第11章 開かれた扉の向こうへ持ち込んだ影
水野葵が、見知らぬ家の写真がなぜ自分のスマートフォンに送られてきたのかを説明し終えるころには、向かいに座る警察官はメモを取る手を止め、より具体的な質問を始めていた。
時刻は午後十一時近くになっていた。
天井の蛍光灯が磨かれた机に白っぽい光を反射させ、葵が持参した書類を照らしていた。隣には藤本美香が腕を組んで座っており、葵が伝え忘れたことがあると、ときおり身を乗り出して補足していた。
葵のスマートフォンには、例の写真が表示されたままだった。
夕暮れの空の下に建つ、控えめな二階建ての住宅。クリーム色の外壁は隣家の木の枝に一部を隠され、建物の脇には細い駐車スペースが伸びている。玄関へ続く通路には、車椅子用のスロープが設置されていた。
特別に目立つところのない家だった。
だからこそ、その写真は不気味だった。
その日の午後までは、仕事の面接のために訪れた住所でしかなかった。
しかし、交際関係が終わったことを認めようとしない男の執拗な関心によって、その家は、誰の安全も確信できない場所の一つになってしまった。
「この住所には、どのくらい滞在していましたか?」
警察官が尋ねた。
「一時間半ほどです」と葵は答えた。
「写真を受け取った時刻は?」
彼女はメッセージを確認した。
「十九時四十三分です」
警察官は時刻を書き留めた。
「住宅の近くで黒田を見かけましたか?」
「いいえ」
「ほかに彼を見た人は?」
「私の知る限りでは、いません」
「彼がその場所へ行く正当な理由はありますか?」
葵は首を横に振った。
「まったくありません」
警察官は写真を見た。
「この家には誰が住んでいるんですか?」
葵はためらった。
「担当するかもしれない利用者さんと、そのご親戚です」
「あなたの担当患者ですか?」
「まだ正式には決まっていません。私は事業所の採用手続きを終えている途中ですし、ご家族もまだ私を雇ったわけではありません」
警察官はうなずいた。
「その方々には知らせましたか?」
「すぐに事業所の責任者へ連絡しました。今は責任者が対応しています」
「わかりました」
彼はさらにメモを取った。
「今回の件も、これまでの相談記録に追加します。繰り返される望まない接触、職場での出来事、そしてあなたの行動を追跡しているように見える状況を総合的に確認し、適切な対応を検討します」
葵は唾を飲み込んだ。
「……あの人を止められますか?」
思っていた以上に切迫した声が出た。
警察官は慎重に彼女を見た。
「ご相談は真剣に受け止めています。ただ、調査によってどのような措置が可能か確認する前に、結果をお約束することはできません」
葵は目を伏せた。
警察官は続けた。
「今は、元のメッセージや写真を、受信時刻がわかる状態で保存してください。相手には返信しないでください。彼があなたやその住所にいる人へ近づいてきたり、差し迫った危険を感じたりした場合は、速やかに警察へ連絡してください」
美香がうなずいた。
「全部残してあります」
「それは助かります」
警察官は再び葵へ向き直った。
「黒田は以前、あなたのスマートフォンのアカウントや位置情報共有サービス、パスワードにアクセスできましたか?」
葵は眉をひそめた。
「昔、いくつかのパスワードを知っていました」
美香が彼女を見た。
「葵」
「別れたあとに変更したよ」
「全部?」
葵はためらった。
「……たぶん」
警察官はまた何かを書き留めた。
「アカウントの安全設定や、接続されている機器を確認したほうがいいでしょう。この写真だけでは、彼がどうやって住所を知ったのか断定できません」
葵はうなずいた。
拓海が実際に後をつけているのではないかと心配するあまり、普段何気なく使っている便利な機能が、どれほど簡単に人の行動を明らかにしてしまうかを忘れかけていた。
共有アカウント。
昔使っていた端末。
位置情報の設定。
写真。
人と世界をつなぐ、数え切れないほどの目に見えない糸。
葵は画面に映る家を見つめた。
どうやって私を見つけたの?
それよりも――
どうやって、あの人たちを見つけたの?
