第2章 洗い流すことのできないボディペイント
クラブのトイレの鏡に映る水野葵の顔は、まるでプロボクサーを相手に十二ラウンド戦い抜いたあとのようだった。
しかも、全ラウンドで完敗した顔だ。
洗面台の上に取り付けられた蛍光灯は、彼女の姿を少しも美しく見せてくれなかった。安っぽいナイトクラブのトイレ特有の、容赦ない照明だった。マスカラは涙とともに頬を伝って黒い筋を残し、今夜、時間をかけて丁寧に塗ったファンデーションは、ところどころ色の違うまだら模様になっていた。
葵は鏡に顔を近づけ、その惨状を確かめた。
「おめでとう、水野葵。見事なピカソの絵になったわね」
試しに笑ってみる。
だが、どうにも説得力がなかった。
鏡の前に立つ葵は二十四歳。肩まで伸びた黒髪に、すらりとした体つき、普段なら化粧をほとんど必要としないほど整った顔立ちをしていた。
残念ながら、今夜は普段とは違った。
左目の下には濃いあざが広がり、頬骨のあたりまで達していた。顎の端にも変色した部分があり、こめかみの近くには、ようやく治りかけているらしい古い傷の黄色い痕が残っている。
彼女が今夜の服装を慎重に選んだ理由は、顔のあざだけではなかった。
長袖の白いインナーの下には、腕や肩、胴体のあちこちに傷痕が隠れていた。触れるだけで痛む新しいあざもあれば、治癒が進み、気味の悪い黄緑色に変わり始めたものもある。
葵は、あざが治っていく過程に嫌というほど詳しくなっていた。
どの色が新しい傷を示すのか。腫れが引くまであとどれくらいかかるのか。いつになれば半袖を着ても人目を気にせずに済むのか。
本来なら、決して身につけたくなかった知識だった。
「じろじろ見ないでよ」
鏡の中の自分に向かってつぶやく。
「大丈夫だから」
葵は蛇口をひねった。
冷たい水が陶器の洗面台に勢いよく流れ込み、曲面に跳ね返ってから排水口へ吸い込まれていく。両手ですくった水を顔に当てると、目の周りの傷ついた皮膚が刺激され、思わず顔をしかめた。
「いった……」
バッグから小さなタオルを取り出し、残っていた化粧を落とし始める。
ファンデーションは簡単に落ちた。
当然ながら、あざは落ちなかった。
頬骨のあたりに残る色をこすってみたものの、鋭い痛みが走り、すぐに手を止めた。
いくらこすったところで、どうにもならない。
葵はしばらく鏡の中の自分を見つめた。
他人の残酷さが、自分の体に証拠として残っている。
それを見ることほど屈辱的なものは、そう多くないだろう。
一つひとつのあざには、それぞれの記憶がこびりついていた。何度も頭の中で繰り返した口論。今では台詞まで暗唱できそうなほど、繰り返し思い出してしまう出来事。
責め立てる声。
怒鳴り声。
謝罪。
そして何より腹立たしいのは、二度と繰り返さないという数えきれないほどの約束だった。
まったく、よく言えたものよね。
葵はタオルを絞り、洗面台の脇に置いた。
元彼とは別れた。
関係は終わったのだ。
これから何が起ころうと、あの男には自分の人生から消えてもらう。
過去という、本来いるべき場所へ。
「よし」
背筋を伸ばし、髪を整える。
「自分を哀れむのは、もうおしまい」
鏡の中の女は、あまり納得していないようだった。
葵は鏡に指を突きつける。
「何よ、その顔」
そう言い残すと、バッグをつかんでトイレを出た。
扉を開けた瞬間、音楽の壁が全身にぶつかってきた。
頭蓋骨の内側にスピーカーでも取り付けられたのではないかと思うほどの大音量だった。
激しい電子音がダンスフロアに響き渡り、青と紫の照明が点滅するたび、踊る人々の姿が断続的に浮かび上がる。若い男女が笑い、叫び、踊り、時には互いの服に酒をこぼしていたが、誰もたいして気にしていないようだった。
店があるのは、東京でも流行に敏感な歓楽街の一角だ。
