第70話 まだ歩んでいない道と、ようやく帰る場所を見つけた言葉
作家になることの問題は、そのあと何が起こるのか、誰もきちんと説明してくれないことだった。
もっとも、僕はまだ正式に出版された作家ではない。
厳密に言えば。
物語は書いてきた。
読んでくれた人もいる。
中には、面白いと言ってくれた人までいた。
僕が架空の世界で犯してきた殺人事件の数を考えると、それは少々心配すべきことかもしれない。
でも、自分の書いたものを、見知らぬ人たちの前で発表したことは一度もなかった。
それも、聞いてもらう価値のある作品として。
今までは。
どうやら、その日が近づいているらしい。
何週間も準備してきた文学交流会が、ついに目前に迫っていたのだ。
周囲の人たちによれば、僕は喜ぶべきらしい。
もちろん、嬉しかった。
だいたいは。
残念ながら、期待と恐怖が僕の胃の中で同居することを決めてしまった。
しかも、どちらも出ていく気配がない。
「またやってますね」
僕は夏美さんのほうを見た。
「何をですか?」
「同じ段落をずっと見ています」
僕はパソコンの画面を確認した。
彼女の言うとおりだった。
同じ段落が、もう二十分近く表示されていた。
「もしかしたら、すごく気に入っているのかもしれません」
夏美さんは微笑んだ。
「そうなんですか?」
僕は考えた。
「いいえ」
「じゃあ、どうして見つめているんですか?」
「原稿を全部消して、プロのジャガイモ農家になるべきか検討しているところです」
彼女は笑った。
「ジャガイモを育てられるんですか?」
「いいえ」
「農業の知識は?」
「まったくありません」
彼女は首をかしげた。
「それなら、執筆を続けたほうがよさそうですね」
僕はため息をついた。
「残念ながら、そのとおりだと思います」
◇ ◇ ◇
文学交流会は土曜日に予定されていた。
あと五日。
五日後には、見知らぬ人たちの前で、自分が作り上げたものを聞いてもらうことになる。
五日後には、誰かが僕の作品について質問するかもしれない。
そして五日後には、自分に才能があるという非常に不幸な思い込みの上に、これまでの執筆活動が成り立っていたと判明するかもしれない。
当然ながら――
僕はこの状況に、実に立派な態度で対処していた。
つまり、パニックになっていた。
静かに。
だいたいは。
◇ ◇ ◇
月曜日の午後、思いがけない訪問者がやってきた。
リクだった。
僕の部屋から二階下に住んでいる若いイラストレーターが、ようやく共同制作について話し合うという誘いを受けてくれたのだ。
彼はペンタブレットとスケッチブックを抱え、間違えて就職面接に来てしまった人のような顔をしていた。
「こんにちは」
「やあ」
僕は微笑んだ。
「入って」
勤務中の夏美さんが、僕の歓迎を確認してからドアを開けてくれた。
リクはおそるおそる部屋に入った。
彼の視線は、すぐに本棚へ向かった。
次に机。
母の写真が入った額縁。
そして最後に――
パソコン。
「すごい……」
僕は眉を上げた。
「何が?」
「本当に作家なんですね」
僕は彼を見つめた。
「疑ってたの?」
彼は顔を赤くした。
「いえ! そういう意味じゃなくて……」
困ったように手を動かした。
「本がたくさんあるので」
僕は考えた。
「本棚って、普通そういうものじゃない?」
彼は緊張したように笑った。
◇ ◇ ◇
僕たちは机の近くで話し始めた。
リクはタブレットを開いた。
「何枚か描いてみたんです」
僕はすぐに興味を引かれた。
「もう?」
彼はうなずいた。
「送ってもらった短編を読みました」
「それで?」
「面白かったです」
僕は微笑んだ。
「よかった」
「特に探偵が好きでした」
僕の笑顔が広がった。
「素晴らしい」
「ただ……」
笑顔が止まった。
ああ。
来た。
英語で最も危険な言葉。
『ただ』。
リクはタブレットを僕のほうへ向けた。
僕は画面を見つめた。
数秒間。
何も言わずに。
◇ ◇ ◇
画面の中の探偵は背が高かった。
肩幅が広かった。
黒いロングコートを着ていた。
髪は後ろへ流していた。
表情からは、朝食前に国際犯罪組織をいくつも壊滅させてきたような威厳が漂っていた。
素晴らしく格好よかった。
そして、僕が書いた探偵とはまったく似ていなかった。
僕は瞬きをした。
「リク?」
「はい?」
「この人、誰?」
彼は戸惑った。
「探偵です」
僕は考えた。
「どの探偵?」
リクは僕を見つめた。
「春人さんの小説の……」
僕はもう一度画面を見た。
それから彼を見た。
「本当に?」
◇ ◇ ◇
リクの自信が崩れ落ちた。
「何かおかしかったですか?」
僕は慎重に考えた。
「ええと……」
もう一度絵を見た。
「僕の探偵は四十代で、少し太っていて、まずいコーヒーを飲みながら書類仕事に文句を言う、疲れたおじさんなんだ」
