第10章 明日への扉に立つ、見覚えのある見知らぬ人
専任の看護師を雇うということが、家電製品を買うよりもはるかに複雑だと高橋大地が最初に気づいたのは、カタログを眺めて好きな看護師を選べるわけではないと知ったときだった。
二度目は、その費用がどれほど高額になる可能性があるかを知ったとき。
そして三度目は、甥から、まるで家族で新しい冷蔵庫を買おうとしているみたいだと指摘されたときだった。
「大地叔父さん、俺たち電子レンジを買うわけじゃないんだよ」
大地はノートパソコンから顔を上げた。
「そんなことはわかってる」
「じゃあ、なんで看護師を時給で比較してるの?」
「比較してるのは事業所だ」
「大して変わらないと思うけど」
高橋由紀は夫の隣に座っていた。食卓にはパンフレットや手書きのメモ、それから朝食後にどういうわけか増殖してしまった書類が散乱している。
食堂はいつの間にか、事務所のような有様になっていた。
陽翔は、書類が繁殖しているのではないかと疑っていた。
誰かが一枚片づけるたびに、その場所へ新しい書類が二枚現れるように見えるのだ。
彼は電動車椅子を操作して、テーブルに近づいた。
「何が問題なの?」
大地はため息をついた。
「どこから説明すればいいんだ?」
「できれば、俺の次の誕生日が来る前のところから」
叔父は疲れ切った目で彼を見た。
由紀がパンフレットを陽翔のほうへ押し出した。
「恵子さんが紹介してくださったサービスを調べているの」
陽翔は資料に目を通した。
訪問看護、身体介助、ケアの調整、さまざまな支援制度についての情報が記載されていた。
「なるほど」
「問題はな」と大地が説明した。「どのサービスも、同じことをしてくれるわけじゃないんだ」
陽翔はうなずいた。
「そうだね」
「医療的なケアをする訪問看護師を派遣する事業所もあれば、日常生活の介助を提供する事業所もある。長時間の支援ができるところもあるが、人員や必要な支援の種類によって利用できるかどうかが変わる」
「それで?」
「それで、どのサービスをどう組み合わせれば実際にうまくいくのか、考えなきゃならない」
陽翔は書類の山を見た。
「もっともな話だね」
大地は額をさすった。
「それに費用の問題もある」
由紀は夫をちらりと見た。
「大地……」
「何だよ。陽翔にも知っておいてもらうべきだろ」
陽翔は二人を交互に見た。
「いくら?」
大地はためらった。
「まだ最終的な金額は出てない」
「じゃあ、見積もりは?」
叔父はノートパソコンを彼のほうへ向けた。
陽翔は画面に表示された数字を確認した。
表情が変わった。
「……うわ」
大地はうなずいた。
「だろ?」
陽翔はさらに目を凝らした。
「看護師さんを頼むと、車が一台おまけでついてくるの?」
由紀は思わず笑った。
大地はため息をついた。
「そうだったらいいんだがな」
見積もり金額は、支援の時間数、必要な資格、費用の負担方法によって大きく異なっていた。保険や公的な支援制度で賄えるサービスもあれば、多額の自己負担が必要になるものもあった。
利用できる制度については、ケアの調整担当者が確認を手伝ってくれていた。しかし、その過程には評価、申請、書類の提出、そして待機期間が伴った。
一晩で何もかも整えられるわけではない。
陽翔もそれは理解していた。
ただ、気になったのは叔父の表情だった。
大地は疲れ切っていた。
身体的に、ではない。
金銭的な意味で。
画面に表示される数字の一つ一つが、自分に背負いきれるかわからない新たな責任を表しているかのようだった。
陽翔は数字を見つめた。
そして目をそらした。
「……もう、やめてもいいんじゃない?」
由紀は眉をひそめた。
「え?」
「専任の看護師のこと」
大地が顔を上げた。
「陽翔――」
「本気だよ」
彼は廊下をちらりと見た。
「今までどおりでいいじゃん」
由紀は首を横に振った。
「でも、今の体制じゃうまくいっていないでしょう?」
「何とかなってるよ」
大地が身を乗り出した。
「陽翔」
彼は叔父を見た。
「この話はもうしただろう」
「わかってる」
「お前には安定した支援が必要だ。それに、俺たちも長く続けられる体制にしなきゃならない」
陽翔は目を伏せた。
「……うん」
由紀が彼の手に触れようとした。
「書類が少し面倒だからって、諦めたりしないわよ」
陽翔は弱々しく笑った。
「少し?」
大地は書類の山を見た。
「わかった。数千枚くらいだな」
三人は笑った。
しかし、陽翔の笑顔はすぐに消えた。
彼は再びノートパソコンを見た。
母は何年もの間、陽翔の介助を手配し、通院の予定を管理し、限られた家計の中で生活を成り立たせる方法を探し続けていた。
お金に余裕がないときがあることは知っていた。
母が出費について文句を言うのも聞いていた。
けれど、どれほど心配しているのか、そのすべてを彼に見せることはめったになかった。
今、叔母と叔父の食卓に座りながら、陽翔はその理由を少しずつ理解し始めていた。
介助の一時間一時間に、費用がかかる。
機器を一つ使うにも、承認や保守点検、あるいは支払いが必要になる。
どのサービスも、誰かの都合や空き状況に左右される。
陽翔は自分の車椅子に目を向けた。
ここ数日で初めて、彼はこの話し合いから消えてしまいたいと思った。
助けが欲しくないからではない。
