第3章 車輪が止まっても、世界は回り続ける
病院の廊下は、左右どちらを見ても果てしなく続いているようだった。磨き上げられた床には、天井の蛍光灯が冷たく反射している。
高橋陽翔は、青い電動車椅子に座ったまま、318号室の外で向かい側の壁を見つめていた。
そこにどれほど長くいたのか、もう思い出せない。
十分だろうか。
それとも、一時間?
時間というものが、ひどく抽象的な概念になっていた。まるでそれは病院の外の世界に属するものであって、今の自分がいる場所には存在しないかのようだった。
閉ざされた扉の向こうには、母親の遺体が横たわっている。
高橋美咲。
四十六歳。
死亡。
陽翔は、その言葉が大嫌いだった。
たった一つの医学的な表現によって、人間の人生そのものが片づけられてしまう。母が生きてきた年月も、成し遂げたことも、診療記録に書かれた一行で説明できてしまうかのように。
母は誰かの娘であり、友人であり、近所の人であり、そして音程もリズムもまったく合っていないくせに、歌が流れれば必ず一緒に歌いたがる女性だった。
長い年月をかけて陽翔を育て、医療的なケアを管理し、病院の予約や通院に付き添い、息子ができるだけ多くの世界を経験できるようにしてくれた。
自分の失敗を笑い飛ばすことは教えてくれたが、他人に見下されることまで受け入れる必要はないと教えてくれた人でもあった。
そんな母が、今はただ「死亡」と記される存在になってしまった。
陽翔は視線を落とした。
両手は車椅子のアームレストの上に置かれていたが、その姿勢を保つだけでも、かすかに震えていた。細い指には十分な筋力も可動域もなく、日常生活の多くの場面で母の助けを必要としてきた。
着替え。
入浴。
食事の準備。
車椅子とベッドの間の移乗。
数えきれないほどのことを、母は毎日のように当たり前にしてくれていた。
あまりにも日常的だったため、二人ともそれを特別なことだとは考えていなかった。
今日までは。
陽翔は、明日の朝を想像しようとした。
いつもなら七時を少し過ぎた頃、母が寝室に入ってくる。
カーテンを開けて、息子が賛成しようが反対しようが、太陽はもう昇ったのだと宣言する。
陽翔は文句を言う。
母は笑う。
そして二人は、朝食の献立や前の晩に母が見たテレビ番組について言い合いながら、一日の準備を始める。
けれど、明日の朝には、寝室の外から聞こえるあの声がない。
ベッドへ近づいてくる足音もない。
寝坊したことをからかってくれる人もいない。
その事実を理解した瞬間、陽翔の胸が強く締めつけられた。
唾を飲み込み、再びあふれそうになる涙を必死にこらえようとする。
しかし、無駄だった。
視界がにじむ。
「母さん……」
かすれた声は、ほとんどささやきにしかならなかった。
もう一度、あの部屋に入りたかった。
母の手を握りたかった。
たとえ、その手がもう冷たくなっているとわかっていても。
だが、看護師たちは必要な処置を済ませるために時間が必要だと説明していた。
だから、陽翔は待っていた。
たった一人で。
廊下のどこかで電話が鳴った。
看護師が応答する明るい声が、静かな廊下にかすかに響いてきた。
陽翔は、その声に腹が立った。
どうして、そんなに普通に話せるんだ?
