第12章 再び陽の光へと続く道
高橋陽翔が新しく設置された防犯カメラについて最初に気づいたのは、叔父がどういうわけか、隣家の紫陽花を実に見事な角度から撮影できるように取り付けてしまったことだった。
そして二つ目に気づいたのは、そのカメラが本来、正門を監視するためのものだということだった。
「大地叔父さん」
「ん?」
「俺たち、家を守ろうとしてるの? それとも花泥棒の捜査を始めたの?」
大地は玄関ポーチの下に立ち、入り口の上に取り付けられた小さな白い機械を見上げていた。片手にはスマートフォン、もう片方にはドライバーを持ち、頑固な機械と交渉でもしているかのような顔で、二つを交互に見比べている。
「まだ調整中なんだ」
陽翔は叔父のスマートフォンに表示された映像を見た。
画面の大部分を、青い紫陽花が占領していた。
「この花、ものすごく危険そうだね」
「ちょっと待ってろ」
「警察呼んだほうがいい?」
「陽翔」
「何か企んでるかもしれないよ」
大地はため息をついた。
その背後から、洗濯物の入った小さな籠を抱えた由紀が出てきた。
「ちゃんと映るようになった?」
「もう少しだ」と大地が答えた。
陽翔はにやりと笑った。
「紫陽花六輪と、不審な蝶一匹の特定に成功しました」
由紀が笑い出した。
大地は疲れ切った目で甥を見た。
「お前、楽しみすぎだろ」
「もちろん」
訪問看護事業所での面談から四日が経ち、高橋家にはいくつかの変化が起きていた。
最も目立つのが、この防犯カメラだった。
駐車スペースの近くにも二台目が設置され、日没後には人の動きを感知して玄関を照らすライトも取り付けられた。大地は門扉の掛け金の修理を手配し、由紀は緊急連絡先の一覧を電話のそばに置くようになっていた。
どれも理にかなった対策だった。
陽翔も、その必要性は理解していた。
何者かが自宅を撮影し、その写真を水野葵に送りつけていた。彼女に対する嫌がらせの一環だったらしい。警察には相談済みで、訪問看護事業所は担当の決定を保留にしており、関係者全員が適切な安全対策を検討しているところだった。
ただ残念なことに、大地は最近、住宅設備の取り付け動画に目覚めた男特有の情熱をもって、防犯設備の改良に取り組んでいた。
その成果には、少々ばらつきがあった。
陽翔が見守る中、大地がカメラの角度を調整した。
紫陽花が消えた。
門扉が映った。
しかし次の瞬間、画面が上へずれ、空が大きく映し出された。
陽翔は満足げにうなずいた。
「素晴らしい。これで敵の航空機も監視できるね」
大地はドライバーを下ろした。
「お前がやるか?」
陽翔は微笑んだ。
「ぜひ」
叔父がスマートフォンを差し出した。
陽翔は画面を確認しながら、玄関のどの範囲を映すべきか、風で枝が揺れるたびに家中へ通知が飛ばないよう動体検知の設定をどう調整すればいいか、順番に指示した。
大地は言われたとおりに操作した。
しばらくすると、門扉とスロープ、そして道路へ続く通路がきれいに画面へ収まった。
「ほらね」と陽翔が言った。
大地は画面を見つめた。
「……おお」
由紀も顔を近づけた。
「あら、ずっとよくなったじゃない」
陽翔はにやりと笑った。
「どういたしまして」
叔父はため息をついた。
「俺、これに二時間かけたんだぞ」
「うん。紫陽花も叔父さんの献身に感謝してると思うよ」
由紀は洗濯籠を落としそうになるほど笑った。
それから数分間、三人はポーチの下で冗談を言い合いながら過ごした。午前遅くの日差しが、コンクリートのスロープを温めていた。
陽翔が最近、恋しく思うようになっていた、ごく普通の家族の時間だった。
ところが、大地のスマートフォンが振動した。
通知が表示された。
動きを検知しました――正門
三人は一斉に画面を見た。
通りの向こう側に、一人の男が立っていた。
黒っぽい上着に野球帽をかぶり、片手をポケットに入れている。帽子のつばが顔の一部を隠していた。
男は数秒間、高橋家のほうを見ているようだった。
それから背を向け、歩き去った。
大地の笑顔が消えた。
由紀は洗濯籠を下ろした。
陽翔は画面を凝視した。
「……誰?」
大地はすぐには答えなかった。
録画を再生し直した。
男が再び現れる。
立ち止まる。
家を見る。
そして歩き去る。
一連の動作は、一分にも満たなかった。
「もしかして……」と由紀がささやいた。
大地は首を横に振った。
「わからない」
陽翔は叔父を見た。
「例の男かな?」
大地は映像をじっと見た。
「顔がはっきり映っていない」
由紀は道路へ目を向けた。
「どこへ行ったのか、見に行ったほうがいいかしら?」
「駄目だ」
大地は即座に答えた。
妻を見た。
「誰かを問い詰めに行くようなことはしない」
陽翔もうなずいた。
「賛成」
大地は録画を保存し、撮影時刻を確認した。
それから、以前の相談の際に案内されていた連絡先を使い、警察へ連絡した。
カメラに映った人物の様子と、家族が不安を感じている理由を説明した。
対応した警察官も、映像だけで男の身元を特定することはできなかった。元の録画を保存し、今後も何かあれば記録しておくよう求められた。
ただの通行人だったのかもしれない。
住所を探していた人だったのかもしれない。
あるいは、嫌がらせと関係しているのかもしれなかった。
結局、何もわからなかった。
その不確かさだけで、家の空気は変わってしまった。
由紀は洗濯物を持って家に入った。
大地は門扉がきちんと閉まっているか確認した。
陽翔だけがポーチに残り、静かな通りを眺めていた。
そよ風が頭上の葉を揺らした。
近くで犬が吠えた。
何もおかしなところはなかった。
それなのに、十分前までの平和な住宅街とは、少し違って見えた。
大地が近づいてきた。
「中に入ろう」
陽翔は振り向いた。
「どうして?」
叔父はためらった。
「何が起きているかわかるまで、念のためだ」
陽翔はもう一度道路を見た。
この一週間、彼は外出の計画を立てるために、かなりの時間を費やしていた。
ところが今では、玄関先に座っていることさえ問題になりそうだった。
彼はため息をついた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「お願いだから、始めないで」
