第70.5話 ハロウィン特別編:ハロウィンを無事に乗り越えたら、隣に並んで走ってもいいですか?
十月三十一日。
ハロウィン。
子供たちがお菓子をもらい、大人たちが仮装を楽しみ、普段なら絶対に許されないような格好で街を歩いても誰も気にしない日。
そして僕にとっては――
叔父が僕のアパートを破壊しようとする日だった。
比喩ではない。
少なくとも、本人にそのつもりはなかったと思う。
「春人! 見てくれ!」
玄関の向こうから聞こえてきた大地さんの声には、危険なほどの自信が満ちていた。
僕はパソコンの画面から視線を上げた。
「嫌な予感しかしないんだけど」
勤務中の夏美さんが笑った。
「まだ何も見ていないじゃないですか」
「だから怖いんです」
その瞬間――
玄関のチャイムが鳴った。
続いて、機械的な声が響いた。
『ようこそ、死者の館へ!』
僕は目を閉じた。
「……引っ越したい」
夏美さんは笑いをこらえていた。
「まだ始まったばかりですよ」
「それが一番恐ろしいんです」
◇ ◇ ◇
大地さんは、両手いっぱいに箱を抱えて現れた。
後ろには由紀さんがいた。
彼女の表情から判断するに、すでに何度か夫の行動を止めようとして失敗したらしい。
「春人! 今年は特別なハロウィンにしようと思ってな!」
僕は箱を見た。
「その中に爆発物は入ってないよね?」
「何を言ってるんだ!」
「前科があるから」
「ないぞ!」
由紀さんが小さく咳払いした。
「去年のクリスマスツリー」
大地さんは黙った。
僕はうなずいた。
「前科がある」
◇ ◇ ◇
箱の中には、光るカボチャ、動く骸骨、蜘蛛の巣の飾り、そして小型のスピーカーが入っていた。
さらに、大地さんが自慢げに取り出したのは、ハロウィン専用の装飾制御装置だった。
「これが今年の目玉だ!」
僕は装置を見つめた。
「何をするものなの?」
「照明、音声、動く飾りを一括管理できる!」
「つまり、家中を騒がしくする機械?」
「雰囲気を作る機械だ!」
由紀さんがため息をついた。
「私には違いが分からないわ」
大地さんは気にしなかった。
「安心しろ。春人の医療機器には一切接続しない。別のネットワークで動かすし、電源も独立させてある」
僕は少し安心した。
「そこはちゃんと考えてくれたんだね」
「当然だ!」
夏美さんが確認するように尋ねた。
「人工呼吸器やほかの医療機器の電源系統にも影響しませんね?」
「もちろんです。設置場所も事前に確認しました」
「それなら、装飾として楽しめそうですね」
僕は二人を見た。
「僕の意見は?」
大地さんは満面の笑みを浮かべた。
「楽しみにしてるんだろう?」
「聞いてないよね?」
◇ ◇ ◇
一時間後。
僕のアパートは、低予算のホラー映画の撮影現場になっていた。
本棚には蜘蛛の巣。
窓際には光るカボチャ。
玄関には骸骨。
そして天井の隅には、なぜか逆さまのコウモリが五匹。
もちろん偽物だ。
本物だったら、僕は警察ではなく不動産会社に電話していたと思う。
「どうだ!」
大地さんは誇らしげだった。
僕は部屋を見渡した。
「すごいね」
「だろう!」
「家賃が下がりそう」
由紀さんが笑った。
大地さんは聞こえなかったふりをした。
◇ ◇ ◇
最後に装置の電源が入れられた。
カボチャが光った。
骸骨が腕を上げた。
スピーカーから低い笑い声が流れた。
そして――
『おはようございます、陛下!』
沈黙。
僕はゆっくり大地さんを見た。
「……また?」
大地さんは装置を見つめた。
「おかしいな」
由紀さんは額を押さえた。
「前に使った設定が残ってるんじゃないの?」
「そんなはずは……」
『陛下、本日の死者の数はゼロ名です!』
僕は考えた。
「それは朗報だね」
夏美さんが吹き出した。
◇ ◇ ◇
昼過ぎには、リクが訪ねてきた。
僕たちは共同制作する短編の挿絵について話す予定だった。
しかし、彼は部屋に入った瞬間、立ち止まった。
「……すごいですね」
僕は微笑んだ。
「助けて」
リクは笑った。
「ハロウィンらしくていいと思います」
「じゃあ、骸骨を一体持って帰る?」
「え?」
「無料だよ」
そのとき、骸骨が突然振り向いた。
『逃げられないぞ!』
リクは飛び上がった。
僕はうなずいた。
「どうやら、持ち帰りは拒否されたみたい」
