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第7章 かつて彼女の笑い声が響いた場所に咲く花々

高橋陽翔が母の葬儀で最初に目を留めたのは、花だった。

数え切れないほどの花が飾られていた。

白い菊が祭壇を幾重にも取り囲み、繊細な花びらが葬儀場の温かな照明の下で、淡い色の庭園を作り上げていた。大きな生花の飾りにはユリが使われ、緑の葉物が添えられている。その中に、落ち着いた色合いの装飾とは対照的な黄色い花が、いくつかまとまって咲いていた。

母は、きっとこの白い菊を嫌がっただろう。

花が嫌いだったわけではない。白い花ばかり飾ると、病院の待合室みたいになると、いつも文句を言っていたからだ。

母が一番好きだったのは、黄色だった。

太陽の光や夏の午後、それから陽翔が幼いころに着ていた、あの妙ちくりんな小さなレインコートを思い出すのだと言っていた。

今、神妙な顔をした参列者たちに囲まれ、ほのかな線香の香りが漂う中で、陽翔は祭壇の中央近くに飾られた黄色い花を見つめていた。

少なくとも、誰かが覚えていてくれたらしい。

その花々の上には、高橋美咲の遺影が飾られていた。

母は笑っていた。

風に吹かれた髪が顔にかかり、午後の日差しに目を細めている。

その写真は、以前二人で公園を訪れたときに撮ったものだった。車椅子対ジョギングという、いつもの勝負で陽翔が母を負かした直後のことだ。

そのときの会話を、今でも覚えている。

『ずるいわよ!』

『何が?』

『あなたにはモーターがあるじゃない!』

『母さんには足があるでしょ』

『それとこれとは話が違うわ!』

『負けた人の言い訳にしか聞こえないけど?』

そのあと、母はトラックの半周近くまで陽翔を追いかけ回した。

陽翔の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

しかし、なぜ母の写真が祭壇の上に飾られているのかを思い出した瞬間、その笑みは消えた。

「陽翔?」

叔母の声が、彼の思考を遮った。

高橋由紀が車椅子の隣に立っていた。黒い礼服に身を包み、髪を後ろできちんとまとめている。目元は少し腫れており、式が始まる前だというのに、すでに何枚ものティッシュを使っていた。

