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第9章 誰かの指の間からこぼれ落ちていった時間

高橋陽翔は、人から空腹になる時間を決められることほど、腹立たしいことはそう多くないと知った。

どうやら、朝食は七時らしい。

七時十五分ではない。

七時半でもない。

七時ちょうど。

叔母はその決まりを、まるで国際的に認められた法律を公布するかのような自信に満ちた態度で宣言した。

残念ながら、その立法過程で陽翔の意見が求められることはなかった。

「おはよう、陽翔!」

高橋由紀が、お粥の入った茶碗と水の入ったコップ、それからきれいに並べられた薬を載せたお盆を持って寝室に入ってきた。

陽翔は片目を開けた。

ベッドの横にあるデジタル時計は、午前六時四十二分を示していた。

彼は時計を見つめた。

それから叔母を見た。

そして、もう一度時計に目を戻した。

「由紀叔母さん」

「なあに?」

「何か大変なことでも起きたの?」

由紀は立ち止まった。

「え?」

「家が火事になった?」

「なってないわよ!」

「日本が宣戦布告でもした?」

「陽翔!」

「じゃあ、なんで俺は起きてるの?」

由紀はため息をついた。

「朝ご飯の準備をしなきゃいけないからよ」

陽翔は目を閉じた。

「朝ご飯に、遅刻するって伝えておいて」

「はいはい、面白いわね」

「本気なんだけど」

由紀はお盆をベッドサイドのテーブルに置いた。

「叔父さんは八時に仕事へ行かなきゃいけないし、私も自分の支度をしないといけないの」

陽翔はうめいた。

「じゃあ、大地叔父さんに朝ご飯を食べさせてあげて」

「もう食べたわよ」

「素晴らしい。これで危機は回避されたね」

由紀は首を横に振った。

「陽翔、お願いだから」

彼は再び目を開けた。

カーテンはまだ閉まっており、部屋は心地よい薄暗さに包まれていた。外では住宅街がようやく目を覚まし始めたところで、ときおり通り過ぎる車の音だけが静けさを破っていた。

