第6章 家までついてきた影
病院の自動ドアが左右に開き、明るく照らされたロビーに新たな来訪者を迎え入れた。
入ってきた男は、黒っぽいジャケットに黒いズボンを身につけていた。足元には、ほかの服装とは不釣り合いなほど高価そうな、磨き上げられた革靴。髪はきちんと整えられ、その顔には、初対面の相手に好印象を与えることに慣れた人間特有の、計算された愛想のよさが浮かんでいた。
男は感じのよい笑顔を浮かべながら、受付カウンターへ近づいた。
「こんばんは」
受付係がパソコンから顔を上げた。
「こんばんは。どのようなご用件でしょうか?」
「人を探しているんです」
「患者様へのご面会ですか?」
「いえ、そういうわけではなくて」
男はポケットからスマートフォンを取り出した。
「彼女に会いに来たんです。ここで働いているんですよ」
受付係はうなずいた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「水野葵です」
女性はキーボードを打ち始めた。
「お客様のお名前もお願いいたします」
「黒田拓海です」
男は再び微笑んだ。
「彼女から聞いていると思いますけど」
受付係は画面を確認した。
「申し訳ございません、黒田様。職員の勤務予定や現在の居場所については、お伝えできない決まりになっております」
拓海の笑顔がわずかに揺らいだ。
本当に、わずかに。
「いやいや、そんな機密情報を聞いてるわけじゃないんですよ」
「申し訳ありませんが、病院の規則ですので」
「ああ、そうですよね。もちろんです」
拓海はカウンターに寄りかかった。
「じゃあ、僕が来ていることだけ伝えてもらえませんか?」
受付係はためらった。
拓海はその反応を見逃さなかった。
彼は昔から、人の心を読むのが得意だと思っていた。一瞬の沈黙、不安げな視線、わずかな姿勢の変化。そうしたものはすべて、相手をどこまで押せるか判断するための便利な手がかりだった。
拓海は表情を和らげた。
「実は、ちょっと喧嘩しちゃいましてね。それだけなんです」
受付係は黙っていた。
「ただ謝りたいだけなんですよ」
「申し訳ございません。ご本人へ直接ご連絡いただく必要があります」
拓海は小さく笑った。
「それが問題なんですよ。電話に出てくれなくて」
「でしたら、こちらでできることはございません」
拓海は女性をじっと見つめた。
数秒間、愛想のよい表情は顔に貼りついたままだった。しかし、その目の奥には不快な何かが少しずつ集まり始めていた。
やがて姿勢を正した。
「……わかりました」
スマートフォンをポケットにしまう。
「どうもありがとう」
「お気をつけてお帰りください」
拓海は入口へ向き直った。
しかし、外へ出る代わりに、ロビーの自動販売機の横に並んだ椅子へ歩いていった。
腰を下ろす。
脚を組む。
そして、待ち始めた。
どうせ葵だって、いつまでも病院の中にいるわけにはいかないのだから。
見覚えのある顔
水野葵は、もともとエレベーターがあまり好きではなかった。
怖いわけではない。ただ、見知らぬ人間と狭い金属の箱に閉じ込められるのが嫌だった。しかも、他人との距離を十五センチほどしか空けなくても平気だと考えている人が、どういうわけか必ずいる。
しかし今夜に限っては、一時的に一人きりになれることがありがたかった。
下降するエレベーターの中で、葵はスマートフォンに届いた最新のメッセージを見つめていた。
それにしても、いい病院だな。
たった一言。
それだけで、胃がひっくり返りそうになった。
以前のメッセージはすでに警備員に見せていたが、今回のものは拓海が勤務先まで追いかけてきたことを示唆していた。
葵はもう一枚スクリーンショットを撮った。
それから警備室のある階のボタンを押した。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
葵は廊下へ出ると、急いで警備室へ向かった。
入ってきた彼女を見て、警備員が顔を上げた。
「水野さん?」
「……来てるんです」
警備員はすぐに姿勢を正した。
「誰がですか?」
「元彼です。黒田拓海」
葵はスマートフォンを差し出した。
「今、これを送ってきました」
警備員はメッセージを確認した。
「本人の姿は見ましたか?」
「いいえ。でも、私がここにいることを知ってるんです」
警備員は電話に手を伸ばした。
「わかりました。少しここで待っていてください」
葵は彼が電話をかけるのを見守った。
会話は断片的にしか聞こえなかった。
「男性の来訪者……黒っぽいジャケット……職員について問い合わせ……嫌がらせの可能性……」
警備員が言葉を止めた。
その表情が変わった。
「ロビーにいるんですか?」
葵の胸が沈んだ。
警備員が彼女をちらりと見た。
「了解しました」
受話器を置く。
「水野さん、数分前に受付へ来た男性が、特徴と一致しています。あなたについて尋ねていたそうです」
葵は目を閉じた。
やっぱり。
「……まだいるんですか?」
「今、警備担当者が接触に向かっています」
葵はスマートフォンを強く握った。
「帰らせてもらえますか?」
「敷地内での行動に対応し、職員の安全を守るために必要な措置を取ります。今回の件も記録に残します」
葵はうなずいた。
手が震えていた。
それが嫌だった。
拓海が目の前に立っていなくても、こんなに簡単に自分を怖がらせることができる。その事実が、たまらなく腹立たしかった。
警備員は震えに気づいた。
「座りますか?」
「いいえ」
あまりにも早く答えてしまった。
葵はため息をつく。
「すみません。ただ、ちょっと……」
適切な言葉を探した。
怒っている?
