第71話 過去が残した約束と、まだ選び方を学んでいる僕たちの未来
僕が作家として出版への道を歩み始めて最初に学んだのは、編集者から名刺をもらっただけでは本は出版されない、ということだった。
残念だ。
実に残念だった。
個人的には、もっと簡単な仕組みであるべきだと思う。
朗読会のあと、編集者が声をかけてくる。
作品を気に入ったと言ってくれる。
連絡先を交換する。
すると、どこからともなく出版契約書が現れる。
書店に自分の本が並ぶ。
そして僕は、できれば座り心地のいい椅子に座りながら、そこそこ立派な印税を受け取る。
ところが――
現実は、そう甘くなかった。
「またその名刺を眺めているんですか?」
僕は夏美さんのほうを向いた。
「重要な文学活動をしているんです」
「名刺を眺めることが、ですか?」
「はい」
「どれくらい続けているんです?」
少し考えた。
「四十三分です」
夏美さんは笑った。
「ずいぶん生産的ですね」
「ありがとうございます」
「皮肉ですよ」
「励ましの言葉として受け取ることにします」
◇ ◇ ◇
名刺はキーボードの横に置かれていた。
白い、小さな長方形の紙。
そこには、ある独立系文芸出版社の編集者の名前が印刷されていた。
見た目には、特別なところなんて何もない。
ただ一つを除けば。
その人は、僕の書いたものを読みたいと思って、この名刺を渡してくれたのだ。
僕がかわいそうだからではない。
僕の人生を感動的な記事にできそうだと思ったからでもない。
電動車椅子に乗った若者が人前に出たというだけで、何か素晴らしいことを成し遂げたと考えたからでもない。
僕の文章を読んでみたいと思ってくれたからだ。
僕は何度も、その違いについて考えていた。
それは大切なことだった。
自分でも説明できないほどに。
文学交流会では、僕は短編ミステリーの一節を朗読した。
すべての時計が違う時刻で止まっている廃屋を、探偵が調査する物語だ。
観客は笑ってほしいところで笑ってくれた。
謎が深まる場面では静かになった。
朗読が終わると、何人もの人が登場人物について話しかけてくれた。
そして、その編集者が自己紹介をしてくれたのだ。
もっと作品を読んでみたい、と。
もちろん、出版社の正式な投稿手続きを通して。
何かを約束されたわけではない。
契約もない。
出版される保証もない。
それでも――
誰かが僕の作品を読みたいと思ってくれた。
僕はもう一度、名刺を見た。
「額に入れて飾ろうかな」
夏美さんが微笑んだ。
「まだ原稿も送っていないのに?」
「やる気を高めるための飾りです」
「原稿を送ったほうが、生産的じゃありませんか?」
僕はため息をついた。
「文学的な雰囲気を台無しにしないでください」
◇ ◇ ◇
午前十一時までに、僕は七つの原稿を開いていた。
七つ。
どれも完成している。
どれも、それなりに推敲してある。
そして、どれも突然ひどい作品に思えてきた。
実に興味深い現象だった。
書いているときは、十分に面白いと思っていた。
いや、かなり面白いと思うことさえあった。
ときには傑作だとすら思った。
ところが、文学作品を評価するのが仕事の人に送ろうと考えた瞬間――
すべての文章が、自分の無能さを証明する証拠に変わってしまうのだ。
僕は探偵小説の冒頭を読み返した。
森探偵が死者の家で最初に気づいたのは、誰かが花に水をやっているということだった。
僕は眉をひそめた。
いい書き出しだろうか?
たぶん。
印象に残るだろうか?
もしかしたら。
編集者が読んだ瞬間に原稿をゴミ箱へ放り込みたくなる文章だろうか?
ほぼ間違いなく。
僕は目を閉じた。
「やっぱりジャガイモ農家のほうが楽かもしれない」
夏美さんがこちらを見た。
「またジャガイモですか?」
「ジャガイモは文学批評をしませんから」
「でも、栽培しないといけませんよ」
「些細な問題です」
◇ ◇ ◇
正午、森田幸子さんがやって来た。
投稿する作品を選ぶのを手伝ってくれることになっていた。
僕はそれを、精神的な支援の申し出だと勘違いしていた。
違った。
まったく違った。
幸子さんは書類の入ったフォルダーを抱え、教育的な目的で誰かの自尊心を徹底的に解体する準備ができたような顔で部屋に入ってきた。
「それで?」
僕は彼女を見た。
「こんにちは、くらい言ってくれてもいいんじゃありません?」
「原稿は決めたの?」
「もう少しです」
彼女の目が細くなった。
「何本?」
「七本」
じっと見つめられた。
「七本?」
「十二本から絞りました」
幸子さんは目を閉じた。
「まったく……」
「進歩ですよ」
「瀕死のカタツムリ並みの速さね」
僕は微笑んだ。
「それでも進歩です」
◇ ◇ ◇
最初に、消えた絵画を題材にした作品を読んでもらった。
幸子さんは三ページ読んで、顔を上げた。
「導入が遅すぎるわ」
僕はため息をついた。
「でしょうね」
二本目は、謎の遺産をめぐる物語だった。
設定は気に入ったらしい。
中盤は気に入らなかった。
結末については、そこそこ頭のいい飼い猫でも予想できると言われた。
そこまで具体的に言う必要があったのだろうか。
三本目は密室事件。
手がかりの配置は評価された。
しかし、探偵の性格が気に入らなかったらしい。
「この男、我慢ならないわ」
「わざと腹の立つ人物にしているんです」
「程度というものがあるでしょう」
「主人公ですよ」
「だからって許されるわけじゃないわ」
僕は彼女を見つめた。
「本当に手厳しい人ですね」
「だからあなたの文章が上達するのよ」
残念ながら――
またしても正論だった。
◇ ◇ ◇
結局、文学交流会で朗読した作品に戻ることになった。
廃屋。
止まった時計。
消えた写真。
そして、死んだ男が書いたとされる手紙。
幸子さんは冒頭を慎重に読んだ。
そして読み進めた。
さらに読み進めた。
二十分近く、何も言わなかった。
珍しいことだった。