母が死んだばかりなのに、どうして誰かが笑ったり、電話をかけたり、夕食の予定を話し合ったりできるのだろう。
理不尽な考えだということは、自分でもわかっていた。
一人の患者が亡くなったからといって、病院全体の機能が止まるわけではない。
今も誰かが生まれ、治療を受け、退院し、あるいは入院している。医師は回診を続け、看護師は薬を投与し、家族たちは大切な人の知らせを不安げに待っている。
世界は終わっていなかった。
終わったのは、陽翔の世界だけだった。
不意に、鋭い足音が思考を遮った。
コツ、コツ、コツ。
最初はほとんど気にならなかった。
だが、磨かれた床を打つハイヒール特有の音が、次第に大きくなっていく。
コツ、コツ、コツ、コツ。
陽翔は手の甲で顔を拭った。
「失礼します」
顔を上げる。
少し離れたところに、中年の女性が立っていた。胸元にはタブレット端末を抱えている。
年齢は五十代前半くらいだろうか。きれいに整えられた黒髪に四角い眼鏡、灰色のスーツ。落ち着いた表情をしていたが、近づくことを少しためらうような姿勢から、どう声をかけるべきか迷っている様子がうかがえた。
「高橋陽翔さんでいらっしゃいますか?」
陽翔はうなずいた。
「はい」
女性が近づく。
「田中恵子と申します。こちらの病院で医療ソーシャルワーカーをしております」
ジャケットの内側から名刺を取り出した。
「陽翔さんのご相談を担当することになりました」
陽翔は名刺に目を向けた。
田中恵子。
医療ソーシャルワーカー。
しかし、すぐには手を伸ばさなかった。
恵子はその様子に気づくと、隣の小さなテーブルに名刺を置いた。
「まずは、お母様のこと、心よりお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
返事は反射的に出てきた。
すでに何人もの医師や看護師から似たような言葉をかけられていた。相手が善意で言っていることは理解していたが、その言葉は次第に意味を失いつつあった。
恵子はそばに立ったままだった。
数秒間、二人とも何も話さなかった。
やがて彼女は、軽く壁にもたれかかった。
「人生というものは、ときに本当に理不尽ですね」
陽翔は前を見つめたままだった。
恵子は続ける。
「私はこの仕事を始めて、もう三十年近くになります。その間、さまざまな人生を歩んできた方々と出会いました。そして、悲劇というものは、こちらが準備できているときに訪れるとは限らないのだと学びました」
陽翔は何も言わなかった。
「ついさっきまで、何もかも普通だったはずなんです。朝起きて、朝食を作って、いつものように一日を過ごして……」
恵子は片手を持ち上げた。
そして指を鳴らす。
パチン。
「その瞬間、すべてが変わってしまう」
陽翔はゆっくりと彼女のほうを向いた。
「……何か用事があって来たんですか?」
恵子は目をぱちくりさせた。
それから腕時計に目を落とす。
「あっ。ええ、もちろんです。失礼しました」
姿勢を正した。
「実は、叔母様と叔父様が到着するのを待っているところなんです。先ほどお電話でお話ししましたので、もうすぐいらっしゃると思います」
陽翔の表情が変わった。
「叔母さんと叔父さん?」
「はい」
「どうして?」
恵子は少しためらった。
「お母様がお亡くなりになったあと、陽翔さんがどこで生活されるか、また、どのような支援が必要になるかについて、お話しする必要があるためです」
陽翔の胃のあたりに、冷たいものが沈んでいく。
「……僕が、どこで生活するか?」
恵子が詳しく説明する前に、廊下の向こうから騒がしい声が響いた。
「着いたわよーっ!」
女性の声だった。
「着きました! すみませーん!」
陽翔が振り向く。
廊下の奥から二人の男女が急いで近づいてきた。
女性は四十代で、肩まで伸びた茶色い髪にクリーム色のブラウスを着ていた。走るたびにハンドバッグが腰のあたりで跳ねている。
隣には、少し年上らしい男性がいた。しわの寄ったシャツと黒いズボンを身につけ、片腕に上着をかけている。どうやら女性ほど走ることに積極的ではなかったようだ。
二人が陽翔の前にたどり着く頃には、すっかり息が上がっていた。
「すみません!」
男性が息を切らして言った。
両手を膝につき、前かがみになる。
「道が……ものすごく……混んでて……」
女性は胸に手を当てた。
「それに、この病院、広すぎるんです! 二回も違う建物に行っちゃって!」
恵子が二人に近づいた。
「高橋様ご夫妻ですね?」
女性がうなずく。
「はい! 高橋由紀です。こちらは夫の大地です」
恵子は丁寧に頭を下げた。
「お越しいただきありがとうございます。先ほどお電話しました、ソーシャルワーカーの田中恵子です」
「ああ、はい!」
由紀は背筋を伸ばし、なんとか落ち着きを取り戻そうとした。
「ご連絡ありがとうございました」
「とんでもありません。皆様にとって大変な状況だと思いますので」
大地はようやく呼吸を整えた。
「陽翔は?」
恵子は横へ移動した。
「すぐ後ろにいらっしゃいます」