以前のマンションでは、通院の予定でもない限り、こんなに早く朝が始まることはめったになかった。

母は、陽翔が朝寝坊を好むことを知っていた。

たいてい九時、ときには十時まで寝かせてくれて、それから寝室の入口に現れ、世界の重大ニュースでも発表するかのように、とんでもないことを言い出したものだった。

『市民の皆さま、ご注目ください! 眠れる王子が目を覚ましました!』

陽翔はその記憶に、かすかに微笑んだ。

その瞬間、由紀が天井の照明をつけた。

陽翔は顔をしかめた。

「うわあっ!」

由紀はびくりとした。

「どうしたの?」

「目がっ!」

「あっ、ごめんなさい!」

彼女は慌てて電気を消した。

陽翔は何度かまばたきをした。

「俺を尋問するつもり?」

由紀は笑った。

「もう、陽翔ったら」

彼女はベッドに近づいた。

「今朝はやることがたくさんあるのよ」

陽翔はため息をついた。

「だろうね」

由紀はノートを手に取った。

「七時半に介助の方が来て、朝の身支度を手伝ってくださるでしょう。それから朝ご飯を食べて、九時には在宅支援の調整担当者から電話があるの」

陽翔は眉をひそめた。

「待って」

由紀は顔を上げた。

「なあに?」

「朝ご飯は七時だって言ったよね?」

「ええと、朝ご飯の準備を始めるって意味よ」

「七時に?」

「そうよ」

「でも、介助の人が来るのは七時半でしょ?」

「そうね」

陽翔は叔母をじっと見つめた。

「じゃあ、なんで六時四十二分に起こしたの?」

由紀は口を開いた。

そして閉じた。

陽翔は返事を待った。

やがて彼女は言った。

「時間に余裕を持っておきたかったのよ」

陽翔は天井を見た。

「素晴らしいね」

由紀は申し訳なさそうに微笑んだ。

「もう少し休んでいて」

彼女はドアへ向かった。

しかし、途中で立ち止まった。

「あっ、それから、お昼は十二時の予定だから忘れないでね」

陽翔は顔を向けた。

「由紀叔母さん」

「なあに?」

「俺、もう一回寝るから」

由紀は笑いながら部屋を出ていった。

ドアがカチリと閉まった。

陽翔は天井を見つめた。

そしてため息をついた。

叔母と叔父の家で暮らし始めてから、まだ四十八時間も経っていない。

それなのに、もう自分で生活の時間を決められたころが恋しくなっていた。

空っぽの椅子

午前八時十五分。

陽翔は着替えを済ませ、電動車椅子に座って食卓についていた。

朝の介助職員がケア計画に沿って身支度を手伝ってくれた。すべて順調に進んだものの、由紀が予想していたより時間がかかっていた。

彼女は介助中、何度も時計に目を向けていた。

今は出勤の準備をしながら、キッチンと食堂を慌ただしく行き来している。

大地は玄関の近くでネクタイを直していた。

「俺の鍵、どこだ?」

由紀が顔を上げた。

「カウンターの上よ!」

「ないぞ!」

「ちゃんと見た?」

「見た!」

陽翔はリビングのほうをちらりと見た。

「大地叔父さん」

「何だ?」

「ポケット」

大地は動きを止めた。

ズボンのポケットに手を入れた。

かすかに鍵の触れ合う音がした。

陽翔はにやりと笑った。

「どういたしまして」

大地はため息をついた。

「いつかお前も、俺に何か頼むことになるぞ」

「もう頼んでるよ」

叔父は陽翔を見た。

陽翔は無邪気な笑顔を浮かべた。

「だから叔父さんをそばに置いてるんじゃない」

大地は笑い出した。

由紀が小さな容器を持って現れた。

「さて、陽翔。お昼ご飯も用意しておいたわよ」

陽翔は容器を見た。

「ありがとう」

「五時半ごろには帰ってくるわ。午前中の後半には幸子さんが来てくださるし、午後も別の介助の方に来てもらうよう手配してあるから」

陽翔はうなずいた。

「うん」

「それから、何か必要になったら――」

「わかってる」

「私に電話してね」

「わかってる」

「それか叔父さんに」

「わかってる」

「それか事業所に――」

陽翔はため息をついた。

「由紀叔母さん」

彼女は話すのをやめた。

「何?」

「二人がいない間に政府を転覆させるつもりはないから」

大地が吹き出した。

由紀は呆れたように目を回した。

「はいはい、面白いわね」

彼女は腕時計を確認した。

「あら大変。遅刻しちゃう!」

大地がドアを開けた。

「ほら、行くぞ」

二人はもう一度別れの挨拶を交わし、慌ただしく出ていった。

玄関のドアが閉まった。

陽翔は静かに食卓に座っていた。

家の中が静まり返った。

彼はキッチンへ目を向けた。

食卓の周りには、椅子が三脚あった。

一つは由紀のもの。

一つは大地のもの。

そして三つ目は、陽翔の車椅子の向かい側に置かれていた。

誰も座っていなかった。

陽翔はその椅子を見つめた。

一瞬、彼はもう叔母の家の食堂にはいなかった。

以前のマンションに戻っていた。

母はコンロのそばに立ち、卵を買うように言ってくれなかったと文句を言っている。

背後ではテレビがついていた。

やかんが音を立てていた。

そして陽翔は、母が朝ご飯を持ってきてくれるのを待っていた。

「……母さん?」

自分が何を言ったのか気づく前に、その言葉が口からこぼれた。

返事はなかった。

陽翔はまばたきをした。

周囲を見回した。

見慣れないキッチンが戻ってきた。

クリーム色の壁。

木製の戸棚。

冷蔵庫の上に掛けられた小さな時計。

母と暮らしていたマンションは、別の場所にあった。

そして、そこに母はいなかった。

陽翔は目を伏せた。

「……そうだった」

喉が締めつけられた。

「ごめん」

誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。

自分自身にかもしれない。

空っぽの椅子にかもしれない。

もう二度と返事をしてくれない女性にかもしれなかった。

陽翔は手つかずの食事を見つめた。

突然、食欲がなくなっていた。

数分後、玄関のドアが開いた。

由紀が慌てて入ってきた。

「携帯忘れちゃった!」

彼女は陽翔を見ると立ち止まった。

「陽翔?」

彼は素早く顔をそらした。

「あ、うん」

由紀は近づいた。

「泣いてるの?」

「泣いてない」

由紀は彼の顔を見た。

「ああ、陽翔……」

車椅子の横にしゃがみ込んだ。

「どうしたの?」