怖がっている?
疲れ果てている?
どれも正しかった。
「……最悪の夜なんです」
警備員はうなずいた。
「無理もありません」
葵は扉を見た。
「これから、どうなるんですか?」
「本人と話をします。それまでは、安全な場所にいてください」
葵は少しためらった。
それからうなずいた。
「……わかりました」
スマートフォンが振動した。
葵は画面を見下ろす。
またメッセージだった。
本気で俺から隠れてるのか?
吐き気がした。
続けて、二通目。
警備員が見えるぞ。
さらにもう一通。
大騒ぎにしてくれたな。
葵は画面を見つめた。
付き合っていた数か月の間、拓海は自分の振る舞いに葵が異議を唱えるたび、彼女が自分に恥をかかせていると責めた。
泣けば、大げさだと言われた。
言い返せば、失礼だと言われた。
別れようとすれば、過剰反応だと言われた。
そして関係が終わった今でさえ、彼は自分の行動の責任を葵に押しつけようとしている。
葵は返信を打ち始めた。
しかし、手を止めた。
入力しかけた文章を削除する。
代わりに、警備員へメッセージを見せた。
「まだ連絡してくるんです」
警備員は内容を記録した。
「返信しないでください」
葵はうなずいた。
ようやく理解し始めていた。
自分が何を言っても、拓海に別れるという決断を尊重させることはできない。
彼が求めているのは説明ではなかった。
もう一度、会話の主導権を握る機会だった。
帰ろうとしない男
拓海は二人の警備員が近づいてくるのを見ていた。
制服を見れば、何者かはすぐにわかった。
奥歯を噛みしめる。
ふざけやがって。
一人が数歩手前で立ち止まった。
「黒田様ですね?」
拓海は顔を上げた。
「そうですけど?」
「病院の警備担当です。少しお話を伺いたいのですが」
拓海は微笑んだ。
「何についてですか?」
「当院の職員に連絡を取ろうとしていらっしゃると聞いています」
「そうですよ」
「ご本人は、あなたに会うことを望んでいません」
笑顔が消えた。
「……あいつがそう言ったんですか?」
「はい」
拓海は笑った。
耳障りな笑い声だった。
「いや、それはおかしいでしょう」
警備員は落ち着いたままだった。
「恐れ入りますが、敷地内からのご退去をお願いいたします」
拓海は椅子の背にもたれた。
「どうして?」
「あなたの滞在は望まれておらず、当院職員への度重なる接触も懸念されています」
「俺はあいつの彼氏ですよ」
「それでも、ご退去をお願いすることに変わりはありません」
拓海の表情が険しくなった。
「いいですか。あいつが何を話したか知りませんけど、昔から何でも大げさに言う癖があるんですよ」
二人目の警備員が一歩前へ出た。
「立ち上がっていただけますか」
拓海は二人を交互に見た。
一瞬、言い争いを始めそうになった。
しかし、受付付近にいる数人がこちらを見ていることに気づいた。
立ち上がる。
「……わかったよ」
ジャケットを整えた。
「好きにすればいい」
警備員たちは拓海を入口まで付き添って誘導した。
自動ドアに近づいたとき、拓海はエレベーターのほうを振り返った。
目を細める。
彼は葵が謝るものと思って、ここまで来たのだ。
ところが、彼女は警備員を呼んだ。
またしても、自分を悪者に仕立て上げた。
拓海は外へ出た。
夜の空気は涼しく、病院の敷地の向こうでは車が絶え間なく道路を行き交っていた。
拓海が歩き去るまで、警備員の一人は入口付近に残っていた。
しかし、拓海に今回の出来事を忘れるつもりはなかった。
角の近くで立ち止まる。
スマートフォンを取り出す。
そして、葵とのメッセージ画面を開いた。
最新のメッセージには、返事がなかった。
しばらく見つめてから、新たな文章を打ち込んだ。
まだ話は終わってないからな。
それからスマートフォンをポケットにしまい、夜の人混みの中へ消えていった。
帰る場所
病院の別の場所では、高橋陽翔が、それに比べればずっと平穏な夜を過ごしていた。