大地は眉をひそめた。
「何を?」
陽翔は叔父を見つめた。
「この家を刑務所にすることだよ」
断ることが苦手な女性
水野葵の新人研修は、プラスチック製の人形、大量の医療記録、そして訪問看護に対して彼女が抱いていた甘い思い込みをことごとく打ち砕こうとしているらしい指導者とともに始まった。
「おはようございます、水野さん」
「おはようございます」
森山千里は、事業所の研修室に設置されたベッドのそばに立っていた。
そこは病室というより、小さなアパートの一室に似ていた。
一角には簡易キッチンがあり、細い廊下は模擬浴室へと続いている。低い棚には医療用品が整然と並べられていた。
ベッドのそばには車椅子、移乗用の機器、そして在宅ケアの安全な手順を学ぶためのさまざまな設備が置かれていた。
葵は室内を見回した。
「すごい設備ですね」
千里は微笑んだ。
「できるだけ実際の環境に近づけるようにしています」
葵はうなずいた。
「なるほど」
「今日は個別のケア計画、記録の作成、医療機器の安全管理、それから利用者さんやご家族とのコミュニケーションを中心に学びます」
「わかりました」
千里は一冊のファイルを手渡した。
「では、事例演習から始めましょう」
葵はファイルを開いた。
架空の利用者は中年男性で、身体の動きに大きな制限があり、日常生活のさまざまな場面で介助を必要としていた。特定の医療的ケアも必要だった。
妻は日中働いている。
成人した娘は夕方に訪問する。
訪問看護師は、あらかじめ定められた医療的サービスを提供する予定になっていた。
葵はケア計画を慎重に確認した。
千里は待った。
「準備はいいですか?」
「たぶん……」
「では、始めましょう」
千里は利用者の妻を演じ始めた。
「ああ、水野さん! 来てくださって助かりました!」
葵は丁寧に微笑んだ。
「おはようございます。どうされましたか?」
千里は模擬キッチンを指さした。
「本当に申し訳ないんですけど、忙しくてお昼ご飯を作る時間がなかったんです。主人の食事を用意していただけませんか?」
葵はためらった。
「ええと、それくらいでしたら――」
千里が指を立てた。
「ストップ」
葵は目をぱちくりさせた。
「え?」
「どうして引き受けようとしたんですか?」
葵は困惑した。
「困っていらっしゃるからですけど……」
千里はうなずいた。
「では、食事の調理は今回の訪問看護の業務に含まれていますか?」
葵はケア計画を見た。
「……いいえ」
「それなのに、どうして引き受けようとしたんですか?」
葵は眉をひそめた。
「断ったら失礼かと思って」
千里は微笑んだ。
「もう一度やってみましょう」
葵はため息をついた。
「はい……」
千里は再び妻の役になった。
「水野さん、お昼ご飯を作っていただけませんか?」
葵は背筋を伸ばした。
「申し訳ありませんが、食事の調理は本日の訪問看護の業務には含まれていません。必要な支援について、ケアマネジャーに相談するお手伝いならできます」
千里は満足そうにうなずいた。
「いいですね」
葵は微笑んだ。
ところが千里は続けた。
「あ、それと、ついでにお風呂場も掃除していただけません?」
葵は目をぱちくりさせた。
「ええと……」
千里が片方の眉を上げた。
葵はため息をついた。
「……できません」
「なぜですか?」
「私は看護師なので」
千里は微笑んだ。
「よろしい」
さらに続けた。
「それから、娘の帰りが遅れているので、もう一時間だけ残っていただけませんか?」
葵はためらった。
もっともらしい頼みごとだった。
家族の帰宅が遅れている。
誰かの介助が必要なのだ。
少しくらい残っても問題ないのではないか。
「それくらいなら、たぶん――」
千里がまた指を立てた。
葵はうめいた。
「もう、勘弁してください!」
指導者は笑った。
「またですよ」
葵は両手で顔を覆った。
「私、全然駄目ですね……」
「駄目というわけではありません」
千里は彼女の隣に座った。
「あなたは、助けを必要としている人がいれば素早く対応することに慣れています。それは救急医療の現場では大切な能力です」
葵は手を下ろした。
「でも?」
「でも、在宅ケアでは、何にでも『はい』と答えることが、危険な期待につながる場合があります」
葵はその言葉を考えた。
千里は続けた。
「決められたサービスの範囲外の仕事を日常的に引き受けてしまうと、ご家族は本来継続的に提供できない支援を当てにするようになるかもしれません。看護師としての本来の業務がおろそかになったり、勤務時間を超過したり、十分な訓練を受けていない作業を引き受けてしまう可能性もあります」
葵はうなずいた。
「でも、本当に助けが必要な場合は?」
「その場合は、状況を判断します」
千里は身を乗り出した。
「差し迫った安全上の問題と、通常のサービス追加の依頼は別です。危険にさらされている人を放置してはいけません。しかし、支援体制に不足があるたびに、自分が黙って引き受けて解決しようとするのも違います」
葵はファイルを見た。
「つまり、必要なところへ相談して、対応を調整するんですね」
「そのとおりです」
千里は微笑んだ。
「いい看護師になるというのは、誰かにとって欠かせない存在になることではありません」
葵は顔を上げた。
その言葉が心に残った。
千里は続けた。
「適切なケアを提供し、明確に意思疎通を図り、自分の限界を理解して、利用者さんが本当に必要な支援を受けられるようにすることです」
葵はゆっくりとうなずいた。
陽翔のことを考えた。
彼の叔母と叔父のこと。
複雑な支援体制を整えようとしていること。
そして、最初は一つだけのつもりで仕事を引き受け、それが二つ、三つと増えていき、いつの間にか家族全員が自分に頼るようになってしまう光景を想像した。
自分なら、きっとそうしてしまう。
そう気づいたことは、少し居心地が悪かった。
千里が立ち上がった。
「では、次は記録の作成について確認しましょう」
葵は大げさにため息をついた。
「断ってもいいですか?」
千里は微笑んだ。
「駄目です」
「不公平です」
「看護の世界へようこそ」
中止になりかけた外出
陽翔は三日前から、初めての本格的な外出を計画していた。
行き先を選んだ。