陽翔は唾を飲み込んだ。

「何でもない」

「陽翔」

彼はため息をついた。

「ただ……」

視線が空っぽの椅子へ向かった。

「母さんを呼んじゃったんだ」

由紀の表情が和らいだ。

「ああ……」

陽翔は弱々しく笑った。

「馬鹿みたいでしょ?」

「そんなことないわ」

由紀は手を伸ばした。

「全然、そんなことない」

陽翔はうつむいた。

「忘れてたんだ」

由紀はそっと肩に触れた。

「無理もないわ」

陽翔は唾を飲み込んだ。

「一瞬、家にいると思った」

由紀はうなずいた。

そして、彼を慰めようとして言った。

「でも、ここが今のあなたの家なのよ」

陽翔は動きを止めた。

由紀は続けた。

「私たちだって家族なんだから。何も心配しなくていいの」

陽翔は彼女を見た。

優しさから出た言葉だということはわかっていた。

十分にわかっていた。

けれど、その言葉の何かが胸を痛ませた。

以前の家が消えてしまったわけではない。

消えてしまったのは母だった。

そして、どれほど優しくしてもらっても、その二つを同じものとして扱うことはできなかった。

「……うん」と陽翔はささやいた。

由紀は悲しげに微笑んだ。

「私たちがちゃんと面倒を見るからね」

陽翔は目を伏せた。

「わかった」

由紀は彼の額にキスをした。

それから携帯電話を取り、急いで玄関へ向かった。

彼女が出ていくと、陽翔は再び空っぽの椅子を見た。

新しい母親なんて必要ないのだと、伝えたかった。

自分の母親がよかった。

でも、由紀はもういなかった。

そして陽翔は、誰もが理解しているつもりになっていることを、何度も説明するのに疲れていた。

新しい形の責任

水野葵と森山千里の二度目の面談は、一つの質問から始まった。

「あなたにとって、自立とは何ですか?」

葵は目をぱちくりさせた。

明るい会議室で、事業所の責任者と向かい合って座っていた。周囲にはファイルや研修資料が並び、実演用の医療機器もいくつか用意されている。

資格について聞かれると思っていた。

これまでの経験についても。

勤務できる時間についても。

あるいは、希望する給与についても。

まさか哲学的な質問をされるとは思わなかった。

「自立、ですか?」

千里はうなずいた。

「訪問看護における自立です」

葵は考えた。

「自分のことを、自分でできることでしょうか?」

千里は微笑んだ。

「それも一つの考え方ですね」

葵は眉をひそめた。

「お求めの答えとは違いましたか?」

「完全には一致していませんね」

千里は身を乗り出した。

「例えば、重度の身体障害がある方を担当することになったとします。その方は移乗、食事、着替え、入浴、その他の日常生活のさまざまな場面で介助を必要としています」

葵はうなずいた。

「はい」

「その方は自立していると言えるでしょうか?」

葵は少しためらった。

「場合によると思います」

「何によってですか?」

「自分で意思決定ができるかどうか、です」

千里は微笑んだ。

「そのとおりです」

彼女は研修用のマニュアルを開いた。

「自立とは、必ずしもすべての身体的な動作を、誰の助けも借りずに行うことではありません。必要な支援を受けながら、自分の人生を自分で決めること。それが自立を意味する方もいるんです」

葵は耳を傾けた。

「着替えを手伝ってもらう必要があっても、何を着るかは本人が選べるべきです」

「そうですね」

「食事の準備や食べることに介助が必要でも、だからといって介助者が献立を決めていいわけではありません」

葵はうなずいた。

「夜更かししたい、買い物に行きたい、友達に会いたい、午後は何もしないで過ごしたい。そういった本人の希望も大切なんです」

葵はかすかに微笑んだ。

「当然のことに聞こえますね」

「でも、意外と忘れられがちなんですよ」

千里は次のページをめくった。

「訪問看護では、特に気をつけなければなりません。私たちは利用者さんの私的な生活空間に入って仕事をします。その家は病棟ではありませんし、日常生活を自動的に看護師の都合に合わせるべきでもありません」

葵は陽翔のことを思い出した。

初めて食事を手伝ったときのことだ。

彼は、一口食べさせるたびに医療処置みたいに扱わないでほしいと訴えていた。

そのとき、葵は笑ってしまった。

しかし今振り返ると、彼が何を伝えようとしていたのかわかった。

特別扱いしてほしかったわけではない。

普通に気遣ってほしかったのだ。

千里は説明を続けた。

「もちろん、現実的な制約はあります。訪問時間の調整も必要ですし、人員の確保もしなければなりません。医療行為の中には、決められた時間や専門職による管理が必要なものもあります」

「はい」

「それでも、できる限り本人の必要性や希望に合わせて支援を組み立てることが目標です。支援の都合に合わせて、本人の生活全体を組み替えさせるのではなく」

葵は考えながらうなずいた。

「その考え方、好きです」

千里は微笑んだ。

「よかったです」

彼女はテーブル越しにファイルを差し出した。

「では次に、専門職としての境界線についてお話ししましょう」

葵はファイルを開いた。

資料には、守秘義務、十分な説明に基づく同意、適切なコミュニケーション、利用者の安全と権利の保護、そして利用者や家族との関係に明確な境界線を設けることの重要性が記されていた。

千里は、長期的な訪問看護では、仕事上の関係が非常に親密になりやすいと説明した。

看護師は誰かの家で何時間も過ごし、その人の生活習慣の細かな部分まで知ることになる。家族間の問題、過去の出来事、感情的な弱さなどに触れることもある。

その近さには、慎重さが必要だった。

「利用者さんも一人の人間です」と千里は言った。「支援してくれる専門職に愛着を抱くこともありますし、専門職の側が利用者さんに強い親愛の情や、守ってあげたいという気持ちを抱くこともあります」

葵はうなずいた。

「もちろんです」

「ですが、そうした感情が臨床的な判断を妨げたり、相手に心理的な圧力や依存を生んだり、搾取につながったりしてはいけません」

「わかりました」

千里は続けた。

「現在担当している利用者さんとの恋愛関係は適切ではありません。個人的な感情が問題になりそうな場合には、看護師は上司の指導を求め、利用者さんの利益を守らなければなりません」