「座り心地は大丈夫?」

陽翔は叔母を見上げた。

「うん」

「何か必要なものはある?」

「ないよ」

「本当に? 姿勢を直したほうがいいなら――」

「大丈夫だよ、由紀叔母さん」

由紀は少しためらった。

「……そう。わかったわ」

陽翔は再び祭壇へ視線を戻した。

叔母が心配してくれていることは、ありがたかった。

本当に、そう思っていた。

ただ、葬儀場に到着してから、座り心地について尋ねられたのはこれで六回目だった。

車椅子対応のタクシーから降りるときの質問も数えれば、七回になる。

そこへ、折りたたまれた式次第を手にした叔父の大地が近づいてきた。

「葬儀社の人が、あと十分くらいで始まるって言ってたよ」

由紀がうなずいた。

「わかったわ」

大地は陽翔に目を向けた。

「陽翔、調子はどうだ?」

陽翔は叔父をじっと見つめた。

大地も、自分の質問があまり適切ではなかったことに気づいたらしい。

「ああ……すまん」

「いいよ」

大地は軽く咳払いした。

「水でも飲むか?」

陽翔は目を閉じた。

八回目。

「ううん、ありがとう」

叔父はうなずき、自分の席へ戻っていった。

陽翔は静かに息を吐いた。

二人が一生懸命なのはわかっている。

おそらく、それがかえって難しくしているのだろう。

彼を支えようと努力してくれているのに、日常的な介助の必要性を、常に監視していなければならない緊急事態のように扱ってしまうのだ。

母は、そんなことをしなかった。

いつ手を貸すべきか、いつ尋ねるべきか、そしていつ放っておくべきかを知っていた。

ときには、文句ばかり言わずに自分で考えなさい、と叱られることさえあった。

それが恋しかった。

自分にも人を困らせるだけの能力がある、ごく普通の人間として扱ってもらえることが。

背後から、柔らかな声が聞こえた。

「陽翔くん?」

彼は首を動かした。

車椅子のそばに年配の女性が立っていた。その隣には、どこかで見覚えのある若い男性が付き添っている。

女性は深く頭を下げた。

「このたびは、お母様のこと、本当に残念でしたね」

陽翔もできる範囲で会釈を返した。

「ありがとうございます」

「本当に素晴らしい方でした」

彼はうなずいた。

「はい」

女性は少し身を寄せた。

「あなたがまだ小さかったころを覚えているわ。お母様、本当に一生懸命あなたのお世話をなさっていたものね」

陽翔の表情がわずかにこわばった。

「そうですね」

「本当に献身的な方だったわ。きっと、ずいぶんご苦労なさったでしょうね」

隣の若い男性が、居心地悪そうに身じろぎした。

陽翔は祭壇へ目を向けた。

「母は、僕の母親でいることを楽しんでいました」

「あら、もちろんよ! そういう意味で言ったんじゃ――」

「大丈夫です」

女性はその後もお悔やみの言葉を続け、やがて参列者の席へ向かっていった。

陽翔はその背中を見送った。

悪気がなかったことはわかっている。

たいていの人には、悪気などない。

それでも、母の人生が自分の介助の苦労だけで語られることには、もううんざりしていた。

母は、単なる介助者ではなかった。

くだらない恋愛コメディ映画が大好きで、食料品の値上がりに文句を言い、自分には園芸の才能があると言い張りながら、観葉植物を次々と枯らすという驚異的な才能を持っていた。