普段なら、二段落目に到達する前に何かしら批判を見つける人なのに。
僕は心配になってきた。
眠ってしまったのだろうか。
体調が悪くなったのだろうか。
それとも、ついに僕の文章が彼女から言葉を奪ったのだろうか。
やがて幸子さんは顔を上げた。
「これね」
僕は瞬きをした。
「本当に?」
「ええ」
「どうしてです?」
「読者が謎の存在に気づく前から、すでに謎が始まっているからよ」
僕は考えた。
幸子さんはページを指で軽くたたいた。
「花はありふれたもの。でも、無人の家で誰かに水をやられているはずがない」
僕は微笑んだ。
「そのとおりです」
「そして探偵は、それに気づく」
「はい」
彼女はうなずいた。
「いいわね」
僕はじっと見つめた。
幸子さんが眉をひそめた。
「何?」
「いえ、別に」
「だったら、そんな顔で見ないでちょうだい」
「何かをけなす前に、純粋に褒めてもらったのがいつだったか思い出そうとしているだけです」
少し考えたあと、幸子さんは言った。
「慣れないことね」
◇ ◇ ◇
それから二時間、僕たちは原稿を見直した。
小さな修正もあった。
同じ情報を繰り返している文章。
必要以上に長い会話。
美しいけれど、物語には何の役にも立っていない描写。
もっと大きな修正もあった。
幸子さんは、探偵の動機に疑問を呈した。
感情的な意味を、もっと明確にするべきだと言う。
大げさにするのではない。
感傷的にするのでもない。
ただ、人間らしく。
「どうしてこの男は事件にこだわるの?」
「探偵だからです」
「それは職業であって、動機じゃないわ」
僕は考えた。
「答えの出ない疑問が嫌いなんです」
「クロスワード好きの人だってそうでしょう」
僕はため息をついた。
「楽しんでますよね?」
「とても」
僕は問題の場面を見つめた。
探偵は、人物だけが丁寧に切り取られた写真で埋め尽くされた部屋に立っていた。
誰かが、ある人物の存在した痕跡を消そうとしていたのだ。
殺したわけではない。
肉体的な意味では。
ただ、その人物がかつて家族の一員だったという証拠を、すべて消し去ろうとしていた。
僕は黙った。
「もしかすると、自分と重ねているのかもしれません」
幸子さんがこちらを見た。
「どういうこと?」
「彼は何年も、人から見過ごされてきたんです。周囲は彼を無視して話すし、勝手に決めつける。本人が何か言う前に、考えていることまで決められてしまう」
少し間を置いた。
「だから、誰かが家族の歴史から意図的に消されたと知って、他人事だと思えなくなる」
幸子さんは僕を見つめた。
そして微笑んだ。
「それよ」
僕は眉をひそめた。
「何がです?」
「それが、あなたの物語なのよ」
◇ ◇ ◇
午後も半ばになったころ、リクが修正したキャラクターイラストを持ってやって来た。
ありがたい中断だった。
幸子さんはその直前まで十五分間、ある段落がいかに大げさかを説明していた。
僕も同じ十五分間、その段落を守ろうとしていた。
どちらも勝っていなかった。
リクはタブレットを持って入ってきた。
「探偵、描き直しました」
僕は即座に警戒した。
前回のイラストでは、四十代で少し太り気味、常に疲れているはずの探偵が、爽やかなアクションヒーローになっていた。
片手で国際犯罪組織を壊滅させられそうな男だった。
僕の探偵は、階段を上るだけでも文句を言うような人物なのに。
「よし、見せて」
リクが画面をこちらに向けた。
僕は見つめた。
そこにいた。
僕の探偵が。
四十代の男。
少し太り気味。
疲れた目。
乱れた髪。
明らかに耐用年数を超えていそうなコート。
片手には紙コップのコーヒー。
その表情は、コーヒーに個人的な裏切りを受けた男そのものだった。
僕は微笑んだ。
「完璧」
リクの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「まさに彼だよ」
リクはほっと息をついた。
「普通すぎるかと思っていました」
「それがいいんだ」
幸子さんが身を乗り出した。
イラストをじっくり眺めた。
無言で。
そして――
「暗すぎるわね」
僕は目を閉じた。
「勘弁してくださいよ」
◇ ◇ ◇
リクが不安そうに尋ねた。
「変えたほうがいいですか?」
「いや」
幸子さんは腕を組んだ。
「自分の葬式に出席しているような顔よ」
「これが彼の普段の顔なんです」
「だったら、もっといい人生を送らせてあげなさい」
「それがシリーズのテーマなんです!」
リクが笑い始めた。
僕は彼を見た。
「笑わないで」
ますます笑われた。
幸子さんはイラストを見つめ続けた。
「せめて、もう少し温かみのある表情も見せなさい」
僕は考えた。
そして、あることを思いついた。
「この絵じゃなくてもいいかもしれません」
幸子さんがこちらを見た。
「説明して」
「別のイラストで、笑っている姿を描くのはどうでしょう?」
「誰に向かって?」
少し考えた。
「娘に」
幸子さんが黙った。
リクは興味深そうに身を乗り出した。
「設定資料に出てきた娘さんですか?」
僕はうなずいた。
「うん。仕事をしていないときの彼を知っているのは娘なんだ。読者にも、いつかその姿を見せたい」
幸子さんはかすかに微笑んだ。
「それなら、掘り下げる価値がありそうね」
僕はため息をついた。
「素晴らしい。本人の意思に反して、うちの探偵に人間味が加わってしまいました」
◇ ◇ ◇
リクが帰ったあと、幸子さんと僕は出版社の投稿規定に戻った。
僕はイラストについて尋ねた。
「これも一緒に送ったほうがいいですか?」
「出版社はイラストを求めているの?」
「いいえ」
「だったら送らないことね」
少し考えた。
「確かに」
幸子さんは僕を見た。
「それと、リクくんの絵を使って出版するなら、権利関係をきちんと話し合っておきなさい」
「話してますよ」
「話し合うことと、合意することは違うわ」
僕はため息をついた。