葵はマニュアルに目を落とした。

その原則は理解していた。

病院での研修でも、同様の境界線について繰り返し教えられてきた。

それでも、その話を聞いているうちに、なぜか陽翔の笑顔が浮かんだ。

葵はすぐにその考えを振り払った。

陽翔くんは、仕事で出会った患者さんでしょ、葵。

彼女はページをめくった。

千里は事業所の指導体制や報告手順について説明し始めた。

葵は真剣に耳を傾けた。

彼女は仕事を変えたいと思って、ここへ来たのだ。

もし本当にこの道を選ぶなら、きちんと仕事をしたかった。

都合のよさに支払う代償

三日目になるころには、陽翔はこの家での生活のほとんどすべてに、予定時刻が設定されていることに気づいていた。

朝食には予定がある。

入浴にも予定がある。

着替えにも予定がある。

どうやら外へ出るだけでも、事前の連絡が必要らしい。

その日の午後、陽翔はリビングに座り、木の床に差し込む日差しを眺めていた。

素晴らしい天気だった。

穏やかな風が外の木の葉を揺らし、通りのどこかから近所の子供たちの笑い声が聞こえてきた。

陽翔は庭へ目を向けた。

外へ出たかった。

特別な場所でなくてもいい。

ただ、外へ。

近所のコンビニまで行くのもいいかもしれない。

ここへ来てから、一度も家の敷地の外へ出ていなかった。

予定されていた介助職員の幸子は、食卓で記録を書き終えようとしていた。

「遠藤さん?」

幸子は顔を上げた。

「はい?」

「ちょっと外に出られませんか?」

彼女は時間を確認した。

「どれくらいをお考えですか?」

「三十分くらいかな」

幸子は少し考えた。

「今日、どの程度の支援ができるかと、残りの時間を確認する必要がありますね。私の訪問はもうすぐ終わる予定なので」

陽翔はため息をついた。

「ですよね」

幸子は申し訳なさそうに微笑んだ。

「調整担当者に相談して、外出の予定を組めるようお手伝いしましょうか?」

陽翔は窓を見た。

「……お願いします」

幸子はうなずいた。

「記録しておきますね」

陽翔は礼儀正しく微笑んだ。

「ありがとうございます」

彼女が帰ったあとも、陽翔は窓のそばにいた。

太陽は変わらず輝いていた。

通りには人々が歩いていた。

そして陽翔は、家の中にいた。

職員が自分の予定を勝手に放り出せないことは理解していた。

幸子に腹を立てているわけではない。

ただ、外へ出たいという何でもない願いが、調整を必要とする問題になってしまうことが嫌だった。

以前のマンションなら、母はどこへ行きたいのかと尋ねてくれただろう。

必要なものが揃っているかを確認し、都合がつけば、そのまま出かけていた。

母が文句を言うこともあった。

陽翔が文句を言うこともあった。

それでも少なくとも、二人で決めたことだと感じられた。

今では、何をするにも予定表の許可が必要なようだった。

陽翔は庭を見つめた。

「呼吸する時間も予約したほうがいいのかな」

少し間を置いた。

「九時三十分から九時四十五分。酸素の使用を許可する」

小さく笑った。

しかし、すぐに笑うのをやめた。

それほど面白い冗談でもなかった。

消えてくれない男

葵の勤務先の上司である看護師長、松田玲子は、めったなことでは驚かない女性だった。

救急医療の現場で二十年以上働いてきた。

説明のつかないような怪我を負って運ばれてくる患者も見てきたし、些細なことで言い争う家族も、彼女にとっては日常的な状況に動揺する若手医師たちも見てきた。

しかし、葵が部署を離れる可能性について個人的に相談したいと申し出たとき、玲子は片方の眉を上げた。

「退職を考えているの?」

葵は向かい側に座った。

「可能性としては」

玲子は椅子の背にもたれた。

「どうして?」

葵は少しためらった。

「訪問看護の仕事を調べているんです」

「訪問看護?」

「はい」

玲子は彼女をじっと見た。

「ずいぶん大きな転換ね」

「わかっています」

「もう採用の話は来ているの?」

「まだです。今は応募と研修の手続きを進めているところです」

玲子はうなずいた。

「それなら、急いで決めないほうがいいわ」

葵は目を伏せた。

「そのつもりです」

「なら、いいわ」

師長は両手を組んだ。

「水野さん、あなたは優秀な看護師よ。辞められたら残念だわ」

葵はかすかに微笑んだ。

「ありがとうございます」

「でも、人の優先順位が変わることも理解しているつもりよ」

少し間を置いた。

「元彼のことが関係しているの?」

葵の身体がこわばった。

玲子はそれに気づいた。

「話したくないことまで聞くつもりはないわ」

葵はうなずいた。

「ただ、受付で起きた件については警備担当から報告を受けているの」

「……はい」

玲子の表情が和らいだ。

「安全は確保できている?」

葵はその質問について考えた。

今は美香の家に泊まっている。

嫌がらせの記録も残している。

起きたことは報告している。

できる限りの対策も取っていた。

けれど、自分が安全だと感じているかと聞かれたら?