高価なカクテル、後悔するような判断、そして法外なタクシー代は、この街の経済を支える重要な要素と言っても過言ではない。
普段の葵なら、こういう場所は嫌いではなかった。
だが今夜ばかりは、騒音が頭痛の種になりつつあった。
通路の真ん中で恋愛関係のすべてを完結させようとしているらしいカップルを避け、バーカウンターへ向かう。
「葵!」
音楽に負けじと、聞き慣れた声が響いた。
「やっと戻ってきた!」
藤本美香がスツールに座ったまま勢いよく手を振り、隣の男性にぶつかりそうになっていた。
美香は葵の親友だ。
もっとも、二人の性格はあまりにも違うため、初対面の人間には、どうして友達になれたのか不思議がられることもあった。
実用的な服装を好み、できるだけ目立たずにいたい葵とは対照的に、美香は外出するたびにファッションショーへ出演するかのような情熱を注いでいた。
今夜も流行の黒いドレスに銀色のイヤリングを合わせ、店全体が自分の所有物であるかのような自信に満ちている。
葵はカウンターへ近づいた。
「ねえ、飛行機を誘導するみたいに両手を振らなくても見えるから」
美香は手を下ろした。
「必要だったでしょ。二十分も行方不明だったんだから」
「二十分?」
「少なくともね」
「へえ」
葵は隣の空いたスツールによじ登った。
「精神崩壊してると、時間がたつのも早いわね」
美香の表情がたちまち変わった。
「葵……」
「冗談よ」
「あんまり笑えないんだけど」
「じゃあ、私のユーモアも衰えてきたのね」
美香が何か言い返す前に、バーテンダーが近づいてきた。
中村蓮は二十代の青年で、きれいに整えた茶色い髪と人懐っこい笑顔が特徴だった。常連客の好みの酒をほとんど覚えているという、なかなか見事な才能の持ち主でもある。
ただし、自分には関係のない会話に首を突っ込むという、困った癖があった。
「おやおや。ようやくお戻りですか」
葵はカウンターに肘をついた。
「寂しかった?」
「そりゃもう。君の素敵な存在感がなくなったせいで、店が倒産寸前だったよ」
「悲劇ね」
蓮は彼女の前にグラスを置いた。
「それにしても、楽しい夜を過ごしてるはずの人が、ずいぶん長いことトイレにいたね」
葵はグラスに手を伸ばした。
「トイレの建築様式が気に入ったのかも」
「駐車場で彼氏と怒鳴り合ってたあとに?」
葵の手が止まった。
蓮はすぐに言い直した。
「あ、ごめん。元彼だったね」
葵は酒を大きく一口飲んだ。
「顔を洗うべきなのは、むしろあいつのほうよ」
美香と蓮が視線を交わした。
ここ数か月、葵が心底嫌うようになった無言のやり取りだった。
心配。
同情。
何かがおかしいと全員が気づいているのに、どう話せばいいのかわからない、あの居心地の悪い空気。
美香はカウンター越しに手を伸ばし、そっと葵の手に触れた。
「私たちは、ただ葵が無事か確かめたいだけなの」
葵は目を回した。
「もう、落ち着いてよ」
「葵――」
「私は無事。あいつは消えた。もう終わったの」
蓮は腕を組んだ。
「じゃあ、そのあざは?」
葵は彼を見た。
「何が?」
「今夜できたもの?」
彼女は一瞬ためらった。
「古いやつ」
二人とも何も言わなかった。
「……ほとんどはね」
美香の指が、葵の手を少し強く握った。
葵はため息をつく。
「ねえ、心配してくれるのはありがたい。本当に。でも、今夜はもう、あのクソ野郎のことを十分すぎるほど考えたの」
グラスを持ち上げた。
「だから、もっと面白い話題がないなら、この話は正式に終了ってことでお願い」
蓮はゆっくりとうなずいた。
「わかった。別の話ね」
「何でもいい」
美香は無理やり笑顔を作った。
「そうね。別の話にしましょう」
三人の間に、しばし沈黙が流れた。
やがて蓮が身を乗り出した。
「じゃあ、新しい季節限定カクテルの話でも――」
そのときだった。
何かを引きずるような、ひどく耳障りな音が響いた。
ギギギギッ!