友達がいた。

趣味があった。

自分の意見があった。

夢があった。

そして、一人いるだけで部屋中が賑やかになるほどの個性を持っていた。

陽翔は母の遺影を見上げた。

心配しないで、母さん。

彼は唾を飲み込んだ。

みんなにちゃんと伝えるから。

残されたもの

東京の別の場所では、水野葵が自分の住むマンションの前に立ち、鍵を強く握りしめていた。

金属の縁が手のひらに食い込んでいる。

隣には藤本美香が立っていた。

「今日じゃなくてもいいんだよ?」

葵は建物の入口を見つめた。

「わかってる」

「明日でもいいし」

「わかってるって」

「来週でも――」

「美香」

「何?」

葵はため息をついた。

「着替えが必要なの」

美香は肩にかけた宿泊用バッグを見た。

「服ならあるじゃん」

「三日間ずっと美香の服を着てるんだけど」

「しかも、すっごく似合ってる」

葵は借りている大きめのスウェットを見下ろした。

そこにはナイフを持ったウサギのイラストが描かれ、その下に「私を怒らせるな」と英語で書かれていた。

「あなたのファッションセンス、本当に心配になるわ」

「どういたしまして」

葵は笑った。

しかし、再びマンションに目を向けると、その笑顔は消えた。

拓海が自分の部屋のドアを撮影していたと知って以来、葵はここへ戻っていなかった。

警察には被害を届け出ており、病院の警備担当者も、拓海が受付に現れたことを記録していた。

脅迫的なメッセージも証拠として保存してある。

もっとも、それは忘れてしまいたい会話を、消さずに残しておかなければならないということでもあった。

大家は鍵の点検と追加の防犯対策を手配することに同意してくれた。

けれど、必要な手続きを済ませたからといって、この建物が以前のように安心できる場所に戻るわけではなかった。

葵はこのマンションに、もう三年近く住んでいた。

家賃が手頃で、公共交通機関へのアクセスもよく、自分だけの居場所だと思える程度には広さがある。

そんな理由で選んだ部屋だった。

今では入口を見るだけで、近くに拓海が立っている姿を想像してしまう。

美香が肩に触れた。

「ねえ」

葵は彼女を見た。

「一緒に入るんだから」

「うん」

「もしあいつがいたら、すぐに出る」

「わかった」

「それでもし何かしてきたら――」

「何? そのバッグで殴るつもり?」

美香はバッグを持ち上げた。

「これ、四キロ近くあるんだからね」

葵は吹き出した。

「何が入ってるの?」

「必需品」

「レンガとか?」

「さあ、どうでしょうね?」

二人はマンションの中へ入った。

葵は自分の部屋に近づく前に、廊下を確認した。

誰もいない。

鍵を開け、部屋の中へ足を踏み入れた。

何もかも、出ていったときのままだった。

玄関には靴が並んでいる。

窓辺の小さな観葉植物は、ますます水を欲しがっているように見えた。

キッチンのカウンターには、未開封の郵便物が積まれていた。

何ひとつ変わっていない。

それなのに、部屋の雰囲気はまるで違って感じられた。

葵は数秒間、その場に立ち尽くした。

美香が後ろから入ってきた。

「大丈夫?」

葵はうなずいた。

「うん」

彼女はドアに鍵をかけた。

そして、もう一度確認した。

美香はそれに気づいたが、何も言わなかった。

葵は寝室へ向かい、クローゼットを開けた。

衣類や洗面用具、いくつかの私物を取り出し、スーツケースへ丁寧に詰めていく。

美香は机のほうへ歩いていった。

棚には看護学の教科書が何冊も並び、資格証明書や写真が飾られていた。

そのうちの一枚には、病院の前で同僚たちと並ぶ葵の姿が写っていた。

二人の看護師の肩に腕を回し、満面の笑みを浮かべている。

美香はその写真を手に取った。

「仕事に行くのが楽しそうだったころ、覚えてる?」

葵は振り返った。

「今だって仕事は好きよ」

「知ってる」

「じゃあ、何が言いたいの?」

美香は写真を棚に戻した。

「ここ何か月も、ずっとつらそうだったじゃん」

葵はシャツをたたみ続けた。

「それは仕事のせいじゃないわ」

「全部が全部、そうじゃないってだけでしょ」

葵の手が止まった。

美香は机に寄りかかった。

「交代勤務がきついって、自分でも言ってたじゃん。それに今は、ほかにもいろいろ抱えてるし」

葵はスーツケースを見下ろした。

「でも、ほかに何ができるかわからないし」

「葵は看護師でしょ。看護師が働ける場所って、病院だけじゃないんだよ」

「それは知ってる」

「在宅ケアとか、個人付きの看護とか、訪問看護ステーションとか。選択肢はいろいろあるよ」

葵はベッドの端に腰を下ろした。

これまで何年も、救急医療の現場で経験を積んできた。

救急外来は慌ただしく、疲労も激しく、人手が足りないことも珍しくなかった。

それでも、葵はその現場の流れを理解していた。

自分に何が求められているのかも、問題が起きたときにどう対応すべきかもわかっていた。

別の場所で一から始めることは、恐ろしかった。

もっとも、毎晩、病院の外で拓海が待ち伏せしているかもしれないと怯えながら仕事に戻るのも、同じくらい恐ろしかった。

「……考えたことはあるの」と葵は認めた。

美香が眉を上げた。

「本当に?」

「うん」

「どんな仕事?」

葵は肩をすくめた。

「訪問看護とか……かな」

美香は笑顔になった。

「ほら! ちゃんと考えてるじゃん!」

「喜ばないでよ。まだどこにも応募してないんだから」

「まだ、ね」

葵は呆れたように目を回した。

「本当に疲れる人ね」

「どういたしまして」

葵は机の上の写真に目を向けた。

なぜか、陽翔のことを思い出した。

皮肉っぽい冗談。

自分のくだらない冗談に笑ってくれたこと。

家に帰りたいと説明していたときの、静かでありながら強い意志を感じさせる声。

彼の家族は、何か進展があったのだろうか。

葵は首を振った。

休みの日くらい、患者さんのことを考えるのはやめなさい。