リクは自分の絵を見た。
それから僕を見た。
「あ……」
僕は続けた。
「この人、ヘリコプターを倒せそうだよ」
リクは妙な声を出した。
僕は微笑んだ。
「たぶん二機くらい」
彼は笑い始めた。
「すみません!」
「いいんだよ」
僕は絵を見つめた。
「実際、すごく上手な絵だと思う」
彼の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「もちろん」
僕は少し間を置いた。
「ただ、僕の探偵になりすましている誰かの、とても上手な絵なんだ」
◇ ◇ ◇
誤解が解けると、話し合いはずっと建設的になった。
僕は探偵の性格を説明した。
弱さ。
癖。
事件への向き合い方。
リクは熱心に耳を傾けた。
そしてメモを取り始めた。
「じゃあ、威圧感のある外見じゃないほうがいいんですね?」
「そうだね」
「もっと普通の人っぽく?」
「そのとおり」
リクは考えた。
「そのほうが面白いかもしれません」
僕は微笑んだ。
「物語を作る人の考え方になってきたね」
彼は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「まだお礼を言うのは早いよ」
僕は少し間を置いた。
「うちの編集者に会ってないからね」
リクは瞬きをした。
「編集者?」
その瞬間――
ドアがノックされた。
僕は目を閉じた。
「噂をすれば、だね」
◇ ◇ ◇
森田幸子さんが、ファイルを抱えて入ってきた。
当然だった。
僕は最近、彼女は生まれたときからファイルを抱えていたのではないかと思い始めていた。
幸子さんはリクを見た。
次にタブレット。
そして僕。
「何をしているの?」
僕は微笑んだ。
「共同制作です」
彼女は目を細めた。
「危険な響きね」
リクは丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。リクです」
幸子さんは彼を観察した。
「あなたがイラストレーター?」
「はい」
「よろしい」
彼女はファイルをテーブルに置いた。
「描いたものを見せて」
リクは僕を見た。
僕は同情を込めて微笑んだ。
「チームへようこそ」
◇ ◇ ◇
その後の一時間は、非常に勉強になった。
リクにとって。
僕にとって。
おそらく建物全体にとって。
幸子さんはスケッチを確認した。
探偵の姿勢を批評した。
照明。
表情。
構図。
そして、どういうわけか背景にある椅子の感情的な説得力まで。
リクは次第に圧倒されていった。
ついに僕が割って入った。
「森田さん」
「何?」
「彼はイラストレーターであって、人質じゃありません」
彼女は不満そうだった。
「手伝っているのよ」
「だから怖いんです」
リクは笑いをこらえようとした。
失敗した。
見事に。
◇ ◇ ◇
幸子さんが帰るころには、実際にかなり話が進んでいた。
リクは探偵の外見を描き直す。
いきなり長編小説全体の挿絵を作るのではなく、まず短編一作から始める。
作品を公開する前に、役割分担、クレジット、締め切り、イラストの利用方法について話し合う。
そして何より重要なのは――
幸子さんによる抜き打ち検査を禁止すること。
残念ながら、最後の条件について彼女は同意していなかった。
重大な見落としだった。
◇ ◇ ◇
火曜日の朝、恵子さんからメールが届いた。
朗読原稿の最終稿を確認しているときに気づいた。
件名は簡潔だった。
美咲さんの記録についてのご報告
僕の心臓が急に速くなった。
メールを開いた。
そして固まった。
春人くんへ。資料保管室で、お母さんの記録が入っている箱が見つかりました。目録によると、探しているノートが含まれている可能性があります。正式な手続きを経て中身を確認できるよう調整しています。内容が確認できるまでは約束できませんが、前向きな進展です。
僕は見つめた。
もう一度読んだ。
さらにもう一度。
ノート。
長い時間を経て――
ようやく、本当に見つかる可能性が出てきた。
◇ ◇ ◇
僕は恵子さんに電話をかけた。
三回目の呼び出しで出てくれた。
「春人くん?」
「見つかったんですか?」
彼女は小さく笑った。
「まずは、おはようじゃない?」
「すみません」
僕は少し間を置いた。
「おはようございます。見つかったんですか?」
彼女はまた笑った。
「可能性はあるわ」
僕はため息をついた。
「サスペンスの作り方が上手くなってきましたね」
「美咲さんなら喜びそうね」
僕は微笑んだ。
「たぶん」
恵子さんの声が真剣になった。
「移管された資料を確認しているときに、箱が見つかったの。目録には、お母さんの支援活動に関連する個人用ノートが記載されているわ」
僕は注意深く聞いた。
「でも、探しているものと同じかどうかは、まだ確認できていないの」
「分かりました」