まるで重い家具を床の上で無理やり動かしたような音だった。
葵はダンスフロアへ顔を向けた。
何人かが踊るのをやめている。
人混みの中央付近に、若い男性が倒れていた。
両手で喉を押さえている。
隣では女性が膝をつき、必死に助けを求めていた。
「誰か! お願い!」
音楽は鳴り続けていた。
周囲の客の多くは、酔っ払い同士の喧嘩か何かだと思ったのか、戸惑ったまま様子を見ている。
女性が再び叫んだ。
「息ができないの!」
そのときには、葵はもう動き出していた。
「ああ、もうっ!」
飲みかけのグラスを置き、群衆へ向かって駆け出す。
背後で美香がため息をついた。
「ほら、また始まった」
突然の緊急事態
「どいて!」
葵はダンスフロアの近くに立つ二人の男性の間を押し分けた。
「すみません! 通してください!」
一人が不機嫌そうに振り返る。
「おい、何すんだ――」
「医療緊急事態よ! さっさとどきなさい!」
男は慌てて道を開けた。
葵は倒れた青年のそばに膝をついた。
彼の顔は恐ろしいほど青みを帯び、口を何度も開閉しているのに、まともな呼吸音が聞こえない。
助けを求めていた女性は、今にも取り乱してしまいそうだった。
「お願い! 弟が! 息ができないんです!」
葵は素早く状態を確認した。
青年には意識がある。しかし、咳は弱く、ほとんど効果がない。両手は喉に押し当てられ、目には激しい恐怖が浮かんでいた。
「ねえ、聞いて」
彼の視界に入るように顔を近づける。
「私は葵。救急外来の看護師よ。今から助けるからね」
青年の目が大きく見開かれた。
「声は出せる?」
彼は首を横に振った。
「わかった。無理に話さなくていい」
葵は女性に目を向けた。
「名前は?」
「海斗! 佐藤海斗です!」
「わかった。海斗くん、私の指示に合わせてね」
口の中を確認すると、奥のほうに白く粘り気のある塊が見えた。
……餅?
ナイトクラブで踊りながら食べるものとして、餅ほど不向きな食べ物もそう多くないだろう。
「何か食べてた?」
姉は必死にうなずいた。
「お餅です! さっき一緒に食べてて!」
素晴らしいわね。
葵は周囲を見回した。
「誰か救急車を呼んで! 今すぐ!」
近くの客がすぐに携帯電話を取り出した。
葵は海斗へ向き直る。
状態は悪化していた。
一刻も早く対応しなければならない。
「海斗くん、立つのを手伝うわ」
姉にも協力してもらい、青年を立たせる。膝が崩れそうになったが、どうにか支え、葵は彼の背後に回った。
腰に腕を回し、へその上の適切な位置に拳を当てる。
「さあ、頑張って」
小さくつぶやいた。
「餅に負けたなんて、救急隊員に説明させないでよね」
腹部を内側から上方へ強く突き上げた。
何も起こらない。
もう一度。
海斗の体が大きく揺れた。
姉は両手で口元を覆い、見守っている。
「お願い……」
葵は再び突き上げた。
その瞬間、海斗が激しく咳き込んだ。
噛みかけの餅の塊が口から勢いよく飛び出し、数メートル先の床に落ちた。
ペッ!
