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第68話 僕がまだ生きていなかった未来へ、母が抱き続けた夢

母の過去について僕が最初に知ったのは、どうやら母が非常に危険な女性だったということだ。

もちろん、普通の意味で危険だったわけではない。

銀行強盗をしたことはない。

国際犯罪組織を率いていたこともない。

そして、僕の知る限り、昔の家の地下に違法な武器を隠し持っていたこともなかった。

もっとも――

母のことだから、恐ろしく威圧感のある調理器具を大量に集めていたとしても、そこまで驚かなかったかもしれない。

いや。

母が危険だったのは、別の意味においてだった。

立派な肩書きを持つ人から何かを言われても、それだけを理由に納得するような女性ではなかったのだ。

特に、その話が僕に関係している場合は。

残念ながら、何人もの行政職員や医療機関の管理者、ソーシャルワーカーにとって――

高橋美咲には、非常に厄介な性質が三つあった。

頭がよかった。

粘り強かった。

そして、くだらない理屈には一切我慢しなかった。

僕は、そのうち少なくとも二つを受け継いでいるのではないかと思い始めていた。

もしかすると、三つ全部かもしれない。

誰に聞くかによるけれど。

◇ ◇ ◇

月曜日の朝は、由紀叔母さんからの電話で始まった。

僕は執筆机に向かい、架空の探偵に、六章連続で明白な手がかりを無視するのは合理的な捜査方法ではないと納得させようとしていた。

残念ながら、探偵は聞く耳を持たなかった。

非常に腹立たしかった。

何しろ――

その探偵を生み出したのは僕なのだから。

電話が鳴った。

画面を見る。

由紀叔母さん。

「おはよう!」

「おはよう、春人」

その声に、僕は少し気になった。

「何かあった?」

「ええ。実は、知らせがあるの」

僕は車椅子の上で少し姿勢を正した。

「いい知らせ?」

「そうだと思うわ」

「怪しい答えだね」

叔母さんは小さく笑った。

「恵子さんが見つかったの」

僕は固まった。

「……本当に?」

「ええ」

僕の視線は、母の写真のそばに置かれた手紙へ向かった。

「まだこの辺りに住んでいるの?」

「それほど遠くないところよ」

叔母さんは少し間を置いた。

「昨日、電話で話したの。もちろん、春人のことを覚えていたわ」

僕は唾を飲み込んだ。

「何て言ってた?」

「元気にしていると聞いて、とても喜んでいたわ」

少し間があった。

「それから、自分のアパートで暮らし始めたと伝えたら、泣き出してしまったの」

◇ ◇ ◇

僕はすぐには何も言えなかった。

由紀叔母さんは続けた。

「春人がよければ、会いたいそうよ」

僕はアパートを見回した。

本棚。

机。

写真。

青い玄関のドア。

母がかつて、僕のために思い描いていた場所。

そして今、その未来を一緒に思い描いてくれた人が、ここを訪ねたいと言っている。

「うん」と僕は静かに答えた。

「僕も会いたい」

由紀叔母さんは安心したようだった。

「よかった。連絡先を教えるから、二人で都合を決めてね」

僕は微笑んだ。

「ありがとう、由紀叔母さん」

「もちろんよ」

それから叔母さんは付け加えた。

「春人?」

「何?」

「恵子さんは、お母さんがとても大変だった時期のことを知っている人なの」

僕は静かになった。

「聞いてつらくなるようなことも、覚えているかもしれないわ」

僕は母の写真を見た。

「分かってる」

少し間を置いた。

「でも、聞きたいんだ」

◇ ◇ ◇

昼までには、僕は藤村恵子さんに連絡していた。

一時間もしないうちに返事が届いた。

僕からの連絡を、とても喜んでくれていた。

母のことを鮮明に覚えているという。

そして、週の後半にアパートを訪ねてもいいとのことだった。

僕は何度もメッセージを読み返した。

それから日時を返信した。

木曜日の午後。

訪問が予定されているケアの妨げにならないことを確認し、看護チームにも来客の予定を伝えた。

これですべて整った。

ただ一つを除いて。

僕の緊張だ。

それだけは、まったく言うことを聞かなかった。

◇ ◇ ◇

火曜日には、もう一つ重要な進展があった。

文学団体から、バリアフリーに関する質問への返事が届いたのだ。

会場には段差のない出入り口があった。

イベント会場には、僕の電動車椅子が入れるスペースがあった。

利用可能なトイレについても、設備の詳細を確認できる資料が送られてきた。

主催者は、事前に会場の配置について相談することにも応じてくれた。

そして――

僕に短い朗読の時間を用意したいという。

朗読。

ほかの作家たちの前で。

本物の人間たちの前で。

意見を持っているかもしれない人たちの前で。

恐ろしい。

実に恐ろしい。

僕はメールを見つめた。

真由さんが気づいた。

「何か問題がありましたか?」

僕はゆっくり彼女を見た。

「作品を朗読してほしいそうです」

真由さんは微笑んだ。

「楽しみですね!」

「声に出して」

「はい?」

「人前で」

彼女は笑った。

「朗読会というのは、普通そういうものですよ」

僕は考えた。

「残念な設計上の欠陥ですね」

◇ ◇ ◇

イベントまでは、まだ数週間あった。

移動手段と看護体制の調整は進行中で、実務的な条件が整うまでは参加を正式に確定させないつもりだった。

でも、朗読の準備はできる。

簡単なはずだった。

何しろ、僕は物語を書いている。

登場人物のことは分かっている。

台詞も知っている。

劇的な間をどこに入れるべきかも、正確に理解している。

問題は一つだけだった。

僕は昔から、注目の中心になることがあまり得意ではなかった。

少なくとも、自分が望む形で注目されることには慣れていなかった。

これまでにも、人から見つめられたことはあった。

何度も。

病院で。

待合室で。

公共の場所で。

好奇心からの視線もあった。

心配からの視線もあった。

ただ、どこを見ればいいのか分からない人もいた。

でも、作家として人前に立つことは違う。

僕は、自分から人々に注目してもらおうとしているのだ。

車椅子ではなく。

人工呼吸器でもなく。

僕と一緒にある医療機器でもなく。

僕の言葉に。

そして、なぜか――

そのほうがずっと怖かった。

◇ ◇ ◇

当然ながら、僕は幸子さんにその話をしてしまった。

重大な過ちだった。

三十分もしないうちに、森田幸子さんは僕の公式朗読指導者に就任していた。

応募もしていない。

面接も受けていない。

そして何より――

僕は承諾していなかった。

「冒頭をもう一度読んで」と幸子さんは指示した。

僕は彼女を見つめた。

「森田さん」

「何?」

「これで四回目です」

「だったら、そろそろ上達しているはずね」

僕はため息をついた。

「楽しんでますよね?」

「とても」

◇ ◇ ◇

朗読には、僕の音声操作に対応した読み上げソフトを使うことにしていた。

僕自身で読み上げの速度や間を調整できるし、主催者にもその形式を事前に伝えるつもりだった。

幸子さんは注意深く聞いていた。

そして眉をひそめた。

「速すぎるわ」

僕は速度を調整した。

「これなら?」

「遅すぎる」

もう一度変更した。

「今度は?」

彼女は考えた。

「よくなったわ」

僕は微笑んだ。

ようやく。

ところが――

「でも、真相が明かされる前の間が短すぎるわね」

僕は目を閉じた。

「当然、そうなりますよね」

◇ ◇ ◇

一時間近く経ったころ、幸子さんは椅子にもたれた。

「もう一度」

僕は見つめた。

「僕を殺す気ですか?」

「まさか」

彼女は微笑んだ。

「あなたを有名にしようとしているのよ」

「僕を疲れ果てさせることで?」

「偉大な芸術家は、みんな苦労してきたものよ」

僕は考えた。

「そのほとんどは、幸子さんみたいな編集者のせいだったんじゃないですか?」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