「ほかの方の個人情報が含まれている資料については、取り扱いに制限があるかもしれないわ」
僕はうなずいた。
「もちろんです」
恵子さんは続けた。
「確認できたら、すぐに知らせるわ」
僕は母の写真を見た。
「ありがとうございます」
彼女の声が優しくなった。
「どういたしまして、春人くん」
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は由紀さんに話した。
彼女は長い間、黙っていた。
そして尋ねた。
「本当に読みたいの?」
僕は眉をひそめた。
「もちろん」
「つらい思い出が書かれていても?」
僕は考えた。
「だからこそ、読みたいんだ」
彼女はため息をついた。
「春人……」
僕はかすかに微笑んだ。
「由紀さん、僕はもう子供じゃないよ」
「分かってる」
「本当に?」
沈黙。
思っていたよりも鋭い言い方になってしまった。
由紀さんはすぐには答えなかった。
それから――
「時々ね、忘れてしまうの」
◇ ◇ ◇
僕は静かになった。
由紀さんは続けた。
「小さかったころのあなたを覚えているから」
「何度も病院に通ったこと」
「美咲が夜通し起きていたこと」
「私たちが心配していたこと」
声が震えた。
「だから、あのころのことが出てくると、また昔に戻ったような気持ちになるの」
僕は窓のほうを見た。
「分かるよ」
彼女はため息をついた。
「でも、あなたの言うとおりね」
僕は耳を傾けた。
「もう、あのころの小さな男の子じゃないものね」
僕はかすかに微笑んだ。
「でも、ものすごく格好いいのは変わってないよ」
由紀さんは涙混じりに笑った。
「残念ながら、そうね」
◇ ◇ ◇
僕たちはさらに三十分ほど話した。
ノートを読むべきかどうかについてではない。
それは僕が決めることだった。
代わりに、何を知りたいのかを話した。
恵子さんにどんな質問をするか。
母の活動を覚えている人がほかにいるか。
内容がつらいものだった場合、無理をせず時間をかけて読んでもいいこと。
話が終わるころには、由紀さんも少し落ち着いていた。
「何が分かったか、教えてくれる?」
僕は考えた。
「一部はね」
彼女は少し間を置いた。
それから小さく笑った。
「それで十分よ」
僕は微笑んだ。
「ほら、大人になったでしょ?」
「調子に乗らないの」
◇ ◇ ◇
水曜日は、葵にとって難しい一日になった。
その夜、彼女から電話があった。
画面に映った葵は疲れ切っていた。
普通の疲れ方ではなかった。
考える力まで使い果たしたような疲れ方だった。
「やあ」
「やあ」
彼女は弱々しく微笑んだ。
「大変な一日だった?」
「すごく」
僕は彼女の表情を見た。
「話したい?」
彼女はためらった。
「うん」
◇ ◇ ◇
専門研修の中で、葵は退院を控えた若い患者についてのケース検討に参加していた。
その患者は、地域の中で暮らすことを望んでいた。
一方、家族はもっと管理の行き届いた施設を希望していた。
医療チームは、必要な支援が安定して提供できるかを心配していた。
さらに、費用や制度の問題もあった。
非常に複雑な問題だった。
最初、葵は答えは明らかだと思っていた。
患者本人の話を聞く。
意思を尊重する。
必要な支援計画を立てる。
でも、実際にはそれほど単純ではなかった。
適切な住環境はまだ確認されていない。
必要な専門的支援も、すべては確保できていない。
複数の組織が、誰が調整の責任を持つべきかについて意見を異にしていた。
◇ ◇ ◇
「何をすればいいのか、分かってるつもりだったの」と葵は言った。
僕は聞いていた。
「でも、一つ問題を解決すると、また別の問題が出てきて……」
僕はかすかに微笑んだ。
「聞き覚えがあるね」
彼女はうなずいた。
「今日、中村さんに聞かれたの」
「何て?」
「私が訴えているのは、実現できる計画なのか、それとも正しい理念だけなのかって」
僕は静かになった。
葵は続けた。
「最初は腹が立った」
「患者さんの希望を軽く見ていると思ったから?」
「そう」
彼女はため息をついた。
「でも、違ったんだ」
◇ ◇ ◇
指導担当の中村理沙さんは、患者本人の希望を具体的な行動に落とし込むよう、チームに求めたのだという。
どんな支援が必要なのか。
誰が提供するのか。
患者本人は、どのように意思決定へ参加するのか。
希望する環境がすぐに実現できない場合、どんな代替案があるのか。
本当に安全上の問題があるのはどこなのか。
そして、十分に検証されていない思い込みはないのか。
葵は午後いっぱい、それらの問題を考えていた。
まだ解決には至っていなかった。
でも、患者本人が参加する形で、改めて話し合いの場を設けることになった。
「進歩だね」と僕は言った。
葵はうなずいた。
「うん」
彼女は僕を見た。
「でも、十分だとは思えない」
◇ ◇ ◇