「芸術家同士の共同制作を、確定申告みたいに言わないでください」
「誰かが言わなきゃいけないでしょう」
幸子さんは指を折りながら説明した。
「著作権の帰属。複製や掲載の許可。クレジット表記。必要なら報酬。企画が変わった場合の扱い」
僕は聞いていた。
正しかった。
またしても。
実に困った傾向だった。
結局、投稿するのは原稿だけにした。
リクとは、正式な書面で取り決めを整えるまで、イラストの制作を別の共同作業として続けることにした。
それが賢明だった。
退屈だけど。
賢明だった。
どうやらプロの作家になるには、文章を書く以上に書類仕事が必要らしい。
うちの探偵が仕事を嫌う理由が分かってきた。
◇ ◇ ◇
午後四時二十三分。
僕はついに原稿を送信した。
メールが下書きフォルダーから消えた。
確認メッセージが表示された。
投稿を受け付けました。
僕は画面を見つめた。
しばらく、何も起こらなかった。
花火もない。
拍手もない。
天使の合唱もない。
ただ、いつか誰かが読んでくれるかもしれない場所へ原稿が届いたという、小さな通知だけだった。
僕は微笑んだ。
「送りました」
幸子さんがうなずいた。
「よかったわね」
僕は待った。
彼女がこちらを見た。
「何?」
「それだけですか?」
「何を期待していたの?」
「分かりませんけど。紙吹雪とか?」
幸子さんは少し考えた。
「原稿を空中にばらまいてあげましょうか?」
僕は笑った。
「やめてください」
「だったら文句を言わない」
◇ ◇ ◇
幸子さんが帰ったあと、僕はしばらく机の前にいた。
やり遂げたのだ。
出版社に自分の作品を投稿した。
誰かに、障害についての感動的な話を書けと言われたからではない。
僕の境遇が珍しいからでもない。
ただ存在しているだけで、知らない人から拍手をもらいたかったからでもない。
僕が書きたかったからだ。
登場人物を作るのが好きだから。
ミステリーが好きだから。
僕の作品を読んだ誰かに、次はどうなるのだろうと思ってほしいから。
僕はパソコンの横にある母の写真を見た。
「さて」と小さくつぶやいた。
「また一つ、できたよ」
写真の中の母は、変わらず微笑んでいた。
そして一瞬、何もかも話せたらいいのにと思った。
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話があった。
彼女が何かを抱えていることは、口を開く前から分かった。
画面に映った葵は、いつもの私服姿だった。
髪は少し乱れている。
疲れているようにも見えた。
でも、それだけではなかった。
僕には見覚えのある緊張が、その表情に浮かんでいた。
「やあ」
「うん、こんばんは」
葵は微笑んだ。
それから目をそらした。
僕は少し考えた。
「心配したほうがいい?」
彼女は緊張したように笑った。
「ううん」
少し間があった。
「……たぶん」
僕は眉を上げた。
「安心できる答えだね」
葵はため息をついた。
「春人?」
「うん?」
「面接に呼ばれたの」
僕は動きを止めた。
◇ ◇ ◇
「正職員の?」
葵がうなずいた。
「今、研修している病院?」
「うん」
僕は彼女を見つめた。
それから微笑んだ。
「すごいじゃないか」
葵も微笑んだ。
でも、その笑顔はどこか慎重だった。
「本当に?」
「もちろん」
彼女は僕の顔をじっと見た。
「春人」
僕はため息をついた。
「分かった」
葵は待っていた。
「嬉しいよ」
「うん」
「でも、怖い」
彼女の表情が柔らかくなった。
「私も」
◇ ◇ ◇
しばらく、どちらも何も言わなかった。
その可能性は以前からあった。
研修先の病院に、正職員の募集があるかもしれないと葵は話していた。
でも、可能性について話すことと、実際に面接へ呼ばれることは違う。
面接に呼ばれたということは、誰かが彼女の仕事を見ていたということだ。
能力を評価し、採用を検討する価値があると思ってくれたのだ。
僕は彼女を誇りに思った。
心から。
でも、それが何を意味するか、考えずにはいられなかった。
葵が別の街で正職員として働くことになれば、僕たちの遠距離恋愛は当分続くことになる。
そして、それを変えたいと思うなら――
僕たちは決断しなければならない。
本当の決断を。
ロマンチックな宣言ではない。
漠然とした、いつかという約束でもない。
住まい。
仕事。
交通手段。
看護サービス。
医療機関。
保険の認可。
そして、僕の日常生活を支えている複雑な仕組み。
僕はスーツケース一つで簡単に引っ越せるわけではない。
だからといって、僕を愛しているせいで不便になるからと、葵に仕事を諦めてほしくもなかった。
僕は彼女を見た。
「その仕事、やってみたい?」
葵はためらった。
「……たぶん、やってみたい」
僕はうなずいた。
「だったら、面接に行くべきだよ」
◇ ◇ ◇
彼女は僕を見つめた。
「そんな簡単に?」
「まあ、日程を調整して、きちんとした服を着て行く必要はあると思うけど」
葵は笑った。
「春人」
「何?」
「真面目に話してるの」
「僕も真面目だよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「面接は内定じゃない」
「うん」
「内定が出たとしても、受けると決めたわけじゃない」
彼女はうなずいた。
「そうだね」
「だから、まだ起きていないことについて、今すぐ結論を出す必要はないよ」
葵はうつむいた。
「私があなたより別の街を選んだって、思ってほしくないの」
胸が締めつけられた。
僕は慎重に答えを考えた。
「葵が僕より街を選んでいるとは思わないよ」
彼女は顔を上げた。
「努力してきた仕事の可能性を、追いかけるかどうか考えているんだ」
葵の目が潤んだ。
僕は続けた。
「その可能性を、ちゃんと持っていてほしい」
◇ ◇ ◇
しばらく黙っていた葵が、やがて口を開いた。
「ときどき、自分がわがままなんじゃないかって思う」