ただ、自分が生きるためにどれほどお金がかかるのか、聞き続けることに疲れていたのだ。
面接委員は一名様
午前十一時になるころには、陽翔は一つの決断を下していた。
自分の家で働く人を選ぶのなら、面接は自分で行う。
由紀は当初、自分と大地で話を進めようと提案した。
陽翔はその提案を却下した。
即座に。
「絶対に嫌だ」
由紀は目をぱちくりさせた。
「陽翔」
「嫌」
「私たちはただ――」
「何を考えてたかはわかるよ」
大地は面白そうに見ていた。
陽翔は続けた。
「二人でいろいろ質問して、感じのいい人かどうか判断して、それから誰を雇ったか俺に教えるつもりだったんでしょ?」
由紀は口を開いた。
そして閉じた。
陽翔は片方の眉を上げた。
「違う?」
彼女はため息をついた。
「完全には否定できないわね」
「でしょ?」
大地がくすくす笑った。
陽翔は叔父へ向き直った。
「笑わないでよ。叔父さんも委員会の一員なんだから」
大地は姿勢を正した。
「委員会なんてあるのか?」
「あるよ」
「委員は誰なんだ?」
「俺」
大地は続きを待った。
陽翔は微笑んだ。
「以上」
由紀が吹き出した。
大地は首を振った。
「ずいぶん民主的だな」
「俺もそう思う」
この取り決めについては、すでにケアの調整担当者とも話し合っていた。陽翔は自分を支援する専門職の選定に参加し、事業所は必要な臨床評価、資格確認、指導体制、雇用上の手続きを担当する。
家族は希望を伝えられるが、候補者が適任かどうかは、単に気に入ったかどうかだけでは決まらない。
陽翔もそれは理解していた。
彼が確かめたかったのは、選ばれる人が自分の話を聞いてくれるかどうかだった。
それに、誰かと何時間も一緒に過ごすなら、ユーモアのセンスも必要だ。
できれば、優れたセンスがいい。
陽翔は大地に、質問のリストを作るのを手伝ってほしいと頼んだ。
叔父はノートパソコンで新しい文書を開いた。
「よし。最初の質問は?」
陽翔は考えた。
「皮肉には耐えられますか?」
大地は入力した。
「本気か?」
「大真面目」
「わかった」
陽翔は続けた。
「二問目。くだらない冗談についてどう思いますか?」
大地はため息をついた。
「陽翔」
「書いて」
叔父は従った。
「三問目は?」
「時間は守りますか?」
「それはまともだな」
「四問目。料理はできますか?」
大地は手を止めた。
「料理は必ずしも看護師の仕事じゃないぞ」
陽翔はうなずいた。
「確かに。じゃあ変更。俺がカップ麺を食べても軽蔑しませんか?」
大地は笑った。
そこへ由紀がキッチンから出てきた。
「二人とも、何をしてるの?」
「面接の質問を考えてるんだ」と大地が答えた。
由紀は画面を見た。
表情が変わった。
「陽翔!」
彼はにやりと笑った。
「何?」
「これ、仕事の面接でする質問じゃないでしょう!」
「すごく大事な質問だよ」
「看護師さんを面接するのよ。お笑い芸人じゃないの」
陽翔は心外そうな顔をした。
「両方できる人じゃ駄目なの?」
大地が吹き出した。
由紀はため息をついた。
それから椅子を引いて座った。
「わかったわ。真面目な質問も加えましょう」
陽翔はうなずいた。
「いいよ」
三人は、何が最も重要なのかを一緒に考え始めた。
重度の身体障害がある人への支援経験。
本人の意思を尊重するケアへの理解。
コミュニケーション能力。
信頼性。
必要な機器についての知識と、研修を受ける意欲。
自分だけでは対応できず、別の専門職の支援が必要になる場面を判断できること。
そして陽翔にとって何より重要だったのは、自分の希望が家族の希望と違っていても、それを尊重してくれるかどうかだった。
完成した文書には、十二の質問が並んでいた。
六つは真面目な質問。
四つは少々怪しい質問。
残り二つは、完全にふざけていた。
陽翔は、素晴らしい面接になると確信していた。
日差しの中まで追いかけてくる影
水野葵には、最近ある癖がついていた。
反射するものを確認する癖だ。
店のショーウィンドウ。
電車のドア。
建物の入口にある磨かれたガラス。
振り返らずに、誰かが後をつけていないか確かめられるものなら何でもよかった。
葵はその癖が嫌いだった。
そんなことをしなければならなくなった自分の状況が嫌だった。
そして何より、もう自分の人生に関係のないはずの黒田拓海が、いまだにこれほど多くの思考を占領していることが嫌だった。
その朝、葵は藤本美香と一緒に、近所の交番の前に立っていた。
美香は缶コーヒーを二本持っていた。
「はい」
葵は一本受け取った。
「ありがとう」
美香は彼女を見た。
「大丈夫?」
葵は交番の入口へ目を向けた。
「……あんまり」
「話したい?」
葵は首を横に振った。
「まだ、いい」
二人は、拓海による嫌がらせについて追加の情報を伝えに来ていた。
最近のメッセージは、以前のものよりも不気味だった。
彼は、葵が転職を考えていることを知っていた。
勤務時間が変わりつつあることにも言及していた。
そして昨夜には、美香のマンションの近くにある通りの写真を送ってきた。
明確な脅迫の言葉は添えられていなかった。
ただ、一文だけ。
『お前が話をややこしくしてるんだぞ』
葵はその写真を数分間見つめてから、美香に見せた。
友人はすぐに、もう一度警察へ相談しようと言った。