◇ ◇ ◇
幸子さんが現れたのは、その十五分後だった。
彼女は玄関の飾りを見た。
それから僕を見た。
「何か悪いことでもしたの?」
僕はため息をついた。
「叔父さんが来たんです」
「なるほど」
納得するのが早すぎた。
幸子さんは部屋に入った。
骸骨が腕を上げた。
『ようこそ、永遠の眠りへ!』
彼女は骸骨を見つめた。
「ずいぶん失礼な子ね」
僕は笑った。
「機械ですよ」
「だから何?」
骸骨は沈黙した。
僕は考えた。
機械にも恐怖心があるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
午後三時。
最初の奇妙な出来事が起きた。
僕はリクとイラストの修正案を確認していた。
幸子さんは、僕の短編に登場する探偵の表情について、非常に厳しい意見を述べていた。
「この顔では駄目ね」
リクが困ったように尋ねた。
「どうしてですか?」
「賢そうすぎるわ」
僕はうなずいた。
「そのとおりです」
リクは僕を見た。
「主人公ですよね?」
「うん」
「賢そうじゃ駄目なんですか?」
僕は考えた。
「実際には賢いんだけど、そう見えないほうが面白いんだ」
幸子さんは満足そうだった。
「ようやく分かってきたわね」
「僕が作者なんですけど」
そのとき――
部屋の照明が一度だけ暗くなった。
◇ ◇ ◇
全員が顔を上げた。
次の瞬間、カボチャの目が赤く光った。
『春人』
機械的な声が響いた。
僕は固まった。
『春人』
もう一度。
リクが装置を見た。
「名前を呼ぶ設定もあるんですか?」
僕は眉をひそめた。
「聞いてない」
幸子さんは腕を組んだ。
「大地さんの仕業でしょう」
僕もそう思った。
少なくとも、そのときは。
『お母さんのことを覚えている?』
部屋が静かになった。
僕は画面を見つめた。
今の言葉は、明らかにおかしかった。
◇ ◇ ◇
「……何?」
リクが小さく言った。
幸子さんの表情が変わった。
「春人くん」
僕は装置を見た。
「大地さんが、こんなことを設定するはずない」
そのとき、夏美さんが装飾用の電源スイッチを切った。
音声は止まった。
カボチャの光も消えた。
静寂。
幸子さんが尋ねた。
「大地さんに確認したほうがいいわね」
僕はうなずいた。
でも、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
これは単なる故障ではない。
少なくとも――
そう思い始めていた。
◇ ◇ ◇
大地さんに電話すると、彼は最初、何かの冗談だと思った。
「春人の名前を呼んだ?」
「うん」
「母親のことまで?」
「うん」
長い沈黙。
「そんな音声は入れてないぞ」
僕は目を閉じた。
「だよね」
大地さんの声が真剣になった。
「装置の電源は切ったか?」
「夏美さんが切ってくれた」
「そのままにしておいてくれ。設定を確認する」
「分かった」
僕は少し間を置いた。
「大地さん?」
「何だ?」
「今年のハロウィン、もう十分怖いよ」
彼は笑わなかった。
◇ ◇ ◇
午後四時半。
今度は僕のパソコンにメールが届いた。
差出人は知らないアドレスだった。
件名は――
十月最後の夜
僕は眉をひそめた。
添付ファイルが二つ。
一つは文章。
もう一つは音声ファイルだった。
本文には、たった一行。
あなたの物語は、もう始まっている。
僕はしばらく画面を見つめた。
そして、幸子さんに連絡した。
◇ ◇ ◇
「開かないで」
それが彼女の第一声だった。
僕は瞬きをした。
「まだ何も言ってませんけど」
「怪しいメールなんでしょう?」
「どうして分かったんですか?」
「あなたが電話してくるときは、たいてい何か面倒なことが起きているからよ」
僕は考えた。
「否定できません」
幸子さんは続けた。
「添付ファイルを不用意に開くんじゃないわよ」
「分かってます」
僕はメールの情報を保存し、添付ファイルを開かずに恵美さんと大地さんに連絡した。
その後、信頼できる専門家に安全な方法で確認してもらうことになった。
僕はミステリー作家だ。
だからといって、怪しいファイルを無防備に開くほど愚かではない。
僕の探偵なら開くかもしれないけれど。
彼は、そういう男だった。
◇ ◇ ◇