完全には、そう思えなかった。

「できることはしています」と答えた。

玲子はうなずいた。

「そう」

彼女は身を乗り出した。

「転職があなたにとって正しい選択になるかもしれない。でも、他人があなたの境界線を尊重しないからといって、あなたのほうが姿を消さなければならないなんて思わないで」

葵は顔を上げた。

その言葉は予想外だった。

玲子は続けた。

「訪問看護をしたいなら、本当にやりたい仕事だから選びなさい。彼のせいで今の生活が耐えられなくなったから、という理由だけで決めないこと」

葵は黙っていた。

その違いについて、そんなふうに考えたことはなかった。

玲子は微笑んだ。

「ゆっくり考えなさい。決めるまでの間、勤務の調整や選択肢についても相談できるから」

葵はうなずいた。

「ありがとうございます」

面談はほどなくして終わった。

葵は安心と迷いが入り混じった気持ちで廊下へ出た。

スマートフォンが振動した。

知らない番号だった。

胃が締めつけられた。

メッセージを開いた。

『仕事を変えれば全部解決すると思ってるのか?』

葵は足を止めた。

一瞬、病院の音が遠のいた。

画面を見つめた。

拓海。

また、彼だった。

続けてメッセージが届いた。

『大人なんだから、ちゃんと話し合おうぜ』

葵の手が震えた。

スクリーンショットを撮った。

そして、もう一枚。

返信はしなかった。

代わりに、玲子の部屋へ戻った。

師長が顔を上げた。

「水野さん?」

葵はスマートフォンを差し出した。

「また連絡が来ました」

玲子の表情が険しくなった。

「入りなさい」

葵は部屋へ入った。

今度ばかりは、助けを求めることを謝らなかった。

誰かの都合で動く家

その夜の言い争いは、一本のテレビ番組から始まった。

陽翔は映画を見たかった。

ただそれだけの、単純な願いだった。

ごく普通の映画だった。

残念ながら、その映画が終わる予定時刻は午後十一時半だった。

そして、高橋由紀が新しく定めた家庭内の生活習慣によれば、就寝時間は十時だった。

「明日見ればいいんじゃない?」と由紀は尋ねた。

陽翔は彼女を見た。

「なんで?」

「ちゃんと休まなきゃいけないからよ」

「俺、二十二歳なんだけど」

「知ってるわ」

「じゃあ、なんで門限みたいな就寝時間があるの?」

由紀はため息をついた。

「就寝時間を決めてるわけじゃないの」

陽翔は時計をちらりと見た。

「今、十時までにベッドに入らなきゃいけないって言ったよね?」

「その時間なら、夜の身支度を手伝えるからよ」

陽翔は大地を見た。

叔父はソファに座り、テレビのリモコンに並々ならぬ興味があるふりをしていた。

陽翔は叔母へ向き直った。

「じゃあ、もっと遅い時間に手伝ってもらえるようにできない?」

由紀はためらった。

「それは難しいかもしれないわ」

「どうして?」

「夜の介助の方はそんな遅くまで予定に入っていないし、私たちも明日は仕事があるから」

陽翔はため息をついた。

「そうだよね」

由紀は申し訳なさそうに微笑んだ。

「映画はまた今度見ればいいじゃない」

陽翔は彼女を見た。

「でも、今夜見たいんだ」

「陽翔」

「何?」

「お願いだから、話を難しくしないで」

その言葉が胸に刺さった。

陽翔は叔母を見つめた。

大地が顔を上げた。

由紀は続けた。

「生活のリズムを整えようとしているのよ」

陽翔の表情が硬くなった。

「誰のための生活リズム?」

由紀は眉をひそめた。

「どういう意味?」

「俺のため? それとも二人のため?」

由紀は腕を組んだ。

「それは不公平な言い方よ」

陽翔は息を吸った。

「そうかな?」

大地はリモコンを置いた。

「よし、ちゃんと話そう」

陽翔は叔父を見た。

「いいよ」

大地は身を乗り出した。

「叔母さんは、お前を支配しようとしてるわけじゃない」

「わかってる」

「必要なことを全部済ませられるようにしてるんだ」

陽翔はうなずいた。

「それには感謝してる」

由紀の表情が少し和らいだ。

「でも……」

陽翔は二人を交互に見た。

「俺のすること全部、誰かの予定に合わせなきゃいけないんだ」

由紀は口を開こうとした。

しかし、陽翔はその前に続けた。

「都合のいい時間に起きて、都合のいい時間に食べて、都合のいい時間に着替えて、都合のいい時間に寝る」

声が強くなった。

「その予定から外れたことをしたいって言うと、急に俺が面倒なことを言ってるみたいになる」

由紀は傷ついたような顔をした。

「そんな意味で言ったんじゃないわ」

「じゃあ、どういう意味?」

彼女は返事に詰まった。

陽翔はため息をついた。

「別に、一晩中起きててほしいなんて言ってない」

テレビへ目を向けた。

「ただ映画を見たいだけなんだ」

大地は額をさすった。

由紀は廊下をちらりと見た。

「直前になって、何もかも変えるわけにはいかないでしょう?」

陽翔はうなずいた。

「だったら、もっといい仕組みが必要なんだよ」

大地が顔を上げた。

「どんな?」

「俺が何をしたいのか、ちゃんと自分で決められる仕組み」

由紀は眉をひそめた。

「陽翔、あなたが望んだことを、いつでもそのとおりにできるとは約束できないわ」

「わかってるよ!」

声が大きくなった。

陽翔は言葉を止めた。

それから息を吸った。

「俺、馬鹿じゃないんだ」

部屋が静まり返った。

陽翔はうつむいた。

「みんな仕事があるのはわかってる。介助の人にも予定があるのはわかってる。俺が何かしたいからって、全員が何もかも放り出せるわけじゃないことくらい、わかってるよ」

唾を飲み込んだ。

「でも、自分の人生を少しは自分で決めたいんだ」

由紀の表情が和らいだ。

陽翔は続けた。

「俺は、普通の人なら考えもしないようなことまで、誰かの助けが必要なんだよ」

声が震えた。

「気が向いたからって、自分でベッドから起きられない。お腹が空いても、自分でおやつを作れない。外に出るにしても、必要なときに手伝ってくれる人がいるか確認しなきゃいけない」

