第4章 突然の担当交代! 母を亡くした患者のケアを学ぼう!
シャワーヘッドから温かい湯が降り注ぎ、狭い浴室はたちまち湯気で満たされた。
水野葵は目を閉じ、肩を伝って流れ落ちる湯の感触に身を任せていた。
普段なら、熱いシャワーはつらい一日の疲れを癒やすお気に入りの方法だった。特に救急外来で何時間も働き、けが人や病人、そしてどう考えても理解に苦しむ判断をした人々の相手をしたあとは、なおさらだった。
しかし、今日のシャワーはいつもほど心地よくなかった。
左胸の下には鈍い痛みが残り、肋骨の下部に沿って広がっていた。少し急に体を動かすだけで、その痛みは鋭く突き刺すようなものに変わり、思わず動きを止めてしまう。
葵は痛む部分へ手を下ろした。
あざは一晩でさらに濃くなっていた。
昨日までは赤紫色だった皮膚が、今では青、紫、黒の醜い混合色になっている。まるで紙の上にインクをこぼしたように、白い肌の上へ広がっていた。
上腕や肩にも小さなあざが点在し、古い傷のいくつかは不健康そうな黄色へと変色していた。
葵は、長年人体の構造を学んできた医療従事者らしい、どこか他人事のような好奇心でその状態を観察した。
「うわあ、なんて魅力的なんでしょう」
あざの端に二本の指を押し当てる。
瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。
「痛っ! くそっ!」
慌てて手を引っ込める。
さすがね、葵。天才的な判断だわ。痛いところをわざわざ押してみるなんて。
皮肉を言ってみたものの、肋骨の周囲に続く圧痛は少し気になっていた。
打撲の下にもっと深刻な損傷が隠れている可能性があることは、看護師である彼女自身がよく理解している。もし同じ症状を訴える人が目の前にいたら、迷わず診察を受けるよう勧めていただろう。
残念ながら、自分の助言に従うことは、昔から得意ではなかった。
少し体を回し、背中に湯を浴びる。
昨夜の出来事は、まだ嫌になるほど鮮明に記憶に残っていた。
元彼。
駐車場での口論。
そして、あれほどひどいことをされたにもかかわらず、心のどこかで彼が謝ってくれるのではないかと期待していた自分への、屈辱的な気づき。
そんな自分が嫌だった。
彼の行動に自分の責任があると思っているわけではない。
ただ、別れたあとでさえ、彼が自分の思考をこれほど支配していることが腹立たしかった。
二人の関係は終わった。
そう決めたのは葵自身だ。
それなのに、こうしてシャワーを浴びながら、また彼のせいでせっかくの朝を台無しにしている。
「……もう、いい加減にして」
葵は蛇口に手を伸ばした。
湯が止まる。
しばらく残った湯気の中に立ち尽くしたあと、近くのタオル掛けからタオルを取った。
「新しい一日、新しい問題ってね」
肋骨に余計な圧力をかけないよう慎重に体を拭き、寝室へ向かった。
葵のアパートは小さいながらも居心地がよかった。こぢんまりしたリビングに簡易キッチン、浴室、そしてベッドとクローゼットを置くだけで精いっぱいの寝室がある。
窓辺には観葉植物がいくつか並んでいたが、そのうちの一鉢は最近、明らかに世話不足の兆候を見せ始めていた。
葵はその植物を見た。
「そんな目で見ないでよ。先週ちゃんと水をあげたでしょう?」
植物からの反論はなかった。
クローゼットを開けると、病院の制服がきれいに並んでいた。
どれも同じ淡い青色。
どれも同じデザイン。
以前は違う色を買おうかと考えたこともあったが、病院の規則によって、その野望はあっさり打ち砕かれた。
「今日もおしゃれだこと」
清潔な制服を一着取り出し、着替え始める。
スクラブの上着を頭からかぶる動作は、予想以上につらかった。特に布地が傷ついた肋骨に触れたときには、思わず顔をしかめた。
「……マジで?」
痛む部分に当たらないよう、服の位置を調整する。
それから鏡の前に立った。
顔のあざは昨夜より目立たなくなっていたものの、まだ十分にわかる程度には残っていた。
コンシーラーを使おうか迷ったが、やめた。
時間が足りない。
それに、職場は病院だ。
傷は都合が悪いからといって消えるものではない。そのことくらい、同僚たちなら理解してくれるはずだった。
髪を実用的なポニーテールにまとめ、胸元に職員証をつける。
AOI MIZUNO
REGISTERED NURSE
鏡に映る自分を眺めた。
「さて、水野看護師。あなた、三時間くらいしか寝てない人の顔をしてるわよ」
鏡の中の自分は否定しなかった。
葵はハンドバッグに手を伸ばした。
そのときだった。
コンコンッ!
