第8章 見知らぬ屋根の下で、まだ愛の形を知らないまま
高橋陽翔が退院する日、叔父は工具箱を持って病室に現れた。
陽翔はその工具箱を見つめた。
それから叔父を見た。
そして、もう一度工具箱に目を戻した。
「……心配したほうがいい?」
高橋大地は手に持っている金属製のケースを見下ろした。
「何をだ?」
「俺を修理するつもりなの?」
「はっ? 違うぞ!」
「だって、俺の保証期間なんて二十二年前に切れてると思うんだけど」
大地は思わず吹き出した。
大きな買い物袋の中身を確認していた叔母の由紀が、少し呆れた表情で顔を上げた。
「陽翔、叔父さんをからかわないの」
「正当な質問をしてるだけだよ」
大地は工具箱を来客用の椅子の横に置いた。
「何か調整が必要になったときのために持ってきたんだ」
「病院で?」
「いや、そうじゃなくて。家でだよ」
陽翔は片方の眉を上げた。
「じゃあ、なんで家に置いてこなかったの?」
大地は口を開いた。
そして閉じた。
それから頭をかいた。
「……確かに、いい質問だな」
由紀はため息をついた。
まだ朝の九時にもなっていないというのに、陽翔はすでに、親戚との同居がなかなか面白い経験になりそうだと感じていた。
残念ながら、その「面白い」がいい意味なのかどうかは、まだわからなかった。
病室は、いつになくがらんとしていた。
衣類はスーツケースに詰められ、叔母が持ってきてくれた本は車椅子の横にきれいに積まれていた。入院中に少しずつため込んでいた紙パックのジュースも、ようやく片づけられている。
まだ使われているのは、ベッドだけだった。
陽翔は濃紺のシャツと楽なズボンを身につけ、背もたれを起こしたベッドに横たわりながら、看護師が退院書類の確認を終えるのを待っていた。
電動車椅子はすぐそばに置かれていた。充電は満タンで、いつでも出発できる状態だった。
昨夜、陽翔はその車椅子を長い間見つめていた。
たいていの人にとって、退院するということは家に帰ることを意味する。
しかし陽翔にとっては、別の場所へ行くということだった。
その違いが頭から離れず、午前三時近くまで眠れなかった。
「それでは、高橋さん」
看護師がファイルを持って入ってきた。
「もう一度、確認していきましょう」
由紀はすぐにノートを取り出した。
大地もペンを手にした。
陽翔は、まるで大学の講義が始まるかのように準備を整える二人を眺めていた。
看護師は、服用する薬、今後の受診予定、必要な医療機器、そして退院後の生活に向けて整えられた介助体制について説明した。
退院支援チームは車椅子対応の移送サービスを手配し、適切なベッドや体圧分散マットレス、その他の必要な機器が届けられることも確認していた。また、在宅支援の調整担当者が、専門職による初期訪問や実地研修の手配を手伝ってくれていた。
ただし、支援体制はまだ十分とは言えなかった。
そのことについては、これまで何度も話し合われていた。
陽翔には、移乗、身の回りの介助、姿勢の調整、食事、その他の日常生活のさまざまな場面で、確実な支援が必要だった。由紀と大地は利用できるサービスと並行して介助を担うことに同意していたものの、二人の勤務時間や経験不足は、依然として大きな懸念材料だった。
看護師は、個別のケア計画に従い、適切な機器を使用し、必要な訓練を受けた人が介助することの重要性を強調した。
大地は神妙にうなずいた。
「わかりました」
由紀は何かを書き留めた。
陽翔はノートをちらりと見た。
「何を書いてるの?」
「大事なことよ」
「例えば?」
由紀はノートを少し傾けた。
ページの一番上には、大きな文字でこう書かれていた。
『慌てないこと!』
陽翔はそれをじっと見つめた。
そして笑い出した。
由紀は不服そうな顔をした。
「何よ?」
「いや、別に」
「陽翔」
「優先順位がはっきりしてて安心しただけ」
看護師も微笑んだ。
由紀はノートを閉じた。
「はいはい、面白いわね」
陽翔はにやりと笑った。
ほんの一瞬、胸の奥にあった不安が和らいだ。
しかし、看護師に出発の準備はできているかと尋ねられると、その感覚は消えた。
陽翔は病室を見回した。
ここにいるのは嫌だった。
味気ない食事も、絶え間なく入ってくる人たちも、寝苦しい夜も、一日の始まりから終わりまで誰かに様子を確認され続ける生活も、嫌だった。
それなのに、ここを離れることが怖かった。
この病院は、母が最後に生きていた場所だったからだ。
この建物のどこかで、高橋美咲は最後の言葉を口にした。
そして一度ここを離れれば、あの瞬間に戻る理由は、もうなくなってしまう。
陽翔は唾を飲み込んだ。
「……うん」
車椅子へ目を向けた。
「準備できたよ」
通りの突き当たりにある家
高橋家の住宅は、東京都西部の静かな住宅街に建っていた。
クリーム色の外壁を持つ、こぢんまりとした二階建ての家だった。細い駐車スペースがあり、低い木製の柵で囲まれた小さな庭がある。玄関にはいくつかの鉢植えが飾られ、建物の脇には自転車が立てかけられていた。
由紀と大地がこの家を所有するようになってから、もう十五年近くが経っていた。
結婚して間もなく購入した家で、当時の二人は、親戚が集まる休日や週末のバーベキュー、そしていつか自分たちの子供ができるかもしれない未来を思い描いていた。
しかし、人生は別の方向へ進んでいった。
二階の寝室はほとんど使われないままとなり、食堂には書類や季節の飾り、大地が集めた工具などが少しずつ置かれるようになっていた。
そして今、何年ぶりかに、この家は新しい住人を迎えようとしていた。
残念ながら、もともと陽翔が暮らすことを想定した造りにはなっていなかった。
玄関には二段の段差があった。
浴室は狭かった。
電動車椅子では通りにくい出入口もいくつかあった。
そして、由紀が陽翔の寝室として選んだ一階の部屋は、以前は大地の書斎だった。
この一週間、夫妻は住宅のバリアフリー改修業者や退院支援チームと協力し、差し迫った問題に対応してきた。
玄関には、恒久的な改修が終わるまでの仮設スロープが設置された。
一階の家具は整理され、不要なものが運び出された。
適切なベッドも搬入された。