二人の視線が車椅子へ向けられた。
しばらく、誰も動かなかった。
陽翔も二人を見つめ返した。
顔には見覚えがあった。
だが、最後に直接会ったのがいつだったかは思い出せない。
数年前だろうか。
母は時折、親戚の集まりの話をするときに二人の名前を口にしていたが、訪ねてくる機会は年々少なくなっていた。
幼い頃の誕生日には、プレゼントを持って現れ、母と世間話をして、夕食前には帰っていった記憶がある。
やがて、そんな訪問さえなくなった。
その二人が今、突然目の前に立っている。
「陽翔!」
由紀が駆け寄った。
「ああ、かわいそうに!」
かがみ込んで、陽翔を抱きしめる。
陽翔の体がこわばった。
突然の抱擁に備えることができず、筋力も限られているため、自分で楽な姿勢に直すことが難しかった。
「本当に久しぶりね!」
由紀は泣き始めた。
「お母さんのこと、本当に残念だったわね……!」
陽翔は黙ったままだった。
大地が反対側から近づく。
「いやあ、陽翔」
肩に手を置いた。
「ずいぶん大きくなったな!」
陽翔は叔父を見た。
「……僕、二十二歳ですけど」
大地は気まずそうに笑った。
「ああ、そうだよな。もちろん」
由紀は少し体を離し、陽翔の顔をのぞき込んだ。
「お母さんにそっくりね」
陽翔は目を伏せた。
叔母に悪気はなかったのだろう。
けれど、その言葉は思った以上に胸に刺さった。
由紀は涙を拭った。
「でも、もう心配しなくていいからね。私たちが来たから」
安心させるように微笑む。
「これからは私たちが面倒を見るから」
陽翔は叔母を見つめた。
その宣言には、何か落ち着かないものがあった。
突然、親しげに接してきたからなのか。
自分が何を望んでいるか尋ねることもなく、すべて決まったかのように話しているからなのか。
それとも、どちらもなのか。
恵子が軽く咳払いをした。
「では、今後について少しお話ししましょうか」
由紀が姿勢を正す。
「はい、お願いします」
恵子は陽翔に目を向けた。
「陽翔さん。今は本当につらいときだと思いますし、急がせるつもりはありません。ただ、今後の介助体制について、少しずつ考えていく必要があります」
陽翔は眉をひそめた。
「どうして?」
「お母様が、これまで主に介助を担っていらっしゃったからです」
「……それは知ってます」
「そして、診療記録によると、日常生活の多くの場面でかなりの介助が必要とのことです」
陽翔は顔をそむけた。
こういう話は大嫌いだった。
情報が間違っているからではない。
ただ、こうした会話が始まると、自分という人間が、途端に作業項目の集まりへ変えられてしまうように感じるのだ。
入浴。
着替え。
食事介助。
移乗。
服薬管理。
移動。
まるで、自分の存在がチェックリスト一枚で説明できるかのように。
恵子は続けた。
「叔母様と叔父様が緊急連絡先のご親族として登録されていますので、お二人に介助体制の調整へ協力していただけるか、確認したいと考えています」
大地は居心地悪そうに身じろぎした。
「それは……」
由紀が夫を見た。
「大地?」
大地は首の後ろをかいた。
「もちろん、力にはなりたいんです。ただ……」
陽翔の車椅子へ視線を向ける。
「正直、あの機械のことも、あまりわからなくて」
陽翔の胃がきゅっと縮んだ。
由紀がすぐに口を挟む。
「覚えればいいのよ!」
「いや、でも……」
「何とかなるわ」
恵子は穏やかに手を上げた。
「最初から専門的な介助ができる必要はありません。陽翔さんの状態や利用条件によっては、研修や専門職による支援を受けられる可能性もあります」
陽翔は彼女を見た。
「……もし、二人にできなかったら?」
その質問で、会話が止まった。
恵子が振り向く。
「え?」
「もし、叔母さんたちが僕の介助をできなかったら、どうなるんですか?」
由紀が口を開いた。
「陽翔、そんなこと――」
「今、田中さんに聞いてるんです」
予想外にはっきりした声に、全員が驚いた。
恵子は慎重に答えを考えた。
「その場合は、別の方法を探す必要があります」
「例えば?」
「陽翔さんの希望や必要な支援、利用できる制度によりますが、在宅サービスや支援付きの住まいなどを検討できます」
少し間を置く。
「そうした方法が難しい場合には、長期的に介護を受けられる施設も選択肢として考える必要があるかもしれません」
陽翔は動きを止めた。
施設。
その言葉が、空気の中に重く残った。
そういう場所についての話は、以前から耳にしていた。
優秀な職員がいて、利用者の尊厳を大切にする施設もある。
一方で、あまり安心できない話を聞くこともあった。
施設で暮らすことが必ずしも自立を失うことではないと、頭では理解している。
それでも、知らない場所へ移り、知らない人々に囲まれて暮らす可能性は恐ろしかった。
特に、今は。
自分のことを誰よりもよく知っていた人を、たった今失ったばかりなのだから。
母は、小さなことまで理解してくれていた。
腕が痛くならない位置。
好きな食べ物。
背中がつらくなったときの車椅子の調整方法。