僕は考えた。
「まだ十分じゃないのかもしれないね」
葵は驚いたようだった。
僕は続けた。
「でも、それが大切じゃないって意味じゃないよ」
彼女は耳を傾けた。
「一回の会議で、全部の問題を解決できるわけじゃない」
「分かってる」
「それに、次の決定を前よりよくすることだって、大切な仕事だと思う」
葵は静かになった。
それから、かすかに微笑んだ。
「理沙さんみたいなこと言うね」
僕は大げさに息をのんだ。
「何て失礼な」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
僕たちはもう少し話した。
やがて葵はためらった。
「春人?」
「何?」
「もう一つあるの」
僕は待った。
「研修の担当者から、常勤の仕事について話があったんだ」
僕は固まった。
「常勤?」
彼女はうなずいた。
「こっちで」
沈黙。
僕は画面を見つめた。
「別の街で?」
「うん」
◇ ◇ ◇
一瞬、何を言えばいいのか分からなかった。
研修はいずれ終わると思っていた。
いつかは。
葵も戻ってくると思っていた。
いつかは。
そして心のどこかで、その未来はもう決まっているものとして考えていた。
でも、違った。
本当は。
葵は不安そうだった。
「まだ正式に採用の話が来たわけじゃないよ」
僕はうなずいた。
「それに、受けたいかどうかも決めてない」
「うん」
「ただ、春人には話しておこうと思って」
僕は唾を飲み込んだ。
「教えてくれて嬉しいよ」
彼女は僕の顔を見つめた。
「でも?」
僕はため息をついた。
「でも、があるね」
◇ ◇ ◇
葵は待っていた。
僕は本棚を見た。
それから彼女に視線を戻した。
「葵は戻ってくるものだと思ってた」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「うん」
「自分でも気づかないうちに、それを僕たちの未来の前提にしてたんだと思う」
彼女の表情が柔らかくなった。
「まだ、残るって決めたわけじゃないよ」
「分かってる」
「でも、その可能性はある」
「うん」
僕たちは黙った。
それから葵が尋ねた。
「もし私が残ることにしたら、私たちはどうすればいいと思う?」
◇ ◇ ◇
それが問題だった。
葵を愛しているかどうかではない。
愛している。
彼女の仕事を応援しているかどうかでもない。
応援している。
でも、異なる目標と責任と事情を持つ二人が、どちらか一方の人生だけを優先することなく、どうやって共通の未来を築くのか。
僕はアパートのことを考えた。
青いドア。
看護体制。
整えるまでに多くの時間がかかった支援制度。
執筆。
家族。
地域の人たち。
僕は、それらを考えずに簡単に引っ越すことはできない。
そして葵も、僕が移動するのが難しいという理由だけで、仕事の機会を諦めるべきではない。
「分からない」と僕は認めた。
葵は視線を落とした。
「私も」
◇ ◇ ◇
僕は考えた。
「でも、今夜決めなくてもいいんじゃないかな」
彼女は顔を上げた。
「本当に?」
「本当に」
僕はかすかに微笑んだ。
「まだ正式な採用の話もないんだし」
彼女は小さく笑った。
「そうだね」
「それに、まだ起きるかどうかも分からない未来のために、お互い何かを犠牲にするのは嫌だ」
葵はうなずいた。
「うん」
僕は続けた。
「でも、本当にそういう話になったら、ちゃんと考えよう」
「うん」
「仕事のこと」
「どこに住むか」
「現実的に引っ越せるのか」
「どんな支援が受けられるのか」
「どうやって二人で決めるのか」
葵は微笑んだ。
「考えること、いっぱいあるね」
僕はうなずいた。
「大人の世界へようこそ」
◇ ◇ ◇
葵は笑った。
それから考え込んだ。
「春人の人生が、私を中心に回らなきゃいけないなんて思ってほしくない」
僕は微笑んだ。
「僕も、葵の人生が僕を中心に回る必要はないと思ってる」
彼女はうなずいた。
「じゃあ、どうする?」
僕は考えた。
「話し続ける」
彼女はかすかに微笑んだ。
「それが答え?」
「今のところはね」
僕はにやりとした。
「残念ながら、地理的な距離を消し去る画期的な技術は、まだ開発できてないから」
葵は笑った。
「ギアに頼んでみたら?」
僕は瞬きをした。
「誰?」
彼女は一瞬止まった。
それから、自分で笑い出した。
「あ、ごめん。大地さんのこと」
僕は彼女を見つめた。
「叔父さんに余計なアイデアを与えないで」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
木曜日の朝、恵子さんからまた電話があった。
今度は――
答えが出ていた。
「春人くん?」
「はい」
「見つかったわ」
僕は動きを止めた。
数秒間、言葉が出なかった。
それから――
「ノートですか?」
「ええ」
