアを提供してくれる。

交通手段も事前に手配する。

建物のアクセス状況も確認する。

そして、ケアに支障が出ないように予定を調整する。

その準備はありがたかった。

たとえ僕の一部が、ただ「出かける」と宣言して、そのまま出発できたらいいのにと思っていたとしても。

でも、こうした現実的な準備こそが、その選択を可能にしてくれる。

そしてこれは、僕自身がしたい選択だった。

◇ ◇ ◇

見学当日の朝は、涼しく、よく晴れていた。

由紀さんは早めに到着した。

当然ながら。

バッグを持って。

これも当然ながら。

僕は疑わしげに見た。

「何が入ってるの?」

「必要になるかもしれないものよ」

「例えば?」

「水、ティッシュ、お菓子、書類……」

僕は微笑んだ。

「建物を見に行くんだよね? 砂漠を横断するわけじゃないよね?」

由紀さんは僕を見た。

「始めないで」

僕は笑った。

◇ ◇ ◇

車で一時間少しかかった。

僕は窓の外を流れる景色を眺めた。

店。

アパート。

公園。

学校。

どこにでもある場所。

そこで暮らす人たちは、自分たちの生活を可能にするために、どれほど多くの計画が必要だったかを意識していないかもしれない。

僕は母のことを考えた。

母も同じ道を通ったのだろうか。

同じ建物を見たのだろうか。

僕がいつか、自分で選んだ場所に住める日が来るのかと考えていたのだろうか。

分からなかった。

でも、知りたかった。

◇ ◇ ◇

到着すると、僕はほとんどすぐに建物を認識した。

広い入口。

長い窓。

屋根付きの通路。

胸が締めつけられた。

「ここだ」

由紀さんが僕を見た。

「確かなの?」

僕は入口を見つめた。

「完全には」

すると、あるものに気づいた。

ロビーの近くにある、壁が少し奥まった空間。

昔、自動販売機が置かれていた場所だ。

機械そのものは新しくなっていた。

でも、空間の形には見覚えがあった。

記憶が揺れた。

僕のそばにいる母。

話している誰か。

僕の見える位置に置かれる小さな冊子。

僕は息をのんだ。

「ここに来たことがある気がする」

◇ ◇ ◇

林さんという職員が出迎えてくれた。

彼女の説明によると、モデル住宅は昔の地域自立生活支援事業の一環として作られたものだった。

バリアフリー設計と適切な支援を組み合わせることで、日常生活をどのように支えられるかを示すための場所だった。

当初構想されていた事業全体が実現することはなかった。

でも、モデル住宅は教育目的の見学や企画の話し合いに使われていたという。

「お母様も、その議論に参加されていたようです」と林さんは言った。

僕は彼女を見た。

「母を知っているんですか?」

彼女は首を振った。

「直接は存じ上げません。昔の資料を確認したんです」

僕はうなずいた。

それは当然だった。

僕は、過去に関係するすべての人が、当時の出来事を直接見ていたわけではないと学び始めていた。

歴史は、ときに資料の中にしか残らない。

写真の中に。

そして、想像との区別が難しくなった記憶の中に。

◇ ◇ ◇

僕たちは、かつてモデル住宅だった部屋に入った。

思っていたより小さかった。

リビング。

簡易キッチン。

寝室。

バリアフリー対応の浴室。

十分な移動空間。

元の設備の一部は取り替えられていた。

残っているものもあった。

林さんは、どの設備が当初からのもので、どれが後から追加されたものなのか説明してくれた。

僕は注意深く聞いた。

それから、部屋を見渡した。

今の基準で考えれば、特別立派な場所ではなかった。

家具は普通だった。

壁も飾り気がない。

キッチンも古びていた。

でも、その空間には胸が痛くなるような何かがあった。

母は、この部屋のどこかに立っていたのだ。

テーブルのそばかもしれない。

窓際かもしれない。

そして、僕が自分の家を持つことを想像していたのかもしれない。

病室ではない。

誰かに選ばれた施設でもない。

家。