今、交番の前に立ちながら、葵は本来なら説明する必要などないはずのことを、これから説明しなければならないように感じていた。
恋人と別れた。
それだけで十分なはずだった。
美香が彼女の腕に触れた。
「行ける?」
葵は息を吸った。
「うん」
交番の中で、二人は警察官に事情を説明した。警察官は以前の相談記録を確認し、新しいメッセージにも目を通した。
葵はスクリーンショットや日付、病院で起きた出来事についての情報を提出した。
警察官は、病院から退去させられて以降、拓海が直接近づいてきたことはあるかと尋ねた。
「いいえ」と葵は答えた。
「危害を加えると脅されたことは?」
葵はためらった。
「直接的には、ありません」
スマートフォンに目を落とした。
「でも、私がどこにいるのか知ってるって、何度も示してくるんです」
警察官はうなずいた。
望まない接触が続いている状況、証拠の保存、今後の出来事の記録方法、行為が続いたり悪化したりした場合に取り得る対応について話し合った。
葵は、拓海が職場や美香のマンションの近くに現れたらどうすればいいかも尋ねた。
警察官は、危険を感じたり差し迫った危険に遭遇したりした場合には、自分で相手に立ち向かおうとせず、速やかに警察へ連絡することが重要だと説明した。
美香も真剣に耳を傾けていた。
帰る前に、葵はもう一つ質問した。
「もし、誰かの家で働くことになったらどうすればいいでしょうか?」
警察官が顔を上げた。
「どういうことですか?」
「訪問看護の仕事に応募しているんです」
彼女はためらった。
「あの人に、患者さんの家までついてこられたくないんです」
警察官はその懸念について考えた。
「勤務先の安全管理担当者と相談するべきでしょう。安全な移動方法や訪問時の対応を計画できるかもしれません」
葵はうなずいた。
「わかりました」
警察官は続けた。
「それから、後をつけられていると思ったら、個人の住宅へ相手を誘導しないでください。安全な場所へ移動し、警察へ連絡してください」
葵は礼を言った。
二人が外へ出ると、朝の日差しがいつも以上にまぶしく感じられた。
美香が彼女を見た。
「少しは楽になった?」
葵は考えた。
「少しだけ」
「よかった」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
数分後、葵が再び口を開いた。
「美香?」
「ん?」
「私、間違ってるのかな?」
友人は眉をひそめた。
「何が?」
「転職すること」
美香は足を止めた。
「葵」
彼女は振り向いた。
「拓海が何をするかは、あなたの責任じゃないんだよ」
葵は目を伏せた。
「わかってる」
「でも?」
葵はため息をついた。
「もし、あの人がどこかまでついてきたら? 患者さんの家を突き止めたら?」
美香の表情が和らいだ。
「だったら、事業所に危険を伝えて、一緒に対策を考えるの」
葵はうなずいた。
「でも、仕事をしたいからって、何も起きてないふりをしちゃ駄目だよ」
葵は顔を上げた。
美香は続けた。
「あなたには、好きな仕事をする権利がある。それに、あなたが支援する相手にも、安全でいる権利があるんだから」
葵はかすかに微笑んだ。
「いつからそんなにしっかりした人になったの?」
美香はにやりと笑った。
「私にはいろんな一面があるのよ」
葵は笑った。
二人は再び駅へ向かった。
その朝初めて、葵は拓海以外のことを考えられるようになった。
名前のない担当先
昼食後まもなく、森山千里は葵の採用手続きに関する書類を確認していた。
事業所の責任者は、候補となる担当先や、多くの介助を必要とする利用者を支援する際の責任について話し合うため、もう一度面談の機会を設けていた。
葵は研修資料を持ってやって来た。
「こんにちは」
千里は微笑んだ。
「水野さん。どうぞお掛けください」
葵は一礼して席についた。
千里はファイルを開いた。
「応募の手続きが進みましたよ」
葵は微笑んだ。
「それはよかったです」
「照会先からの評価にも問題はありませんし、これまでの臨床経験も、いくつかの担当業務に適していると思います」
「ありがとうございます」
「ただし、具体的な利用者さんについてお話しする前に、確認しておきたいことがいくつかあります」
葵はうなずいた。
「もちろんです」
千里は、残っているオリエンテーションの要件を確認した。
事業所では、看護師に対し、個別のケア計画、緊急時の対応、記録の基準、守秘義務、そして専門的な看護業務とその他の身体介助の違いを理解することを求めていた。
葵は注意深く耳を傾けた。
多くの原則にはすでに馴染みがあった。
しかし、それらを誰かの自宅で実践するには、病院とは違う考え方が必要だった。
病院では機器が標準化されており、通常は近くに助けを求められる人がいる。
個人の住宅では、利用者の生活環境に合わせて働きながら、安全で適切なケアを維持しなければならない。
千里は、必要な研修や権限がない業務を看護師が引き受けてはいけないと強調した。
葵はうなずいた。
「承知しました」
それから千里はファイルを閉じた。
「相談したい担当先が一件あるんです」
葵は背筋を伸ばした。
「以前お話しされていた件ですか?」
「はい」
千里はメモに目を落とした。
「候補となっている利用者さんは、重度の身体障害がある若い成人の男性です。ご家族を亡くされてから、最近、親戚の家へ移られました」