目を見開いた。
「本物の?」
「そうよ」
僕は母の写真を見つめた。
「あ……」
それしか言えなかった。
「あ」。
プロの作家を目指す人間として、実に洗練された反応だった。
◇ ◇ ◇
恵子さんは、移管された資料の中からノートが見つかったと説明してくれた。
表紙は古い記録の説明と一致していた。
筆跡は母のものだった。
そして、いくつかの日付や会議の記録は、すでに確認した文書と対応していた。
誰かが意図的に隠したという証拠はなかった。
組織の再編時に、ほかの資料と一緒に保管されていただけだった。
ありふれた事務上の行き違い。
でも、それによって僕は、母の人生の一部から何年も遠ざけられていた。
恵子さんは、共有が認められる部分の写しを受け取れるよう手続きを進めてくれていた。
ほかの家族に関する情報が含まれるページは、適切に取り扱う必要があった。
それは理解していた。
でも、そうした制限があったとしても――
ノートは本物だった。
確かに存在していた。
そして、もうすぐその一部を読むことができる。
◇ ◇ ◇
「一つ、伝えておきたいことがあるの」と恵子さんは言った。
僕は聞いていた。
「何ページか目を通したの」
胸が高鳴った。
「それで?」
彼女はためらった。
「お母さんは、あなたのことをよく書いていたわ」
僕は唾を飲み込んだ。
「何て?」
恵子さんの声が優しくなった。
「好奇心が強いって」
「頑固だって」
「面白い子だって」
僕は涙を浮かべながら微笑んだ。
「妙に正確ですね」
恵子さんは小さく笑った。
「物語が大好きだとも書いていたわ」
僕は目を閉じた。
「それから、名前が一つあったの」
僕は目を開いた。
「名前?」
「私には心当たりのない人なの」
僕は身を乗り出したい気持ちになった。
「誰ですか?」
恵子さんは少し間を置いた。
「清水明という人よ」
僕は眉をひそめた。
「誰ですか?」
「まだ分からないの」
◇ ◇ ◇
恵子さんの説明によると、その名前は将来の住まいや教育の機会について話し合った会議の記録に出てきたらしい。
母は、明という人物がある選択肢について調べる手助けをすると約束してくれた、と書いていた。
でも、その約束が具体的に何を意味していたのかは説明されていなかった。
仕事上の知り合いかもしれない。
支援活動をしていた人かもしれない。
サービスの調整担当者かもしれない。
あるいは、単に情報提供を申し出てくれた人かもしれない。
何か不思議なことが起きたと考える理由はなかった。
それでも――
僕は興味を抑えられなかった。
「誰だったのか、調べられますか?」
恵子さんは考えた。
「調べてみましょう」
僕は母の写真を見た。
また一つの名前。
また一つの答えのない疑問。
そして、ようやく理解し始めた母の人生の、小さな欠片がまた一つ。
◇ ◇ ◇
金曜日は、あまりにも早くやってきた。
文学交流会の前日。
朗読原稿は準備した。
会場の設備も確認した。
移動サービスの予約も確定した。
看護チームとも当日の体制について話し合った。
必要な機器と、万一の際の対応についても、僕のケアを担当する専門職の人たちと確認した。
現実的に準備できることは、すべて準備した。
つまり、残っている問題は一つだけだった。
僕だ。
正確には――
僕の緊張だ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、幸子さんがやってきた。
「最後のリハーサルをするわよ」
僕は彼女を見つめた。
「絶対に嫌です」
彼女は不満そうだった。
「どうして?」
「この文章をもう一回読んだら、夢の中で探偵の声が聞こえるようになります」
彼女は考えた。
「登場人物を理解するのに役立つかもしれないわね」
僕は目を閉じた。
「本当に無茶苦茶な人ですね」
「ありがとう」
「褒めてません」
「分かってるわ」
◇ ◇ ◇
当然ながら、リハーサルは行われた。
最後の一回。
そしてもう一回。
さらに三回目。
どうやら、森田幸子さんの辞書には「最後」という言葉が存在しないらしい。
でも、終わるころには――
何かが変わっていた。
もう、一つ一つの間の取り方を気にしていなかった。
音声による朗読の仕組みを、観客がどう思うかについても考えていなかった。
物語のことを考えていた。
探偵。
手がかり。
真実が明らかになる瞬間。
そして初めて――
僕は楽しみになっていた。
本当に。
◇ ◇ ◇
土曜日の朝がやってきた。
僕はいつもより早く目を覚ました。
目覚まし時計のせいではない。
予定された処置のせいでもない。
どうやら僕の脳が、睡眠はもう必要ないと判断したらしい。
最悪の判断だった。
午前中は準備に費やした。
勤務予定の看護師である真由さんが、僕のケアプランに従って必要なケアと機器の確認を行ってくれた。