その夜、葵がビデオ通話で練習を見てくれた。

きっと励ましてくれると思っていた。

実際、励ましてくれた。

残念ながら――

正直でもあった。

「最後のところ、もう少し間を空けたほうがいいと思う」

僕は見つめた。

「葵まで?」

彼女は笑った。

「何?」

「森田さんに感染したんだね」

「間の取り方については、森田さんが正しいと思う」

僕はうめいた。

「ブルータス、お前もか……葵」

彼女は微笑んだ。

「大げさだね」

「作家だからね」

「知ってる」

◇ ◇ ◇

練習が終わると、葵は考え込んだ。

「春人?」

「何?」

「緊張してる?」

僕は嘘をつこうか考えた。

でも、やめた。

「ものすごく」

彼女はうなずいた。

「観客のこと?」

「主にね」

少し間を置いた。

「それと、僕を見た人たちがどう思うかってことも」

葵は耳を傾けた。

「作品を評価されて招待されたのは分かってる」

僕は続けた。

「でも、ときどき心配になるんだ。僕がそこにいること自体を、すごいことみたいに扱われるんじゃないかって」

「作品じゃなくて?」

葵の表情が柔らかくなった。

「そう思うのも無理ないよ」

僕は視線を落とした。

彼女は続けた。

「でも、何を話すかは春人が決めていいんだよ」

僕は顔を上げた。

「自分の作品と障害について話したいなら、そうすればいい」

「でも、架空の殺人事件についてだけ話したいなら、それだって春人の自由だよ」

僕は微笑んだ。

「素晴らしい選択だね」

葵は笑った。

「当然でしょ」

それから言った。

「春人の声には、聞いてもらう価値があるんだよ」

僕は静かになった。

「そこにいるだけで感動的だからじゃない」

「春人には、伝えたいことがあるから」

◇ ◇ ◇

水曜日は、ちょっとした勤務調整の問題から始まった。

いつもの看護師の一人が、今後の勤務に入れなくなったのだ。

看護事業所は、承認された代替要員の手配を進めていた。

珍しいことではない。

スタッフが病気になることもある。

予定が変わることもある。

人生とはそういうものだ。

でも、その朝やってきた黒田夏美さんは、いつもより心配そうだった。

僕はすぐに気づいた。

彼女は引き継ぎ書類を確認した。

それから、もう一度確認した。

さらにもう一度。

とうとう僕は尋ねた。

「夏美さん?」

「はい?」

「ケアのファイルを全部暗記するつもりですか?」

彼女は瞬きをした。

「いいえ」

僕は考えた。

「だとしたら、かなり順調ですね」

彼女は緊張したように微笑んだ。

◇ ◇ ◇

少しして、夏美さんは事情を説明した。

追加の勤務に入れないかと相談されていたのだ。

彼女には必要な資格があり、僕のケアプランにも慣れていた。

でも、引き受ける前に勤務条件や支援体制を確認しておきたかったという。

「迷惑をかけたくなくて……」と彼女は打ち明けた。

僕は彼女を見た。

「質問することで?」

彼女は小さくうなずいた。

僕は考えた。

「夏美さん、一つ言ってもいいですか?」

「もちろんです」

「何でも知っているふりをする看護師さんより、分からないことを確認してくれる看護師さんのほうが、僕はずっと安心できます」

彼女は驚いたようだった。

僕は微笑んだ。

「自信があるのはいいことです」

「でも、能力があることはもっと大切です」

「そして、いつ助けを求めるべきか分かっていることも、能力の一部だと思います」

夏美さんは考え込んだ。

◇ ◇ ◇

彼女は看護責任者に連絡した。

二人は追加勤務の内容を確認した。

必要なケアについて話し合った。

引き継ぎを確認した。

そして、適切なバックアップ体制が維持されることも確かめた。

責任者は、人手が必要だからといって、夏美さんが追加勤務を引き受ける義務はないことも明確にした。

それを聞いて、彼女は安心したようだった。

最終的に、必要な条件が確認されたあと、夏美さんは勤務を引き受けた。

電話を終えると、僕は微笑んだ。

「ほらね?」

彼女は僕を見た。

「何がですか?」

「世界は終わりませんでした」

夏美さんは笑った。

「そうですね」

「実に残念です」

彼女は微笑んだ。

「どうしてですか?」

「せっかく長い演説を用意していたのに」

◇ ◇ ◇

その日の午後、夏美さんは古い写真の整理を手伝ってくれた。

もちろん、僕が頼んだことだった。

何の問題もない作業。

少なくとも、そう思っていた。

彼女が王冠をかぶった僕の写真を見つけるまでは。

プラスチックの王冠。

とても大きなプラスチックの王冠。

そしてマント。

青いマント。

僕は固まった。

「夏美さん」

彼女は写真を見つめた。

それから僕を見た。

「これは……」

「違います」

彼女は瞬きをした。

「まだ何も聞いていませんよ」

「これから何を聞こうとしているのか分かりませんが、答えは違います」

彼女の口元が緩んだ。

「王子様の役だったんですか?」

僕は目を閉じた。

「残念ながら」

夏美さんは笑った。

僕はため息をついた。

「小学校の発表会です」

彼女は写真を見た。

「とても楽しそうですね」

僕も写真に目を向けた。

確かに、楽しそうだった。

母が僕の隣に立っていた。

笑っていた。

あの日のことを覚えている。

母は何時間もかけて衣装を準備してくれた。

僕が王冠は変だと文句を言うと、母はこう言った。

「立派な王子様には、立派な王冠が必要なのよ」

僕はかすかに微笑んだ。