動きが止まる。
誰かが玄関の扉を叩いた。
時計を見る。
知り合いが訪ねてくるには、ずいぶん早い時間だった。
美香は予定さえ許せば昼まで寝ているし、同僚たちは予告なしに訪ねてくるより、メッセージを送るほうを好む。
葵は玄関へ向かった。
「はーい!」
ドアスコープをのぞく。
廊下には誰もいなかった。
眉をひそめる。
「……もしもし?」
返事はない。
少し待ってから鍵を開け、慎重に扉を開いた。
誰もいない。
細長いアパートの廊下がエレベーターへ向かって伸びていた。階段付近の窓から差し込む淡い朝日が、通路を照らしている。
葵は少し身を乗り出した。
「誰かいますか?」
沈黙。
左右を見渡す。
足音もない。
話し声もない。
何もなかった。
一瞬、廊下に出て確かめようかと思った。
しかし、最近スマートフォンから削除した写真のことが頭をよぎる。
元彼の顔。
あの口論。
そして、二人の関係が終わったことを、彼がどうしても認めようとしなかったこと。
葵の胃が締めつけられた。
やめなさい。
扉を閉め、鍵をかける。
変な想像をするのはやめて。
部屋を間違えてノックする人なんて、いくらでもいる。
隣の部屋と勘違いしたのかもしれない。
配達員が階を間違えたことに気づいたのかもしれない。
ごく普通の説明なら、いくらでも思いつく。
最悪の事態を想像する理由なんてない。
「大丈夫よ、葵」
額を一瞬だけ扉に預ける。
「忘れなさい。仕事に行かなきゃ」
もう一度鍵を確認し、ハンドバッグを取った。
そして病院へ向かった。
夜勤
葵が病院に到着する頃には、空が暗くなり始めていた。
今日の勤務は夜通し続く予定だった。つまり、これから何時間もの間、蛍光灯と医療機器、そしてとうの昔に正常な睡眠習慣という概念を捨て去った同僚たちに囲まれて過ごすことになる。
病院は東京のにぎやかな地区に建つ、複数の建物が連結した大きな施設だった。日常的な治療から命に関わる緊急事態まで、さまざまな医療ニーズを持つ患者を受け入れている。
葵は長く働いていたため、ほとんど無意識に院内を移動できた。
どのエレベーターが一番遅いか。
どの自動販売機が時々小銭を飲み込むか。
休憩室のコーヒーが切れたとき、どの部署なら予備が残っている可能性が高いか。
そんなことまで熟知していた。
だが、それ以上に大切なのは、人々のことを知っているということだった。
医師、看護師、技師、清掃員、事務職員。
そして、病院を動かすために働く数えきれないほどの専門職たち。
決して楽な職場ではなかった。
それでも葵は、この仕事が好きだった。
どれほどひどい日でも、自分自身の問題とは別のところに役割があるという事実には、どこか安心できるものがあった。
ナースステーションに近づくと、見慣れた顔が患者の記録を確認しているのが見えた。
「こんばんは!」
日勤の看護師が顔を上げる。
「あら、葵。早いじゃない」
「そんなに残念そうに言わないでよ」
「遅刻してくれたら文句を言えたのに、って思ってたの」
「悲劇ね。明日はもっと頑張るわ」
女性は笑った。
葵はカウンターの下にバッグを置き、タブレットを取り出した。
「さてと。今日はどんな感じ?」
看護師がパソコンへ向き直る。
「312号室は安定してる。午後は特に大きな変化なし」
葵はうなずいた。
「よかった」
「316号室は人工呼吸器による呼吸管理中で、鎮静も継続してる。設定はさっき担当者が確認してくれたわ」
「何か問題は?」
「新しい問題はなし。医師からは夜間も継続して観察するよう指示が出てる」
