第69話 受け継いだ言葉と、まだ選んでいない未来
大人になることの問題は、いつになったら自分が大人になったと実感できるのか、誰も教えてくれないことだった。
特別な儀式があるわけでもない。
公式な発表があるわけでもない。
ましてや、謎の政府職員が玄関先に現れて、「あなたは責任ある判断を下す資格を得ました」と書かれた証明書を渡してくれるわけでもない。
実に残念だった。
僕には、その証明書が必要だったからだ。
できればラミネート加工されているものがいい。
額に入れてもいい。
そして、誰かに僕の判断を疑われたとき、すぐ指し示せる場所に飾っておきたかった。
もちろん、そのためには僕が実際に正しい判断力を持っていなければならない。
かなり疑わしい前提だった。
何しろ最近の僕は、年配の女性に自分の小説を批評させることに同意し、叔父にスマートホーム機器を設置させ、さらには自分から大勢の知らない人の前で話す招待を受けてしまったのだから。
明らかに――
大人になっても、僕の判断力は改善していなかった。
でも、大人になったことで手に入れたものもあった。
選択肢だ。
そして最近、その選択肢は僕の理解が追いつかないほどの速さで増えていた。
小さな選択もあった。
何を食べるか。
いつ執筆するか。
どの本を読むか。
でも、もっと大きな選択もあった。
作家として公の場に出る道を進むかどうか。
離れて暮らす期間がさらに長くなる恋人との関係を、どう維持していくか。
そして、母が説明する機会を持てなかった人生の一部分を、知ろうとするかどうか。
残念ながら――
その三つの問題は、同じ週に一斉に複雑になった。
当然だ。
どうやら宇宙は、僕の人生を僕自身の小説と勘違いしているらしい。
◇ ◇ ◇
月曜日の朝は、藤村恵子さんからのメールで始まった。
母の行方不明になっているノートについて、何か知らせがあるかもしれないとは思っていた。
でも、添付ファイルがあるとは予想していなかった。
スキャンされた手紙。
そして、こんなメッセージが書かれていた。
春人くんへ。古い書簡を確認しているときに、あるものを見つけました。探しているノートではないと思いますが、あなたに見てもらいたいのです。お母さんが亡くなる数年前に書いた手紙です。気持ちの準備ができたときに読んでください。
僕は画面を見つめた。
母。
また一通の手紙。
しばらく、どうしても開くことができなかった。
近くでいつもの朝の記録をつけていた真由さんが、僕の沈黙に気づいた。
「大丈夫ですか?」
僕は彼女を見た。
「恵子さんが、母の手紙をもう一通見つけたみたいです」
彼女の表情が柔らかくなった。
「少しお時間を取りましょうか?」
僕は考えた。
「はい」
彼女はうなずいた。
「もちろんです」
僕はパソコンに向き直った。
添付ファイルが待っていた。
たった一度の操作。
それだけだった。
一つの指示を出すだけで、母の過去のもう一つの断片が、僕の現在の一部になる。
僕はファイルを開いた。
◇ ◇ ◇
手紙の日付は、母が亡くなる数年前だった。
僕に宛てたものではなかった。
恵子さんに宛てた手紙だった。
最初の数段落には、実務的なことが書かれていた。
住まい。
専門的な看護支援。
資金計画。
教育の機会。
母は、次の会議で確認したい質問をまとめていた。
支援制度の利用条件、バリアフリーの移動手段、そして将来、僕が日常生活についてより多くの決定権を持てる住環境を整える可能性について書かれていた。
そこまでは驚かなかった。
恵子さんが話してくれた、まさにそのような計画だったからだ。
でも、最後の部分にたどり着いたとき――
僕は読む手を止めた。
春人には、これからも人の助けが必要なことがあると分かっています。でも、私が本当に怖いのは、そのことではありません。誰かが、助けを必要とすることと、自分の望む人生を決める能力がないことを、同じだと思い込んでしまうことです。
僕は唾を飲み込んだ。
次の段落は、もっと読むのがつらかった。
あの子は物語が大好きです。ときどき、本の世界に夢中になっている姿を見ていると、私には見えない世界で、もう別の人生を生きているのではないかと思うことがあります。その気持ちを、どうか失わないでほしい。何かを伝えたいとき、耳を傾けてくれる人たちと出会ってほしいのです。
視界がにじんだ。
僕は読み続けた。
あの子がこれからどんな人間に成長していくのか、私がそばで見届けられるかどうかは分かりません。見届けられると信じたい。でも、その希望だけに頼った計画を立てるわけにはいかないのです。
沈黙。
アパートが、さらに静かになったように感じた。
そして最後の一文。