「母が衣装を作ってくれたんです」

夏美さんの表情が柔らかくなった。

「素敵な衣装ですね」

僕は写真を見た。

「ええ」

それからため息をついた。

「残念ながら、大地叔父さんが七十枚くらい写真を撮ったんです」

夏美さんは笑った。

◇ ◇ ◇

木曜日がやってきた。

そして――

藤村恵子さんも。

僕は何度も、この再会を想像していた。

ある想像では、彼女は謎めいたブリーフケースを持って現れた。

別の想像では、玄関を入った瞬間に劇的な秘密を明かした。

少なくとも一つの想像には、複雑な陰謀まで登場した。

たぶん、それは恵子さんのことより、僕の執筆習慣について多くを物語っていた。

実際の再会は、ずっと単純だった。

午後二時。

青い玄関のドアがノックされた。

真由さんが来客の身元を確認し、僕が迎え入れると、ドアを開けてくれた。

五十代後半の女性が入ってきた。

シンプルなカーディガンを着て、小さなハンドバッグを持っていた。

髪には白いものが混じっていた。

表情は温かかった。

そして僕を見るなり――

彼女は立ち止まった。

◇ ◇ ◇

「春人くん?」

僕は緊張しながら微笑んだ。

「こんにちは、藤村さん」

彼女は口元に手を当てた。

「まあ……」

数秒間、僕を見つめた。

そして目に涙が浮かんだ。

「こんなに大きくなって……」

僕は小さく笑った。

「人間って、そういうものですから」

彼女は涙を流しながら笑った。

「美咲さんなら、その返しを気に入ったでしょうね」

胸が締めつけられた。

◇ ◇ ◇

恵子さんは僕の向かいに座った。

しばらくは普通の話をした。

彼女の仕事。

僕のアパート。

執筆。

近所のこと。

一人暮らしはどうかと聞かれた。

僕は微笑んだ。

「素晴らしいです」

それから考えた。

「お金がかかりますけど」

彼女は笑った。

「ええ。大人になると、そういうものね」

「それに書類が多いです」

「残念ながらね」

「叔父がスマートホームシステムを破壊しかけましたし」

恵子さんはさらに笑った。

「大地さんらしいわね」

僕は見つめた。

「叔父を知っているんですか?」

「もちろん」

彼女は微笑んだ。

「昔からあまり変わっていないのね」

僕は考えた。

「現代文明にとっての悲劇ですね」

◇ ◇ ◇

やがて、僕はずっと聞きたかった質問をした。

「藤村さんが知っていた頃の母は、どんな人でしたか?」

恵子さんは静かになった。

それから微笑んだ。

「意志の強い人だったわ」

僕は小さく笑った。

「みんなそう言います」

「本当のことだからよ」

彼女は椅子にもたれた。

「あなたのお母さんは、私が出会った中でも特に粘り強い人だった」

僕は耳を傾けた。

「会議には必ずファイルを持ってきたの」

「色分けされたファイル」

「書類には全部ラベルがついていて」

「質問は一つ残らず書き出してあった」

「それで、誰かが納得できない答えを出すと、説明を求めるの」

恵子さんは微笑んだ。

「そして、もう一度聞くのよ」

僕は笑った。

「母らしいです」

◇ ◇ ◇

恵子さんは続けた。

「今でもはっきり覚えている会議が一つあるの」

僕は注意深く聞いた。

「ある人が、あなたの将来の住まいについて、支援制度を運用する側にとって一番都合のいい方法を中心に決めるべきだと言ったの」

僕の笑顔が消えた。

恵子さんはうなずいた。

「すると、お母さんはとても簡単な質問をしたの」

僕は唾を飲み込んだ。

「何て?」

恵子さんはまっすぐ僕を見た。

「『春人はどうしたいんですか?』って」

沈黙。

僕は母の写真を見た。

その言葉。

知っていた。

以前にも聞いたことがあった。

でも今、改めて聞くと――

僕のいなかった場所でも、母がその言葉を口にしていたと知ると――

胸の奥が痛んだ。

◇ ◇ ◇

恵子さんは優しく続けた。

「お母さんは、あなたの医療的な必要性を無視していたわけじゃないの」

「むしろ、よく理解していたわ」

「一人暮らしには、信頼できる専門的なケア、バリアフリー住宅、費用の確保、医療機器、そして慎重な計画が必要だと分かっていた」

僕はうなずいた。

「でも、そうしたものは、あなたが望む人生を実現するためにあるべきだと考えていたの」

「あなたから選択肢を奪う理由にしてはいけない、と」

喉が締めつけられた。

恵子さんは寂しそうに微笑んだ。

「お母さんはよく言っていたわ。人は家に住む資格があることを、わざわざ証明しなければならないわけじゃないって」

僕は目を閉じた。

しばらく――

何も言えなかった。

◇ ◇ ◇

ようやく顔を上げて、僕は尋ねた。

「母は、本当に実現できると思っていたんでしょうか?」

恵子さんは少しためらった。

「ええ」

僕は瞬きをした。

「本当に?」

「障害になるものは心配していたわ」

「もちろんです」

「でも、適切な支援があれば、あなたは自分らしい人生を送れると信じていた」

恵子さんはアパートを見回した。

「そして今、あなたはここにいる」

僕は唾を飲み込んだ。

「……はい」

彼女は微笑んだ。

「ここにいるのよ」

◇ ◇ ◇

その後の一時間、僕たちは母の話をした。

権利を守るための活動だけではない。

医療機関への通院だけでもない。

母が闘ってきた問題だけでもない。

恵子さんは、ひどいテレビドラマが大好きだった女性について話してくれた。

お茶がすっかり冷めても飲み続けていた女性。