浴室の利用や身体介助に必要な機器についても手配が進められていたが、まだ終わっていない改修もあった。
すべては、まだ準備の途中だった。
大地が特に誇りに思っていたのは、玄関のスロープだった。
移送車での道中、彼はその話を十二回ほどしていた。
「きっと気に入るぞ」
陽翔は車の窓から外を眺めた。
「スロープを?」
「ああ」
「大地叔父さん、ただのスロープだよ」
「すごくいいスロープなんだ」
「何か芸でもするの?」
大地は笑った。
「まあ、見ればわかる」
ようやく車が家の前に停まると、陽翔は玄関を観察した。
スロープは頑丈そうで、傾斜も緩やかだった。端には適切な転落防止の措置が施されている。
専門業者が設置したもののようだった。
それは安心できる材料だった。
大地は車から降り、移送スタッフが陽翔の車椅子を降ろす準備をしている間に、車の側面へ回った。
「ほら、どうだ?」
誇らしげに手を広げた。
陽翔はスロープを眺めた。
「うわあ」
大地は満面の笑みを浮かべた。
「だろ?」
「間違いなくスロープだね」
由紀が笑った。
「もう、からかわないの」
陽翔は微笑んだ。
スタッフの介助を受けて安全に車から降りると、陽翔は自分で電動車椅子を操作し、玄関へ向かった。
スロープの下で、一度立ち止まった。
家は見慣れないものに感じられた。
嫌な感じではなかった。
ただ、馴染みがないのだ。
もちろん、以前にも訪れたことはある。
誕生日会。
正月の集まり。
ときどき開かれる家族の食事会。
しかし、数時間訪れることと、そこで生活することはまったく違う。
陽翔は由紀を見た。
「じゃあ……」
由紀は微笑んだ。
「おかえりなさい」
その言葉は、思いがけず陽翔の胸に響いた。
おかえり。
彼は玄関のドアを見つめた。
その向こうで母が待っているわけではない。
キッチンから聞き慣れた声が呼びかけてくることもない。
車椅子のタイヤが泥だらけだと文句を言われることもない。
夕飯に何を食べるかで、ふざけながら言い合うこともない。
陽翔は無理に笑顔を作った。
「……ありがとう」
そして、スロープを上っていった。
愛情を込めて用意された部屋
由紀は三日間かけて、陽翔の新しい寝室を整えていた。
淡い青色のカーテンを選び、本を何冊か棚に並べ、ベッドの向かいには小さなテレビを置いた。
ベッドサイドのテーブルにはランプと時計、そして美咲の写真を入れた額縁が飾られていた。
部屋には、新しい家具と塗料の匂いがかすかに漂っていた。
陽翔はゆっくりと中へ入った。
車椅子は広げられた出入口を、十分な余裕を持って通り抜けることができた。
ひとまず安心だった。
彼は部屋を見回した。
ベッドは壁際に置かれ、必要な介助機器を設置できるスペースが確保されていた。
持ち物は低い収納棚に収められている。
窓の近くには、小さな机が置かれていた。
由紀は不安そうに陽翔の反応を見守っていた。
「……どう?」
陽翔は部屋をじっくり眺めた。
「いい部屋だね」
由紀の顔が明るくなった。
「本当?」
「うん」
彼女は両手を合わせた。
「ああ、よかった!」
大地が二人の後ろから入ってきた。
「俺も手伝ったんだぞ」
陽翔は叔父を見た。
「何を?」
「カーテンだ」
由紀は夫をちらりと見た。
「脚立を押さえてただけでしょ」
「非常に重要な役割だ」
陽翔は神妙にうなずいた。
「まさに英雄だね」
大地はにやりと笑った。
「ありがとう」
由紀は呆れたように目を回した。
陽翔は窓へ近づいた。
外には細い道路と隣家の庭、それから桜の木の上の枝が見えた。
なかなかいい眺めだった。
以前の寝室の窓から見えるのは駐車場だった。
母は、見える景色といえば延々と続く配送トラックの行列だけだと、よく文句を言っていた。
陽翔はいつも、トラックだって面白いと反論していた。
母には、どうしようもない子ね、と言われたものだ。
陽翔はかすかに笑った。
しかし、視線がベッドの横の写真に戻ると、その笑みは薄れた。
美咲が微笑んでいた。
葬儀で使われたのと同じ写真だった。
陽翔は目をそらした。
由紀がそれに気づいた。
「お母さんの写真、ここに置きたいと思って」
陽翔はうなずいた。
「うん」
「つらかったら、別の場所に移すけど……」
「いいよ」
彼はもう一度写真を見た。
「そのままにして」
由紀は優しく微笑んだ。
「わかったわ」
大地がベッドへ近づいた。
「マットレスは昨日届いたんだ。使い方も教えてもらったぞ」
陽翔は機器を確認した。
「試してみた?」
「もちろん」
「どうやって?」
大地は少しためらった。
「……俺が寝てみた」
陽翔はじっと見つめた。
由紀が口元を手で覆った。
叔父は肩をすくめた。
「何だ?」
陽翔はため息をついた。
「いや、別に」
大地は不思議そうな顔をした。
「駄目だったのか?」
陽翔は笑い出した。
「ううん、いいと思う。ただ、その光景を見たかったなって」
由紀も笑い始めた。
数分間、部屋は笑い声に包まれた。
まるで、いつもの日常のようだった。
ほとんど。
知っていることと理解していることの違い
最初の本格的な問題が起きたのは、昼食前だった。
陽翔は休息と身体介助のために、車椅子からベッドへ移る必要があった。
家族は、最初の移乗に訓練を受けた介助職員が立ち会い、陽翔のケア計画と指定された機器に従って、由紀と大地に手順を教えてもらえるよう手配していた。
午前十一時を少し過ぎたころ、遠藤幸子という穏やかな女性がやって来た。
彼女はまず陽翔に挨拶した。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます」
「体調はいかがですか?」
「疲れてます」
「長い午前中でしたか?」
「ものすごく」
幸子は微笑んだ。
「それでは、楽な姿勢になりましょうね」
陽翔は、自分が楽だと感じる姿勢や、介助の際に特に注意してほしい点について説明した。
幸子は丁寧に耳を傾けた。
由紀はノートを持ってそばに立っていた。
大地は機器の動きを見守っていた。
移乗の間、幸子は一つひとつの判断に陽翔本人の意思を反映させながら、手順を指示し、親戚の二人にも説明していった。