移動サービスから迎えの確認が入った。
恵美さんからも、会場の最終確認についてメッセージが届いた。
そして由紀さんから電話が来た。
当然だ。
「準備はできた?」
僕は考えた。
「身体的には?」
「ええ」
「だいたい」
「精神的には?」
「まったく」
彼女は笑った。
「きっとうまくいくわ」
僕はため息をついた。
「みんな、そう言うんだよね」
「みんな信じてるからよ」
僕はかすかに微笑んだ。
「それ、かなりのプレッシャーなんだけど」
◇ ◇ ◇
出発する前に、母の写真を見た。
母が書いた手紙は、まだそのそばに置いてあった。
ノートのことを考えた。
母が計画を立て続けた年月。
母が尋ねた質問。
母が僕に望んでいた未来。
そして今――
僕は、かつて母が行けるようになってほしいと願った場所へ向かおうとしていた。
誰かに行けと言われたからではない。
僕自身が行きたかったからだ。
僕は微笑んだ。
「応援しててね、お母さん」
◇ ◇ ◇
文学交流会は、小さな文化センターで開催された。
入口はバリアフリーになっていた。
会場は広々としていた。
控えめな発表スペースに向かって、椅子が何列も並んでいた。
壁際には本が展示されていた。
すでに何人かの作家が、前のほうで話していた。
そして突然――
家に帰りたくなった。
今すぐ。
できれば、誰にも気づかれないうちに。
残念ながら、送迎車はすでに出発していた。
戦術上の重大な不利だった。
◇ ◇ ◇
真由さんが一緒に中へ入った。
彼女の役割は明確だった。
僕に必要な専門的ケアを提供すること。
僕の代わりに話すことではない。
執筆について決めることでもない。
僕の会話を管理することでもない。
それらは僕自身の役割だった。
彼女は理解してくれていた。
だからこそ、僕は彼女と働けることをありがたく思っていた。
主催者の一人が近づいてきた。
「高橋春人さんですか?」
僕は緊張しながら微笑んだ。
「はい、そうです」
「ようこそ。ご参加いただけて嬉しいです」
「ありがとうございます」
彼女は発表スペースを案内してくれた。
バリアフリーの移動経路。
車椅子と機器のために確保されたスペース。
すべて、事前に相談した内容と一致しているようだった。
少し安心した。
すると彼女は言った。
「朗読を楽しみにしています」
恐怖が戻ってきた。
◇ ◇ ◇
イベントは自己紹介から始まった。
地元の作家たちが作品について話した。
詩人が新しい詩集から朗読した。
小説家が、説得力のある登場人物の作り方について語った。
僕は聞いていた。
そして少しずつ――
緊張がほぐれていった。
彼らは、僕を裁こうとしている謎の審査員ではなかった。
作家だった。
文章に悩む人たち。
登場人物と口論する人たち。
何度も段落を書き直し、そもそも何のために書いたのか分からなくなる人たち。
僕の仲間だ。
たぶん。
◇ ◇ ◇
そして、僕の名前が呼ばれた。
「続いて、高橋春人さんをご紹介します」
胃が沈んだ。
主催者は、修正された紹介文を読み上げた。
僕の作品。
テーマ。
創作過程。
障害のことではなかった。
困難を乗り越えた感動的な話でもなかった。
ただ、僕の作品についてだった。
僕は微笑んだ。
それだけで、ずいぶん気持ちが楽になった。
◇ ◇ ◇
僕は所定の位置へ移動した。
真由さんは、必要なときにケアを提供できる場所にいてくれた。
主催者が、配置に問題がないか確認してくれた。
僕は大丈夫だと答えた。
やがて会場が静かになった。
そして突然――
全員が僕を見ていた。
僕は少し時間を取った。
それから、準備していた朗読を開始した。
◇ ◇ ◇
物語は、一人の探偵が廃屋に入るところから始まった。
家の持ち主が姿を消した家。
すべての時計が、まったく同じ時刻で止まっている家。
壁から、すべての写真が丁寧に取り外されている家。
最初の段落が読み上げられた。
次の段落。
僕は観客を見た。
何人かが身を乗り出した。
メモを取る手を止めた人がいた。
二列目の女性が、考え込むように眉をひそめた。
いい。
これはいい。
聞いてくれている。
◇ ◇ ◇
探偵は一通の手紙を見つけた。
二十年前に死んだはずの人物が書いた手紙。
会場はさらに静かになった。
朗読が続いた。
探偵は筆跡の奇妙な点に気づいた。
手がかり。
小さな。
ほとんど見えないほどの。
そして――
選んだ場面の最後の一文。
その手紙を書いたのは、死んだ男ではなかった。生きている誰かが、彼の記憶を語るふりをしていたのだ。
沈黙。
一秒。
二秒。
そして――
拍手。
◇ ◇ ◇
僕は見つめた。
拍手してくれている。
物語に。
僕の物語に。
僕は微笑んだ。
そして突然――
何週間も抱えていた恐怖が、少し緩んだように感じた。
完全に消えたわけではない。
でも、確かに緩んだ。