車椅子で通れる経路を調べた。
天気予報を確認した。
ケアの調整担当者を通して介助者を手配した。
そして、電動車椅子の充電が十分であることも確かめた。
目的地は、高橋家から十五分ほどの場所にある小さな商店街だった。
いくつかの商店と薬局、書店、そして陽翔がネットの写真を見て発見したカフェがあった。
そのカフェは、段差のない入り口があるように見えた。
しかも、パンケーキを提供していた。
陽翔にとって、この二つは同じくらい重要だった。
残念ながら、その外出は防犯カメラの騒動の翌日の午後に予定されていた。
由紀はあまり乗り気ではなかった。
「延期したほうがいいと思うの」
陽翔は叔母を見つめた。
「どうして?」
「昨日のことがあったでしょう」
「昨日、何があったの?」
由紀は眉をひそめた。
「陽翔」
「いや、本当に」
彼は叔母を見た。
「男の人が道路の向こうに立ってただけでしょ」
「誰だったのかわからないのよ」
「そうだよ」
由紀はため息をついた。
「だから心配なの」
陽翔はうなずいた。
「それはわかる」
「だったら、どうして反対するの?」
「だって、もう全部手配してあるんだよ」
彼はテーブルの上のファイルへ目を向けた。
「介助者さんの予定も空いてる。道も通れる。天気もいい」
由紀は大地を見た。
夫は隣に座り、双方の言い分を考えているようだった。
陽翔は続けた。
「怪しいことが起きるたびに予定を中止してたら、俺、一生外に出られなくなるよ」
由紀は目を伏せた。
「そういうことを言っているんじゃないの」
「じゃあ、どういうこと?」
彼女はためらった。
「慎重になりましょうって言ってるの」
陽翔はうなずいた。
「わかった」
大地を見た。
「じゃあ、慎重に行こうよ」
叔父は身を乗り出した。
「どうするつもりだ?」
陽翔はすでに考えていた。
大地にスマートフォンのメモを開いてもらい、一緒に具体的な対策を確認した。
外出は明るいうちに行う。
移動や介助の必要性を理解している、訓練を受けた介助者が同行する。
経路と目的地は事前に確認するが、詳細を公にしない。
陽翔はスマートフォンと緊急連絡先を使えるようにし、何か不審なことがあれば、介助者はあらかじめ決められた手順に従う。
誰かにつけられていると判断した場合は、直接自宅へ戻ったり、相手を問い詰めたりしない。
安全な公共の場所で助けを求め、必要に応じて警察へ連絡する。
大地は最後まで聞いた。
そしてうなずいた。
「妥当だと思う」
由紀は夫を見た。
「本当に?」
大地は妻へ向き直った。
「陽翔をいつまでも家に閉じ込めておくわけにはいかないだろう」
彼女はため息をついた。
「わかってるわ」
陽翔は叔母を見た。
「何もなかったことにしてほしいわけじゃないんだ」
声を和らげた。
「ただ、そのことに何もかも決められたくないだけ」
由紀は彼を見つめた。
数秒間、黙っていた。
それからうなずいた。
「……わかったわ」
陽翔は目をぱちくりさせた。
「本当に?」
「本当よ」
彼は微笑んだ。
「ありがとう」
由紀は指を一本立てた。
「ただし、安全対策はちゃんと守ること」
陽翔はにやりと笑った。
「はい、奥様」
「何か変わったら必ず連絡すること」
「はい、奥様」
「それから――」
「由紀叔母さん」
彼女は口を閉じた。
陽翔は微笑んだ。
「気をつけるから」
由紀の表情が和らいだ。
「……わかってるわ」
そしてため息をついた。
「あなたをガラス細工みたいに扱うのは、そろそろやめないとね」
陽翔は少し考えた。
「厳密に言うと、ガラスのほうが交換しやすいけどね」
由紀は固まった。
大地が吹き出した。
陽翔はにやりと笑った。
「今のは早すぎた?」
門の向こうへ続く道
その日の午後二時半、高橋陽翔は家の駐車スペースを出発した。
それ自体は、ごく普通の出来事だった。
車椅子がスロープを下りる。
若い男性が住宅街の歩道を進む。
その隣を介助者が歩いている。
特に珍しい光景ではない。
しかし陽翔にとって、その瞬間は一種の儀式のように感じられた。
門扉へ近づくと、車椅子の駆動音が足元で小さく響いた。
日差しが頬を温めた。
そよ風が近くの庭から刈りたての草の匂いを運んできた。
遠くでは電車が高架線を走り、その規則的な走行音が屋根の向こうへ消えていった。
陽翔は敷地の端で止まった。
そして振り返った。
由紀がポーチに立っていた。
大地も見送りに出てきていた。
二人が手を振った。
陽翔はにやりと笑った。
「さらば、残酷な世界よ!」
由紀が笑った。
「陽翔!」
彼は声を張り上げた。
「もし帰らなかったら、俺の物語を後世に伝えてくれ!」
大地は首を横に振った。
「いいからパンケーキ買ってこい!」
陽翔は笑った。
そして道路へ向き直った。
隣を歩いているのは、家族が利用している支援事業者から派遣された介助者、星野里奈だった。
三十代前半で、短い黒髪と落ち着いた物腰の女性だった。陽翔はその雰囲気をすぐに気に入った。
里奈は外出前に、彼のケア計画、緊急時の対応手順、本人が希望する介助方法を確認していた。
しかし何よりも重要だったのは、彼女が陽翔自身に、どこへ行きたいか尋ねてくれたことだった。
家族がどこへ連れて行きたいかではない。
介助者にとって、どこが都合がいいかでもない。
陽翔がどこへ行きたいか。
小さな違いだった。
しかし、陽翔は気づいていた。
「準備はいいですか?」と里奈が尋ねた。
彼はにやりと笑った。
「生まれたときから準備万端です」
彼女は微笑んだ。
「では、案内してください」
陽翔はゆっくりと加速した。
電動車椅子は歩道を進み、きれいに刈り込まれた生け垣や、停められた自転車、ときおり現れる自動販売機の横を通り過ぎた。
この住宅街にはまだ慣れていなかった。
しかし、こうして街を移動する感覚そのものは懐かしかった。
母と一緒に、東京のさまざまな場所を探検してきたのだ。
商店街。
公園。
書店。
レストラン。
何の問題もなく楽しめる日もあった。
反対に、段差のある入り口や故障したエレベーター、頼んでもいないのに勝手に手伝おうとする見知らぬ人に悩まされる日もあった。
母はそうした障害に、強い意志と芝居がかった憤慨を組み合わせて立ち向かっていた。
陽翔は思い出して微笑んだ。