すべては順調に進んだ。
陽翔は必要な支持具を使ってベッドに寝かされ、楽な姿勢に整えられた。
彼は息を吐いた。
「ああ、ずっと楽になった」
幸子は微笑んだ。
「よかったです」
由紀はほっとした様子だった。
「思っていたほど難しくなさそうね」
陽翔は顔を向けた。
「由紀叔母さん」
「なあに?」
「お願いだから、それ言わないで」
由紀は目をぱちくりさせた。
「どうして?」
「そういう台詞から、だいたい全部の惨事が始まるんだよ」
大地が笑った。
幸子も控えめに微笑んだ。
それから彼女は、ケア計画の確認を続けた。
安全な介助には、いくつかの手順を順番どおり覚える以上のことが必要だと説明した。陽翔の快適さ、疲労、皮膚の保護、姿勢、機器の使用方法などを考慮しなければならず、親戚が独力で介助を行う前には、指導者の監督の下で練習する必要があった。
由紀はうなずいた。
大地はいくつか質問をした。
陽翔は、それをありがたく思った。
少なくとも今は、二人とも自己流で何とかしようとするのではなく、学ぼうとしてくれている。
残念ながら、その教訓は期待したほど長続きしなかった。
幸子が帰ったあと、由紀は陽翔の肩の後ろにある枕を並べ直そうとした。
陽翔がテレビを見ていると、彼女が近づいてきた。
「陽翔、ちょっと苦しそうに見えるわ」
「大丈夫だよ」
「頭が傾いてない?」
「平気」
「ちょっと直すわね」
由紀は枕に手を伸ばした。
「由紀叔母さん――」
彼女は枕を動かした。
陽翔の頭が不自然な方向へずれた。
顔をしかめた。
「痛っ」
由紀はすぐに手を止めた。
「あっ! 痛かった?」
「ちょっとね」
「ごめんなさい!」
「大丈夫。元に戻して」
由紀は戻そうとした。
しかし、枕は反対方向へ動いてしまった。
陽翔は顔をしかめた。
「違う、逆」
「こっち?」
「違う」
「こう?」
「由紀叔母さん」
彼女は動きを止めた。
陽翔は息を吸った。
「お願いだから、俺の話を聞いて」
由紀は一歩下がった。
陽翔は彼女を見た。
「どういう姿勢が必要なのかは、俺がわかってるから」
「もちろん、そうよね」
「だったら、説明させて」
由紀は手を下ろした。
「わかったわ」
陽翔は、どこをどう調整してほしいかを説明した。
由紀は一つ動かすたびに確認しながら、慎重に指示に従った。
やがて、陽翔は楽な姿勢に落ち着いた。
「そこ」
由紀は安心したようだった。
「よくなった?」
「ずっとね」
由紀は微笑んだ。
「よかった」
陽翔は叔母をちらりと見た。
「ほら、慌てる必要なんてないでしょ?」
由紀は力なく笑った。
「覚えておくようにするわ」
陽翔は彼女のノートを見た。
「書いておいたら?」
岐路に立つ仕事人生
同じころ、東京の別の場所では、水野葵が病院の職員休憩室に座り、半分ほど食べたコンビニのサンドイッチを見つめていた。
その日の勤務は、珍しいほど静かだった。
救急医療の現場では、そういうときに限って、とんでもない事態がすぐそこまで迫っていることが多い。
葵は、平穏な午後を信用してはいけないと学んでいた。
それでも、座って休める時間があるのはありがたかった。
昼食の横にはスマートフォンが置かれていた。
画面には、訪問看護ステーションから届いたメールが開かれている。
件名:応募および面接についてのご案内
葵は前日の夕方、応募書類を提出していた。
返事が来るまで数日はかかるだろうと思っていた。
ところが今朝、森山千里から連絡があり、正式な面接と採用の可能性について話し合いたいという案内を受けたのだ。
葵はもう一度メールを読み返した。
そしてため息をついた。
「……私、何やってるんだろう」
「サンドイッチに話しかけてるの?」
葵は顔を上げた。
同僚の看護師、小林恵美がペットボトルのお茶を持って入口に立っていた。
葵は微笑んだ。
「人生の選択について考えてるところ」
恵美は中へ入ってきた。
「危険なことしてるね」
「自分でもそう思う」
恵美は向かい側に座った。
「どうしたの?」
葵は少しためらった。
それからスマートフォンを相手に向けた。
恵美はメールを読んだ。
「あら」
顔を上げた。
「別のところに応募してるの?」
「まあ、そんなところ」
「訪問看護?」
「うん」
恵美は椅子の背にもたれた。
「大きな変化だね」
葵はうなずいた。
「そうなの」
「ここが嫌になった?」
葵はその質問について考えた。
病院そのものが嫌いなわけではなかった。
大好きな同僚たちがいた。忘れられない患者たちがいた。自分が誰かの役に立てたと心から感じられる瞬間もあった。
けれど最近は、仕事とそれ以外の問題が複雑に絡み合っていた。
疲労。
不規則な勤務時間。
拓海に対する絶え間ない不安。
そして何年もの間、自分自身のことを後回しにして、他人の必要に合わせて生活を組み立ててきたという気づき。
「……いろいろ複雑なの」と葵は認めた。
恵美はうなずいた。
「たいてい、そういうものよね」
葵はサンドイッチを見下ろした。
「何か違うことをしてみたいのかもしれない」
「だったら、調べてみたらいいじゃない」
葵は顔を上げた。
「そんな簡単に?」
恵美は肩をすくめた。
「自分の望むものが変わったって、別にいいんだから」
葵はかすかに微笑んだ。
「意外と深いこと言うね」
「誰にも言わないでよ」
二人は笑った。
恵美はお茶を一口飲んだ。
「看護師長には話した?」
「まだ」
「何か決める前には相談したほうがいいと思うよ」
「うん、わかってる」
葵は再びメールを見た。
病院の外で働く生活がどんなものなのか、すでに想像し始めていた。
患者の自宅を訪問すること。
それぞれの生活習慣を知ること。
本人が望む暮らしから切り離すことなく、複雑な健康上の問題に対処できるよう支援すること。
やりがいがありそうだった。
同時に、気後れするほど大変そうでもあった。
訪問看護には、病院とは異なる責任や専門的な課題があることを、葵は理解していた。事業所の手順、機器の扱い、緊急時の対応計画、患者や家族と密接に関わるうえでの職業的な境界線など、学ぶべきことは多かった。
それでも、心を惹かれた。