美香が彼女を見ていた。

「またやってる」

葵は眉をひそめた。

「何を?」

「その、ちょっとした笑顔」

「もう、うるさい!」

母に贈る最後の言葉

ほどなくして、葬儀が始まった。

陽翔は会場の前方に座り、由紀と大地が左右に控えていた。

会場には親戚や家族ぐるみの友人、かつての同僚、そして美咲とさまざまな時期に交流のあった近所の人々が集まっていた。

すぐに顔がわかる人もいた。

まったく知らない人もいた。

陽翔は司会者が母の生涯や優しさ、そして彼女が築いてきた多くの人間関係について語るのを聞いていた。

線香の煙が静かに漂う。

祭壇へ向かう参列者たちの礼服が、かすかな衣擦れの音を立てていた。

陽翔は、一人ひとりが母の遺影に向かって頭を下げる姿を見つめた。

泣いている人もいた。

表情を崩さない人もいた。

彼には聞こえないほど小さな声で、最後の別れを告げている人もいた。

いったい、何を話しているのだろう。

自分と同じ母を思い出しているのだろうか。

あの笑い声を覚えているだろうか。

ひどい歌声を。

誰かに勝負を挑まれると、途端に異常なほど負けず嫌いになるところを。

それとも、自分の知らない美咲を覚えているのだろうか。

そう考えると、落ち着かない気持ちになった。

陽翔にとって母は、世界で一番よく知っている人間だった。

しかし今、見知らぬ人々が母の死を悲しむ姿を見て、二人で暮らしていた家の外にも、母の人生が広がっていたことに気づいた。

自分の知らない友情があった。

聞いたことのない会話があった。

ほかの誰かだけが持っている思い出があった。

母に、その話を聞いてみたかった。

どんなことでもいいから、もう一度話しかけたかった。

式は続いた。

やがて葬儀社の担当者が遺族のもとへ近づいてきた。

追悼の挨拶をする時間だった。

陽翔の胃がきゅっと縮んだ。

由紀が身を寄せた。

「本当に大丈夫?」

陽翔は車椅子に取り付けられたテーブルの上の、折りたたまれた紙を見つめた。

前日の夜、叔母に口述して書き取ってもらった挨拶文だった。

由紀は言葉を段落ごとに整理し、陽翔が読みやすいよう大きな文字で印刷してくれた。

二回、練習した。

どちらも途中で泣いてしまった。

「……うん」と彼はささやいた。

由紀はうなずいた。

「わかったわ」

葬儀社の担当者が、陽翔にとって使いやすい高さにマイクを調整した。

大地は陽翔の指示に従いながら、車椅子を会場の前方へ移動させた。どこに座りたいかを勝手に決めることはしなかった。

マイクの前に着くと、陽翔は叔父を見た。

「もうちょっと近く」

大地が車椅子の位置を調整した。

「ここか?」

「うん」

「大丈夫か?」

陽翔はうなずいた。

「ありがとう」

大地は席へ戻った。

陽翔は参列者たちを見渡した。

何十もの顔が、こちらを見つめていた。

口の中が乾いた。

手元の紙に目を落とす。

最初の一文は簡単だった。

『本日はお集まりいただき、ありがとうございます。』

何度も繰り返し練習した言葉だ。

寝ている間でも言えるほど覚えていた。

それなのに、全員が待っている今、その言葉が出てこなかった。

陽翔は唾を飲み込んだ。

「あの……」

マイクを通した自分の声は、驚くほど小さく聞こえた。

軽く咳払いする。

「本日は……」

そこで止まってしまった。

何人かが椅子の上で身じろぎした。

陽翔は紙を見つめた。

文字がにじんでいく。

もう一度、口を開いた。

「本日は、お集まりいただき……ありがとうございます」

長い沈黙が続いた。

「母は……」

声が震えた。

陽翔は祭壇の上の遺影を見上げた。

母は、まだ笑っていた。

公園で過ごした午後を、今も楽しんでいるようだった。

その瞬間が、いつか自分を偲ぶために人々が集まる写真になるなど、知る由もなかったころの笑顔だった。

陽翔の呼吸が乱れ始めた。

「……すみません」

彼はうつむいた。

「ちゃんと、できると思ったんですけど……」

最後まで言えなかった。

涙が頬を伝った。

由紀が席から立ち上がった。

「陽翔……」

彼は首を横に振った。

「ちょっと……」

唾を飲み込んだ。

「少しだけ、待って」

由紀は足を止めた。

会場は静まり返った。

陽翔は母の遺影を見つめ続けた。

寒い朝、外出する前に車椅子の後ろに立って、首にマフラーを巻いてくれた母を思い出した。

自分の見ているテレビ番組に文句を言いながら、登場人物の名前はなぜか全員覚えていた母を思い出した。

競争の途中で笑いすぎて走れなくなり、フェンスに寄りかかっていた母を思い出した。

そして、病院のことも。

弱りきった手。

医療機器の静かな音。

母の最後の息。

記憶に押し潰されそうになった。

しかし、そのとき、別の考えが浮かんだ。

母さんは、みんなにそれだけを覚えていてほしいわけじゃない。

陽翔は震える息を吸い込んだ。

「母は……」

少し間を置いた。

「走るのが、ものすごく下手でした」

参列者の何人かが驚いた顔をした。

大地が目をぱちくりさせた。

陽翔は続けた。

「本当です。びっくりするくらい下手でした」

会場に小さな笑い声が広がった。

「よく公園で、僕と競争してたんです。で、僕が勝つたびに、モーターがついてるからずるいって言うんですよ」

何人かが微笑んだ。

陽翔は遺影を見た。

「疲れずに速く走れるなんて不公平だって」

少しずつ声が安定してきた。

「だから僕は、もっとちゃんと練習すればよかったのにって言い返してました」

さらに笑い声が上がった。

陽翔は涙を浮かべながら笑った。

「母は、負けるのが大嫌いでした」

そこで一度、言葉を切った。

「でも、笑うことが大好きでした」

会場は再び静かになった。

「母は完璧な人間じゃありませんでした。たまに夕飯を焦がしたし、約束を忘れることもありました。歌詞を間違えて歌って、僕が正しい歌詞を見せても、自分のほうが合ってるって言い張るんです」