隣で美香が手を伸ばし、彼女の手を握った。
葵も握り返した。
今度ばかりは、大丈夫なふりをしようとは思わなかった。
朝食前の電話
翌朝七時二十分、高橋由紀は炊飯器のことなど忘れてしまうような電話を受けた。
それは少々残念なことだった。
なぜなら、その炊飯器はほんの数分前まで、かなり熱心な議論の対象になっていたからだ。
大地は、ご飯がいつもより妙に硬くてぱさついていると文句を言っていた。
由紀は気のせいだと言い張っていた。
食卓についていた陽翔は、ご飯が二人の結婚生活から逃げ出そうとしているのではないかと提案した。
残念ながら、本人が期待したほど誰もその冗談を評価してくれなかった。
そのとき、由紀のスマートフォンが鳴った。
画面を見た。
「あら。訪問看護の事業所からだわ」
陽翔が顔を上げた。
「もう?」
「何か進展があったのかもしれないわね」
大地は姿勢を正した。
由紀は電話に出た。
「おはようございます。高橋です」
陽翔は叔母の表情を観察した。
最初、由紀は丁寧に微笑んでいた。
しかし、やがて眉が寄った。
「そうですか……」
少し間が空いた。
「まあ……」
大地が彼女を見た。
由紀は食卓から顔をそらした。
「お怪我をされた方はいらっしゃるんですか?」
陽翔の笑顔が消えた。
キッチンが静まり返った。
「いえ、もちろんです。知らせてくださってありがとうございます」
彼女はもうしばらく耳を傾けた。
「はい、承知しました。担当の方とも相談します」
そして通話を終えた。
大地が立ち上がった。
「何があった?」
由紀は陽翔を見た。
ほんの一瞬だけ。
しかし、彼は見逃さなかった。
「どうしたの?」と陽翔は尋ねた。
由紀はためらった。
「看護師さんのことで、少し問題が起きたみたいなの」
陽翔は眉をひそめた。
「葵さん?」
由紀はうなずいた。
「ええ」
「どんな問題?」
彼女は大地をちらりと見た。
夫が近づいてきた。
「本人は大丈夫なのか?」
「私が聞いた限りではね」
陽翔は二人を交互に見た。
「じゃあ、何が問題なの?」
由紀はスマートフォンをカウンターに置いた。
「話を進める前に、事業所で確認しなければならないことがあるそうよ」
陽翔は続きを待った。
しかし、由紀は何も言わなかった。
彼は片方の眉を上げた。
「何を確認するの?」
「個人的な事情なの」
「誰の?」
由紀はため息をついた。
「陽翔、今はあまり心配しないで」
彼は叔母を見つめた。
それから大地へ目を向けた。
叔父は床を見ていた。
「ちょっと待ってよ」
由紀は眉をひそめた。
「何?」
「二人とも何か知ってるんでしょ」
「私たちも、今聞いたばかりなのよ」
「じゃあ、俺にも教えてよ」
大地が咳払いをした。
「まずは事業所と話したほうがいいと思う」
陽翔は車椅子のヘッドサポートに頭を預けた。
「……そう」
由紀は笑顔を作ろうとした。
「とりあえず朝ご飯を食べましょう?」
陽翔は自分の食事を見下ろした。
ご飯は冷めていた。
もう、どうでもよかった。
「うん」
声には何の抑揚もなかった。
由紀は何かがおかしいと気づいたようだったが、それ以上は聞かなかった。
代わりにキッチンへ戻った。
大地も座り直した。
陽翔は窓へ目を向けた。
外では、雲一つない空の下、住宅街が目を覚まし始めていた。
配送トラックが通りを走っていく。
女性が小さな犬を散歩させている。
近所の庭から笑い声が聞こえた。
ごく普通の朝だった。
そしてまたしても、陽翔の人生に関わる大切なことが、彼抜きで話し合われていた。
消えてしまいたかった女性
葵は午前中のほとんどを、美香のソファに座り、書きかけの退職届を見つめながら過ごした。
書いた内容は、ほとんどなかった。
日付。
上司の名前。
そして、今後の勤務について相談したいという一文だけ。
病院を辞めたいのか、自分でもわからなかった。
訪問看護の事業所で働き続けたいのかも、わからなかった。
その瞬間に限って言えば、マンションの外へ出たいのかどうかさえ、わからなかった。
美香がマグカップを二つ持ってキッチンから出てきた。
一つを葵のそばに置いた。
「まだそれとにらめっこしてるの?」
葵はうなずいた。
「うん」
「何か白状した?」
「まだ」
「もう少し待ってみなよ」
葵はかすかに微笑んだ。
美香が隣に座った。
数分間、二人は黙ってお茶を飲んだ。
それから葵はノートパソコンを閉じた。
「あの担当、辞退しようかと思ってる」
美香が顔を向けた。
「陽翔君のところ?」
「うん」
「拓海のせい?」
葵はうなずいた。
美香は少し考えた。
「事業所から辞退するように言われたの?」
「ううん」
「ご家族からは?」
「私の知る限りでは、何も」
「じゃあ、どうして?」
葵はお茶を見つめた。
「あの人、家を見つけたんだよ」
美香は黙っていた。
葵は続けた。
「後をつけてきたのか、何かの方法で居場所を調べたのか……わからないけど」
唾を飲み込んだ。
「そのせいで、あの人とは何の関係もない家族まで、いつ玄関に現れるかわからないって心配しなきゃいけなくなった」
美香はマグカップを置いた。
「それは怖いよね」
「そうだよ」
「でも、辞退することが必ずしも一番安全な方法だとは限らないし、唯一の選択肢でもないよ」
葵は顔を上げた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「事業所と協力する。危険性を評価してもらう。どんな対策ができるか確認する」
葵は首を横に振った。
「もし何か起きたら?」
美香は身を乗り出した。
「葵、聞いて」
いつものからかうような口調ではなかった。