叔母を見た。

「それなのに今は、映画を見る時間さえ自分で決められないんだ」

大地は目を伏せた。

陽翔の目に涙が浮かんだ。

「二人が俺の世話をしようとしてくれてるのはわかってる」

少し間を置いた。

「でも、ときどき、俺の生活そのものを取り上げられてるみたいに感じるんだ」

由紀は椅子に座った。

数秒間、誰も口を開かなかった。

やがて彼女はささやいた。

「……ごめんなさい」

陽翔は叔母を見た。

由紀は涙を拭った。

「そんなふうに感じていたなんて、気づかなかった」

陽翔はため息をついた。

「ずっと伝えようとしてたんだよ」

「そうね……」

大地が身を乗り出した。

「陽翔の言うとおりだ」

由紀は夫を見た。

大地は続けた。

「俺たちは、自分たちの仕事の予定に合わせて全部を組み立ててきた。それが一番管理しやすいからな」

彼は陽翔を見た。

「でも、それが陽翔にとってうまくいってるとは限らない」

陽翔はうなずいた。

「そういうこと」

由紀は床を見つめた。

それから息を吸った。

「わかったわ」

顔を上げた。

「何を変えればいいのか、一緒に考えましょう」

陽翔はためらった。

「……本当に?」

「本当よ」

大地はかすかに微笑んだ。

「まあ、専門家の助けも必要になるだろうけどな」

陽翔は弱々しく笑った。

「今さら?」

叔父はにやりと笑った。

「ちょっとだけな」

由紀はテレビを見た。

「どんな映画が見たかったの?」

陽翔は目をぱちくりさせた。

「え?」

「映画よ」

「ああ」

彼は画面をちらりと見た。

「コメディーなんだけど」

大地が興味を示した。

「面白いのか?」

「知らないよ。だから見たかったんだってば」

由紀は微笑んだ。

「今夜は介助の予定を変えられないけど、録画しておいて、別の日に遅くまで起きていられるよう調整できるかもしれないわね」

陽翔はその提案について考えた。

望んでいたことと、まったく同じではなかった。

けれど、頼みを退けるのではなく、解決策を探そうとしてくれていた。

「……うん」

大地はリモコンを手に取った。

「何ていう映画なんだ?」

陽翔は題名を告げた。

叔父はじっと彼を見た。

「ひどそうな映画だな」

陽翔はにやりと笑った。

「でしょ?」

笑うことをやめなかった女性の写真

その夜遅く、大地が陽翔の寝室をのぞくと、彼はスマートフォンで写真を眺めていた。

テレビは消えていた。

部屋は静かだった。

陽翔はすでに介助を受けてベッドに移り、楽な姿勢に整えられていたが、まだ眠るつもりはなさそうだった。

大地は軽くノックした。

「まだ起きてるのか?」

陽翔は顔を向けた。

「うん」

「入ってもいいか?」

「いいよ」

大地は部屋に入り、ベッドの横へ椅子を引き寄せた。

「何を見てるんだ?」

「昔の写真」

「母さんのか?」

陽翔はうなずいた。

大地は少し身を乗り出した。

「俺にも見せてくれるか?」

陽翔はかすかに微笑んだ。

「うん」

叔父に頼んで、写真を順番に表示してもらった。

最初の写真には、スーパーの通路で巨大な米袋を二つ抱えている美咲が写っていた。

大地は笑った。

「何だこれは?」

陽翔はにやりと笑った。

「安売りしてたから買ったんだって」

「二つとも?」

「うん」

「何でだ?」

「どうやら、世界の終末に備えてたらしいよ」

大地は吹き出した。

陽翔は次の写真を表示してもらった。

美咲が、片側の崩れた誕生日ケーキの横に立っていた。

大地は目を見開いた。

「これ、あいつが作ったのか?」

「残念ながら」

「何があったんだ?」

「オーブンが壊れてるって言ってた」

大地はくすくす笑った。

「本当に?」

「ううん。ベーキングパウダーを入れ忘れただけ」

二人は笑った。

次の写真では、美咲が星形の奇妙なサングラスをかけていた。

大地は首を振った。

「これ、覚えてるぞ」

陽翔は驚いた。

「本当に?」

「家族でバーベキューをしたときにかけてきたんだ」

陽翔はにやりと笑った。

「おしゃれに見えるって言ってたよ」

大地は笑った。

「宇宙人みたいだったぞ」

陽翔は大笑いした。

それから数分間、二人は写真を次々に見ていった。

公園にいる美咲。

雨の日の午後の美咲。

祭りで当てた巨大なクマのぬいぐるみを抱えている美咲。

お腹の上にテレビのリモコンを載せたまま、ソファで眠っている美咲。

どの写真にも物語があった。