僕は眉をひそめた。
「どうして?」
「だって、ここに残りたいと思う自分がいるから」
「わがままじゃないよ」
「でも、春人とも一緒にいたい」
僕は優しく微笑んだ。
「その二つは、必ずしも両立しないわけじゃない」
「そうかもしれない」
彼女はため息をついた。
「でも、難しいかもしれない」
僕はうなずいた。
「たぶんね」
葵は寂しそうに笑った。
「全然ロマンチックじゃないね」
少し考えた。
「劇的な愛の宣言でもしたほうがいい?」
葵が眉を上げた。
「例えば?」
僕はできる限り真剣な表情を作った。
「山を越え、海を渡り、嵐と果てしない夜を乗り越え、僕たちの愛は都市間における専門看護サービス調整という行政上の悪夢を打ち破るだろう」
葵は僕を見つめた。
そして吹き出した。
「春人!」
僕はにやりと笑った。
「何?」
「ひどすぎる!」
「でも正確だよ」
葵はますます笑った。
◇ ◇ ◇
笑いが落ち着くと、僕はまた真剣になった。
「僕を傷つけるのが怖いからって、決めてほしくない」
葵は僕を見た。
「私も、私を失うのが怖いからって、春人に決めてほしくない」
少し考えた。
「じゃあ、正直になるしかないね」
彼女はうなずいた。
「言いにくいことでも」
「特に、そういうことこそ」
僕たちは見つめ合った。
違う街にいる二人。
愛し合っている二人。
でも、未来がどんな形になるのか、まだ分からない二人。
やがて葵が微笑んだ。
「抱きしめたいな」
胸が締めつけられた。
「僕も」
彼女は首をかしげた。
「せめて、抱きしめてるふりをしてもいい?」
僕は微笑んだ。
「どうぞ」
葵は自分の身体に腕を回した。
僕は小さく笑った。
「なかなか説得力があるね」
彼女はにやりとした。
「専門的な研修を受けてますから」
「看護研修には遠距離ハグも含まれてるの?」
「上級課程なの」
僕は微笑んだ。
「ぜひ受講したいな」
◇ ◇ ◇
翌朝、藤村恵子さんから電話があった。
連絡を待っていたところだった。
母のノートが見つかって以来、恵子さんは保管資料を慎重に調べ、どの部分を僕に共有できるか確認してくれていた。
中には第三者の個人情報を含むページもある。
慎重に扱う必要があることは理解していた。
手続きがもっと早く進めばいいのにとは思っていたけれど。
「おはよう、春人くん」
「おはようございます」
「少し時間はある?」
僕は微笑んだ。
「恵子さんのためなら、いつでも」
彼女は笑った。
「優しいのね」
「それに、原稿の推敲から逃げているところです」
「じゃあ、いい気分転換になるわね」
僕はにやりとした。
「何か分かったんですか?」
少し間があった。
「清水明さんについて、さらに記録が見つかったの」
僕は動きを止めた。
◇ ◇ ◇
その名前。
母のノートに書かれていた名前だ。
清水明さんによれば、もっと柔軟な道筋を作れる可能性があるらしい。次の会議のあとに確認すること。
その言葉は、寝ていても暗唱できそうなほど何度も読んでいた。
でも、清水明が何者なのか。
母が何を意味していたのか。
まだ分からなかった。
「どんな人だったんですか?」
「確認できた範囲では、重い障害のある人たちの地域生活や教育機会に関する取り組みに参加していた方よ」
僕は眉をひそめた。
「どんな取り組みですか?」
「普段は別々に扱われている支援を、連携させようという試みね」
「例えば?」
「住まい、教育、交通、専門的なケア、それから本人が自分で決めるための支援」
僕は黙った。
その言葉には聞き覚えがあった。
報告書で読んだからではない。
僕自身の生活を表していたからだ。
◇ ◇ ◇
「母は、僕を何かの制度に申し込ませようとしていたんでしょうか?」
「可能性はあるわ。でも、正式に申し込んだと確認できる資料はないの」
「じゃあ、何が分かっているんですか?」
「会議に出席し、質問をして、あなたのためにもっと柔軟な仕組みを作れないか調べていたことよ」
僕は部屋を見渡した。
使いやすいように配置された家具。
パソコン。
細かく考えられた生活空間。
青い玄関のドア。
それらを実現するためには、長い年月と多くの努力が必要だった。
「そのころ、僕は何歳だったんですか?」
恵子さんは少しためらった。
「最も古い記録は、あなたがまだかなり幼かったころのものみたい」
僕は息をのんだ。
「そんなに先のことまで考えていたんですか?」
「可能性を探していたのよ」
「そのころから?」
「ええ」
僕は窓のほうを見た。
外では、いつもどおりの生活が続いていた。
車が通り過ぎる。
歩道を人が歩く。
建物の近くに配送トラックが止まる。
そして過去のどこかで、母は会議室に座り、まだ僕自身が想像することもできなかった未来を思い描いていたのだ。
◇ ◇ ◇
「清水さんは、母に何か約束したんでしょうか?」
恵子さんは慎重に答えを選んだ。
「ノートを見る限り、ある選択肢について調べると申し出たようね」
「どんな選択肢ですか?」
「それを今、調べているところなの」
僕はため息をついた。
「また謎ですか」
「そうなのよ」
「このままだと、母のほうが僕より優秀なミステリー作家になってしまいそうです」
恵子さんは小さく笑った。
「あなたを好奇心いっぱいにさせるのが上手な人だったもの」
僕は微笑んだ。
そして、別の疑問が浮かんだ。
「清水さんが今も生きているか、分かりますか?」
「まだ分からないわ。信頼できる情報を探してみる」
僕はうなずいた。
「ありがとうございます」
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
電話を切る前に、恵子さんはもう一つ教えてくれた。
「同じ時期の資料が、ほかにも残っているかもしれないの」
僕は身を引き締めた。
「どんなものですか?」
「写真や会議の要約、手紙のやり取りなどね」
胸が高鳴った。
「見せてもらえますか?」