「この問題を真剣に考えなきゃいけないのは確かだし、あなたはもう十分真剣に考えてる。でも、用心することと、もう自分には普通の生活を送る権利がないって決めつけることは違うんだよ」
葵は目をそらした。
美香は続けた。
「拓海のせいで、あなたは自分のマンションを出ることになった。職場に行くのも怖くなった。電車では後ろに立っている人を一人一人確認するようになった」
少し間を置いた。
「危険を管理できないからこの仕事を引き受けない、という判断なら、それは正当な決断だよ」
葵はゆっくりとうなずいた。
「でも、あの人がついてくるかもしれないからって、あらゆる機会を諦めていたら、次はどうなるの?」
葵は床を見つめた。
答えはわかっていた。
やがて、行ける場所がどこにもなくなってしまう。
美香の表情が和らいだ。
「私は、この仕事を受けろって言ってるんじゃない」
「わかってる」
「怖くて仕方がないときに、一人だけで決めないでって言ってるの」
葵は額をさすった。
「陽翔君に怪我をしてほしくない」
「もちろんだよ」
「もう十分につらい思いをしてるんだから」
美香は彼女を見た。
「それはそう。でも、彼は何もできない小さな男の子じゃないでしょ」
葵は顔を上げた。
美香は続けた。
「二十二歳なんだよね?」
「うん」
「それに、自分で面接をすると言い張ったんでしょ?」
葵は思わず微笑んだ。
「カップ麺についての質問まで用意してた」
美香は笑った。
「ほらね」
葵は目を伏せた。
「面白い人なの」
「聞いたよ」
「それに頑固」
「それも聞いた」
「自分のことを勝手に決められるのが嫌いなの」
美香は片方の眉を上げた。
「じゃあ、あなたも彼の代わりに決めちゃ駄目なんじゃない?」
葵は黙り込んだ。
そのことは考えていなかった。
陽翔を守りたいという気持ちが強すぎて、彼がどう思うか尋ねる前に、何が彼にとって最善なのかを自分で考え始めていた。
その事実は、胸に痛かった。
特に、事業所の研修で学んできたことを思えば、なおさらだった。
美香はお茶を手に取った。
「それに、そういう判断をするための専門家が事業所にいるんでしょ」
葵はうなずいた。
「うん」
「だったら、その人たちにも仕事をしてもらいなよ」
葵はソファにもたれた。
その朝初めて、姿を消すことが正しい答えだという確信が少し揺らいだ。
善意で築かれた家
昼食の時間までに、陽翔は自分が部屋に入った途端に終わる会話を三度経験していた。
一度目は、由紀がキッチンの近くで大地と話していたとき。
二度目は、田中恵子との電話。
三度目は、叔母が午後の介助スタッフと何かを相談していたときだった。
毎回、会話は不自然なほど突然終わった。
毎回、誰かが彼に微笑みかけた。
そしてそのたびに、陽翔の苛立ちは増していった。
他人の私的な会話を盗み聞きしたいわけではなかった。
守秘義務というものは理解していた。
叔母と叔父には、自分とは関係のない生活もあるとわかっていた。
しかし、話題が明らかに、雇おうとしている看護師に関係していることもわかっていた。
そして、自分以外の全員が事情を知っているのではないかと思い始めていた。
午後二時には、もう我慢の限界だった。
陽翔が入っていくと、由紀は食卓に座っていた。
「由紀叔母さん」
彼女は顔を上げた。
「なあに?」
「話がある」
由紀の表情が変わった。
「何について?」
陽翔はテーブルの横で止まった。
「葵さんのこと」
由紀はため息をついた。
「陽翔……」
「やめて」
彼女は目をぱちくりさせた。
陽翔は続けた。
「お願いだから、その言い方はやめて」
「どんな言い方?」
「何も心配しなくていい理由をこれから説明します、みたいな声で俺の名前を呼ぶこと」
由紀は目を伏せた。
陽翔は息を吸った。
「何が起きてるのか知りたいんだ」
彼女はためらった。
「安全上の問題があるの」
陽翔は彼女を見つめた。
「どんな?」
由紀は廊下へ目を向けた。
「もう少し状況がわかってから、叔父さんと一緒に説明しようと思っていたのよ」
「どうして?」
「あなたを怖がらせたくなかったから」
陽翔は目をぱちくりさせた。
そして笑った。
何かが面白かったからではない。
あまりにも聞き慣れた答えだったので、信じられなかったのだ。
「本気で言ってる?」
由紀は眉をひそめた。
「陽翔」
彼は叔母を見た。
「俺、二十二歳だよ」
「知ってるわ」
「だったら、十二歳の子供みたいに扱うのはやめてよ」
由紀は身を固くした。
「それはひどい言い方よ」
「そうかな?」
由紀は腕を組んだ。
「私たちはあなたを守ろうとしてるの」
「何から?」
彼女はためらった。
陽翔は、姿勢を保てる範囲で少し身を乗り出した。
「そこが問題なんだよ。二人とも俺を守るって言うけど、何から守ろうとしてるのかさえ教えてくれない」
由紀は目をそらした。
彼は続けた。
「俺の安全に関わることなら、俺も知るべきじゃないの?」
「もちろんよ」
「じゃあ、どうして知らされてないの?」
その問いが二人の間に残った。
由紀は組んでいた腕を下ろした。
一瞬、反論するかのように見えた。
しかし、代わりにため息をついた。
「……怖かったから」
陽翔は目をぱちくりさせた。
叔母は窓を見た。
「お母さんは、私たちを信じてあなたを任せてくれたの」
声が震えた。
「でも、あなたがここへ来てから、私は何もかも間違えてばかりいる気がするの」
陽翔は黙っていた。
由紀は続けた。
「食事も、生活の習慣も、機器のことも、予定のことも」
苦々しく笑った。
「ようやく一つ解決できたと思ったら、また別の問題が出てくる」
