第1章 もう一つの命を鼓動させるために止まった心
心電図モニターが規則正しく刻む電子音だけが、高橋陽翔の孤独に寄り添っていた。
病室の窓の向こうでは、街がいつもと変わらない夕方を迎えていた。交差点をゆっくりと進む車、駅へと足早に向かう人々、遠くのビル群の陰へ沈んでいく最後の夕日。どこかでは家族が夕食の食卓を囲み、子供たちが宿題を片づけ、恋人たちが金曜日の夜をどこで過ごそうかと相談しているのだろう。
そんなありふれた悩みを持てることが、どれほど幸せなことなのか。
いったい、何人が気づいているのだろう。
陽翔は青い電動車椅子に座り、母の病床に寄り添っていた。力の弱い指で、壊れ物に触れるように母の手を握っている。
高橋美咲は、もはや自分を育ててくれた母親とは思えないほど変わり果てていた。
かつてふっくらとしていた頬はこけ、肌は病的なほど青白い。髪を失った頭を覆う色鮮やかな花柄のスカーフも、数か月に及ぶ抗がん剤治療が彼女の身体に残した傷痕を隠すことはできなかった。両腕からは何本ものチューブが伸び、点滴や薬剤につながっている。ベッドを取り囲むモニターには、陽翔が日に日に恐怖を覚えながら意味を理解するようになった数字が並んでいた。
母は、まだ四十代だった。
それがどうしても受け入れられなかった。
母は年を取るはずだった。しわが増えたと文句を言い、テレビショッピングに妙な情熱を燃やし、いつか自分と結婚してくれる物好きな女性が現れたら、その人の前で息子を恥ずかしがらせるはずだった。
それなのに今、母は薄い病院の毛布の下で意識を失い、少し触れただけでも壊れてしまいそうな姿で横たわっている。
陽翔は車椅子を少しだけベッドに近づけた。
「母さん?」
返事はなかった。
返事がないことは、わかっていた。
医師たちは母の容体について何度も説明してくれたし、心の準備ができるようにと、できる限りのことをしてくれた。
けれど、頭で理解することと、心で受け入れることはまったく別だった。
陽翔は母の手の甲を親指でそっとなでた。
「北海道に連れていってくれるって言ってたの、覚えてる?」
モニターの電子音だけが返ってきた。
「冬に行こうって約束したよね。雪まつりが見たいって言ってさ。俺、絶対やめたほうがいいって言ったんだ。だって母さん、気温が十五度を下回るだけで寒い寒いって文句言うじゃん」
陽翔の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「あのとき、怒ったよね」
彼は窓のほうへ目を向け、あの日の母の表情を思い出した。
「日本で一番分厚いコートを買って、俺が間違ってるって証明してやるって」
笑みが少しずつ消えていった。
「……結局、行けなかったね」
ありえない返事を期待して、しばらく待った。
モニターが再び鳴った。
陽翔は視線を落とした。
「でも、大丈夫。元気になったら、まだ行けるから」
自分で口にしておきながら、馬鹿げた言葉だと思った。
そのときだった。
モニターの音が変わった。
ピッ……ピッ……ピピッ……。
陽翔は顔を上げた。
画面に表示された数値が不規則に変動し始める。
「母さん?」
別の警告音が鳴り響いた。
ピッ! ピッ! ピッ!
母の顔とモニターを交互に見つめながら、陽翔は何が起こっているのか理解しようとした。
「母さん、起きてよ」
母の表情は変わらない。
警告音がさらに速くなる。
ピピピピピッ!
「母さん!」
陽翔は母の肩を揺さぶろうとした。しかし、筋肉の障害がある彼にとって、それほど単純な動作さえ容易ではなかった。
懸命に動かした腕が震え、指が病衣の布地の上を滑ってしまう。
「ねえ! お願いだから!」
モニターの波形がますます乱れていく。
陽翔は病室の扉に向かって叫んだ。
「誰か! 助けてください!」
そして――。
ピーーーーーーーーーッ!