何人かがくすくすと笑った。

「それに、何でも心配する人でした」

陽翔は自分の手を見下ろした。

「特に、僕のことを」

唾を飲み込んだ。

「僕には障害があります。生まれてからずっと、いろいろなことに人の助けが必要でした」

彼は再び参列者たちを見つめた。

「そして、母が僕を助けてくれた人でした」

少しためらった。

「でも、母はそれだけの人じゃなかったんです」

由紀が目元にティッシュを押し当てた。

「面白くて、頑固で、頭がよくて。黄色い花と、くだらない映画が大好きで、僕が早起きに文句を言うと、必ずからかってきました」

陽翔は祭壇を見上げた。

「母には、母自身の人生がありました」

声が震えた。

「そして僕は、その人生の一部になれたことが、すごく幸せだったんです」

静寂が会場を包んだ。

陽翔は涙をまばたきで払った。

「母が病気になったとき、僕はずっと、いつか全部元どおりになるって思っていました」

唾を飲み込んだ。

「元気になって、家に帰って。母さんは洗い物のことで文句を言って、僕は母さんの料理に文句を言って、またくだらないことで言い合えるんだって」

彼はうつむいた。

「でも……そうはなりませんでした」

声がかすれた。

「そして今……」

言葉を続けようと必死になった。

「今、僕はこれからどうすればいいのか、わかりません」

由紀は声を隠すこともなく泣き始めた。

陽翔はもう一度、息を吸った。

「母なら、きっと前に進みなさいって言うと思います」

彼は遺影を見た。

「たぶん、大げさに騒ぐんじゃないって言うでしょうね」

小さな笑い声が聞こえた。

「それから絶対、外に出て新鮮な空気でも吸ってきなさいって言うと思います」

陽翔はかすかに微笑んだ。

「だから……」

少し間を置いた。

「やってみようと思います」

再び涙があふれた。

「母のいない人生が、これからどんなものになるのか、僕にはわかりません」

彼は由紀と大地に目を向けた。

「でも、できるだけいい人生にしたいと思います」

そして、もう一度遺影を見つめた。

「だって、母が僕にいい人生をくれたから」

声は、ほとんど聞き取れないほど小さくなった。

「ありがとう、母さん」

唾を飲み込んだ。

「全部、ありがとう」

一筋の涙が頬を伝った。

「大好きだよ」

陽翔は数秒間、マイクの前にとどまっていた。

そして、病院でのあの日以来、ずっと避けてきた言葉を口にした。

「……さようなら」

もう一つの始まり

葵は、森山千里という女性と向かい合って座っていた。

窓の外には、東京の交通量の多い通りが見えている。

そこは、在宅で生活する患者に医療的ケアや支援を提供する訪問看護ステーションの、小さな事務所だった。

病院以外の働き方も考えてみたらどうかと美香に勧められ、葵は非公式のキャリア相談を申し込んでいた。

こんなに緊張するとは思っていなかった。

それなのに今、四十代の女性が履歴書を確認するのを、膝の上で両手を重ねながら待っている。

「救急外来での勤務経験があるんですね」と千里が言った。

葵はうなずいた。

「はい。数年間勤務しています」

「それは貴重な経験ですね」

「ありがとうございます」

千里は履歴書に目を戻した。

「呼吸管理が必要な患者さんや、複雑な薬剤管理、日常生活で多くの介助を必要とする患者さんの対応経験もありますか?」

「はい。ただ、在宅で使用する機器や個別のケア計画については、改めて研修や指導を受ける必要があると思っています」

千里は感心したようにうなずいた。

「その違いをきちんと理解しているのは大切ですね」

葵は微笑んだ。

「そう心がけています」

千里は履歴書を机に置いた。

「どうして訪問看護に興味を持ったんですか?」

葵は答えを考えた。

理由はいくつもあった。

疲れ果てるような交代勤務。

救急医療の精神的な負担。

もっと予測しやすい勤務時間への希望。

どれも本当だった。

けれど、それだけではなかった。

「患者さんと、もう少し時間をかけて関わりたいんです」

千里は椅子の背にもたれた。

「詳しく聞かせてください」

「救急外来では、何もかもがすごい速さで進んでいきます。患者さんの状態を安定させて、けがの処置をして、入院や退院の準備をして……」

葵は軽く手を動かした。

「そうしているうちに、その人はいなくなってしまうんです」

「それが救急医療というものですからね」

「はい。それは理解しています」

葵は少し間を置いた。

「でも、ときどき考えるんです。そのあと、どうなったんだろうって」

千里が微笑んだ。

「そのあと?」

「病院を出たあとです。家に帰って、病気やけがで変わってしまった生活と、どう向き合っているんだろうって」

葵は一瞬、陽翔のことを思い浮かべた。

母親を失い、突然、不確かな未来に直面することになった青年。

葵は続けた。

「私は、そういう部分のケアにも関わってみたいんだと思います」

千里は考え深そうにうなずいた。

「訪問看護はやりがいのある仕事ですが、大変なことも多いですよ。病院のように設備が整った環境とは限りませんし、すぐに使える医療資源も限られます。患者さんやご家族、医師、ほかの介助者との連携が欠かせません」