葵はメモを取った。
「了解」
看護師は患者一覧を下へスクロールした。
「それから、318号室なんだけど」
その声の調子に、葵は何かを感じ取った。
顔を上げる。
「318号室がどうしたの?」
看護師は少しためらった。
「ちょっと特殊なケースなのよ」
葵は片眉を上げた。
「特殊って?」
「若い男性。二十代前半。重度の身体障害があって、電動車椅子を使ってる。日常生活の多くの場面で介助が必要なの」
「それで?」
「急性のパニック状態だったと思われる状況で意識を失って、搬送されたの」
葵の表情が真剣になった。
「身体的な合併症は?」
「今は安定してる。医師の診察も受けていて、引き続き経過観察中」
「じゃあ、何が特殊なの?」
看護師はカウンターにもたれた。
「……今日、お母さんが亡くなったの」
葵の手が止まった。
一瞬、ナースステーションの物音が遠ざかったように感じた。
「……そう」
「うん」
看護師はため息をつく。
「お母さんが主な介助者だったらしいの。亡くなったときも本人は病院にいて、そのあとソーシャルワーカーが今後の介助体制について話し始めたそうよ」
葵は患者一覧へ視線を向けた。
「それで倒れたの?」
「そういうこと。親戚が介助できるかどうか話しているうちに、ひどく動揺して意識を失ったみたい」
葵はタブレットを見下ろした。
318号室――高橋陽翔
二十二歳。
もう一度、名前を読み返す。
「ほかに家族は?」
「叔母さんと叔父さんがいる。今、ソーシャルワーカーと相談してるけど、必要な介助を全部できるような訓練は受けてないの」
「つまり?」
「適切な支援体制が整わないまま、二人に任せて退院させるわけにはいかないってこと」
葵はゆっくりとうなずいた。
それは理解できた。
障害の程度によっては、介助には専用の機器や移乗技術、服薬管理、呼吸管理など、多くの専門的な知識が必要になる場合がある。
善意は大切だ。
だが、善意だけで安全な介助が保証されるわけではない。
「今後の予定は?」
「とりあえず、評価と調整が終わるまでは入院継続。ソーシャルワーカーが利用できるサービスを調べてる」
葵は情報を確認した。
「本人はどう受け止めてるの?」
日勤の看護師は疲れたような顔で彼女を見た。
「どう思う?」
葵は答えなかった。
これまで何度も、悲しみに暮れる家族と接してきた。
しかし、大切な人を失うだけでなく、日常生活の多くを支えてくれていた人まで同時に失った患者の状況には、特に胸が痛んだ。
陽翔は母親の死によって、二つの危機に直面していた。
感情的な危機。
そして、生活上の危機。
どちらも、慰めの言葉をいくつかかけた程度で解決できるものではない。
葵は記録をスクロールした。
「倒れてから意識は戻ってる?」
「ええ、時々起きてる。かなり疲れていて、あまり話してないけど」
「痛みは?」
「特に強い痛みの訴えはないわ」
「食事は?」
「ほとんど食べてない」
葵はため息をついた。
「……でしょうね」
引き続きカルテを確認し、運動機能の制限や姿勢保持の必要性、記録されている介助内容に特に注意を払った。
「車椅子はここにある?」
「ええ。病室に運んである」
「よかった」
葵は廊下へ目を向けた。
「ほかに知っておくべきことは?」
看護師は少し考えた。
「お母さんのことを何度も聞いてる」
葵の表情が和らいだ。
「……そう」
「あと、もう一つ」
「何?」
「自分のことを勝手に決められるのが、嫌みたい」