おそらく、自分の家で安心して暮らせることが、人にとってどれほど大切なのかを、少しずつ理解し始めていたからだろう。
スマートフォンが振動した。
一瞬、胃がきゅっと縮んだ。
画面を確認する。
美香だった。
『仕事どう?』
葵はほっとした。
『静かだよ』
『怪しいね』
『まさにそれ』
続けて、もう一通届いた。
『訪問看護のところから何か連絡あった?』
葵は微笑んだ。
『面接に呼ばれた』
返信はほとんど一瞬で届いた。
『水野葵! 未来の訪問看護界のレジェンド!!!』
葵は吹き出した。
恵美が顔を上げた。
「どうしたの?」
葵は首を振った。
「何でもない」
彼女は返信を打った。
『お願いだから二度とそう呼ばないで』
美香からは、お祝いの絵文字が六つ送られてきた。
葵はため息をついた。
変わらないものもあるらしい。
三人の夕食
午後六時までに、由紀は夕食を用意していた。
彼女はその献立を、特に誇らしく思っていた。
ご飯。
味噌汁。
焼き鮭。
蒸し野菜。
そして冷蔵庫には、陽翔の大好物のプリンが小さな器に入って待っていた。
由紀は午後のほとんどを料理に費やし、陽翔がここで迎える最初の夜を、できる限り心地よいものにしようと張り切っていた。
陽翔は電動車椅子に座ったまま、食卓についていた。
向かいには大地が座っている。
由紀が料理を載せたお盆を持ってキッチンから出てきた。
「お待たせ!」
陽翔は料理を見た。
「おお」
由紀は微笑んだ。
「おいしそう?」
「うん」
彼女は皿をテーブルに並べた。
「何が好きなのかわからなかったから、叔父さんに聞いたのよ」
陽翔は大地をちらりと見た。
叔父は親指を立ててみせた。
陽翔は鮭を眺めた。
「俺が魚嫌いだって伝えた?」
大地は固まった。
由紀の笑顔も消えた。
「えっ?」
陽翔は二人をじっと見つめた。
そしてにやりと笑った。
「冗談」
大地はうめいた。
由紀は胸に手を当てた。
「もう、陽翔!」
彼は笑った。
「ごめん、ごめん」
「心臓が止まるかと思ったわ」
「それなら、知り合いに看護師がいてよかったね」
由紀は首を振った。
大地はくすくす笑った。
しばらくの間、食卓には和やかな空気が流れていた。
しかし、由紀が陽翔の隣に座り、食器を手に取ったところで、その空気が少し変わった。
「さあ、食べましょう」
陽翔は叔母を見た。
「待って」
由紀は手を止めた。
「なあに?」
「先に鮭を小さく切ってくれる?」
「あっ、もちろん!」
由紀は鮭に手を伸ばした。
「それから、ご飯と少し混ぜて」
「わかったわ」
「混ぜすぎないでね」
由紀はうなずいた。
料理を準備し始める。
陽翔はその様子を見ていた。
「そのくらいでいいよ」
由紀は混ぜ続けた。
「由紀叔母さん」
「なあに?」
「もういいよ」
ようやく手が止まった。
「あっ、ごめんなさい」
陽翔は小さくため息をついた。
怒っているわけではなかった。
少なくとも、まだ。
ただ、今日は朝からずっと、こうした小さな出来事が続いていた。
何度も繰り返さなければならない指示。
見落とされる好み。
勝手に決められてしまうこと。
一つひとつは、たいしたことではないように思える。
けれど、それが積み重なると、ひどく疲れるのだ。
由紀がご飯をスプーンにすくい、陽翔の口元へ運んだ。
陽翔はそれを見た。
「ちょっと多い」
由紀はスプーンを下ろした。
「ごめんなさい」
少し量を減らした。
「これくらい?」
「うん」
陽翔は一口食べた。
由紀は微笑んだ。
「よかった」
大地も食事を始めた。
数分が過ぎた。
由紀が次の一口を差し出した。
陽翔は少し顔をそらした。
「待って」
由紀は手を止めた。
「どうしたの?」
「まだ噛み終わってない」
「あっ」
彼女はスプーンを下ろした。
陽翔は飲み込んだ。
「もういいよ」
由紀は再びスプーンを持ち上げた。
陽翔は食べた。
すると、彼女はすぐに次の一口を準備し始めた。
陽翔はその様子を見ていた。
「由紀叔母さん」
「なあに?」
「もう少しゆっくりにしてくれる?」
由紀は驚いたようだった。
「速すぎる?」
「ちょっとね」
「あら、ごめんなさい」
陽翔はため息をついた。
「大丈夫」
由紀はスプーンを下ろした。
「冷めないうちに食べてほしくて」
陽翔は彼女を見た。
「わかってるよ」
由紀は微笑んだ。
「そう」
そして少し間を置いてから、付け加えた。
「お味噌汁も飲む?」
陽翔は目を閉じた。
大地が顔を上げた。
「どうかしたか?」
陽翔は目を開けた。
「ううん」
叔母に目を向けた。
「一つ終わってから、次のことを考えてもいい?」
由紀は傷ついたような顔をした。
「ただ聞いただけじゃない」
「わかってる」
「そんなに嫌そうに言わなくてもいいでしょう?」
陽翔は彼女を見つめた。
嫌そうに言ったつもりはなかった。
しかし、今は本当に嫌な気分になっていた。
「別に怒ってないよ」
由紀は目をそらした。
「そう」
大地が咳払いした。
「まあ、せっかくだから楽しく食べよう」
陽翔は自分の皿を見下ろした。
料理はとてもいい匂いがした。
お腹も空いていた。
それなのに、なぜかもう食事が終わってほしかった。
彼を支えきれなかった優しさ
言い争いが始まったのは、午後八時半だった。
大げさな喧嘩ではなかった。
最初から怒鳴り声が飛び交ったわけでもない。
ドアを乱暴に閉める音もなかった。
誰かを責め立てる言葉もなかった。
きっかけは、枕だった。
夕食後、陽翔は寝室に戻り、夜の身支度を進めていた。
予定されていた介助職員が専門的な支援を必要とする作業を手伝い、由紀と大地はケア計画に従って、残りの就寝準備を手伝っていた。
陽翔は疲れていた。
肩が痛んでいた。
一日中、慣れない姿勢で過ごしたことで身体に負担が蓄積し、不快感が増していた。
横になりたかった。
テレビを少し見たかった。
そして眠りたかった。
ところが由紀は、寝具を並べ直していた。
またしても。
「この枕、ちょっと低すぎない?」
「大丈夫だよ」
「別の枕にしたほうがいいかしら」
「由紀叔母さん、これでいいって」
「でも、首が――」
「首は大丈夫」
由紀は枕に手を伸ばした。
陽翔はため息をついた。
「お願い、触らないで」
由紀は手を止めた。