午後六時。
確認された文章の内容が、僕に共有された。
題名は『十月最後の夜』。
主人公は若い作家。
青いドアのアパートに住んでいる。
重い身体障害があり、電動車椅子を使っている。
恋人は看護師。
現在は別の街で研修を受けている。
そして――
ハロウィンの午後、叔父が設置した装飾から奇妙な声が流れる。
僕は言葉を失った。
◇ ◇ ◇
「……僕のことだ」
画面の向こうで、大地さんが険しい顔をした。
「誰かが調べて書いたんだろう」
「でも、今日のことまで書いてある」
「今日のことを知っている人間が書いた可能性もある」
僕は考えた。
そのとおりだった。
未来を予知したわけではない。
誰かが見ていた。
あるいは――
最初から、そうなるように仕組んでいた。
◇ ◇ ◇
文章は続いていた。
午後七時。作家は、死んだ母親の声を聞く。
僕は時計を見た。
六時十二分。
四十八分後。
胸が冷たくなった。
でも、僕は画面を閉じなかった。
「大地さん」
「何だ?」
「装置の記録、確認できた?」
彼はうなずいた。
「まだ全部じゃないが、不審なアクセスがある」
「外部から?」
「そうだ。管理用の認証情報が使われている。どうやって知られたのかは、まだ分からない」
僕は唾を飲み込んだ。
「じゃあ、誰かが操作してたんだ」
「その可能性が高い」
僕は時計を見た。
六時十三分。
◇ ◇ ◇
午後六時四十五分。
葵から電話が来た。
画面に映った彼女は、黒い帽子と小さな魔女のマントを身につけていた。
僕は一瞬、さっきまでの不安を忘れた。
「……可愛い」
葵は笑った。
「ありがとう」
僕は彼女を見つめた。
「すごく可愛い」
「二回言った」
「重要だから」
彼女は頬を赤くした。
「春人は?」
僕は考えた。
「僕は今、ホラー映画の被害者役をやってる」
葵は笑った。
「何それ?」
「冗談じゃないんだ」
僕は、今日起きたことを話し始めた。
◇ ◇ ◇
話し終えるころには、葵の笑顔は消えていた。
「警察には?」
「相談してる。記録も残してる」
彼女はうなずいた。
「よかった」
僕は少し間を置いた。
「ごめんね」
葵は眉をひそめた。
「何が?」
「せっかくのハロウィンデートなのに」
彼女は首を振った。
「そんなこと、気にしないで」
「でも……」
「春人」
僕は黙った。
葵は真剣な顔で言った。
「一緒にいるって、楽しいことだけを共有するって意味じゃないでしょ?」
僕は彼女を見た。
そして、かすかに微笑んだ。
「……うん」
◇ ◇ ◇
午後七時。
僕のスマートフォンに通知が届いた。
差出人不明のメッセージ。
添付されていたのは音声だった。
葵が画面越しに尋ねた。
「どうしたの?」
僕は答えなかった。
メッセージの本文を見ていた。
お母さんが、あなたに話したいことがあるそうです。
僕は目を閉じた。
原稿に書かれていたとおりだった。
◇ ◇ ◇
僕たちは、その音声をすぐには再生しなかった。
送信元の情報を保存し、警察に連絡した。
そのうえで、危険な添付ファイルを直接開くことなく、確認された音声を聞くことになった。
そして――
スピーカーから声が流れた。
『春人』
僕は息をのんだ。
母の声だった。
間違いなかった。
『あなたが……自分の……家で……』
短い沈黙。
『幸せに……暮らしているなら……』
僕は固まった。
『葵さんと……』
声が不自然に途切れた。
『ずっと……』
僕は目を見開いた。
何かがおかしい。
母の声なのに。
確かに母の声なのに――
話し方が違った。
◇ ◇ ◇
「待って」
僕は言った。
葵が尋ねた。
「何?」
「これ、編集されてる」
彼女は黙った。
僕は続けた。
「言葉の間が変なんだ」
「……うん」
「それに、お母さんは葵のことを知らない」
葵の表情が変わった。
当然だった。
母が亡くなったのは、僕たちが出会うずっと前なのだから。
僕は画面を見つめた。
「誰かが、昔の録音を使ってる」
胸の奥に怒りが広がった。
恐怖よりも強い怒りだった。
母の声を。
母との思い出を。
こんなことに利用したのだ。
◇ ◇ ◇
午後七時二十分。
玄関のチャイムが鳴った。
夏美さんは勤務を終え、予定どおり真由さんに引き継いでいた。
真由さんが玄関のモニターを確認した。