葵は耳を傾けた。
また、どこか聞き覚えのある説明だった。
若い成人。
重度の身体障害。
最近、親戚の家へ引っ越した。
陽翔の顔が一瞬浮かんだ。
しかし、葵はその可能性を打ち消した。
きっと偶然だ。
千里は続けた。
「現在、ご家族はケアの調整担当者と協力して、長く続けられる支援体制を整えようとしています。身体介助やその他のサービスと組み合わせて、一定の時間帯に専任の看護師が必要になるかもしれません」
葵はうなずいた。
「なるほど」
「特に重要なのは、ご本人の希望です。ご自身のケアチームを選ぶ過程に、直接参加したいと考えていらっしゃいます」
葵は微笑んだ。
「いいことですね」
千里が顔を上げた。
「賛成ですか?」
「もちろんです」
「どうして?」
葵は考えた。
「ケアを受けるのは、その方ご本人ですから」
千里はうなずいた。
「そのとおりです」
少し間を置いた。
「ご本人とご家族が同意されれば、顔合わせの機会を設けたいと思っています」
葵の胸が高鳴った。
「いつごろでしょうか?」
「今週の後半になるかもしれません」
葵は微笑んだ。
「ぜひ参加させてください」
千里はうなずいた。
「わかりました」
それから表情を少し引き締めた。
「その前に、採用手続きの際にお話しいただいた安全上の懸念についても確認したいんです」
葵の笑顔が消えた。
「……はい」
千里は両手を組んだ。
「私たちは職員と利用者さんの安全を重視しています。元交際相手からの嫌がらせについては伺っていますので、担当業務に影響する危険がないか検討する必要があります」
葵はうなずいた。
「理解しています」
二人は、具体的な予防策、個人情報の保護、安全な移動、報告手順、そして勤務中に拓海が近づいてきた場合の対応について話し合った。
千里は、葵一人に問題を対処させるつもりはないと明言した。
信頼できる危険情報があれば、事業所は担当業務を再評価し、適切な対応を調整する。
葵はほっとした。
嫌がらせについて打ち明けたら、信用できない人間だと思われるのではないかと心配していた。
しかし千里は、それを対策が必要な安全上の問題として扱ってくれた。
面談が終わると、葵は立ち上がった。
「ありがとうございました」
千里は微笑んだ。
「こちらこそ」
彼女はファイルを手に取った。
「顔合わせの日程が決まりましたら、ご連絡しますね」
葵は一礼した。
「よろしくお願いします」
事務所を出た葵は、慎重ながらも希望を感じていた。
担当先になるかもしれない人。
病院の外で働く機会。
新しい何かを築く可能性。
その若者がすでに、カップ麺に関する質問を用意しているなどとは、夢にも思っていなかった。
数字では測れない代償
その夜、陽翔は叔母と叔父が言い争っているのを耳にした。
大声ではなかった。
怒鳴り合っているわけでもなかった。
ただ、どうしても簡単にならない問題を解決しようとする人たちの、張り詰めた声だった。
廊下を通って戻ろうとしたとき、キッチンから大地の声が聞こえた。
「いつまでもあの金額を払い続けるわけにはいかないぞ」
由紀はため息をついた。
「わかってるわ」
「もし支援の費用が認められなかったら?」
「別の方法を考えるしかないでしょう」
大地は声を落とした。
「住宅ローンだって残ってるんだ」
「わかってるわよ、大地」
「家の改修もまだ終わってない」
「お願い……」
陽翔は足を止めた。
車椅子が廊下で静止した。
聞いてはいけないことはわかっていた。
しかし、会話の中に自分の名前が出てこないことが、かえってつらかった。
由紀が再び口を開いた。
「美咲に、陽翔の面倒を見るって約束したでしょう」
大地はため息をついた。
「わかってる」
「簡単に諦めるわけにはいかないわ」
「諦めようなんて言ってない」
「じゃあ、どうしろっていうの?」
長い沈黙が続いた。
やがて大地が言った。
「俺が言いたいのは、無理なく続けられる支援が必要だってことだ」
陽翔は目を伏せた。
車椅子の向きを変え、寝室へ戻った。
ドアは開けたままだった。
窓のそばで止まった。
外の空はオレンジ色に染まり始めていた。
子供たちが数人、自転車で通りを走っていた。
隣家の庭では、誰かが植物に水をやっていた。
普通の人たちが、普通のことをしている。
陽翔はその光景を見つめた。
叔母と叔父が自分を愛してくれていることはわかっていた。
二人が努力していることも。
けれど、愛情だけでは請求書を支払えないことも知っていた。
母は二十二年間、陽翔のケアを管理してきた。
必要なものを揃えるために、時間もお金も、自分自身の機会も犠牲にしてきた。
今、その責任は、そんなことになるとは思ってもいなかった二人の肩にのしかかっている。
陽翔はベッドの横にある写真を見た。
「母さん……」
声が震えた。
「俺、どうすればいいんだろう」
写真は何も答えてくれなかった。
陽翔はため息をついた。
一瞬、施設に入って暮らしたいと由紀と大地に伝えることを考えた。
自分がそうしたいからではない。
そのほうが二人にとって楽かもしれないと思ったからだ。
しかし、母の手紙を思い出した。
あの子が何を望んでいるのか、聞いてあげて。
そして、答えてくれたら、ちゃんと耳を傾けて。
陽翔は目を閉じた。
自分は何を望んでいるのだろう?