葵は彼女を見返した。
「あなたなら平気?」
看護師はかすかに笑った。
「……確かにね」
葵はカルテを閉じた。
「わかった。まずは挨拶してくる」
318号室
318号室の前の廊下は、ナースステーションより静かだった。
ほとんどの患者は夜を迎える準備を終えており、少し開いた病室の扉から、ときおり医療機器の音が聞こえてくる。
葵はタブレットを片腕に抱え、病室へ近づいた。
扉の前で足を止める。
細長い窓から、中の様子が見えた。
若い男性が病院のベッドに横たわっている。
その近くには、青い電動車椅子が置かれていた。
葵は少しの間、車椅子を観察した。
専用の座位保持装置、姿勢調整機能、アームレストの近くに取り付けられた小型の操作装置を備えた、高性能な機器だった。
似たような車椅子を使う患者を担当した経験はあったが、必要な支援や本人の好みは人によって違う。
一人の車椅子利用者を知っているからといって、別の人のことまで理解しているつもりになるべきではない。
葵は軽くノックした。
「こんにちは」
返事はない。
少し待ってから、扉をわずかに開ける。
「高橋さん?」
若い男性が顔を向けた。
細い輪郭に黒い髪。何日もまともに眠っていないような、疲れきった目をしていた。
「……はい?」
葵は中へ入った。
「こんばんは。水野葵です。今夜、担当する看護師の一人です」
陽翔は何も言わずに彼女を見ていた。
葵はベッドのそばへ近づく。
「入ってもいいかな?」
陽翔は病室を見回した。
「……もう入ってますけど」
葵は一瞬固まった。
それから笑った。
「確かに。登場の仕方を間違えたわね」
陽翔は顔をそむけた。
葵はベッド脇のモニターを確認した。
バイタルサインは安定している。
「体調はどう?」
すぐには返事がなかった。
葵は待った。
やがて陽翔は、動かせる範囲でわずかに肩をすくめた。
「普通です」
葵はカルテに目を向けた。
「それ、この病院で大人気の答えなのよね」
陽翔が彼女を見た。
「え?」
「『普通です』って。みんなそう言うの。私の靴に血を流しながら『普通です』って言った人までいたわ」
陽翔はじっと見つめた。
葵は自分の発言を振り返った。
「……うん。例えが悪かったわね」
そのとき初めて、陽翔の表情がわずかに変わった。
笑顔と呼ぶには足りない。
けれど、かなり近かった。
葵は気づいた。
あら、そこにいたのね。
椅子をベッドの近くへ引き寄せる。
「じゃあ、もっと簡単なところから始めましょう。どこか痛い?」
「いいえ」
「めまいは?」
「特には」
「吐き気は?」
陽翔は首を横に振った。
「息苦しさは?」
「ないです」
「よかった」
葵は記録を取った。
「何か食べた?」
陽翔はベッド脇の手つかずの食事トレーへ目を向けた。
葵もその視線を追う。
「ああ……」
陽翔はため息をついた。
「お腹、空いてないんで」
「そうよね」
葵はトレーを眺めた。
ご飯はすっかり冷めており、付け合わせの野菜も、運ばれてきたときほどおいしそうには見えなかった。
「まあ、正直に言うと、これじゃあ食欲も湧かないわよね」
陽翔が彼女を見た。
「看護師さんがそんなこと言っていいんですか?」
「たぶん、よくないわね」
「病院って、看護師が食事の悪口を言ったら怒られないんですか?」
「厨房の人に聞かれなければ大丈夫」
陽翔の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
しかし、それはほとんどすぐに消えてしまった。