そして、その物語を一つ話すたびに、見慣れない寝室が少しずつ温かくなっていくようだった。

やがて大地は、桜の木の下で陽翔の車椅子の横に座っている美咲の写真で手を止めた。

彼女は陽翔の肩に頭を預けていた。

二人とも笑っていた。

大地はその写真を見つめた。

「いい写真だな」

陽翔はうなずいた。

「うん」

「いつ撮ったんだ?」

「去年の春」

大地は寂しげに微笑んだ。

「幸せそうだな」

陽翔は写真を見た。

「幸せだったよ」

声が柔らかくなった。

「公園で午後を過ごしたあとだったんだ」

大地はうなずいた。

陽翔は続けた。

「母さん、旅行に行きたいってずっと話してた」

「どこへ?」

「京都」

大地は微笑んだ。

「あいつは昔から京都が好きだったな」

陽翔は驚いた。

「知ってたの?」

「もちろん」

叔父は椅子の背にもたれた。

「お前を京都へ連れていきたいって、何年も話してたよ」

陽翔は叔父を見つめた。

「本当に?」

大地はうなずいた。

「桜の季節に、お寺を見て回りたかったんだって」

陽翔は写真に目を戻した。

その会話を覚えていた。

美咲はテレビで旅行番組を見るたびに、京都の話をしていた。

車椅子で利用できるホテルや交通手段、行ってみたい場所についても話し合った。

しかし、いつも何か別の用事があった。

通院。

仕事。

お金。

そして、癌。

結局、二人は一度も行けなかった。

陽翔は唾を飲み込んだ。

「……行っておけばよかった」

大地は彼を見た。

「まだ時間はあるぞ」

陽翔は眉をひそめた。

「え?」

「京都へ行く時間だよ」

陽翔は目をそらした。

「母さんとは行けないよ」

大地の表情が和らいだ。

「……そうだな」

少し間を置いた。

「でも、お前はまだ行ける」

陽翔は写真を見つめた。

そんなことは考えたこともなかった。

母親のいない旅行。

別の誰かと計画する旅行。

二人でいつかやろうと思っていたことを、自分だけが実現すること。

不思議な感じがした。

まるで母を裏切るような気さえした。

大地はそれを理解したようだった。

「今すぐ決めなくていいんだ」

陽翔はうなずいた。

「でも、いつかなら」

叔父を見た。

大地は微笑んだ。

「どうすれば行けるか、一緒に考えよう」

陽翔は弱々しく笑った。

「また新しい計画?」

「もちろん」

「動画四本じゃ足りないと思うよ」

大地は吹き出した。

陽翔も笑った。

この家に引っ越してきて初めて、彼は不安以外の何かがある未来を想像していた。

まだ書かれていない名前

翌日の午後、由紀、大地、陽翔の三人は、田中恵子と在宅支援の調整担当者との面談に出席した。

話し合いは、地域の支援事務所にある小さな相談室で行われた。

陽翔は車椅子に座ってテーブルについていた。

由紀はノートを持参していた。

大地は介助関係の書類をまとめたファイルを持ってきた。

そして陽翔は、変えてほしいことをまとめたリストを用意していた。

とても長いリストだった。

恵子はそれを見ると微笑んだ。

「しっかり準備してきましたね」

陽翔はにやりと笑った。

「考える時間はたっぷりありましたから」

大地がくすくす笑った。

「朝ご飯のときから、ずっとリストを作ってたんですよ」

「六時四十二分からね」と陽翔は訂正した。

由紀はため息をついた。

「その話、いつまで引っ張るつもり?」

「一生」

恵子は笑った。

それから調整担当者が、家族の状況について確認を始めた。

陽翔の日常生活で必要な介助、現在の支援体制、親戚二人の勤務時間、そして退院後に明らかになった問題について話し合った。

由紀は、現在の体制が家庭にかなりの負担をかけていることを認めた。

大地は、さらなる研修と安定した支援体制が必要だと話した。

陽翔は、日常生活の時間をもっと自分で決められるようにしたいと説明した。

調整担当者は丁寧に耳を傾けた。

そして言った。

「支援の量と時間帯を、もう一度見直す必要がありそうですね」

由紀はうなずいた。

「はい」

「陽翔さんの医療的な必要性や利用資格、地域で利用できるサービスによっては、在宅での支援を追加できる可能性があります」

大地は身を乗り出した。

「専任の看護師をお願いすることはできますか?」

担当者は少し考えた。

「適切な支援体制の一部として、検討できるかもしれません。特に専門的な看護が必要な場合ですね。ただし、看護師が担う業務と、身体介助やその他の日常生活の支援は区別して考える必要があります」