もっとも、本人の表情を見る限り、住まいについてもう一度話し合うくらいなら、警備員と対決するほうがましだと思っていたかもしれない。
叔母の由紀はノートを持ち、ベッドの横に座っていた。
叔父の大地は窓際の来客用の椅子に腰かけている。
二人の間には数冊のパンフレット、タブレット端末、そしてこの一時間でますます雑然としてきた手書きのメモが広げられていた。
「それでね」
由紀が話し始めた。
「家のどこを変えなきゃいけないか、調べてみたの」
陽翔は叔母を見た。
「はい」
「玄関に段差が二段あるのよ」
「覚えてます」
「スロープが必要ね」
「そうですね」
「それから、廊下もちょっと狭いかもしれないの」
「たぶんそうでしょうね」
大地が身を乗り出した。
「今朝、測ってみたんだ」
陽翔は叔父を見た。
「それで?」
「いや、それが……」
大地は頬をかいた。
「お前の車椅子、思ってたより幅があるんだな」
陽翔はため息をついた。
「……大地おじさん」
「何だ?」
「僕の車椅子、見たことありますよね?」
「あるよ」
「何回も」
「わかってる」
「それなのに、うちに来いって言う前に、ドアの幅を測ろうとは思わなかったんですか?」
大地は不満そうな顔をした。
「おいおい、何とかするって言っただろう」
陽翔はじっと見つめた。
「まさにそこが心配なんですけど」
由紀は気まずそうに笑った。
「だから、今こうして事前に計画してるんじゃない」
ノートのページをめくった。
「それに、病院用のベッドを用意することとか、介助の手配についても、ソーシャルワーカーさんと相談してるのよ」
陽翔の表情が少し和らいだ。
「本当ですか?」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
大地も付け加えた。
「俺たちだけで全部できるなんて、もう思ってないよ」
陽翔は叔父を見つめた。
以前の話し合いからすれば、大きな進歩だった。
「じゃあ、どうするつもりなんですか?」
由紀は夫を見た。
「それは……」
大地が咳払いをした。
「しばらく、うちで暮らしてもらおうかと思ってる」
陽翔は眉をひそめた。
「しばらく?」
「元のマンションに戻れるかどうかわかるまでだ」
陽翔は目をそらした。
自分の家を離れるという考えは、今も胸に痛かった。
しかし、十分な介助体制がないまま直接マンションへ戻るのは、安全ではないことも理解していた。
母は昼も夜も、必要な支援をしてくれていた。
その代わりとなる介助体制を整えるには、何本か電話をかけるだけでは済まない。
「マンションを売ったりはしないからね」
由紀が慌てて言った。
陽翔は顔を上げた。
「え?」
「あなたの家よ。あなた抜きで勝手に何かを決めたりしないわ」
陽翔の肩から力が抜けた。
「……わかりました」
大地もうなずいた。
「それに、うちへ来る前に、ちゃんと家の中を移動できるようにしておくからな」
陽翔は車椅子に目を向けた。
「リフトは?」
「使える機器を設置できるか、もう問い合わせてる」
「お風呂は?」
「専門の人に確認してもらう予定よ」
陽翔は二人の答えを考えた。
完璧ではなかった。
それでも、具体的な答えだった。
初めて、親戚たちは彼の介助が、単に寝室を一つ提供するだけでは済まないことを理解し始めたようだった。
由紀がノートを閉じた。
「それから、もう一つあるの」
陽翔は彼女を見た。
「何ですか?」
由紀はためらった。
「……お母さんのお葬式の準備を始めたの」
部屋が静まり返った。
陽翔は目を伏せた。
いつか、この話をしなければならないことはわかっていた。
もちろん、わかっていた。
しかし、いずれ起こると頭で理解していることと、実際に誰かの口から聞かされることは、まったく違う経験だった。
「……いつですか?」
「来週の初め頃を考えてるわ。葬儀社の方が日程を確認してくださってるところ」
陽翔は自分の手を見つめた。
由紀は優しく続けた。
「あなたにも、一緒に決めてもらいたいと思ってるの」
陽翔はうなずいた。