何よりも、春人には未来が自分自身のものだと理解してほしいのです。たとえ私が、その未来にたどり着く手助けをするために残りの人生を費やすことになったとしても。
◇ ◇ ◇
僕は長い間、その言葉を見つめていた。
それから母の写真を見た。
「お母さん……」
母が僕を愛してくれていたことは知っていた。
もちろんだ。
それを疑ったことは一度もなかった。
でも、誰かが自分を愛してくれていると知ることと、その愛がどんな形をしていたのかを具体的に知ることは、まったく違っていた。
母は、僕が生き延びることだけを望んでいたわけではなかった。
僕が人生を生きる姿を想像していた。
書くこと。
選ぶこと。
愛すること。
失敗すること。
頑固でいること。
文句を言われて当然の人と議論すること。
そして、たまには文句を言われるほどでもない人と議論することも。
僕は涙を浮かべながら微笑んだ。
「まあ、頑固なところは間違いなく当たってたね」
◇ ◇ ◇
その日の午前中、僕は恵子さんに電話をかけた。
彼女はすぐに出てくれた。
「春人くん?」
「こんにちは」
「手紙は届いた?」
「はい」
少し間を置いた。
「読みました」
彼女の声が優しくなった。
「今、どんな気持ち?」
僕は考えた。
「母は、僕が自分自身を理解するよりも、ずっと僕のことを理解していたんだなって」
恵子さんは少し黙った。
それから言った。
「お母さんは、あなたの未来についてたくさん考えていたのよ」
「分かります」
「あなたが大人になったとき、選択肢を持てるようにしたかったの」
僕は手紙を見た。
「計画は完成したんですか?」
恵子さんはためらった。
「全部はね」
胸が締めつけられた。
「母が病気になったからですか?」
「それも理由の一つよ」
恵子さんは少し間を置いた。
「当時は利用できなかった制度や、確保できなかった資金に左右される部分もあったの」
僕はうなずいた。
「ノートは?」
「まだ探しているところよ」
「何か進展は?」
「可能性はあるわ」
僕は耳を澄ませた。
「どんな?」
「組織の再編時に、一部の記録が別の場所へ移されたことが、資料の保管担当者への確認で分かったの。ノートもその中に含まれていたかもしれないわ」
「かもしれない?」
「ええ。中身はまだ確認できていないの」
僕はため息をついた。
「やっぱり」
恵子さんは小さく笑った。
「お母さんも、書類の話になると同じ反応をしていたわ」
「どうやら、それも受け継いだみたいですね」
◇ ◇ ◇
恵子さんは考え込んだ。
「春人くん、一つ覚えておいてほしいことがあるの」
「何ですか?」
「お母さんの計画は、当時分かっていた状況をもとに作られたものなの」
僕は聞いていた。
「今でも役に立つものもあるでしょう」
「もう当てはまらないものもあるかもしれない」
「そして、今のあなたが望んでいないものもあるかもしれないわ」
僕は執筆机を見た。
恵子さんは続けた。
「お母さんがあなたを愛していたからといって、すべての計画に従わなくてもいいのよ」
僕は驚いた。
「本当に?」
「もちろん」
彼女の声は優しかった。
「お母さんは、あなたに選択肢を持ってほしかったの」
「それには、お母さんとは違う選択をすることも含まれているのよ」
◇ ◇ ◇
電話を切ったあとも、僕は机に向かったままだった。
母の手紙は、パソコンに開かれたままだった。
その隣には、もう一つの文書があった。
僕の原稿。
二つの異なる文章。
一つは、見ることができないかもしれない未来を想像しながら、母が書いたもの。
もう一つは、存在したことのない人々を想像しながら、僕が書いたもの。
僕は二つを見比べた。
それから、かすかに微笑んだ。
「案外、僕たちは似ていたのかもしれないね」
◇ ◇ ◇
火曜日、問題が起こった。
医療の問題ではない。
住まいの問題でもない。
金銭的な問題ですらなかった。
もっと恐ろしいものだった。
広報活動だ。
文学団体から、今度の交流会の告知文の草案が送られてきた。
最初は、何も問題がないように見えた。
日付。
会場。
参加する作家たち。
イベントの簡単な説明。
そして、僕の紹介文にたどり着いた。
僕は危うく、存在しないコーヒーを吹き出すところだった。
障害を乗り越え、自らの特別な物語を伝える感動の若手作家
僕は見つめた。
もう一度読んだ。
さらに三度目。
駄目だ。
絶対に駄目だ。
何年もかけて登場人物を作り、台詞を推敲し、架空の探偵と口論してきたのは、作家としての自分を感動的な見出し一つにまとめてもらうためではない。
僕は返信画面を開いた。
それから止まった。
返事には、いくつかの方法があった。
一つ目は、丁寧に修正をお願いすること。