「関係があって、適切に共有できるものならね」
僕は微笑んだ。
「分かりました」
恵子さんは少しためらった。
「春人くん?」
「はい?」
「一つ覚えておいてほしいことがあるの」
僕は待った。
「お母さんはいろいろな可能性を探していたわ。でも、そのすべてが計画になったわけではないし、計画が全部実現したわけでもないの」
僕は考えた。
「早合点するな、ということですね」
「そういうこと」
僕はかすかに微笑んだ。
「ミステリー作家には難しい注文ですね」
「分かってるわ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、佐藤恵美さんが、僕の自立生活を支える体制について定期的な確認に訪れた。
この面談は、以前から予定されていたものだった。
でも、葵と話したあとでは、急に重要なものに思えた。
恵美さんはタブレットを持って机の向かいに座った。
「最近、生活のほうはどうですか?」
少し考えた。
「短い説明と長い説明、どちらがいいですか?」
彼女は微笑んだ。
「まずは短いほうで」
「文学交流会に参加して、出版社への投稿を勧められて、母の過去について新しい情報が見つかって、恋人が別の街で正職員になれるかもしれないと分かりました」
恵美さんは僕を見つめた。
そして、ゆっくりタブレットを下ろした。
「いろいろありましたね」
僕はうなずいた。
「大人になるという制度の返金を申請したいところです」
◇ ◇ ◇
僕たちは現在の支援体制を確認した。
専門的な看護ケアの提供。
欠員が出た場合の代替要員。
医療機器の点検。
利用可能な交通手段。
緊急時の対応計画。
医療機関との連携。
僕が自立して暮らすために必要な、実務的な仕組みの数々だった。
恵美さんが、よく誤解されることを理解してくれているのはありがたかった。
自立とは、すべてを身体的に一人で行うことではない。
自分の人生について、実質的な決定権を持つことだ。
どこに住むか。
何を目指すか。
誰と時間を過ごすか。
どんな未来を望むか。
それらを自分で決めること。
僕が受けている専門的なケアは、その自立を損なうものではない。
むしろ、それを可能にするものだった。
◇ ◇ ◇
やがて、僕は葵の面接について話した。
恵美さんは注意深く聞いてくれた。
そして尋ねた。
「引っ越しを考えているんですか?」
僕は考えた。
「分かりません」
彼女はうなずいた。
「それでいいと思います」
「本当に?」
「もちろんです。まだ判断するための情報が足りませんから」
僕はかすかに微笑んだ。
「自分にもそう言い聞かせています」
恵美さんは新しいメモを開いた。
「もし可能性を調べたいと思ったら、確認すべきことを整理できますよ」
「例えば?」
「移転先で必要な専門看護サービスを受けられるか。保険の認可がどうなるか。利用できる住居。交通手段。医療の継続性。緊急時の対応体制」
僕はうなずいた。
「それから、全部整えるのにどれくらいかかるか」
「そのとおりです」
僕は彼女を見た。
「最初から不可能と決まっているわけじゃないんですね」
「調べもしないうちから、不可能とは言えません」
僕は微笑んだ。
「でも、簡単ではない」
「ええ」
彼女は少し間を置いた。
「それに、今日決める必要はありませんよ」
◇ ◇ ◇
その言葉は、最近の僕の人生でとても人気があった。
今日決める必要はない。
ありがたい考え方だった。
でも、大人になるというのは、十分な情報が集まって決断がさらに恐ろしくなるまで、決断を先延ばしにすることなのではないかと思い始めていた。
それでも――
助けにはなった。
引っ越しの可能性を、最初から否定するのではなく、調べることができると分かったからだ。
約束されたわけではない。
保証されたわけでもない。
ただ、調べられる。
今は、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
金曜日の午後、恵子さんから再び電話があった。
声の調子がいつもと少し違っていた。
心配しているわけでもない。
興奮しているわけでもない。
何かをじっくり考えているようだった。
「春人くん、少し時間はある?」
僕は微笑んだ。
「恵子さんのためなら、いつでも」
彼女は笑った。
「優しいのね」
「それに、また別の章の推敲から逃げているところです」
「じゃあ、ちょうどよかったわね」
僕はにやりとした。
「何が見つかったんですか?」
少し間があった。
「写真よ」
僕は動きを止めた。
◇ ◇ ◇
その写真は、地域生活と教育についての地方会議の資料と一緒に保管されていた。
母も参加していた。
ほかにも、ソーシャルワーカーや支援活動家、支援団体の代表者たちが参加していた。
その中に、清水明という名前で紹介された男性がいた。
恵子さんは、僕に見せても問題ないと確認された写真の写しを共有してくれた。
僕は画面を見つめた。
古い写真だった。
少し色あせている。
何人かの人が、建物の前に立っていた。
母は中央付近にいた。
僕の記憶にある母より若い。
髪も短い。
明るい色の上着を着ていた。
そして、笑っていた。
病室で見せていた、疲れた笑顔ではなかった。
僕を安心させようとするときの笑顔でもなかった。
違う笑顔だった。
自信に満ちていて。
楽しそうで。
まるで何かを勝ち取ったかのような笑顔。
僕は見つめた。
「母さんだ」
恵子さんの声が優しくなった。
「ええ」
僕は息をのんだ。
「楽しそうですね」
「信じていることに取り組んでいたのよ」
僕はゆっくりうなずいた。
◇ ◇ ◇
母の隣には、黒髪で眼鏡をかけた男性が立っていた。
三十代か四十代くらいに見える。
少しぎこちない笑顔だった。
写真の説明には、清水明と書かれていた。
僕はその顔をじっと見た。
何も浮かばなかった。
見覚えもない。
突然よみがえる記憶もない。