葵は無理にもう一度笑わせようとはしなかった。
代わりに、タブレットをベッド脇のテーブルに置いた。
「……お母さんのこと、聞いたわ」
陽翔の表情が硬くなった。
「……ああ」
「お悔やみ申し上げます」
彼は窓のほうを向いた。
「みんな、そればっかり言うんです」
葵はうなずいた。
「そうでしょうね」
「何の役にも立たない」
「……ええ。そうかもしれないわね」
陽翔は彼女を見た。
これまで、悲しみに対して周囲の人々が返してきた言葉は、どれも似たようなものだった。
きっと大丈夫。
強くならなきゃ。
お母さんだって、あなたに悲しんでほしくないはず。
けれど、葵はそのどれも言わなかった。
なぜか、それだけで少し話しやすく感じられた。
葵は椅子の位置を調整した。
「あなたが今、どんな気持ちなのか、全部わかるなんて言うつもりはないわ」
陽翔は天井を見つめた。
「……それはよかった」
「でも、話したければ聞くことはできる」
陽翔は黙っていた。
葵は待った。
数秒が過ぎる。
やがて、陽翔が口を開いた。
「……四か月前までは、元気だったんです」
葵は彼を見た。
「母さんのことです」
声が震えた。
「よく一緒に運動場へ行ってました。母さんがジョギングして、僕が車椅子で競争して」
唾を飲み込む。
「いつも、自分が年を取ったって冗談を言ってたんです」
葵は何も言わなかった。
「それから、疲れやすくなって……咳も出るようになって……それで……」
言葉が途切れた。
目に涙が浮かぶ。
「……知らなかったんです」
葵は少し身を乗り出した。
「陽翔……」
「僕が気づくべきだった」
呼吸が不規則になる。
「毎日、すぐそばにいたのに。なのに、僕は……」
顔をそむけた。
「何もできなかった」
葵は少し時間を置いてから答えた。
「お母さんが疲れていることには、気づいていたんでしょう?」
陽翔はうなずいた。
「心配もしてた?」
「……はい」
「じゃあ、何も気づかなかったわけじゃない」
陽翔は眉をひそめた。
「でも……」
「見ただけで、お母さんの体の中で何が起きているかなんて、わかるはずがないわ」
陽翔は目を伏せた。
「……そうかもしれないけど」
葵は両手を膝の上に置いた。
「お母さんは、あなたが自分を愛していることを知っていた?」
突然の質問に、陽翔は驚いた。
顔を上げる。
「え?」
「知っていたと思う?」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「……はい」
「ちゃんと伝えてた?」
うなずく。
「いつも」
葵は優しく微笑んだ。
「それなら、お母さんがその言葉を聞けてよかったと思う」
陽翔は彼女を見つめた。
下唇が震える。
そして、泣き始めた。
大声ではなかった。
取り乱して叫ぶような泣き方でもなかった。
ただ、体の奥深くから静かにあふれてくるような、疲れきった涙だった。
葵はティッシュを一枚取り、差し出した。
陽翔は自分の手を見た。
「……僕、あんまり……」
言いよどむ。
葵は察した。
「手伝おうか?」
陽翔はうなずいた。
「お願いします」
葵は頭を不必要に動かさないよう気をつけながら、そっと頬の涙を拭った。
「……ありがとう」
陽翔がささやく。
「どういたしまして」
しばらく、二人は何も話さなかった。
そのとき、陽翔はあるものに気づいた。
葵の左目の下にある、薄いあざだった。
じっと見つめる。
「あの」
「ん?」
「顔、どうしたんですか?」
葵は固まった。
……マジで?