画面には、見知らぬ女性が映っていた。
古いデザインの看護師の制服。
白い帽子。
不自然なほど整った笑顔。
「こんばんは」
女性はカメラに向かって言った。
「高橋春人さんのお宅でしょうか?」
僕は画面を見た。
「……はい」
「私は、昔あなたの看護を担当していた者です」
背筋が冷たくなった。
◇ ◇ ◇
「お名前を教えていただけますか?」
真由さんが尋ねた。
女性は少し間を置いた。
「昔のことですから、覚えていないかもしれません」
「お名前をお願いします」
女性の笑顔がわずかに崩れた。
「美咲さんから、春人さんにお伝えすることがあって」
僕は固まった。
母の名前。
また。
真由さんは落ち着いた声で答えた。
「現在の訪問予定にはありません。身元と用件を確認できない方を室内へお通しすることはできません」
女性は黙った。
そして――
「それなら、また来ます」
そう言って、立ち去った。
◇ ◇ ◇
僕はモニターを見つめた。
葵が静かに尋ねた。
「春人?」
「……うん」
「大丈夫?」
僕は考えた。
「正直に言うと?」
「うん」
「全然」
彼女は悲しそうな顔をした。
僕は続けた。
「でも、怖がってるだけじゃ終わらせたくない」
◇ ◇ ◇
僕たちは記録を整理した。
装飾システムへの不正アクセス。
偽の録音。
匿名の原稿。
予定にない看護師。
そして、それらが起きる時刻。
僕は一つのことに気づいた。
「葵」
「何?」
「原稿が先に送られてきたんじゃない」
彼女は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「誰かが、原稿どおりに事件を起こしてるんだ」
葵は静かになった。
「……つまり」
「予言じゃない」
僕は画面を見た。
「台本なんだ」
◇ ◇ ◇
そのとき、幸子さんから電話が来た。
「春人くん」
「はい」
「リクくんから聞いたわ」
僕はため息をついた。
「情報が早いですね」
「当然よ」
彼女の声は真剣だった。
「今、誰といるの?」
「真由さんがいます。葵とも通話中です」
「そう」
少し安心したようだった。
「一人で何かしようとするんじゃないわよ」
僕は苦笑した。
「探偵小説の主人公みたいに?」
「そうよ」
彼女は少し間を置いた。
「あなたの探偵は、いつも余計なことをして危険な目に遭うでしょう」
僕は考えた。
「作者として、否定できません」
◇ ◇ ◇
午後八時。
葵のスマートフォンにもメッセージが届いた。
写真が一枚。
古い病院の廊下だった。
僕は画面越しに見せてもらった。
胸が締めつけられた。
見覚えがあった。
幼いころ、何度も通った病院。
僕はその廊下を覚えていた。
壁の色。
窓の位置。
奥にある曲がり角。
でも、写真がいつ撮られたものなのかは分からなかった。
葵は静かに言った。
「私にも送ってきたんだね」
僕はうなずいた。
「うん」
「どうして私の連絡先を知ってるんだろう」
僕は答えられなかった。
その疑問が、一番怖かった。
◇ ◇ ◇
写真には短い文章が添えられていた。
彼は、ここで一人になることを恐れていた。
僕はしばらく黙っていた。
それから、怒りを込めて言った。
「……ふざけるな」
葵が僕を見た。
僕は続けた。
「昔の僕が何を怖がっていたかなんて、知らないくせに」
彼女は何も言わなかった。
「それに、知っていたとしても……」
僕は画面を見つめた。
「こんなふうに使っていい理由にはならない」
葵は静かにうなずいた。
「うん」
◇ ◇ ◇
午後九時。
恵子さんから連絡が入った。
僕が送った情報を確認し、記録の取り扱いについて関係者と相談してくれていた。
「春人くん、落ち着いて聞いてね」
僕は身構えた。
「はい」
「今のところ、保管資料から情報が流出したと確認できる証拠はないわ」
僕はうなずいた。
「でも?」
「お母さんが関わっていた活動の中には、当時、広報誌や公開イベントで紹介されたものもあるの」
僕は眉をひそめた。
「つまり?」
「公開されていた写真や文章から、ある程度の情報を集めることはできたかもしれない」
僕は考えた。
母の活動。
昔の病院。
僕の名前。
そして、最近の文学交流会。
公開されている情報だけでも、誰かが僕について調べることはできる。
でも、母の声は?