二つ目は、なぜこの表現が不適切なのかについて、非常に長い説明を送ること。
三つ目は、パソコンに火をつけること。
残念ながら、三つ目はお金がかかる。
おそらく危険でもある。
だから、一つ目を選んだ。
ほとんどは。
◇ ◇ ◇
僕は返信を音声入力した。
告知文を作成していただき、ありがとうございます。ご招待いただいたこと、そして参加に必要な配慮を検討してくださっていることに感謝しています。ただ、紹介文については、障害を乗り越えたという表現ではなく、作家としての作品に焦点を当てていただきたいと考えています。障害は僕の人生の一部ですが、今回のイベントで紹介されるべき中心的な成果ではありません。
僕は少し考えた。
それから付け加えた。
必要でしたら、作家としての短い経歴と、朗読予定の作品の紹介文をお送りします。
僕はメッセージを読み返した。
仕事として適切。
丁寧。
合理的。
不気味なほど大人らしい。
その効果を台無しにする前に、送信した。
◇ ◇ ◇
当然ながら、僕は幸子さんに話した。
彼女はその日の午後、ファイルを持ってやってきた。
僕は最近、僕の人生に関わる人たちが、ひそかにファイルを収集しているのではないかと疑い始めていた。
もしかすると、感染するのかもしれない。
幸子さんは告知文を読んだ。
眉が上がった。
それから、ある音を立てた。
非常に特徴的な音だった。
誰かが文学に対する犯罪を犯したと知ったときに、人間が発するような音だ。
「これは絶対に駄目ね」
僕は微笑んだ。
「僕もそう思いました」
彼女は僕を見た。
「あなたが招待されたのは、作家だからでしょう?」
「そのとおりです」
「だったら、作家として紹介すべきよ」
僕はうなずいた。
「まったくそのとおりです」
幸子さんは腕を組んだ。
「こんな馬鹿げたことを言い続けるなら、私が手紙を書くわ」
僕は固まった。
「それだけはやめてください」
彼女は不満そうだった。
「どうして?」
「主催者に命の危険を感じさせずに、イベントへ参加したいので」
彼女は微笑んだ。
「だったら、きちんとした対応をすればいいのよ」
◇ ◇ ◇
告知文への批判を終えると、幸子さんは珍しく静かになった。
僕はすぐに気づいた。
「森田さん?」
「何?」
「何かあったんですか?」
「いいえ」
僕は考えた。
「今の『いいえ』は、かなり『はい』に聞こえましたけど」
彼女はため息をついた。
それからバッグに手を入れた。
そして、一冊の原稿を取り出した。
本物の原稿。
印刷された紙。
綴じられたページ。
端が黄色く変色していた。
僕は目を見開いた。
「それって……」
彼女はうなずいた。
「昔書いていた小説よ」
◇ ◇ ◇
その瞬間、文学イベントのことを忘れた。
「見つかったんですか?」
「ええ」
「どこで?」
「箱の中」
僕は見つめた。
「箱?」
「クローゼットの中よ」
僕は考えた。
「がっかりするほど普通の答えですね」
彼女は僕を見た。
「何を期待していたの?」
「隠し部屋です」
「でしょうね」
「秘密の暗号とか」
「春人」
「もしかしたら白骨死体も」
彼女はため息をついた。
「本当に疲れる子ね」
僕は微笑んだ。
「職業病です」
◇ ◇ ◇
幸子さんは原稿を僕の机に置いた。
「何十年も読んでいないの」
僕は表紙を見た。
題名があった。
『海が私たちの名前を忘れた夏』
僕は静かになった。
「綺麗な題名ですね」
彼女は目をそらした。
「感傷的すぎるわ」
「だからといって悪いわけじゃありません」
彼女はためらった。
「若かったのよ」
「人間は誰でも、人生のどこかで若い時期がありますから」
彼女は鋭い目を向けた。
僕は無邪気に微笑んだ。
◇ ◇ ◇
幸子さんは、結婚して間もないころに小説を書き始めたと説明した。
父親の死をきっかけに、海辺の故郷へ戻ってきた若い女性の物語だった。
そこで彼女は、誰も話そうとしなかった家族の過去を明らかにする手紙を見つける。
僕はすぐに興味を持った。
「ミステリーみたいですね」
「そういうわけじゃないわ」
「家族の秘密?」
「ええ」
「古い手紙?」
「そう」
「死者も出てくる?」
彼女は目を細めた。
「春人」
僕はにやりとした。
「いや、材料はそろっているなと思って」
◇ ◇ ◇
彼女は冒頭を読ませてくれた。
正確には、原稿をデジタル化して、僕がパソコンで読めるようにすることを許してくれた。
彼女は近くに座っていた。
見守りながら。
待ちながら。
今まで見たことがないほど緊張しているようだった。
僕は一ページ目を読んだ。
それから二ページ目。
三ページ目。
そして、ゆっくりと――
彼女が見ていることを忘れた。
文章は美しかった。
完璧ではない。
ぎこちない文章もあった。