「手伝おうと思っただけなのに」
「わかってる」
「じゃあ、どうして怒るの?」
陽翔は叔母を見た。
「俺がどうしてほしいか何度も言ってるのに、叔母さんが勝手に別のほうがいいって決めるからだよ」
由紀は眉をひそめた。
「勝手に決めてなんかいないわ」
「決めてるよ」
そこへ大地が部屋に入ってきた。
「どうしたんだ?」
「何でもないわ」と由紀が答えた。
陽翔は叔父を見た。
「また俺の姿勢を変えようとしてるんだ」
大地は枕に目を向けた。
「まあ、もっと楽になると思ったんじゃないか?」
陽翔はじっと見つめた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「楽かどうかは、俺がわかるんだけど」
「もちろんだ」
「じゃあ、なんでこんな話になってるの?」
大地は返事に詰まった。
由紀は腕を組んだ。
「陽翔、私たちだって一生懸命やってるのよ」
陽翔は彼女を見た。
「わかってる」
「何日もかけて、この部屋を準備したの」
「わかってる」
「家の家具を動かして、機器を手配して、あなたが少しでも快適に過ごせるようにって――」
「わかってるよ!」
声が大きくなった。
大人二人は黙り込んだ。
陽翔はすぐに、怒鳴ってしまったことを後悔した。
けれど、一日中積もり続けていた苛立ちが、とうとうあふれてしまったのだ。
彼は目をそらした。
「……ごめん」
由紀の表情が和らいだ。
「陽翔……」
彼は首を横に振った。
「違う。ただ……」
唾を飲み込んだ。
「お願いだから、聞いて」
大地は椅子を近づけた。
「わかった」
陽翔は二人を交互に見た。
「二人が俺を助けようとしてくれてるのは、わかってる」
由紀はうなずいた。
「それには感謝してる」
陽翔は息を吸った。
「でも、一つ理解してほしいことがあるんだ」
声が少し震えた。
「これは、俺の身体なんだよ」
部屋は静かになった。
「俺は二十二年間、この身体で生きてきた。どこが痛いのかも、いつ不快なのかも、どんな姿勢が必要なのかも、俺が知ってる」
陽翔は由紀を見た。
「だから、何か違うって言ったときは、俺の言うことを信じてほしい」
由紀は目を伏せた。
陽翔は続けた。
「ただでさえ、いろんなことに人の助けが必要なんだ。枕の位置が気に入らないからって、自分で起き上がって直したり、好きなときに身体の向きを変えたりできない」
目に涙が浮かんだ。
「だから、何かを頼むときは、本当に必要だから頼んでるんだよ」
大地はうつむいた。
陽翔は唾を飲み込んだ。
「自分が楽かどうかをわかってるかなんてことで、これから一生、言い争いたくない」
由紀は口元に手を当てた。
「陽翔……」
彼は目をそらした。
「それに、助けを頼むたびに、面倒な人間だって思いたくないんだ」
沈黙が部屋に降りた。
由紀はゆっくりとベッドの横に座った。
「……ごめんなさい」
陽翔は彼女をちらりと見た。
由紀は涙を拭った。
「そんなことをしてるなんて、気づかなかった」
陽翔はうなずいた。
「わかってる」
「ただ、全部完璧にしてあげたかったの」
陽翔は弱々しく笑った。
「それが最初の間違いだね」
由紀は涙を浮かべながら微笑んだ。
陽翔は天井を見た。
「何もかも完璧になんて、ならないよ」
大地がうなずいた。
「そのとおりだ」
陽翔は叔父を見た。
大地は続けた。
「俺たちはまだ勉強中なんだ。でも、何も問題が起きないようにすることばかり考えて、お前の話をちゃんと聞けてなかった」
陽翔はその言葉を考えた。
そしてうなずいた。
「うん」
大地は身を乗り出した。
「じゃあ、約束しよう」
陽翔は眉を上げた。
「また約束?」
「ああ」
「いくつ約束するつもりなの?」
「必要なだけだ」
陽翔はかすかに微笑んだ。
大地は続けた。
「何をどうしてほしいかお前が説明したら、ちゃんと聞く」
由紀もうなずいた。
「それから、安全に手伝う方法がわからないときは、勝手に判断せずに専門の人に相談するわ」
陽翔は息を吐いた。
「ありがとう」
由紀はそっと彼の手に触れた。
「あなたは面倒なことなんて言ってないわ」
陽翔は彼女を見た。
「たまには言うよ」
由紀は笑った。
「まあ、それは……」
陽翔はにやりと笑った。
「ほら、正直でしょ」
大地もくすくす笑った。
張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいった。
しかし、冗談を交わしながらも、三人は問題が消えたわけではないことを理解していた。
互いに愛情を持っていた。
一緒に暮らしていきたいと思っていた。
けれど、陽翔がどれほど多くの介助を必要とし、その責任がどれほど大きなものになるのか、まだ理解し始めたばかりだった。
善意があったからこそ、ここまで来ることができた。
しかし、この先へ進むためには、それ以上のものが必要だった。
勤務の合間に訪れる静寂
葵の勤務が終わったのは、午後十時を少し過ぎたころだった。
制服から私服に着替え、荷物をまとめると、彼女は涼しい夜の空気の中へ出た。
病院の入口は明るく照らされていた。
道路脇には何台かのタクシーが停まっている。
数人の見舞客が駐車場へ急ぎ、年配の夫婦が屋根の下で、どの電車に乗ればいいのか相談していた。
葵は入口の近くで立ち止まった。
周囲を見回した。
拓海の姿はない。
スマートフォンを確認した。
彼からの新しいメッセージもなかった。
本来なら、安心できるはずだった。
ところが、かえって落ち着かなかった。
沈黙が必ずしも安全を意味するわけではないと、彼女は学んでいた。
ときには、ただ何かが起こるのを待っているだけなのだ。
葵はスマートフォンを取り出し、美香に電話をかけた。
友人はほとんどすぐに出た。
『もしもし、未来の訪問看護界のレジェンド!』
葵はため息をついた。
「お願いだから、その呼び方やめて」
『絶対やだ』
「今、仕事終わったところ」
『そっか。駅まで迎えに行こうか?』
葵は少し考えた。
「……うん」
『今から行くね』
「ありがとう」
通話を終えた。
それから訪問看護ステーションからのメールを開いた。
面接は翌週に予定されていた。