空気が肺へ流れ込む。
海斗は前方によろめき、何度も咳き込んだ。
姉が慌てて彼を抱きとめる。
「海斗!」
葵は呼吸が落ち着くまで彼を支えた。
「大丈夫。まだ無理に話さないで」
海斗は前かがみになり、荒い呼吸を繰り返した。
青ざめていた顔色が、少しずつ戻っていく。
姉は彼を強く抱きしめた。
「もう! 死んじゃうかと思った!」
海斗は再び咳き込んだ。
「一瞬……」
唾を飲み込む。
「俺もそう思った……」
葵は慎重に様子を観察した。
呼吸は改善していたが、まだ動揺している。
「救急車が来るから、ちゃんと診てもらってね。詰まっていたものが取れても、あとから問題が起きることがあるから」
海斗はうなずいた。
「はい……」
「よし」
葵は床に転がる問題の餅へ目を向けた。
「次からは夕飯を吸い込まないようにしなさいよ」
海斗が弱々しく笑った。
周囲の客たちは、ようやく危険が去ったと理解したらしく、突然拍手を始めた。
葵は驚いて周囲を見回す。
「ちょっと、何よ。大げさね!」
誰かが口笛を吹いた。
別の客が称賛の言葉を叫ぶ。
バーカウンターの向こうでは、蓮がボトルを掲げていた。
「人命救助をしたお姉さんに、ショット一杯サービス!」
歓声が上がる。
葵は両手を口元に当てて叫んだ。
「蓮! 私、あと六時間で仕事なんだけど!」
蓮はにやりと笑った。
「じゃあ、小さいやつにするよ!」
美香は首を横に振った。
「あのバカ……」
葵は思わず笑ってしまった。
今夜初めて、心から笑えた気がした。
餅男くん
海斗が落ち着いて座れるようになる頃には、クラブはいつもの騒がしさを取り戻していた。
到着した救急隊員が彼の状態を確認し、さらに詳しい診察を受けるよう勧めた。容体が安定していることを確認したうえで、病院へ搬送する手配が進められた。
しかし、出発する前に海斗は、命を救ってくれた女性へどうしても礼を言いたがった。
葵がバーカウンターの近くに立っていると、海斗が姉を連れて近づいてきた。
「あの……」
葵は振り返った。
「あら、人間掃除機くんじゃない」
海斗は気まずそうに笑った。
「それは言われても仕方ないですね」
「でしょうね」
彼は後頭部をかいた。
「でも、本当にありがとうございました」
葵は肩をすくめる。
「仕事だからね」
「でも、今は仕事中じゃないですよね?」
「職業病よ」
姉が一歩前へ出た。
「私、由奈といいます。佐藤由奈です」
「水野葵です」
由奈は深く頭を下げた。
「葵さんがいてくれなかったら、どうなっていたか……」
葵も軽く頭を下げた。
「弟さんは、よく噛んで食べることの大切さを身をもって学んだでしょうね」
海斗はうめいた。
「いつまで餅のことでいじるんですか?」
「もちろん、いつまでも」
「最悪だ……」
「治療の一環だと思って」
そこへ美香が笑顔で加わった。
「気にしないで。この子、好きな相手ほどひどいこと言うの」
葵は美香へ振り返った。
「そんなことないわよ」
美香は眉を上げる。
「本当に?」
「嫌いな人にもひどいこと言うもの」
カウンターの向こうで蓮が笑った。
海斗もつられて笑顔になった。
葵の態度には、不思議な心地よさがあった。
彼女は彼を壊れ物のように扱わないし、人命救助を称賛されても、特別得意げになる様子がない。
むしろ、この騒動全体を少々面倒くさがっているようにさえ見えた。
だが、会話を続けるうちに、海斗は葵の左目の周りの変色に気づいた。
笑顔が消える。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
葵は彼を見た。
「内容によるわね」
「顔、どうしたんですか?」
美香は即座に目を閉じた。
ああ、もう……。
蓮はカウンターを拭く手を止めた。
由奈は弟の脇腹を肘でつつく。
「海斗!」
「何だよ?」
「そんなこと、いきなり聞いちゃだめでしょ!」
葵は彼を見つめた。
そして笑った。
「すごいわね」
海斗は困惑した。
「え?」
「女性を褒める才能があるみたい」
彼の顔が赤くなる。
「そういう意味じゃないです!」
「わかってるって」
葵は軽く手を振った。