陽翔は叔母を見つめた。
「それで今度は、あなたが気に入った看護師さんについて、安全上の問題があるかもしれないって事業所から電話が来たの」
彼女は陽翔を見た。
「どうすればいいのかわからなかった」
陽翔の表情が少し和らいだ。
叔母の恐怖は理解できた。
しかし、理解できるからといって、その対応を受け入れられるわけではなかった。
「由紀叔母さん」
彼女は顔を上げた。
「怖いのはわかるよ」
由紀はうなずいた。
「でも、俺だって怖いんだ」
彼女の目に涙が浮かんだ。
陽翔は続けた。
「これからどうなるのかわからない。もう一度、自分の家を持てるのかもわからない。必要な介助を十分に受けられるようになるのかもわからない」
唾を飲み込んだ。
「なのに何か起きるたびに、みんな俺と話すんじゃなくて、俺について話し始めるんだ」
由紀は目を伏せた。
「そんなふうに暮らしたくない」
数秒間、二人とも何も言わなかった。
それから陽翔は付け加えた。
「俺の体は、ほとんどの人みたいには動かない」
声が強くなった。
「でも、頭はちゃんと働いてるんだよ」
由紀は彼を見た。
「わかってるわ」
「だったら、俺にも理解できるって信じてよ」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「……あなたの言うとおりね」
陽翔は目をぱちくりさせた。
こんなに早く認めてもらえるとは思っていなかった。
由紀は涙を拭った。
「ちゃんと話すべきだったわ」
陽翔は息を吐いた。
「ありがとう」
彼女はスマートフォンに手を伸ばした。
「叔父さんに電話するわ。わかっていることを全部説明しましょう」
陽翔はうなずいた。
「うん」
それから少し間を置いた。
「あと、由紀叔母さん?」
「なあに?」
「俺が質問するたびに、あの顔をするのはやめてね」
彼女は眉をひそめた。
「あの顔って?」
陽翔は目を大きく見開き、唇をぎゅっと結び、大げさに心配そうな表情を作った。
由紀は彼を見つめた。
そして吹き出した。
「陽翔!」
彼はにやりと笑った。
「それ、それ」
扉の外に置いておけなかった真実
大地は早めに帰宅した。
リビングでは、由紀と陽翔が待っていた。
テレビは消されていた。
テーブルにはファイルが置かれていた。
甥は珍しく真剣な表情をしていた。
大地はため息をついた。
「わかった」
椅子に座った。
「話そう」
由紀は、事業所から聞いた内容を説明した。
葵は、元交際相手から繰り返し嫌がらせを受けていると報告していた。
状況は悪化していた。
顔合わせのあと、高橋家を撮影した写真が彼女に送られてきた。
そのため事業所は、危険性を評価し、関係者と対応を調整する間、担当の決定を保留にしていた。
陽翔は途中で口を挟まずに聞いていた。
由紀が説明を終えると、彼は彼女を見つめた。
「誰かがうちの写真を撮ったの?」
由紀はうなずいた。
「ええ」
「葵さんのせいで?」
「写真は、彼女に嫌がらせをしている人から送られてきたの」
陽翔は眉をひそめた。
「どうやって住所を知ったのか、わかってるの?」
「まだわからないそうよ」
大地が身を乗り出した。
「事業所が状況を確認してる。警察にも連絡済みだ」
陽翔は考えた。
それから窓へ目を向けた。
外の通りは、ごく普通に見えた。
隣家の脇には自転車が置かれている。
配送車がゆっくりと通り過ぎた。
誰かが家を見張っていたことを示すものは、何もなかった。
だからこそ、不安が増した。
「俺たちを脅してきたの?」と陽翔は尋ねた。
大地は首を横に振った。
「俺たちが知る限りでは、直接的な脅迫はない」
陽翔はうなずいた。
「わかった」
由紀は驚いたようだった。
「それだけ?」
彼は叔母を見た。
「どうしてほしいの?」
「わからないけど……怖がると思ったから」
陽翔は少し考えた。
「怖いよ」
由紀の表情が和らいだ。
彼は続けた。
「でも、怖いからって考えられなくなるわけじゃない」
大地はうなずいた。
「確かにな」
陽翔は叔父を見た。
「これからどうなるの?」
「事業所が、安全に担当を続けられるか検討してる」
「無理だったら?」
「別の候補者を探すことになる」
陽翔はゆっくりとうなずいた。
その可能性は気に入らなかった。
しかし、理解はできた。
葵は、彼が心から安心して話せた最初の看護師候補だった。
話していて楽しかった。
退院してから出会ったほとんどの人よりも、彼女を信頼していた。
それでも、気に入っているからというだけで、安全上の懸念を無視するつもりはなかった。
「俺も事業所と話せる?」と尋ねた。
由紀はうなずいた。
「もちろんよ」
「それから、俺のケアについて何か決めるなら、俺も参加していい?」
大地は微笑んだ。
「ああ」
陽翔は二人を交互に見た。
「よかった」
それから付け加えた。
「家の防犯設備も確認したほうがいいかもね」
大地はうなずいた。
「屋外照明については、もう業者に連絡してある」
陽翔は片方の眉を上げた。
「まさか、お堀まで作るつもりじゃないよね?」
叔父は笑った。
「今のところはな」
由紀はため息をついた。
「変なことを言って、その気にさせないで」
陽翔はにやりと笑った。
一瞬、緊張が和らいだ。
それから彼は、棚に飾られた美咲の写真を見た。
笑顔が消えた。
母ならどうしただろう。
きっと、まずは常識的な対応をしたはずだ。
そのあと、何か恥ずかしいことをして。
最後には、知っている親戚全員に電話をかけていたに違いない。
母の声が聞こえてくるようだった。
まさか、何か起きるまで黙って待っているつもりじゃないでしょうね?