◇ ◇ ◇

由紀さんは僕のそばに立っていた。

静かだった。

僕は彼女を見た。

「どうしたの?」

彼女は寂しそうに微笑んだ。

「何でもないわ」

「それ、絶対に本当じゃないよね」

由紀さんは小さく笑った。

そして、部屋を見渡した。

「美咲が、こういう場所の話をしていたのを覚えているわ」

胸が高鳴った。

「本当に?」

「あなたが、あなたらしくいられる場所を持ってほしいって」

僕は窓を見た。

「本当にそう言ってた?」

由紀さんはうなずいた。

「まったく同じ言葉だったかは分からないけど、そういう意味だったわ」

僕は黙った。

◇ ◇ ◇

林さんは、保管されていた写真を展示した資料を見せてくれた。

そのうちの一枚には、当時のモデル住宅が写っていた。

家具の配置が違う。

カーテンはもっと明るい色だった。

窓の近くには小さなテーブルがあった。

そして、そのそばに――

母がいた。

僕は動きを止めた。

◇ ◇ ◇

母は何人かの見学者と一緒に立っていた。

片手を椅子の背に置いている。

窓のほうを見ていた。

笑ってはいなかった。

写真のためにポーズを取っているわけでもなかった。

ただ、考えていた。

僕は見つめた。

何の変哲もない写真だった。

痛いほど普通の写真。

でも、目を離せなかった。

「母さんだ」と僕はささやいた。

由紀さんが近づいた。

その目に涙が浮かんでいた。

「ええ」

◇ ◇ ◇

林さんによると、その写真は企画段階の見学会で撮影されたものだった。

添えられた記録には、参加者の名前がいくつか記されていた。

その中に、母の名前もあった。

劇的な発見ではなかった。

秘密のメッセージもない。

隠された陰謀もない。

ただ、母がここにいたという証拠。

この部屋を見たという証拠。

僕のような人間が、自分の家で暮らすとはどういうことなのか、時間をかけて考えていたという証拠。

そして、不思議なことに――

それだけで十分だった。

◇ ◇ ◇

僕はもう一度、部屋を見渡した。

壁。

出入口。

窓。

机が置かれていたかもしれない場所。

ここに立っていた母を想像しようとした。

若くて。

意志が強くて。

たぶん質問をしすぎていて。

誰かが答えるまでクッキーを渡さないと脅していたかもしれない。

僕は小さく笑った。

由紀さんが僕を見た。

「どうしたの?」

「何でもない」

彼女は眉を上げた。

僕は微笑んだ。

「この部屋を設計した人たちを、母さんが質問攻めにしているところを想像してた」

由紀さんは涙を浮かべながら笑った。

「あの人なら絶対にやったでしょうね」

◇ ◇ ◇

帰る前に、林さんは最後の資料を見せてくれた。

モデル住宅の見学時に、母が記入したアンケートの写しだった。

ほとんどは実務的な内容だった。

出入口の幅。

医療機器を置く空間。

スタッフの配置。

交通手段。

教育。

緊急時の対応。

母の字が、書ける場所という場所を埋め尽くしていた。

僕は微笑んだ。

「やっぱり」

由紀さんが笑った。

「美咲は空欄を残すのが嫌いだったからね」

すると、用紙の一番下にある手書きの言葉に気づいた。

僕は目を凝らした。

そこには、こう書かれていた。

家とは、ただ安全に保護されるだけの場所であってはならない。その人が、自分の人生を生きることのできる場所であるべきだ。

僕は見つめた。

数秒間、何も言えなかった。

◇ ◇ ◇

僕は自分のアパートを思い浮かべた。

青いドア。

本。

パソコン。

日常生活を支えてくれる看護師たち。

訪ねてきてくれる友人たち。

僕が書く物語。

愛している女性。

僕自身が下す決断。

毎日が楽なわけではない。

すべての支援が完璧に機能するわけでもない。

書類仕事に疲れ果てることもある。

怖くなることもある。

世界がもっと障壁の少ない作りだったらいいのにと思うこともある。

でも、それは僕の人生だった。

そして母は、僕がその人生を生きられるようにしたかったのだ。