ただの知らない男性だった。
それでも――
彼は、母にとって大切な会話に関わっていたらしい。
「見覚えはある?」と恵子さんが尋ねた。
「ありません」
僕はさらによく見た。
そして、動きを止めた。
男性のせいではない。
その後ろにある建物のせいだった。
◇ ◇ ◇
入口に、どこか見覚えがあった。
幅の広い階段。
長い窓。
建物の片側へ伸びる屋根付きの通路。
僕は見つめた。
すると、記憶が浮かんできた。
はっきりしたものではない。
断片のようなものだった。
車椅子のそばに立つ母。
大きな建物。
話している人たち。
僕に小さな冊子を渡す誰か。
そして、入口の近くにある自動販売機。
僕は眉をひそめた。
「恵子さん?」
「何?」
「ここに行ったことがある気がします」
彼女は黙った。
「確かなの?」
「いいえ」
僕はもう一度写真を見た。
「でも、こんな場所を覚えているんです」
◇ ◇ ◇
恵子さんの説明によると、会議が開かれたのは地域の教育・福祉サービスセンターだった。
その建物では、長年にわたってさまざまな公開イベントが開催されていたという。
母が僕を連れて行った可能性はあった。
でも、写真だけでは分からない。
「僕が参加した記録はありますか?」
「今のところはないわ」
「残っている可能性は?」
「あるかもしれない。確認できるものを探してみるわ」
僕はうなずいた。
そして、再び母を見た。
写真の中の母は、とても生き生きとしていた。
自信に満ちていて。
計画でいっぱいだった。
思いがけない痛みが胸に広がった。
母が不幸そうだったからではない。
僕の知らない幸せそうな顔をしていたからだ。
母の人生には、僕が知らない部分があった。
僕だけを中心に回っていたわけではない夢。
友人関係。
仕事。
目標。
そして僕は今になって、ようやくそれらを知り始めていた。
◇ ◇ ◇
「もう一つあるの」と恵子さんが言った。
僕は顔を上げた。
「やっぱり」
彼女は優しく微笑んだ。
「ノートと一緒に、別の書類が保管されていたの」
僕は待った。
「手紙の下書きよ」
胸が高鳴った。
「母からの?」
「ええ」
「誰に宛てたものですか?」
恵子さんはためらった。
「あなたによ」
僕は動きを止めた。
◇ ◇ ◇
数秒間、言葉が出なかった。
それから――
「僕に?」
「ええ」
僕は写真を見た。
「送ったものなんですか?」
「いいえ。確認できる範囲では、完成も送付もされていないようね」
僕は息をのんだ。
「何が書いてあるんですか?」
恵子さんは少し黙った。
「かなり個人的な内容もあるわ」
僕は彼女を見た。
「読めますか?」
「ええ。該当するページは確認が済んでいるから、写しを共有できるわ」
胸が締めつけられた。
「お願いします」
◇ ◇ ◇
数分後、書類が届いた。
僕は開いた。
筆跡は間違いなかった。
母の字だった。
上部に日付はない。
題名だけがあった。
春人へ――あなたが理解できる年齢になったときに
僕は見つめた。
そして、読み始めた。
◇ ◇ ◇
大切な春人へ。
あなたが大人になったとき、分かってほしいことがあります。
お母さんは、精いっぱい頑張ったということです。
いつも何をすべきか分かっていたからではありません。
いつも正しい決断ができたからでもありません。
ただ、ほかの人たちがあなたの代わりに決めてしまおうとすることを、あなた自身が選べるようにしたかったのです。
僕は読むのを止めた。
目が熱くなった。
そして、続きを読んだ。
自分が頑張りすぎているのではないかと怖くなる日があります。
逆に、まだ頑張りが足りないのではないかと怖くなる日もあります。
あなたの健康が心配です。
あなたのケアに責任を持つ人たちが、きちんとあなたの声を聞いてくれるか心配です。
私がいなくなったとき、誰があなたのために質問してくれるのかと心配になります。
喉が締めつけられた。
そして、ときどき、こんなことを考えてしまう自分が恥ずかしいのですが、私があなたのために作ろうとしている未来は、あなた自身が望まない未来なのではないかと不安になります。
僕はその言葉を見つめた。
◇ ◇ ◇
僕は長い間、母を、いつも何をすべきか分かっている人だと思っていた。
強い人。
意志の固い人。
迷わない人。
会議室に入って、周囲の人たちに自分の話を聞かせる人。
僕の人生を、他人が勝手に決めた限界によって定義されることを拒んだ人。
確かに母は、そういう人だった。
でも――
怖がることもあったのだ。
迷うことも。
途方に暮れることも。
自信を失うことも。
僕と同じように。
◇ ◇ ◇
僕は続きを読む。
あなたには、安心できる場所で暮らしてほしい。
あなたを尊重してくれる人たちから、必要なケアを受けてほしい。
興味のあることを何でも学んでほしい。
友達を作ってほしい。
そして、あなたが望むなら、恋もしてほしい。
視界がにじんだ。
それから、私と意見が違ってもいいという自由を持ってほしい。
僕は止まった。
その一文は、思った以上に胸に刺さった。
僕は、大人になってから母と意見が食い違うことを、ほとんど想像したことがなかった。
そんな話ができる前に、母は亡くなった。
自分が何を望んでいるのか伝える前に。
母には理解できなかったかもしれない選択をする前に。
母が会うことのできなかった僕になる前に。
◇ ◇ ◇
最後の段落は、途中で終わっていた。
あなたが自分で決断し始めるとき、もし私がそばにいられなかったら、どうか覚えていてください。
私の計画は、あなたの義務になるためのものではありません。
私は扉を開こうとしているだけです。
どの扉をくぐるかは、あなた自身が決めてください。
そして――
何もなかった。
手紙はそこで終わっていた。
署名もない。
最後の別れの言葉もない。
説明もない。
ただ、書きかけの思いだけが残っていた。
十分な時間を与えられなかった女性が残した、未完成の言葉。