故障したプリンターに腹を立て、窓から投げ捨てると脅した女性。

僕は笑った。

「本当にそんなことを言ったんですか?」

恵子さんはうなずいた。

「ええ」

「投げたんですか?」

「いいえ」

少し間を置いた。

「直したのよ」

僕は微笑んだ。

「やっぱり」

◇ ◇ ◇

やがて恵子さんはハンドバッグに手を入れた。

「持ってきたものがあるの」

僕の胸が跳ねた。

彼女はファイルを取り出した。

謎めいたブリーフケースではない。

秘密の政府文書でもない。

ただの普通のファイル。

でも、なぜか――

そのどちらよりも重要なものに感じられた。

「これは、お母さんと私が一緒に進めていた仕事に関する書類のコピーよ」

僕は見つめた。

恵子さんは続けた。

「全部は持っていないの」

「古い記録もあるし」

「今でも入手できるかどうか、確認しなければならないものもある」

僕はうなずいた。

「でも、あなたにも見てほしいと思ったの」

「はい」と僕はささやいた。

「ぜひ」

◇ ◇ ◇

ファイルには古い書簡が入っていた。

会議の記録。

住まいの選択肢に関するメモ。

そして、母が書いた手紙のコピー。

実務的なものもあった。

読んでいて腹立たしくなるものもあった。

胸が痛くなるものもあった。

ある手紙では、長期的な居住環境について話し合う際に、僕自身の希望を含めるよう求めていた。

別の手紙では、地域で生活するための選択肢がなぜ検討されなかったのか、説明を求めていた。

僕はパソコンと恵子さんの助けを借りながら、書類を注意深く読んだ。

そして、ある記述に気づいた。

ノート。

母のノートだった。

◇ ◇ ◇

「これは何ですか?」と僕は尋ねた。

恵子さんが身を乗り出した。

表情が変わった。

「ああ……」

僕は彼女を見た。

「何ですか?」

彼女はためらった。

「お母さん、ノートをつけていたのよ」

僕は見つめた。

「僕について?」

「将来の計画についてね」

恵子さんはうなずいた。

「会議の内容」

「名前」

「日付」

「質問」

「あとで確認したいこと」

僕は唾を飲み込んだ。

「まだ持っていますか?」

恵子さんは視線を落とした。

「分からないの」

少し間を置いた。

「保管してある古い資料の中に入っていたと思うんだけど」

胸が締めつけられた。

「探せますか?」

恵子さんは考えた。

「探してみるわ」

それから優しく微笑んだ。

「でも、まだ確認できていないことを約束したくはないの」

僕はうなずいた。

「それで十分です」

◇ ◇ ◇

残りの書類を確認していると、一つの文書が目に留まった。

何年も前、母が提出した正式な申し入れに対する回答だった。

文章は無味乾燥だった。

事務的だった。

痛々しいほど普通だった。

でも、意味は十分に読み取れた。

僕の将来の住まいについて、より大きな自己決定を可能にするかもしれない別の選択肢を十分に検討せず、ある方針が評価されていたのだ。

母は、その判断に異議を唱えていた。

怒鳴ることもなく。

脅すこともなく。

質問によって。

具体的な質問。

記録に残る質問。

答えを求める質問。

僕は書類を見つめた。

「本当に、こんなに頑張ってくれていたんですね」

恵子さんはうなずいた。

「ええ」

僕は彼女を見た。

「僕が知らないところでも」

彼女の表情が柔らかくなった。

「むしろ、あなたが知らないところでこそね」

◇ ◇ ◇

帰る前に、恵子さんは残っている記録の中からノートを探してみると約束してくれた。

また、ほかに入手できる文書があるかどうか、適切な手続きを確認するため、資料の保管担当者にも問い合わせるという。

何も保証されてはいなかった。

でも、進む道はあった。

玄関で、恵子さんは振り返った。

「春人くん?」

「はい?」

「お母さんは、今あなたが築いている人生を、とても誇りに思うでしょうね」

喉が締めつけられた。

「みんな、そう言ってくれるんです」

恵子さんは微笑んだ。

「だったら、そろそろ信じてみたらどうかしら」

僕は小さく笑った。

「そうかもしれません」

彼女はもう一度アパートを見回した。

「美咲さんなら、この本棚を気に入ったでしょうね」

僕は微笑んだ。

「本が多すぎるって文句を言ったと思います」

恵子さんは笑った。

「たぶんね」

それから付け加えた。

「そして、また一冊買ってきたでしょうね」

◇ ◇ ◇

金曜日の夜は、家族で夕食を食べることになっていた。

由紀叔母さんと大地叔父さんは、小さな軍隊に食事を提供できそうな量の料理を持ってやってきた。

僕は袋を見つめた。

「建物の住人全員に食べさせるつもり?」

大地叔父さんはにやりとした。

「場合によるな。隣のおばさんも来るのか?」

僕は考えた。

「来るかもしれない」

「だったら足りるようにしないとな」

由紀叔母さんは笑った。

訪問は、いつものケアの予定に合わせて調整してあった。

必要な専門的ケアは看護師が担当し、叔母さんと叔父さんは食事の準備や家族の時間を楽しんだ。

静かな夕食になるはずだった。

少なくとも――

予定では。

◇ ◇ ◇

大地叔父さんは写真アルバムを持ってきていた。

大きなアルバム。

危険なほど大きなアルバム。

僕は目を細めた。

「それは何?」

叔父さんはにやりとした。

「思い出だ」

僕は見つめた。

「脅迫に聞こえるんだけど」

「脅迫だからな」

由紀叔母さんは笑った。

◇ ◇ ◇