自分のことを自分で決められる場所で暮らしたい。
安定した介助を受けたい。
天気のいい日には外へ出たい。
たまには夜更かししたい。
旅行に行きたい。
友達が欲しい。
未来が欲しい。
できれば、いつか愛する人も。
普通の人生を送りたかった。
そして、そんな普通のことをするために、特別な手配がいくつも必要になるのが嫌だった。
ノックの音が思考を遮った。
「陽翔?」
大地が入口に立っていた。
「入ってもいいか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
叔父が入ってきた。
疲れた顔をしていた。
陽翔は彼を見た。
「大丈夫?」
大地はためらった。
それからうなずいた。
「ああ」
陽翔は片方の眉を上げた。
「嘘、下手だね」
大地はため息をついた。
「そうか?」
「驚くほど」
叔父は苦笑した。
そして椅子を引き寄せた。
「介助の体制について、いろいろ確認してたんだ」
陽翔は目をそらした。
「聞こえた」
大地は動きを止めた。
「……そうか」
陽翔は窓を見つめた。
「ごめん」
叔父は眉をひそめた。
「何が?」
「お金のこと」
大地は身を乗り出した。
「陽翔――」
「高いのはわかってる」
声が震えた。
「それに、二人がこんなことになるなんて思ってなかったのも」
大地は黙っていた。
陽翔は続けた。
「俺のせいで、叔父さんと由紀叔母さんの貯金を全部使わせたくないんだ」
叔父はため息をついた。
「こっちを見てくれ」
陽翔は顔を向けた。
大地の表情は真剣だった。
「お金のことを考えなくていいふりをしても、この問題は解決しない」
陽翔は目をぱちくりさせた。
予想していた答えではなかった。
大地は続けた。
「俺たちには責任がある。支払わなきゃならないものもある。だから、どんな体制を選ぶにしても、ちゃんと続けられるものにする必要があるんだ」
陽翔はゆっくりとうなずいた。
「でも、だからといって、お前が介助を必要としていることに罪悪感を抱く必要はない」
叔父は椅子の背にもたれた。
「利用できる支援制度を調べて、どのサービスに費用が出るのか確認して、それから現実的にどんな追加の支援を組めるのか考えなきゃならない」
陽翔はうつむいた。
「……うん」
「それに、そういう決定にはお前にも参加してもらわないとな」
彼はうなずいた。
大地はかすかに微笑んだ。
「そうしないと、お前の母さんが化けて出てきて俺を怒鳴りつけるからな」
陽翔は笑った。
「絶対そうする」
「恐ろしい女だった」
「間違いないね」
二人は微笑んだ。
それから大地が付け加えた。
「今週の後半に、顔合わせがあるんだ」
陽翔は顔を上げた。
「看護師さんと?」
「正式に決まれば、候補の看護師さんと事業所の担当者が来てくれる」
陽翔の表情が少し明るくなった。
「本当に?」
大地はうなずいた。
「本当だ」
陽翔はにやりと笑った。
「素晴らしい」
叔父は目を細めた。
「何だ?」
「別に」
「陽翔」
「質問、用意してあるから」
大地はため息をついた。
「やめてくれ……」
陽翔は微笑んだ。
「残念でした」
扉の前に立つ女性
二日後、水野葵はクリーム色のブラウスと紺色のスカートを身につけ、高橋家の前に立っていた。
服装は慎重に選んだ。
顔合わせの場にふさわしい、きちんとした印象。
それでいて、企業の役員会に出席するかのように堅苦しく見えない程度の、自然な服装。
髪は後ろできれいにまとめていた。
履歴書と事業所の書類が入ったファイルを腕に抱えている。
隣には森山千里が立っていた。
事業所の責任者は家を見た。
「準備はいいですか?」
葵はうなずいた。
「たぶん、大丈夫です」
「これはあくまで顔合わせです。担当が決まったわけではありませんからね」
「承知しています」
「利用者さんご本人も、直接参加されます」
葵は微笑んだ。
「よかったです」
千里がインターホンへ近づいた。
彼女がボタンを押す前に、葵は玄関を見た。
感じのいい家だった。
小さな庭が通路に沿って広がっている。
専門業者によって設置されたスロープが玄関へ続いていた。
ポーチには鉢植えがいくつか飾られていた。
葵はスロープに気づいた。
次に、広くなっている玄関。
そして、近くに停められた青い車椅子対応車両。
胸の奥に奇妙な感覚が芽生えた。
理由はわからなかった。
千里がインターホンを押した。
家の中から明るいメロディーが聞こえた。
数秒後、ドアが開いた。
高橋由紀が姿を現した。
「こんにちは!」
千里は一礼した。
「こんにちは。訪問看護ステーションの森山と申します」
由紀は微笑んだ。
「ようこそ。お待ちしていました」
彼女は葵へ顔を向けた。
「こちらが水野さんですね」
葵は一礼した。
「はい。水野葵と申します。よろしくお願いいたします」
由紀は温かく微笑んだ。
「どうぞ、お入りください」
二人は靴を脱いで家に入った。
家の中には、緑茶と掃除したばかりの木の香りがかすかに漂っていた。
葵は千里のあとについてリビングへ向かった。
大地がソファから立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
挨拶を交わした。
由紀が食卓を示した。
「どうぞお掛けください。陽翔もすぐに来ますから」
葵は足を止めた。
陽翔?