仮に採用を提示されたとしても、受けるかどうかはまだ決めていない。
考えなければならない現実的な問題があった。
給料。
勤務時間。
研修。
専門職としての責任。
そして、大人になってからの人生の多くを過ごしてきた部署を、本当に離れる準備ができているのかということ。
けれど、変化の可能性は、以前ほど恐ろしいものではなくなっていた。
葵は病院を見た。
建物のどこかでは、看護師たちが夜勤を始めている。
医師たちはカルテを確認している。
患者たちは眠ろうとしている。
窓の向こうでは、いつもと同じように生活が続いていた。
葵はふと、陽翔がまだ入院しているのだろうかと考えた。
それから、退院の準備を進めていたことを思い出した。
もう家に帰ったのかもしれない。
葵はかすかに微笑んだ。
「……元気にしてるといいな」
スマートフォンをバッグにしまい、駅へ向かった。
家の匂いがしない寝室
陽翔は眠れなかった。
ベッドサイドのデジタル時計は、午前零時四十七分を示していた。
もう二時間近く、由紀と大地の家から聞こえてくる、聞き慣れない音に耳を澄ませながら横になっていた。
寝室の向こうから、冷蔵庫の低いうなりが聞こえる。
外の道路を車が一台通り過ぎた。
気温の変化に合わせて、木造の家がときおりきしむ。
二階からは、大地が動き回るかすかな音が聞こえていた。
どれも、特別大きな音ではなかった。
ただ、違うのだ。
以前のマンションでは、陽翔はすべての音を知っていた。
風が強くなったときに鳴るキッチンの窓。
廊下のエレベーターのモーター音。
隣人のテレビ。
母の足音。
特に、母の足音は。
廊下を歩いてくると、いつもすぐにわかった。
母は歩くのが速く、スリッパが床をこする独特の音を立てていた。
ときには寝室の前で立ち止まり、ノックをした。
別の日には、そのまま名前を呼んできた。
『陽翔!』
『何?』
『お腹空いてない?』
『空いてない!』
『でも、ご飯作るからね!』
陽翔はかすかに微笑んだ。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
今夜、あの足音が聞こえることはない。
聞き慣れた声もない。
夜更かししすぎだと文句を言う人もいない。
陽翔はベッドの横の写真に目を向けた。
部屋は暗く、時計の淡い光だけが灯っていた。
母の顔は、かろうじて見える程度だった。
喉が締めつけられた。
「……母さん」
止める間もなく、言葉がこぼれた。
陽翔は写真を見つめた。
「ここ、好きじゃないよ」
暗闇の中で、自分の声が小さく響いた。
唾を飲み込んだ。
「悪いところじゃないんだ」
天井へ目を向けた。
「二人とも優しいし」
涙が一筋、頬を伝った。
「すごく頑張ってくれてる」
少し間を置いた。
「でも……家じゃないんだよ」
沈黙が、さらに深くなったように感じられた。
陽翔は目を閉じた。
一日中、物分かりのいい人間であろうとしてきた。
親戚がしてくれたことを、きちんとありがたいと思おうとしてきた。
二人に、自分たちは力不足なのだと感じさせないようにしてきた。
しかし今、見知らぬ寝室で一人になってしまうと、もう取り繕うことはできなかった。
自分のマンションに帰りたかった。
いつものベッドが恋しかった。
慣れ親しんだ生活が恋しかった。
母に会いたかった。
キッチンから笑い声が聞こえてほしかった。
テレビ番組のことで言い合いたかった。
夕飯に文句を言って、だったらもう作ってあげないと脅されてみたかった。
もう一日だけ、何でもない日常がほしかった。
たった一日でいい。
陽翔は泣き始めた。
最初は、声を抑えようとした。
しかし、涙は次第に激しくなった。
胸が締めつけられ、呼吸を落ち着かせるのに苦労した。
顔を拭きたかった。
写真から顔を背けたかった。
毛布を頭までかぶって、そのまま消えてしまいたかった。
けれど、身体が思うように動かなかった。
陽翔は悲しみと疲労に押し潰されながら、誰かの助けなしには楽な姿勢に変えることもできず、ただ横たわっていた。
数分後、彼は声を出した。
「……大地叔父さん?」
返事はなかった。
しばらく待った。
そしてもう一度呼んだ。
「大地叔父さん?」
二階から足音が聞こえた。
ドアが開く音がした。
ほどなくして、大地が廊下に現れた。
「陽翔?」
古いTシャツとパジャマのズボンを身につけたまま、寝室へ入ってきた。
「どうした?」
陽翔は何とか気持ちを落ち着かせようとした。
「……ごめん」
大地は近づいた。
「おい、何があったんだ?」
陽翔はベッドサイドのテーブルへ目を向けた。
「ちょっと取ってほしいものがあるんだけど」
「もちろん」
「俺のバッグ」
大地は収納棚を見た。
「青いやつか?」
「うん」
彼はバッグを取ってきた。
「何が必要なんだ?」
「中に手紙がある」
大地は一瞬動きを止めた。
それからうなずいた。
美咲の最後の手紙が入った透明な書類用スリーブを、慎重に取り出した。
陽翔はそれを見た。
「読んでくれる?」
大地はベッドの横に椅子を引き寄せた。
「ああ」
便箋を広げた。
しかし、少しためらった。
「全部読むか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
大地は読み始めた。
いつもより静かな声だった。
手紙には、美咲の願いが綴られていた。
感謝が。
愛情が。
そして、自分が残していく家族への信頼が。
陽翔は一度も口を挟まずに聞いていた。
大地が陽翔の自立について書かれた部分に差しかかると、声が揺らいだ。
「陽翔が何を望んでいるのか、本人に聞いてください。そして、あの子が答えたら、ちゃんと耳を傾けてください」
彼は言葉を止めた。
陽翔は叔父を見た。
「続けて」
大地はうなずいた。
最後まで読み終えた。
それから丁寧に手紙を折りたたんだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて陽翔がささやいた。
「……母さん、わかってたんだ」
大地は顔を上げた。
「何がだ?」
「こうなるってこと」
叔父は少し考えた。
「こうなる可能性があることは、わかってたんだろうな」