アルバムには、僕の子供時代の写真が収められていた。

誕生日。

休日。

病院への通院。

学校行事。

家族の集まり。

そして、服装の常識をまったく理解していない大地叔父さんの写真が、恐ろしいほど大量にあった。

僕は一枚を見つめた。

「どうしてこんな服を着てたの?」

叔父さんは不満そうだった。

「当時はおしゃれだったんだぞ!」

「何世紀の話?」

由紀叔母さんは吹き出した。

◇ ◇ ◇

やがて、母の写真が現れた。

母はキッチンに立っていた。

木べらを持って。

笑っていた。

僕は見つめた。

「昔の家だね」

由紀叔母さんはうなずいた。

「そうよ」

大地叔父さんは微笑んだ。

「美咲が夕飯を作っていたんだ」

僕は叔父さんを見た。

「どうして笑ってるの?」

叔父さんはためらった。

それからにやりとした。

「俺が手伝おうとしたからだ」

僕は目を閉じた。

「やっぱり」

由紀叔母さんは笑った。

「スープに砂糖を入れたのよ」

僕は見つめた。

「……何?」

大地叔父さんは指を立てた。

「弁解させてもらうと――」

「駄目」と僕は遮った。

「弁解の余地はないよ」

◇ ◇ ◇

僕たちは数分間笑い続けた。

それから会話は静かになった。

由紀叔母さんは母の夢について話してくれた。

僕のための夢だけではない。

母自身の夢。

旅行をしたかったこと。

料理教室に通いたかったこと。

小さなブックカフェを開きたいと話していたこと。

僕は瞬きをした。

「本屋さん?」

由紀叔母さんは微笑んだ。

「紅茶と手作りのお菓子があるお店よ」

僕は本棚を見た。

「すごくいいね」

「美咲もそう思っていたわ」

僕は考え込んだ。

「どうしてやらなかったの?」

由紀叔母さんの表情が柔らかくなった。

「人生が複雑になったのよ」

僕は視線を落とした。

叔母さんは続けた。

「でも、だからといって、夢を見るのをやめたわけじゃないの」

◇ ◇ ◇

僕はそのことを長い間考えた。

母は僕にとって、たくさんの存在だった。

守ってくれる人。

権利を主張してくれる人。

ケアをしてくれる人。

安心を与えてくれる人。

僕自身が説明の仕方を覚える前から、必要なことを理解してくれていた人。

でも母は、母自身の夢を持った一人の人間でもあった。

僕とは関係のない夢。

そしてなぜか――

それを知ったことで、僕は母をもっと好きになった。

◇ ◇ ◇

夕食のあと、僕は由紀叔母さんと大地叔父さんに、恵子さんの訪問について話した。

古い書類。

ノート。

母が異議を唱えた住まいに関する判断。

由紀叔母さんは注意深く聞いていた。

大地叔父さんは珍しく静かになった。

話し終えると、叔父さんは写真を見た。

「美咲らしいな」

僕はかすかに微笑んだ。

「うん」

叔父さんはうなずいた。

「あいつは、ちゃんとした説明もなしに『できない』って言われるのが大嫌いだった」

僕は笑った。

「僕もだよ」

大地叔父さんはにやりとした。

「知ってるよ」

◇ ◇ ◇

土曜日には、葵から知らせが届いた。

彼女は研修の重要な課題を、また一つ終えたのだ。

その課題では、退院支援の成果を専門職がどのように説明するかを検討していた。

葵と佳奈は、あることに気づいた。

いくつかの発表では、スタッフが成し遂げたことが強調されていた。

連携の成功。

計画の成功。

退院の成功。

でも、患者自身が行った選択は、小さな項目としてしか扱われていないことがあった。

葵は、その考え方に疑問を投げかけた。

専門職の仕事が重要ではないからではない。

重要だった。

でも、患者は誰かの成果を受け取るだけの存在ではない。

目標がある。

希望がある。

選択がある。

退院支援の記録の外にも、人生がある。

◇ ◇ ◇

発表の際、佳奈は最初、チームの成果を中心に説明していた。

葵は聞いていた。

それから尋ねた。

「患者さん自身の役割は?」

佳奈は少し止まった。

「どういう意味?」

葵はスライドを示した。

「私たちは専門職が何をしたかを説明しているよね」

「でも、患者さんが何を望んでいたかは説明していない」

佳奈は考えた。

「確かに」

葵は続けた。

「その計画が、患者さん自身の選んだ生活を支えられたかどうかも、成果を考える基準になるんじゃないかな?」

部屋は考え込むように静かになった。

◇ ◇ ◇

発表後、佳奈が葵に近づいた。

「葵の言うとおりだった」

葵は微笑んだ。

「何が?」

「発表のこと」

佳奈はため息をついた。

「計画が効果的だったことを示すのに集中しすぎて、何のために効果的だったのかを示し忘れてたと思う」

葵はうなずいた。

「そういうことって、あるよね」

佳奈は彼女を見た。

「このこと、ずっと考えてたんでしょ?」

葵はかすかに微笑んだ。

「うん」

「春人さんの影響?」

葵は考えた。

「それもあるかな」

それから付け加えた。

「でも、患者さんたちから学んだことでもあるよ」

◇ ◇ ◇

その夜、葵から電話がかかってきた。

彼女は発表について話してくれた。

僕は聞いていた。

それから微笑んだ。

「危険な女性になってきたね」

葵は瞬きをした。

「え?」

「既存の制度に疑問を投げかけて」

「もっと納得できる説明を求めて」

「人々に思い込みを見直させてる」

葵は笑った。

「それって危険なの?」

僕は母の写真を見た。

「どうやら、うちの家系に受け継がれているらしい」

葵は静かになった。