描写が少し大げさな部分もあった。
そして、ある段落では海について何度も語られていたため、語り手が魚になってしまったのではないかと一瞬心配になった。
でも、その欠点の奥には――
本物の感情があった。
若い女性の悲しみ。
怒り。
本当には理解できなかった父親を知りたいという願い。
僕は冒頭を読み終えた。
そして幸子さんを見た。
「森田さん」
彼女は姿勢を正した。
「何?」
「これ、いい作品です」
◇ ◇ ◇
彼女は見つめた。
それから眉をひそめた。
「お世辞はやめて」
「お世辞じゃありません」
「未完成なのよ」
「だから?」
「古い作品よ」
「だから?」
「文章が未熟なの」
「一部はそうですね」
彼女は不満そうだった。
僕は微笑んだ。
「正直な意見が聞きたいんですよね?」
「そうだけど――」
「だったら、言います」
僕は原稿を見た。
「描写はもう少し整理できます」
「冒頭の展開も少し遅いです」
「それに主人公は、三ページも海を眺めているのに、実際には何もしていません」
幸子さんはため息をついた。
「やっぱりね」
「でも……」
彼女は僕を見た。
僕は微笑んだ。
「続きが知りたいです」
沈黙。
彼女の表情が変わった。
◇ ◇ ◇
数秒間、幸子さんは何も言わなかった。
それから目をそらした。
「残酷ね」
僕は瞬きをした。
「え?」
「諦めたものに、まだ完成させる価値があるかもしれないと思わせるなんて」
僕の笑顔が消えた。
「森田さん……」
彼女は首を振った。
「忙しくなって、しまい込んだの」
「それから子供が生まれて」
「仕事があって」
「夫の病気があって」
「ほかにもいろいろ」
声が小さくなった。
「いつの間にか、自分が物語を書く人間だと思わなくなっていたの」
僕は聞いていた。
彼女は原稿を見た。
「それなのに今、あなたは、私の人生のその部分がまだ終わっていないかもしれないって言うのね」
◇ ◇ ◇
僕は慎重に言葉を選んだ。
それから言った。
「終わらせる必要なんて、最初からなかったんじゃないでしょうか」
彼女は僕を見た。
「あなたは簡単に言うわね」
「そうかもしれません」
僕はかすかに微笑んだ。
「でも、森田さんは何週間も、僕の探偵は人間として成長する必要があるって言い続けていましたよね」
彼女は目を細めた。
「必要よ」
「だったら、この原稿を書いた人にも、成長する機会があっていいんじゃないですか?」
彼女は見つめた。
僕は微笑んだ。
「仕事上の仕返しだと思ってください」
一瞬、叱られるかと思った。
でも、彼女は笑った。
小さな笑い声。
少し照れくさそうな笑い声だった。
そして目元を拭った。
◇ ◇ ◇
水曜日は、葵が決断した日だった。
彼女は研修の延長を受け入れた。
電話が来る前から知っていた。
メッセージが届いていたからだ。
葵:決めたよ。
僕は微笑んだ。
春人:おめでとう!
少しして――
葵:楽しみ。
そして――
葵:でも、怖い。
僕は考えた。
春人:価値のある決断って、だいたいそういうものだよ。
彼女から笑顔の絵文字が返ってきた。
それから、今夜話せるかと聞かれた。
もちろん話せる。
でも、通話が始まるころには、何かが変わっていた。
僕たちの関係そのものが変わったわけではない。
むしろ――
二人ともきちんと認めていなかった何かが、会話の端から少しずつ入り込んできたような感覚だった。
◇ ◇ ◇
画面に映った葵は、着心地のよさそうなセーターを着ていた。
髪は後ろでまとめていた。
疲れているようだった。
でも、嬉しそうだった。
「やあ」
「やあ」
僕は微笑んだ。
「おめでとう、未来の世界的看護専門家さん」
彼女は笑った。
「大げさすぎるよ」
「分かった」
僕は考えた。
「じゃあ、地方で有名な看護専門家さん」
「春人」
「地域で尊敬される看護専門家さん?」
彼女はさらに笑った。
「もうやめて」
僕はにやりとした。
「絶対に嫌だ」
◇ ◇ ◇
僕たちは研修について話した。
追加される責任。
予定。
研修の担当者。
日程が確定し、必要な準備が整えば、お互いを訪ねられるかもしれないこと。
すべて順調に思えた。
葵が、あることを口にするまでは。
「あ、そうだ。来週の金曜日、遅くまで仕事になるかもしれないの」
僕は瞬きをした。
「来週の金曜日?」
「うん」
僕は静かになった。
葵が気づいた。
「どうしたの?」
僕はためらった。
「何でもない」
彼女は目を細めた。
「春人」
僕はため息をついた。
「その日、オンラインで記念日のディナーをする予定だったんだけど」
沈黙。
葵が固まった。
「あ……」
僕は視線を落とした。
彼女は目を閉じた。
「うそ……」
◇ ◇ ◇
僕たちは何週間も前から、そのディナーを計画していた。
