第5章 おしゃべりが止まらない看護師
高橋陽翔が水野葵について最初に知ったのは、彼女には驚異的なおしゃべりの才能があるということだった。
そして二つ目に知ったのは、どうやら彼女が沈黙を個人的な侮辱と受け取るらしい、ということだった。
「おっはよう、太陽さん!」
陽翔は目を開けた。
病院のベッドの横には、昨夜も訪ねてきたあの看護師が立っていた。片手にはタブレット、もう片方には小さな紙袋を持っている。
黒髪はポニーテールにまとめられ、昨日と同じ淡い青色のスクラブを着ていた。左目の下のあざはまだ見えていたが、化粧で隠そうとした形跡があった。
陽翔は彼女を見て、まばたきをした。
「……今、何時ですか?」
「七時半」
陽翔はじっと見つめた。
「……朝の?」
葵は窓のほうを見た。半分閉じられたカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
「いいえ、夕方の七時半よ。太陽がちょっと勘違いしてるだけ」
陽翔はうめいた。
「なんでいるんですか……」
「うわあ。せっかく友達になれそうだと思ってたのに」
「そうじゃなくて、もう帰る時間じゃないんですか?」
「厳密にはそうね。もうすぐ勤務終了」
「じゃあ、なんで僕の邪魔をしてるんですか?」
葵は紙袋をベッド脇のテーブルに置いた。
「だって、誰かさんが病院食は人類文明に対する侮辱だって言ってたから」
陽翔は袋を見た。
「それ、何ですか?」
「朝ごはん」
「どこの?」
「下の食堂」
陽翔はがっかりした顔になった。
葵はそれを見逃さなかった。
「ちょっと! そんな顔しないでよ。靴の裏からこそげ落としたみたいに見えないものを、わざわざお願いしたんだから!」
「基準、低すぎません?」
「限られた資源の中で頑張ってるのよ」
袋を開けると、小さな容器に入ったお粥と、お茶を取り出した。
陽翔は差し出された食事を観察した。
「……あ、これは食べられそう」
「最高の褒め言葉ね」
「調子に乗らないでくださいよ」
葵は笑い、食事を高さ調節のできるテーブルに置いた。
それから陽翔の手へ目を向ける。
「食べるの、手伝おうか?」
陽翔はためらった。
特別な質問ではなかった。彼は人生の大半で食事の介助を必要としてきたし、母はそれを大げさなことのように感じさせず、いつも自然に手伝ってくれていた。
しかし、見知らぬ人から同じ介助を受けるのは違った。
母とは何年もかけて生活の習慣を作り上げてきた。細かいことをいちいち説明しなくても、自分の好みが伝わるようになっていた。
今、目の前にいる看護師は、スプーンにどれくらいの量を乗せてほしいのか、どのくらいの速さで食べたいのか、飲み込むためにいつ少し時間が必要になるのか、何も知らない。
これまでに起きた出来事と比べれば、ほんの小さな不便だった。
だからこそ、余計に腹立たしく感じられた。
「……はい。お願いします」
葵はベッドの横に椅子を引き寄せた。
「了解。何か特別な指示は?」
陽翔は彼女を見た。
「僕にこぼさないでください」
葵は胸に手を当てた。
「お客様、私は訓練を受けた医療の専門家ですよ」
「質問の答えになってないです」
「まあ、なんて失礼な」
陽翔は思わず微笑んだ。
葵はその表情に気づいたが、賢明にも何も言わなかった。
テーブルの位置を調整し、陽翔が楽な姿勢でいられることを確認してから、スプーンで少量のお粥をすくった。
「温度、大丈夫?」
陽翔は口に含んだ。
「はい」
「量は多すぎない?」
「大丈夫」
「速すぎる?」
「先生より質問が多いですね」
「だって、先生は朝ごはんをこぼして患者さんに殴られる心配をしなくていいもの」
陽翔は自分の細い腕を見た。
「……その心配はないと思いますけど」
葵はにやりと笑った。
「よかった。怖くて仕方なかったのよ」
食事の間も、二人の会話は続いた。
病院食への他愛ない文句から、葵の過酷な勤務時間、そして病室のテレビのリモコンを設計した人間は訴えられるべきだという陽翔の意見まで、話題は次々と移り変わった。
容器が空になったとき、陽翔はあることに気づいた。