人工呼吸器がいつもどおり必要な呼吸補助を続ける中で、僕の気持ちには少し余裕が生まれた。
その瞬間を楽しめるくらいには。
◇ ◇ ◇
質問が始まった。
一人は探偵の性格について尋ねた。
別の人は、長編シリーズの一部なのかと聞いた。
手がかりの作り方について質問する人もいた。
後ろのほうに座っていた女性は、信頼できない語り手について質問した。
僕は答えた。
慎重に。
熱心に。
ときには冗談を交えて。
そして、ときには誰も求めていないほど詳しく。
作家という職業に伴う、深刻な危険だった。
◇ ◇ ◇
やがて一人の男性が手を上げた。
「個人的なことを聞いてもいいですか?」
僕はためらった。
「質問によります」
何人かが笑った。
彼は微笑んだ。
「障害は、あなたの執筆にどんな影響を与えていますか?」
僕は考えた。
必ずしも悪い質問ではなかった。
でも、自分の言葉で答えたかった。
「直接影響することもあります」と僕は答えた。
「まったく影響しないこともあります」
彼は聞いていた。
「僕の経験は、人間関係や社会制度、依存と自立についての理解に影響しています」
僕は少し間を置いた。
「でも、ミステリーを書いているときは、手がかりや動機、展開の速さ、それから探偵がどれほど馬鹿なことをしているかについても考えています」
会場が笑った。
僕は微笑んだ。
「残念ながら、彼はかなり頻繁に馬鹿なことをするので」
◇ ◇ ◇
朗読が終わると、何人かが近づいてきた。
物語について話したかったのだ。
登場人物。
結末。
一人の女性は、探偵の手紙に関する推理が間違っていると確信していた、と話してくれた。
僕はにやりとした。
「素晴らしい」
彼女は瞬きをした。
「素晴らしい?」
「ミスリードが成功したってことですから」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
それから、別の人が近づいてきた。
名刺を持った女性だった。
彼女は、小規模な独立系文芸出版社に関わる編集者だと自己紹介した。
朗読が面白かったという。
そして、ほかにも作品があるのかと尋ねてきた。
僕は見つめた。
「ほかにも?」
彼女は微笑んだ。
「ええ」
僕は考えた。
「どれくらいですか?」
彼女は笑った。
「それは作品によりますね」
僕は微笑んだ。
「少し心配になるくらい、たくさんあるので」
◇ ◇ ◇
彼女は、その出版社では短編ミステリー集や新人作家の作品を検討することがあると説明した。
何かを約束できるわけではなかった。
正式な投稿手続きがある。
編集部による審査もある。
採用される保証もない。
それでも、公式の投稿窓口を通じて作品のサンプルを送ってほしいと言ってくれた。
僕は名刺を見た。
それから彼女を見た。
「ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。
「楽しみにしています」
◇ ◇ ◇
彼女が去ったあとも、僕は名刺を見つめていた。
真由さんが微笑んだ。
「うまくいったみたいですね」
僕は彼女を見た。
「僕の作品を読みたいって言われたみたいです」
彼女は笑った。
「何人もの方が、そう言っていましたよ」
「いえ」
僕は名刺を見た。
「仕事として、です」
真由さんは微笑んだ。
「おめでとうございます」
僕は考えた。
「今からジャガイモ農家になるには、もう遅いと思いますか?」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
家に帰るころには、僕は疲れ切っていた。
完全に。
徹底的に。
見事なまでに。
疲れていた。
でも、幸せだった。
やり遂げたのだ。
文学交流会に参加した。
作品を発表した。
質問に答えた。
そして、出版社に作品を検討してもらうための投稿を勧められた。
何も保証されていなかった。
契約を結んだわけではない。
僕を次の文学界の大スターにすると約束した出版社もなかった。
でも、扉が一つ開いた。
そして今回は――
青い扉ではなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話が来た。
僕はすぐに出た。
画面に彼女が映った。
「それで?」
僕は微笑んだ。
「それで、何?」
彼女は目を細めた。
「春人」
僕は考えた。
「どうやら、僕は作家らしい」
葵は笑った。
「ずっとそう言ってるじゃない!」
「うん。でも、今は知らない人たちが証明してくれたから」
彼女は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
僕はすべて話した。
朗読。
質問。
観客。
編集者。
葵は、ますます嬉しそうになりながら聞いてくれた。