母さん、この天気、絶対好きだっただろうな。
空を見上げた。
薄い雲がいくつか、屋根の上を漂っていた。
一瞬、母が隣を歩いている姿を想像した。
速すぎると文句を言いながら。
車椅子に速度制限装置を取り付けるぞと脅しながら。
陽翔は小さく笑った。
里奈が彼を見た。
「何か面白いことでも?」
陽翔は微笑んだ。
「ちょっと思い出してたんです」
彼女はうなずいた。
「いい思い出ですか?」
彼は少し考えた。
「はい」
そして笑顔が柔らかくなった。
「すごくいい思い出です」
二人は進み続けた。
最初の交差点で、陽翔は横断歩道の近くに止まった。
歩道の切り下げ部分にはわずかな凹凸があり、雨水のたまった浅いくぼみができていた。
里奈はそこを見た。
「反対側の横断歩道にしますか?」
陽翔は路面を確認した。
「はい。あっちのほうが平らですね」
「わかりました」
二人は経路を変更した。
大騒ぎすることもなく。
言い争うこともなく。
面倒なことを言うなと注意されることもなく。
陽翔は静かな満足感を覚えた。
もしかすると、自立とはこういうことなのかもしれない。
何もかも一人ですることではない。
自分がどうしたいのかを、自分で決められること。
惜しいところまでバリアフリーだったカフェ
商店街は、陽翔が予想していたよりもにぎわっていた。
通りの両側には小さな店が並び、衣類や日用品、季節の飾りを陳列した店先の上で、色とりどりの看板が客の目を引こうとしていた。
花屋では縞模様の日よけの下に菊や薔薇が並べられていた。
パン屋の扉が開くたびに、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
制服姿の学生たちが、スマートフォンの画面を見ながら笑い合って通り過ぎた。
陽翔は書店の近くで速度を落とした。
ショーウィンドウに並ぶ本の題名を眺めた。
それからカフェへ向かった。
木製の看板には、上品な文字で店名が書かれていた。
こもれびカフェ
入り口のそばに立つ木の枝の間から日差しが差し込み、歩道に揺れる光と影の模様を描いていた。
陽翔は微笑んだ。
「いい感じですね」
里奈もうなずいた。
「そうですね」
二人は入り口へ近づいた。
そして止まった。
陽翔は目の前を見つめた。
歩道からわずかに高くなった木製の敷居があった。
それほど大きな段差ではない。
せいぜい数センチだろう。
しかし、彼の電動車椅子にとっては十分に問題となる高さだった。
陽翔はカフェを見た。
次に里奈を見た。
そしてもう一度、敷居を見た。
「……ですよね」
里奈も確認した。
「写真では段差がないように見えたんですけど」
陽翔はため息をついた。
「写真は嘘つきです」
彼女は微笑んだ。
「携帯用のスロープがあるか、聞いてみましょうか?」
陽翔はうなずいた。
「お願いします」
里奈は入り口へ近づき、店員に声をかけた。
しばらくすると、若い女性が出てきた。
彼女は陽翔の車椅子を見た。
「あっ! すみません!」
陽翔は丁寧に微笑んだ。
「こんにちは」
店員は頭を下げた。
「うち、スロープがないんです」
陽翔はうなずいた。
「そうですか」
女性は申し訳なさそうな顔をした。
「でも、車椅子を持ち上げれば……」
陽翔の表情が変わった。
里奈はすぐに彼を見た。
陽翔は首を横に振った。
「いえ、結構です」
店員は目をぱちくりさせた。
「あ……」
陽翔は微笑んだ。
「電動車椅子なので、かなり重いんです。そうやって持ち上げるのは危険ですから」
若い女性は青ざめた。
「本当にすみません!」
「大丈夫ですよ」
彼は敷居を見た。
「ほかに入り口はありますか?」
店員は考えた。
「横にも入り口がありますけど、車椅子で入れるかどうかは……」
陽翔はうなずいた。
「確認してもらえますか?」
「もちろんです!」
女性は慌てて店内へ戻った。
里奈がかすかに微笑んだ。
「落ち着いて対応されましたね」
陽翔はため息をついた。
「長年の経験です」
入り口を見た。
「まあ、俺はただパンケーキが食べたかっただけなんですけどね」
里奈は笑った。
数分後、店員が戻ってきた。
「横の入り口にも段差がありました……」
陽翔はため息をついた。
「でしょうね」
店員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「本当に申し訳ありません」
陽翔は少し考えた。
そして尋ねた。
「持ち帰りで注文することはできますか?」
店員の顔が明るくなった。
「はい!」
陽翔は微笑んだ。
「よかった」
里奈を見た。
「作戦Bです」
彼女はにやりと笑った。
「パンケーキのお持ち帰りですか?」
陽翔は厳かにうなずいた。
「許容できる妥協案です」
店員が笑った。
三人が持ち帰り用のメニューについて話し始めた、そのときだった。
背後から声がした。
「……陽翔君?」
彼は振り向いた。
花屋の陳列棚のそばに、紙袋を持った年配の女性が立っていた。
淡い色のカーディガンとつばの広い帽子を身につけ、銀色の髪を耳の後ろにきれいにまとめている。
驚いた表情をしていた。
陽翔は目をぱちくりさせた。
「えっと……」
女性が近づいてきた。
「高橋陽翔君でしょう?」
彼は彼女を見つめた。
そして、ようやく思い出した。
「……中原さん?」
女性の顔がぱっと明るくなった。
「ああ、やっぱり陽翔君!」
母の笑い声を覚えていた女性
中原文子は、陽翔と母が暮らしていたマンションに、十年近く住んでいた女性だった。
前年の春、娘の家の近くへ引っ越して以来、陽翔は彼女に会っていなかった。
陽翔の記憶の中では、園芸が大好きで、騒がしい隣人に文句を言い、ときどき手作りのお菓子を持ってきてくれる、明るい女性だった。
さらに彼女には、息継ぎもせずに二十分間しゃべり続けられるという驚異的な能力があった。
陽翔は以前、ラジオの仕事をしてみてはどうかと母に提案したことがあった。
美咲は皿を落としそうになるほど笑っていた。
今、その女性が涙ぐみながら目の前で微笑んでいた。
「まあまあ! 立派になって!」
陽翔はにやりと笑った。
「相変わらずイケメンですか?」
文子は笑った。
「相変わらず口が達者ね!」
彼も微笑んだ。
「変わらないものもありますから」