あの録音は?
恵子さんも、そこについては分からないと言った。
◇ ◇ ◇
午後九時半。
大地さんが、装飾システムの販売元から得た情報を持ってきた。
彼はいつものように興奮していなかった。
むしろ、ひどく申し訳なさそうだった。
「春人……すまない」
僕は彼を見た。
「大地さんのせいじゃないよ」
「いや、俺が持ち込んだ装置だ」
「でも、こんなことになるなんて思わなかったでしょ?」
彼は黙った。
僕は続けた。
「次からは、もっと慎重に選んでね」
大地さんはうなずいた。
「もちろんだ」
僕は考えた。
「できれば、喋らないカボチャがいい」
由紀さんが笑った。
大地さんも、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
調査の結果、装飾用システムの管理画面に、第三者がアクセスした痕跡が見つかった。
ただし、誰が操作したのかまでは分からなかった。
記録は保存され、必要な情報が警察に提出された。
僕の医療機器には影響がなかった。
それが何より重要だった。
でも、僕の心は落ち着かなかった。
誰かが僕の生活を調べている。
誰かが母の記憶を利用している。
そして誰かが、僕たちを怖がらせるために時間をかけて準備していた。
◇ ◇ ◇
午後十時。
原稿の最後の部分が確認された。
そこには、こう書かれていた。
午後十一時。青いドアの前に、少女が現れる。
僕は時計を見た。
あと一時間。
その下には、さらに一文。
少女は、死んだ母親からの手紙を持っている。
僕は画面を閉じた。
「もう、うんざりだ」
葵は静かに言った。
「うん」
僕は彼女を見た。
「ねえ、葵」
「何?」
「せっかくのハロウィンなのに、全然楽しくないね」
彼女は少し考えた。
それから、かすかに微笑んだ。
「でも、まだ終わってないよ」
僕は眉を上げた。
「何が?」
「デート」
僕は彼女を見つめた。
そして、思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
午後十時半。
僕たちは、少しだけ普通の会話をした。
葵の研修。
僕の新しい小説。
リクが描き直してくれた探偵。
幸子さんが自分の小説を再開したこと。
そして、いつか二人で過ごしたいハロウィン。
「来年は一緒に仮装したいね」と葵が言った。
僕は微笑んだ。
「何になる?」
彼女は考えた。
「魔女と探偵?」
僕は眉を上げた。
「どっちが魔女?」
葵は僕を見つめた。
「春人」
「何?」
「本気で聞いてる?」
僕は笑った。
◇ ◇ ◇
午後十一時。
チャイムが鳴った。
僕たちは黙った。
真由さんがモニターを確認した。
そこには――
小さな女の子が立っていた。
昔の看護師の制服を模した衣装。
白い帽子。
手には封筒。
僕は画面を見つめた。
原稿どおりだった。
◇ ◇ ◇
真由さんがインターホン越しに尋ねた。
「こんばんは。どうしましたか?」
少女は元気よく答えた。
「ハッピーハロウィン!」
僕は少し驚いた。
普通の子供の声だった。
明るくて。
楽しそうで。
怖がっている様子もない。
少女は続けた。
「これ、高橋春人さんに渡してって言われたの!」
真由さんは落ち着いて尋ねた。
「誰に頼まれたの?」
「お姉さん!」
「どんな人?」
少女は考えた。
「黒い帽子の人!」
僕は眉をひそめた。
「名前は?」
少女は首を振った。
「知らない!」
◇ ◇ ◇
少女は、近所で行われていたハロウィンの宝探しイベントに参加していたらしい。
ある女性から、指定された部屋に封筒を届ければ追加のお菓子がもらえると言われたのだという。
僕は胸が痛くなった。
この子は、何も知らない。
ただ、楽しいハロウィンを過ごしているだけなのだ。
僕たちは少女を責めなかった。
真由さんは建物の管理担当者と連絡を取り、少女が保護者のもとへ安全に戻れるよう確認した。
封筒は、届けられた状況を記録したうえで受け取った。
少女は最後に、もう一度元気よく言った。
「ハッピーハロウィン!」
僕はかすかに微笑んだ。
「ハッピーハロウィン」
◇ ◇ ◇
封筒の中には、紙が一枚入っていた。
美咲さんの約束を、忘れないで。
そして、その下に――
清水明
僕は固まった。
葵が尋ねた。
「春人?」
僕は紙を見つめた。
あの名前。
母のノートに書かれていた名前。
恵子さんが調べてくれている、まだ正体の分からない人物。
どうして――
ここに?