それから微笑んだ。

「春人のお母さんに会ってみたかったな」

喉が締めつけられた。

「母も葵のこと、好きになったと思う」

葵の表情が柔らかくなった。

「本当に?」

僕はうなずいた。

「絶対に」

◇ ◇ ◇

日曜日の午後、幸子さんが建物の共用室で開かれる小さな誕生日会に招待してくれた。

部屋のバリアフリーについては、事前に僕と一緒に確認してくれていた。

予定された勤務の看護師が同行し、必要なケアに対応できるようにしてくれた。

集まりはささやかなものだった。

近所の人たちが数人。

紅茶。

ケーキ。

そして、常識的な人間が耐えられる量をはるかに超えたミステリー小説談義。

僕は楽しんでいた。

ほとんどの時間は。

初対面の男性が近づいてくるまでは。

中年の男性だった。

彼は微笑んだ。

「あなたは本当に勇敢ですね」

僕は瞬きをした。

「ありがとうございます……?」

男性は僕の車椅子を示した。

「いろいろ大変なのに、こうして外に出て活動しているなんて」

僕は見つめた。

ああ。

あの種類の会話だ。

◇ ◇ ◇

男性は続けた。

「あなたのような方が人生を楽しんでいる姿を見ると、勇気をもらえますよ」

僕は考えた。

それから丁寧に微笑んだ。

「実は、森田さんに招待されたから来たんです」

男性はぎこちなく笑った。

「もちろん、そうでしょうね」

僕は続けた。

「それと、ケーキがあるので」

近くにいた幸子さんは、紅茶を吹き出しそうになった。

男性は困ったように微笑んだ。

僕はもう少しはっきり伝えることにした。

「好意で言ってくださっているのは分かります。でも、僕は普通に近所の住人として参加しているだけなんです」

男性は瞬きをした。

僕は微笑んだ。

「よければ、僕の執筆について聞いてください」

彼の表情が変わった。

「作家さんなんですか?」

「はい」

「どんなものを書いているんですか?」

僕はにやりとした。

「ミステリーです」

すると幸子さんが、すぐに隣へ現れた。

「とてもいいミステリーを書くのよ」と彼女は宣言した。

僕は彼女を見つめた。

「森田さん?」

彼女は微笑んだ。

「問題点もあるけどね」

僕は目を閉じた。

「当然ですよね」

◇ ◇ ◇

そのあと、僕はリクという若いイラストレーターと知り合った。

僕の二階下に住んでいるという。

物静かで。

少し人見知りで。

どうやら、イラスト付きの小説に強い興味があるらしかった。

僕が作家だと知ると、彼の表情が明るくなった。

「絵描きと一緒に仕事をすることってありますか?」

僕は考えた。

「ときどきね」

彼は緊張したように微笑んだ。

「今、ポートフォリオを作っているところなんです」

僕は興味を持った。

「どんな絵を描くの?」

「キャラクターイラストです」

「本の表紙とか」

「漫画っぽい絵も少し」

僕は微笑んだ。

「面白そうだね」

リクはためらった。

「いつか、何か一緒に作ってみませんか?」

僕は彼を見た。

それからにやりとした。

「それは条件によるかな」

「どんな条件ですか?」

「架空の殺人事件について、どう思う?」

彼は僕を見つめた。

それから笑った。

「大丈夫だと思います」

◇ ◇ ◇

アパートに戻るころには、僕はすっかり疲れていた。

でも、幸せだった。

新しい人たちと知り合えた。

創作で協力できるかもしれない相手も見つかった。

そして、誰にも感動的なスピーチを求められることなく、交流会を生き延びた。

驚くべき成果だった。

◇ ◇ ◇

その夜、僕はメールを確認した。

恵子さんからのメッセージが届いていた。

すぐに開いた。

彼女は残っていた古い資料を調べてくれたという。

でも、ノートは見つからなかった。

さらに、以前の資料の保管一覧も確認してくれていた。

そこには、かつてノートが記載されていた。

しかし、現在確認できる資料の中にはなかった。

僕の笑顔が消えた。

もう一度読んだ。

さらにもう一度。

恵子さんは慎重に言葉を選んでいた。

盗まれたと言っているわけではない。

誰かが意図的に持ち去ったと主張しているわけでもない。

書類が置き間違えられることはある。

別の場所へ移されることもある。

誤って分類されることもある。

普通の事務手続きの変更で、失われてしまうこともある。

でも、一つの事実は変わらなかった。

ノートが見つからない。

◇ ◇ ◇

僕は母の写真を見た。

「……どこへ行ったんだろう?」

返事はなかった。

当然だ。

僕は恵子さんのメールの最後の段落を読んだ。

彼女は、古い資料に関連する管理番号を見つけていた。

適切な方法で問い合わせるつもりだという。

何か分かったら知らせてくれるとも書いてあった。

僕は車椅子の背もたれに身を預けた。

考えた。

ノートには、特別なことなど何も書かれていないかもしれない。

ただの日付。

名前。

会議。

質問。

でも、僕が知りたいのは、まさにそういうことだった。

母の質問。

母の計画。

母の努力。

僕が見たことのなかった、母の人生の一部分。

◇ ◇ ◇

電話が鳴った。

葵だった。

葵:今夜、話せる?

僕はかすかに微笑んだ。

春人:葵のためなら、いつでも。

少しして――

葵:大事な話があるの。

僕の笑顔が少し消えた。

大事な話。

最近では、その言葉が何を意味するのか、まったく予想できなかった。

僕は返信した。

春人:もちろん。何かあった?