文子は里奈をちらりと見た。
陽翔は二人を紹介した。
それから文子は彼へ向き直った。
「お母さんのこと、聞いたわ」
陽翔の笑顔が消えた。
文子は目を伏せた。
「本当に残念だったわね、陽翔君」
彼は唾を飲み込んだ。
「ありがとうございます」
文子はゆっくりとうなずいた。
「本当に素敵な人だったわ」
陽翔は花屋へ目を向けた。
「……はい」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて文子が悲しそうに微笑んだ。
「ねえ、私がお母さんのことで一番覚えていること、何だと思う?」
陽翔は首を横に振った。
「何ですか?」
「笑い声よ」
彼の表情が和らいだ。
文子は続けた。
「廊下から笑い声が聞こえてくると、ああ、美咲さんが帰ってきたんだなって、すぐわかったもの」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「母さんらしいですね」
「陽翔君が言ったことで笑っているときもあったわね」
彼はにやりと笑った。
「たいてい、素晴らしいことを言ってたんでしょうね」
文子は笑った。
「たいてい、くだらないことだったわよ」
陽翔もくすくす笑った。
文子はカフェを見た。
「今日はどうしたの?」
「探検です」
「一人で?」
陽翔は里奈をちらりと見た。
「介助してもらいながらです」
文子はうなずいた。
「ああ、そうなのね」
そして微笑んだ。
「お母さん、喜んだでしょうね」
陽翔は目を伏せた。
「……そうかもしれません」
文子は彼を見つめた。
そして、思いがけないことを言った。
「美咲さんね、陽翔君が自分のやりたいことをする機会を、十分に持てないんじゃないかって心配していたのよ」
陽翔は顔を上げた。
「え?」
文子はうなずいた。
「ときどき、そんな話をしていたわ」
彼は見つめた。
文子は続けた。
「もちろん、あなたをいろんなところへ連れて行くのが大好きだった。でもね、あなたにはあなた自身の友達を作って、自分だけの冒険をしてほしいって」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「母さんが、そう言ってたんですか?」
「何度もね」
文子は微笑んだ。
「いつか陽翔君が自分の生活で忙しくなって、会うにも予約を取らなきゃいけなくなるんじゃないかって、冗談を言っていたわ」
陽翔は弱々しく笑った。
「母さんらしいな……」
文子はうなずいた。
「あなたのことを誇りに思っていたのよ」
陽翔の目に涙が浮かんだ。
彼は足元の舗装を見た。
一瞬、商店街のざわめきが遠のいたように感じられた。
公園で隣に立っていた母を思い出した。
黄色い上着。
ふざけたサングラス。
笑い声。
そして、自分の人生は自分のものだと、何度も教えてくれたこと。
文子はそっと彼の肩に触れた。
「忘れないでね」
陽翔は顔を上げた。
彼女は微笑んだ。
「お母さんは、あなたに自分の人生を生きてほしかったのよ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
そしてうなずいた。
「……わかってます」
文子は微笑んだ。
「なら、よかった」
カフェを見た。
「ところで、何か食べるところだったの?」
陽翔は笑った。
「パンケーキです」
文子の表情が明るくなった。
「あら、いいじゃない!」
彼はにやりと笑った。
「当然です」
文子は敷居を見た。
そして眉をひそめた。
「あらまあ、これは困ったわね」
陽翔はうなずいた。
「どうやら、この建物は車輪に宣戦布告したみたいです」
文子は大笑いした。
その笑い声があまりにも母のものに似ていて、陽翔は胸が締めつけられた。
けれど今回は、その思い出がいつもほど鋭く痛むことはなかった。
どこにでもいられるわけではない看護師
午後の葵の研修は、医療機器の安全管理が中心だった。
処方された医療機器の使用方法、緊急時の対応手順、そして機器が特定の利用者や住環境に適していることを確認する重要性について学んだ。
千里は、病院の医療機器に慣れているからといって、在宅で使用されるあらゆる機器を扱う資格や能力があるとは限らないことを強調した。
葵も、その考え方は理解していた。
それでも、必要な準備の多さには驚かされた。
病院では、通常、数分以内にほかの職員の助けを得られる。
しかし自宅では、訪問中の一部の時間を看護師一人で対応しなければならないこともある。
だからこそ、ケア計画を理解しておく必要がある。
いつ助けを求めるべきかを知っておく必要がある。
どの作業に、もう一人の訓練された介助者が必要なのかを知っておく必要がある。
そして、いつ作業を進めてはいけないかも理解しなければならない。
ある演習では、家族からケア計画に指定された機器を使わずに移乗介助を行うよう求められた、架空の利用者について判断することになった。
葵は状況を確認した。
そして首を横に振った。
「私なら、行いません」
千里は微笑んだ。
「なぜですか?」
「安全ではないからです」
「では、どうしますか?」
葵は考えた。
「危険性を説明して、まず利用者さんが現在の姿勢で安全に過ごせることを確認します。それから必要な支援を手配できるよう、適切な担当者に連絡します」
千里はうなずいた。
「いいですね」
葵は微笑んだ。
「合格ですか?」
「その部分は」
彼女はうめいた。
「まだあるんですか?」
千里は笑った。
「もちろんです」
そのあと、記録の作成について確認した。
葵は、観察した事実と推測を区別した、明確で客観的な記録を書く練習をした。
事業所が医師、ケアマネジャー、リハビリテーションの専門職、身体介助サービスの事業者とどのように連携しているかも学んだ。
また、判断能力のある成人利用者の意思決定を家族が覆してしまわないよう、どのようにコミュニケーションを取るべきかについても話し合った。
最後の話題は、葵の注意を引いた。
陽翔が親戚に対して抱いていた不満を思い出した。
自分の予定を自分で決めたいという願い。
自分について話すのではなく、自分に話しかけてほしいという訴え。
面接のことも思い出した。
くだらない質問。
真剣な質問。