大きな記念日ではない。
ただ、お互いの気持ちが友情以上のものだと初めて認めた日を、ささやかに祝うつもりだった。
それぞれ夕食を用意して、少しおしゃれをして、ビデオ通話で一緒に夜を過ごそうと約束していた。
少し馬鹿げていた。
少し感傷的だった。
でも、僕はずっと楽しみにしていた。
葵はひどく申し訳なさそうだった。
「春人、ごめん」
僕はかすかに微笑んだ。
「大丈夫だよ」
でも、その言葉はしっくりこなかった。
自分でも分かった。
葵も気づいた。
「怒ってるよね」
「少しね」
「本当にごめん」
僕はうなずいた。
「分かってる」
彼女は視線を落とした。
「研修のことで頭がいっぱいで、忘れちゃってた」
僕は笑おうとした。
「まあ、少なくとも僕たちのどちらかは覚えてたわけだし」
そう言った瞬間――
後悔した。
◇ ◇ ◇
葵の表情が変わった。
怒りではなかった。
少なくとも、すぐには。
傷ついた表情だった。
「今のはひどいよ」
僕は目を閉じた。
「分かってる」
彼女は目をそらした。
「大切じゃないから忘れたわけじゃないの」
「分かってる」
「だったら、どうしてそんなこと言うの?」
僕はためらった。
がっかりしたから。
ずっと日数を数えていたから。
会いたかったから。
葵を誇りに思う気持ちと、寂しさが同時にあったから。
そして、それを全部認めることが、情けないほど難しかったから。
「分からない」と僕は言った。
葵は静かになった。
それから――
「本当は分かってると思う」
◇ ◇ ◇
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから僕はため息をついた。
「そうだね」
彼女は僕を見た。
「楽しみにしてたんだ」
葵の表情が柔らかくなった。
「うん」
「だから、忘れられて傷ついた」
葵は唾を飲み込んだ。
「ごめんね」
僕は続けた。
「でも、研修を引き受けたことに罪悪感を持たせるような言い方をするべきじゃなかった」
彼女は首を振った。
「春人は、研修のことで怒ってたんじゃないよ」
僕は彼女を見た。
「私が、二人にとって大切なことを忘れたから悲しかったんだよね」
僕は静かになった。
彼女は続けた。
「私も、ちゃんと気をつけるべきだった」
◇ ◇ ◇
僕は考えた。
「たぶん、僕たちはまだ学んでいる途中なんだね」
葵はうなずいた。
「うん」
僕はかすかに微笑んだ。
「お互いの夢を応援するって、がっかりすることがないふりをすることじゃないんだ」
彼女は僕を見た。
「そうだね」
「忙しいからって、お互いのための時間を作らなくていいわけでもない」
僕はうなずいた。
「そのとおり」
葵は少し考えた。
「ディナー、別の日にできる?」
僕は微笑んだ。
「もちろん」
「土曜日は?」
「大丈夫だよ」
彼女は微笑んだ。
「今度はカレンダーに入れておく」
僕は考えた。
「アラーム付きで?」
彼女は笑った。
「うん」
「二つ?」
「春人」
「三つのほうが安全だと思うけど」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
仲直りしたあとは、会話が楽になった。
僕たちは未来について話した。
大げさな宣言ではなく。
守れる保証のない約束でもなく。
現実的なことを。
いつ電話するか。
忙しい週をどう乗り切るか。
相手を責めずに、がっかりした気持ちをどう伝えるか。
同じ部屋にいられなくても、小さな節目をどう祝うか。
葵は考え込んだ。
「私たち、こういうの上手になるかな?」
僕は微笑んだ。
「すぐには無理かもね」
彼女は小さく笑った。
「でも、いつかは?」
「そう願いたいね」
僕は少し間を置いた。
「少なくとも、謝るのはものすごく上手になると思う」
葵は微笑んだ。
「それも大事だね」
◇ ◇ ◇
木曜日、文学団体からまたメールが届いた。
僕は慎重に開いた。
前回の告知文以来、広報というものに健全な警戒心を抱くようになっていたからだ。
幸い――
修正された紹介文は、ずっとよくなっていた。
高橋春人は、ミステリー、人間関係、そして人生を形作る複雑な選択をテーマに作品を執筆する新進作家です。今回のイベントでは、執筆中の作品の朗読と、創作過程についての紹介を行います。
僕は見つめた。
それから微笑んだ。
これだ。
これが僕だった。
作家。
象徴ではない。
感動的な見出しでもない。
ただ、伝えたい物語を持った人間。
◇ ◇ ◇
主催者は、以前の表現についても謝罪してくれた。
僕の成果を称えようとしたものの、なぜ元の紹介文が不適切だったのか理解したと説明していた。
僕はそれをありがたく思った。
人は間違える。