「……はい」
「まだ全部は決まってないから」
唾を飲み込んだ。
「母さんの写真、僕が選んでもいいですか?」
由紀の表情が和らいだ。
「もちろんよ」
陽翔は窓へ目を向けた。
「母さん、かしこまった写真が嫌いだったんです」
大地がかすかに微笑んだ。
「美咲らしいな」
「誰かが撮ろうとすると、いつも変な顔するんですよ」
陽翔は弱々しく笑った。
しかし、すぐに目に涙が浮かんだ。
「真面目な顔で撮ると、老けて見えるって言ってて……」
由紀はティッシュに手を伸ばした。
陽翔は続けた。
「スマホに一枚あるんです」
声が震えた。
「公園で撮ったやつ。僕が、母さんの走り方はペンギンみたいだって言ったら、笑っちゃって……」
大地はくすりと笑った。
「実際、そうだったんじゃないか?」
陽翔は涙を浮かべながら微笑んだ。
「……はい」
叔母を見る。
「その写真を使いたいです」
由紀はうなずいた。
「じゃあ、それにしましょう」
誰もいないマンション
二日後、由紀と大地は陽翔の衣類や身の回りの品を取りに、美咲のマンションを訪れた。
陽翔にも一緒に来ないかと声をかけたが、彼は断った。
まだ心の準備ができていなかった。
今は、まだ。
マンションは静かな住宅街の一角にあり、周囲には小さな商店や手入れの行き届いた家々が並んでいた。
由紀が玄関の鍵を開けた。
扉を開いた途端、美咲の家の懐かしい匂いが彼女を迎えた。
洗濯洗剤。
緑茶。
窓際に飾っていた花の、かすかな香り。
由紀は中へ足を踏み入れた。
空のバッグをいくつか持った大地が続く。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
部屋の様子は、美咲が最後に入院する前とほとんど変わっていなかった。
玄関脇にはスリッパが揃えて置かれている。
リビングのソファには、畳まれた毛布。
ローテーブルの上には、ページの間にしおりを挟んだ雑誌があった。
由紀は部屋を見つめた。
「……本当に、帰ってくるつもりだったのね」
大地は目を伏せた。
「ああ……」
二人は靴を脱いで上がった。
由紀はキッチンへ向かった。
冷蔵庫には、小さな磁石つきのクリップで手書きの買い物メモが留められていた。
お米
卵
牛乳
陽翔の好きなプリン
由紀は口元を覆った。
「ああ、美咲……」
大地が近づいた。
「どうした?」
由紀はメモを指さした。
大地はそれを読んだ。
そして目をそらした。
病院の診療記録よりも、こうした何でもない日常の痕跡のほうが、なぜかつらかった。
買い物メモがあるということは、予定があったということだ。
明日があると思っていたということだ。
人生がこれからも続くと、誰かが信じていたということだった。
由紀は慎重にメモを外し、折り畳んだ。
「これは取っておくわ」
大地はうなずいた。
二人は陽翔の持ち物を集め続けた。
衣類。
薬に関する用品。
日常の介助に必要なもの。
寝室にあった数冊の本。
由紀は陽翔の机の横で足を止めた。
パソコンのそばに、額に入った写真が飾られていた。
車椅子に座る陽翔の隣で、美咲がかがみ込んでいる。二人とも、カメラには映っていない何かを見て笑っていた。
由紀は写真立てを手に取った。
しばらく、ただ見つめていた。
そこで、額の後ろに封筒が挟まれていることに気づいた。
表には、自分の名前が書かれていた。
由紀と大地へ
由紀は凍りついた。
「……大地?」
夫が部屋の入口に現れた。
「どうした?」
由紀は封筒を掲げた。
「見て」
大地が近づいた。
「美咲の字か?」
由紀はうなずいた。
二人は顔を見合わせた。
何と言えばいいのかわからなかった。
やがて由紀は、慎重に封筒を開けた。
中には折り畳まれた手紙が入っていた。
読み始める。
由紀、大地へ。
もしこの手紙を読んでいるなら、きっと物事は私が望んでいたとおりにはならなかったのでしょう。
由紀の目に涙が浮かんだ。