「はい」

「それに、病院とは違って、患者さんの家はその方自身の生活空間です。私たちが患者さんの人生の中へお邪魔するのであって、その逆ではありません」

葵はその言葉について考えた。

その考え方は、好きだと思った。

千里は説明を続けた。

「短時間の訪問もあれば、長時間の勤務や、継続的で複雑なケアが必要なケースもあります。患者さんの状態や人員配置、事業所のサービス内容によって働き方は変わります」

葵はうなずいた。

「個人付きの看護については、どうでしょうか?」

「ご家族が事業所などを通して、専任の看護師を手配する場合もあります。ただし、業務範囲や責任、専門職としての境界線を明確にしておく必要があります」

「なるほど」

「今の病院を退職することも考えていますか?」

「可能性としては」

千里は微笑んだ。

「それなら、まずは正式に応募して、勤務可能な時間などを相談してみることをおすすめします。適したポジションがあるか、どのような追加研修が必要かを確認できますから」

葵は机の上の書類を見つめた。

ここ数週間で初めて、未来に不安以外の何かがあるように思えた。

「わかりました」

彼女は微笑んだ。

「ぜひ、お願いしたいです」

生きる者へ宛てた手紙

葬儀が終わったのは、夕方遅くのことだった。

最後の別れと一連の儀式が済むと、参列者たちは少しずつ帰っていき、残された遺族がその後の手配を進めることになった。

陽翔は疲れ果てていた。

泣き続けたせいで目が痛み、何時間も車椅子に座ったままで、いつものように休息を取ったり姿勢を変えたりする機会がなかったため、身体にも不快感があった。

陽翔がわずかに身じろぎするのを、由紀が見逃さなかった。

「陽翔、つらい?」

「ちょっとね」

「横になったほうがいい?」

「そのうちね」

大地は外で待っている車椅子対応のタクシーに目を向けた。

「そろそろ病院に戻ったほうがいいな」

陽翔は葬儀場を見た。

「もう少しだけ待ってもらえる?」

由紀がうなずいた。

「もちろんよ」

三人は、まだ残っている参列者たちから離れた静かな控室へ移動した。

すると由紀がハンドバッグから封筒を取り出した。

「あなたに渡さなきゃいけないものがあるの」

陽翔は眉をひそめた。

「何?」

由紀は隣に座った。

「お母さんが手紙を書いていたの」

陽翔は動きを止めた。

「……手紙?」

由紀がうなずいた。

「大地さんと一緒に、あのマンションで見つけたの」

陽翔は目を見開いた。

「母さんが?」

「ええ」

由紀は封筒を差し出した。

「私たち宛てなんだけど、あなたにも内容を聞いてほしいの」

陽翔は封筒を見つめた。

その筆跡は、見間違えようがなかった。

母の字だった。

少し右に傾いた文字も、ボールペンで書くときにいつも筆圧が強すぎたところも、よく覚えていた。

喉が締めつけられた。

「……読んでくれる?」

由紀はうなずいた。

「もちろん」

彼女は便箋を広げた。

読み始めた声は震えていた。

「由紀さん、大地さんへ……」

陽翔は耳を傾けた。

最初は、言葉が現実のものとは思えなかった。

母は生きていたときに、これを書いたのだ。

紙を手に持って。

ペンを動かして。

何を伝えたいのか考えて。

そして今、ありふれた一枚の便箋を通して、再び自分に話しかけてくれている。

由紀は、母が息子に抱いていた愛情について読み上げた。

誇りについて。

心配について。

願いについて。

そして、ある一節に差しかかったとき、陽翔の胸が強く締めつけられた。

「陽翔には、いろいろなことで介助が必要です。でも、だからといって、誰かに自分の人生を代わりに生きてもらう必要があるわけではありません」

陽翔はうつむいた。

由紀は続けた。

「陽翔が何を望んでいるのか、本人に聞いてください。そして、あの子が答えたら、ちゃんと耳を傾けてください」

陽翔の目に涙が浮かんだ。

「何より、助けが必要だからといって、自分が誰かの負担になっていると思わせないでください」

由紀は読むのを止めた。

ティッシュを顔に押し当てる。

「……ごめんなさい」

陽翔は首を横に振った。

「大丈夫」

大地は顔を背けた。

由紀は深呼吸し、最後まで手紙を読み上げた。

母の署名を読み終えたとき、部屋は静寂に包まれた。

陽翔は便箋を見つめた。

しばらく、何も言えなかった。

やがて、弱々しく笑った。

「本当に、何でも考えてたんだね」

由紀は涙を浮かべながら微笑んだ。

「そうしようとしてたのね」

陽翔は封筒を見た。

「これ、もらってもいい?」

「もちろんよ」

由紀は手紙を透明な書類用スリーブに丁寧に入れ、車椅子のテーブルの上に置いた。

陽翔は母の筆跡を見つめた。

本当に小さなものだった。

数段落の文章。

ひとつの署名。

ほとんど重さのない一枚の紙。