食事を全部食べ終えていたのだ。
母が亡くなって以来、初めてだった。
葵は食器を片づけた。
「ほらね。朝食を無事に生き延びたわ」
「ぎりぎりでしたけど」
「カルテに書いておこうか?」
「ぜひ」
葵はタブレットに入力するふりをした。
「『患者は優秀な看護を受けたにもかかわらず、依然として非常に扱いにくい』っと」
陽翔は笑った。
短かったが、本物の笑い声だった。
ほんの一瞬、病室の重苦しさが薄れた。
しかし、彼の視線が窓際の空いた椅子へ移った。
母が座っていたはずの椅子。
笑顔が消えた。
葵はその視線を追った。
何があったのかとは聞かなかった。
代わりに、静かに食器を脇へ置いた。
「陽翔?」
「……はい?」
「カーテン、開けようか?」
陽翔は窓を見た。
「……お願いします」
葵は部屋を横切り、カーテンを開いた。
朝日が病室いっぱいに広がり、淡い色の壁と、ベッドの横に停められた青い電動車椅子を照らした。
陽翔は床に広がる光を見つめた。
母はいつも、朝一番にカーテンを開けることにこだわっていた。
太陽は怠け者を待ってくれないのよ。
よく、そう言っていた。
陽翔は唾を飲み込んだ。
葵がベッドのそばへ戻ってくる。
「少しはよくなった?」
陽翔はうなずいた。
「……はい」
少し間を置く。
「ありがとう」
「いつでもどうぞ」
家族会議
午前も遅い時間になる頃、陽翔は介助を受けて車椅子に移り、病院の三階にある小さな相談室で待っていた。
向かい側には叔母と叔父が座っている。
高橋由紀は、大きなハンドバッグを持ってきていた。中には書類、ティッシュ、ペットボトルの水、そして雑多な品々が詰め込まれている。その様子は、今まさに直面している問題以外の、ありとあらゆる緊急事態に備えてきたかのようだった。
隣に座る大地は、スマートフォンで情報を確認していた。
テーブルの上座には、医療ソーシャルワーカーの田中恵子が座っている。
陽翔に必要な身体的支援について説明するため、リハビリテーション部門の看護師も同席していた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
恵子が話し始めた。
陽翔は時計をちらりと見た。
できることなら、ここ以外のどこにでも行きたかった。
「陽翔さんの医学的な評価と身体機能の評価を確認しました。退院後の生活について話し合う前に、まずはご本人の希望を伺いたいと思います」
由紀が身を乗り出した。
「もちろんです。私たちは、この子にとって一番いいことをしてあげたいだけですから」
恵子はうなずいた。
「お気持ちは理解できます。ただ、陽翔さんは成人されています。ご本人の希望を中心に話し合いを進める必要があります」
彼のほうを向いた。
「陽翔さん、退院したあと、どのように暮らしたいですか?」
陽翔はテーブルを囲む人々を見回した。
答えは明白だった。
「家に帰りたいです」
由紀の表情が和らいだ。
「ああ、陽翔ちゃん……」
陽翔の体がこわばった。
その声の調子が、だんだん嫌になってきていた。
恵子は続けた。
「今まで住んでいたご自宅、ということですね?」
「はい」
「お母様と暮らしていたマンションですか?」
うなずく。
「僕のものは、全部そこにあります」
大地がスマートフォンを置いた。
「陽翔、気持ちはわかる。でも、一人で暮らすのは簡単じゃないぞ」
「わかってます」
「お母さんが、ほとんど全部手伝ってくれてたんだろう?」
陽翔は奥歯を噛みしめた。
「……いろいろ手伝ってもらってました」
大地は車椅子を示した。
「そうだろう。じゃあ、これからどうするんだ?」
陽翔が答えるより先に、リハビリテーション部門の看護師が口を開いた。
「それを検討するための話し合いです。親戚と同居するか、施設に入るか、その二つしか選択肢がないと決めつけるべきではありません」
大地は驚いた顔をした。
「ほかにも方法があるんですか?」
「可能性はあります」
恵子が答えた。
「利用条件やサービスの空き状況によりますが、居宅介護、訪問看護、日常生活を支えるための介助サービスなど、地域で利用できる支援を検討できます」