まず、何があっても自分たちを責めないでね。人生がどれほど突然変わってしまうか、私はよく知っています。だから、二人には背負う必要のない罪悪感を抱えてほしくありません。
一つだけ、お願いがあります。
陽翔のことを、どうかよろしくお願いします。
由紀は読む手を止めた。
大地がそっと肩に手を置いた。
彼女は続きを読む。
あの子が頑固なのはわかっています。どうでもいいことで言い争う悪い癖があることも、きっと二人の料理に文句を言うだろうことも、よくわかっています。
大地が小さく笑った。
「いかにもあいつらしいな」
由紀は涙の中で微笑んだ。
でも、陽翔は本当に素晴らしい青年です。
頭がよくて、おもしろくて、思いやりがあって、そして周囲の人が思っている以上に、自分のことを自分で決める力を持っています。
あの子は多くのことに介助が必要です。でも、だからといって、誰かに自分の人生を代わりに生きてもらう必要があるわけではありません。どうか、その二つを混同しないでください。
由紀は手紙を胸に押し当てた。
大地はうつむいた。
あの子が何を望んでいるのか、聞いてあげてください。話すことに耳を傾けてください。そして、自分のやり方で何かをしたいと言い張ったときには、安全にできる限り、その機会を与えてあげてください。
何より、助けが必要だからといって、自分が誰かの負担になっていると思わせないでください。
由紀は泣き始めた。
大地が彼女の肩を抱いた。
私は二十二年間、息子を育ててきました。その中で一つ学んだことがあるとすれば、陽翔には同情してくれる人なんて必要ないということです。
あの子に必要なのは、隣に立ってくれる人たちです。
そして、いつか、あの子が受け取るにふさわしいほど、心から愛してくれる誰かが現れてくれたらと思います。
最後の数行は、少し不揃いな文字で書かれていた。
私の家族でいてくれて、ありがとう。
これからも、陽翔の家族でいてあげてください。
愛を込めて。
美咲
由紀は手紙を下ろした。
長い間、二人とも何も言わなかった。
やがて大地が陽翔の寝室へ目を向けた。
「……助けが必要だな」
由紀は涙を拭った。
「ええ」
「専門家の助けだ。あいつに必要な介助を、本当に理解してる人の」
由紀はうなずいた。
「私たちだけじゃ、できないわ」
大地はもう一度手紙を見た。
「だったら、二人だけでやろうとしなくていい」
助けを必要としていた看護師
翌日の夜、葵は美香のマンションで過ごしていた。
友人が強く言い張ったからだ。
いや、「強く言い張った」という表現では、まだ優しすぎるかもしれない。
一人で家に帰ろうものなら、自分で引きずってでも連れてくると、美香はほとんど脅していたのだから。
今、葵は借りたパジャマを着てリビングのソファに座り、マグカップに入ったお茶を持っていた。
美香がキッチンから、麺料理の入った器を二つ持って現れた。
「ごはんよー!」
葵は料理を見た。
「甘やかしてくれるわね」
「誰かが甘やかしてあげないとね」
美香は器をローテーブルに置いた。
それから隣に腰を下ろす。
「被害届の相談、ちゃんとしてきた?」
葵はうなずいた。
「うん」
「それで?」
「話は聞いてもらえた。メッセージと写真も見せたわ」
「よかった」
「病院でのことも話した」
美香はほっとした様子だった。
「やっとね」
葵は目を回した。
「そんな得意げな顔しないでよ」
「得意げにもなるわよ」
「なんで?」
「あなたにまともな行動を取らせることができたんだから」
葵は笑った。
「おめでとうございます」
美香は箸を手に取った。
「で、これからどうなるの?」
「わからない」
葵はお茶を見つめた。
「証拠は全部残しておくようにって。それから、また近づいてきたり、脅してきたりしたら連絡するように言われた」
美香はうなずいた。
「そっか」
葵はため息をついた。
「……もう放っておいてほしいだけなのに」
美香の表情が和らいだ。
「わかってる」
数分間、二人は静かに食事をした。
やがて美香が友人を見た。
「少し仕事を休むこと、考えたことある?」