そして、ちゃんと話を聞いてくれるかと尋ねられたこと。
葵はかすかに微笑んだ。
千里が気づいた。
「何か面白いことでも?」
葵は顔を上げた。
「ちょっと思い出していただけです」
「例の担当候補のことですか?」
彼女はうなずいた。
千里はファイルを閉じた。
「あれから、もう少し考えましたか?」
葵はためらった。
「はい」
「それで?」
彼女は息を吸った。
「やっぱり、担当候補として検討していただきたいです」
千里はうなずいた。
「安全上の懸念があっても?」
「はい」
葵は少し間を置いた。
「ただし、事業所が危険を適切に管理できると判断した場合に限ります」
責任者は微笑んだ。
「いいですね」
葵は続けた。
「もし難しいという判断になったら、それも理解しています」
千里はうなずいた。
「それが適切な考え方です」
葵は自分の手を見下ろした。
まだ怖かった。
拓海の嫌がらせが終わったわけではない。
陽翔の家の写真は、今も警察への相談記録に残っている。
担当を引き受けたところで、危険が魔法のように消えるわけではないこともわかっていた。
しかし、恐怖と責任は同じものではないと、少しずつ理解し始めていた。
予防策を講じることはできる。
助けを求めることもできる。
十分な情報を得たうえで、判断することもできる。
そして、拓海に自分の未来のすべてを決めさせることを、拒むこともできる。
千里は書類をまとめた。
「もう一つ、お知らせがあります」
葵は顔を上げた。
「はい?」
「ご家族のケアの調整担当者から、追加の情報が届きました」
胸の鼓動が少し速くなった。
「陽翔君のことですか?」
千里はうなずいた。
「ご家族は、引き続き幅広い支援体制を整えているところです。仮に今回の担当が正式に決まったとしても、あなた一人が彼の日常生活のすべてを支えるわけではありません」
葵はかすかに微笑んだ。
「よかったです」
千里は彼女を見た。
「安心したようですね」
葵は笑った。
「今日、一つ学びましたから」
「あら?」
彼女はにやりと笑った。
「どうやら私一人で、訪問看護事業所を丸ごと一つ担当する必要はないみたいなので」
千里は吹き出した。
「そのとおりです」
黄色いマフラーの下にあった手紙
陽翔が帰宅したのは、午後五時少し前だった。
外出時間は二時間を少し超えていた。
文庫本を一冊。
小さなお菓子の袋を一つ。
そして、帰り道をどうにか原形を保ったまま生き延びた、持ち帰り用のパンケーキ。
陽翔は午後の外出を成功と判断した。
玄関で由紀が迎えてくれた。
「おかえりなさい!」
陽翔はにやりと笑った。
「ただいま」
「どうだった?」
「最高」
彼女は微笑んだ。
「楽しかった?」
「もちろん」
大地が廊下から顔を出した。
「パンケーキは買えたか?」
陽翔はうなずいた。
「当然」
叔父は安心したようだった。
「よかった」
陽翔は片方の眉を上げた。
「どうして医療上の緊急事態が解決したみたいな言い方なの?」
大地は笑った。
「三日間、ずっとパンケーキの話をしてたからだ」
陽翔はにやりと笑った。
「男には譲れない優先事項があるんだよ」
いつもの手順に従って、リビングで落ち着けるよう手伝ってもらった。
里奈は、外出の概要や遭遇したバリアフリー上の問題について、取り決められた引き継ぎを行った。
陽翔は彼女に礼を言った。
里奈が帰ると、由紀は買い物袋をのぞいた。
「本?」
「うん」
「どんな話?」
陽翔は微笑んだ。
「殺人」
由紀は目をぱちくりさせた。
「え?」
「ミステリー小説」
「ああ……」
彼はにやりと笑った。
「がっかりした?」
彼女は笑った。
「とってもね」
そのとき、大地が段ボール箱を抱えて近づいてきた。
「そうだ、陽翔」
彼は顔を上げた。
「何?」
「お母さんの荷物を整理していたら、こんなものが出てきたんだ」
陽翔の笑顔が消えた。
大地は箱をテーブルに置いた。
中には丁寧に畳まれた衣類が何着かと、小さな宝石箱、そして黄色いマフラーが入っていた。
陽翔はそのマフラーをすぐに見分けた。
寒い季節になると、母がよく身につけていたものだった。
柔らかく、少し色あせていて、小さな白い花の模様がついていた。
彼はじっと見つめた。
「……どこにあったの?」
大地は箱を見た。
「お母さんの私物と一緒にしまってあったんだ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「母さん、そのマフラー大好きだったんだ」
由紀はうなずいた。
「覚えてるわ」
大地がそっと持ち上げた。
すると、折り重なった布の間から何かが滑り落ちた。
白い封筒だった。
テーブルの上に落ちた。
三人はそれを見つめた。
大地が拾い上げた。
そして眉をひそめた。
「陽翔……」
甥へ顔を向けた。
「お前の名前が書いてある」
陽翔は動きを止めた。
封筒には封がされていた。
表には、見慣れた母の筆跡で、こう書かれていた。
大切な陽翔へ
数秒間、誰も何も言わなかった。
由紀は口元を覆った。
大地は陽翔を見た。
「渡そうか?」
陽翔は封筒を見つめた。
喉が締めつけられた。
母が由紀と大地に残した手紙については、すでに聞いていた。
そこには、自分の介助や将来に関する母の希望が書かれていた。
しかし、これは違った。
自分に宛てられていた。
自分だけに。
母は、亡くなったあとに息子に読んでほしい言葉を書き残していたのだ。
その存在を、陽翔は知らなかった。
「陽翔?」と大地が優しく尋ねた。
彼は唾を飲み込んだ。
「……うん」
大地は封筒を陽翔の見える、手の届く位置に置き、そのまま待った。
陽翔は封筒を見つめた。
開けたかった。
どうしようもないほど。
しかし、怖かった。
中に書かれた言葉によって、母の死が再び起きたばかりの出来事のように感じられるのではないか。
母の声があまりにも鮮明によみがえり、そのあとに訪れる静けさに耐えられなくなるのではないか。
まだ受け入れる準備のできていない、最後の別れの言葉が書かれているのではないか。
由紀が隣に座った。
「今すぐ読まなくてもいいのよ」
陽翔はうなずいた。
「……うん」
大地が尋ねた。
「どこか安全な場所にしまっておこうか?」
陽翔は少し考えた。
そして首を横に振った。