一本の途切れることのない音が、病室を満たした。
モニターに映る緑色の線が、容赦のない水平線となって伸びていく。
陽翔はただ、その線を見つめた。
テレビドラマでは何度も見たことがあった。役者が大げさに倒れ、医師たちが指示を叫びながら病室へ駆け込んでくる。
いつも、演出が大げさすぎると思っていた。
けれど、実際にその光景を目の当たりにして、テレビでは決して伝えられない恐ろしさがあることを知った。
母が二度と目を開けないかもしれない。
その現実が、あまりにも残酷だった。
「母さん!」
陽翔は母の腕に手を押し当てた。
「母さん! お願い! 起きてよ!」
声が裏返った。
「やだよ! お願いだから!」
しかし、高橋美咲は動かなかった。
母に触れようと必死にもがく陽翔の脳裏に、四か月前のある朝の記憶がよみがえった。
あのころは、母を失う日が来るなど、想像すらしていなかった。
四か月前
「準備はいい?」
陽翔はにやりと笑った。
「もちろん! 生まれたときから準備万端だよ!」
朝日が陸上競技場の上に低く昇り、赤茶色のトラックを温かな金色に染めていた。
まだ早朝だったため、周囲の運動施設にはほとんど人影がない。芝生では数羽の鳥が餌を探し、入口付近では清掃員が落ち葉を掃いていた。
けれど、陽翔と母にとって、そのトラックは二人だけのものだった。
美咲は電動車椅子の横に立ち、両腕を頭上に伸ばしてストレッチをしていた。
「今日はずいぶん自信満々ね」
「俺っていつもそうじゃない?」
「残念ながらね」
「ひどっ!」
美咲が笑った。
「そういうふうに育てたのは私だものね」
陽翔は車椅子の操作レバーを軽く動かし、数センチだけ前進してみせた。
「さあ、おばさん。俺についてこられるかな?」
「おばさん?」
美咲は大げさに胸に手を当て、傷ついたような表情を浮かべた。
「ちょっと、失礼ね。こう見えても、まだまだ現役なんだから」
「全盛期は二十年前でしょ」
「あら、言ったわね!」
そう言うなり、美咲は突然走り出した。
陽翔は声を上げて笑いながら、彼女を追いかけて車椅子を加速させた。電動モーターが静かな駆動音を響かせ、車椅子はトラックのカーブに沿って滑らかに進んでいく。
二人の朝の運動は、いつしか恒例行事になっていた。
陽翔は幼いころから重度の筋肉の障害を抱えており、移動には電動車椅子が欠かせず、日常生活の多くの場面で介助を必要としていた。
物心ついたころから母が主な介助者だったが、美咲は親子の生活が通院や医療機器、介助の必要性だけで埋め尽くされることを望まなかった。
息子には人生を楽しんでほしかった。
そして、人生を楽しむというのは、ときには誰もいない陸上トラックで母親と競争し、その運動能力をからかうことでもあった。
「遅れてるよ!」と陽翔が叫んだ。
「ペース配分してるの!」
「負ける人って、みんなそう言うよね!」
「追いついたら覚えてなさいよ!」
陽翔は肩越しに振り返った。
美咲は笑っていた。
しかし、その動きにはどこか違和感があった。呼吸はいつもより明らかに荒く、走る速度も遅かった。
陽翔は操作レバーを緩めた。
「母さん?」
「大丈夫よ!」
美咲は軽く手を振った。
「まだウォーミングアップ中なんだから!」
その直後、彼女の足がトラックの縁に引っかかった。
「あっ!」
美咲は前につんのめり、転倒を防ごうと両手を突き出した。
陽翔はすぐに車椅子を止めた。
「うわっ! 母さん!」
美咲は数秒間、腰を折った姿勢のまま荒い息をついていた。
「大丈夫?」
「もちろんよ」
「全然大丈夫そうに見えなかったけど」
美咲はゆっくりと身体を起こし、ズボンについたはずもない埃を払った。
「ちょっとつまずいただけ。大したことないわ」
陽翔は母の顔をじっと見つめた。
額には汗が浮かび、頬は妙に青白かった。
「最近、ずっと疲れてるよね」
「年を取るって、そういうことよ」
「いや、絶対適当に言ってるでしょ」
「自分の母親を嘘つき呼ばわりするの?」
「嘘つきっていうか、怪しいって言ってるの」
美咲は笑った。
しかし、その笑い声は突然の咳によって途切れた。
最初、陽翔は唾液が変なところに入っただけだと思った。
だが、咳は止まらなかった。
美咲は顔を背け、片手で口を覆った。咳き込むたびに肩が激しく揺れる。
「母さん?」