心臓が不意に跳ねた。
千里をちらりと見た。
責任者はすでに大地と話を始めていた。
葵は廊下へ目を向けた。
まさか。
陽翔という名前は、それほど珍しくない。
陽翔という名前の若い男性はたくさんいる。
在宅看護を必要とする車椅子利用者だって、たくさんいる。
そんなはずが――
「大地叔父さーん!」
廊下から聞き覚えのある声が響いた。
「面接の犠牲者たちはもう来た?」
大地は目を閉じた。
「陽翔!」
「何?」
「頼むから行儀よくしてくれ!」
葵は目を見開いた。
その声を知っていた。
あの皮肉っぽい口調を知っていた。
とんでもないことを言いながら、完全に真面目な声に聞こえる、あの独特の話し方も知っていた。
葵の唇がわずかに開いた。
そして、青い電動車椅子が廊下から現れた。
高橋陽翔がリビングへ入ってきた。
濃い色のシャツに動きやすそうなズボンを身につけ、髪は一応整えようとしたものの、途中で面倒になったかのように少し乱れていた。
車椅子に取りつけられたテーブルには、印刷された紙が一枚載っていた。
彼は来客へ目を向けた。
そして止まった。
目が大きく見開かれた。
葵も彼を見つめ返した。
数秒間、二人とも何も言わなかった。
由紀は微笑んだ。
「陽翔、こちらが水野さん。看護師のお仕事についてお話しに来てくださったのよ」
陽翔はまばたきをした。
一回。
二回。
そして、にやりと笑った。
「……いや、嘘でしょ」
葵は吹き出した。
由紀は困惑した。
「何がおかしいの?」
陽翔は葵を見つめた。
「東京中に看護師さんがいるのに……」
葵は腕を組んだ。
「あらあら」
陽翔は片方の眉を上げた。
「誰かと思えば」
葵は微笑んだ。
「こんにちは、いたずらっ子さん」
彼はにやりと笑った。
「こんにちは、おしゃべり看護師さん」
大地は目を丸くした。
由紀は二人を交互に見た。
千里は片方の眉を上げた。
「お二人はお知り合いなんですか?」
葵は笑った。
「以前、お会いしたことがあります」
陽翔はうなずいた。
「残念ながら」
葵は胸に手を当てた。
「残念ながら?」
彼はにやりと笑った。
「この人、全然しゃべるのをやめてくれなかったんですよ」
葵は大げさに息をのんだ。
「失礼ね! 親しくしようとしてただけでしょう!」
「一人でラジオ番組を放送してたんじゃないの?」
大地が吹き出した。
由紀は口元を覆った。
千里は微笑んだ。
葵は首を横に振った。
「相変わらず性格は改善されてないみたいね」
陽翔はにやりと笑った。
「そっちも変わってないみたいで安心したよ」
一瞬、部屋は笑い声に包まれた。
それから陽翔は、車椅子のテーブルに置かれた質問用紙へ目を向けた。
笑みがさらに広がった。
「これは面白くなりそうだ」
誰も準備できていなかった面接
面談は自己紹介から始まった。
千里は事業所の役割、提案されている支援体制、そして正式に担当が決まるまでに必要な手続きについて説明した。
葵は真剣に耳を傾けた。
陽翔は、面白くてたまらないという表情を隠しきれずに彼女を見ていた。
由紀はそれに気づいた。
「陽翔」
彼は叔母を見た。
「何?」
「ちゃんと真面目に聞いてね」
「聞いてるよ」
大地は印刷された紙をちらりと見た。
「じゃあ、なんでそんな顔で笑ってるんだ?」
陽翔はにやりと笑った。
「叔父さんたちの知らないことを知ってるから」
葵は片方の眉を上げた。
「あら?」
陽翔は彼女を見た。
「第一問」
千里は微笑んだ。
「どうぞ」
陽翔はリストに目を落とした。
「皮肉には耐えられますか?」
葵は彼を見つめた。
それから、にっこりと微笑んだ。
「場合によるわね」
「何によって?」
「言ってる本人が、本当に面白いかどうか」
大地が吹き出した。
陽翔は心外そうな顔をした。
「うわあ」
葵は肩をすくめた。
「次の質問は?」
陽翔は目を細めた。
「くだらない冗談についてどう思いますか?」
「あなたの入院中を乗り切ったんだから、大丈夫だと思うわ」
由紀が笑った。
陽翔は首を横に振った。
「信じられない」
葵はにやりと笑った。
「どういたしまして」
彼は次の質問を見た。
「時間は守りますか?」
「はい」
「どれくらい?」
「準備ができる程度には早く。でも、必要もないのに人を起こしてしまうほど早くは来ません」
陽翔は彼女を見つめた。
そしてゆっくりと由紀のほうを向いた。
叔母は眉をひそめた。
「何?」
彼は葵へ向き直った。
「素晴らしい回答です」
大地が笑った。
由紀はため息をついた。
「陽翔」
彼は続けた。
「カップ麺を食べる人を軽蔑しますか?」
葵は目をぱちくりさせた。
「それ、本気の質問?」
「大真面目」
葵は考えた。
「カップ麺だけで栄養バランスが完璧だって言い張る人なら、ちょっと考えるかしら」
陽翔はうなずいた。
「合格」
葵は微笑んだ。
「ありがとうございます、陛下」
彼はにやりと笑った。
「どういたしまして」
千里はそのやり取りをもう少しだけ見守ってから、穏やかに話を戻した。
「そろそろ、ケアに関する質問に移りましょうか」
陽翔はうなずいた。
「そうですね」
表情が少し真剣になった。
葵を見た。
「じゃあ……」
彼女は姿勢を正した。
陽翔はリストをちらりと見た。
そして再び彼女を見た。
「俺の話を聞いてくれますか?」
その質問で、部屋の空気が変わった。
葵の笑顔が消えた。
「もちろん」
陽翔は小さく首を横に振った。