陽翔はうなずいた。

「なるほど」

恵子が彼を見た。

「陽翔さん自身は、どんな支援を希望していますか?」

陽翔は考えた。

「話を聞いてくれる人がいいです」

由紀はかすかに微笑んだ。

陽翔は続けた。

「助けが必要だからって、自分で物事を決められないわけじゃないって理解してくれる人」

調整担当者はうなずいた。

「もちろんです」

「それから、俺を担当する人を選ぶときには、自分も参加したいです」

「当然です」

大地が彼を見た。

「候補の人と、一緒に面談してみるのもいいかもな」

陽翔はにやりと笑った。

「難しい質問してもいい?」

由紀はため息をついた。

「陽翔」

「何?」

恵子は笑った。

「常識の範囲内なら」

陽翔は微笑んだ。

「素晴らしい」

調整担当者は別のファイルを開いた。

「まずは適切な事業所に連絡して、利用できるサービスを確認するところから始めましょう」

由紀はうなずいた。

「ありがとうございます」

担当者は続けた。

「専任の看護師が適切だと判断された場合には、ケア計画、必要な資格、勤務時間、費用の負担方法などについても相談する必要があります」

大地は椅子の背にもたれた。

「わかりました」

陽翔は書類を見た。

母が亡くなって以来、初めて、自分の将来についての話し合いが、自分の周囲で勝手に進んでいるものではないと感じられた。

自分も参加している。

自分の声が届いている。

これから先の道のりが不確かなことに変わりはなかった。

それでも、いつか自分の人生を少しずつ取り戻せるかもしれないと、信じ始めていた。

誰も予想しなかった担当先

同じ日の午後、葵のもとに森山千里から電話がかかってきた。

葵は美香のマンションで、事業所の研修資料に目を通しているところだった。

「水野さんですか?」

「はい」

「訪問看護ステーションの森山です」

葵は背筋を伸ばした。

「こんにちは」

「お忙しいところ、すみません」

「いえ、大丈夫です」

千里の声は明るかった。

「応募の手続きが順調に進んでいることをお伝えしたくて」

葵は微笑んだ。

「本当ですか?」

「はい。次の受け入れ手続きへ進んでいただきたいと考えています」

「ありがとうございます!」

「もちろん、まだ研修や事務手続きなど、済ませていただくことはありますが」

「承知しています」

千里は少し間を置いた。

「それから、もう一つあります」

葵は眉をひそめた。

「はい?」

「近いうちに、適切な担当先が一件できるかもしれません」

胸の鼓動が速くなった。

「担当先、ですか?」

「最近、病院から退院して親戚の家で暮らし始めた、重度の身体障害がある若い成人の方です」

葵は耳を傾けた。

「ご家族が、より広い支援体制の一部として、専任の看護師による支援を検討されています。まだ何も確定していませんし、ご本人の必要性や希望、適切な人員配置についても確認しなければなりません」

「もちろんです」

千里は続けた。

「あなたのこれまでの経験が役立つ可能性があります。ただし、必要な研修と臨床的な指導体制を整えることが前提になります」

葵はうなずいた。

「わかりました」

「正式な調整が済んだら、詳しい話を聞いてみたいと思いますか?」

葵は考えた。

若い成人。

最近退院したばかり。

重度の身体障害。

親戚と同居。

どこか聞き覚えのある説明だった。

けれど、東京は大きな街だ。

複雑な支援を必要とする患者は、数え切れないほどいる。

葵はその考えを振り払った。

「はい」と答えた。

「ぜひ、お話を伺いたいです」

電話の向こうで千里が微笑んだようだった。

「よかったです。詳しいことがわかり次第、またご連絡しますね」

「ありがとうございます」

二人は挨拶を交わした。

葵は通話を終えた。

そしてスマートフォンを見つめた。

数秒間、動かなかった。

やがて微笑んだ。

「……さて」

美香が入口に現れた。

「何?」

葵は顔を上げた。

「担当先が決まるかもしれない」

美香は大きく息をのんだ。

「ええっ!?」

葵は笑った。

「まだ喜ばないでよ!」

「もう遅い!」

美香は駆け寄ってきた。

「全部教えて!」

葵は首を振った。

「まだほとんど何もわからないんだから」

「いい担当先なの?」

「わからない」

「場所は?」

「わからない」

「患者さんは誰?」

「わからないってば!」

美香は葵をじっと見た。

そして大笑いした。

「すごい。情報量ゼロじゃん」

葵はクッションを投げつけた。

「うるさい!」

二人は一緒に笑った。

葵は数か月ぶりに、何かに対して心からわくわくしていた。

まだ決めなければならないことはあった。

病院での仕事。

自分の安全。

そして、これからの人生。

けれど、彼女は前へ進んでいた。

そして同じ街のどこかで、高橋陽翔という若者もまた、前へ進み始めていた。

二人はまだ、それぞれ別々に歩んでいる道が、少しずつ互いのほうへ曲がり始めていることを知らなかった。

今は、まだ。

陽翔の手元には、まだ会ったことのない看護師に尋ねたい質問のリストがあった。

そして葵は、まだ名前も知らされていない患者の担当になる可能性を検討することに同意していた。

二人の間にあるのは、ごくありふれた書類だった。

介助の予定表。

専門職による評価書。

そして、誰かの名前が書き込まれるのを待つ、空白の欄。

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