少し間があった。

それから――

葵:うん。大丈夫だと思う。研修のことなんだけど。

◇ ◇ ◇

通話がつながると、葵は緊張しているようだった。

怯えているわけではない。

落ち込んでいるわけでもない。

ただ、不安そうだった。

僕はその表情を知っていた。

自分の顔にも何度も見たことがあるから。

「やあ」と僕は言った。

「やあ」

彼女はかすかに微笑んだ。

「今日はどうだった?」

「面白かったよ」

僕は幸子さんの集まりについて簡単に話した。

気まずい会話。

リクとの出会い。

イラストで協力できるかもしれないこと。

葵は微笑んだ。

「素敵だね」

「だいたいはね」

彼女は小さく笑った。

それから静かになった。

僕は待った。

やがて葵が言った。

「春人、ある話をもらったの」

僕は彼女を見た。

「どんな?」

「研修を延長する機会をもらったの」

◇ ◇ ◇

僕は瞬きをした。

「延長?」

彼女はうなずいた。

「病院から在宅への移行支援に関する、上級研修の実習枠があるの」

僕は耳を傾けた。

「もっと実践的な仕事ができるし」

「責任も増える」

「それに、ほかではなかなか得られない経験ができると思う」

僕は微笑んだ。

「すごいじゃない」

葵は驚いたようだった。

「本当に?」

「もちろん」

彼女はためらった。

「でも、ここにもっと長く滞在することになるの」

僕は静かになった。

ああ。

そういうことか。

葵が言い出しにくかった部分は、そこだった。

◇ ◇ ◇

「どれくらい長く?」と僕は尋ねた。

「まだ日程は確定していないの」

彼女は視線を落とした。

「でも、帰るのが遅くなるかもしれない」

僕は考えた。

葵に会いたかった。

ひどく。

直接顔を見たかった。

一緒に過ごす、何でもない時間が恋しかった。

僕が馬鹿なことを言ったときに笑う彼女が恋しかった。

怒ったふりをしているのに、笑いをこらえきれない彼女も。

でも、もう一つ分かっていたことがあった。

葵は、この機会を得るために努力してきた。

挑戦する価値があった。

僕は彼女を見た。

「葵は、やりたい?」

彼女はためらった。

「……うん」

答えは小さかった。

でも、はっきりしていた。

僕は微笑んだ。

「だったら、真剣に考えてみたほうがいいと思う」

◇ ◇ ◇

葵は僕を見つめた。

「そんなに簡単に?」

僕は小さく笑った。

「まあ、会えなくて寂しいって、大げさに文句を言う権利は残しておくけどね」

彼女は微笑んだ。

「当然だね」

「でも、僕が置いていかれたと感じるんじゃないかって心配して、大切な機会を断ってほしくないんだ」

葵の目に涙が浮かんだ。

「春人……」

僕は続けた。

「寂しいよ」

「すごく」

「でも、葵には自分の望む仕事を築いてほしい」

彼女は唾を飲み込んだ。

「私たちは?」

僕は優しく微笑んだ。

「これからも、僕たちでいることを選び続けよう」

◇ ◇ ◇

葵は涙を拭った。

「春人が言うと、簡単に聞こえるね」

僕は笑った。

「実際は、きっと複雑だと思う」

彼女も笑った。

「たぶんね」

「電話の予定を決めたり」

「会う日を考えたり」

「お互いのスケジュールを調整したり」

「疲れて、ひどい喧嘩をすることもあるかもしれない」

葵は微笑んだ。

「その部分は、もう練習済みだね」

「そうそう」

僕はにやりとした。

「僕たちはもう熟練の専門家だよ」

彼女は笑った。

◇ ◇ ◇

それから葵は考え込んだ。

「春人の文学イベントは?」

僕は瞬きをした。

「それがどうしたの?」

「春人にとっても大切なことでしょ?」

僕は微笑んだ。

「うん」

「これからもっと機会が増えたら?」

僕は考えた。

「挑戦するよ」

葵はうなずいた。

「旅行が必要になっても?」

「安全面や実務的な準備が整えられるならね」

彼女は微笑んだ。

「よかった」

僕は彼女を見た。

「どうして?」

「私のために、春人の世界も小さくしてほしくないから」

胸が締めつけられた。

◇ ◇ ◇

しばらく、どちらも何も言わなかった。

それから僕は微笑んだ。

「もしかしたら、僕たちが学んでいるのはそういうことなのかもしれないね」

葵は首をかしげた。

「どういうこと?」

「相手の成長を止めずに、愛する方法」

彼女の表情が柔らかくなった。

僕は続けた。

「同じ人間になる必要はない」

「まったく同じ道を歩く必要もない」

「ただ、お互いのための場所を、これからも作り続ければいいんだと思う」

葵は涙を浮かべながら微笑んだ。