「長い夜だったの。それで十分?」
海斗はためらった。
もっと事情があることは察していた。
しかし、彼女の表情を見れば、それ以上の質問が歓迎されないことは明らかだった。
「はい。もちろん」
「よろしい」
葵は海斗と由奈を交互に見た。
二人はぴったり寄り添って立っており、由奈は弟の腰に腕を回して支えていた。
葵の顔に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「じゃあ、気まずくなる前に、一つだけはっきりさせておくわね」
海斗はまばたきした。
「はい?」
「私、患者とは付き合わない主義なの」
美香が固まった。
蓮はゆっくりと頭を下げた。
由奈は不思議そうに首をかしげる。
葵は続けた。
「特に、もうこんなに素敵な彼女がいる人とはね」
沈黙。
海斗は葵を見つめた。
由奈も葵を見つめた。
美香は天井を見上げ、神の助けを求めているようだった。
やがて由奈がのけぞった。
「ええっ、気持ち悪い!」
葵は目をぱちくりさせた。
「は?」
「この子、私の弟です!」
海斗は顔を覆った。
「姉ちゃんなんです!」
葵はしばらく二人を交互に見つめた。
そして、うなずいた。
「ああ」
さらに沈黙。
「なるほど。だから似てるのね」
美香の喉から、妙な音が漏れた。
蓮は背中を向け、肩を震わせて笑っている。
由奈は床に消えてしまいたそうな顔をしていた。
海斗はため息をついた。
「先に紹介しておけばよかったですね……」
「本当にね」
美香はすぐさま葵の腕をつかんだ。
「さあ! 素敵な夜だったわね!」
葵は美香を見た。
「何?」
「お二人とも、お会いできてよかったです!」
「美香?」
「残念だけど、私たち行くところがあるので!」
「そうだっけ?」
「あるの!」
美香は慌てて姉弟に頭を下げた。
「お大事に! 元気になってね! 食べ物はよく噛んで!」
そう言うと、葵を出口へ向かって引っ張り始めた。
葵は素直に連れていかれたが、その顔には、何が起きたのかまったく理解できていない様子がありありと浮かんでいた。
カウンターから十分に離れたところで、ようやく口を開く。
「ねえ、何なのよ?」
美香は信じられないという顔をした。
「何なのって?」
「そうよ」
「あんた、あの人が自分の姉と付き合ってると思ったんでしょ!」
「思ったっていうか、ちょっと勘違いしただけよ」
「葵!」
「だって、あんなにくっついてたじゃない!」
「姉弟なの!」
「今はわかってるってば!」
美香は額に指を当てた。
「信じられない……」
葵は肩をすくめた。
「まあ、少なくとも私のことは忘れないでしょ」
「そこが心配なのよ」
二人はクラブの入口へたどり着いた。
重い扉が開くと、音楽が少し遠ざかり、夜の街の空気が流れ込んできた。
冷たい風が葵の頬をなでる。
彼女はそれを心地よく感じた。
酒と香水と、何百人もの体温が混ざり合った空間に長時間いたあとでは、比較的新鮮な外気が何よりありがたかった。
美香が隣で立ち止まる。
「ねえ……」
葵は横目で見た。
「何?」
「さっきの海斗くん、結構かわいかったじゃない」
葵はうめいた。
「勘弁してよ」
「本気で言ってるんだけど」
「それはよかったわね」
「向こうも興味ありそうだったし」
「あの人が興味あるのは呼吸することよ。死にかけた人間って、そうなるものなの」
美香は目を回した。
「そういう意味じゃないでしょ」
葵はバッグの肩ひもを直した。
「今の私に一番必要ないのは、また私を押さえつけるような彼氏よ」
思った以上に鋭い言葉が口から飛び出した。
美香の表情が和らぐ。
二人はクラブの看板の光の下で、しばらく黙って立っていた。
やがて美香が、そっと葵の肩に触れた。
「男の人がみんな、あいつみたいなわけじゃないよ」
葵は顔をそむけた。
「そうかもね」
「本当よ」
「わかってる」
一台のタクシーが通り過ぎ、ヘッドライトが一瞬歩道を照らした。
葵はその光が遠ざかるのを見送った。
彼との関係は修復できるのだと、長い間自分に言い聞かせてきた。
そのせいで、また新しい恋愛を始めるという考えは、ほとんど馬鹿げたものに思えた。