◇ ◇ ◇
「これ……」
僕は言葉を探した。
「お母さんのノートに出てきた名前なんだ」
葵の表情が変わった。
「じゃあ、関係があるの?」
僕は首を振った。
「分からない」
それが本当だった。
名前が書かれているからといって、その人物が関与しているとは限らない。
誰かが、わざと名前を書いた可能性もある。
僕たちを混乱させるために。
あるいは、別の誰かに疑いを向けるために。
僕は紙を見つめた。
「……これ、罠かもしれない」
◇ ◇ ◇
午後十一時二十分。
警察から連絡が入った。
建物の防犯映像と、近隣のハロウィンイベントの記録を確認したところ、少女に封筒を渡した女性の姿が映っていたという。
さらに、先ほど看護師の制服で訪れた女性と、服装や体格に共通点があることも分かった。
ただし、同一人物だと断定できる段階ではなかった。
僕は説明を聞きながら考えた。
看護師。
少女。
原稿。
録音。
装飾システム。
全部が、誰かの手によって動かされていた。
◇ ◇ ◇
そして、もう一つ分かったことがあった。
少女に封筒を渡した女性は、近所のイベント関係者ではなかった。
イベントの参加者を装って近づいていたのだ。
警察は、その女性の身元確認を進めているという。
僕は少しだけ安心した。
少なくとも――
何もかもが分からないままではなかった。
◇ ◇ ◇
午後十一時四十分。
恵子さんから、もう一度電話があった。
「春人くん」
「はい」
「清水さんについて、少し分かったことがあるわ」
僕は画面を見つめた。
「本当ですか?」
「ええ」
彼女は慎重に続けた。
「当時、地域生活への移行や教育支援に関わる活動をしていた方の名前として、記録に残っているの」
僕は聞いていた。
「でも、今回の事件と関係があるという証拠はないわ」
「分かってます」
「むしろ、誰かがその名前を使っている可能性もある」
僕はうなずいた。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
そのとき、僕は一つの疑問に気づいた。
「恵子さん」
「何?」
「母のノートに清水さんの名前があったことって、誰が知ってるんですか?」
沈黙。
恵子さんは少し考えた。
「資料を確認した担当者と、必要な範囲で情報を共有した関係者ね」
僕は眉をひそめた。
「それ以外には?」
「少なくとも、私から公表したことはないわ」
僕は考えた。
では、誰が知っていたのだろう。
僕。
恵子さん。
そして、ノートを確認した人たち。
あるいは――
母の活動を当時から知っていた誰か。
◇ ◇ ◇
午後十一時五十分。
葵はまだ通話を続けてくれていた。
僕は彼女を見た。
「疲れてない?」
彼女は微笑んだ。
「少し」
「もう寝てもいいよ」
彼女は首を振った。
「あと十分」
僕は眉を上げた。
「どうして?」
彼女は微笑んだ。
「ハロウィンが終わるまで、一緒にいたいから」
僕は黙った。
そして、胸が温かくなった。
「……ありがとう」
◇ ◇ ◇
午後十一時五十九分。
僕は時計を見た。
もうすぐ、十月三十一日が終わる。
怖かった。
本当に。
でも、今は一人じゃなかった。
真由さんが必要なケアを提供してくれている。
由紀さんと大地さんは連絡を取り続けてくれている。
幸子さんもリクも、僕を心配してくれている。
恵子さんは母の記録について調べてくれている。
そして――
葵がいた。
画面の向こうに。
僕のすぐそばにいるわけではない。
でも、確かに。
僕と一緒に。
◇ ◇ ◇
午前零時。
日付が変わった。
十一月一日。
僕は時計を見た。
それから葵を見た。
「……生き延びたね」