美咲は空いているほうの手を上げた。
「ちょっと……待って……」
呼吸を整えようと苦しむ母を、陽翔はどうすることもできず見守った。
やがて咳が収まった。
美咲は水筒に手を伸ばし、少しだけ水を飲んだ。
「ほらね? 全然平気」
「今日はもうやめたほうがいいんじゃない?」
「何言ってるの」
「母さん」
「陽翔、心配しないで。私は大丈夫だから」
美咲は無理に笑顔を作った。
「先に一周してきなさい。あとで追いつくから」
陽翔はためらった。
「本当に?」
「もちろん」
「もし倒れたら、自分の息子との競争に負けたって、みんなに言いふらすからね」
美咲はくすりと笑った。
「それは困るわね。じゃあ、絶対に倒れないようにしなくちゃ」
陽翔は気が進まないまま、再びトラックを進み始めた。
その背中が十分に遠ざかったのを確認してから、美咲は口を押さえていた手を開いた。
手のひらには、暗赤色の血が少し付着していた。
笑顔が消えた。
彼女は数秒間、身動きもせずに血を見つめた。
それから静かに指を閉じ、ティッシュを取り出して血を拭き取った。
息子が振り返る前に、その痕跡を消し去るために。
一か月後
診察室には、消毒液と淹れたてのコーヒーが混ざったような匂いが漂っていた。
陽翔は昔から病院があまり好きではなかった。
人生の中で十分すぎるほど病院に通ってきた彼にとって、白い廊下は不快な検査や長い待ち時間、そして決して楽しい結末にはならない会話を思い出させる場所だった。
けれど、今日の病院はいつもと違って感じられた。
今回、患者なのは自分ではなかった。
母は隣の椅子に座り、膝の上で両手を固く握りしめていた。
机の向こうでは、医師が何枚もの検査報告書に目を通していた。
医師はすでに数分かけて検査結果を説明していたが、陽翔には聞いた内容をうまく理解できなかった。
がん。
進行している。
転移。
肺。
言葉が診察室の中を漂っているようで、ひとつのまとまった文章として頭に入ってこない。
やがて医師は報告書を机に置いた。
「高橋さん。がんが肺にまで転移しています」
美咲は目を伏せた。
陽翔は動けなかった。
「抗がん剤治療を始めることはできます」と医師は続けた。「ただ、病状がかなり進行しているため、残念ながら治療によって大きな効果が得られる可能性は非常に低いと考えられます」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「……どれくらい低いんですか?」
医師は一瞬、言葉をためらった。
そのためらいが、どんな数字よりも恐ろしかった。
「私たちもできる限りのことはします。ただ、これからの治療が非常に難しいものになるということは、率直にお伝えしておきたいのです」
美咲はゆっくりとうなずいた。
「わかりました」
陽翔は母のほうを向いた。
「母さん……?」
美咲は息子を見つめ、小さく微笑んだ。
「大丈夫よ、陽翔」
違う。
大丈夫なわけがない。
こんなの、何ひとつ大丈夫じゃない。
医師はその後も、治療方法や考えられる副作用、症状を緩和することの重要性について説明を続けた。
もっと早く発見できていれば、治療の可能性が広がっていたかもしれないとも話した。
しかし、今さら変えられない過去について考え続けても仕方がない。
陽翔は一言も聞き逃すまいと耳を傾けた。
医師の説明のどこかに、まだ誰も気づいていない解決策が隠されているのではないか。
そんな思いで、すべてを記憶しようとした。
けれど、やがて診察は終わった。
二人は病院の外に出て、夕日に照らされた空の下にいた。
しばらくの間、どちらも口を開かなかった。
やがて美咲が車椅子の前に回り込み、しゃがんだ。
「陽翔」
彼は母と目を合わせようとしなかった。
「ねえ、陽翔」
唇が震えた。
「……どうして言ってくれなかったの?」
美咲の表情が和らいだ。
「心配させたくなかったの」
「へえ、おめでとう」
陽翔は苦々しく笑った。
「おかげで、すっごくうまくいったね」
美咲が手を伸ばした。
陽翔はなんとか平静を保とうとしたが、母の手が頬に触れた瞬間、涙があふれ出した。
美咲は身を寄せ、息子を抱きしめた。
陽翔は母の肩に顔を埋め、診察中から必死にこらえていた嗚咽を抑えようとした。
「怖いよ、母さん……」
「うん……」