陽翔はかすかに微笑んだ。
うん。
待ってなんかいられないよ。
誰かを雇うためではなかった面談
二日後、森山千里は改めて面談の機会を設けた。
場所は高橋家ではなく、訪問看護事業所の事務所だった。
場所の変更には理由があった。
安全上の懸念が解決していない間、葵を高橋家へ訪問させることは避けたかったのだ。
それは採用面接ではなかった。
雇用を確定する場でもなかった。
目的は状況を明確にし、担当候補について話し合い、事業所の安全上および専門職としての責任と並んで、陽翔本人の希望が考慮されるようにすることだった。
田中恵子も、陽翔の相談支援担当者として参加した。
由紀と大地が彼に付き添った。
葵は別に到着した。
陽翔が会議室へ入ったとき、彼女はすでに千里の隣に座っていた。
葵は立ち上がった。
「こんにちは、高橋さん」
陽翔は止まった。
彼女を見つめた。
そして、ゆっくりと片方の眉を上げた。
「高橋さん?」
葵は目をぱちくりさせた。
「はい?」
彼は心外そうな顔をした。
「いたずらっ子さんはどこへ行ったの?」
千里は微笑んだ。
由紀は口元を覆った。
葵は笑った。
「今は仕事の面談中なの」
陽翔は厳かにうなずいた。
「なるほど」
車椅子を操作してテーブルへ近づいた。
「承知いたしました、水野さん」
葵は微笑んだ。
「ありがとうございます」
彼は彼女をちらりと見た。
「陛下とお呼びいただいても結構ですよ」
大地が吹き出した。
葵は首を横に振った。
「何も変わってないみたいね」
陽翔はにやりと笑った。
「残念ながら」
冗談のおかげで、少し気持ちが楽になった。
しかし全員が席につくと、話し合いは真剣なものになった。
千里はまず、事業所の立場を説明した。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。ただし、まだ担当の決定は承認されていないことを、最初にお伝えしておきます」
陽翔はうなずいた。
「わかりました」
「報告されている嫌がらせは、職員の安全、利用者さんの安全、守秘義務、そして利用者さんのご自宅への望まない接触の可能性について懸念を生じさせています」
由紀は真剣に耳を傾けた。
大地はメモを取った。
葵は静かに座っていた。
千里は続けた。
「現在、入手できる情報を確認し、適切な安全対策を整えられるか検討しています。ただし、危険を完全になくせると保証することはできません」
陽翔は再びうなずいた。
「はい」
恵子が彼を見た。
「何か質問はありますか?」
陽翔は考えた。
「いくつかあります」
千里は微笑んだ。
「どうぞ」
陽翔は葵を見た。
「大丈夫?」
その質問は彼女の不意を突いた。
葵は目をぱちくりさせた。
それからうなずいた。
「何とかやってるわ」
陽翔は彼女を見た。
「それ、あんまり答えになってないね」
葵はかすかに微笑んだ。
「そうね」
彼女は千里をちらりと見た。
責任者は小さくうなずき、話しても構わない範囲で説明してよいと示した。
葵は陽翔へ向き直った。
「過去に関わりのあった人とのことで、少し難しい状況になっているの」
彼はうなずいた。
「聞いたよ」
「警察には相談しているし、対応を手伝ってくれる人たちとも協力してる」
「よかった」
葵は少し間を置いた。
「あなたのご家族まで巻き込んでしまって、ごめんなさい」
陽翔は眉をひそめた。
「なんで謝るの?」
葵は目を伏せた。
「あの人が、あなたの家を見つけてしまったから」
陽翔はその言葉を考えた。
そして尋ねた。
「葵さんが俺の住所を教えたの?」
「ううん」
「その人を招待した?」
「もちろん違うわ」
「うちの写真を撮ってって頼んだ?」
葵は首を横に振った。
「そんなことしてない」
陽翔は片方の眉を上げた。
「じゃあ、なんでその人がしたことを葵さんが謝るの?」
部屋が静まり返った。
葵は彼を見つめた。
数秒間、何も言葉が出てこなかった。
陽翔は続けた。
「無視していいって言ってるわけじゃないよ」
千里をちらりと見た。
「もちろん、気をつけなきゃいけない」
責任者はうなずいた。
「でも、誰かをつけ回してるのは葵さんじゃないでしょ」
葵は目を伏せた。
喉の奥が締めつけられた。
美香からも似たような言葉を聞いていた。
事業所の責任者からも。
警察官からさえも。
しかし、実際に自宅を撮影された人からその言葉を聞くと、まったく違って感じられた。
「……ありがとう」
小さな声で言った。
陽翔は軽く肩をすくめた。
「どういたしまして」
それから付け加えた。
「ただでさえ問題だらけなのに、他人の馬鹿な行動の責任まで横取りしないでよ」
葵は笑った。
由紀も微笑んだ。