由紀が身を乗り出した。
「実際に、陽翔の家まで来てもらえるんですか?」
「可能な場合もあります。ただし、必要な支援の程度を確認し、適切な体制を整えられるか判断する必要があります」
陽翔は真剣に耳を傾けていた。
母が亡くなってから初めて、障害があるというだけで自分の人生を決める権利を手放さなければならない、という前提なしに、将来の話が進んでいた。
恵子が彼へ向き直る。
「陽翔さん、ご自宅での普段の一日の流れを教えていただけますか?」
陽翔は少し考えた。
「母さんが、だいたい七時頃に起こしてくれました」
「車椅子への移乗も、お母様が介助されていましたか?」
「はい」
「どのように移乗していましたか?」
「家にリフトがあります」
看護師がメモを取った。
「どんな種類のものかわかりますか?」
陽翔は覚えている範囲で機器の特徴を説明した。
看護師はうなずいた。
「わかりました。実際の設置状況も確認したいですね」
恵子は続ける。
「食事については?」
「母さんが作って、食べるのも手伝ってくれてました」
「入浴は?」
「それも手伝ってもらってました」
「お薬は?」
陽翔は普段の流れを説明したが、母がいつも管理していた細かいことを思い出すため、ときどき言葉を止めなければならなかった。
話し合いが進むにつれて、居心地の悪さが増していった。
質問が不当だと思っているわけではない。
必要な情報であることは理解していた。
それでも、自分の日常生活が一つ一つの介助項目に分解されていくのを聞いていると、母がどれほど多くのことをしてくれていたのか、痛いほど思い知らされた。
母は一度も文句を言わなかった。
少なくとも、本気で文句を言うことはなかった。
時々、陽翔を育てたおかげで、朝食を作りながら電話に出て、同時にテレビ番組について息子と言い争うことまでできる、プロのマルチタスカーになったと冗談を言っていた。
今、相談室に座りながら、陽翔は考えていた。
母は、どれほど疲れていたのだろう。
そのことまで、僕に隠していたのだろうか。
由紀の声が思考を遮った。
「うちに来てもらえばいいんじゃないかしら」
大地が彼女を見た。
「由紀……」
「何よ?」
「どうやって全部やるのか、まだ話し合ってないだろう」
「覚えればいいじゃない」
「できないとは言ってない。ちゃんと考える必要があるって言ってるんだ」
由紀は眉をひそめた。
「家族なのよ」
「家族なのはわかってる」
「じゃあ、何が問題なの?」
大地は息を吐いた。
「うちには階段がある。俺たちは二人とも仕事をしてる。陽翔に必要な機器だってないんだぞ」
陽翔はテーブルを見つめた。
始まった。
ずっと恐れていた会話だ。
由紀が彼へ向き直る。
「心配しないで、陽翔ちゃん。何とかするから」
陽翔は顔を上げた。
「……それ、言うのやめてもらえませんか?」
由紀は目をぱちくりさせた。
「え?」
「『心配しないで』『何とかする』って。みんな、そればっかり言うんです」
「陽翔……」
「でも、実際にどうするのか、誰もわかってないじゃないですか」
相談室に沈黙が落ちた。
大地は目をそらした。
由紀は傷ついたような顔をした。
陽翔はすぐに自分の口調を後悔したが、謝る気にはなれなかった。
恵子が優しく口を開いた。
「陽翔さん、叔母様と叔父様のお宅で暮らすことについて、一番心配なことは何ですか?」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「……全部です」
恵子は待った。
陽翔は由紀を見た。
「僕、もう二人のこと、ほとんど知らないんです」
由紀は目を見開いた。
「私たちは家族でしょう?」
「わかってます」
「だったら……」
「家族だからって、一緒に暮らすのがどんな感じか、わかるわけじゃないです」
声が震えた。
「僕は二人の生活の仕方を知らないし、二人も僕の生活の仕方を知らない。機器の使い方もわからないし、そもそも家が車椅子で使えるのかどうかもわからない」
大地はゆっくりとうなずいた。