昨夜も、まったく同じことを聞かれたばかりだった。
どうやら宇宙は、この質問を繰り返し登場させることに決めたらしい。
葵は頬に触れた。
「ああ、これ?」
陽翔がうなずく。
葵はいくつかの答えを考えた。
嘘をつくこともできる。
話題を変えることもできる。
あなたには関係ないと言うことだってできる。
しかし、結局は肩をすくめた。
「……振られるのが苦手な人と、ちょっと意見が合わなかったのよ」
陽翔は眉をひそめた。
「彼氏ですか?」
「元彼」
「ああ……」
「とっくに元彼よ」
陽翔は少しの間、彼女を見ていた。
「……殴られたんですか?」
葵の笑みが消えた。
そこまで直接的に聞かれるとは思っていなかった。
陽翔はすぐに気まずそうな顔になった。
「すみません。答えなくていいです」
葵は首を横に振った。
「いいのよ」
窓へ視線を向ける。
「……うん。傷つけられた」
陽翔は目を伏せた。
「ひどいですね」
「まあ、あんまり楽しい経験じゃなかったわね」
「警察には?」
葵はためらった。
「……まだ」
「どうして?」
疲れたような笑みを浮かべる。
「いろいろ複雑なのよ」
陽翔はうなずいた。
その言葉なら理解できた。
複雑。
今の自分の人生は、ほとんどすべてがその一言で説明できそうだった。
葵は立ち上がった。
「さて、私の話はこのくらいにしましょう。私はあなたの看護をしに来たんだから」
陽翔は車椅子へ目を向けた。
「一つ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「僕、いつまでここにいるんですか?」
葵は慎重に考えた。
「まだわからないわ」
陽翔の顔が曇った。
「先生たちとソーシャルワーカーが、退院後の支援について調整しているところなの。必要な介助を受けられるようにしてから退院してほしいのよ」
陽翔は天井を見つめた。
「叔母さんと叔父さんは、うちに来ればいいって言ってました」
「そう聞いてるわ」
「でも、二人とも何もわからないんです」
葵は再び椅子を引き寄せた。
「それなら、介助の方法を学んでもらって、必要な支援も整えないとね」
「……もし、気が変わったら?」
葵はすぐには答えなかった。
陽翔が彼女を見た。
「僕の世話なんて、面倒すぎるって思われたら?」
葵の胸の奥が締めつけられた。
そこにあった。
あらゆる不安の奥に隠れていた、本当の恐怖。
施設に入るかもしれないという不安だけではない。
将来がどうなるかわからないという恐怖だけでもない。
陽翔は、自分が誰からも必要とされなくなることを恐れていた。
「陽翔」
彼は顔を上げた。
「介助が必要だからって、あなた自身が厄介な存在になるわけじゃないわ」
陽翔は苦々しく笑った。
「言うのは簡単ですよね」
「……そうね」
その返事は、彼の予想外だった。
葵は続けた。
「私は、あなたの人生を生きたことがない。だから、全部わかるふりはしないわ」
少し身を乗り出す。
「でも、助けが必要だからって、ほかの人があなたの将来を勝手に決めていいことにはならない。それくらいはわかる」
陽翔は彼女を見つめた。
「二十二歳でしょう?」
うなずく。
「だったら、どこで暮らすか、どんな介助を受けるか、その話し合いにはあなた自身が参加するべきよ」
陽翔は自分の手を見下ろした。
「……誰も、僕がどうしたいか聞いてくれなかった」
葵の表情が少し厳しくなった。
「だったら、誰かが聞くべきね」
二人の間に沈黙が落ちた。
窓の外には、東京の夜景が広がっていた。
陽翔はその光を見つめた。
母が亡くなってから初めて、彼女が最後の息を引き取った病室以外のことを考えていた。
自分の家。
車椅子。
持ち物。
本棚に並んだ本。
母がリビングに飾っていた写真。
それらを失いたくなかった。