千里までくすりと笑った。
緊張が少し緩んだ。
しかし、話し合いは続いた。
病室を挟まずに交わした初めての会話
差し迫った懸念について確認したあと、千里は葵と陽翔が短時間、見守りのある環境で話すことを提案した。
由紀と大地は恵子と一緒に隣の部屋へ移動し、別の介助体制や費用の支援について相談することになった。
千里は近くに残った。
ドアは開けたままだった。
葵は陽翔の向かいに座った。
しばらく、どちらも話さなかった。
やがて陽翔は廊下をちらりと見た。
「さて」
葵は微笑んだ。
「さて?」
「何だか変な感じだね」
彼女は笑った。
「何と比べて?」
「病院と」
葵は周囲を見回した。
「事務所って、普通は病院と違うものよ」
陽翔はにやりと笑った。
「いや、そうじゃなくて……」
少し間を置いた。
「病室の外で、こうして葵さんと話したことって、ほとんどなかったから」
葵は考えた。
「そういえば、そうね」
「いつもは看護服を着て、何か食べなさいって言ってたし」
彼女は片方の眉を上げた。
「あなたはいつも病院の食事に文句を言ってたわね」
「だって、まずかったもん」
「そこまでひどくなかったでしょう」
陽翔は彼女を見つめた。
葵は微笑んだ。
「……わかったわ。まずいものもあった」
彼はうなずいた。
「ありがとう」
二人は笑った。
それから葵が彼を見た。
「最近はどう?」
陽翔は少し考えた。
「正直に?」
「もちろん」
彼はため息をついた。
「いろいろ複雑」
葵はうなずいた。
「話したい?」
陽翔はテーブルを見た。
一瞬、ためらった。
それから話し始めた。
引っ越しのこと。
慣れない家のこと。
絶えず組まれる予定。
ごく普通のことをするにも、すべて計画が必要になること。
映画を最後まで観たいと思ったら、寝る時間がすでに決められていたことも話した。
葵は耳を傾けた。
途中で口を挟まなかった。
彼が話し終えると、彼女は椅子にもたれた。
「それは、もどかしいわね」
陽翔は弱々しく笑った。
「そういう言い方もできるね」
彼は葵をちらりと見た。
「叔母さんと叔父さんが頑張ってくれてるのはわかってるんだ」
「そうでしょうね」
「何でもできるわけじゃないのも、わかってる」
葵はうなずいた。
「でも?」
陽翔はため息をついた。
「ただ、自分の人生を生きてるって感じたいんだよ」
葵は考えた。
そしてうなずいた。
「それは当然だと思う」
彼は彼女を見た。
「本当に?」
「もちろん」
葵はかすかに微笑んだ。
「介助が必要だからって、自分らしく生きることを諦める必要はないもの」
陽翔は彼女を見つめた。
それから微笑んだ。
「ほらね?」
葵は眉をひそめた。
「何が?」
「だから葵さんのこと、気に入ってたんだ」
彼女は目をぱちくりさせた。
陽翔は続けた。
「ちゃんと話を聞いてくれるから」
葵は微笑んだ。
「まあ、努力はしてるわ」
彼は片方の眉を上げた。
「自分がしゃべってるとき以外はね」
葵は大げさに息をのんだ。
「失礼ね!」
彼はにやりと笑った。
「本当によくしゃべるよね」
葵は笑った。
「あなたも本当によく文句を言うわね」
「それは認める」
二人は微笑んだ。
それから、会話は静かになった。
陽翔は窓へ目を向けた。
「母さんに会いたい」
葵の表情が和らいだ。
彼は唾を飲み込んだ。
「毎日」
彼女はうなずいた。
「そうでしょうね」
陽翔はうつむいた。
「今でも、ときどき呼んじゃうんだ」
葵は黙っていた。
陽翔は続けた。
「何かしてるときに、一瞬だけ忘れちゃって」
声が震えた。
「それから、思い出す」
葵は静かに彼を見守った。
急いで慰めようとはしなかった。
時間がすべてを癒してくれるとも言わなかった。
母親はもっといい場所にいるのだといった、都合のいい言葉も口にしなかった。
ただ、耳を傾けていた。
しばらくして、陽翔は彼女を見た。
「ごめん」
葵は眉をひそめた。
「何が?」
「暗い話ばっかりして」
彼女は首を横に振った。
「お母さんに会いたいと思っていいのよ」
陽翔は悲しそうに微笑んだ。
「うん」
「お母さんの話をしてもいいんだから」
陽翔はテーブルを見た。
「母さん、すごく面白い人だったんだ」
葵は微笑んだ。
「そうでしょうね」
彼は顔を上げた。
「よく公園で俺と競走してたんだよ」
「競走?」
「うん」
「車椅子で?」
彼はうなずいた。
「母さん、いつも負けてた」
葵は笑った。
「それはちょっと不公平じゃない?」
陽翔はにやりと笑った。
「俺がずるしてるって言ってた」
「実際、ずるしてたの?」
「もちろん」
葵は吹き出した。
陽翔も一緒に笑った。
その瞬間、悲しみは別の何かに変わった。