それなのに、今まで持っていたどんなものよりも大切に思えた。

大地が椅子を近づけた。

「陽翔」

彼は顔を上げた。

叔父はいつになく真剣な表情をしていた。

「謝りたいことがあるんだ」

陽翔は眉をひそめた。

「何を?」

「これまでの俺たちの対応についてだ」

由紀は目を伏せた。

大地は続けた。

「俺たちは、お前の面倒を見るっていうのは、俺たちがいろいろ決めて、どこに住ませるか考えることだと思ってた」

陽翔は黙って聞いていた。

「でも、お母さんの言うとおりだ」

大地は手紙を指した。

「俺たちは、お前の話を聞かなきゃいけない」

陽翔は叔母を見た。

由紀もうなずいた。

「そうね」

大地は身を乗り出した。

「今でも、うちに来て一緒に暮らしてほしいと思ってる」

陽翔はためらった。

「でも、お前が納得してくれるなら、だ。それに、必要な機器や介助体制が整ってからにする」

由紀が微笑んだ。

「恵子さんとも相談して、もう準備を始めているのよ」

陽翔は二人の申し出について考えた。

自分のマンションに帰りたいという気持ちは、今も変わっていなかった。

しかし、母と暮らしていた家へそのまま戻り、以前と同じように生活できるわけではないことも理解していた。

必要な介助は多かった。

一日を通して、さまざまな場面で助けが必要だった。

自分のケアについて多くの指示を出すことはできても、すべての動作を一人で安全に行えるわけではない。

今のところ、親戚と暮らすのが最も現実的なのかもしれない。

ただし、自分抜きで決められた永続的な生活にならないのであれば。

「……わかった」と彼は静かに言った。

由紀は驚いたようだった。

「えっ?」

陽翔はうなずいた。

「二人の家にお世話になるよ」

由紀の表情が明るくなった。

「まあ、陽翔!」

「でも……」

彼女は言葉を止めた。

陽翔は二人を交互に見た。

「いつか自分の家で暮らせるかどうか、これからも調べてほしい」

大地はうなずいた。

「もちろんだ」

「それから、俺の介助について何か決めるときは、ちゃんと相談してほしい」

「当然だ」

「あと、何かうまくいかなかったとき、みんなが怒ったりせずに、ちゃんと言えるようにしてほしい」

由紀が微笑んだ。

「それはもっともね」

陽翔は息を吸った。

「だったら、いいよ」

大地は手を差し出した。

「約束だな?」

陽翔はその手を見た。

それから、自分の手を見た。

叔父はすぐに、その気まずさに気づいた。

「あっ。すまん」

陽翔は笑った。

「大地叔父さん、普通に俺の手を握ってくれればいいんだよ」

「ああ、そうか!」

大地はそっと陽翔の手を取った。

陽翔はにやりと笑った。

「本当に下手だね、こういうの」

大地はため息をついた。

「自分でもそう思い始めたよ」

由紀が笑った。

ほんの短い間、控室が少し温かく感じられた。

幸せ、というわけではない。

悲しみがあまりにも大きかった。

けれど、何かが変わり始めていた。

三人はもう、義務を果たそうとしてぎこちなく振る舞うだけの関係ではなかった。

少しずつ、家族になろうとしていた。

善意だけでは乗り越えられない現実

由紀と大地が陽翔の介助に必要なことを、少し甘く考えていたのかもしれない。

その最初の兆候が現れたのは、それから二十分も経たないうちだった。

帰る準備をしていると、陽翔が車椅子の上で不快そうに身体を動かした。

「由紀叔母さん?」

彼女が振り返った。

「なあに?」

「ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」

「もちろんよ。どうしたの?」

陽翔はためらった。

「……トイレに行きたい」

由紀はうなずいた。

「わかったわ」

彼女は大地を見た。

大地も由紀を見返した。

二人とも動かなかった。

陽翔はそんな二人を眺めていた。

数秒後、ため息をついた。

「……二人とも?」

由紀が背筋を伸ばした。

「あっ! そうね、もちろん!」

彼女は周囲を見回した。

「車椅子対応のトイレはどこかしら?」

大地が廊下を指さした。

「入口の近くにあったと思う」

「そうね」

由紀は車椅子へ近づいた。

「じゃあ、行きましょう」

陽翔は彼女を止めた。

「待って」

由紀が固まった。

「何?」

「どうやって手伝えばいいか、わかる?」

由紀は口を開いた。

そして閉じた。

「ええと……」

陽翔は大地を見た。

叔父は後頭部をかいた。

「研修用の動画は見たぞ」

陽翔はじっと見つめた。

「……動画?」

大地はうなずいた。

「何本か」

「それはよかった」

陽翔は一呼吸置いた。

「でも、動画を見ただけじゃ、安全に俺を移乗させられるとは限らないよ」

由紀の表情が心配そうになった。