◇ ◇ ◇
夏美さんが静かにティッシュを差し出してくれるまで、自分が泣いていることに気づかなかった。
僕は受け取った。
しばらく、何も言えなかった。
アパートは静かだった。
パソコンの横には母の写真がある。
そして画面には、母が会うことのできなかった未来の僕に向けて書いた言葉があった。
伝えたいことが、あまりにもたくさんあった。
自分のアパートに引っ越したこと。
僕の選択を尊重してくれる人たちに出会えたこと。
物語を書いていること。
出版社の人が僕の作品を読みたいと言ってくれたこと。
恋をしたこと。
母の計画が無駄ではなかったこと。
でも、それだけではない。
僕の人生は、母が想像したものとまったく同じではないこと。
そして、それでも母が喜んでくれたらいいと思っていること。
◇ ◇ ◇
その夜、由紀さんに電話した。
すぐに応答してくれた。
「春人?」
「こんばんは」
由紀さんは僕の表情を見た。
「どうしたの?」
僕はかすかに微笑んだ。
「何でもないよ」
彼女は眉を上げた。
「もう一度言ってみて」
僕はため息をついた。
「恵子さんが、あるものを送ってくれたんだ」
由紀さんは静かになった。
「美咲からの?」
僕はうなずいた。
「手紙」
彼女の表情が変わった。
◇ ◇ ◇
僕は手紙の内容を話した。
全部ではない。
自分だけのものにしておきたい言葉もあった。
でも、十分に伝わるくらいには。
由紀さんは最後まで口を挟まずに聞いてくれた。
話し終えると、彼女は目元を拭った。
「美咲らしいわね」
僕は彼女を見た。
「母さんって、そんなに心配していたの?」
由紀さんは寂しそうに笑った。
「ああ、春人」
僕は待った。
「あの人は、何でも心配していたわ」
僕は涙を浮かべながら微笑んだ。
「本当に?」
「何でもよ」
彼女は首を振った。
「医師や管理職の人たちが大勢いる部屋に入って、誰が相手でも一歩も引かずに議論できる人だった」
僕は小さく笑った。
「それなのに家に帰ると、自分が何か間違ったことを言わなかったかって悩んでいたのよ」
僕は黙った。
由紀さんは寂しそうに微笑んだ。
「美咲は勇敢だったわ、春人」
少し間があった。
「でも、怖いものがなかったわけじゃないの」
◇ ◇ ◇
僕は母の写真を見た。
「忘れていた気がする」
由紀さんはうなずいた。
「子供って、そういうものよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「大人になった子供でも?」
「大人になった子供こそ、よ」
しばらく静かになった。
そして僕は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「母さん、がっかりすると思う?」
由紀さんは眉をひそめた。
「何に?」
「僕が、母さんの計画どおりに生きていないことに」
彼女は僕を見つめた。
そして笑った。
意地悪な笑いではない。
軽くあしらうような笑いでもない。
心から信じられないというような笑いだった。
「春人」
「何?」
「さっき話してくれた手紙、本当に読んだの?」
僕は弱々しく微笑んだ。
「読んだつもりだけど」
「美咲は、あなたに自分で決めてほしかったんでしょう?」
「うん」
「だったら、自分で決めたことにどうしてがっかりするの?」
僕は考えた。
そして、珍しく――
何も答えられなかった。
◇ ◇ ◇
そのあと、葵から電話があった。
まだ手紙のことは話していなかった。
彼女はすぐに、僕の様子がいつもと違うことに気づいた。
「こんばんは」
「こんばんは」
葵は僕を見つめた。
「大丈夫?」
僕はかすかに微笑んだ。
「難しい質問だね」
彼女はうなずいた。
「話してくれる?」
僕は話した。
◇ ◇ ◇
写真のこと。
清水明のこと。
子供のころに行ったかもしれない建物のこと。
そして最後に――
手紙のこと。
葵は静かに聞いてくれた。
母が、僕に恋をしてほしいと書いていた部分を話すと、彼女の目に涙が浮かんだ。
僕は微笑んだ。
「どうやら、何でも計画していたみたいだね」
葵は小さく笑った。
「素敵なお母さんだね」
「うん」
僕は写真を見た。
「でも、怖がっていたんだ」
葵はうなずいた。
「たいていの人は、そうだと思う」
少し考えた。
「葵も?」
彼女は眉を上げた。
「春人」
「何?」
「私なんて、半分くらいの時間は怖がってるよ」
僕は笑った。
「本当に?」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「ただ、怖さに全部の決断を任せないようにしているだけ」
◇ ◇ ◇
僕は葵の面接について考えた。
自分のアパート。
引っ越しの可能性。
僕たちの未来がまだ分からないこと。
そして、彼女を見た。
「一つ聞いてもいい?」
「何でも」
「仕事を選ぶことで、僕を失うかもしれないって怖い?」
葵の表情が変わった。
数秒間、何も言わなかった。
そして――
「うん」
胸が締めつけられた。
僕はうなずいた。
「僕も怖い」
葵は僕を見た。
「でも、挑戦しなかったらって考えるのも怖いの」
僕は寂しそうに微笑んだ。
「分かるよ」
彼女は息を吸った。
「いつか振り返ったとき、勇気を出していたらどうなっていたんだろうって後悔したくない」
僕はうなずいた。
「だったら、行って」
彼女は瞬きをした。
「え?」
「面接に」
葵はかすかに微笑んだ。
「春人……」
「本気だよ」
僕は彼女を見た。
「何ができるのか、確かめておいで」
◇ ◇ ◇
葵は黙った。
それから尋ねた。
「私たちは?」
僕は考えた。
「僕たちも、何ができるのか確かめよう」
彼女は微笑んだ。
「一緒に?」
「一緒に」
僕は母の手紙を見た。
「計画は義務になるためのものじゃないって、教えてくれた人がいるんだ」
葵は首をかしげた。
「お母さん?」
僕はうなずいた。
「うん」
そして微笑んだ。