大切なのは、相手の話に耳を傾ける意思があるかどうかだ。
僕は感謝の返信を送った。
それから修正された告知文を幸子さんに転送した。
三分後、返事が届いた。
合格。
僕は見つめた。
それだけだった。
たった二文字。
架空の探偵について二十三ページもの批評を書ける女性からの返事が、たった二文字。
僕は笑った。
どうやら森田幸子からの承認は、非常に希少で貴重な資源らしい。
◇ ◇ ◇
その日の午後、佐藤恵美さんから電話があった。
彼女は文学交流会に向けた実務的な調整を進めてくれていた。
「いい知らせがあります」と彼女は言った。
僕は微笑んだ。
「大好きな言葉です」
「移動サービスの事業者が、春人さんの電動車椅子と機器に対応できることを確認できました。正式な予約はこれからですが」
「素晴らしいです」
「看護事業所も、イベントに合わせた勤務体制を確認しています」
僕はうなずいた。
「会場は?」
「バリアフリーに関する情報は良好です。ただ、部屋の配置と緊急時の対応について、もう少し確認が必要です」
僕は微笑んだ。
「妥当ですね」
恵美さんは小さく笑った。
「こういう調整にも、ずいぶん慣れてきましたね」
僕は考えた。
「残念ながら」
◇ ◇ ◇
僕たちはイベントについて話し合った。
到着時間。
移動手段。
機器。
看護体制。
バリアフリーの移動経路。
緊急時の計画。
朗読の形式。
主催者は、僕の車椅子と必要な機器のために十分なスペースを確保し、ほかの作家たちから不自然に離れた場所に配置しないことにも同意してくれていた。
それは重要だった。
展示物のように扱われたくなかった。
参加したかったのだ。
恵美さんは理解してくれていた。
電話が終わると、僕はもう一度イベントの告知文を見た。
初めて――
自分がそこにいる姿を想像できた。
誰かに見せられる存在としてではなく。
自分の言葉を聞いてもらう存在として。
◇ ◇ ◇
金曜日の夕方、恵子さんから電話があった。
僕はすぐに出た。
「もしもし?」
「春人くん、進展があったの」
胸が締めつけられた。
「ノートですか?」
「正確には違うの」
僕はため息をついた。
「やっぱり」
彼女は小さく笑った。
「でも、別の文書が見つかったわ」
僕は耳を澄ませた。
「どんな文書ですか?」
「お母さんが作っていた長期計画の草案よ」
僕は固まった。
「本当に?」
「ええ」
恵子さんは少し間を置いた。
「体調が悪くなり始める前にまとめた構想のようね」
僕は写真を見た。
「何が書かれているんですか?」
◇ ◇ ◇
恵子さんは説明した。
完成した計画書ではなかった。
作業途中の構想だった。
アイデアの集まり。
質問。
考えられる目標。
住まいについての項目があった。
専門的な看護支援。
教育。
バリアフリーの移動手段。
地域社会への参加。
そして、予想していなかったものもあった。
執筆。
僕の執筆だった。
◇ ◇ ◇
「そんなことまで書いてあったんですか?」と僕は尋ねた。
恵子さんの声が柔らかくなった。
「ええ」
僕は唾を飲み込んだ。
「何て?」
「あなたが興味を持っていることを伸ばせる機会を、持ってほしいと書いてあったわ」
「その中には、文章を書くことも含まれていたの」
「あなたが物語を作り、それをほかの人たちと共有できるような方法を探したい、と」
僕は静かになった。
恵子さんは続けた。
「将来、どんな仕事をすることになるのかは、お母さんにも分からなかった」
「でも、それを自分で見つける機会を持ってほしかったのよ」
◇ ◇ ◇
僕はパソコンを見た。
原稿。
章。
物語。
文学イベントへの招待。
母の夢は、未来を正確に予言したものではなかった。
僕が何を書くのか、母は知らなかった。
どんな登場人物を生み出すのかも知らなかった。
僕の作品を誰かが読んでくれるかどうかも分からなかった。
ただ、その機会を持ってほしかったのだ。
そしてなぜか――
そのことが、いっそう大きな意味を持っていた。
◇ ◇ ◇
恵子さんは続けた。
「もう一つあるの」
僕は聞いていた。
「お母さんは、構想の最後にメモを残していたわ」
「何て書いてあったんですか?」
恵子さんは少し間を置いた。
それから読み上げた。
「これは可能性であって、指示ではありません。春人が十分に成長したら、どれが自分にとって必要なものなのか、自分で決めてほしい」
僕は目を閉じた。
数秒間――
何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
やがて僕はささやいた。
「母らしいです」
恵子さんは微笑んだ。
「ええ」
僕は写真を見た。
「本当に分かっていたんですね」
「分かろうとしていたのよ」