「それ、好きだな」

「僕も」

◇ ◇ ◇

通話が終わったあと、僕は机に向かったままだった。

アパートは静かだった。

近くでは、看護師が予定された夕方のケアを続けていた。

母の手紙は、写真のそばに置いてあった。

恵子さんのメールは開いたままだった。

そして、別のウィンドウには文学イベントの招待が残っていた。

三つの異なるもの。

三つの異なる方向。

過去。

現在。

未来。

そして、なぜか――

すべてがつながっていた。

◇ ◇ ◇

僕は母の写真を見た。

「お母さん?」

沈黙。

「恵子さんに会ったよ」

声が柔らかくなった。

「お母さんの話をしてくれた」

僕はかすかに微笑んだ。

「どうやら、すごく怖い人だったみたいだね」

涙が頬を伝った。

「いろいろ納得できるよ」

僕は古い書類を見た。

「僕が選べるように、あんなに頑張ってくれてたんだね」

それからパソコンを見た。

「そして今、僕には選択肢がある」

◇ ◇ ◇

僕は葵のことを考えた。

研修。

新しい機会。

僕たちの間にある距離。

そして、お互いを失わずに築こうとしている未来。

幸子さんのことも考えた。

書かれることのなかった物語。

ようやく、もう一度書き始められるかもしれないという可能性。

リクのことも考えた。

初めての本格的な共同制作を探している若いイラストレーター。

そして夏美さん。

自信とは、何でも知っているふりをすることではないと学びつつある人。

どこを見ても――

人々は成長していた。

変わっていた。

選んでいた。

ゆっくりと。

ときには苦しみながら。

ときには笑いながら。

ときには涙を流しながら。

それでも、前へ進んでいた。

◇ ◇ ◇

それから、もう一度恵子さんのメールを見た。

ノートは見つかっていない。

どこかに、母が投げかけた質問の記録が残っているかもしれない。

出席した会議。

異議を唱えた判断。

守ろうとした未来。

見つかるかどうかは分からなかった。

でも、探してみたかった。

恐ろしい秘密が隠されていると信じていたからではない。

人生に新しい謎が必要だったからでもない。

もっとも――

作家としては、この状況が妙によくできた構成になっていることを認めざるを得なかった。

いや。

僕がノートを探したかったのは、そこに、まだ十分に理解できていない母の人生の一部があるからだった。

そして、母を理解することが僕にとって大切だったからだ。

◇ ◇ ◇

寝る前に、僕は新しい文書を開いた。

小説ではない。

ミステリーでもない。

章でもない。

ただの一ページ。

一番上に、こう書いた。

お母さんについて聞きたいこと

それから書き始めた。

母は何を実現しようとしていたのか。

誰が母を助けてくれたのか。

どんな障害に直面したのか。

終わらせられなかった計画は、どうなったのか。

そして――

母自身は、どんな夢を諦めたのか。

僕は最後の質問を見つめた。

長い間。

それから、もう一つ付け加えた。

お母さんなら、今の僕に何をしてほしいと思うだろう?

僕は考えた。

それから、かすかに微笑んだ。

実は――

答えは分かっている気がした。

生き続けてほしい。

書き続けてほしい。

質問し続けてほしい。

愛し続けてほしい。

自分で選び続けてほしい。

そして、もしかしたら――

何もかも完璧にできているかどうかを、そんなに心配しないでほしい。

◇ ◇ ◇

僕は文書を保存した。

それから写真を見た。

「おやすみ、お母さん」

アパートは静かなままだった。

外では、街が動き続けていた。

どこかで葵は、次の一週間の研修に向けて準備しているだろう。

どこかで幸子さんは、架空の探偵を批判しているかもしれない。

どこかで恵子さんは、古いノートを探している。

そして、この建物のどこかでは、リクがまだ会ったこともない登場人物を描き始めているかもしれない。

世界は、未完成の物語で満ちていた。

母の物語。

葵の物語。

彼らの物語。

そして、僕の物語。

長い間、僕は自分の家を手に入れることが、長い闘いの結末になると思っていた。

でも今は分かる。

それは、別の物語の始まりにすぎなかったのだ。

母が実現できるようにしてくれた物語。

でも、その続きを書くのは僕自身だった。

そして初めて――

その考えは、僕を怖がらせなかった。

むしろ、胸が躍った。

明日、何が起こるとしても――

次のページは、僕のものなのだから。

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