話し終えるころには、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
僕は疲れていることさえ忘れそうになった。
「本当に誇らしいよ」と彼女はささやいた。
僕は微笑んだ。
「ありがとう」
彼女は首を振った。
「本当に」
目が潤んでいた。
「何週間も怖がってたことを、やり遂げたんだよ」
僕は考えた。
「厳密には、何週間もいろんなことを怖がってたけどね」
彼女は笑った。
「春人」
僕は微笑んだ。
「分かってる」
◇ ◇ ◇
それから葵は静かになった。
「お母さん、きっと喜んだだろうね」
僕の笑顔が柔らかくなった。
「うん」
僕は写真を見た。
「そう思う」
◇ ◇ ◇
僕たちはしばらく通話を続けた。
未来について話した。
出版社。
葵の研修。
常勤の仕事の可能性。
そして、まだ答えの出ていない問題。
すべてを解決したわけではなかった。
どこに住むかも決めなかった。
離れて暮らすことが、いつも簡単だと約束したわけでもなかった。
でも、話した。
耳を傾けた。
そして、お互いを理解しようとすることを、選び続けた。
◇ ◇ ◇
通話が終わったあと、僕はパソコンを開いた。
三つのものが待っていた。
原稿。
編集者から教えてもらった投稿先の情報。
そして、恵子さんからのメール。
僕はメールを開いた。
母のノートからスキャンされた一ページが添付されていた。
たった一ページ。
共有できることが確認されたページだった。
僕は見つめた。
それから開いた。
◇ ◇ ◇
筆跡は間違いなかった。
母の字だった。
日付は何年も前のものだった。
そこには、将来の住まいや教育の機会について話し合った会議のことが書かれていた。
実務的なメモ。
名前。
質問。
そして、二重線で強調された一文。
春人には、自分がどんな人生を望むのか、自分で決める権利がある。たとえその答えが、私の望むものと違っていても。
僕は唾を飲み込んだ。
それから下のほうを見た。
ページの端に、別のメモがあった。
清水明さんによれば、もっと柔軟な仕組みを作れる可能性があるとのこと。次の会議のあとに確認する。
僕は見つめた。
また、あの名前だった。
清水明。
その人が誰であれ――
母が約束を書き留めるほどには、重要な人物だった。
それが何を意味するのかは分からなかった。
まだ。
でも、知りたかった。
◇ ◇ ◇
僕は母の写真を見た。
「お母さん?」
沈黙。
「やったよ」
声が柔らかくなった。
「今日、僕の物語を読んだんだ」
僕は微笑んだ。
「みんな、聞いてくれた」
目に涙が浮かんだ。
「それに、もっと読みたいって言ってくれた人もいた」
僕はノートのページを見た。
「今でも僕を助けてくれてるんだね」
アパートは静かなままだった。
でも、なぜか――
空っぽには感じなかった。
◇ ◇ ◇
僕は今日一日のことを考えた。
リクのスケッチ。
幸子さんの原稿。
恵子さんの発見。
葵の仕事。
文学交流会。
編集者からの誘い。
そして、この先に待っている、不思議で美しい不確かさ。
長い間、僕は未来というものを、いつか到達しなければならない場所だと思っていた。
遠くにある目的地。
人生がようやく始まる場所。
でも今――
少しずつ分かってきた。
未来は、どこか遠くで待っているものではない。
もう始まっているのだ。
会話の中で。
決断の中で。
未完成の原稿の中で。
難しい質問の中で。
何でもない日々の中で。
そして、ずっと伝えようとしてきた言葉に、誰かがようやく耳を傾けてくれた瞬間の中で。
◇ ◇ ◇
寝る前に、新しい文書を開いた。
一番上に、こう書いた。
次の章
それから止まった。
画面を見た。
そして小さく笑った。
だって、今回は――
次に何が起こるのか、分からなかったから。
正確には。
でも、それでよかった。
いい物語は、最初からすべての答えを明かす必要なんてない。
ときには――
書き続けようとする人が一人いれば、それで十分なのだ。
僕は文書を保存した。
最後にもう一度、母の写真を見た。
そして微笑んだ。
「おやすみ、お母さん」
外では、街が動き続けていた。
どこかで葵が、次の日の研修に向けて準備している。
どこかで幸子さんが、もう終わったと思っていた物語を書き直している。
どこかでリクが、これまで僕の想像の中にしか存在しなかった登場人物を描いている。
そして過去のどこかで、母は一つの約束を書き留めていた。
その意味を、僕はようやく知り始めたところだった。
まだ、たくさんの道が残っている。
愛する人たちへ続く道もあるだろう。
思いがけない機会へ続く道もあるだろう。
そして、想像したこともない場所へ僕を連れていく道もあるかもしれない。
でも、それらは僕自身が進むことのできる道だった。
そして初めて――
その道がどこへ続いているのか分からないことを、怖いとは思わなかった。