「ううん」
封筒を見た。
「俺の部屋に置いておきたい」
明日のために残してくれた言葉
その夜、陽翔は大地に手紙を開けるのを手伝ってほしいと頼んだ。
由紀はすでに二階へ上がっていた。
家の中は静かだった。
柔らかなランプの光が寝室を照らし、淡い青色のカーテンと、ベッドのそばに置かれた美咲の写真を温かく包んでいた。
大地は近くに座った。
「本当にいいのか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
叔父は封筒の端を慎重に開いた。
中には、折り畳まれた二枚の便箋が入っていた。
筆跡は間違いなく母のものだった。
美咲の文字は少し不揃いで、急いで書くと、ところどころ右上がりになる癖があった。
陽翔は見つめた。
一瞬、キッチンのテーブルに座る母の姿が見えるようだった。
手にはペン。
鼻の先へずり落ちた眼鏡。
きっと、便箋が小さすぎると文句を言っていたに違いない。
大地は一枚目を広げた。
「読もうか?」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「……お願い」
叔父はうなずいた。
そして読み始めた。
大切な陽翔へ。
もしあなたがこの手紙を読んでいるなら、どうやらお母さんは、ようやくあなたに内緒で何かをすることに成功したみたいね。
陽翔は笑った。
小さく、途切れそうな笑い声だった。
大地もかすかに微笑んだ。
そして続けた。
今、何を考えているかはわかってるわ。
「母さん、なんてずるい女なんだ」って。
ええ、そうよ。何年も練習してきたんだから。
陽翔は目を閉じた。
母の声が聞こえた。
一つ一つの言葉。
わざとらしい間の取り方。
いたずらっぽい声の抑揚まで。
大地は読み続けた。
伝えたいことがたくさんありすぎて、何から書けばいいのかわからないの。この手紙はもう三回も書き直したんだけど、どれも安っぽいテレビドラマの台詞みたいになっちゃった。
お母さんがそういうドラマをどれだけ嫌っているか、知ってるでしょう?
まあ、出演している俳優さんがハンサムなら話は別だけど。
陽翔はまた笑った。
頬を涙が伝った。
大地は一度、読むのを止めた。
陽翔は続きを促すようにうなずいた。
まず、あなたのお母さんになったことを、私は一度だって後悔していないと知ってほしいの。
本当に、一度も。
大変な日もあったわ。もちろんね。疲れたり、腹が立ったり、怖くなったり、ほかの家族なら考えもしないようなことに対処するのが、心底嫌になった日だってあった。
でも、そんな日々も私たちの人生の一部だった。
すべてではなかったのよ。
一緒に過ごした年月を振り返るとき、私が思い出すのは診察の予約や病院通いだけじゃない。くだらない冗談を言いながら、自分で笑いすぎて最後まで話せなくなったあなたの姿。テレビの登場人物に、まるで向こうに聞こえているかのように文句を言っていた姿。そして、公園で競走したこと。あなたがあんなに堂々とずるをしていたのにね。
陽翔は涙を流しながら微笑んだ。
大地の声がわずかに震えた。
私が覚えているのは、何でもない普通の日々なの。
あなたにも、そうであってほしい。
叔父は少し間を置いた。
陽翔は写真を見た。
母が微笑み返していた。
大地は続けた。
私には、どうしてもできなかったことが一つあるの。
あなたを京都へ連れて行きたかった。
陽翔は息をのんだ。
大地が顔を上げた。
陽翔は手紙を見つめた。
続きを読む声が、再び部屋に響いた。
何百回も話したわよね。
お寺を見て、おいしいものを食べすぎて、変な写真をたくさん撮って、自分たちも観光客なのに観光客の文句を言う予定だった。
車椅子で利用できる宿泊施設だって、少し調べ始めていたのよ。
でも、いつも次の診察があって、次の出費があって、もう少し待ったほうがいい理由があった。
そして、私は病気になった。
陽翔は目を伏せた。
落ち着いたら行こうって、ずっと自分に言い聞かせていたの。
それが間違いだったんだと思う。
完璧な時期が来るのを待ち続けてしまった。
大地は言葉を止めた。
その目にも涙が浮かんでいた。
一度、喉を整えた。
そして続けた。
だから、あなたにしてほしいことがあるの。
何もかも完璧になるのを待ってから、人生を生き始めようとしないで。
計画を立てて。変更して。失敗もして。知らない場所へ行って。あなたを笑わせてくれる人に出会って。あなたに新しい考え方を教えてくれる人にも出会って。ほかの誰かにとって都合がいいからではなく、あなた自身が幸せになれるものを見つけて。
それからお願いだから、あのひどい映画ばかり観ながら、一生を家の中で過ごすようなことはしないでね。
陽翔は吹き出した。
大地も笑った。
それから叔父の声が柔らかくなった。
あなたには、誰かの助けが必要なこともあると思う。
今までも、そうだったものね。
でも、だからといって、あなたの夢が小さくなるわけじゃない。
その夢にたどり着くために、力を貸してくれる人を見つければいいのよ。
陽翔は唾を飲み込んだ。
その言葉が、胸の奥深くに静かに沈んでいくようだった。
大地は続けた。
陽翔。私は、あなたに愛する人ができたらいいなと思っているわ。
誰かに世話をしてもらうためじゃないのよ。
あなたには、恋人がいるかどうかに関係なく、きちんとした介助を受ける権利があるんだから。
私が言っているのは、何でもない毎日を特別なものにしてくれるような愛のこと。あなたの冗談を、たとえひどいものでも楽しんでくれる人。一緒に観る映画をめぐって言い争える人。あなたを一人の人間として見てくれて、あなたにも同じように自分を見てほしいと思ってくれる人。
そして、もしそういう愛に出会わなかったとしても、友情と笑い声と、朝起きるのが楽しみになるようなものでいっぱいの人生を築いてほしい。
陽翔は天井を見つめた。
涙は止まらなかった。
しかし、大地に読むのをやめてほしいとは言わなかった。
あなたは重荷なんかじゃないわ、陽翔。
一度だって、そうだったことはない。
あなたは、自分自身の人生を持った一人の人間なの。
そしてその人生は、私の人生が終わったあとも続いていく。
大地の声が詰まった。
彼は読むのを止めた。