「それは、そのとおりだな」
陽翔は続けた。
「それに、助けが必要だからって、誰かに恩を着せられてるみたいな気持ちで、一生暮らしたくないんです」
由紀はショックを受けたようだった。
「陽翔、私たちはそんなこと……」
「そうするって言ってるんじゃないです」
陽翔は目を伏せた。
「……そうなるかもしれないのが、怖いんです」
数秒間、誰も話さなかった。
やがて大地が身を乗り出した。
「陽翔」
顔を上げる。
叔父の表情が変わっていた。
先ほどまでの居心地の悪そうな防御的な態度は消え、代わりに何かを真剣に考えているようだった。
「俺たち、最初から考え方を間違えてたのかもしれないな」
由紀が夫を見た。
「大地?」
「家族なんだから引き取るべきだって、そう思ってここに来た」
陽翔へ目を向ける。
「でも、それがお前の望みなのか、一度も聞かなかった」
陽翔は黙っていた。
大地はため息をついた。
「正直に言う。お前に必要な介助を全部できるかって言われたら、俺にはわからない。できもしないことを約束したくないんだ」
由紀は目を伏せた。
「でも、助けたいとは思ってる」
大地は続けた。
「機器の使い方を覚える必要があるなら、覚える。お前が自分の家で暮らせるようにサービスを探す必要があるなら、それも一緒に考える」
陽翔は叔父を見つめた。
「……本気ですか?」
大地はうなずいた。
「ああ」
由紀はティッシュに手を伸ばした。
「もちろんよ」
恵子はかすかに微笑んだ。
「それなら、よい出発点になると思います」
タブレットを皆に見えるように向ける。
「では、専門的な支援を利用しながら、ご自宅へ戻ることが可能かどうか、まずは評価していきましょう」
陽翔は画面を見た。
初めて、自分が本当に望めるかもしれない未来について話し合っているように感じられた。
招かれざるメッセージ
葵が自動販売機のコーヒーを半分ほど飲んだところで、スマートフォンが振動した。
画面を見る。
知らない番号だった。
最初は無視しようかと思った。
しかし、メッセージを開いてしまった。
昨夜はきれいだったな。
葵は飲むのをやめた。
文字を見つめる。
続けて、もう一通届いた。
もう遊び歩いてるとは思わなかったよ。
胃が締めつけられた。
誰なのか、すぐにわかった。
数秒間、自動販売機の横で動けなくなった。遠くの廊下では、病院職員たちが行き交う音が聞こえていた。
やがて返信を打った。
もう私に関わらないで。
返事はほとんど即座に届いた。
冷たいな。
葵は奥歯を噛みしめた。
私たちはもう終わったの。二度と連絡しないで。
番号をブロックした。
そして、その場に立ったまま待った。
何も起きなかった。
知らず知らず止めていた息を吐き出す。
「……信じられない」
スマートフォンをポケットにしまった。
元彼は昔からしつこい男だった。
付き合い始めた頃、葵はその執着を愛情だと勘違いしていた。彼は彼女の予定を覚え、どこへ行くのかを必ず知りたがり、突然プレゼントを持って現れることも多かった。
当時はロマンチックに思えた。
プレゼントが謝罪の代わりになるまでは。
質問が尋問に変わるまでは。
友人関係を脅威とみなし、彼女が自分の意思で行動することにさえ、彼の許可が必要であるかのように振る舞い始めるまでは。
葵は額をこすった。
関係は終わらせた。
番号もブロックした。
もう連絡してほしくないと、はっきり、何度も伝えた。
しかし彼にとって、その境界線は守っても守らなくてもいいものらしかった。
再びスマートフォンが振動した。
葵は固まった。
取り出す。
また知らない番号。
今度は写真が添付されていた。
自分のアパートの玄関扉。
廊下側から撮影されている。
その下には、短い文章があった。
今朝は家にいなかったな。
葵の顔から血の気が引いた。
ノックの音。
誰もいなかった廊下。
誰かに見られているような、あの不快な感覚。
もう一度写真を見る。
自分の部屋の扉に間違いなかった。
鍵の近くの小さな傷。
色あせた部屋番号。
数か月前、ドア枠に貼った細い飾りテープ。
すべて自分のものだった。