小さくなったわけではない。
大切さが薄れたわけでもない。
ただ、笑顔になれる思い出に包まれていた。
笑いが収まると、葵は彼を見た。
「素敵なお母さんだったのね」
陽翔はうなずいた。
「うん」
二人は静かに座っていた。
それから陽翔は彼女を見た。
「葵さんは?」
彼女は目をぱちくりさせた。
「私?」
「最近、どう?」
葵はかすかに微笑んだ。
「いろいろ複雑」
陽翔は片方の眉を上げた。
「そういう言い方もできるね」
葵は笑った。
「面白いこと言うじゃない」
彼は微笑んだ。
それから真剣な表情になった。
「話したくないことは、話さなくていいからね」
葵はその言葉を考えた。
気遣いはうれしかった。
しかし、元交際相手との問題を詳しく話す場ではないことも理解していた。
陽翔は担当候補の利用者だった。
彼女のカウンセラーではない。
まして、彼女を守る責任があるわけでもない。
「個人的に、少し難しいことがあってね」と、慎重に答えた。
陽翔はうなずいた。
「そんな気はしてた」
「でも、助けてくれる人たちがいるから」
「よかった」
葵は微笑んだ。
「それに、自分の人生を少し変えようとしてるの」
「病院を辞めるとか?」
「そうなるかもしれない」
陽翔は考えた。
「どうして訪問看護なの?」
葵は椅子にもたれた。
その質問について考えた。
「人と、今までとは違う形で関わりたいんだと思う」
陽翔は続きを待った。
「病院では、何もかもがあっという間に進んでいくの。つらい状況にいる人と出会って、できる限りのことをして、それからその人は退院していく」
陽翔はうなずいた。
「そうだね」
「訪問看護は違うわ。その人が実際にどう暮らしているのかを知ることができる」
少し間を置いた。
「生活の習慣とか、大切にしていることとか、医療的な必要性とは関係のない、その人にとって重要なこととか」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「くだらない映画とか」
葵は笑った。
「そう、まさにそれ」
彼はにやりと笑った。
「カップ麺とか」
「ほどほどならね」
陽翔はため息をついた。
「本当に厳しいね」
葵は微笑んだ。
「専門職として厳しいの」
二人はまた笑った。
それから陽翔は彼女を見た。
「その仕事、やりたい?」
その質問に葵は驚いた。
慎重に考えた。
「訪問看護の仕事はしたいわ」
彼はうなずいた。
「それに、私たちはうまくやっていけると思う」
陽翔の表情が明るくなった。
「でも……」
彼はため息をついた。
「必ず『でも』がつくんだね」
葵は優しく微笑んだ。
「でも、安全で、専門職としても適切な体制になるか確認しなきゃいけないの」
陽翔はうなずいた。
「わかってる」
彼女は続けた。
「それに、もし私があなたの担当にならなかったとしても、あなたにはちゃんと話を聞いてくれるケアチームが必要よ」
彼は目を伏せた。
「うん」
葵は微笑んだ。
「そこは絶対に譲っちゃ駄目」
陽翔は顔を上げた。
そしてにやりと笑った。
「うわあ」
「何?」
「母さんみたいなこと言うね」
葵は目をぱちくりさせた。
それから笑った。
「怒ったほうがいいのかしら?」
陽翔は微笑んだ。
「ううん」
声が柔らかくなった。
「褒めてるんだよ」
葵の表情が変わった。
一瞬、心から感動したように見えた。
そしてうなずいた。
「……ありがとう」
二人だけでは決められない選択
全員が会議室に戻ると、千里は今後の流れをまとめた。
事業所は安全上の評価を続ける。
葵は残りの採用手続きを完了する。
高橋家は恵子やケアの調整担当者と協力し、訪問看護と身体介助を組み合わせた、長く続けられる支援体制を整えていく。
そして陽翔は、自分のケアに関する決定に引き続き参加する。
その日に誰かが雇われることはなかった。
約束も交わされなかった。
陽翔はそれを受け入れた。
不本意ではあったが。
それでも、受け入れた。
面談が終わると、由紀が彼に近づいた。
「大丈夫?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
彼女は微笑んだ。
「よかった」
陽翔は叔母を見た。
「由紀叔母さん?」
「なあに?」
「俺も話し合いに参加させてくれて、ありがとう」
由紀の表情が和らいだ。
それから首を横に振った。
「そんなことでお礼を言う必要はないのよ」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「たぶんね」
彼女は笑った。
大地が書類を抱えて近づいてきた。