「母さんに死んでほしくない……」
美咲は息子を抱きしめる腕に力を込めた。
いつもの冗談も、気の利いた言葉も、自信に満ちた励ましも、今の彼女にはなかった。
美咲だって怖かった。
それでも彼女は、病院の建物の向こうに夕日が沈んでいく間、ずっと息子を抱きしめていた。
本当は約束してあげたかった。
きっと大丈夫だと。
ずっとそばにいると。
けれど、それは二人のどちらにも保証できない約束だった。
さらに一か月後
抗がん剤治療は、陽翔が想像していた以上の速さで美咲を変えていった。
髪が抜け始め、食欲が失われ、体力も次第に衰えていった。
かつて陸上トラックで息子に競争を挑んでいた女性は、今では長時間身体を起こしていることさえ難しくなっていた。
病院へ通う回数は増えていった。
やがて病室は、まるで第二の家のようになった。
陽翔はできる限り母のそばで過ごした。
一緒にテレビを見ることもあった。
持ってきた本を声に出して読んで聞かせることもあった。
そして、ときには何もせず、ただ二人で静かに過ごすこともあった。
そんな何気ない時間が、二人にとって何より心地よかった。
ある日の午後、美咲が目を開けると、息子が自分を見つめていることに気づいた。
「陽翔?」
「ん?」
美咲は息子の顔をじっと眺めた。
「なんだか背が伸びたんじゃない?」
陽翔は目をぱちくりさせた。
「母さん、俺、もう何年も身長変わってないよ」
「あら、そうなの?」
「そうだよ」
美咲は少し考えた。
「じゃあ、私が縮んだのかしら」
陽翔は思わず笑った。
「いや、そういう問題じゃないでしょ」
「そうかしら?」
「たぶんね」
「まあ、あなたのほうが詳しいものね」
陽翔は笑っていたが、その表情は長く続かなかった。
何週間も前から、母に伝えたいことがあった。
けれど、母の容体が悪くなるにつれて、ますます言い出しにくくなっていた。
「母さん?」
「なあに?」
「……ありがとう」
美咲は首をかしげた。
「何が?」
陽翔は二人の重なった手を見つめた。
「全部だよ」
震える息を吸い込んだ。
「ずっと俺の面倒を見てくれて。自分じゃできないことを、いろいろ手伝ってくれて。俺がわがまま言ったときも、付き合ってくれて……」
そこで言葉を切った。
「俺のこと、一度も……その……」
どうしても、その言葉が出てこなかった。
けれど、美咲にはわかっていた。
彼女はそっと息子の口元に手を添えた。
「陽翔」
彼は顔を上げた。
「あなたを負担だと思ったことなんて、一度もないわ」
陽翔の目に涙が浮かんだ。
「母さん……」
「よく聞いて」
美咲の声は弱々しかった。
それでも、その言葉には揺るぎない確信が込められていた。
「あなたは私の息子よ。私にとって一番の喜びで、人生で一番素晴らしい冒険だったの」
彼女は微笑んだ。
「あなたと一緒に過ごした日々は、一日だって何かと引き換えにしたくないわ」
陽翔は涙を止められず、うつむいた。
美咲は彼の頬を優しくなでた。
「あなたを誇りに思っているのよ」
陽翔は首を横に振った。
「そんなこと、言わなくていいよ……」
「でも、言いたいの」
美咲の瞳も潤んでいた。
「あなたがこんなに立派な大人になってくれたことが誇らしい。そして、あなたのお母さんになれたことを、心から誇りに思っているわ」
陽翔は母のほうへ身を寄せ、二人の額をそっと合わせた。
「大好きだよ、母さん」
美咲は目を閉じた。
「私も大好きよ、陽翔」
そのひとときだけは、病室が不思議なほど穏やかに感じられた。
残された時間が、あとどれほど少ないのか。
そのときの二人には、まだわからなかった。
現在
心電図モニターは、途切れることのない音を鳴らし続けていた。
陽翔は母の胸に頭を預け、全身を震わせながら泣いていた。
「母さん……」
自分でもわからないほど、声がかすれていた。
「お願い……」
いつものように、母の温かな手が髪をなでてくれるのを待った。
優しく名前を呼んでくれるのを。
心配しすぎだと笑ってくれるのを。
けれど、傍らに横たわる母の手は、もう動かなかった。
自分に世界と向き合う方法を教えてくれた女性が、その世界から去ってしまった。
そして、高橋陽翔は生まれて初めて、これから自分がどうすればいいのか、まったくわからなくなっていた。高橋美咲電動車椅子病室心電図抗がん剤