葵はすぐにスクリーンショットを撮り、メッセージと送信元の番号を保存した。
それから美香に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、友人が出た。
「もしもし?」
「美香」
その声に何かを感じ取ったのか、美香は体を起こした。
「どうしたの?」
「……あいつ、私のあとをつけてるかもしれない」
一瞬の沈黙。
「誰?」
葵は目を閉じた。
「わかるでしょ」
美香の声が一変した。
「何があったの?」
葵はメッセージについて説明した。
写真のこと。
アパートの扉を叩かれたこと。
話し終える頃には、美香は激怒していた。
「あのクソ野郎!」
葵は廊下を見回した。
「声、大きいって」
「ふざけないでよ! あいつ、あんたの家まで来たんでしょ!」
「わかってる」
「警察には連絡した?」
「まだ」
「葵!」
「仕事中なの!」
「仕事中だからって、通報できないわけじゃないでしょ!」
葵はこめかみを押さえた。
「わかってるってば」
美香の声が少し和らいだ。
「今は安全なの?」
葵はナースステーションのほうを見た。
「うん。病院にいるから」
「あいつ、勤務先を知ってる?」
葵はためらった。
その沈黙だけで、美香には伝わった。
「……嘘でしょ」
「前に来たことがあるの」
「だったら病院の警備にも知らせなきゃ」
葵はスマートフォンを見た。
写真がまだ画面に表示されている。
大したことではないと思い込みたかった。
ただ怖がらせようとしているだけだと、自分に言い聞かせたかった。
しかし、救急医療の現場で十分な経験を積んできた彼女は、脅迫や嫌がらせがさらに深刻な事態へ発展する可能性を知っていた。
昨夜までとは違う。
無視していれば問題が消えると、もう自分をごまかすことはできなかった。
「……わかった」
葵は言った。
美香が息を吐く。
「わかったって?」
「警備に話す。それから、警察にも相談する」
「約束?」
葵は目を閉じた。
「約束する」
通話を終えたあとも、しばらく自動販売機の横に立っていた。
もう一度写真を開く。
撮影位置は、彼女の玄関の真正面だった。
誰かがそこに立っていた。
待ちながら。
見張りながら。
葵は唾を飲み込んだ。
別れを告げて以来、初めて本気で考えた。
元彼は、自分を手放すつもりがないのかもしれない。
おもしろい人間の困ったところ
正午を少し過ぎた頃、陽翔は病室へ戻った。
家族会議ですっかり疲れ果てていたが、叔母と叔父がようやく自分の希望に耳を傾け始めたことには、ほっとしていた。
窓の近くで車椅子に座っていると、葵が扉のところに現れた。
「コンコン、お邪魔しまーす」
陽翔は振り向いた。
「もう勤務終わってるはずですよね」
葵は中へ入った。
「終わってるわよ」
「じゃあ、なんでまだいるんですか?」
「帰る前に、ちょっと片づけなきゃいけないことがあってね」
小さな紙パックを掲げた。
「それに、和平の贈り物を持ってきたの」
陽翔はそれを見た。
「リンゴジュース?」
「高級病院産リンゴジュースよ」
「何が高級なんですか?」
「値段」
陽翔は笑った。
葵は紙パックをテーブルに置いた。
「会議はどうだった?」
陽翔は少し考えた。
「思ってたより、よかったです」
「それはよかった」
「家に帰れるかどうか、調べてくれることになりました」
葵は微笑んだ。
「いい方向に進んでるじゃない」
「まだ何も決まってないですけど」
「それでも、一歩前進よ」
陽翔はうなずいた。
そこで、葵の様子が少しおかしいことに気づいた。
笑顔は浮かべているものの、ときどき意識が扉のほうへ向いている。
「……大丈夫ですか?」
葵が彼を見た。
「ん?」
「なんか変ですよ」
片眉を上げる。
「まあ、失礼ね」
「いつもより変って意味です」
「気をつけなさいよ。高級リンゴジュースを渡すかどうかは、私次第なんだから」
陽翔は微笑んだ。
それから、彼女の顔をじっと見た。
「……本当に」
葵はためらった。
一瞬、メッセージのことを話そうかと思った。
しかし、陽翔は自分自身の問題だけで十分すぎるほど大変な状況にある。