陽翔は天井を見つめた。
「俺のこと、心配してたんだ」
「もちろんだよ」
「それが嫌なんだ」
大地は眉をひそめた。
「どうして?」
「だって、母さんは死にかけてたんだよ」
声が震えた。
「病気だったのは母さんなのに。誰かに世話をしてもらわなきゃいけなかったのは、母さんだったのに」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「それでも、俺の心配をしてたんだ」
大地は目を伏せた。
陽翔は続けた。
「俺だって、母さんを助けたかった」
「助けてたよ」
「違う」
声がかすれた。
「足りなかった」
大地は身を乗り出した。
「陽翔……」
「母さんを元気にできなかった」
目に涙が浮かんだ。
「何も止められなかった」
大地はしばらく黙っていた。
それから優しく言った。
「お前が止めなきゃいけないことじゃなかったんだよ」
陽翔は叔父を見た。
「美咲は癌だった。お前が治せる病気じゃなかったんだ」
陽翔は目を閉じた。
「……わかってる」
「でも、お前はそばにいてやれた」
大地は少し間を置いた。
「あいつは、いつもお前の話をしてたよ」
陽翔は目を開けた。
「本当に?」
大地はかすかに微笑んだ。
「ああ、しょっちゅうな」
「何て言ってた?」
「だいたい、口の達者な小さな問題児だって」
陽翔は弱々しく笑った。
「間違ってないね」
大地も笑った。
「でも、お前のことをどれだけ誇りに思ってるかも、よく話してた」
陽翔は目を伏せた。
「……そうなの?」
「ああ」
叔父は椅子の背にもたれた。
「お前は自分で思ってるより、ずっと強いって言ってたよ」
陽翔は叔父を見つめた。
大地は微笑んだ。
「もっとも、部屋の片づけが壊滅的に下手だとも言ってたけどな」
陽翔は涙を流しながら笑った。
「あの人、本当に何でも覚えてるんだから」
「ああ、そうだったな」
二人はしばらく静かに座っていた。
やがて陽翔は叔父を見た。
「一つ聞いてもいい?」
「何でも聞け」
陽翔はためらった。
「……後悔してる?」
大地は眉をひそめた。
「何をだ?」
「俺を家に住ませること」
叔父は目を見開いた。
「何だって?」
陽翔は目をそらした。
「大変なのはわかってる」
「陽翔――」
「叔父さんも由紀叔母さんも、こんなことになるなんて思ってなかったでしょ」
大地は黙っていた。
陽翔は続けた。
「二人とも仕事があるし、自分たちの生活だってある。それなのに、今は……」
唾を飲み込んだ。
「今は、俺がいる」
叔父の表情が変わった。
陽翔は毛布を見つめた。
「ベッドから起きるのも、着替えるのも、ご飯を食べるのも、トイレに行くのも、ほとんど全部、手伝ってもらわなきゃいけない」
声が小さくなった。
「それに、明日になったら急に変わるってわけでもないし」
大地は耳を傾けていた。
「……俺のこと、嫌いになってほしくない」
その言葉が、二人の間に残った。
大地は甥を見つめた。
それから身を乗り出した。
「陽翔」
陽翔が自分を見るまで待った。
「俺たちは、お前を嫌ってなんかいない」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「……わかってる」
「うちに来てほしいと言ったことも、後悔してない」
叔父は少し間を置いた。
「でも、俺たちは一つ間違えたと思う」
陽翔は眉をひそめた。
「何を?」
「何でもすぐに覚えられると思ってたんだ」
大地はベッドの横の介助機器を見た。
「何回か説明を聞いて、家を少し改修して、そうすれば何とか専門家みたいになれると思ってた」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「動画四本でね」
大地は笑った。
「非常に勉強になる四本だったぞ」
しかし、すぐに真剣な表情へ戻った。
「でも、今日一日で、自分たちがどれほど知らないか思い知らされた」
陽翔はうつむいた。
大地は続けた。
「それは、お前のせいじゃない」
さらに身を寄せた。
「それに、お前が負担だってことでもない」
陽翔の目に涙が浮かんだ。
「……でも、そう感じるんだ」
「そうだろうな」
大地は少し間を置いた。
「でもな、助けが必要だからって、助ける側の人間より価値が低くなるわけじゃないんだ」
陽翔は叔父を見た。
大地は続けた。
「俺たちは家族だ。お前にここにいてほしいと思ってる」
ため息をついた。
「ただ、助けたいと思うことと、どう助ければいいか知っていることは、別なんだよ」
陽翔はゆっくりとうなずいた。
「……うん」
大地はドアのほうを見た。
「由紀と俺で、もっといい体制を考えないとな」
「どんな?」
「専門の人に、もっと手伝ってもらうんだ」
陽翔は考えた。
「介助者ってこと?」
「そうかもしれない。お前のケアチームが何を勧めるか、どんなサービスを手配できるかによっては、看護師が必要になるかもしれないな」
陽翔は天井を見た。
「それなら助かると思う」
大地はうなずいた。
「俺もそう思う」
二人は静かに座っていた。
やがて陽翔は手紙へ目を向けた。
「大地叔父さん?」
「ん?」
「あれ、母さんの写真の横に置いてくれる?」
「ああ、いいぞ」
大地は手紙を丁寧に写真のそばへ置いた。
陽翔はその様子を見守った。
「ありがとう」
叔父は微笑んだ。
「ほかに何かあるか?」
陽翔はためらった。
「……もう少し、ここにいてくれる?」
大地の表情が優しくなった。
「もちろんだ」
彼は椅子に深く腰を下ろした。
陽翔は窓へ目を向けた。
外の通りは静かだった。
慣れない家は、相変わらず慣れない音を立てていた。
それでも、その夜初めて、部屋が少しだけ寂しくなくなったように感じられた。
真夜中を過ぎて交わした約束
大地が階下へ降りると、由紀はキッチンで待っていた。
彼女はすっかり冷めてしまったお茶を前に、テーブルに座っていた。
「陽翔は?」
大地はため息をついた。
「やっと眠ったよ」
由紀はうなずいた。
「よかった……」
彼は向かい側に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて由紀が廊下のほうを見た。