葵は笑った。
「そうだね」
僕は考えた。
「来年は普通のハロウィンにしたい」
彼女は微笑んだ。
「どんな?」
「お菓子」
「うん」
「映画」
「うん」
「仮装」
「うん」
僕は少し間を置いた。
「そして、喋らないカボチャ」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
僕は彼女を見つめた。
「葵」
「何?」
「来年、一緒に過ごせるかな」
彼女は少し驚いたようだった。
それから、優しく微笑んだ。
「そうできたらいいね」
僕はうなずいた。
「うん」
僕たちの未来は、まだ決まっていない。
葵がどこで働くのか。
僕がどこで暮らすのか。
どうやって、お互いの夢を支え合っていくのか。
答えの出ていないことは、たくさんあった。
でも――
一つだけ、確かなことがあった。
僕は、彼女と一緒に未来を考えたかった。
◇ ◇ ◇
「ねえ、葵」
「うん?」
僕は微笑んだ。
「来年のハロウィンも、隣に並んで走っていい?」
彼女は一瞬、黙った。
そして――
笑った。
「もちろん」
僕の胸が温かくなった。
「ただし」
僕は身構えた。
「何?」
彼女はにやりとした。
「大地さんの飾り付けは禁止」
僕は即座に答えた。
「全面的に賛成」
◇ ◇ ◇
通話を終えたあと、僕は少しだけパソコンの画面を見つめていた。
事件は、まだ完全には解決していなかった。
謎の女性の身元も。
母の録音がどこから入手されたのかも。
清水明という名前が使われた理由も。
まだ、調べなければならないことが残っている。
でも、少なくとも一つは分かっていた。
幽霊なんかじゃない。
呪いでもない。
未来を予知する小説でもない。
誰かが仕組んだ、現実の事件だった。
そして、現実の事件なら――
必ず、手がかりがある。
◇ ◇ ◇
僕は新しい文書を開いた。
題名を入力した。
十月最後の夜
それから、少し考えた。
そして、その下に一文を書いた。
本当に恐ろしいのは、死者が戻ってくることではない。生きている誰かが、死者の記憶を利用することだ。
僕は画面を見つめた。
悪くない。
ミステリーの冒頭としては、かなりいい。
ただし――
今回は、僕自身が主人公になるつもりはなかった。
できれば。
◇ ◇ ◇
翌朝。
十一月一日。
僕は、少し遅く目を覚ました。
昨夜の疲れが残っていた。
でも、いつものアパートに戻っていた。
カボチャは消えていた。
骸骨も片づけられていた。
蜘蛛の巣も取り外されていた。
ようやく平和が戻ったのだ。
僕は安心した。
そして――
玄関から声が響いた。
『おはようございます、陛下!』
僕は目を閉じた。
「……大地さん」
どうやら、一つだけ片づけ忘れたらしい。
僕は深いため息をついた。
「来年は絶対に禁止だからね」
どこかで由紀さんが笑っていた。
僕も、思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
けれど、その日の午後。
事件を担当する警察官から、もう一度連絡があった。
女性の身元について、新たな情報が見つかったという。
彼女は、以前ある民間の記録整理業務に関わっていた人物だった。
そして、その業務の取引先の一つに――
母の資料を長年保管していた組織の名前があった。
僕は画面を見つめた。
偶然かもしれない。
まだ、何も断定できない。
それでも――
母のノートが見つかった直後に起きた事件。
そこに現れた、知らない女性。
そして、清水明という名前。
僕はゆっくり目を閉じた。
どうやら――
ハロウィンは終わっても、物語はまだ終わっていないらしい。