「そうよね」

陽翔はため息をついた。

疲れていた。

身体が痛かった。

そして、普通の身の回りの介助を、家族全員を巻き込む大事件にすることだけは避けたかった。

「ここのスタッフさんに、どんな設備や手助けがあるか聞いてみない?」

大地はすぐにうなずいた。

「ああ。いい考えだ」

由紀は、適切な設備を探し、安全に介助を受けられる方法を相談するため、スタッフを呼びに行った。

陽翔は車椅子のヘッドレストに頭を預けた。

大地は隣に立っていた。

数秒間、二人とも黙っていた。

やがて陽翔が顔を上げた。

「大地叔父さん?」

「ん?」

「研修動画、何本見たの?」

大地はためらった。

「……四本」

陽翔は目を閉じた。

「ああ、もう終わったね、俺たち」

大地が吹き出した。

陽翔も一緒に笑った。

冗談を言うことで、少し気持ちが軽くなった。

しかし、その笑いの裏で、二人とも大切なことを理解していた。

学ばなければならないことは、山ほどある。

そして、善意だけではどうにもならないのだ。

同じ空の下に続く二つの道

その日の夕方、葵は訪問看護ステーションの事務所の外に立ち、受け取った応募書類を眺めていた。

周囲の建物の向こうに夕日が沈み始め、空は琥珀色と淡い桃色に染まっていた。

通りには絶え間なく車が行き交っている。

歩行者たちは駅へと急いでいた。

近くの飲食店では夕食時の準備が始まっているらしく、焼き物の香ばしい匂いが漂ってきた。

葵は応募書類を見下ろした。

まだ仕事が決まったわけではない。

病院を退職したわけでもない。

ましてや、人生の問題がすべて解決したわけでもなかった。

それでも、一歩踏み出した。

今は、それだけで十分だった。

スマートフォンが振動した。

美香からのメッセージだった。

『どうだった?』

葵は微笑んだ。

『実は、結構よかったよ』

返信はほとんどすぐに届いた。

『ほらね! 言ったとおりでしょ!』

葵は笑った。

『喜ぶのはまだ早いって。何も決まってないんだから』

『もう遅い! お祝いする!』

葵は呆れたように首を振った。

スマートフォンをバッグにしまい、駅へ向かって歩き始めた。

歩いているうちに、病院のことが頭に浮かんだ。

これまで担当してきた患者たち。

出会ってきた人々。

そして、思いがけず陽翔のことも。

もう退院したのだろうか。

住む場所は見つかったのだろうか。

少しは元気になっただろうか。

そうであってほしかった。

彼には、人生を立て直す機会が与えられるべきだった。

葵はかすかに微笑んだ。

「……元気でね、陽翔くん」

そして、再び歩道を進んでいった。

数キロ離れた場所では、陽翔が車椅子対応のタクシーの後部座席に座り、窓の外を流れる東京の夜景を眺めていた。

隣には由紀が座っていた。

大地は助手席にいた。

葬儀は終わった。

母はもういない。

そして、もうすぐ病院を離れ、自分の家だったことのない家へ向かうことになる。

陽翔はバッグの中に大切にしまわれた手紙へ目を落とした。

陽翔が何を望んでいるのか、本人に聞いてください。

そして、あの子が答えたら、ちゃんと耳を傾けてください。

母の声が聞こえてくるような気がした。

陽翔は寂しげに微笑んだ。

「心配しないで、母さん」

通り過ぎていく建物を見つめた。

「……なんとかするから」

タクシーは静かな通りへ曲がった。

陽翔は窓の外を流れる街並みを眺めていた。

同じ夕空の下で、一人の若い看護師が自分の人生の進む方向を見直し始めていることなど、知る由もなかった。

今のところ、二人の道はまだ別々だった。

陽翔は慣れない家庭での生活を始めようとしていた。そこでは、愛情と決意が、日々の介助という厳しい現実にぶつかることになるだろう。

一方、葵は新たな始まりを探していた。虐待的な恋愛関係によって奪われかけた自立を、もう一度取り戻すために。

二人とも、自分たちの人生がどれほど大きく変わるのかを知らなかった。

そして、次に再会する場所が、病院の蛍光灯の下ではないかもしれないなど、想像もしていなかった。

それは朝食の食卓かもしれない。

人の集まるリビングかもしれない。

あるいは、静かな住宅街を見下ろす窓辺かもしれなかった。

もっとも、今はほかに心配しなければならないことがあった。

陽翔には、新しい家での生活に向けた準備があった。

葵には、仕事についての決断が待っていた。

そして東京のどこかでは、黒田拓海が、かつて自分の支配下に置いていた女性が自分のいない人生を選んだことを、いまだに受け入れようとしていなかった。

未来は、確実に近づいていた。

彼らの誰一人として、その準備ができていなかったとしても。

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