「帰る準備はいいか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
叔父は葵を見た。
「今日はありがとうございました」
葵は一礼した。
「こちらこそ、ありがとうございました」
陽翔はにやりと笑った。
「俺がいなくても、あんまり寂しがらないでね」
葵は片方の眉を上げた。
「努力するわ」
彼は厳かにうなずいた。
「強く生きてね」
葵は笑った。
「さようなら、いたずらっ子さん」
「さようなら、おしゃべり看護師さん」
由紀はため息をついた。
大地はくすくす笑った。
千里は微笑んだ。
そしてほんの一瞬、不確かな状況に囲まれながらも、いつかは何とかなるかもしれないと、誰もが信じられたようだった。
消さずに残した明かり
その夜、陽翔は寝室の窓辺にいた。
太陽は隣家の屋根の向こうへ沈み、通りは街灯と玄関灯の温かな光に包まれていた。
ベッドサイドテーブルには母の写真が置かれていた。
その隣には、母が亡くなる前に書いた手紙があった。
陽翔はそれらを見た。
「さて、母さん……」
かすかに微笑んだ。
「今日は変な一日だったよ」
少し間を置いた。
「いい意味で、たぶん」
外を車がゆっくりと通り過ぎた。
陽翔は角を曲がって見えなくなるまで眺めていた。
葵のことを考えた。
彼女が話を聞いてくれたこと。
いつもの冗談の応酬に、驚くほど自然に戻れたこと。
そして、自分の人生がこれほど大きく変わる前から知っている人と話すことの、不思議な安心感。
彼女が自分の看護師になるのかはわからなかった。
事業所が担当を承認するかどうかもわからなかった。
これまでに起きたことを考えれば、葵自身がまだ自分と働きたいと思っているのかさえ、わからなかった。
しかし、一つだけわかっていることがあった。
恐怖だけに、自分の未来を決めさせるつもりはなかった。
自分自身の恐怖にも。
叔母の恐怖にも。
ほかの誰の恐怖にも。
陽翔は写真を見た。
「母さん、きっと葵さんのこと気に入るだろうな」
それから眉をひそめた。
「いや、絶対に俺を恥ずかしい目に遭わせるな」
美咲が葵の趣味や好きな食べ物、恋人がいるかどうかを根掘り葉掘り聞いている姿を想像した。
陽翔はうめいた。
「うわ、最悪……」
そして笑った。
笑い声が静かな寝室に響いた。
今夜は、その音が場違いだとは感じなかった。
街の反対側では、葵が美香と並んで座り、事業所の安全対策に関する手順を確認していた。
スマートフォンはテーブルの上に置かれていた。
拓海から新しいメッセージは届いていなかった。
その静けさがありがたかった。
しかし、もうそれを安全の保証だと勘違いすることはなかった。
美香が彼女を見た。
「面談、どうだった?」
葵はかすかに微笑んだ。
「よかったよ」
「本当に?」
「うん」
美香は彼女をじっと見た。
「なんか、うれしそうだね」
葵は考えた。
「そうかもしれない」
友人はにやりと笑った。
「車椅子の彼のおかげ?」
葵は目をぐるりと回した。
「美香」
「何?」
「仕事の面談だったの」
「はいはい」
葵はクッションを投げつけた。
美香は笑った。
それから葵は考え込むような表情になった。
「思ってたより、元気そうだった」
美香は微笑んだ。
「よかったね」
葵はうなずいた。
「うん」
窓へ目を向けた。
外では、夜空の下で街が動き続けていた。
あの建物の向こうのどこかに、車椅子用のスロープがある小さな家が建っている。
そこには、自分の人生を立て直そうとしている若者がいる。
葵は、事業所が彼を安全に支援できる方法を見つけてくれることを願った。
自分がその体制の一員になるかどうかにかかわらず。
彼女は研修用のマニュアルを閉じた。
そしてランプを消した。
ここ数日の夜で初めて、もう一度スマートフォンを確認することなく眠りについた。
一方、東京の別の場所では、高橋陽翔がまだ起きていた。
叔父に録画を手伝ってもらった、くだらないコメディー映画を観ていたのだ。
あまりにも大きな声で笑ったので、由紀が様子を見に来た。
「陽翔! 何がそんなにおかしいの?」
彼はにやりと笑った。
「全部!」
由紀はテレビを見た。
滑稽な衣装を着た男が、ちょうどプールに落ちたところだった。
由紀は画面を見つめた。
それからため息をついた。
「もう、本当に……」
陽翔はさらに大きな声で笑った。
やがて叔母まで笑い始めると、慣れない家が、いつか自分の居場所になるかもしれない場所のように少しだけ感じられた。
失った家の代わりになったからではない。
その中で暮らす人々が、ゆっくりと、不器用ながらも、彼がこれからも生きていきたいと願う人生のために、居場所を作る方法を学び始めていたからだった。