「なかなか賢い人だったみたい」
葵は小さく笑った。
「そうみたいだね」
◇ ◇ ◇
僕たちはさらに一時間ほど話した。
現実的なことも話した。
移動。
予定。
会いに行く機会。
何かを決める前に、どんな情報が必要なのか。
でも、まったくくだらないことも話した。
例えば、僕の探偵にペットを飼わせるべきかどうか。
葵は猫を提案した。
僕は反対した。
あの探偵は、自分の面倒を見ることすらまともにできない。
すると葵は、それがいいんじゃないかと言った。
僕は考えた。
そして、不本意ながら正しいかもしれないと認めた。
困ったことに、僕より登場人物の扱いがうまい女性が、人生に二人もいることになった。
実に由々しき事態だった。
◇ ◇ ◇
通話を終える前に、葵が静かになった。
「春人?」
「うん?」
「誇りに思ってるよ」
僕は微笑んだ。
「何を?」
「出版社に原稿を送ったこと」
「ああ」
「それから、ちゃんと正直に話してくれたこと」
僕は彼女を見た。
「言いにくいことでも?」
葵はうなずいた。
「特に、そういうことこそ」
僕は微笑んだ。
「僕も葵を誇りに思ってるよ」
彼女は小さく笑った。
「何を?」
「何かを望む勇気があること」
葵の目が潤んだ。
それから微笑んだ。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
通話を終えたあと、僕は机に戻った。
目の前には三つのものがあった。
原稿を投稿したという確認。
母と、まだよく知らない男性が一緒に写っている写真。
そして、母が書き終えることのできなかった手紙。
三つの紙。
三つの違う不確かさ。
一つは、僕の執筆活動の未来に関するもの。
一つは、過去に関するもの。
そして一つは、僕が今も築こうとしている人生に関するもの。
僕は長い間、それらを見つめていた。
それから、新しい文書を開いた。
◇ ◇ ◇
一番上に、こう書いた。
まだ分からないこと
ずいぶん野心的な題名だった。
この一覧だけで、何冊も本が書けそうだ。
それでも――
僕は書き始めた。
出版社が僕の作品を受け入れてくれるかどうか。
清水明が、母にとって本当はどんな存在だったのか。
葵が仕事を得られるかどうか。
いつか僕たちが同じ街で暮らせるかどうか。
母の計画が、思いもしなかった場所へ僕を導くのかどうか。
僕は止まった。
一覧を読み返した。
そして、ため息をついた。
「いやはや」
天井を見た。
「ずいぶん明るい話だね」
◇ ◇ ◇
それから、二つ目の見出しを作った。
僕にできること
慎重に考えた。
そして、また書き始めた。
書き続けること。
質問すること。
信頼できる人たちと協力すること。
怖くないふりをせずに、葵を応援すること。
答えの出ていない疑問をすべて陰謀だと決めつけず、母の人生について学ぶこと。
十分な情報が集まったときに、自分で決めること。
そして、未来が分からないからといって、自分に決定権がないわけではないと覚えておくこと。
最後の一文を二度読んだ。
そして微笑んだ。
これは大切なことのように思えた。
◇ ◇ ◇
外では、街がいつもどおりの夕暮れを迎えていた。
どこかで幸子さんが、架空の登場人物と口論しているのだろう。
どこかでリクが、紙コップのコーヒーに負けたような顔の探偵を描いているのだろう。
どこかで恵子さんが、母の残した記録を慎重に調べてくれているのだろう。
そして別の街では、葵が自分の未来を変えるかもしれない面接に向けて準備している。
僕たちの未来を。
僕はもう一度、写真を見た。
母は午後の日差しの下で、世界を少しでも暮らしやすくできると信じていた人たちと並んで笑っていた。
彼らは、ある部分では成功したのかもしれない。
別の部分では、失敗したのかもしれない。
僕には分からない。
でも、彼らが思い描いた可能性の中には、追い求める価値のあるものがあった。
僕は、その生きた証拠だった。
◇ ◇ ◇
僕は机の上の母の写真に顔を向けた。
「母さん?」
アパートは静かなままだった。
「少し分かってきた気がするよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「母さんは、僕の人生を代わりに書こうとしていたんじゃないんだね」
目が熱くなった。
「僕自身が、自分の人生を書けるようにしてくれていたんだ」
しばらく、何も言わなかった。
それから――
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
寝る支度をする直前、恵子さんからもう一通メールが届いた。
僕は開いた。
短いメッセージだけだった。
春人くんへ。お母さんと清水明さんが参加した、その後の会議についての記録が見つかりました。メモによると、あなたの将来の教育と生活環境に関する具体的な提案について話し合ったようです。現在、詳細を確認し、関連書類を共有できるか調べています。分かり次第、また連絡します。
僕は見つめた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
新しい手がかり。
新しい疑問。
母の人生の、まだ知らない一部分。
僕は原稿の投稿確認を見た。
それから葵の写真を。
最後に、手紙を。
過去は、まだ語り終えていなかった。
未来は、まだ形を決めていなかった。
そして、どうやら――
僕自身も、まだ完成していないらしい。
僕は文書を保存した。
パソコンを閉じた。
そして、次の日を迎える準備をした。
まだ理解しなければならない約束がある。
追いかけたい夢がある。
書きたい物語がある。
そして、これから選ばなければならない道がある。
でも、長い間感じられなかったことを、今は感じていた。
もう、誰かが進むべき道を教えてくれるのを待っているわけではない。
僕は、自分でその道を選び始めていた。