陽翔は待った。
しばらくして、叔父は再び口を開いた。
あなたがこれからどんな人になっていくのか、そばで見届けたかった。
一緒に京都へ行きたかった。
あと五十年くらい、あなたの運転に文句を言いたかった。
でも、それができないのなら、一つだけ約束して。
それでも、行って。
写真を撮って。
おいしいものを食べて。
くだらない映画を観て笑って。
そして、何か美しいものを見たとき、そこに私がいないからといって、申し訳なく思わないで。
私はもう、十分に美しいものを見てきたから。
あなたも、その一つだったのよ。
部屋が静まり返った。
大地は最後の数行を見つめた。
そして読んだ。
愛してるわ、陽翔。
どんなに長い手紙を書いても、伝えきれないくらい。
さあ、あなたの人生を生きて。
愛を込めて。
母さんより。
それから数分間、二人とも何も言わなかった。
陽翔は天井を見つめていた。
胸が痛かった。
身体的な痛みではなかった。
母と分かち合ってきたすべての記憶へ広がっていくような、深く、鈍い悲しみだった。
もう一度、母の笑い声が聞きたかった。
もう一度、母がドアから入ってくる姿を見たかった。
どうでもいいことで文句を言って、母がわざと怒ったふりをするのを見たかった。
もう一度だけ、何でもない午後を過ごしたかった。
テレビで何を観るか、もう一度だけ言い争いたかった。
もう一度だけ、公園へ行きたかった。
しかし、母と過ごす何でもない午後は、もう訪れない。
残っているのは思い出だけだった。
そして、これからは母のいない日々を生きる方法を、学ばなければならなかった。
大地は慎重に手紙を畳んだ。
「陽翔?」
彼は唾を飲み込んだ。
「……何?」
「大丈夫か?」
陽翔は弱々しく笑った。
「……全然」
大地はうなずいた。
「そうだよな」
長い沈黙が続いた。
やがて陽翔は叔父を見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「この前の夜に話したこと、覚えてる?」
大地は眉をひそめた。
「どの話だ?」
「京都」
叔父の表情が和らいだ。
「もちろん」
陽翔は手紙を見た。
「行きたい」
大地は微笑んだ。
「じゃあ、方法を考えよう」
陽翔は小さく首を横に振った。
「明日すぐに、ってわけじゃないよ」
「わかってる」
「介助の体制がちゃんと整ってから」
「もちろんだ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「でも、計画を立て始めたい」
大地はうなずいた。
「わかった」
身を乗り出した。
「車椅子で利用できる交通機関や宿泊施設、必要な支援、それからお前が行きたい場所を調べよう」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「あと、パンケーキも」
大地は目をぱちくりさせた。
「パンケーキ?」
陽翔は厳かにうなずいた。
「すべての偉大な旅には、パンケーキが必要なんだよ」
叔父は吹き出した。
陽翔も一緒に笑った。
笑い声が悲しみを消してくれたわけではない。
何をしたところで、消えるものではなかった。
しかし、母の葬儀以来初めて、未来には目指したい場所ができていた。
まだ果たされていない約束の形
その夜遅く、葵は美香のダイニングテーブルに座り、開いたノートを前にしていた。
事業所の研修資料を復習しているうちに、夜になっていた。
あまりにも多くの情報を頭に詰め込んだせいで、頭が痛かった。
美香が切った果物を載せた皿を持って、キッチンから出てきた。
「まだ勉強してるの?」
葵はうなずいた。
「残念ながら」
「つまらない女になっちゃったね」
「昔からつまらない女だったよ」
美香は少し考えた。
「確かに」
葵はペンを投げつけた。
美香は笑った。
それから表情を和らげた。
「例の担当、何か進展あった?」
葵は首を横に振った。
「まだ」
「保留のまま?」
「うん」
美香はうなずいた。
「今、どんな気分?」
葵は少し考えた。
「前よりはいいかな」
「本当に?」
「うん」
彼女はノートを閉じた。
「何もかも自分で解決しようとしてたんだと思う」
美香は片方の眉を上げた。
「聞き覚えがあるね」
葵は微笑んだ。
「どうやら、そうしなくてもいいみたい」
「衝撃の事実だね」
葵は笑った。
窓へ目を向けた。
外では、夜空の下で東京の街がきらめいていた。
マンションや鉄道路線の向こうのどこかに、高橋家がある。
陽翔はどうしているだろう。
外出できただろうか。
叔母と叔父は、彼が自分の意思で生活することの大切さを少しずつ理解し始めただろうか。
また、くだらない映画を観ているだろうか。
葵はかすかに微笑んだ。
そしてノートへ視線を戻した。
今回の担当がどうなろうとも、彼女は、誰かを助けることと、その人の人生を代わりに管理することの違いを理解できる看護師になりたかった。
以前は、その違いなど当たり前だと思っていた。
しかし今では、善意がいかに簡単に、その境界を曖昧にしてしまうかを知っていた。
街の反対側では、陽翔がベッドに横たわり、母の写真の隣に置かれた手紙を眺めていた。
大地に頼んで、透明な保護ケースに入れてもらったのだ。
その下には元の封筒が置かれていた。
母の筆跡が見えていた。
大切な陽翔へ
彼はその文字を見つめた。
それから天井へ目を向けた。
「京都、か……」
顔にかすかな笑みが浮かんだ。
寺院を思い浮かべた。
にぎやかな通り。
桜の花。
母が撮りたがっていた写真。
いつ行けるのかはわからなかった。
誰が一緒に行ってくれるのかもわからなかった。
そもそも、一年以内に実現できるかどうかさえわからなかった。
それでも、挑戦してみたかった。
それだけでも、大きなことだった。
窓の外では、風が葉を揺らしていた。
陽翔は目を閉じた。
一瞬、母の声が聞こえた気がした。
何もかも完璧になるのを待たないで。
彼は微笑んだ。
「……わかったよ、母さん」
その声は、ほとんどささやきだった。
「やってみる」
そして長い間で初めて、明日という日が、ただ耐えなければならない義務のようには感じられなかった。
そこは、自分からたどり着きたいと思える場所になっていた。