「本当に、ちゃんと聞いてくれる?」
葵は続きを待った。
彼は言った。
「俺が痛いって言ったら、信じてくれる?」
「うん」
「何かをそのやり方でしてほしくないって言ったら、勝手に続けないで、理由を聞いてくれる?」
「うん」
「それから、叔母さんと叔父さんの希望が、俺の希望と違ったら?」
葵は慎重に考えた。
「まずは状況をきちんと理解したいと思う」
陽翔は彼女を見つめた。
葵は続けた。
「あなたの希望は大切よ。あなたは大人なんだから、自分のケアについての決定に参加するべきだと思う」
彼はゆっくりとうなずいた。
「でも?」
葵はかすかに微笑んだ。
「でも、安全上の問題や医学的な理由で、あなたの望む方法ではできないことがあれば、その理由を説明して、一緒に別の方法を探すわ」
陽翔は彼女をじっと見た。
葵は続けた。
「あなたの言うこと全部に賛成するとは約束できない」
彼は片方の眉を上げた。
「失礼だなあ」
葵は笑った。
「でも、ちゃんと話を聞くことは約束する」
陽翔はリストに目を落とした。
数秒間、何も言わなかった。
それから微笑んだ。
「いい答えだね」
由紀はほっとした。
大地はうなずいた。
千里も満足そうだった。
話し合いは続いた。
葵はこれまでの経験、現在受けている研修、そして個別のケア計画に従うことの重要性について説明した。
陽翔は自分の日常生活、希望するコミュニケーションの取り方、必要な支援について話した。
移乗。
姿勢の調整。
食事。
身体介助。
看護師の業務と、ほかの介助者の業務を適切に連携させることの重要性。
葵は質問した。
陽翔は答えた。
そして、ここへ引っ越してきてから経験した気まずい話し合いとは違い、彼は自分が一方的に評価されているとは感じなかった。
自分も話し合いに参加していた。
それだけで、この面談は今までと違っていた。
すべてを複雑にする懐かしさ
面接が終わると、千里は葵と二人だけで話したいと申し出た。
二人は玄関近くの静かな部屋へ移動した。
責任者はドアを閉めた。
「水野さん」
葵は顔を上げた。
「はい」
「利用者さんと面識があるとは伺っていませんでした」
葵はため息をついた。
「私も知らなかったんです」
千里は眉をひそめた。
「どういうことですか?」
「事前の説明では、お名前が伏せられていました。彼が部屋に入ってきて、初めてわかったんです」
千里はうなずいた。
「なるほど」
葵は廊下へ目を向けた。
「私が働いている病院の患者さんだったんです」
千里は考え込むような表情になった。
「実際にケアを担当したことはありますか?」
「はい」
「最近ですか?」
「はい」
千里はその情報について考えた。
「では、先へ進む前に確認が必要ですね」
葵はすぐにうなずいた。
「もちろんです」
責任者は続けた。
「以前に臨床上の関係があったからといって、それだけで担当の適否が決まるわけではありません。ただ、ケアの継続性、守秘義務、専門職としての境界線、利益相反の可能性などを検討する必要があります」
葵は耳を傾けた。
「承知しています」
千里は彼女を見た。
「彼を担当することについて、どう感じていますか?」
葵はためらった。
陽翔の悲しみを思い出した。
彼の冗談。
母親について語っていたときの様子。
そして今日、驚くほど自然に会話を再開できたこと。
「うまくやっていけると思います」と、葵は認めた。
千里はうなずいた。
「でも?」
葵は目を伏せた。
「私だけが自分を理解してくれる人間だと、彼に思ってほしくないんです」
責任者はかすかに微笑んだ。
「よく考えていますね」
葵は続けた。
「彼に必要なのは、信頼できるケアチームです。誰か一人が、彼の人生の中心になることではありません」
千里はうなずいた。
「そのとおりです」
彼女はファイルを開いた。
「状況を確認し、ご本人の希望も改めて伺い、専門職として適切な担当になるかどうか判断しましょう」
葵は微笑んだ。
「ありがとうございます」
千里は続けた。
「それから、まだ何も決まっていないことを忘れないでくださいね」
「はい」
葵はリビングのほうをちらりと見た。
大地が何かを言い、陽翔が笑っている声が聞こえた。
一瞬、葵も微笑んだ。
しかし、すぐに千里へ意識を戻した。
この先どうなるにしても、彼女は専門職として向き合うつもりだった。
陽翔には、それだけの誠実さが必要だった。
彼自身の選択
葵と千里が帰ったあと、由紀は陽翔へ顔を向けた。
「それで?」
彼は顔を上げた。
「それで、何?」
「どう思った?」
陽翔はにやりと笑った。
「おしゃべり看護師さんのこと?」
由紀は笑った。
「陽翔!」
大地は微笑んだ。
「仕事はできそうな人だったな」
陽翔はうなずいた。
「うん」
「それに、もう知り合いなんだろ?」
「残念ながら」
由紀は首を横に振った。
「本当に、あなたって子は」
陽翔は微笑んだ。
それから少し考え込むような表情になった。
「いい人だよ」
大地は彼を見た。
「そう思うか?」
陽翔はうなずいた。
「話を聞いてくれるから」
由紀は微笑んだ。
「それは大事ね」
「うん」
陽翔は玄関のほうをちらりと見た。
「俺のこと、子供みたいに扱わないんだ」
大地はうなずいた。
「それに、お前の冗談にも付き合える」
陽翔はにやりと笑った。
「ぎりぎりだけどね」
由紀は笑った。
「事業所に、興味があるって伝えてもいい?」
陽翔は考えた。