彼女の問題まで心配させる必要はなかった。
「ちょっと長い一日だっただけ」
陽翔はゆっくりとうなずいた。
「……そうですか」
葵は紙パックの位置を直した。
「さて、そろそろ行かなきゃ」
「はい」
扉へ向かう。
「葵さん?」
足を止めた。
「なあに?」
陽翔は彼女を見た。
「いつも平気なふりをしなくてもいいんですよ」
予想外の言葉だった。
葵は彼を見つめた。
一瞬、いつもの皮肉な返事が出てこなかった。
それから笑った。
「それ、あなたが言う?」
陽翔は小さく笑った。
「……確かに」
葵は車椅子のそばへ近づいた。
「自分のこと、大事にしてね」
「葵さんも」
再び扉へ向かう。
すると、陽翔がまた口を開いた。
「あと、葵さん」
振り向く。
「今度は何?」
陽翔はにやりと笑った。
「そのリンゴジュース、たぶんまずいですよ」
葵は胸に手を当てた。
「信じられない! せっかく心のこもった贈り物を持ってきたのに、その感謝の仕方は何なの?」
「現実的なだけです」
「私がプロの看護師でよかったわね」
「それはどうでしょう」
葵は笑った。
「じゃあね、陽翔」
「さようなら」
葵は病室を出た。
陽翔は扉が閉まるのを見送った。
テーブルの上に置かれたリンゴジュースを見る。
それから、車椅子の横にある何もない空間へ視線を向けた。
母が恋しかった。
その気持ちは変わらない。
悲しみはまだそこにあった。重く、疲れ果てるほど深く、少しでも考えがさまよえば、たちまち彼を押しつぶそうとしてくる。
それでも、母が亡くなってから初めて、彼女の思い出を裏切っているような罪悪感を抱かずに、何分間も笑うことができた。
母は葵をどう思っただろう。
きっと、おしゃべりすぎると言ったに違いない。
もっとも、母自身も決して静かな人ではなかったのだが。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「……うん」
小さくつぶやく。
「二人なら、きっと気が合っただろうな」
病院に現れた男
葵は帰る前に、警備室へ立ち寄った。
警備員にメッセージを見せ、事情を説明し、元彼の名前と人相を伝えた。
警備員は注意深く話を聞いた。
「受付と関係する警備担当者には情報を共有しておきます。もし彼が敷地内に入ってきて問題を起こしたら、すぐに連絡してください」
葵はうなずいた。
「ありがとうございます」
「特に自宅まで来ているようですから、警察にも嫌がらせの被害を届け出ることをお勧めします」
「そうします」
警備員は写真を見た。
「それと、これらのメッセージは絶対に消さないでください」
「わかりました」
警備室を出た葵は、職員用の出入口へ向かった。
その夜は自宅へ直接帰らず、美香の家に泊まる約束をしていた。
面倒ではあった。
しかし、玄関の外に誰かが立っているのではないかと怯えながら、もう一晩過ごすよりは、はるかにましだった。
エレベーターに乗り込む。
扉が閉まると同時に、スマートフォンが振動した。
葵は画面を見下ろした。
またメッセージ。
また知らない番号。
ほかの人を巻き込むべきじゃなかったな。
息が詰まった。
続けて二通目が届く。
ただ話がしたいだけなんだ。
葵は画面を見つめた。
そして、三通目。
それにしても、いい病院だな。
エレベーターは下降していた。
葵はゆっくりと、鏡のように光る金属製の扉へ目を上げた。
映った顔は、青ざめていた。
その頃、病院の建物のどこかでは、黒っぽいジャケットを着た男が正面玄関の近くに立っていた。
自動ドアを通り抜ける職員や来院者を眺め、ときどきエレベーターのほうへ目を向けている。
手には携帯電話が握られていた。
男は画面を確認した。
返事はない。
表情が険しくなった。
やがて携帯電話をポケットにしまい、受付カウンターへ歩いていった。
「すみません」
愛想のよい声で話しかける。
受付係が顔を上げた。
「はい、いかがなさいましたか?」
男は微笑んだ。
「人を探しているんです」高橋陽翔水野葵高橋由紀田中恵子大地美香移乗居宅介護訪問看護身体機能介助主介助者