葵は顔を上げた。
「え?」
「仕事よ」
「なんで?」
「疲れ切ってるから」
「いつも疲れてるわよ」
「そういう問題じゃないの」
葵は肩をすくめた。
「家賃を払わなくてよくなるわけじゃないし」
美香は器を置いた。
「葵。あなた、体中あざだらけで、ほとんど眠れてなくて、おまけに元彼にストーカーされてるのよ」
葵は目をそらした。
「ご丁寧にまとめてくれてありがとう」
「真面目に言ってるの」
「わかってる」
美香はソファの背にもたれた。
「しばらく別の仕事を考えてみたら?」
葵は眉をひそめた。
「例えば?」
「もう少しストレスの少ない仕事」
「具体的には?」
「わからないけど……訪問看護とか?」
葵は笑った。
「それが必ずしも楽な仕事ってわけじゃないわよ」
「じゃあ、もっと勤務時間が安定してるところとか」
葵はその提案について考えた。
病院の看護師を辞めることを、時々考えたことはあった。
仕事が嫌いだからではない。
ただ、不規則な交代勤務は疲れるうえ、私生活らしいものを送る余裕がほとんどなかった。
それでも、ほかの選択肢を真剣に調べたことはなかった。
「……わからない」
正直に認めた。
美香は微笑んだ。
「考えるだけ考えてみなよ」
葵はうなずいた。
すると、ふとある青年のことが頭に浮かんだ。
318号室の高橋陽翔。
皮肉屋の車椅子ユーザー。
人生最悪の一週間を過ごしていた彼女を、なぜか笑わせることができた青年。
今頃、どうしているだろう。
家族との住まいの話し合いは進んだだろうか。
まともな食事はできただろうか。
そして、まだ病院のリンゴジュースに文句を言っているのだろうか。
葵の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
美香はすぐに気づいた。
「何?」
葵は顔を上げた。
「ん?」
「笑ってる」
「笑ってないわよ」
「笑ってるって」
葵は眉をひそめた。
「笑っちゃいけないの?」
「もちろん、いいわよ」
美香は身を乗り出した。
「でも、その顔、知ってるのよねえ」
葵はうめいた。
「ああ、始まった……」
「男?」
「違う」
「イケメン?」
「美香」
「お医者さん?」
「違う」
「看護師?」
「違うってば!」
美香は大げさに息をのんだ。
「……患者さん?」
葵は危うくお茶を吹き出すところだった。
「はあっ!?」
美香は大笑いした。
「嘘でしょ! 本当に患者さんなの!?」
葵は彼女を指さした。
「変なこと言わないで!」
「名前は?」
「絶対に教えない」
「何歳?」
「美香!」
「かっこいい?」
葵は両手で顔を覆った。
「……なんで私たち、友達なんだろう」
美香はにやりと笑った。
「私が最高に魅力的だからでしょ」
葵はため息をついた。
「仕事で知り合った人ってだけよ」
「ふうん?」
「今、大変な時期を過ごしてるの」
「ふうん?」
「だから、心配してるだけ」
美香の笑顔が少し薄れた。
「葵」
葵は顔を上げた。
「何?」
「……気をつけなよ」
眉をひそめる。
「何に?」
「自分がケアしてる相手に、感情移入しすぎること」
葵はその忠告について考えた。
美香の言うことが正しいのはわかっていた。
看護には思いやりが必要だが、専門職としての境界線も重要だった。特に悲しみや弱さを抱えている時期には、患者が介助者に強い感情的なつながりを感じることがある。
そして、介助する側だって、そうした感情と無縁ではない。
葵はため息をついた。
「心配しないで」
お茶に手を伸ばす。
「別に、あの人に恋するわけじゃないんだから」
美香は片眉を上げた。
「そういう台詞を言う人ほどねえ」
葵はクッションを投げつけた。
一枚の写真
翌日の午後、陽翔は病室でスマートフォンの写真を眺めていた。
公園で母と一緒に撮った写真だった。
母は黄色いジャケットを着ていて、風に髪をなびかせながら、陽翔の言った何かに笑っていた。
陽翔はその瞬間を、はっきりと覚えていた。
その日の午前中、二人は舗装された散歩道で競走をしていた。