◇ ◇ ◇

由紀さんが、そっと僕の肩に手を置いた。

「春人?」

僕は彼女を見た。

「大丈夫」

由紀さんは微笑んだ。

「分かってるわ」

僕はもう一度、手書きの言葉を見た。

そして、ささやいた。

「母さん、本当に信じてたんだね」

由紀さんはうなずいた。

「心の底からね」

◇ ◇ ◇

帰りの車の中で、僕はいつもより静かだった。

由紀さんは無理に話しかけてこなかった。

それがありがたかった。

言葉は、簡単に出てくるときもある。

何しろ、僕は作家だ。

読点の位置について何時間でも議論できる。

でも、ときには――

言葉がまったく足りないように感じる。

母がかつて僕の未来を想像していた部屋に立ったことを、どう説明すればいいのだろう。

感謝と悲しみが入り混じった、この不思議な気持ちを、どう表現すればいいのだろう。

母が僕の自立を信じていたと知った喜び。

そして、僕が実際に築いた生活を母が見られなかった悲しみ。

分からなかった。

だから、窓の外を流れる景色を見ながら考えていた。

◇ ◇ ◇

その夜、葵から電話があった。

見学の話を聞くのを待っていたらしい。

「どうだった?」

僕は少し考えた。

「……感情が忙しかった」

葵は優しく微笑んだ。

「そうなんだ?」

僕はうなずいた。

「本当に、母さんがあそこにいたんだ」

葵は静かに聞いていた。

「あの部屋に」

僕は母の写真を見た。

「母さんは、あの部屋に立って、僕があんな場所で暮らす未来を想像していたんだ」

喉が締めつけられた。

「そして今、僕はそうしてる」

葵の目に涙が浮かんだ。

「春人……」

僕はかすかに微笑んだ。

「見せてあげたかったな」

◇ ◇ ◇

葵はしばらく黙った。

それから言った。

「お母さんを愛していた人たちが、どれほど春人を信じていたか、これからも教えてくれるんじゃないかな」

僕は考えた。

「すごく看護師らしい答えだね」

彼女は小さく笑った。

「褒めてる?」

「もちろん」

僕は微笑んだ。

「それに、また泣きそうになってきた」

「ごめん」

「ひどいベッドサイドマナーだ」

葵は笑った。

◇ ◇ ◇

僕たちは、一緒に想像したアパートの話をした。

間取り図。

本棚。

書斎。

キッチン。

玄関の横に並んだ二つの名前。

葵は微笑んだ。

「あの絵、まだ取ってあるよ」

僕は瞬きをした。

「本当に?」

「もちろん」

僕は彼女を見た。

「どうして?」

葵は首をかしげた。

「春人との未来を想像するのが好きだから」

胸が温かくなった。

僕は微笑んだ。

「書類仕事が山ほどあっても?」

彼女は笑った。

「山ほどあっても」

◇ ◇ ◇

それから葵は真剣な表情になった。

「春人?」

「うん?」

「仕事の結果、まだ来てないんだ」

僕はうなずいた。

「そっか」

「心配しないようにしてるんだけど」

「うまくいってる?」

「全然」

僕は笑った。

「ようこそ、心配性の会へ」

彼女は微笑んだ。

「これからどうなるか、分からないね」

僕は考えた。

それから彼女を見た。

「僕にも分からない」

葵はうなずいた。

「でも……」

僕は微笑んだ。

「まだ、全部分かってなくてもいいんだよ」

◇ ◇ ◇

通話を終えたあと、僕は執筆ソフトを開いた。

真っ白なページを見つめた。

しばらく、探偵のことを考えた。

他人の秘密を調べることに日々を費やす男。

自分の感情を理解するのが苦手な男。

いつもコーヒーに失望しているような顔をした男。

それから、書き始めた。

ミステリーではない。

小説の一章でもない。

ただ、いくつかの文章だった。

母はかつて、一つの部屋に立ち、当時の僕には理解できなかった未来を想像していた。

その計画が成功するかどうか、母には分からなかった。

世界が、それを可能にするほど変わるかどうかも分からなかった。

そして、自分が用意しようとしている人生を、僕自身が望むかどうかも分からなかった。