信頼というものは、スイッチ一つで元に戻せるわけではない。
そして今の彼女には、別の誰かに自分の期待を裏切る機会を与える気など、ほとんどなかった。
「とにかく」
葵は無理に笑顔を作った。
「明日も仕事なの」
美香はため息をついた。
「また話をそらした」
「ええ。だいぶ上達したでしょ」
「本当にね」
葵は携帯電話の画面を確認した。
表示された時刻を見て、思っていたよりずっと睡眠時間が短くなってしまうことに気づく。
「さあ、帰ろう」
美香はうなずいた。
二人は並んで、最寄りのタクシー乗り場へ歩き出した。
その姿を、通りの向こうから見つめる人物がいることに、二人とも気づかなかった。
コンビニの軒下に立つ男だった。
フードの影が顔の一部を隠している。
男は葵が角を曲がって姿を消すまで、微動だにしなかった。
やがて、手にした携帯電話へ視線を落とす。
画面には一枚の写真が映っていた。
水野葵。
笑っている。
もっと幸せだった頃に撮られた写真だった。
男の親指が、画面の中の彼女の顔の上で止まった。
そして、画面が暗くなった。
翌朝を迎える前に
葵が自分のアパートに帰り着いたのは、午前零時を少し過ぎた頃だった。
住宅街にある、こぢんまりとしたワンルームの部屋だ。必要最低限の家具がそろい、安物の観葉植物がいくつか置かれていたが、彼女はよく水やりを忘れていた。
玄関にバッグを置き、靴を脱いで浴室へ向かう。
部屋は静まり返っていた。
普段なら、この静けさが好きだった。
だが今夜は、妙に息苦しく感じられた。
葵は浴室の照明をつけ、もう一度鏡をのぞき込んだ。
あざは残っている。
当然だ。
ため息をついた。
「まあ、悪化はさせなかったしね」
服を脱ぎ始め、肋骨のあたりの痛む部分に布が触れないよう慎重に引き離した。
胴体の左側には、特に濃いあざがあった。
そっと二本の指を当てる。
鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
葵はすぐに手を離した。
傷はいずれ治る。
そう自分に言い聞かせ続けていた。
実際、身体の傷の大半は、時間がたてば治るだろう。
もっと難しいのは、背後から足音が聞こえるたびに、誰かに腕をつかまれるのではないかと身構えてしまう自分が、いつ元に戻れるのかということだった。
シャワーの下に立つ。
温かい湯が肩を流れ、クラブで染みついた煙草の煙や香水、こぼれた酒の匂いを洗い流していく。
葵は数分間、そのまま立っていた。
目を閉じる。
水の流れる音が、小さな浴室いっぱいに響いた。
元彼のことは考えないようにした。
駐車場での口論も。
別れを告げたとき、彼が浮かべたあの表情も。
代わりに、クラブで出会った青年のことを思い出す。
海斗。
姉と付き合っていると勘違いされたときの、あの何とも言えない顔。
小さな笑いが漏れた。
「バカね……」
それが彼に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、葵にもよくわからなかった。
たぶん、両方だろう。
やがてシャワーを止め、タオルを手に取った。
明日はまた仕事だ。
救急外来での勤務。
他人の問題に没頭し、自分自身の問題から目をそらす絶好の機会でもある。
葵は昔から、そのやり方が驚くほど都合のいいものだと感じていた。
誰かの命が危険にさらされているときには、失恋した心について悩んでいる暇など、ほとんどないのだから。
体を拭き、浴室を出る。
クローゼットには、病院で着るスクラブがきちんとかけられていた。
葵は淡い青色の制服を眺め、それから時計に目を向けた。
睡眠時間が圧倒的に足りない。
「素晴らしいわね」
首を横に振る。
「水野葵の華麗なる人生、また新しい一日の始まりってわけ」
しかし、彼女はまだ知らなかった。
次に自分が担当することになる患者が、たった今、世界のすべてを失ったばかりの青年であることを。
その青年の名は、高橋陽翔。
そして、二人の出会いが、それぞれの人生を大きく変えていくことになるのだった。水野葵《水野葵藤本美香《中村蓮佐藤海斗佐藤由奈高橋陽翔