それからうなずいた。
「うん」
大地は微笑んだ。
「わかった」
陽翔は少し指を上げた。
「でも、本人がその仕事をしたいならね」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
「それから、事業所が適切だと判断した場合だけ」
大地は驚いたように彼を見た。
陽翔は肩をすくめた。
「何?」
叔父は微笑んだ。
「いや、何でもない」
陽翔は窓へ目を向けた。
また葵に会うとは思っていなかった。
まして、叔母と叔父のリビングで会うなんて。
それも、専任看護師の候補として。
けれど、その再会は、忘れかけていたことを思い出させてくれた。
自分はまだ、新しい人と出会える。
友達を作ることもできる。
笑うこともできる。
母が亡くなったからといって、自分の人生まで終わったわけではない。
変わってしまったのだ。
痛ましいほどに。
理不尽なほどに。
それでも、終わってはいなかった。
陽翔は棚に飾られた美咲の写真を見た。
かすかな笑みが浮かんだ。
「……ねえ、母さん」
少し間を置いた。
「これは予想外だったよ」
街灯の下から届いたメッセージ
日が沈んで間もなく、葵は美香のマンションへ戻った。
友人はリビングで待っていた。
「それで?」
葵は靴を脱いだ。
「ただいま、くらい言わせてよ」
美香は駆け寄ってきた。
「面接、どうだった?」
葵は微笑んだ。
「面白かった」
美香は目を細めた。
「どう面白かったの?」
葵はハンドバッグをテーブルに置いた。
「患者さんと知り合いだったの」
美香は目をぱちくりさせた。
「え?」
「病院でケアしたことのある人だった」
友人の表情が変わった。
それから、ゆっくりと笑みが広がった。
「待って」
葵はため息をついた。
「美香」
「もしかして……」
「違うから」
「あの人?」
「美香」
「前に、話すたびににやにやしてた人?」
葵は顔を覆った。
「もう、やだ……」
美香は大きく息をのんだ。
「やっぱりそうなんだ!」
葵はうめいた。
「お願い、声を小さくして」
美香は大笑いした。
「すごい偶然じゃん!」
「仕事の面接なんだから!」
「うんうん」
「ちゃんとした、仕事の面接!」
「もちろんもちろん」
葵は彼女を指さした。
「変なこと言い出さないでよ」
美香はにやりと笑った。
「何も言ってないでしょ?」
葵はため息をついた。
そして、面談の内容、陽翔の質問、以前の臨床上の関係について事業所が確認する必要があることを説明した。
美香は話を聞いていた。
それから、少し真剣な表情になった。
「その仕事、やりたい?」
葵は考えた。
「やりたいと思う」
「彼がいるから?」
葵は首を横に振った。
「訪問看護の仕事がしたいから」
美香はうなずいた。
「よし」
葵は微笑んだ。
「それに、自分に向いてると思うから」
「それもよし」
少し間を置いた。
「でも、事業所があの担当を認めるかどうかは、まだわからないの」
美香は肩をすくめた。
「だったら、結果を待つしかないね」
葵はうなずいた。
「うん」
スマートフォンが振動した。
葵は画面を見た。
知らない番号。
笑顔が消えた。
美香はすぐに気づいた。
「どうしたの?」
葵はメッセージを開いた。
写真が表示された。
高橋家の前の通りを写したものだった。
背景には家が見えた。
小さな庭。
玄関のスロープ。
そして、正面のドア。
葵は胃の底が抜け落ちるような感覚に襲われた。
写真の下には、一言だけ添えられていた。
『新しい職場か?』
数秒間、息ができなかった。
美香が身を乗り出した。
そして凍りついた。
「……嘘でしょ」
葵は画面を見つめた。
拓海が、あの家を見つけてしまった。
陽翔が暮らしている家。
由紀と大地が家族の生活を立て直そうとしている家。
自分がついさっき、顔合わせに訪れた家。
手が震え始めた。
美香は自分の携帯電話に手を伸ばした。
「警察に電話するよ」
葵はうなずいた。
スクリーンショットを撮り、メッセージを保存した。
それから、事業所が指定する安全上の連絡窓口を通じて千里に連絡した。
危険性が評価され、適切な対策が整うまで、高橋家を再訪問するつもりはなかった。
担当の話がどうなろうと、陽翔とその家族には、自分たちの安全に関わる信頼できる脅威の情報を、適切な手順で知らされる権利がある。
葵は再び写真を見た。
恐怖は少しずつ怒りへと変わっていった。
拓海はすでに、彼女の家へ踏み込んできた。
職場にも。
友人関係にも。
そして今度は、他人の人生にまでついてこようとしている。
葵はスマートフォンを強く握った。
「……嫌」
美香が彼女を見た。
葵の声は震えていた。
それでも、目をそらさなかった。
「あの人に、あの家族まで巻き込ませない」
外では、街灯の下を夕方の車が変わらず行き交っていた。
街のどこかで、高橋陽翔は寝る準備をしていた。
今日面接したばかりの女性が、自分の家を写した写真を、彼女を執拗に追い回す男から送りつけられていることなど、知る由もなかった。
希望に満ちた新しい始まりになるはずだった再会は、二人のどちらも予想していなかった危険と絡み合ってしまった。
そして葵は初めて、病院を辞めるかどうかよりも難しい選択に直面していた。
自分が望んでいる仕事を引き受けることで、助けたいと思っている人々を危険にさらしてしまうのではないか。
その答えを、出さなければならなかった。