僕は手を止めた。

そして、続きを書いた。

それでも母は、その扉を開こうとした。

◇ ◇ ◇

僕は母の写真を見た。

それから、葵が送ってくれた画像を見た。

想像の中のアパート。

玄関の横に並ぶ二つの名前。

春人。

葵。

僕は微笑んだ。

長い間、僕は未来というものを、たどり着かなければならない場所だと思っていた。

遠くで待っているもの。

いつか、手に入れることを許されるかもしれないもの。

でも今――

少しずつ分かり始めていた。

未来は、ただの目的地ではない。

人が築いていくものなのだ。

決断によって。

努力によって。

助け合いによって。

妥協によって。

勇気によって。

そして、ときには――

笑ってしまうほど大量の書類仕事によって。

◇ ◇ ◇

僕は青い玄関のドアを見た。

母は、僕がどこで暮らすかを自分で選べるようにするため、何年も努力してくれた。

僕がこのアパートに入るところを、母は見ることができなかった。

でも、僕は入った。

自分で選んだ。

ここを、自分の家にした。

そして、いつか――

もしかしたら――

僕は別のドアを選ぶのかもしれない。

二人の名前が並んだドア。

葵と人生を分かち合う場所へ続くドア。

母が計画したからではない。

誰かが期待しているからでもない。

僕たち自身が、そう望むからだ。

◇ ◇ ◇

僕は文書に戻った。

そして、最後の一文を書いた。

母が僕に残してくれた最大の贈り物は、未来の計画ではなかった。

自分自身の未来を計画する自由だった。

僕は二度読み返した。

それから保存した。

外では、街がいつもどおりの夜を迎えていた。

どこかで幸子さんが、架空の登場人物を批判しているのだろう。

どこかでリクが、またコーヒーとの勝負に負けたような顔の探偵を描いているのだろう。

どこかで恵子さんが、母の残した物語を丁寧に守ってくれているのだろう。

そして別の街では、葵が自分の仕事がどこへつながるのか、結果を待っている。

僕たちの未来は、まだ不確かだった。

でも、不確かであることが、以前ほど怖くなくなっていた。

僕は一人で向き合っているわけではないからだ。

◇ ◇ ◇

寝る前に、僕はもう一度、母の写真を見た。

「母さん?」

部屋は静かだった。

「今日、行ってきたよ」

僕はかすかに微笑んだ。

「母さんが見に行ったアパート」

目が熱くなった。

「今はもう、そんなに立派な場所じゃなかったけど」

僕は小さく笑った。

「でも、母さんがどうしてあそこに行ったのか、少し分かった気がする」

僕は自分の家を見渡した。

本。

机。

写真。

丁寧に整えられた生活空間。

僕の人生。

そして、ささやいた。

「母さんは、僕のために扉を開いてくれたんだね」

頬を涙が一筋流れた。

「そして今……」

僕は微笑んだ。

「次の扉を、自分で開く方法を学んでいるところだよ」

◇ ◇ ◇

パソコンを閉じようとした、そのときだった。

葵からメッセージが届いた。

写真だった。

以前見せてくれた間取り図。

そこに、小さなものが一つ追加されていた。

玄関に書かれた二人の名前の横に、小さなハートが描かれていた。

その下には、こう書いてあった。

いつか、二人の準備ができたら。

僕は見つめた。

それから微笑んだ。

その日がいつ来るのか分かっているからではない。

どうやって実現するのか分かっているからでもない。

ただ、葵もその答えを探したいと思ってくれているから。

僕と一緒に。

僕は返信した。

いつか。二人で。

数秒後、画面に三つの点が現れた。

そして、彼女から返事が届いた。

ずっと一緒に。

僕は画面を見つめた。

そして、その日初めて、未来が今すぐ答えを出さなければならない問題には思えなくなった。

それは、僕がまだ書き続けていてもいい物語のように思えた。

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