少し間があった。
「そして、あなたをとても愛していた」
僕は唾を飲み込んだ。
「知っています」
それからかすかに微笑んだ。
「その大きさが、少しずつ分かってきました」
◇ ◇ ◇
電話のあと、僕は恵子さんに構想のコピーを送ってもらうよう頼んだ。
彼女は了承してくれた。
また、行方不明のノートは依然として見つかっていないとも説明してくれた。
資料の捜索は続いていたが、何か不正なことが起きたと考える理由はなかった。
僕は彼女の慎重さをありがたく思った。
自分がミステリーを書いているからといって、母の過去まで陰謀に仕立てたくはなかった。
もっとも――
誘惑がかなり強かったことは認めざるを得ない。
◇ ◇ ◇
土曜日の午後、幸子さんがまたやってきた。
今度は原稿を持っていた。
それからペンも。
赤いペン。
僕は見つめた。
「森田さん」
「何?」
「心配したほうがいいですか?」
「たぶんね」
彼女は原稿をテーブルに置いた。
「改稿することにしたわ」
僕は目を見開いた。
「本当に?」
彼女はうなずいた。
「ええ」
僕は微笑んだ。
「素晴らしいです」
彼女は目をそらした。
「大騒ぎしないで」
「もちろんです」
僕は少し間を置いた。
「パレードのほうがいいですか?」
彼女は僕をにらんだ。
僕はにやりとした。
◇ ◇ ◇
僕たちは午後を使って、彼女の小説について話し合った。
先生と生徒としてではない。
批評家と作家としてでもない。
二人の作家として。
彼女は主人公の動機について僕の意見を求めた。
僕は家族の過去について質問した。
彼女は、冒頭を父親の葬儀から始めるべきかどうか悩んでいた。
僕は、最初の手紙を発見する場面から始めることを提案した。
彼女は考えた。
「それもいいかもしれないわね」
僕は微笑んだ。
「気をつけてください」
「何?」
「僕に賛成してますよ」
彼女は目を細めた。
「慣れないことね」
◇ ◇ ◇
やがて、幸子さんは静かになった。
「春人?」
「はい?」
「読んでくれる人がいると思う?」
僕は考えた。
「いると思います」
彼女は僕を見た。
「今さらでも?」
「どうして駄目なんですか?」
彼女はため息をついた。
「私はもう年寄りよ」
僕は微笑んだ。
「それに、ものすごく怖い人です」
彼女は見つめた。
僕は続けた。
「ほかの人の間違いを指摘するのも、とても上手です」
「春人」
「作家として役に立つ才能ですよ」
彼女は笑った。
◇ ◇ ◇
それから僕は真剣になった。
「森田さん、出版する必要はないんです」
彼女は僕を見た。
「誰かのために完成させる必要だってありません」
僕は少し間を置いた。
「でも、まだその物語を伝えたいなら、書いたほうがいいと思います」
彼女の表情が柔らかくなった。
「自分のために?」
僕はうなずいた。
「自分のために」
彼女は原稿を見下ろした。
それから微笑んだ。
小さな笑顔。
でも、本物の笑顔だった。
◇ ◇ ◇
その夜は、延期していた僕たちの記念日ディナーだった。
葵は準備を整えていた。
非常に念入りに。
彼女は僕に三回もリマインダーを送ってきた。
前日に一回。
当日の朝に一回。
そして、通話の一時間前に一回。
最後のメッセージには、こう書かれていた。
忘れてないからね!
僕はあまりに笑ったので、真由さんに大丈夫かと聞かれた。
僕は大丈夫だと答えた。
ほとんどは。
◇ ◇ ◇
約束の時間になると、葵が画面に現れた。
綺麗なブラウスを着ていた。
髪は下ろしていた。
そして、とても美しかった。
僕は見つめた。
彼女は微笑んだ。
「何?」
僕は考えた。
「何でもない」
「春人」
「どうやって葵に付き合ってもらえるようになったんだろうって、考えてただけ」
彼女は笑った。
「判断力が悪かったんだよ」
僕は真剣にうなずいた。
「明らかにね」
◇ ◇ ◇
僕たちはビデオ通話で一緒に夕食を食べた。
正確には、葵は自分で夕食を食べ、僕は勤務中の看護師から必要な介助を受けながら食事を楽しんだ。
話した。
笑った。
付き合い始めたころの、ぎこちない出来事を思い出した。
誤解。
喧嘩。
何を言えばいいのか、どちらも分からなかった瞬間。
そして、何も言わなくても、それだけで十分だった瞬間。
やがて葵は考え込んだ。
「私たちが初めて親しくなったころ、覚えてる?」
僕は微笑んだ。
「残念ながら」
彼女は笑った。
「残念ながら?」
「葵は怖かったからね」
彼女は不満そうだった。
「怖くなかったよ!」
僕は考えた。
「口が鋭くて」
「正直で」
「意見がはっきりしていて」
「しょっちゅう僕に腹を立てていた」
彼女は腕を組んだ。
「それなのに、私を好きになったんでしょ?」