助けが必要なときと、時間がかかっても自分でやってみたいときの違い。
そのすべてを、知らない人に一から説明しなければならない。
考えるだけで、息が詰まりそうだった。
「……僕が行きたくないって言ったら?」
恵子は少しかがみ、目線を合わせた。
「陽翔さんの希望は大切です。あなたは成人されていますし、どんな計画でも、ご本人に直接相談しながら進めるべきです」
「でも……ほかに行くところがなかったら?」
「できるだけ安全で、陽翔さんに合った方法を、一緒に探していきます」
陽翔には、その言葉が聞こえていた。
けれど、ひどく遠くから聞こえてくるようだった。
呼吸が速くなる。
由紀が気づいた。
「陽翔?」
彼は床を見つめた。
嫌だ。
母はもういない。
自分の家もなくなるかもしれない。
そして今、目の前の人々は、まるで事務手続き上の問題を解決するかのように、これから自分がどこで暮らすかを話し合っている。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「陽翔?」
大地が近づいた。
「なあ、そんなに心配するなって」
その声は、奇妙なほど遠く聞こえた。
「うちに来ればいいんだから。な?」
陽翔は顔を上げた。
叔父の顔が揺れて見える。
「何とかするからさ。心配しなくていい」
しかし、そのとき陽翔は、すでに呼吸をうまく整えられなくなっていた。
胸が締めつけられ、心臓の鼓動が痛いほどはっきり感じられる。
もっと深く息を吸おうとした。
けれど、うまくいかない。
「陽翔?」
由紀の声が高くなる。
「大丈夫?」
答えたかった。
少し時間をください、と言いたかった。
話が速すぎる。
母が死んだことさえまだ受け止められていないのに、これからの人生について決められるはずがない。
そう伝えたかった。
だが、口から出てきたのは、かすかに震える声だけだった。
「ぼ……」
視界の端が暗くなり始める。
恵子がすぐに異変に気づいた。
「陽翔さん?」
彼は彼女に焦点を合わせようとした。
廊下が傾く。
「母……さん……」
頭が前へ落ちた。
「陽翔!」
由紀が肩をつかんだ。
大地も慌てて車椅子の反対側へ回る。
「どうしたんだ!?」
恵子は近づき、反応を確認した。
「陽翔さん! 聞こえますか?」
返事はない。
体は車椅子の支持部分に預けられ、力が抜けていた。
恵子は鋭くナースステーションへ振り向いた。
「すみません! こちらに来てください!」
一人の看護師が顔を上げた。
「どうしました?」
「意識がありません! 救急対応の準備とストレッチャーをお願いします!」
静かだった廊下が、一瞬で慌ただしくなった。
二人の看護師が駆け寄り、続いて別の職員がストレッチャーを押してきた。
由紀は後ずさりした。
手が震えている。
「そんな……」
大地はどうすることもできず、陽翔を見つめていた。
「陽翔? おい、陽翔。目を覚ましてくれ」
一人の看護師が陽翔の状態を確認し、もう一人がバイタルサインを測定した。
「すぐに診察してもらいましょう」
職員たちは頭部と四肢を支え、体を不自然にひねらないよう注意しながら、電動車椅子からストレッチャーへの移乗を準備した。
恵子は由紀のそばに立った。
「少し場所を空けていただけますか」
由紀は口元を覆った。
「ついさっきまで、普通に話してたのに……」
看護師たちは陽翔をストレッチャーへ移した。
青い電動車椅子は、壁際に残された。
操作パネルには、まだ明かりがついている。
その青い機械は、何年もの間、陽翔の日常に寄り添ってきた。
学校。
買い物。
母との朝の競争。
当時は取るに足らないと思っていた、数えきれないほどの冒険。
その車椅子が今、病院の照明の下で動かずに置かれ、持ち主だけが運ばれていく。
由紀は泣き始めた。
大地が妻の肩を抱く。
恵子は、ストレッチャーが廊下の角を曲がって消えるまで見送った。
三十年近く、患者や家族が困難な転機に直面する姿を見てきた。
それでも、経験だけではどうにも慰めにならない瞬間がある。
陽翔は、ほんの数時間前に母親を失ったばかりだった。
そして今、悲しむ時間さえ与えられないまま、慣れ親しんだ生活のすべてを母とともに失うかもしれないという現実に向き合わされている。
恵子は、空になった車椅子へ目を向けた。
それからタブレットを手に取る。
電話しなければならない相手がいる。
相談すべきことがある。
調べなければならない支援制度もある。
だが、それらは陽翔の容体が安定してからでいい。
今、何より大切なのは、人生で最悪の日を迎えたこの青年に、自分の未来はすでに他人によって決められてしまったのだと思わせないことだった。
廊下の奥では、ストレッチャーの車輪が磨かれた床を走る音が響いていた。
陽翔は意識を失ったままだった。
そして病院の窓の向こうでは、夕暮れの空の下、東京という巨大な街が動き続けていた。
世界のすべてが止まってしまった青年のことなど、まるで知らないかのように。高橋陽翔高橋美咲田中恵子高橋由紀高橋大地