母と過ごした生活の中で、残されたものだったから。
「……家に帰りたい」
陽翔はささやいた。
葵はうなずいた。
「だったら、その気持ちをソーシャルワーカーにちゃんと伝えましょう」
陽翔が彼女を見た。
「そんなこと、できるんですか?」
「あなたの希望を伝える手伝いならできるわ。どんな支援が実現できるかまでは約束できないけど、あなたの気持ちはきちんと聞いてもらうべきだから」
陽翔はその言葉を考えた。
そして、うなずいた。
「……わかりました」
葵は微笑んだ。
「うん」
立ち上がり、タブレットを手に取る。
「またあとで様子を見に来るわ。それまでは、少し休んでね」
陽翔は食事のトレーを見た。
「……ご飯は?」
葵もそれを見る。
「ああ、そうね。こっちも何とかしないと」
陽翔は眉をひそめた。
「え?」
「厨房に、ほかに食べられるものがあるか聞いてみようか?」
陽翔は少し考えた。
「……できれば」
「何か希望は?」
彼はためらった。
「昨日作ったみたいに見えないものがいいです」
葵は笑った。
「注文の多いお客さんね」
「かなり」
「わかった。何とかしてみるわ」
扉へ向かう。
「……葵さん?」
彼女は振り向いた。
陽翔が初めて、彼女を下の名前で呼んだ瞬間だった。
「なあに?」
陽翔は彼女を見た。
「ありがとう」
葵は微笑んだ。
「どういたしまして、陽翔」
そして廊下へ出ると、静かに扉を閉めた。
カルテ以上の存在
葵はナースステーションへ戻り、タブレットをカウンターに置いた。
日勤の看護師は帰る準備をしていた。
「318号室、どうだった?」
葵は少し考えた。
「医学的には安定してる」
「それ以外は?」
ため息をつく。
「……最悪の一日を過ごしてるわ」
看護師は同情するような表情になった。
「かわいそうな子ね」
葵は廊下へ目を向けた。
「二十二歳よ」
「え?」
「子供じゃないわ」
看護師は目をぱちくりさせた。
葵は続ける。
「悪気がないのはわかってる。でも、みんな彼のことを子供みたいに扱ってるのよ」
腕を組んだ。
「お母さんを亡くしたばかりの、大人の男性なの。ちゃんと大人として扱われるべきよ」
看護師はうなずいた。
「……そうね。あなたの言うとおりだわ」
葵はタブレットを見下ろした。
これまで何人もの患者を担当してきた。
その中には、陽翔よりはるかに高度な医療処置を必要とする患者も大勢いた。
それでも、彼の置かれた状況には、どうしても気になるものがあった。
親戚に面倒だと思われるのではないかと尋ねたときの声かもしれない。
家を失うことへの恐怖かもしれない。
あるいは、母について語ったときの表情だったのかもしれない。
理由ははっきりしなかったが、病室を出たあとも、葵は彼のことを考えていた。
もう一度カルテを開く。
高橋陽翔
年齢:22歳
主な懸念事項:主介助者の死去、急性の精神的苦痛、複雑な退院支援計画
医学的な要約としては正確だった。
しかし、それだけでは、先ほど出会った青年がどんな人間なのか、ほとんどわからない。
彼の皮肉っぽいユーモアも。
母親への深い愛情も。
自分の家で暮らし続けたいという願いも。
そして、自分自身が深い悲しみの中にいながら、葵のあざについて尋ねたことを謝った、その気遣いも。
どれも書かれていなかった。
葵はカルテを閉じた。
さて、高橋陽翔くん……。
318号室のほうを見た。
どうやら、私たち二人とも、今週は散々だったみたいね。
なぜだか、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、彼の来週が今週より少しでもよいものになってほしいと思った。
そして、運がよければ。
自分の来週も、少しはましになっているかもしれない。水野葵高橋陽翔肋骨圧痛打撲鎮静合併症移乗座位保持装置服薬管理急性