僕は微笑んだ。
「残念ながら、医学的にも説明のつかない謎だね」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
夕食のあとも、僕たちは通話を続けていた。
どちらも、なかなか別れを言いたくなかった。
葵は頬杖をついた。
「春人?」
「何?」
「幸せ?」
その質問には驚いた。
僕は考えた。
アパート。
執筆。
母。
答えの出ていない疑問。
近づいている文学イベント。
幸子さんの原稿。
僕たちの間にある距離。
すべて。
「うん」と僕は答えた。
「幸せだと思う」
葵は微笑んだ。
「分からないことがたくさんあっても?」
僕はうなずいた。
「それでも」
彼女は静かになった。
それからささやいた。
「私も」
◇ ◇ ◇
僕は彼女を見た。
「ねえ、葵」
「何?」
「昔は、幸せって、もう何も悪いことが起こらない場所にたどり着くことだと思ってた」
葵は聞いていた。
「でも今は……」
僕はかすかに微笑んだ。
「何か悪いことが起こるかもしれないと分かっていても、それでも前に進みたいと思えることが、幸せなのかもしれない」
彼女の表情が柔らかくなった。
「綺麗な言葉だね」
僕はにやりとした。
「作家だからね」
彼女は笑った。
「そうだったね」
◇ ◇ ◇
通話が終わったあとも、僕はしばらく起きていた。
母の手紙は、まだパソコンに開かれていた。
その隣には、恵子さんが送ってくれた計画の草案があった。
そして、別のウィンドウには――
僕の原稿。
僕は文書を見つめた。
母は、僕の未来を想像していた。
選択肢に満ちた未来。
でも母は、もう一つ大切なことも理解していた。
母の夢は、命令ではなかった。
可能性だった。
そして、その中から自分に必要なものを選ぶことを、僕は許されていた。
◇ ◇ ◇
僕は幸子さんのことを考えた。
何十年もの間、諦めた物語にはもう価値がないと思い続けていた女性。
今、彼女は再び書き始めている。
葵のことを考えた。
かつて、誰かに心を預けることを恐れていた女性。
今、彼女は仕事の機会を追いかけながら、どちらかが相手の人生に埋もれてしまうことのない関係を築く方法を学んでいる。
そして、自分自身のことを考えた。
かつて、自立とは目的地にたどり着くことだと思っていた青年。
今は、それが人生を通して学び続けるものだと知り始めている。
◇ ◇ ◇
僕は母の写真を見た。
「お母さん?」
沈黙。
「少し分かってきた気がする」
僕はかすかに微笑んだ。
「お母さんは、僕に自分が計画した人生を生きてほしかったわけじゃないんだね」
「僕自身の人生を計画できる機会を、持ってほしかったんだ」
目に涙が浮かんだ。
「そして今、僕はそうしてるよ」
◇ ◇ ◇
僕はパソコンに向き直った。
原稿を開いた。
そして音声入力を始めた。
義務だと思ったからではない。
何かを証明する必要があったからでもない。
ただ、書きたかったから。
物語は僕のものだったから。
登場人物たちが待っていたから。
そして、これから書くページのどこかには、まだ想像もしていない可能性があるから。
行方不明のノートは、まだどこかにあった。
文学イベントは近づいていた。
葵の研修は続いていく。
そして未来は、まだ不確かだった。
でも、もう不確かであることが、何かがおかしいという意味だとは思わなかった。
ときには――
ただ、物語がまだ終わっていないという意味なのだ。
◇ ◇ ◇
寝る前に、僕は原稿を保存した。
それから新しいページを開いた。
一番上に、こう書いた。
僕がやりたいこと
母が望んだことではない。
ほかの人たちが期待していることでもない。
僕自身のこと。
僕は書き始めた。
小説を完成させる。
文学交流会に参加する。
幸子さんが原稿を完成させるのを手伝う。
リクとの共同制作を検討する。
母の人生について、もっと知る。
必要な準備が整ったら、葵に会いに行く。
そして――
自分自身の人生を、これからも築いていく。
僕はリストを見た。
それから微笑んだ。
今回は、自分がまだ成し遂げていないことの多さに圧倒されなかった。
これからできるかもしれないことに、胸が躍っていた。
◇ ◇ ◇
外は静かだった。
アパートは暖かかった。
本棚には、僕の本たちが並んでいた。
母の写真は机のそばに置かれていた。
そして、僕たちを隔てる距離の向こうで、葵も自分自身の未来を築いていた。
僕から離れていくためではない。
僕の代わりに何かを選ぶためでもない。
僕と並んで。
違う場所で。
今は、まだ。
僕は最後にもう一度、母の写真を見た。
「おやすみ、お母さん」
それから微笑んだ。
「次の章を僕に任せてくれて、ありがとう」