美咲が勝負を挑んできたのだ。
当然、勝ったのは陽翔だった。
もっとも、母は電動車椅子を使うのは反則だと言い張っていたが。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「……相変わらず負けず嫌いだね、母さん」
写真を拡大した。
母の笑顔が画面いっぱいに広がった。
数秒間、ただ見つめていた。
やがて視界がぼやけた。
母の声が恋しかった。
笑い声が恋しかった。
ひどい冗談だと文句を言いながら、結局は笑ってくれた、その姿が恋しかった。
何より恋しかったのは、何でもない日常の瞬間だった。
これからもずっと続くと思っていたから、ありがたみを感じようとさえしなかった、そんな瞬間たち。
ノックの音が思考を遮った。
「どうぞ」
由紀が入ってきた。
「こんにちは、陽翔ちゃん」
陽翔は慌てて目を拭いた。
「……こんにちは」
由紀は車椅子のそばへ近づいた。
「具合はどう?」
「大丈夫です」
由紀はスマートフォンをちらりと見た。
「その写真?」
陽翔はうなずいた。
「はい」
彼女は身をかがめた。
「ああ、陽翔……」
目に涙が浮かんだ。
「素敵な写真ね」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「これにしたいです」
「じゃあ、これにしましょう」
由紀は隣に座った。
「お葬式の準備も、ほとんど終わったわ」
陽翔は目を伏せた。
「……はい」
「会場は、車椅子でも問題なく利用できるところにしたからね」
陽翔はうなずいた。
「移動の手段も手配してあるわ」
「……はい」
由紀は少しためらった。
「式の中で、何か話してみたい?」
陽翔は顔を上げた。
「え?」
「お母さんについて、少しだけでも」
陽翔は彼女を見つめた。
大勢の人の前で母の死について話すことを想像しただけで、胃がねじれるようだった。
「……わかりません」
「今すぐ決めなくてもいいのよ」
陽翔は写真へ目を戻した。
長い間、黙っていた。
そして、小さくつぶやいた。
「……できるかわからないです」
由紀はそっと肩に触れた。
「それでもいいの」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「途中で泣き出したら?」
由紀は悲しげに微笑んだ。
「そのときは、泣けばいいわ」
「最後まで話せなかったら?」
「誰かに手伝ってもらえばいいのよ」
陽翔は彼女を見た。
由紀は続けた。
「みんなのために、無理して強くいようとしなくてもいいのよ、陽翔」
陽翔の目に涙が浮かんだ。
「……母さんも、いつもそう言ってました」
由紀はうなずいた。
「知ってるわ」
陽翔はもう一度、写真を見下ろした。
撮影した日のことを思い出す。
日差し。
そよ風。
母の笑い声。
そして、電動車椅子を使っている自分が有利なのかどうかをめぐる、くだらない言い争い。
みんなには、そんな母を覚えていてほしかった。
病院のベッドに横たわっていた女性としてではなく。
がんに衰弱させられた患者としてでもなく。
公園で息子と競走して、負けたら文句を言っていた、そんな母として。
陽翔は震える息を吸った。
「……わかりました」
由紀が身を寄せた。
「いいの?」
陽翔はうなずいた。
「やってみます」
由紀は微笑んだ。
「それだけで十分よ」
陽翔は窓へ目を向けた。
外では午後の日差しが街を照らしていた。
病院の向こうのどこかでは、いつもどおりの生活が続いている。
人々は仕事へ急ぎ。
子供たちは学校から帰り。
家族たちは食卓を囲む。
そして、もうすぐ。
静かな葬儀場で、陽翔は自分の世界の中心だった女性に別れを告げなければならない。
まだ、心の準備はできていなかった。
これから先も、準備ができる日など来ないような気がした。
それでも、やってみようと思った。
母のために。水野葵黒田拓海高橋陽翔高橋美咲居宅介護訪問看護介助葬儀社診療記録敷地内衰弱