「泣いてる声が聞こえたの」
大地は目を伏せた。
「ああ」
由紀は両手を組んだ。
「どうしたらいいのかわからないわ」
大地は顔を上げた。
「どういうことだ?」
「ちゃんと準備できたと思ってたの」
彼はため息をついた。
「俺もだ」
由紀はお茶を見つめた。
「実演も見たし、介助の説明書も読んだし、リストも作った」
自嘲気味に笑った。
「山ほどリストを作ったのよ」
大地はかすかに微笑んだ。
「それなのに、今日一日の半分くらい、何もかも間違えてる気がしてた」
大地はうなずいた。
「俺も同じだ」
由紀は再び廊下へ目を向けた。
「あの子、きっとつらいでしょうね」
「つらいのは確かだろうけど、それだけじゃないと思う」
由紀は眉をひそめた。
「大地……」
「あいつは母親を亡くしたばかりなんだ」
由紀は目を伏せた。
「それに、慣れない場所での生活が始まった。時間がかかるさ」
彼女はゆっくりとうなずいた。
大地は続けた。
「でも、もう一つある」
「何?」
「もっと助けが必要だ」
由紀は顔を上げた。
大地は身を乗り出した。
「ときどき来てもらうだけじゃ足りない。支援の調整担当者と、今の体制全体を見直さないとな」
由紀はため息をついた。
「そうね」
「俺たちは二人とも仕事をしてる。いつも家にいられるわけじゃないし、家にいたとしても、訓練を受けてないことはできない」
由紀はうなずいた。
「私も、そのことを考えてたの」
大地は驚いた。
「本当に?」
由紀はノートに手を伸ばした。
ページを開くと、名前や電話番号、メモがびっしりと書かれていた。
「さっき、恵子さんに電話したの」
大地は目をぱちくりさせた。
「そうなのか?」
「ええ」
「何て言ってた?」
「陽翔が家で必要とする支援について、もう一度評価してもらって、追加のサービスを相談したほうがいいって」
大地は椅子の背にもたれた。
「それはいい考えだな」
由紀はうなずいた。
「医療的な必要性やケア計画によっては、専任の看護師に支援してもらう家庭もあるそうよ」
大地は考えた。
「個人付きの看護師か?」
「可能性としてはね」
由紀は廊下へ目を向けた。
「でも、陽翔にとって何が本当に適切なのか、ちゃんと確認しなきゃ。誰かを雇えば全部やってもらえる、なんて考えちゃ駄目よね」
大地はうなずいた。
「それに、陽翔本人にも相談しないとな」
「もちろん」
由紀はノートを閉じた。
「あの子に、私たちが陰で勝手に決めてるって思われたくないもの」
大地はかすかに微笑んだ。
「そんなことしたら、美咲に化けて出られるぞ」
由紀は笑った。
「絶対に出てくるわね」
やがて、その表情が寂しげになった。
「……美咲に会いたいわ」
大地はテーブル越しに手を伸ばし、妻の手を握った。
「俺もだよ」
二人は静かなキッチンで、しばらく寄り添っていた。
家の中は静まり返っていた。
外では街灯が、人のいない歩道を照らしていた。
由紀は陽翔の寝室のほうを見た。
「何とかしましょう」
大地はうなずいた。
「ああ。一つずつな」
明日へ向かう最初の一歩
翌朝、葵は訪問看護ステーションの事務所の前に立っていた。
クリーム色のブラウスに濃い色のスカートを合わせ、前日の夜に磨いておいた履き慣れた靴を履いている。
髪はきちんと後ろでまとめていた。
履歴書と資格関係の書類を入れたファイルを、脇に抱えていた。
葵はガラスのドアに映る自分の姿を確認した。
それから襟元を整えた。
「よし」
息を吸った。
「大丈夫。できる」
スマートフォンが振動した。
美香だった。
『頑張ってね、未来の訪問看護界のレジェンド!』
葵はため息をついた。
「あの女……」
素早く返信を打った。
『もう一回そう呼んだらブロックするから』
美香からは即座に返事が来た。
『私も大好きだよ!』
葵は笑った。
それからスマートフォンをバッグにしまい、建物の中へ入った。
受付では森山千里が出迎えてくれた。
「水野さん。お待ちしていました」
葵は頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。どうぞ、中へ」
二人は小さな会議室に入った。
千里はテーブルの上にファイルを置いた。
「応募書類を拝見しました」
葵は椅子に座った。
「ありがとうございます」
「これまでのご経験は、とても期待できるものだと思っています。今日は研修の流れや勤務時間、当事業所で担当しているケースについてお話ししたいと思います」
葵はうなずいた。
「よろしくお願いします」
千里はファイルを開いた。
「当事業所では、さまざまな医療的・生活上の支援を必要とする方々を担当しています。短時間の訪問で済む方もいれば、複数の専門職が関わる、より複雑な支援体制を必要とする方もいます」
葵は真剣に耳を傾けた。
「重度の身体障害がある成人の方を担当することについて、抵抗はありませんか?」
葵はこれまでの看護師人生で関わってきた患者たちを思い浮かべた。
そして、思いがけず陽翔のことを思い出した。
あの皮肉っぽい冗談。
自分のケアについて、自分で決めようとする強い意志。
家に帰りたいと話していたときの様子。
葵は微笑んだ。
「はい」
千里はうなずいた。
「よかったです」
そして次のページをめくった。
「それでは、具体的にどのような仕事になるのか、お話ししましょう」
窓の外では、朝の光が差し込んでいた。
そして東京の別の場所では、高橋由紀がキッチンのテーブルに座り、甥のために追加の専門的な支援を手配できないか、ケアの調整担当者へ連絡する準備をしていた。
二人の女性は、互いの名前さえ知らなかった。
自分たちの決断が、やがてつながっていくことも知らなかった。
今、陽翔には新しい家があった。
葵には、新しい仕事への可能性があった。
そして二人とも、かつて想像もしなかった人生を歩み始めていた。
ただし、葵が自ら選んだ未来へ向かって進んでいる一方で、陽翔は自分のために選ばれた未来を、まだ理解しようとしているところだった。
その違いは、やがて大きな意味を持つことになる。
特に、二人の道が再び交わるときには。




